2018年12月31日月曜日

SWARRRM/こわれはじめる

問題作。
SWARRRMは間違いなく過激で攻撃的なバンドだ。どのバンドにも似ない音を20年以上探求し続けてきた。その殆どの音源では攻撃的であるということはヘヴィであると同義だった。
ところが今作はどうだろう。
ギターの音はその重苦しいディストーションの鎧を脱ぎ去り、またメタリックなリフの呪縛から抜け出した。残ったのは軽い響き(相対的なものでやはりそれでもディストーションはかかっている)で奏でられるコード感。
コードはメロディを生み出し、ボーカルがそれに導かれて歌を紡ぎ出す。(メロディ性を保ちながらシャウトするという絶技が全編惜しみなく披露されている。)
ここにあるのは歌だ。
Swarrrmは結成当初から「Chaos&Grind」を掲げるラディカルなバンドだ。音楽がただ攻撃的というのではなく、曲の中に必ずブラストビートを入れるという縛りを課すストイックさを持ち合わせている。そんなバンドが歌を中心に添えたのだから驚きだ。ネットで言われている「グラインド歌謡」という表現もしっくり来るほどに。
ネットでは「(今作を)到底受け入れがたい」という意見もあってそれも理解できる。そのくらいの変化がある。

Swarrrmは核(「Chaos&Grind」)がしっかりしているバンドだから、そこを軸にこうも大胆に音楽性を変えることができたのだと思う。
ギターの音楽性のシフトチェンジに関して、ドラムがブラストを打っていること、ベースはかなり運指の激しい主張するラインを弾いていることが幸いして、結果曲が単に退屈な歌に堕することを防いでいる。そういった意味ではこの変化にはちゃんとそれを裏打ちする技術というか土台があったのだと思う。こういうふうに舵を切るバンドはそうそういないだろうが。

つまりこれは脱構築の試みであって、実は単にマンネリ化した(過去作がマンネリに陥っていたとは全く思っていないが)旧態に終止符を打ち、新規な要素に触手を伸ばしたというのでは不十分だ。
実は単にマンネリ化した旧態に終止符を打ち、そして自己解体をし、ばらばらになったパーツの中で次はどれを武器にするかを決め、そしてバンドを再構築したのだった。
明確に大阪のGaradamaとのスプリット、もっというとそれより以前「Black
Bong」の頃からか、各種スプリット、前作「FLOWER」を通して、そしてこの「こわれはじめる」までがその解体と再構築の過程であって時系列に沿って聞けばその試行錯誤と挑戦を目のあたりにすることができる。
この変化は変遷であって、決して突発的なものではないということだ。

エクストリーム・ミュージックとはつまり普通の「歌」の壁を突き抜けてその先に到達せんとする試みであって、そもそもなら直線的な運動であるはずだが、その試みの先に「歌」を見出したというのは単に後退というよりはそれの再発見であり、また1週回って戻ってくる球体の動きを彷彿とさせる。
20年かけておいてきたはずの歌を再発見し、拾い上げた。円が完成し、その内側には混沌とした激情をしっかりと閉じ込めた。
遅くなり、そしてわかりやすくなったその曲は、丸裸だ。これはおそらく個人的な経験をそのまま書き出したような歌詞にも如実に表現されている。
過去作が轟音でその身をごまかしているとは思わないが、最近のSWARRRMに関してはあまりに赤裸々である。スプリットという形で先に世に出た「愛のうた」「あなたにだかれ こわれはじめる」で歌われる歌詞は非常に個人的な懊悩をそのまま書き出したような、むき出しの感情が綴られている。
SWARRRMはいわば「弱さ」を手に入れた(弱いことを認めた)のではないか、今作で。その弱さが、赤裸々な歌詞であり、メロディーへの接近であり、音の作り方であったわけだ。しかしこのアルバムを聞いて受け入れがたい人はいても、軟弱な音源だと思う人はいないだろう。鋭く尖ったギターの音は特に、あまりに鋭くそしてあまりにも脆い。これは決死の一撃であり、捨てたものの分、逃げ場がなくなった分、それまでにない勢いで持って私達に迫る。

個人的に今年、一番退路を断った作品。挑戦的であり、革新的であり、そしてあまりに攻撃的。バンザイ・アタックのように鬼気迫り、そしてやはり、もうすでに、とっくに壊れ始めている。

2018年12月25日火曜日

ヴァージニア・ウルフ/灯台へ

ページをめくると結構戸惑う本だった、特に序盤は。
この本は400ページちょっとある長編だが、途中大きな時間的飛躍を挟むものの取り扱っている出来事としては非常に短い。
とある島の別荘に主である哲学者の一家とそのお客さんが集まっており、その中の一日を切り取ったようである。誰かが殺される、といったような劇的な事件もない。思い思いに午後を過ごしたあと、みんなで晩餐を囲む、といったくらいである。しかしそれなりにおページがあるわけで、じゃあ何が書いてあるのだろうというと、コロコロ変わる視点の中での各登場人物の心情が丁寧に書いてある。例えば誰かが庭を横切るとそれを見ていた他の誰かが彼はどんな人でそれに対して自分はどう思っているのか、ということを思う。で、ヴァージニア・ウルフはその心の動きを綿密に書いている。これはなかなか変わっていると思う。書き方で戸惑うというのはコーマック・マッカーシーが思い浮かぶ。一旦慣れればあとはあっという間に読んでしまう、というところも同じだった。中盤からはあっという間に読めたけど、やはり何かしらが起こるわけではなかった。

この本が何を指しているのか、というのは難しい。大まかに人の動きははっきり書いている。私はこのスタイルは好きだ。逆に登場人物の心情を素直に書くやり方はあまり好きじゃない。この本は私の好きな/苦手なスタイルを2つ同時に書いているから面白い。心情に関してもここまで丁寧書かれると(極端な話私は「彼は嬉しかった」のような書き方が苦手なので)、逆に面白く読めるものである。
独り言というのがあって、私は不安になったときによくこれをつぶやく。同様の気持ちを登場人物、特に絵描きのリリー(後書きによると作者自身の投影らしい)がそうで、彼女はいつも外界、さらにいうと他人に対して不安を感じている。ある人を得意/苦手と思っているけどそれが正しいかどうか全く自信がなくて、理由を丁寧に述べて言い訳しているようなところがある。つまりウルフがこの作品で丁寧に書いている心情というのは基本的に他者に対する不安に根ざしているような気がする。
この物語では大したことが起きないがそれはつまり世界というのはただあるだけで不安に満ちているということなのだ、少なくともウルフにとっては。彼女の人生を思うと結構納得感がある。いわば知覚過敏が見た世界を書いているのであって、だから風景は牧歌的だがその中身は不安で溢れている。ところで私は非常に小心者なのでそういう雰囲気に共感してしまうのであった。

灯台ってなんだろう。ラムジーさん一家はここに行こうとしているのになぜかいろいろな事情でなかなかたどり着くことができない。峻厳なところに孤独に立ち、そして別荘に人がいようがいまいがお構いなしに、その強烈な光を投げかけ、そして観察する。どうも神様のようではある。光が部屋やその中においてあるベッドの上を舐めるように移動するさまは強烈な観察者の視線のようである。また未知の海原を旅する者にとって道標であり、故郷の端っこに立つものでもある。やっぱり神様のような気がする。そこにたどり着けないというのはなかなか厳しいことだ。
さてようやっとじゃあそこにたどり着いたとして、やっぱりそこにあるのは灯台なのでした。肩透かしを食らうようだが、やはり地上にはあるべきものしかないようだ。そこにあるのは日常なのだ。私達は気分が良かったり、悪かったりして毎日を過ごしていくのだ。ふつうのコトだ、なんてことはない。でもそんな普通のことに結構すり減る人がいるのだ。例えばヴァージニア・ウルフもそうだったのかも知れない。ちょっとなにか、なんとも言えない気分になる。この本はそういう本だ。

2018年12月24日月曜日

CANDY/Good To Feel

何でもやりすぎがかっこいい。イカれているという評価は常に通常の一歩先を求めるものだ。ハーシュノイズを入れたり、低音を強調したり、色々なバンドがその一歩先を目指している。
このヴァージニア州リッチモンドのハードコアバンドはとにかく音がでかい。実際はきちんと考えてこそのバランスなのだろうが、私の耳には全く全部の楽器ができる限りのデカさで鳴らした音が一つの塊になっているような気がした。とにかくうるさい。結果的に細部がわからなくなってすらいるけど、それこそがやりすぎのマインドでもっと私をノックダウンしたのだ。追加の要素ではなく、とりあえず手持ちの楽器を全開で鳴らしてしまおうか、というのは潔い精神であると思う。

とにかく1曲めの「Good To Feel」が良い。私はほぼほぼこの曲だけを聴いているような気がする。別の他の曲がイマイチというわけではないのだが、どうしてもこの曲が好きなのでしようがない。まずこのバンドはドラムがかっこいい。カッチカチに張り詰めたドラムを力任せにひっぱたくという豪腕タイプなのだが、結構タイトでグルーヴィ通り越してマシンにすら聞こえる。この1曲めの途中で挟まれるパートはまるでブレイクコアを聴いているようだ。この感覚はハードコアではあまりない。

日本のハードコアの影響を受けた、というのは3曲めの「Ststematic Death」というタイトルもそうだろうし、曲中につんざくように(とても短い)悲鳴のようなソロを入れるやり方もそうだろうと思う。ただし日本のバンドがソロなどによってハードコアに叙情性を持ち込んでいるとしたら、このバンドはそれをリスペクトしつつ(ちょっと語弊があるかもしれないが)悪用しているといった趣でこちらも詩情なんてあったもんじゃないくらいのジーにしてしまっている。その解体性を持ったプロセスが非常に過激でしびれる。
このバンドの音楽性は実は結構複雑ではないかと思う。良くも悪くも1曲めだけが激速パワーバイオレンス感があって浮いているが、残りの8曲は割と中速。速くはない。きっちり低速成分としてモッシュパートを押さえているのだが、全体的に見れば一部でしかない。つまりブルータルなモッシュコアとは一線を画す内容で、独自の中速を模索している、そんなイメージ。
ハードコアバンドをやったら速くするか、それとも遅くするか、みんなきっと迷うのではないか。中速というのは実は一番難しいかもしれない。ミリタントのようにメタリックなリフに凝る、というやり方もあるがそれを採っているわけではない。前述の日本からの影響色濃いギターソロなどはわかりやすい暗中を切り裂く武器だろう。ただそんな試行錯誤も恐る恐るというかんじではなく、とりあえず興味あること全部ぶち込んでみたよ、というブレーキ壊れた感じがする。ラストの「Bigger Than Yours」(ひどいタイトルだ)は明らかにハードコアの対局にある甘いシューゲイザーを再現していて、悪意があるというかこれはもう完全にいたずらである。例えば半端にサンプリングして言い訳を残すとかではなく自分たちでやっちゃう。それで破滅的なノイズで占める。結構これはもうミクスチャーと言っても良いかもしれない。底抜けのポジティブさと混沌さはThe Armedに通じるところがあると思う。

City Morgue/City Morgue Vol1:Hell or High Water

品性のなさというのが魅力になることもある。
そこでは暴力的であればあるほどよく、下品であればあるほど崇められる。たとえそれがハイプであっても。詰まりはそういった物語が退屈した(ある程度)金のある人達にとっては娯楽になりうるのである。
老人たちがロックを、手垢のついたX0年代をリバイバルしたり、あるいは同窓会的に再結成したりしてこねくり回している間に、ヒップホップはその歴史のなさ(短さ)を活かして進歩し続けているように思う。私は老人の一人としてイマイチ乗り切れずにいたのだ。若いラッパーは全身を入れ墨だらけにしてスキャンダルの数だけ札束を積み上げている。なかにはロックの代名詞である「ダイ・ヤング」を体現して死んでいったものもいる。しかしトラップの流れをくむそれらは私にはあまりピンとこず、どうもまったりしてしまう。中にはオルタナティブ・ロックをラップで再現しているかのような音楽もあり、それはそれで面白いのだが、ヒップホップのリズムが激しくオミットされているためやはり老年の鼓膜を叩くことはなかった。

City MorgueはNYのヒップホップユニットだ。ベイショア出身のZilaKamiとハーレム出身のSousMulaの二人に加えてトラックメイカーのThraxxで構成されている。ユニット名で検索すればおおよそ彼らの人となりがわかるだろう。タトゥーに覆われた表皮にグリルの入った歯茎。ハイブランドに身を包み、手には銃器を持っている。ピストルからグレネードランチャーのようなものまで。要するにおつむの空っぽのギャングスタが金を手にした、そんなある意味もはや陳腐なストリートの物語を体現したような若者である。
こいつらはしかし面白いヒップホップをやっている。かつてはギャングスタでも真面目にレコードの山を掘り返しては曲をサンプリングという手法で発明したものである。元ネタはジャズからR&B、カントリー、そして音楽的な語彙をもつディガーは際限なくその裾野を広げていった。City Morgueに比べれば大変上品かつ交渉に聞こえるから不思議だ。(ただし彼らの何割かは本当のギャングスタでもあった。)
一方City Morgueにはそんなお上品さはなく、ディストーションのかかったギターを派手にサンプリングし、逸脱したノイジーなトラックを量産している。イントロのフレーズに犬が吠えるようなスクラッチ音、露悪的な笑い声のサンプリングというマンネリズムを大胆にアルバムの中で何度も披露しているのはネタの使い回しというよりは単に好きだから、という理由なのではないか。曲名から察するにスラング、スケート、ビデオゲームなんでもござれのごった煮。
ところがこれが非常に格好良い。なるほどブーンバップのあくまでも洗練された美学は皆無だろうが、かといってひたすら雰囲気重視のトラップとは明らかに違う。うるさすぎるし、やはりなんと行っても品がない。強いて言えば90年代後半に隆盛を極めたニューメタルのごった煮感、(シーンのごく一部の)ポリシーのない享楽的な雰囲気を体現したかのような往時のミクスチャー感がある。ちょうどその次代をすり抜けた私の耳にはだからこそ刺さったのかもしれない。

でかいケツのお姉ちゃん(私からしたらだいぶ年下だろうけど)、輝くグリル、ぶっといネックレス、跳ねるローライダー、札束、山なす重火器、薬物といった伝統を抑えつつ、クラストっぽいパンツ(ズボン)が出てきたりして面白い。
音楽とファッション(ここでは服装)は切っても切れない関係だが、若いヒップホップ・ミュージシャンは格好が奇抜かつゴージャスでおっさんからするとフィクション(コスプレ)めいた感じがあり、その原色を散りばめたような露骨な派手さ(いうまでもなく成功の証、という意味では極めてストリート上がりのヒップホップ的)が面白く映る。存在そのものが饒舌である。彼らが本物のギャングスタなのかハイプ(あるいはヒップスター)なのかはしらないし、どちらでも良い。彼らが誇らしげに掲げる銃も決して誰かに向かって撃たれることがないと良いと思う。(彼らがSNSにその類の写真を上げるというだけで有害だとは思うが。)私は老人なので。ただ音楽を聞いて良いと思うから良いのである。

2018年12月23日日曜日

Emma Ruth Rundle/On Dark Horses

アメリカ合衆国はカリフォルニア州ロサンゼルス出身のシンガーソングライターの4枚目のアルバム。
2018年にSargent Houseからリリースされた。
Emma Ruth RundleはISISのメンバーがやっているポストロックバンドRed SparrowsやMarriagesにシンガーとして参加している。

私は彼女のソロ作品は初めて聞いたのだが、内容的には生音を大胆に活かしたフォーク、それがロックの流儀というよりは手法をパーツとして取り入れた、という形に聞こえた。
というのも曲が凝っているのだけど明らかに歌が中心にある。バンドだとどうしてもみんな目立ちたがるからこうは行かないような気もする。(特にロックのジャンルでは。)
フォークと言っても辛気臭いそれではなく、太鼓が原始的なリズムを叩き、妙に浮遊感のあるギターが乗っかる奥行きのある全方位型。芯がしっかりしていて陽性だがどこかしらドゥームの雰囲気があるのが良い。エコーが掛かったギターと土臭い雰囲気はフォークと言うよりはカントリーなのかもしれない。アメリカーナってやつなのだろうか。

歌の雰囲気や作り方(仕上げ方)もそうだし、同じSargent HouseということでどうしてもChelsea Wolfeを連想してしまう。女性だからというのはいささか乱暴だが、両方共魔法的である、もっというと呪術的であるという共通項はあると思う。Wolfeの方は露骨に見た目もブラックメタルを通過した黒さ、ゴスさがあり音の方もどこかしら退廃的な雰囲気がある。一方Rundleの方は見た目も音もよりナチュラル。曲調は明るく、歌声は力強く伸びやかに。ただし個人的にはむしろ呪術的な雰囲気が強いのはRundleの方だなと思った。Wolfeさん方はなるほど王道とは言い難いけど、人間味があってつまり懊悩の果に邪道にというストーリーがある。特に見た目だけだとインパクトが強いけど歌に関してはその正道から邪道というブレが主役的に表現されていると思う。
一方でRundleさんはもっと野性的で奔放。わかりやすい病みはなくて明るいところは明るい。また健康的というのは明るいというよりはエネルギーに富んでいることで彼女の場合はこれが当てはまる。ようするによりプリミティブなわけで、なるほどこちらから見れば異質だが向こうからしたら何らおかしくはない。つまり生粋の魔女であって、これはもう文化が違う。呪術が当たり前の世界での歌なのであって、人間が歌う恨み節の呪文というのとは異なる。
ブレがないぶんRundleの歌は真っ直ぐなわけで、でもフリーキーだ。StrangeというかWeirdなのか?明るく力強いがヒットチャートの歌とはやはり一線を画すマニアックさがある。

Sargent Houseというのは面白いレーベルで、同じ女性シンガーでも毛色の違う人達を揃えている。全く違うがやはり異端という意味で共通している。
出音はもちろん何かしらの判断基準があるのだろうと思うのは楽しい。要するに一本筋が通っているように見えるから。

City Hunter/Deep Blood

どんなジャンルにでも異端というのが存在するものだ。
このCity Hunterもそんなバンドの一つかもしれない。
リリース元はYouth Attack Records。
ジャケットは妙に昔のアメリカ映画のポスターのような雰囲気がある。
覆面の男がアーミーナイフ(ボウイナイフかも)を構えているという構図で、これ実は過去の音源を見ると全部同じ世界観で統一されている。
数少ないライブ映像を見るとボーカリストは目出し帽をかぶっており、体格もあってかなりいかつい。

マスクをかぶるという行為が何を意味するのかというと、個人でなくなり何かになる、ということだ。
なまはげなんかはわかりやすい。Slipknotなんかもこの流れに属するのではなかろうか。彼らは人間でない別の何かになって、非人間的な音楽を鳴らすわけだ。
ところが犯罪者というのもマスクをかぶってこれは単に特定の個人であることを放棄している。
このバンドはその流れに属し、目だし帽をかぶりCity Hunterという誰でもない男になるのだ。

演奏に関しては曲が短めでアルバムトータルで18分たらず。これで全部で14曲。
とはいえ型にはまったファスト&バイオレンスなスタイルではなくて、オールドスクール・スタイルを踏襲しつつテンポを早く、そしてムダな装飾やリフレインは極力省くというやり口。
いわば自然発生的なファスト(なハード)コアで様式美というよりは単にぶっきらぼうなだけといった潔さ。様々なインプットは当然あるわけなのであえて流行には背を向けているのだろう。メロディアスさ?当然あるわけがない。

なんといってもフロントマンに華があるバンドで、見た目もさることながら声質も相当特徴的。
タフなハードコアスタイルでもないし、喚き散らすファストコアスタイルでもない、整然と低音が利いたデスメタルスタイルでもなくて、喉に引っ掛けるような発声方法で内にこもったブラックメタルに近いスタイル。
ある意味ミスマッチなスタイルなのだが、かなりうまくハマっている。
というのも演奏はきっちり突進力とマッシブさを抑えつつ、バイオレンスとまでは行かなくらいの温度で、いわばまだ飽和状態に達していないところに劇薬のようなボーカルを突っ込むと、これで完成という感じ。
とにかく全開、全部乗せ!ってわかりやすいのだけど、いろいろな色を混ぜてもきれいな色にならないように、この手のジャンルでもバランスが大事なのだろう。とくにハードコアは概ね足すではなく引く、ほうのジャンルではと思っているので個人的にはこのバンドのやり方はしっくり来る。
やり方的には(The Infamous)Gehennaに似ている。純正ハードコアでは醸し出せない危険な雰囲気も共通項としてあると思う。ただGehennaのほうが音的にはより粗野か。
よくよく今バンドを利いてみると特にギターが凝っていて、がむしゃらに弾いているようでいて実は不安感を煽るSE的な音の出し方をしている。結構技巧的だ。

覆面をかぶることとアートワークへのこだわりから、粗野な音楽性も緻密な計算がされていることが推測できる。
演奏面でのバランス感覚もその感覚を強化する。芸術性を徹底的に排すことで(ただしハードコアのタフさという美学にはたとは異なるやり方で与している)、あざとさが発生するのを防いでいるのだろう。

神坂次郎/今日われ生きてあり

良くも悪くも(悪いほうが圧倒的に多い)適当な会社で働いているとまあ良いこともある。今は上長二人が非常に良い。元々音楽やっていた二人で、上司ながら部活の先輩みたいなところがある。ふたりともいくつか共通点があり、そのうち1つが戦争に対する興味だ。いわゆるミリタリーオタクではなくて、先の大戦における日本軍の動向について並々ならぬ思いがあるのである。そんな二人のうち、一人の方からおすすめされたのがこの本。何回か書いているが人のおすすめというのは良い。自分の興味の外にあるものに触れる機会になるからだ。知らない人はもちろん、やはりある程度その人の人となりを知っている人のおすすめというのは更に良い。

私は争いごとは嫌いだがあまり戦争を取り扱った本は読んでいない。ぱっと思いつくのは「キャッチ=22」くらい。これは凄まじい反戦小説である。ただしこれはフィクション。調べてみると9年前にティム・オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」をアマゾンで買っていた。これもいい本だった。でもこれはアメリカ軍でしかもヴェトナム戦争の話だったはず。

この本が取り扱っているのは明確に特攻隊だ。神風特別攻撃隊のことだ。その中でも沖縄天号作戦に関わった振武隊のことを取り扱っている。特攻隊員たちが残した手紙、遺書。さらには彼らの関係者(家族、戦友、それから彼らと積極的に関わることになった基地のそばに住んでいた非戦闘員)から聴いた話をもとに構築されている。手紙をそのまま引用している章もあれば、談話から物語として再構築している章もある。
いずれも浮かんでくるのはまさに死なんと飛び立つ寸前の若者の心情である。検閲もあるだろうが、手紙に関してはそれを避けるために世話をする地元の非戦闘員(これも14〜5歳の娘である。)に手渡していたようだから、おそらくほぼ率直な内容になっているのだと思う。これが思った以上に前向きななのだ。例えば死にたくないとかそういった気持はない。(もちろん作者が意図的に弾いているという可能性はあるかもしれないが。)もう自分が死ぬということは覚悟しているわけだから、ある意味達観している。そうなるとあるのはあとに残してきた家族に対する思いである。自分は死ぬがあなた達は健やかに長生きしてくれ、というそんな思いが綴られている。
だから敵兵を殺しまくる!というのはあまりなくて(たまに挿入されるそれらはどちらかというと自分自身に言い聞かせているような趣がある。)家族や恋人、それから最後に触れ合った人に対する想いが素直に吐露されている。妙に達観したような文章の裏にはしかし、半ば理不尽に死に向かって進んでいく自分の運命に対する不安と反発する気持ちが見え隠れしていると考えるのは何も私のうがった意見ではないと思う。いまわのきわに手紙を書くということ自体がこの世に対する執着と言ってもよいだろうし、途中で死んでいく自分の命と、この綺麗な景色(彼らは美しい祖国日本という)を生き残っていく家族や他人に託している節がある。俺が死ぬのは彼らのためだと。彼らが健やかで暮らせるなら俺は死のうと思って、そう信じ込んで彼らは250キログラムの爆弾を搭載した飛行機でフラフラ飛び立ったのだった。物資不足により目標空域に辿り着く前に何割かの飛行機が墜落し、またすでに制空権を抑えられていた状況でおもすぎる爆弾を積んだ日本の軽い戦闘機は格好の的だった。ほとんどは目標に体当りすることなく落ちていったようだ。

今ではもう本来の重量をほぼ失った「カミカゼ」という言葉。私は直接目にしたことはないが、銃後すぐは特攻に行った人たちはだいぶ軽蔑されたそうだ。愚かな軍部の盲目的な手先だとして。実際彼らは愚かではなかったし、むしろ誰よりも勇敢だった。その場にいない人たち、その場でできなかった人たちが行動した人を批判することはできない。私は特攻は非常にくだらないことだと思う。しかし特攻していった人たちは立派な人達だった。私は戦争には引き続き反対だ。もし特攻に飛び立つ前の隊員にあうことができたとして、「あなたは立派だから飛んで死んでくれ」といえばなるほど軍国主義かもしれないが、私は「あなたは立派だから飛ばないでくれ」と言うだろう。(もし私が当時生きていたら実際にそんな事はきっとできなかっただろう。ただ周りに合わせてバンザイをしていただろうが。)

良い人が戦争でみんな死んで今生きている人は真っ先逃げ出した臆病者の血族であるとか、昔の人は立派で今の人はどんどん傲慢になっていると考えるのは面白いが全く意味のない思考である。
この本を読んでますます戦争が嫌になった。こういう本を課題図書にすればよいのに。

2018年12月16日日曜日

メルヴィル/白鯨

アメリカ文学に一つのモニュメントして立つ小説の一つではなかろうか。
様々な作家がその影響を口にし、またその他の芸術でも引用されることが多い。音楽界隈でもMastodonが「Leviathan」(聖書に出てくる怪物だが、クジラのことをまたレヴィアタンともいう)というアルバムを作成しアートワークには白いクジラを配している。またAhabというドゥームメタルバンドもいたりする。
私はNHKのアニメーションで「白鯨物語」というのを再放送でちらりと見たことがあるのが「白鯨」に関わる一番古い記憶だろうか。

複数の版元から出版されているが、世界観をよく表現している版画が収録されているということで岩波文庫版を購入。全三冊。大長編ではあるが、前編これクジラと戦っているわけではない。そもそも捕鯨とはどんな仕事なのか、どんな人達がその事業に関わっているのか、そもクジラとはどんな生態を持った生き物なのか、ということがメルヴィルの手で丁寧に丁寧に書かれている。どうもメルヴィルの時代に捕鯨業(とクジラという生き物)というのは正しく理解されていなかったようで、そんなみんなの間違った認識(メルヴィルに言わせると中世くらいの知識)を、捕鯨船に乗った経験がある作者がただしてやろう!という強い意志を感じる。どうしても荒波に漕ぎ出す海の男の物語というと暗く、重苦しいものを想像しがちだが、そんなことはない。3年以上に及ぶ長い航海では荒天もあればもちろん晴天もあるわけで、メルヴィルは海の美しさ雄大さ、海の男達の友情というものをきちんと真摯に描いている。なるほど後の時代の研究科がメルヴィルの生物学的な知見にはだいぶ間違いがあることを指摘しているが、メルヴィルの時代にはそれが精一杯だったのだし、そしてなにより人間というのはいつの時代にも変わらないもの。知識を土台に人間を書いている「白鯨」はそんなわけで今の時代も読みつがれているのだと思う。
あとがきでも書かれている通り、様々な人種が一隻の船に乗り合い、まさに生き死にをともにする捕鯨船ではびっくりするくらい人種差別がなく(これはメルヴィルの個性による所も多いとは思うが)、また狭いスペースの中で個人の個性が尊重されている。一歩間違えれば全滅する船の上で、肌の色がどうとかとか言っているいる余裕が無いのかもしれない。つまり仲間か、それでないかなのだ。これに関してはこの小説が持つ美点の一つだろうと思う。つまり人間の根源的な共感できる能力への賛美である。

「白鯨」はいろんな脇道(前述の博物学など)をもった小説だが、筋としては単純で化物のような白く巨大なクジラに人間が挑む話である。その単純さ故にいろいろな含蓄を含み、多くの人がそれにいろいろな意味を付加しようとしている。(私もその一人。)だが、物語としてみれば鬼気迫る戦いに赴く船員たちを書いており、その指揮を採るのが言わずとしれたエイハブ船長である。気の触れた船長といえば読んだことがない人でもそのなは知っているだろう。(脱線するが学生の頃に見た「ラストエグザイル」というアニメもこの「白鯨」の物語をなぞっているね。)
このエイハブは魅力的な人間で、自分が気が狂っていることに気がついており、世界には明るい面があることがわかりつつ、そこに背を向けて敢えて自分だけでなく船員の身を危険に晒す半分狂った男である。白鯨が凶暴だと言っても陸に攻めてくるわけでもなし、鯨油が目的なら他の黒いクジラで十分ではないか。彼はいわば恨みで動いている人間で、いわば煩悩に囚われた人間のわかりやすい戯画化された姿でもある。(だから彼は常に魅力的な人間なのだ。)私怨に対する理性の象徴として登場するスターバック。彼に対するエイハブ船長の愛情が私には非常に面白かった。邪険にするが敬意を感じている。破滅するのがわかっているのにスターバックは船長を止めることができないのである。エイハブの狂気は力を持っているゆえに船内に伝染し、そして逃げ場がないためピークオッド号は帆に風を受けて彼らの死である白鯨に向かっていく。これは理性の敗北であり、豊かな海が底なしの墓場にその姿を変えていく。

一連の物語を覆うのは無常観である。この物語で私が好きなのは、メルヴィルは実際的な人物でたしかに間違いはあるのかもしれないが、決して大きなことを吹聴したりはしない。捕鯨は栄えある仕事だが、それはあくまでも捕鯨に過ぎないのだ。登場人物たちのクラス世界の美しさ。そしてあっという間に人が死ぬ酷薄さ。捕鯨船とそれを囲む青い世界にメルヴィルはそれを詰め込んだのだ。起こった出来事を書き、そして結果的にできあがった「白鯨」という巨大な画を見て、私はそこに万物流転の無常さをみてとったのだ。

BLOODAXE TOUR -JESUS PIECE JAPAN 2018-

年の瀬にJesus Pieceが来るという。なんせデモとプロモ音源しかリリースしていない状態で非常に話題になったバンドだ。満を持しての1stフル「Only Self」もまさにブルータルで良かった。または種々様々なハードコアバンドのライブ動画を発信しているHate5sixも帯同するという。ミーハーなもんでこれは!とばかりに向かったのは渋谷Garret。結構新しいライブハウスなんじゃなかろうか。かなりきれいで音も良い。最近のライブハウスはステージが横に広いような気がする。これだと単純に劇的になって良いよね。
先週の激務でまさかの昼寝で寝坊してしまい、一番手Blindsideに間に合わず…。

Coffins
東京オールドスクールデスメタルバンド。
MCでも言っていたが今回のラインナップでは異質なバンドで、流れでみるとやはり異彩を放っていた。モダンなハードコアがミュートでザクザク刻んでいくとすると、デスメタルは余韻を引きずるスタイル。重たい一撃がグワングワンする残響を残していく。これが速いバンドならまた話は違うだろうが、Coffinsは相当にDoomなので割合的に一音一音の比重(インパクト)がでかい。デスメタルのリフに極悪ハードコアを見出す動きもあり、結果ハードコアバンドとは別のアプローチでフロアにアクセスするイメージ。
個人的には来年から録音に入るという新曲群がとにかく良かった。キャッチーというと語弊があるかもしれないが、元々Coffinsはドゥームな割には曲の中で変化があるバンドだったと思う。ゆったり(もったり)その姿を変えていく、というスタイルが新曲ではかなり激烈になっていてその強引な感じがまた格好いいのだ。テンポチェンジも露骨でテンション上がってしまう感じ。
「Raw Stench Death Metal」と刻まれたパーカが新作で物販に並んでいてライブ良かったのでこれは!と思っていたのだが、終演後には売り切れていた。みんな考えることは同じみたい。

NUMB
続いては1995年から活動しているNUMB。とても有名だしいろんな場所でライブをやっているが見るのは初めて。
この日どのバンドも素晴らしかったが、一番衝撃を受けたのはNUMBだったと思う。色々なバンドが自分たちをライブバンドと称する。特にこのジャンルではライブがすべて、と言い切るバンドもいたと思う。たしかに音源で聞くのとライブで体感するのはぜんぜん違う。(そもそも使っている感覚が5倍(味覚はなかなか使わないが)になるからライブのほうがすごいのは仕方がない。)でもNUMBみてライブバンドってこういうバンドかと思った。まずは圧倒的なショウ感。これは演劇的という意味ではなくて、全部がつながっているということ。曲の合間にチューニングがてらMCというのではない。曲名をコールするMCが全部計算されていて流れるように曲に移行する。劇的にスムーズでこちらはライブ中にスマホ見ている暇なんてないんだよね。(そもそもライブ中に見ないと思うけど。)途切れないライブで集中させる。でも威圧的な感じが全く、本当にまったくなくてむしろ笑顔が多い。これは衝撃的だった。
曲はモダンにアップデートされているけど、随所にオールドスクールを感じさせるもの。音の作りも数もいい感じに引かれている感じ。ラフ、というのとはちがう。おそらくライブの運びもそうだけど、相当考え研究しているのだろうなと思った。重鎮というのは老獪で力が抜けているなんてとんでもない。むしろ知見をたゆまずアップデートすることなんだなあと感動したけど、ライブ中は何も考えずにただただ楽しかった。

Loyal to the Grave
続いても大変有名なバンド。(1998年結成。Bolodaxeの仕掛け人でもあります。)やはり見たことがなくて楽しみだった。
音楽的にはNUMBと共通項がかなりあるけど、よくよく聴いてみると違いがわかって面白い。まず音の数が多い。また音も重たい。ようするもっとヘヴィだ。こちらもルーツは様々だと思うけど、出音としては明確にニュースクールといった趣。それも硬派なやつ。メロディ性は皆無でほぼほぼグルーヴで引っ張っていくタイプ。ただモッシュに特化したモダンなブルータルさとはまた違う。落とす、というからには高さ(つまり速さ)が必要なわけで、ニュースクールは技術でもってそれらを演出する。ミリタントもそうだけど、ただ単に落とすためのその他ではなくて、落とし所以外も格好いいという。言うのは簡単だけれどそれを実行するのは難しい。それを難なくやってのけるのがこのバンド。とはいえミリタントほど装飾性がない。ドラムの音の抜き方に何かしら格好良さの秘密がありそうな…。
とにかくボーカルの方のMCが良かった。ハードコアはとにかくタフだけど殺伐としているかというと、少なくともライブの雰囲気は違うと思う。暴れるにしてもポジティブなモチベーションがあってそれを体現しているかのような語りがとにかく良かった。

PALM
このラインナップで見るとCoffinsほどではないが結構浮いているなと思ったのがこのPALM。マイクの取り合い合戦も確か始めてみたのがこのバンドだったので恐ろしいハードコアだぜ…と思っていたし、実際そうなのだが、いわゆるUSスタイルのハードコアとは結構趣が異なる。わかりやすいのはドラムで結構バチバチ存在感のあるブラストを入れてくる。突進力は確かに、だからといってトータルでグラインドコアかというとそうではない。ギターに関してもミュートで刻んでくるというよりはデスメタルっぽいトレモロを噛ましてきたり、短いソロを弾いたりもする。ただ音の肉抜きがされていて重苦しいメタルには聞こえない。いわば絶妙なバランス感覚でハードコアの綱渡りをしているようなイメージで、これがまたフロアを沸かせる。いい意味でのごった煮感は今はあまり聞かなくなった「カオティック」を彷彿とさせる。
何回か見たライブではユーモアに富んだMCが印象的だったがこの日は少なめ。ベーシストの外国の方がビザの関係で不在、というくらいの簡潔さ。あとはもうほぼほぼ演奏に振り切っていた。ボーカリストはマイクで体を叩くのだがその「ッゴ」という音がよく考えるとなんとも猟奇的。演奏もあって何するかわからんぞって雰囲気でもやっぱりこの日明らかに尖っていた。

Jesus Piece
いよいよ最後はモダン・ブルータル・ハードコアの雄、合衆国はフィラデルフィア州からやってきた5人組。
出音一発で思った「遅え〜」。地獄は速いのかと聞かれたら遅いんじゃなかろうかと思うのだが、この日はまさに地獄。浮かれているフロアに鉄槌を下すがごとおく容赦がない。フロアに居るみなさんも一発でこれは尋常じゃないな、と思ったのではないでしょうか。ギターがベースかってくらい音が重たい。そして遅い。叩きつけるというかもう押さえつけるくらい。これが良い。豪腕でズンとくるから、押さえつけられた反動でこっちは跳ねるじゃん?というわけで結果的にフロアも更に湧くのだ。わけがわからないがこんな感じ。(まともな人間はハードコアなんて聞かないそうだ。)
これ前編モッシュパートじゃんというくらいのえげつなさだが、耳と体がなれてくるとしかしよく練られた曲に込められた技工がわかってくる。2本いるギターで役割分担があって、片方はもうズンズン刻んでくるのだが、間を縫ってもう一本がかなりですメタリックなリフを奏でたりしている。踊らせるにしてもテンポチェンジはもちろん、結構拍子も変えてきて、3拍子は思った以上にハードコアに合うな!なんて地獄のようなフロアで思ったりもした。ボーカリストもデスメタルバンド顔負けの低音咆哮を見せる。長身でシャツを脱いだ体はとにかくしなやか。音の方もそうで、ハードだけど有機的なしなやかさがある。意外にライブで見るとガッチガチに固めたハードコア、という印象でもなかった。
フルアルバム「Only Self」はもちろん素晴らしいのだけど個人的に一番好きなのはデモの「Lost Control」。まさかと思っていたけど果たしてやってくれてテンション上がった!!横から上から人がどんどん飛んでくるのでじっくりなんて見れたもんではないのだが、これがまさに触覚を使ったライブなのだ。

この日は一番手からフロアが沸きに沸き、それこそ一番手からけが人が出たりもした。hate5sixに日本のハードコアを見せてやろうという気概があってか、演者もそうだしそれに答えるようにオーディエンスも非常に高いテンションで盛り上がっていたと思う。
Jesus Pieceのメンバーは根っからの音楽好きなのだろう。どのバンドでもほぼ最前に陣取り、誰よりもモッシュしていた。特にフロントマンのアーロンはCoffinsのときにすごく楽しそうだった。(Jesus Pieceもはじめはデスメタルやりたいねって集まったらしい。)
良いライブってどんなライブかというとフロアに居る人が笑顔のライブだと思うし、そういう意味では非常に素晴らしいライブでした。
Jesus Pieceはこれからツアーが本番なので迷っている人はこの機会に是非どうぞ。


それとこれは日記なんだけど、やはり私は耳栓が合わないみたい。現在のライブハウスでは耳栓の着用が推奨されている。安いやつを買ってみて好きじゃなかったので、ライブ用のちょっと良いやつを買ってつけてみた。音はちゃんと聞こえる(どの楽器ももバランスよく音を減らしてくれる)のだけど、どうしても迫力が足りない。早々にテンション上がって外してしまった。ある程度つけてれば慣れるんだろうかね〜。

2018年12月9日日曜日

Cult Leader/A Patient Man

ハードコアの何が面白いかというと人それぞれだろうが、わたし的には基本にハードコアがあるとあとは結構何を載せてもイケるってところだ。融通が効くなあというわけだ。ハードコアを出発点に色々なバンドが様々な要素をそこに追加していった。逆に言えば初めは表現力にやや難があったジャンルに対して、それを好むものたちがなんとかそれを自分が補填し完璧な音楽にしてやろう、という動きがなんとなくあったのだろう。
メタルからミュートリフを持ち込んだニュースクールやメタルコア、哀愁をメロディラインとギターソロで充填したジャパニーズ・ハードコア、どんどん遅くしたろうかなというスラッジコアに、いやー速いのがパンクよとばかりにファストコアやパワーバイオレンス、結果的に尖ったのが色々サブジャンルとして乱立してどれもハードコアなもんで面白い。

ユタ州ソルトレイクにGazaというバンドがいてこのバンドはグラインドコアばりの突進力にスラッジコアの要素を取り入れ、それもいい感じに混じり合わせるのではなく無理やりくっつけたようなヤケクソさがあって好きだった。ラストアルバムは歴史に残る傑作であると思っている。そんなGazaが終わり、残った3人で始めた(メンバーを一人追加している)のがこのCult Leaderだ。Deathwish INC.と契約し精力的に活動。今回が3枚目のアルバムだ。
Gazaで分裂してた別々の表現手法を融合させるというのが隠れたCult Leaderのテーマだったのかと思う。Gazaの放心したようなスラッジパートの空虚さ、そして物悲しい感情を今度は曲そのものに溶かし込んだ。前作「Lightless Walk」の「Sympathetic」でその方向性は極点に達し、そしてわたしは遂にCult LeaderはGazaを超えてその先に行ったんだと思い、感極まって泣いた。この曲に関しては私は日本における激情にたいするアメリカからの一つの回答でもあるなとひそかに思っている。

さて前作から3年が経ちリリースされたのが今作。アートワークから前作からの流れを組むものだと理解できる。さらに色が追加されているのが印象的だ。
聴いたら驚いた。やりやがった!このアルバムにあったのはまたもや露骨な分断だった。バラバラになった破片を集める修復作業がGazaを経てのCult Leaderだったとしたら、今作でまたそれを壊してしまったのだった。ただそのやり方は斬新で1曲の中で疾走パートとスラッジパートを同居させるようなやり方ではない。激しい曲とアコースティックなアンビエントな曲を分けたのだった。調和も何もあったものではない。二律背反の葛藤する心をもはやそのまま表現するような、穿った見方をすれば迷いのあるやり方だ。
前作同様1曲め「I Am Healed」からぶちかましそのままラストまで行くのかと思いきや、4曲目「To:Achlys」でダークなフォークで沈み込む。(2曲ともMVが作られていることからアルバム内でも露骨に重要な曲だということがわかる。)ディストーションもってのほかの生々しくダウナーな世界観をひきずり、「A World of Joy」のラストで再浮上する。普通のアルバムなら山があるのだろうが、「A Patient Man」には谷がある。一回沈み、そして死にきれずに戻ってくる。後半はいわば恨み節の二回戦であり(ジャケットの骸骨は泣いている。)、そこからまた突っ走っていく。
タイトルは「忍耐強い男」か、しかし冒頭が「私は癒やされる」だからおそらく「患者の人」だろう。3曲めのタイトルは「Isolation in the Land of Milk and Honey」で聖書に出てくるワードだったはずだ。つまりこの世の楽園ってことだろうが、そこで孤独。このアルバムは一つの物語であり、それ故中盤の露骨な沈降も納得できるだろう。ラスト手前の「A Patient Man」のアコースティックギターの響きのなんて空疎なことか。何もない空っぽが鳴っているようだ。

破壊と想像なんてこのジャンルではもはや聞き飽きたワードだが、このバンドはそれを地で行っているような気がする。しっかり根を持ちながらも新しい表現方法に挑戦していく。言うは易く行うは難し。現行でこんな大胆なことをやっているのは日本のSWARRRMくらいしか思い浮かばない。どちらも今年新作をリリースしたが、いずれもモニュメントや不気味なモノリスのように聳え立っている。
素晴らしいアルバムである。慟哭しながら地面をたたきたいほどに。こういうのが好きなんだ、私は。この雑念が混じり合い、もはや怨念となって渦巻いている感じが。そして如何ともし難い諦念が底流を這っている。狂乱と空虚だ。もはやそれしかない。「We Must Walk On」というリフレインが強烈なラストの「The Broken Right Hand of God」。決して癒やされることのない病を抱えてこの地上をさまよっていくのだ。それを呪いという人もいるだろう。

2018年12月8日土曜日

スリー・ビルボード

主人公のタフさに驚かされ、また大いに楽しませられるが、そんな中で気がつく。これは対決の映画だと。
中盤までは簡単だ。ミルドレッド対ウィロビー署長。
主人公ミルドレッドは中年の女性でおそらく低所得者層に属する。結婚は失敗し、暴力的な元夫は19歳の女の子と付き合っている。二人いる子供のうち女の子はレイプされたあげく火をつけられて殺された。金もないし、(恐らく)学もない、雑貨屋で働いている。夫に負けず劣らず口が悪く、喧嘩っ早い。タフで芯が通っているが、また反面頑固で人の意見は聞かない。
一方ウィロビーはどうか。彼は確かにミルドレッドの娘の事件を解決できていない。ただし(少なくとも)彼が無能でも怠惰なせいでもない。若く美人の妻と可愛い二人の女の子がいて、厩舎を備えるくらい豊かな生活を送っている。金があれば名誉もある。(彼が努力して勝ち取った。)また聡明でミルドレッドに関しては手を焼いているが一人の人間として尊敬もしている。友人も多く、順風満帆の人生だが、癌を患い先は短い。
いわば持たざる者と持つものの一騎打ちである。これが面白くないわけがない。他人なら諦めのつく未解決の殺人事件でも肉親にとってはそうではない。それ以来人生が破壊されてしまうことも十分あり得るだろう。孤軍奮闘でウィロビーに相対するミルドレッドの姿は格好良い。

ところが中盤以降これはおかしいぞと思う。どうにも勝負になってない。というのも死を目前にしたウィロビーは無敵なのだ。元々の人の良さもあってか実はこの二人勝負になってない。達観したウィロビーは彼女を許すこともできる。一方的に喧嘩をふっかけているのがミルドレッドなのだ。彼女の怒りは理解できるが、ウィロビーにだってできないこともある。
ウィロビーの死で困ったのはミルドレッドだった。娘の死という理不尽に対する怒りを彼にぶつければよかったからだ。彼女の怒りが次第にふわふわ行き場をなくしていく。そして気がついた。彼女の怒りがとても深いことに。彼女は今までのなめてきた辛酸に対して怒っているのであり、彼女は娘を殺した犯人に怒っているのであり、若い女に走った元夫に怒っているのであり、自分に様々な理不尽を投げかける世界に怒っているのであった。名状しがたい深い憎悪がついに娘の死をきっかけに明確な形を持って彼女の中に立ち上がったのだった。だから彼女は強かった。彼女は警察署に火炎瓶を投げることができるし、息子の同級生に暴力を振るうこともできる。ただし彼女の怒りはその性格上明文化できないし、特に持つものたちには理解ができない。

そこで出てくるのが同じくウィロビーの死に大きな影響を受けたディクソンだった。ミルドレッドとディクソンは奇妙な絆で結ばれることになる。ディクソンもまたこの世界で彼なりに辛酸を舐めてきた男だった。ミルドレッドと彼はともに貧しい環境に育ち、暴力的な性向で自らトラブルを招いてもきた。ウィロビーとは異なり、明らかに欠陥だらけの男女がそれでも続く毎日でやっとお互いを見つめることができたのだった。暴力で繋がった彼らは容疑者を殺しに出かける。しかしすでに自らの怒りと(彼らにとっての)正義不在の世界のギャップをまのあたりにしたのか、それとも怒りの炎が彼らのみを概ね焼きつくしてしまったのか、倦怠感に満ちた彼らの会話が妙に耳にこびりついて離れない。
ミルドレッドの力強い背中も、全編見終わった後に見返すとこの報われることのない世界の中で妙に孤独に見える。ミルドレッドとディクソンの行動には賛成できないところが多いが、それでも彼らの怒りがなんとなく理解できるような気がしたのであった。ラストのシーンの陽光が柔らかく、それだけに切ない。非常に良い映画だ。

ヘレディタリー/継承

タイトルも作者も忘れたがこんなホラー小説があった。
とある家では怪異が頻発するが原因がわからない。家をよくよく調べると実は小さな隠し部屋があってそこには様々な呪具が置かれているというもの。多分クトゥルーものでは無いだろうか。アンソロジーにも収録されていたような気がする。隠し部屋というのもいいし、その中に安置されていた用途不明の呪物に個人的には惹かれたのだった。

この映画を見てその短編を思い出した。
この映画の舞台になるのは人里離れた家で妙に薄暗く、ツリーハウスも備えている。この家の秘密の小部屋が死んだババアだった。魔法陣や悪魔のシンボルなどそれらしい呪具も出てきてテンション上がる。じっとり陰湿系ホラーでそれが何かというと陥穽である。これ教団側の視点で作ったら、主人公一家が面白いくらいに罠にうまくはまっていく様が見れて面白いだろうな。内側から見ているとわからないので「随所にちりばめられた伏線が」ということになる。ホラーにも流儀があってフリークス系ならそれらには絶対弱点がないといけない。一方こういう系ならまどろっこしい手順が必要になるのだ。魔法には詠唱が必要なのだ。呪いにも一定のやり方というものがあって、例えば日本のトラディショナルなスタイルを踏襲するなら白装束に身を包み、頭には鼎をかぶってそれに蝋燭を刺し、神社の樹に藁人形を五寸釘で夜中の2時3時くらいに打ち付けないといけない。悪魔の手を借りるにしても万能では具合がよろしくない。そういった意味でこの映画は丁寧に丁寧に呪いを縦糸横糸で織り上げていく。恐怖のタペストリーつまり彼らの満願が成就するというわけだ。うまいもので例えば落ちる首のモチーフなどは何回も強調することで視覚的な恐怖と呪いの進行を同時に表現している。

クトゥルーといえば憑依だ。永遠の命を仮初めの人体で実現する場合は憑依が効率的な手段だ。やはり名前は忘れたがラブクラフトによる憑依ものがあって、たしか受け継いだ地所に墓がついており、愚かにも主人公は前任の死んだ魔法使いの決めた手順を実行し、結果その体を乗っ取られてしまう。この映画もその類かと思いきや、また別の方向に進んでいく。機能不全家族をして家族の絆は呪いだという表現をすることが多いが、本作はそこをクソ真面目に文字通り再現している。血の繋がりというのがババアの呪いでは重要なファクターである。母親が発狂した日本の作家芥川龍之介は常に自身にそれが起こることを恐れていたというが、今作でもその要素が巧みに配置されている。よろしくないことばかり起きている家に結局父親も息子も帰ってきてしまうあたり、血縁を含まない家族というものもなかなか強い絆を強制すると思った。

カルトたちも顕現する偉大な悪魔に何を願うかと思えば以外に卑近で呆れるが妙に世界の破滅を願うよりは共感できる。いわば邪悪なドラゴンボール集めのような趣で巻き込まれれる主人公たちは良い迷惑だが、身勝手で破滅していく彼らの様を眺めるのはなかなか背徳的な感覚になれる。

2018年11月25日日曜日

Spirits/Discontent

アメリカ合衆国はマサチューセッツ州ボストンのハードコアバンドの1stアルバム。
2015年にState of Mind Recordingsからリリースされた。
Spiritsはストレートエッジのバンド。メンバーは4人でかつてはTest of Timeという名前で活動していたそうだ。

お酒飲まない、タバコ吸わない、愛のないセックスは無しという厳格なルールで生活を縛るストレートエッジというのはハードコアカルチャーに結びついているものの、音楽的な特徴を表現する言葉ではない。どうしてもストレートエッジというとユースクルーかなと思ってしまうところがあるが、(一見すると)このSpiritsはあまりそれっぽくはない。もっとフックが効いている。わかりやすく言えばバキバキのブルータルさは全くないが、かといってタフなオールドスクールという感じではなく、自然体なニュースクールという感じだろうか。技術力というか、表現力はかなり豊かでパームミュートだったり、エモバイオレンスを思わせるトレモロ奏法などを短い曲の中に持ち込んでいる。ハードコアというのはどうしても力強さを志向するあまり極端に走りがちなジャンルだと思うが(メタルだとここに様式美的な表現力が加わるから音楽性自体は雑多になる)、このバンドに関してはとにかく中間が格好良く、そこが自分には自然体、に見えるのだ。言葉にできない余白的な感情を持て余すのではなく素直に表現している。概ねその感情がエモバイオレンスのような懊悩や葛藤になってしまいがちなのだが、このバンドはあくまでも健康的なハードコアのフォーマットに落とし込むことに成功しているイメージ。結果的に速くもなく落としどころ満載という感じではないのだが、とにかく横ノリといっていいくらいの気持ち良さが詰まったハードコアが出来上がっている。
そうなると俄然丁寧な作りが気になって聞き込んでしまう。例えば8曲め「The Pledge」疾走するパートでうおってなって、コーラスワークでじんわり感動する。あ、ここ実はユースクルーっぽいぞと気がつく。これは良い。
SNSには「世界をよくしていこう」「ホモフォビア(ホモに対する嫌悪)、ファシズム、女性差別主義、人種差別主義、憎悪のいるところは無い」と書かれている。ポジティブ里そして強い決心が伺えるバンドだ。そういったバンドがこういったしなやかな音楽を鳴らしているというのは非常に格好いい。(別に強面の音楽を鳴らしているバンドがかっこつけだといっているのでは無い。)

こういうシーンの中で断固とした主張をしながらも、大勢のやり方をなぞるでもなく自分たちなりのやり方を模索しているようなバンドにどうしてひかれてしまう。

2018年11月24日土曜日

ハード・コア

「ボーダー・ライン」の続編を見にいくはずがなぜか「ハード・コア」を見ていた。
原作は狩撫麻礼、画はいましろたかしの漫画「ハード・コア 平成地獄ブラザーズ」を元にした邦画である。監督は山下敦弘でこの人は「リンダ リンダ リンダ」などを撮った人だ。主演でプロデュースを務めるのは山田孝之で、彼が原作に惚れ込んでこの映画を取ることを発心したそうだ。

2時間の映画で途中何回も笑った。しかし最後まで見て残ったのは圧倒的な絶望感でもあった。なんて暗く、そしてひどい映画だろう。誤解を与えるかもしれない表現なのではじめに断っておくが、映画自体はものすごくよかった。でも終わったあと感動して慟哭することはなく、むしろ恐ろしさで戦慄が走った。私は原作を読んだことがなく、軽い気持ちで冴えない中年が頑張る話かな、と思って見に行ったのだ。なぜなら私も冴えない中年だからだ。でも見終わると冴えない中年は死ぬしかないのか…という気持ちになってしまった。

主人公の権藤右近は冴えない男だ。感想を見て見たら「クズ」と称されてもいた。まあそうかもしれない。良い年をして定職につかず胡乱な反社会的な組織でよくわからない仕事(埋蔵金の発掘)を任されている。金もなければ女にもモテない。すぐに頭に血が登る性格で口が悪いし、それより先に手が出てしまう。堕落した生活を楽しんでいるなら良いのだが、自分の境遇には強い不満感を持っている。悪いのは世の中なのだ、その世の中の腐敗の割りを食っているのが純粋な俺なんだ、とそういうわけだ。
彼の何かダメなんだろうと考えたときに思ったのは、暴力的だからでも、怠惰だからでもない。強烈な個性があるし、主張もする割に本当にダメなのは自分の意思がないのであった。彼がよく口にする雇い主である「金城には恩があるから」というのはなるほどわかる。でも右近自身は金城の思想に染まっているわけではない。彼には月7万円というお金のために世話になっているだけで、いわば金城を便利に使っているわけだ。7万円はなるほど大金だが、仕事は他にもある。彼はあえてその境遇に甘んじているわけだ。彼は考えるということが得意ではない。自分の意見がない。というよりは責任は負いたくない。だから埋蔵金を見つけてもそれをどうしたら良いかわからない。(全部自分で欲しくはあるのだが、怖くて雇い主に報告しようかと悩む。)強い言葉で上司の水沼からテロルの覚悟を問われると、なんとなく偉そうな言葉でその場を凌いでしまう。彼は根っからのダメ人間というのではないのだ。彼は確かに牛山に対して優しい。人間ですらないロボオに対してもそうだ。暴力で脅してくるヤクザには我慢ができない。いいやつなのだ。不器用で、でもやっぱり自分の意思がなく、重責からは逃げてしまう。
唾棄すべき世の中に漠然とした憧れがあって、だから牛山とロボオといったキャバクラで踊ったのは彼にとっては最高の体験だった。自分がバカにした仲間と浮かれさわぐ、という行為(いうまでもなく冒頭のバーのシーンの逆の再現)をやっと自分ができたからだ。彼は世の中が嫌いだったわけではない。憧れた世の中に拒否されていると感じているから、その世界に憎しみを覚えているのである。あああああこれはどう考えても私ではないか。

一方彼の弟、佐藤健演じる権藤左近はどうか。彼は意志の人だ。商社に入り金を稼ぎ、女にもモテる。行動力と知識があり、そして強い野心とそれを実現させる速やかな行動力がある。埋蔵金を手に入れた直後、すぐにそれを強奪し、そして実際の金に帰る術を思いつくのも彼だ。左近がいなければ右近は埋蔵金を金城に渡していただろうし、よしんば強奪しても日本円に換金することはできなかっただろう。彼は生まれながらの完璧な人間ではないのだ。居酒屋で激昂した兄右近を殴り返しそしていう、「世界など腐って当たり前。そこで要領よくやっていくしかねえだろ。」彼だってこんな世の中が正しいとなんて思っていなかったのだ。だから埋蔵金が欲しかった。くだらない雇われ人である商社マンから抜け出し、世間を出し抜きそして一人高笑いすることができる。埋蔵金は彼にとって復讐の道具でもあった。彼はなるほど顔が良いが、AIの知識、妙子の本性を見抜く眼力など、全て経験によるもので単に才能の問題ではないことがわかるだろう。彼だって右近のいう腐った世の中で彼なりに辛酸を舐めてきたのだった。

映画をご覧になった人ならわかるだろうが、この映画は終わる前に一度終わっている。最後の最後は優しさであり、それこそ逃げの一手かもしれない。私もこの作品のコメディ要素は究極このラストへの布石だったと思うところもあり不満はないのだが、やはりその前のロボオがいう「こうするのが一番なのです」という言葉とそのあとが忘れられない。同じ時間を与えられて結局何もできなかった右近。最後の最後まで自分の意思がなく、結局自分の大切な人生を他人にいいように奪われた右近。そんな彼はもはやああなるのが一番なのか。そんなわけで自分の中に右近を見出していた私は大いに戦慄したのだった。現実的な恐怖といっても良い。甘い糖衣に包まれたフィクションだなんてとんでもない。(それだけにあの最後の最後が私にはむしろ恐ろしかったのだった。あれこそが現実から身をそらす幻覚剤だからだ。)現実にぶん殴られたようである。全ての冴えない中年はこの映画を見た方が良い。手遅れになる前に。そして私たちは既に半分かそれ以上は手遅れなのだ。

この物語に出てくる存在の中で明らかにロボオがおかしい。だって彼は人間じゃない、彼はロボットなのだから。左近が言っていた言葉にヒントというか答えがある。「AIは命令されれば行動することができるが、その行動がどう言った目的なのかわからないのだ。」皮肉だ。ある意味では意志薄弱な右近もそうなのだが、本質的にロボオは行動の規範が人間とは違うということを言っているわけだ。ところがどうだろう。この映画に出てくる人間は牛山も左近も含めてみんな大なり小なり歪んでいる、おかしい。優しくはあっても結局は人を利用していく。そして人を壊していく。そんな世界の中でただ一人ロボオだけが優しい。彼は人を傷つけない。身を呈して人の幸福を守ろうとする。(最終的には感情が明らかに生まれている。水沼とのシーン。)ロボオの完全な人間性が非人間の中に実現しているという存在は明らかに皮肉であり、そしてこの「腐りきった世界」に対する批判である。狩撫麻礼という方はハードボイルドな方だったそうだ。おそらくこの世界に対して内心複雑な思いを抱えていたのだろう。

本当に素直に「ボーダー・ライン」を見に行けばよかった…と思うくらいの衝撃だった。しかしそれゆえ優しい。どんな気持ちで山田孝之と山下敦弘監督はこの映画を今この時代に撮ろうとしたのか。大変失礼は承知ではっきりいって大ヒットするような作品じゃないと思う。しかし少なくとも私の心臓にはグッサリ刺さった。刺さりすぎて痛いほどに。俳優の方々の限界を超えたような演技も素晴らしかった。
何もしないのもいい。優しいのはもっといい。でもそれだけではダメなのかもしれない。人生はハードだ。タフになれ。冴えない中年、腐りきった世の中に言葉にできない思いを抱えている方はこの映画を見た方が良い。強烈なパンチ力に驚くだろうが、ぼんやりしている場合ではない。

My Purest Heart For You/Both Paralyzed

アメリカ合衆国サウスカロライナ州マートルビーチのブラックメタルバンドの2ndアルバム。2018年に自主リリースされた。
またくどいバンド名である。「僕のあなたに対する最も純粋な心」。調べてみるとマートルビーチというのはアメリカ南東部のリゾート地のようだ。とても綺麗なところだ。君、もっと外に出てきたらどうだ、泳いできなさい、と親戚の叔父さんになっていってあげたい気持ちもある。輝かしい土地で部屋にこもってこういう音楽を作るやつもいるのである。全く最高だ。バンドと称したがメンバーなどは非公開でよくある変名どころかメンバーの人数も不明。2016年にデモを発表して以来、活発に活動しているようだ。(多分ライブはやっていない。)

どんな地下音楽でも流行り廃りというものが露骨にあって、そのムーブメントは「もう聞き飽きたぜ?」と玄人のしたり顔で敬遠されたりもするのだが、雨後の筍が枯れた後その土壌からまた新たな音楽が生まれることもまた確かだ。
このMy Purestもそんなバンドのような気がしている。ブラックゲイズだ。シューゲイザーにブラックメタル由来のトレモロを合体させたツエーやつで、世界中の根暗たちがこの音楽性に魅了された。もともと小汚い、危険、(ともすると)キモいという3K音楽たるブラックメタルから派生したという生まれながらの対照性もあってか、ブラックゲイズは掃き溜めに生まれた鶴のようなエモさがあった。マートルビーチに住む何がしかはそこに最も純粋な心を見つけたのだろう。(おそらく)根っからのブラックメタル・ファンである彼がこの音楽性にコンバインしたのはデプレッシブ(憂鬱な)・スーサイダル(自殺的)・ブラックメタルだった。それもかなり過酷でトゥルーなやつをだ。厭世観と自己嫌悪を音楽にして吐き出した音楽。吊り縄やリストカットされた手首をモチーフにしたアートワーク。あの世界観によりにもよってブラックゲイズをくっつけたのだ。確かに全編を覆うのはトレモロ、トレモロ、トレモロの嵐である。しかしガリガリとしたプリミティブな音質。ドゥームとまではいかないがすっきりとしないゆったりとした速度。マイナーなコードを使っているのかわからないが、爽快感を与えるはずのトレモロもやけに陰鬱に響いてくるのである。ボーカルは金切り声でずっと叫んでいる。全く抑揚などあったものではない。キャッチーな要素である「ゲイズ」の背後にあるのは確かにDSBMの息吹であった。チェコのTristをなんとなく私には思い出させる。あの荒涼としたモノクロの景色。
例えばAn Autumn for Crippled ChildrenがDSBMを飲み込んでほの明るい地平線を目指したのに、My Purest Heart For Youは明るい要素を用いているのにさらにDSBMのくらい渦に降下していくようである。私がブラックゲイズ学の講師なら「これは悪い例ですね〜」と生徒たちに紹介するだろう。しかし私はどこの先生でもないのでこの音楽に耽溺することができる。くらい情念がメエルシュトロムのように下に下に渦巻いていく。不健康な重力があなた方を優しく押さえつけるだろう。

ロス・マクドナルド/さむけ

アメリカの作家の長編小説。原題は「The Chill」で1963年に発表された。
いわゆるアメリカの古き良き時代のハードボイルド。アメリカの私立探偵というとどうしてもレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウが思い浮かぶが、時代的にはこちらの方が重なりつつも少し後になるようだ。
あとがきにも書いてある通り、両者のイメージはだいぶ違う。ハードボイルドというのはどうしても主人公のキャラクターによるところが多いと思う。そういった意味ではマーロウとこの物語の主人公アーチャーには多くの共通点がある(簡単にいうと喧嘩が強くて科目て格好良い。)物語全体としてはこちらの方が陰鬱である。舞台もカリフォルニア州の海沿いの町なのだが、華やかな雰囲気がほとんどない。むしろ霧が立ち込めて重苦しい。出てくる人たちも派手な金持ちやギャングは出てこない。要するに地味といっても良いかもしれない。

出てくる人たちはみんな問題を抱えているようではある。結局は孤独ということになるのだろうと思う。どこからしら欠陥がある人間たちが人生の中で右往左往しているうちに事件が生じてしまう。アーチャーはその絡まった糸をほぐしていくことになるわけだが、当然そうすると関係者たちの生まれや育ち人間関係とそこから生じる問題に直面していくわけだ。これは何かと言うとカウンセラーに近いなと思う。個々人の身勝手さがわかっていってげんなりもしてくるのだが、面白いのはこの登場人物たち、結果的に良いか悪いかはわからないがかなり他人のことを考えている。いわば関係性が強調された物語ということができる。利他の精神であり、また同時にすがる縁でもあって、愛情であり呪いでもある。重なっていく日々が過去を重たくし、距離を稼いでもそこから逃れることができないのは象徴的だ。こうなるとギャングたちが出てこないのも納得できて、つまり不和やそれを引き起こす問題というのは常に内側にあるというのが、この作品の言いたいことであって、それが全体的にやるせない雰囲気をこの作品に持ち込んでいる。殺人を起こすのはどこにでもいるあなたの隣人であり、殺人が起こるのは絢爛なハリウッドでもなく近所の家なのである。ここに異空間や非日常はなく、あるのは嫌になるくらいの日常である。
この日常の中で罪というのは相手の意を介さずに自分の思いのままにしようとすることだと示唆されているようだ。でも思いやりと強制の境はどこにあるのだろうか。
妙な諦観を持って動き回るリュウ・アーチャーは特異な霧に紛れて現れれる幽霊のようだ。積極的に事件に乗り出すがどこか頼りないところがあり魅力的だ。老獪な人物たちの間の中でボンボンで幼く、衝動的で直情径行のアレックス・キンケイドだけがその思い込みと優しさでくらい事件に一条の光を投げかけている。長く、優しい目で彼を見つめるアーチャー、とても良かった。彼もまたまだ死んでない男なのだ。

2018年11月11日日曜日

Jesus Piece/Only Self

アメリカ合衆国はペンシルベニア州フィラデルフィアのハードコアバンドの1stアルバム。
2018年にSouthern Lordからリリースされた。Southern LorddといえばSunn O)))のイメージが強いけど結構ハードコアもリリースしており、最近だとXibalbaとか何気にGriefの編集盤とか。
Jesus Pieceは2015年には音源をリリース。ツインギターに選任ボーカルの5人組。ボーカリストのAaron Heardは最近オルタナティブ/シューゲイザーバンドNothingにベーシストとして加入している。

初めての音源がかなりなのあるレーベルからリリースされたり、来日が決まったり、しかもその来日にはハードコアのライブ動画では知らない人はいないであろうhate5sixが帯同したりと、なにやら非常に注目度の高いバンド。
色々見てみると「次世代ブルータル」と称されることが多い。そんなことを言えるのはやはりシーンに一家言あるような方達だろうから、そんな玄人も唸らせる、新しい流れも伝統をきっちりと抑えたバンドなのだろう。どうしても個人的には次世代ブルータルというとCode Orangeが頭に浮かんでくる。なるほど音的には結構似ている。ここでいうブルータルというのはミュートを多用したモッシュパートを曲の中心に据えてくる、ということを言うのではと思う。となると確かにこの二つバンドはほぼモッシュパートがメイン、のような曲作りをしている。ただし前述のXibalbaのようなデスメタルからの影響は希薄。ミュートのリフもあくまでもメタルハードコアに移行されて以降の伝統を用いている、といった濃度。(そういった意味では地下臭はあまりしない。アクが強いがさっぱりしたサウンドと言える。)アクセントしてメインとなる低音に対する高音を効果的に用いる、ノイズをうまく使うという共通点もあるが、聞いた感じ結構印象は異なるなとも思う。
徹底的にソリッドなCode Orangeに比較するとこちらの方が音がややこもっている。その分生々しい威力に満ちている。低音に凝りすぎて一部金属みたいになっているが、表面がざらついていて好みによるが私は好きだ。勢いのある曲に圧倒されるがよく効くとシンプルにまとめる精神で、下手するとオールドスクールな感じすらあるような気がするパートもある。

基本的には脳筋ハードコアなのだが、最後の2曲だけは妙にしっとりとしたドゥーム・アトモスフィアに満ちていて、ダークアンビエント〜ノイズ〜ポスト的なスラッジと言う感じで異彩を放っている。広がりのある音像は明らかに奥行きがあり、ブルータルつまりゼロ距離を理想とする接近戦の音楽とは一線を画す。最後に何気に自分たちの知性をひけらかすと言うよりは、Convergeの「Jane Doe」におけるラストの「Jane Doe」を思わせる(個人的にはConvergeがアルバムのラストに入れて来がちな大曲は大好きなんだ。)やり方だなと思う。Code Orangeもはっきりとメロディを持ち込んだ楽曲をアルバムに入れてくるなど、異なったアプローチを大胆に導入する手法をとっており、なるほどなーと思う次第。二つ以上の異なった要素を楽曲に混ぜると言うより、アルバムに混ぜ込むと言うやり方ね。

リリース日が近いこと、注目度が高いと言うことでなんとなくVeinとセットで次世代と言うイメージ。それぞれブルータルながら目指している音が異なるのも良い。

BROCKHAMPTON/Iridescence

アメリカ合衆国はテキサス州サンマルコスで結成され今はカリフォルニアを拠点とするヒップホップ集団の4thアルバム。
2018年に自主レーベルとRCAからリリースされた。
BROCKHAMPTONは2015年にKevin Abstract(若干22歳)が中心になり、ウェブ上のフォーラムでメンバーを募集する形で結成された。メンバーは10人以上。自らをしてボーイ・バンドと称しており、また全ての制作物やライブをDIYでやっているそうだ。
2017年に「Saturation」シリーズをアルバム3枚分リリースしている。個人的には「SaturationⅡ」がとても好きだ。そんなわけで新作を購入した。

ヒップホップといえば集団である。横のつながりといっても良い。客演も多い。Wu-Tang Clanは文字通り一門である。そんな中でも10人を超える集団というのは珍しいのかもしれない。(私がしれないだけも。)この数の多さを武器にマイクリレーしまくる。性別や人種を超えてとにかくいろいろな声が入り乱れ、また曲もそんな個性を生かせるように非常に多彩でそこが面白いのだ。
ジャズなどの元ネタをサンプリングしてそれをループさせる。全身これビートといった隠しようもなく、と言うよりはラッパーにとっては隠れようもない赤裸々なその上にラップを乗っける。バースがあってフックが来る。そんな形ですら、もはやBROCKHAMPTONは置いていっているくらい意識しない。矢継ぎ早に言いたいことを乗って来る。トラックがしっくり来なければ曲の途中でも大胆に雰囲気を変える。逆にただただ奇をてらっているわけでもなく、とにかくメロディアスなサビを乗っけるわけでもない。これはしっくり来る、と言うマインドで作っているように感じられ、その自由さがこちらにも心地が良いのだ。ゆったりとした曲、張り詰めた曲。ヒップホップ強めの曲、R&Bをおもわせる歌声が印象的な曲。この最新アルバムではギターの音も大胆に使われているし、その他の楽器もよく使われている。どうやら製作陣もかなりメンバーの層が厚いようで、数の多さがそのまま楽曲の豊かさに繋がっているのではないか、と思う。このごった煮感はまさに人種のるつぼアメリカなんでは?と思う。だったら異なる人たちが集まって一つの音楽を作ると言うのは素晴らしいことだ。
個人的には露骨に導入されるテクノパートみたいなのが好きで、このアルバムだと「WEIGHT」は素晴らしい。ビープ音が不穏な「DISTRICT」も無理やりかぶさる歌が良いし、女性の声が金属のように艶かしい。

若いだけあって今の時代をしっかり捉えていると思う。一つは極力(新作はソニー系のレーベルと契約しているようだ)中間業者を挟まない、作り手⇄市場(客)の関係を構築していること。売上と分配の問題と言うよりは速さと質の保っているように私には思える。それから次々ラッパー/シンガーが入れ替わると言う曲の構成も、たった5秒の広告が物を言う「気に入らなければ次へ」の精神が大きく反映されているように思う。つまり初っ端でぐっとつかんでくるわかりやすさがある。非常にキャッチーな作りをしている。

ブログを見ていただければわかるが私はヒップホップには(別に他のジャンルにも詳しいと言うことではないんだけど)詳しくないので、よくよくヒップホップを聴いているフリークの人たちがこの新しい集団をどう考えているのかと言うのが知りたいところだ。ひょっとして苦い顔で見ているのだろうか。そんなことがあってもそれはそれで痛快で面白いね。

ウラジーミル・ナボコフ/ロリータ

ロシアに生まれその後亡命。色々な国(ヨーロッパやアメリカ)で暮らした作家の長編小説。原題は「LOLITA」で1955年に発表された。多感な思春期に読んでなかったので中年になってから読むことにした。
ロリータというとどうしてもロリコン(ロリータ・コンプレックス)を彷彿としてしまうのは私が低俗な人間だからだろうが、ロリータ・ファッションだってよく考えればこの小説がその名称の元ネタではないか。男性は若い女性に惹かれることは間違いない。(中年の私が首を少し回せばそんな意見はよく聞く。もしくは鏡を見れば良い。)その中には若さの限度がいきすぎていて明らかな児童に惹かれる男もいるだろうし、そんな性的嗜好を持つ人は昔からいただろう。ナボコフはそれらにわかりやすく名前をつけたのだ。つまりなんだかよくわからないけどある感情をその慧眼とよく動く指で掬い上げたのだ。センセーショナルな小説であることは間違い無いのだろうが、私がこの小説が一番話題性があると思うのはそこだ。この小説以降未収額くらいの年齢の女児にリビドーを燃やす男性(とその気質)という時には病気(ビョーキ)的に取り扱われる概念が地球上を覆ったかと思うとただただため息が出るでは無いか。

断っておくと現代において児童との露骨な性的な描写を期待してこの本を取る人は少なかろうが(かといって発表された当時に猥褻という理由で具体的な騒動がも違ったことが間違いだったとは思わない。)、読んでみるとやはり性的な描写はあるけど非常に洗練された形で端的に表現されているし、この本の面白さというのはそこ以外にある。というか大分長くて、ほとんど主人公ハンバート君の苦悩が綴られているんだった。中年男の自分の性的な思考を暴露する形を取っているから、はじめは面白くても500ページを超えれば流石に退屈である。そこでナボコフの手腕がわかる。面白いのはこのハンバートは表面的には(読めばわかるが後半に行くに従い体調を崩して行く原因をどこに求めるかということによる。個人的にはロリータとドロレスといる時から酒の量が増えていることに注目したい。)自分が普通から逸脱していることは認めているものの、その思い切った行動に対する後悔や悔恨はほとんどない。はっきりいって彼はドロレスに恋をしているのである。なるほどどうしたって彼女と寝たいというのはあるだろうが、彼女を所有したいし、彼女の気を引きたいし、最終的には彼女に自分に好きになってほしいのだ。年端もいかない少女に劣情を抱いたとして一番簡単なのは暴力に頼ることだが、ハンバートはその方針を採用していない。(ただしこの物語は彼の独白になっているから実のところはどうかわからない。実際ドロレスは作中で「レイプされ」たと言っていたはず。)どちらかというと彼女の行動を逐一眺め、男と話しているだけで嫉妬に狂うような有様。なるほど父親という偽の立場を使って高圧的に自分の意を飲ませようとしているが彼女もなかなか思い通りにはならずに、結果的にハンバートは右往左往しているような節がある。
彼女を失ったハンバートがいよいよ正気を失い一時はストーカーと化し、その後別の成熟した女性との暮らしを手に入れるが、愛しのロリータから金の無心をされればそんな生活を捨て去り彼女の元に駆けつけ、挙句彼女を奪った男性を射殺するのであった。確かにいつの間にか大人になった少女に振り回され、挙句に嫉妬に狂って恋敵を射殺した哀れな男、の物語である。最後のくだりは意図的に喜劇化されて書かれていることもあって、小説的というよりは体面を気にしたようなオチで物語全体をまるめようとしているような節がある。
なるほど病的な小説であり異常な話ではあるが、なんとなく普通の恋愛小説でもある。過去の挫折から似たような女性に惹かれ、彼女をものにするが、袖にされ、結果的には殺人に手を染めるというところも非常に男性的な恋愛小説の典型なのかもしれない。男性的というのが何かというとそれは”身勝手”というところに集約されるだろう。この小説の場合は特に。

MANDY 地獄のロード・ウォリアー

極めてメタル的な映画だった。明らかにブラックメタルのバンドロゴを意識したタイトルもそうだが、それだけじゃない。全体的にやりすぎでくどい演出に、ゴア表現。それらは手段であって目的ではない。メタル的って何か、メタルって何を表現しようとしているのか。解釈は様々だが私にとってはこうだ。世界に対する曖昧な嫌悪感。我ながら苦笑してしまうような表現だけど待ってほしい。この映画のラスト、愛する妻の幻影を見てニコラス・ケイジ演じるレッドは笑った。でもすぐに彼女の不在に顔つきが変わり、そして見知った地球が地獄のような景色に変わる。レッドは狂ってしまったのだろうか。違うね、断然違う。レッドにとってこの世が地獄なのだ。理解し合える誰か(マンディ)がいない地上なんて地獄にすぎないのだ。この考え方がメタル的なんだ。だから私はこの映画が好きになってしまった。
マンディは浮世離れした女性でレッドにとって現世の苦しみを忘れさせる運命の女だった。だから彼女がスクリーン上に現れる時、ある意味では不自然に光り輝いていたのだ。彼女がレッドの前から去った後、ほとんど画面は歪んでなかったはずだ。レッドはある場面では麻薬を吸引していた。それはそうだ。この世は地獄で、マンディという薬がなくなったしまったのだから、彼は半ば狂った徹頭徹尾ソリッドな現実の世の中で正気で孤独だったので残酷さに向かい合うためには、それが必要になったのだった。
敵役のツマラなさは確かにある。全く魅力的でなく、人間的に面白みがない。どいつもこいつもぱっと見個性的だが中身がない。それはそうだ。彼らはこの世の中の悪い部分の代表で、それゆえ誰もないし誰でもある。彼らはただこの世界のいやらしさの結晶であり、レッドはお手製の武器(某バンドのロゴをもじったような巨大な斧)で彼らを粉々に打ち砕くのだ。
しっかり教会も燃やすのだが全体的にはドゥーム・メタルだ。ドゥームすなわち呪い。登場人物たちは全員呪われてているが、それはこの世が不浄だから。全員が悪人になりきれず、一体このくそダメでどうしたら良いのかわからなくて右往左往しているような不安定な感じがある。まさにドゥーム。そうなるとあのラストもむしろ勝ちようのない戦いに沈み込んでいくカタルシスのまったくない感じがしてきてさらにドゥームに拍車(音圧=重圧)をかけてくるようだ。

ニコラス・ケイジはなんとなく昔から好きで、今更「ツイン・ピークス」にハマったのでそのままデヴィッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」を見たらめちゃくちゃ格好良くてさらに好きになってしまった。今作では彼は「苦しい」とか「辛い」とか一言も言わないが、全身から憎しみとそして再現ない疲れと寄る辺のない絶望が感じられてすごく良い。下半身ブリーフで慟哭する姿はなんとなく可愛い。
マンディ役のアンドレア・ライズブローは綺麗を通り越して怖い感じ。年齢不詳な感じで明らかに魔女っぽいけど、二人でテレビを見ているシーンはなんだか妙に可愛かった。コミュ障っぽいところもあって得体の知れない美女じゃなくてちゃんと愛嬌のある人間として書かれていてよかった。

2018年11月4日日曜日

Your Dream is Our Nightmare@鶯谷What's Up

この日もよいライブが被る週末だったが、私は鶯谷へ。大阪のZyanoseが来るからだ。音源が格好良かったからぜひぜひライブが見たかった。
ホテルと無料案内所に挟まれて神社の下にあるのがWhat's Up。建物の上に神社のあの寄付した人の名前が入っている柵(?)がついている。18時開場で概ねその時間に着いたら人がズラーっと並んでいる。なんと。ボヤーっと並んでいると演者の方が私のあたりに並んでいるクラスティーズに「お前らもう入れねえぞ」と声をかける。なんと。でもなんとか入ることが出来ました。お店の人がのちにツイートしていたが、この日お店至上一番人が入ったとのこと。大きさ的には横浜にあるEl Puenteより大きく荻窪にあるPit Barより小さいくらい。ここは縦にやや長い。天井が高く鉄筋が組んである上にスピーカーが載っている。ステージは本当に狭くて演者のバンドが4人いればもうステージに乗れないのだ。Pit Barと違ってこちらは一階である。防音扉もないので音漏れがえぐいことになるのではなかろうか。ホテル街だからあまり騎乗がこないのかもしれない。面白いとライブハウスだ。(一応バーということになっている。)そこに人がパンパンに入っている。本当パンパン。というのもZyanoseは活動休止をアナウンスしており、おそらく少なくとも東京でのライブは最後だということだ。

System Fucker
一番てはSystem Fucker。見るのは二度目。ラスタな風貌だったベーシストがいなくなり、代わりに短髪なのに後ろ髪だけを伸ばした新メンバーが加入。この方は非常に若いそうだが、なかなか堂々として格好良かった。ボーカルの方は前は長いモヒカンだったが、今はサイドもある感じ。周りの人がボーカルの方を指して俳優みたいだねと言っていた。始まってみれば見た目もそうだしパフォーマンスも非常に華がある。
見た目はクラスティーズなんだが、微妙に日本特有のヤンキー文化と融合しているような趣があり、面白い。音は明快なクラストコアだが、反抗心を燃やす粗野さにジャパニーズ・ハードコアの要素を持ち込みかなり叙情的に。短く速いギターソロで哀愁を充填するスタイル。歌詞はおそらく日本語で、「バカヤロー」「このヤロー」と飾らない言葉で強烈に語りかけてくる。(語りかけてくるというのはなんとなくジャパニーズ・ハードコアっぽい気がする。)メンバーは冷静だが、ボーカルはどんどん客席に向かって突っ込んでくる。パンパンなんでこれはやべえなという感じがあってこれが最高。
中盤ではかなりストレートなラブソング(なんせ音がでかいのでちゃんと聞き取れているか怪しいのだけれど)も披露。歌詞が結構びっくりするのだけど、普通に歌う(というより叫ぶだが)ってしまうボーカルの方はやはり格好良い。この人ちょっと独特の世界観があってしっくり理解できるというのではないけどなんとなくその世界観に惹かれてしまうという意味ではTMGEのチバユウスケさんに似ているかもな、なんて思ったりした。

LiFE
続いてはLiFE。大変有名なバンドだが私は見るのは初めて。一応最近リリースされたEPだけ持っている。選任ボーカルにギターが二人という五人組。ギターは役割分担がはっきりされていて一人が明確な輪郭なかっちりとしたリフを弾き、もう一人がかなりノイジーな輪郭が曖昧な音を出す。前者はかなりメタリックで音もでかいのでこれはもう一方がきこえないかも?なんて思ったが始まってみればそんなことはなかった。Eyehategod顔負けの高音フィードバックノイズがえらいカッコい良いのだ。
メンバーものちに振り返っていたがかなり問題続出のライブで、結果的にはギタリストのアンプが二つとも音が出なくなる。(片方は壊れたらしく交換した。)ギタリストの方のシールドが切れる。ベーシストの方がかなり激しく流血する。なかなかないです。というのも非常に狭いライブハウス、狭いステージなのにメンバがー動く動く。特にベーシストの方は縦横無尽に動き、落ちたり転んだりしておりました。危ない。
こちらは完全にクラストコア。それもかなり無骨でおそらく曲も短い。(セットリストを見ると多分30曲くらいやる感じ。)音は思った以上にメタリックではなく、本当にもっと汚いし、とにかくノイジー。耳を突き刺すようなノイズギターが非常に良い。良い!System Fuckerと比べると聴きやすさのとっかかりは非常に希薄に思えるが、曲によっては単音リフで組み立てたようなものがあったりして表現方法もかなり豊か。
私がびっくりしたのドラム。D-beatを中心に組み立てられたプレイで例えば手数が多いか、ブラストビートだとかではない(ただし基本めちゃ速い)のだが、妙に引き込まれる。これはグルーヴ感というやつなのだろうか。とにかく歯切れの良い音がカチカチ決まっていってそれだけですぐに持ってかれる感覚。めちゃくちゃ気持ちが良い。こうなるともはやメロディなどもはや不要で、そういった意味では全体のアンサンブルが肉体的。フロアもえらいことになっていて、さながらぎゅうぎゅうすし詰め状態の満員電車が巨大な力で揺さぶられているようだ。そんな荒々しさのど真ん中でみんな笑顔なのがさらに輪をかけてすごかった。

Zyanose
続いては大阪のノイズコアバンド。Insane Noise Raid!
こちらもギターが二人いる五人組。全体的に完全にクラスティーズなのだが、ギタリストの一人はロンドンな感じのパンクファッションに身を包んでいる。
始まって見るととにかくうるさい。ただ思っていたよりほぼノイズです、という感じでもない。耳がバカになって悟りを開いたのかもしれないが、なんとなく結構曲が判別できるような気がする。音源を聴いているといやーノイズですなーとか思っていたが、ライブで見ると違う。これはクラストコアだ。ちゃんと曲になっている。ただ異常にでかい音で演奏しているだけで。つまりノイズに逃げていない。全く抽象的ではない。音をどんどんでかくしたらこんなことになった、という趣でとにかく元はハードコアなのだ。轟音をつんざく嗄れ声の吐き捨て型のボーカルが非常に格好良いのだ。ギタリスト、ベーシストもコーラスを入れるのだが、これはもう「うぎゃー」と叫んでいるようにしか聞こえない。もう最高。LiFEと異なるのは音の出し方と時間軸に対するその埋め型で、あちらはノイズの中にも緩急をつけて隙間を開けていたが、Zyanoseはもう病的なまでに最初っから最後まで轟音で塗りつぶしていく。さながらブルドーザーのように全てを巻き込んで雪崩のように駆け抜けていく。
フロアの方は一体感というか、こっちも負けてられないくらいの対抗意識で盛り上がっていく感じで大荒れ。
やばい、頭おかしい、病的というのは簡単なんだけど、クラストコアはそうじゃないんだよな。音がでかいからそう思いがちだけど、もっと現実的な闘争だなと改めて思った。


いい気持ちで物販に向かったらすでにZyanoseの音源とT-シャツは売り切れていたのだった…。これはもう慟哭するくらい後悔したのだった。開演前にかっとけばよかった。
まあでも私が買えなかったということは他の誰かが買えたということなのだ。
楽しかったなあ。

2018年10月28日日曜日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

彼は彼女を愛していたのだろうか?
少なくとも彼自身は愛していないと思ったのだろう。だって彼女が死んでも涙も出ないのだから。涙が出ない→悲しくはない→彼女との結婚は失敗だった。彼女は裕福な家の出で、結婚したことで自分の未来が開けた。おそらく彼はそんな状況に引け目と罪悪感があったのだろう。彼にとって自分の家がそんな失敗した結婚と、打算の上に築かれた非常に醜い人生の象徴になった。見た目は綺麗なのが、いかにも自分らしい。そう思った彼はそんな象徴を破壊することにしたわけだ。

ところで思ったのだが、人というのは感じ方と表現の仕方は様々だ。悲しいから涙が出ないことだってあるだろう。そんな風に思ってしまった。あまりの衝撃に心が麻痺してしまった。心の防衛機制が働いたのだ。流石に車で同情していた妻が事故死したような過去はないが、私もそんな風に妙な状態に陥った(私の場合は文字や音の意味がわからなくなってしまった。)ことが、かつてあった。だからすぐにこう思った。主人公は悲しくないわけがない。でも周りの人もそして自分自身もそこに気がつくことができなかった。でもいいですか。まともな人が身の回りのものを分解して回るだろか。大学の授業で心理学の教授が言っていたことが個人的には面白くてずっと覚えている。曰くこうだ「人の考えていることや気持ちは決してわからない。だから心理学というのは心に刺激を与えて、その後アクション(行動や動作)をみてそれでその人の心理状態を判断する」のだと。つまり妻の死という刺激に対して、彼の反応は異常だ。だから彼は彼女を愛していたのだった。往往にして私たちが愛しているものを大切にできないように、彼も彼女をつねに何よりも大切にしていたわけではなかったけど。(そして彼女の方でもそうであった。)

カウンセリングとはまず話すこと。主人公が出会った不思議な親子は彼に話させることで、彼を癒していった。心の平穏を取り戻した彼はそうして気がついたのだった。彼女を愛していたと。そしてもう半分くらいぶっ壊れた、自分でぶっ壊した家で相変わらず寝起きするのだった。だってそこが彼の居場所だからだ。(といっても壊れた家に住み続けるのだから彼は結構変わり者ではあると思う。)

よくいう人間が書けているというのはどういうことかというと人間の凹凸をよくよく表現しているということではないかと思う。義父は嫌な奴だなと思ったけど、最後まで見るとそうではない。嫌な奴ではあるけど、嫌いになれないのだ。奨学金をもらっている若造もきっとそうなのだろう。ギレンホールはいい役者だなと思ったんだけど、顔や態度だけでそんないいことより嫌なことがある社会というものを表現している。どう表現しているかというと言葉では言えない。でも人生を一言で言いあらわせることができるわけなどないのだ。生きている人は死ななかった人なのだ。彼が最後走り出せて本当に良かったと思った。

25 ta Life/Strength,Integrity,Brotherhood

アメリカ合衆国はニューヨーク州ニューヨークシティ、クイーンズのアストリアで結成されたハードコアバンドの3rdアルバム。
2009年にBack ta Basics Recordsからリリースされた。
1991年に結成されたバンドで2002年には一度解散し、その後メンバーを変更しつつ現在も活動しているようだ。
ハードコアを調べていると必ず「極悪ハードコア」という単語と一緒に出てくるバンドで気になっていたので購入してみた。バンド名はおそらくスラングだろうか。昔読んだ本に中国の犯罪組織は本当の組織名を隠すために画数で表した隠語を使う(例えば324のような)と聞いたことがある。極悪という言葉や刺青のびっしり入ったメンバーの容姿をみてなんとなくそんなことを思い出した。

極悪ハードコアというのはおそらく日本特有の呼び方だし、激情ハードコアのように実はきちんと音楽性を説明していない。場所も場所だし音的にはニューヨーク(シティ)のハードコアということになるのだろう。オールドスクールからシンプルな攻撃性を受け継ぎ、メタリックな音で武装したタフなハードコアだ。今聞くとモダンというよりはオールドスクールに近いような印象。力強いがその方向性が、例えば抒情派ニュースクールなどとは明確に異なる。個人的にはオールドスクール・ハードコアに足し算して作ったのがこのバンドの音楽性なのかな?と思っている。
「闘争とストリートを忘れるな」という7曲目からしてかなりのタフガイさが伺える。なるほどメタリックにザクザク刻んでいくリフは非常にモッシーだ。ライブはきっと恐ろしいことになるのだろう。極悪だ。ただ極悪と想像するよりもっと喜怒哀楽がある音像をしていて、曲によっては軽快ですらある。シンプルなリフに唸るベースが乗るとパンキッシュといってもいいくらい気持ちの良いオールドスクール感。感情豊かなギターソロやコーラスワーク、そして独特の男臭い哀愁。これは足し算だなと。音的には非常にモダンだし、どうしてもこれはモッシュパートだな、という風に考えてしまうけど、根っこはオールドスクールだ。吐き捨て型のボーカルもメタリックなリフに乗ると極悪だが、疾走パートに乗っかるとそれはそれでまた違った良さがある。
当時はそういった視点で捉えていなかったけどVision of Disorderもニューヨーク州のバンドで、その音楽性もハードコアをベースにメロディアスな歌メロというもう一つの要素を乗っけていた。音楽性は全然違うけど、何かしらひょっとしたらその考え方に共通しているものがあるかもしれないと思った。

歌詞に結構「Hardcore」という単語が含まれてて、自分たちこそハードコアなんだという気概を随所に感じ取ることができる。極悪というのは音もそうだし、もっとアティチュード的なものが含まれるに違いない。

Nothing Clean/Cheat

イギリスはイングランド、レスターのパワーバイオレンス/ファストコアバンドの1stアルバム。
2018年にAbusive Noise Tapesをはじめ複数のレーベルからリリースされた。私はBandcampで購入。
SNSはやっているもののあまり情報を描かないタイプのバンドで、おそらく2014年以前に結成されている。(FBの登録日とDemoのリリース年から。)今はドラム、ベース、ギター、ボーカルの4人組。今までいくつかの音源をリリースしており、中にはSpazzのトリビュートも含む。

今時パワーバイオレンスも珍しくないわけで、色々なバンドがそれぞれ個性を出そうと奮闘している。一リスナーとしてはそんな切磋琢磨が本当嬉しいわけだけだ。このNothing Cleanもそんな波の中で生まれた比較的若いバンドなのだろう。これがびっくりするくらい素直なパワーバイオレンスなのだ。特徴がないというわけではない、もちろん。ただことさらわかりやすい要素を入れていない。最近はブラストに乗っける速いパート、それと対応する遅いスラッジパートを入れて短い曲の中にメリハリのある展開を込めるのが流行なのかもしれない。このバンドは遅い方にはあまり力を入れていない。もちろんテンポチェンジはかなり頻繁にやるし、遅いパートもあるのだけど、ただこれはもう地獄だぜ〜苦しいぜ〜というわかりやすさ、がないのである。スタート一直線走り出したらもうあとは止まらないような、そんな気迫がある。100%ケツに火がついていて、止まったら死ぬ、そんな気迫すら感じる。音的にはきっちりとクリアでメタリックな音にアップデートされている。だから音楽的にはもちろんパワーバイオレンスもそうだし、ガチガチに音をアップデートしたファストコアにも聞こえる。Capitalist Casualtiesのような凝ったリフを劇速で演奏する、というのとはまた違ってかなり速さにパラメータを全振りしているような趣があって、その代わりに失うものがあっても気にしないスタイル。全ては速さ。全ては勢い。そうなると持てないものは捨てていくしかねえな。そんな覚悟だ。なんて言ったって41曲だ。それをぴったり24分00秒に込めたのだ。

何かを追求するなら全部を持っていくことはできない。なるほどこの楽曲は確かに抑揚はないかもしれない。展開だって乏しいかもしれない。同じパワーバイオレンスだってもっと豊かな表現をするバンドはたくさんいるだろう。ただそんなものは糞食らえだ。ファストコアってなんだ。速い音楽だ。速いハードコアだ。ファストコアはやべえ。しかりだ。しかしはじめっからやばかったわけではない。速くて異常だったからやばくなったのであって、Nothing Cleanというバンドはやばい音源をやる、のではなくファストコアをやる、がその出発点になっている感じがする。ピュアな動機であり、なるほど結果的にはやばいのだが、そこには形式だけに囚われない(つまりいかにも頭のおかしそうなハーシュノイズを入れたり、病的なモチーフをジャケットに引用したりということをしない)本質的な原動力がある。

私のようにただただ流行りだからだという理由でパワーバイオレンスに興味を持っている人間というのはよくよく軸がないのでブレがちだが、その軸をぶっ飛ばしにかかってくるのがこの音源。いやー格好いい。妙に反省しちゃってファストコアってこういうものでした、ってなってしまう。ぜひどうぞ。(ちょうど24分で書けたのでここまで。)

Enodn/Boy Meets Girl

日本は東京のノイズバンドの3rdアルバム。
2018年にBlack Smoker Recordからリリースされた。Black SmokerといえばThink Tankのメンバーが運営する日本(主に)ヒップホップの作品をリリースするレーベルなのでかなり意外だ。DJ NOBUというアーティストとBlack Smokerがコラボしていくつか音源を生産するラインを作ったらしく、その第一弾がこのアルバム。
前作「Through the Mirror」で話題をさらったバンドがKurt Ballou順番待ちの列に並ぶことなく、Boriのメンバーとさっさと新作を作ってしまったわけだ。その間たった1年。

バンドがアナウンスしたところだと、このアルバムの楽曲はいきなりライブでプレイしないそうだ。それくらい過去作品とは趣が異なる。
事前に作られたMVを見ればわかるが、ギターがストラトタイプのものからGibsonのSGタイプのものに変更されている。要するにギターの音が変わっている。バンドが作品によってギターを変えることなど珍しくもなかろうが、Endonの場合は少し違う。ノイズから始まったバンドだから、そことぶつからないようにギターの音はあえて軽くて乾いたサウンドで設定されていた。前作ではそれが滑らかに動いてメロディアスさ=わかりやすさを曲に付加していたけど、今作ではギターがうるさい。バッチリ低音が出てていてディストーションをかけたベースのような役割になっている。かと思えばめちゃくちゃロックなリフが出てきて曲を導いたりもする。(6曲目「Final Acting Out」)
さらにこれは一番大きいかもしれないが、今作では曲によっては歌詞がある。ラストの「Not for You」に関していえば日本語の歌詞がかなりはっきり聞き取れる。結構事件でバンドの根底を揺さぶるような大きな変化じゃないかと思う。(あとで述べる。)
Endonを始め知った時そのバンド名(〜ドン)、ボーカリストの坊主頭と振る舞い(出血していたこともあったと思う。)、出音からなんて恐竜的(野蛮な動物的な意味合いで)なバンドなんだろうなと思ったものだ。その明確に認識が変わったのが前作であり、ノイズをバンドアンサンブルでやることでその向こう側、ポストノイズの地平線が見えるようなこれは全く革命的なアルバムだった。また積極的にバンドがわが色々なメディアで発信したメッセージもこちらを煽りながらも、色々な意図や主張を垣間見せる知的なものだった。バンドに憧れたノイジャンたちがいよいよバンド化した、というのはだからわかりやすいストーリーだった。例えるなら手のつかない不良がいよいよ更生した、みたいなイメージだろうか。今作におけるギターの音の変化や貸しの導入もおおよそその流れもあると捉えることもできる。MVやアートワークも極彩色で空電する白黒ノイズが色を手に入れた感もある。Endonはセルアウトしたのか?コマーシャル化したのか?音楽を金に変えるゲームにいよいよ本腰を入れ出したのだろうか。私はどうしても否だろうなと答える。部分的には分かりやすさがあっても、「Boy Meets Girl」全体で見れば非常に混沌としているからだ。このアルバムをわかりやすいハードコアバンドのアルバムです、と形容するのは無理がある。曲順を追ってドラマティックに展開していく「Through the Mirror」に比較すると圧倒的に整理されていない。雰囲気的には「MAMA」やもっと遡って「Acme.Apathy.Amok.」に通じるところがある。原点回帰ではなくて、随所に歴史の重みを感じさせる技巧がみれるが、全体的にはやはり拡散していくように自由で不規則だ。鏡を抜けた先に家を焼いて見せたあの光景はなんだったのか、という唖然とした気持ちだ。ここにあるのは野生だ。短い曲はさらに早く短く、ロック的な鋭角さを持ち合わせ、長い曲はさらに遅くなった。(1曲しかないのだが、存在感があって個人的には「Acme.Apathy.Amok.」を一番彷彿とする。)ただメロディに代表されるキャッチーさは(またもや)意図的に配され、全体的にはノイズバンドの面目を躍如する出来である。

今作では前作と違ってあまりバンド側からのステートメントがないので、そちら方面からこのアルバムの意図を見ることができない。個人的にはあえて前作に唾棄するような意図があるように思えるし、その過激さこそ変わらないバンドの本質のようにも思う。だとするとバンドとしては全くぶれていないわけだし、勝手にバンドに思い入れしていた私の頬をこのアルバムが叩いたわけだ。呆然としつつニヤニヤしてしまうのはきっと私だけではないと思う。いいね。いいね。
あとは来年のライブを見ればまたこのアルバムを立体的に考えることができるだろうなと思っている。みんなかって聞いたのかな?感想を知りたいですね。

バルガス=リョサ/密林の語り部

ペルー出身の作家の長編小説。
原題は「El Hablador」で1987年に発表された。
ノーベル文学賞も受賞したラテンアメリカ文学では巨人のような存在なのだろうが、私は読むのは初めて。ラテンアメリカ文学というとボルヘスはいったん脇に置くと、パッと思い浮かぶのがガルシア=マルケスくらいだろうか。とにかく特徴的な人物がひしめき合って独特の熱気を醸し出しているようなイメージ。一方このバルガス=リョサはちょっと違う。出てくる人物たちは(概ね大学出ということもあって)洗練されていて物腰も柔らかく、そして思慮深い。じゃあ知的な小説かというとそれも違って、タイトル通りペルーのジャングルに住むマチゲンガ族という少数民族を扱っているので、小説の半分くらいが濃密なジャングルのむせかえるような熱気にあふれている。

物語としてはやや捉えどこが難しいと思っていて、はっきりとした筋があるわけではない。25年以上前に別れた友人の足跡を確認する話であると言えるし、少数民族であるインディオの生活に極端にクローズアップしたルポ風の作品でもあると言える。ただ構造はっきりしていて、それは近代社会とそして密林である。両者の間には曖昧な緩衝地帯、つまり白人側の密林を侵略してやろうという野望の前線基地があるものの、実は結構明確に境界があり、その向こう側というのは近代的な文明生活を営むものたちからするとほとんど未知の、野蛮な世界なのだ。両者の摩擦というのもこの本のテーマなのだが、そこには闘争というカタルシスはなく、常に移動する臆病な民族であるマチゲンガ族はただただ近代文明に押しやられて搾取されるか、争いを恐れてジャングルのさらに奥地に潜っていくかなのだ。

この話を読んで思い出したのがマイク・レズニックのSF小説「キリンヤガ」だ。これは遥か未来にアフリカの少数民族が自分たちだけの惑星で自らの後進的な文化を守ろうとするもの。しかし近代に触れた人々は否応なく近代化してしまうのだった、という内容。文明というのは概ね線的に捉え得られているので、良し悪しが出る。つまり進んでる方が遅れている方より優れているのである。だから先進的な文明にいるものは、後進的な文明に属する人々に技術や知恵を譲渡して感化してやらないといけない。その分け与えるという行為は多くの場合宗教的情熱に後押しされて、賞賛されるべき素晴らしい行為(=美徳)とされる。ところが主人公の友人顔に大きな痣があるユダヤ人のマスかリータは否というのであった。要するに文化というのは線的ではなく、それぞれが独自の系統を歩んでいるというのだった。文明を尊重するというのは異なるそれらに対して何もしない事にほかならないというわけだ。
バルガス=リョサはマチゲンガ族を至上のものとして持ち上げるわけでもなく、語り部の口調でありのままに紐解いていく。なるほど惹かれるものはあっても、全てを投げ捨ててその中に入っていく気には正直私にはなれなかった。過酷すぎるのだ。またバルガス=リョサはこれをただただ犠牲者となり消えていくものとしても描いていない。ここにあるのは私たちと違う人たちなのだと、ただそういうわけなのだった。三浦建太郎の漫画「ベルセル」で主人公が宣教師にこういったことがあった。「神にあったら言っとけ。ほっとけってな。」教科するというのは、それまで持っていたものを捨てさせることに他ならない。

文明の最先端にいる文化人である主人公とマスカリータはその後結局一度の再開することがなかった。彼らはもう別の文化に属する人たちになったのだ。異なる文化同士の断絶(その断絶こそが良しとされる。)と、そしてある人は自分次第で全く違う誰かになれる、ということが示唆されており、それは過酷なようでいて実は優しい世界である。

2018年10月20日土曜日

志人・玉兎/映世観-うつせみ-

日本は東京を拠点に活動する?(まだ高田馬場にアジトがあるのだろうか)ラッパー/詩人のアルバム。
2018年にTemple ATSからリリースされた。
近年色々なアーティストとのコラボレーション作がリリースされていたが、今作は久しぶりの単独作品。志人はヒップホップデュオの降神のメンバー。確か高校生の頃にタワレコでアルバムを買ったっけ。当時はニューメタルばっかり聴いていて、友達に貸してもらった2Pacもピンとこなかったんだけど、降神のアルバムは両方よく聴いていた。MSCのメンバーが客演として参加していた1stから独自の世界観を打ち出していたが、2ndでそれが開花。完全に他に類を見ない存在感を示していたように思う。
2nd以降はラッパー二人は各々作品を発表しだした。(ライブはやっていたと思う。行った事ないのだけれど。)ソロ1作目その名も「メルヘントリップス」から幻想的なヒップホップを打ち出していったなのるなもない。対して志人は「Heaven's恋文」であまりリフレインがない、浮遊感はあるがあくまでも生活に根ざした感じのあるヒップホップを展開していた。二人とも俺対何か、というヒップホップ(やその他の若者が支持する)文化から一歩以上は脱却しているところ、またアンビエントな楽曲という意味では共通していたが、各々異なった世界があり面白い。

志人作品は熱心に追いかけているわけではないので聞くのはDJ Dolbeeとの共作「杣道EP」以来だろうか。相変わらずブレてない。アンビエントで浮遊感すらあるトラックの上にわかりやすいリフレインを排した独特のリリックが乗る。これはまさしく詩であり、tだし詩にしてはやけに具体的であり同時に現実からある程度遊離している。(なので具体的表現であっても詩なのだ。)例えばこうだ。隣に住んでいる顔だけ知っている人が失踪した。業を煮やした大家はその人物の部屋の荷物を撤去。あなたは乱雑に投げ捨てられたその男のノートをなんとなく手に取った。そんな感じだ。志人の書く詩は物語的だ。それゆえ長く、そして始まりから終わりを目指して続いていく。(多くの歌詞は繰り返す形態をとっている。)韻をふむという縛りを逆に応用したような飛躍した言葉の羅列は美しく、幻想的であるが、なのるなもないとは異なり、やはり志人の根底には現実世界の生活がある。そこから始まり、思考は広がり空想となりながらも足は現実の地についているのだ。だから彼の詩は土っぽく、暖かい。まるでブルースだ。
ヒップホップでこれを再現となると難しいのだろうけど、志人とOntodaはじめとするアーティストたちはことも無げにやってのけている。あまりにスムーズなので本当違和感がない。しかし明確に上物は確かに浮遊感のあるアンビエントでも、ビートはしっかりヒップホップだ。(ただし明確に低音を強調することはしない。)この温度差がよくよく彼の書く物語/詩にあっている。志人のラップは抑揚をつけて勢いで進んでいくタイプではなく、ポエトリーリーディングの趣もあって淡々としかし決して遅くはないスピード(これかなりよく口が回ると思うくらい)で流れるように続いていく。こうなると俄然ビートが、その決してわかりやすくないラップの背中を押していて、こちらとしてはビートに乗って詩が頭に入ってくる。拡散していく前衛性というよりは、実はかなりかっちりとした音楽だ。「線香花火-Short Liverd-」などはかすかなメロディのイントロをそのままずっと引きずっていく曲で、このテーマが全体を支配している。メロディの欠如というヒップホップの特性(当然弱点ではない)をかなり大胆に補填している。直線的なリリックを円環に閉じ込めたみたいな、ここでもそう言った二重構造があるように思う。

バックトラックのアンビエンスもあって息遣いすら聞こえてきそうなラップ。ビートを手に入れて非常にエネルギッシュだ。表面を撫でて優しい音楽なんて言ってはいけない。なるほど音はうるさくはないが、かと言ってエネルギーがないなんてことにはならない。むしろ生々しい呼吸がそのままパッケージされているかのようだ。「Heaven's恋文」には「交差点の動力」という曲があったかと思うが、今回もそんな生々しい生活の音がその背後にある喜怒哀楽をよくよく表現している。一体この偶然出会った不思議なノートが日記なのか、想像の世界なのかは判別がつかない。とても好きだ。

ジャック・ケルアック/オン・ザ・ロード

アメリカの作家の長編小説。
1957年に出版された。原題は「On the Road」。
私はブレないポーザーなので学生の頃にはもちろんバロウズの「裸のランチ」を購入した。俺はお前らとは違う。一風変わって、そして”わかっ”ている人間なのだ。俺はビートニクなのかもしれない。というわけだ。ところが「裸のランチ」は当時の私にはさっぱりわからなかった。多分途中で挫折した。「俺今裸のランチ、読んでいるんだよね。って知らないか、ふふふ」とか友人に言わなくて本当によかったなあと思っている。
さてビートニクとは合わねえなと思っていたのだが、なんとなくケルアックを読んでみようという気になった。「路上」だろと思って探したら今は「オン・ザ・ロード」のようだ。ボブ・ディランなど色々な人物に多大な影響を与えたほんということは知っているが、あとはよくわからない。(ボブ・ディランすらちゃんと聞いたことがないのだ。)

物語というのは動くことで始まるといっても過言ではない。逆にいう動かないと何も始まらないのだ。「こんな場所には居られない」みたいな歌詞は馬鹿にするくせに、私は他動的な人間に対してすごく憧れがある。この本に出てくる人はみんな他動的だ。一つところにある期間居続けると居てもたっても居られなくなっちゃうのだ。私なんかは行き先がどこで、何に乗って、いつついて、何を食べるなんていちいち決めないとダメなのだが、ビート・ジェネレーションはそうではない。目的地があって(必ずしも目的自体がなくても良い)あとはそこに向かうのだ。みんなお金がないからヒッチハイクをする。車が捕まらないなら野宿をする。お金を送ってもらう。お金を借りる。お金ができたらバスに乗る。食べ物がなかったら商店から失敬する。目的地に着いたら大いに楽しむ。つまり行きずりの仲間たち、それから目的地の仲間たちと酒を飲んで騒ぐ。恋をする。そしてまた長い旅に出る。「路上」というのは最初ヒップホップ・カルチャーにおけるストリートのことかと思ったが、実はそうじゃない。ストリートが地元的な意味合いを含むとしたら、ロードというのは文字通り道なのだ。ビートたちはとにかく動き回るのだ。仲間はいても地元がない。これは面白いと思った。彼らはギャングのように争わない。なぜなら誰も奪うものなんて対して持っていないのだ。彼らはべつにリッチになりたいわけじゃない。ただただ楽しくやりたいのだ。この本がすぐにヒッピーたちの愛読書になったのもわかる。
ビート・ジェネレーション、あるいはビートニクといえば格好いいが、要するにボロボロの服をまとった若者たちだ。時には万引きなどの違法行為も働く。ホーボーといって鉄道にただ乗りしてアメリカ合衆国全土をさまよう移動労働者がいるけど、概ねホーボーより若くて無鉄砲で怠惰なのだがエネルギーがあるのが彼らなのだ。決して格好良いものではないと思う。(私は子供の時からなんとなくあんまりヒッピーが好きじゃないというのもある。)周りからしたら定職につかずにフラフラしている厄介な奴らである。(ガキが憧れるような悪さもない。)彼らは結果的には反抗しているのだが、言動はそうじゃない。というか他人や社会に対するわかりやすい怒りの表明みたいなのはこの本、全然書いてない。ただ路上の旅で起こる悲喜こもごもを書いている。軽薄さではない。けどこの軽さはなんだろう。エネルギッシュだが爽やかだ。
間違いなくこの衝動の中心にはディーンがいる。実際のモデルがいる(というかこの本はほとんどケルアックの自伝的な小説)彼をして今の私たちが例えば躁病だとか、発達障害だとか(これは本当素人の私が適当言っているだけです)言っても意味がない。彼は常にトラブル・メイカーだ。サル=ケルアックは彼を「天使」と言っている。天使とは何か。聖書は一旦置いて、天使とは無垢のことだ。何に対しても新鮮に驚き、感動し、体を動かし、声を張り上げ「いいね!いいね!」と叫ぶ。およそ現実社会とは乖離している彼ディーンこそが真のビートニクだった。何に対しても常に先入観なく接して、自分の感覚を楽しむ人間こそ。実際作中でもサルの友人の中でもディーンを厄介者と思っている人らが少なからずいる。サルはディーンほど振り切れないから、半分は路上に、そしてもう片足は社会においていてそこに葛藤がある。終盤のディーンとの別れのシーンはなんとも物悲しい。単純に大人対子供という構図じゃない。ディーンたちはそんなところ見てないんだよね。彼らはただ感動したいのだった。そのためには移動すること。動くことで物語が始まっていくのだ。

2018年10月14日日曜日

トルーマン・カポーティ/冷血

アメリカの作家によるノンフィクション。
原題は「In Cold Blood」で1965年に出版された。

カポーティといえばいちばん有名なのは「ティファニーで朝食を」なのだろうか。
(ちゃんと読んだことも、有名なヘプバーンの映画も見たことがないのだが。)
アンファン・テリブルと呼ばれた早熟の天才カーポティが書いたこの本は、しかし可憐さとは無縁な一家4人が殺害された実際の事件を長い時間かけて丁寧に追ったもの。

最近読んだ米原万里の「オリガ・モリソヴナの反語法」。あればつくづく女性が書いた物語だった。
ある闘争(それ以上だが)が起こった時、どんな過酷な状況下でも生き残ることが常に頭にある女性が、自分の手の届く範囲にある別の生命をなんとか助けようとする話だった。
彼らは自らお腹を痛めて命を生むのでその重たさをわかっているのだった。
一方この話は徹底的に男性の話だった。彼らはみずから血みどろの闘争を引き起こし、そして人の命をあっけなく奪っていく。醜悪な言動により自らの死を免れようとするが、いざその時が目前に迫るとまるで些末な問題かのように(たとえそれが去勢に過ぎなくても)死んでいく。

殺される人とその周辺、殺す人とその周辺を丁寧に描いていく。ルポタージュでありながらこの本は物語でもある。
本人の口から、そして被害者に関してはその隣人、知人たちから執念深く聞き取り、それをもとに事件当日とその前後の当事者たちの足跡を丁寧にたどり再現していく。
実在の事件に取材しながら、本全体ではほぼ小説の趣で語られている。(wikiによるとノンフィクション・ノベルという手法とのこと。)
そんな中で私はこの本は、二人組の殺人者の一人ペリーの物語だと思った。カポーティはあくまでも中立的な立場で事件を描こうとしているのだろうが、実際には(これは基本的にすべてのルポタージュで同じ現象が起こると思うが)かなり記者の心情がその内容ににじみ出ていると思う。よくも悪くも偏っており、そういった意味では書かれている人物たちの姿にもバイアスがかかっているのだろうが(繰り返すがある人がある人を考える時バイアスがかからないのはほぼ不可能であるはずだ、なのでこの偏りは全く問題にならないと私は思っている。)、普遍的に眺める通常のポタージュとは一風違ったリアリティと臨場感(と読み物としての面白さ)が生まれている。
殺人犯の一人、ペリーはインディアンとの混血で背が低く、両親が早くに離婚した半ば崩壊した家庭で育ち、子供の中で唯一彼だが教育が受けられない中過酷な労働に従事してきた。4人いる兄弟のうち後に二人が自殺した。ペリー自身も自身の居場所を長いあいだ見つけることができずに日陰者として生きてきた。教育はなかったが自力で獲得した教養が自慢で、特に音楽関連には確固たる才能があった。生活は苦しかったが夢想家としての一面もあった。血気にはやる相棒ディックに対してペリーは常に冷静だった。押し入ったクラッター一家に目当ての金庫がないとわかれば早々に引き上げることを提案したのもペリーであり、長女に暴行しようとしたディックを止めたのも彼だった。だが最終的にナイフを振るい、銃の引き金を押したのもやはりペリーであった。自分の惨めな人生のツケをクラッター家の4人が払うことになった、とは彼の言である。全く身勝手な言い分であるとは百も承知だ。しかし、なんとなくその気持ちがわかるなと思ってしまったのも事実だった。どんなひどい環境で育ったとしても責任能力のある人物が自発的に罪を犯せばそこに責任が発生し、その罰から逃れられないであるべきだ。私はペリーはろくでなしであり、人殺しであり、社会というか人間の文明に損傷を与えているとは思うが、彼が根っからの殺人者で死んでくれたほうが世のためだともやはり思わないのであった。(そもそも個人が罪人を裁くのは不可能だ。裁くのは法だ。方は民意を反映すべきだが、個々人が私的に人を裁くことはできない。)これが情状酌量という概念だろうか。

異常に事件に対して接近したノンフィクション。カポーティはあくまでも自分の主張を直接表現することは最後まで避けているが、ペリーへの同情的な立場は隠しようもない。
人にはそれぞれ物語がある。それを知らなければ人にとって他人は顔のない人間ですらない。罪のない4人を殺せば吊るされるのは当たり前だというわけだ。私はそれが間違っているとは思わないが、それに到るまでの隠された紆余曲折をこの本は暴こうとしている。だから読む人の気分をいくらか害するかもしれない。

2018年10月8日月曜日

Nothing/Dance On.The Backtop

アメリカ合衆国ペンシルベニア州はフィラデルフィアのシューゲイザーバンドの3rdアルバム。2018年に引き続きという形でRelapse Recordsからリリースされた。
前作リリース後にベーシストが交代。来日した時に見たのだが、色白の長髪で子供の落書きのような可愛いタトゥーが腕に入っているのが印象的なNickBassestt(この人はDeafheavenやWhirrのメンバーでもあった。あまり一つのところにじっとしていないタチなのかもしれないね。)に変わり、Jesus Pieceのフロントマン(ボーカル)のAaron Heardがその穴を埋めた。Jesus Pieceは同じくフィラデルフィアのバンドで私もデモ音源を聴いているがかなり強面なハードコアだ。ここら辺の人選は元々ハードコアバンドのメンバーとして活動していたDomenic Palermoによるものだろうか。

一聴したところどちらかというと前作「Tired of Tomorrow」を引き継ぐものかと思ったが、何回か聴いてみると音の作り的には1stの「Guilty of Everththing」に近い。というのもわかりやすく分厚い音に埋もれるようなシューゲイザーをやっている。ボーカルにリヴァーブのような空間系のエフェクターをかましているからか?と思ったが、2ndを聴いてみるとそちらでもかけていた。MVも作られた「Eaten By Worms」(私はこの曲がすごい好きだ)は轟音的な意味では確かにシューゲイザーだが、硬質な音の作り方はどちらかというとオルタナティブ/ハードコアを感じさせた。そこらへんの印象もあって「Tired of Tomorrow」は結構ソリッドなイメージ。対するこの新作は改めてサウンドプロダクションを1stの頃に立ち返らせた感じ。
ただし音の軽さ、というか音の抜き方というか、肉抜きの仕方は2nd的であの低音が重たくのしかかる1stとはやはり印象は異なる。シューゲイザーというそもそもからして陰気なジャンルで、暴行罪で前科アリという自らのハードコアな来歴をフルに使ったリアルな陰鬱さ(「俺は銃は持っていないし膝をついているがお前は俺を撃つだろうね」と警察官に対して思いを述べるタイトル曲)を構築してきたバンドがNothingだけど早くも2ndでは「Vertigo Flowers」なんかではそこにとどまらない世界観を出してきた。(前述の「Eaten By Worms」などでしっかり陰鬱さを表現しつつ。)今作でも特に苦しいふりはしないとばかりに陰鬱な曲のみを量産する内容ではない。「Hail on Pakace Pier」なんかは前述の開放感の次の作風だし、壁のような轟音にも拘泥を見せずに8曲目「The Carpenter's Son」などはむしろ音の数を究極に減らし、もったりとしたアルペジオで曲を引っ張っていく。ドラム以外のパートにはリヴァーブがかけられており、全てがスローモーションだ。轟音で眩惑する流行のゲイズ系とは明らかに一線を画す。シューゲイザーでは多用されるやり方なので、音楽的なもう一つ(もう一方は出自でもあるハードコア)のルーツである、そちらに接近しているのだと思う。

個人的にはどうしても「Dig」でやられたクチなのであの重たくのしかかるような、聴いていると音の波に浮かぶじゃなくて、むしろ実体を持ったそれに圧殺されるような、閉塞感を持った轟音がどうしても懐かしく思えてしまうが、それでも「Blue Line Baby」などの高揚感にはやられてしまう。好きなバンドだからしようがない。

Frail Hands/Frail Hands

カナダはノバスコシア州(調べてみるとだいぶ端っこの方で、ほぼ島に見える半島)のハリファックスのスクリーモバンドの1stアルバム。
2017年に自主リリースされた。
女性ボーカルの五人組のバンド。バンド名は「脆い手」という意味だろうか。なんだか意味深だ。(Dead Kennedysのアルバムのジャケットが思い返される。)

全10曲でランニングタイムは15分。
激しく速い音楽だが、ファストコアでもグラインドコアでもパワーバイオレンスでも無いのだ。エモなのだ。割としょっぱなからクライマックス感出してくるのでエクストリームな感想を即座に持ってしまいがちだ。それは彼らの作戦で、別にそれにハマるのも気持ちが良いから問題ないのだが、何回か繰り返して聞くと彼らがスクリー(エ)モバンドだということがわかる。女性ボーカルはほとんど叫んでいるが、叫んでいないパートも、ちょっとはある。そして曲が練られている。リフレインがこれでもかというくらい削られているので、圧倒的な瞬間風速的なイメージがあるが、例えば劇速でブラストをぶちかまして拍の頭で叫ぶ、というスタイルとは違う。これを持ってして歌っているというのはなかなか断言してしまって良いかわからないのだが、バックトラック、つまり演奏を聴けばちゃんと曲になっていることがわかる。だいぶ複雑だ。(前述の通り繰り返しがあまりないので掴みにくいというのもある。)大抵非常に短いが、この手のジャンルとは切っても切れないアンビエントなアルペジオ、滑るように展開していくメロディアスなトレモロリフ。静寂と轟音を同居させたダイナミズムがバンドアンサンブルの限界(つまり余計な音は使わない)に挑戦するかのように短い曲の中に詰め込まれている。だから単に「ブチギレフィーメール・ハードコア」といってしまうのは乱暴。
不安定に揺れる心をそのまま曲にしたというのはいかにも混沌としている。ただ不安定に直線を軸に軌道を描くのではなく、行き当たりばったり猪突猛進を繰り返していくような趣があって、それが不安定なのだ。それこそが不安定といっても良い。軌道が読みにくいのが、混沌としているし、聴いているものを混乱させる。Oathbreakerに似ているところがあるが、あそこまで混沌の元となる感情にしても非常に整然とわかりやすく並べるあちらと比べると、こちらの方が整合性がない。個人的に面白いのは整合性がない感じを大抵のバンドはヘヴィネスで表現しようとするが、このバンドの場合は割ときちんとエモで表現しているところ。結果的にわかりやすさは失われているわけだけど、そんなこと知ったことかという態度が非常に格好良いのだ。こういう比喩的な表現は良い。この時比喩というのは直接それとは言わないで、何かを表現することで、本でも音楽でもそれが醍醐味じゃないかと思っている節がある、自分には。
尋常じゃない感じは日本の激情に通じるところがあるけど、こちらはハイテンションの裏側はきちんとエモ(バイオレンス)の伝統踏んでいるのが差異だろうか。聴いてて保守的と全く感じさせないのはすごいところ。

Accidente/Pulso

スペインはマドリード(マドリッド?)のパンクロックバンドの3rdアルバム。
2016年にPifia Recordsをはじめ世界のいろいろなレーベル(日本のVox Populiからも)からリリースされた。
Accidenteは2010年に結成されたバンドで、つい先日日本各所をツアーで回っていた。それキッカケで音源を購入してとても良かったのだけど、ライブには行けず。

女性ボーカルなメロディックなパンクバンド。全10曲で収録時間は24分弱。世代だからポップなパンクというとどうしてもメロコア(メロディック・ハードコアというよりはメロコア(私は今はもうあんまり聞かないけど別に下に見ているわけではないです。))が思い浮かんでしまうのだけど、削ぎ落としまくった高速ミュートでメロディを引っ張るあのジャンルとは明確に違って、もっと明確に歌が中心になる。勢いはそれらに比べると少ないわけだけど、代わりに曲が面白いし、何より独特の哀愁がある。哀愁がなんなのか考えても言葉にするのは難しい。(私は楽器ができないのでひょっとしたらマイナーコードのことか?と思ったりするが、そんなに単純なものでもない気がする。誰か教えてください。)可愛い女の子が可愛く歌って、うおー可愛い!というのではないのだ。もっとこう奥行きがある。曲が暗いわけではないくてむしろ陽気な方だと思うが、人生の紆余曲折がその陽気さの背後に見える感じ。イスラエルのNot on Tourほど突き抜けていない、どちらかというとデンマークのGorilla Angrebに似ているが、あそこまでわかりやすく外に放射する怒り(あちらは結構ハードコア)がない。
スペイン語で歌う早口がたまらない。男性メンバーのコーラスも良いのだけど、ボーカルが単独で歌うときたまに伸ばした声が透き通るみたいになってそこが私は非常に好きだ。顕著なのは5曲目「Bandada」。この曲は途中の短いし、どちらかというとシンプルなギターソロにもこのバンドのメロディックさがあふれていてとても良い。
飾らない、あくまでも自分たちの手の届く範囲の道具で組み立てた音はまさにDIY。程よく小粒でぎゅっと硬い生々しい音が渦を巻くように流れていく。劇速というわけでは無いけど、音の密度が濃いので体感はやく聞こえる。たまに入れてくる高速連続カッティングがギターの生音が生かされているので、メタリックなそれらと異なって聞こえる。やはり世代なのかthee michelle gun elephantを思い出してしまってか妙にエモーショナルな気持ちに。肩の力は抜けているのだけど真剣じゃ無い訳が無い。あえて尖らせないことでH表現できるものがあるな、と突き抜けている音楽ばかり聴いているからか思った。

2018年9月30日日曜日

ジョゼフ・コンラッド/闇の奥

ポーランド生まれの作家の小説。
原題は「Heart of Darkness」で1899年に発表された。日本ではいくつかの翻訳で出版されているが私が買ったのは光文社の黒原敏行さんの訳のもの。
先日読んだマッカーシーの「ブラッド・メリディアン」のあとがきに書いてあるもので買って見た。他にも色々な創作物に影響を与えている作品らしく、コッポラ監督の「地獄の黙示録」はこの作品を翻案したものだ(この本を読むまで知らなかった)。

面白いなと思ったのは結局クルツという男が一体なんだったのかということがわからないところ。これは私の理解力不足も大いにあると思うけど、登場する人物たちである人は彼の信奉者であり、ある人はひどく嫌っているといった風にとにかく影響の大きい人物だということはわかる。語り手であるマーロウもクルツという男は足した傑物、「声」だったと回顧する。散々煽っておきながら、実際のクルツに関してはほとんどその個性が具体的に描かれていない。コンゴの川を遡上し、文字通り密林の闇に入り込んでいくマーロウ。しかし目当てだったクルツはすでに瀕死の状態で、マーロウとの間に交わされた、マーロウがクルツをして「声」としたその所以はついに作中では語れることがない。もちろん少ないページでも圧倒的な存在感を示していくのがくるつなのだが、読み終えてクルツという男が結局なんだったのかというのはなかなか判断に難しい。どうやら身分違いの恋の果てに一山当てようとしてコンゴの奥地に入り込み、尋常じゃない量の象牙を入手し、会社の中で一気にその存在感を示したが、その後音沙汰がなくなる。どうやらコンゴの奥地で自分の王国(のようなもの)を作り上げ、その玉座に座ること、権力の象徴として象牙を集めることに執着していたらしい。才能はあるが成功するに至らなかった男が、未開の地で(文明的に遅れており無知な)原住民に対して神のごとく振る舞い、その楽しさに酔っていった、という感じになるのかな。彼は全く個性が掴み取れない。鏡のようなもので、彼に会いたいした人はみんな己をクルツの中に見る。会社の人間たちは自分たちの欲望を具現化し、歪んだ理想郷を実現したクルツに嫉妬し、道化の青年は流浪の果てに王国を築き、無知な原住民に智慧の光をもたらして理想の冒険者を見て取ったのかもしれない。それなら船乗りのマーロウは彼に何を見出しのだろうか。
闇とは単にコンゴの奥地という意味ではない。西洋の考え方や法律が通用しないなんでもありの土地はそのまま野生を表している。そこでは人間は裸にならざるを得ず、普段巧妙に自分からすらも隠しおおせている本質が曝け出されてしまう。
それともやはり密林は暗い力を持っているのだろうか。クルツは何と戦っていたのだろう、無知だろうか、蛮習だろうか、どうも今わの際のセリフは密林に対して吐かれているようだ。作品の中の描写では西洋の教化もそして搾取も広大で濃密な密林には対して効力がないように見える。それどころか熱病にやられて白人は死んでいく。密林の尖兵たる黒人も死んでいく。まったくここは人の住む地ではないように。その奥に分け入っていくことは何かの証明になるのだろうか。

TJxLA FEST 2018 Day2@Zirco Tokyo

日本のレーベルTokyo Jupiter RecordsとLongLgesLongArms Recordsが共同で主催するその名もTJxLA FESTが2回目の開催ということで行ってきた。めあてはスペインのネオクラストバンドKhmerで、音源もさることながら前回見た来日公演でけっこうな衝撃を受けたのでこれはもう一度見ないと、と思ったのだ。2日間の開催で迷ったのだが、私は2日目にいくことした。
会場のZirco Tokyoは初めて行くライブハウス。多分まだできて間もないのではないかな、きれいでした。歌舞伎町のど真ん中くらいにある地下二階。分煙で喫煙所が別れているのが嬉しい。エントランス、フロア、バーカウンターの順につながっている結構広いライブハウスでフロアは決して広いわけではないけど、横に長くて何より特徴的なのはステージが広い!経営者としてはチケット代を稼ぐために客を入れたいわけだから必然的にフロアが広くなるのはわかるんだけど、ここは結構ステージに場所を使っている面白い。結果いろいろな演者が立ててライブハウスのラインナップも豊かになるってわけだ(と思う)。面白いなあ。音も相当に良かったと思う。自動で動くカーテンがステージに付いていて、転換のときはこれを閉じるシステム。

Pale
一番手は日本は東京のブラッケンド・ハードコアのPale。一発目の出音が素晴らしくて圧倒されたしこのイベント間違いないなと確信した。そのくらいの迫力がある。
ギター1本に専任ボーカルの4人組。ギタリストは日本では珍しい?長髪にヒゲぼーぼーの浮世離れスタイル。(ちゃんと清潔な感じ。)
速度の早いハードコアにこれでもかというくらいトレモロをかぶせるTheブラッケンド・スタイル。一時期一部の界隈では隆盛を極めたが、それ故今ではここまでストレートに鳴らしてくるバンドは珍しいかもしれない。何が良いって音が良いのである。一連のブラッケンド・ブームの火付け役であるAlcestはその後の正しくシューゲイザーの美麗な音作りに接近していったが(最新作ではまた違う報告に舵をとっているらしい)、個人的にはそうじゃないという気持ちもあって。というのももはやそうしたらブラック(メタル)じゃないじゃん。私が聞きたいのとはちょっと違う。ところがこのPaleに関してはそんな美麗さとは全く違うベクトルのトレモロを鳴らしているわけだ。それでは小汚いプリミティブかと言われるとそれともちょっと違う。まるでMortiferaの1st(AlcestのNeigeが在籍していた頃)のようなガリガリとした音なのだ。このザキザキささくれだった音がたまらない。有刺鉄線でできているようでこれが高速で回転するとこちらの気持ちがザリザリ削られていくようでたまらなく快感である。このマゾヒスティックな快感は確かにブラック・メタルの耽美差につながる。ハードコアデコレをやるというのは更に倒錯していて良い。そう考えるとボーカリストの動きもなんとなくDeafheavenのボーカルに通じるものがあるように思えてくる。ラスト近くにやった曲は高速で刻んでいくスタイル(シューゲイザーmeetsスラッシュメタルな感じ)はどことなく往年の(今はちょっとスタイルが違うので)Coaltar
of the Deepersを彷彿とさせた。とても良かった!理想の1番手だったと思う。


Klonns
続いては東京のハードコアバンドKlonns。主催の3LAからリリースされたコンピレーション「ろくろ」収録のインタビューでは明確にブラッケン度とのつながりを否定していた。実際聞くと確かに違うんだよな、ということがわかる(ただしノイジーなトレモロなど似ている要素が少しあるのも否定出来ないと思う。)んだけど、この日見てさらに完全にハードコアバンドだなと再確認した。
曲やパートによってほぼハーシュノイズとかしているギターに印象を持っていかれがちだけど、ベースがD-beatか2ビートが基本のローファイなハードコアなんだ。ローファイっていうとあれだがオールドスクールと言っても良い。ボーカルがリバーブかけているのも前衛的に誤解しがちだけど、歌唱法を聞いてほしい。ほぼメロディがなくて単発でシャウトをうるさい演奏にかぶせるスタイルだ。(ただしライブ後半は結構ボーカルの頻度が多くなっていたような気がする。)叫びであって歌じゃない。これがなにかというとD系のクラスト・コアかなと。たまに挟まれる短くつんざくようなギターソロも個人的にはそちら方面の影響色濃いような気がした。もちろん当時のそれからはかなり表現方法を独自にアップデートしているわけだけど、抑えるべきところはきっちり抑えている。もちろんなにかがあってその本質をどこと捉えるのか、というのは人によって異なるわけだから個人の印象になってしまうのだが。
抑えめの楽器隊とよく動くボーカリストの対比も良い。以前スタジオライブのときはステージとフロアの境がなくて怖かった。この日もそんな緊張感があってよかった。


老人の仕事
続いては東京をベースに活動するトリオ編成のストーナー/ドゥームロックバンドの老人の仕事。音源は持っているのだがぜひともライブを見たかった。この間のkillieのライブが恐ろしく良かったからだ。
ドラム、ベース、ギターのトリオ編成。全員狙撃手が原っぱに隠れる際の迷彩であるギリースーツらしきものに身を包んでいる。はじめ老人というバンド名なのでボロを着ているのかと思ったら、もっと森の精的な意味合いがありそうだ。オーガニックな感じだ。つまり葉っぱだ。葉っぱの妖精なんだ。(深い意味はない。)照明は当然緑一色で、メンバー三人が三角を結んで向かい合っているのは神秘性を演出するというよりはフリーな楽曲で合わせるところを合わせるためだと思った。
ステージに持ち込んだ小さい鐘の音がなって演奏が始まると、ブリブリ分厚いが温かみのある埃っぽいヴィンテージ・サウンドが桃源郷に導く長尺ストーナー絵巻だ。同じ煙たさで行ってもどんよりとこもった邪悪なドゥームというよりは煙に巻かれて高みに立ち上る無双の中を明晰が打つような密教的な音楽。反復的だがそこにのみ固執するというよりは、確たるテーマを反復しつつ、それを足がかりに自由に広がっていくような奥行きのあるサウンドで、何かというとこれはSleepだ。もうもうたる音楽に巻かれているとal
cisnerosのけだるいボーカルが聞こえてきそう。サイケデリックなのだが、酩酊的なのはそうだが、たとえばEarthlessのように弾きまくるというよりは音程よくのばし、そしてアンサンブルで合わせるところは合わせる。これが例えばめちゃでかい音とかじゃない。あくまでもアンサンブルでかっちり頭を合わせていくというオーガニックなもので、この強弱のバランスが酩酊状態をいい感じに持続させてくれる。まさに夢見心地。気持ち良い。グリーンなんだ。緑なのだ。人間にはこれが必要なのだ。リラックスしろ。ぼんや~りしているとメンバーがカーテンを締めて終了!もっと見たい。少なくとも倍の時間でも良い!もはや中毒。またライブに行きます。


thisquietarmy
続いてはカナダの一人ユニット。持っているのはギター1本なんだが、足元ののスイッチ類の量がえげつない。足元のペダル、スイッチをじっと見るからシューゲイザーなのだが、このユニットの彼はもはや見るだけじゃなくてあっちを押したり、つまんで回したりと、むしろこっちがメインのようだった。大量のエフェクターでギターの音を加工し、それを多重録音でどんどん重ねていく。使っているのはルーパーだろうか?あくまでも短い録音タイムを反復させて重ねていく。手法的にはシーケンサーを使ってつくるテクノっぽいのではなかろうか。(私はカオシレーターしか持っていないからあっているかわからないけど。)
ただ音の方はテクノとは程遠い、分厚くまた輪郭のはっきりしないものだ。(おそらく)歪ませた上で空間系のエフェクターを何重にもかけているようで、出ている音はヘヴィ・アンビエント(こんな矛盾した言葉もないな)やヘヴィ・ドローンといった趣でもったりと重たく厚みがある。どれも滲んだように音の輪郭が合間でそれらが半ば融解して一つになり、巨大な音像を生み出している。トレモロが儚いメロディを奏でているのが音の隙間に垣間見えるような気がするが、それも木のせいなのかもしれない。ただ不安定に振動するノイズの間に聞こえた空耳だったのかもしれない。面白いのは曲によってはマシーンドラムによるビートが入ること。これも重たく遅く、見るからに機械製といった趣でそういった意味では同郷のヘヴィ・ドローンユニットNadjaに通じるとことがあると思う。ただ向こうは多重録音をここまで駆使するわけではないので、音の数という点では差異がある。
プロジェクターを使ってモノクロの景色を映し出す中でこの轟音を聞いていると、深海で巨大な生き物がゆっくりと反転しながら泳いでいくさまを見ているようでもあった。


of decay and sublime
日本は大阪のVampilliaのギタリストの方の別のバンド。こちらは洒脱なポストロックという感じのイメージ。物販を見ると音源の装丁やTシャツのデザインなどが非常に洗練されていて世界観をきちんと構築していることがわかる。大体白を基調に統一されていたようだ。
ブラックメタルからの強い影響はありつつも、それらを用いて最終的にはポストロックの形でアウトプットしているなと言う印象。ギタリストが三人いるのが特徴で、きちんと役割分担されている。一人はアルペジオ担当、もうひとりは和音担当(ただこの人はもっと細かい技を駆使していたように思う。)、そして最後の一人がトレモロ担当。最後のトレモロがこのバンドの肝であるメロディを担当している。これでもかというくらいトレモロを弾きまくる。一番手Paleはプリミティブなブラックメタルの病的さを受け継いでいたけど、こちらは技法はそのままにすでに聖別されて浄化済みでむしろ神々しさすら感じるレベル。スライドから滑るようにメロディを奏でるトレモロの美しいこと。楽曲に緩急があって一辺倒でくどくなりがちなマンネリからしっかり脱却していた印象。イヤモニをおそらくつけていたのは、とにかく正確さを至上としているアティチュードの表れだったのかなと。音楽的にはオランダの一人ブラック/シューゲイザーのHypomanieに似ているところがあると思う。あえてトレモロの存在感を絞ることで儚さを演出する辺りに共通点があるかなと。こちらのほうがもっと外へ外へ広がっていくという音像で明るく、そしてポストロックの成分が強めだけど。あとドラムがかなり強靭だった。三拍子の曲が多かったかな?(自信ない)

sans visage
続いては日本は東京のエモ/エモバイオレンスバンド。
見るのも聞くのも初めての3人組。いわゆる激情スタイルのハードコアなのだろうが、完全に西欧スタイルで新鮮。おおよそエモからスタートした音楽は日本でけっこう独自の進化を遂げているのではと思うのだが、このバンドに関しては割と正統派なエモ/エモバイオレンスをやっているのでは?という気がした。日本のバンドが次々と暗黒方面に落ち込んで行き、見た目や音楽にもその方面の差異が現れてそれは島国ジャパンの良い意味でガラパゴスという感じで大好きなのだが、こういう素直で正統派な表現方法もやはり良い。メンバーはたぶんかなり、とても若そうだが、そのてらいのない真っ直ぐさとエモという音楽/文化ががっちりタッグを組んでフックのないストレートな音楽が波になって私を襲う=泣きである。これはくる。ただ別に冷房の効いた部屋でおっさんが甲子園を見ている気持ちとは違う。年齢不問の主張がバシバシくるのだ。別に彼らが老人だって良いんだ。単純に良い音楽なんだ。大人が偉そうに青くて素晴らしい音楽だなんていう上から目線で言うヤツじゃないんだ。
正当といってもオリジナリティはあって、例えばメンバーが終演後City of Caterpillarのシャツを着ていたが確かに生音を残した生々しいイメージ(像)という音的には非常に通ったところがあるものの、あの反復的に繰り返していく病的な、生で見ていると思わず固唾を飲んでしまうような緊張感はなく、その代わりエモバイオレンスのバイオレンス、つまりもう感情が爆発してしまうあのパートが全編続いているような、そんな感じなのだ。曲はおそらく短く、矢継ぎ早(途中で弦が切れて中座するところはあったけど)に曲を演奏していく。速い、重たくはないがそれゆえ生々しい。


Khmer
続いてはスペインはマドリードのネオクラストバンドKhmer。
2年前の来日ライブは衝撃的だった。非常にポジティブだったからだ。観客の多くが笑顔で楽しそうだった。概ねライブで人は楽しそうだけど、こうもポジティブな雰囲気だったのは後にも先にもKhmerだけだ。もちろんフロントマンMarioの立ち居振る舞いの影響が多いのだろうが、それだけではないはずだ。機会があればもう一度ライブが見たかった。というわけで本日のお目当てである。今日はあの謎を説いてやろうという気がまえでなるべく前の方に。
前回ベーシストはオライアさんだったが今回は欠場で、かわりに坊主にヒゲのいかついメンバーがベースを担当。この人はもとIctus。でギタリストとドラマーも元Ictus。なので今回ボーカリストのMario以外は全員Ictusのメンバーということになる。Ictusといえばスペインから全世界にネオクラストを発信した伝説的なバンドだ。今回そういった意味でも貴重なライブになった。見終わってみるといい意味で前回のライブの印象が裏切られる形になった。まず音が出た瞬間に思ったのはKhmerってこんなにヘヴィなバンドだっけ?ということ。メンバーが全員Ictusというのもあったかもしれないが、そういえば目下の新作「Larga Sombra」でも典型的なブラッケンドから身軽に脱却して新しい世界観を提示していたのだった。あの新曲群をライブで見るとこうも強靭なのか。速さを維持しつつリフは結構めまぐるしい。例えばビートダウン的な要素は皆無で、由来はあくまでもクラスト。濃密でありながらかなり無愛想かつ贅沢(リフレインや過剰な装飾性には目を向けない)に突っ走っていく。メロディアスなトレモロはキャッチーでエモーショナルだが、それゆえコマーシャル的で画一的でもある。とっとと次の挑戦をする姿勢はパンクだと思った。
Marioは相変わらず長身を生かした(多分ステージ上では実際より大きく見えていたんじゃなかろうか。)しなやかなステージングとそしてあの笑顔!見ているこちらまで楽しくなってくる。ただ今回近くで見てわかったがMarioだった常に笑顔でステージ上に立っているわけではない。叫んでいるときはめちゃくちゃ張り詰めている。当たり前だが真剣だ。今回はステージからフロアにも降りてくるMario。暴力的ではなかったがそれでも非常にラディカルだ。曲だけ聞けば「とにかくこの場だけをみんなで楽しもう」的なバンドではないことはすぐわかる。攻撃的で時には陰鬱なハードコアだ。彼らは別に悲しいふりもしない、怒っているふりもしない(曲を消えば怒りも悲しみもしっかり含まれているが、ステージ上ではそれを過剰に装飾しない、つまり演技しない。)、ただ伝えてくる。それが自然で多分ありのままの彼らがすっと目と耳から入ってくる。
非常に謙虚なMCもとても良かった。ただ楽しいじゃなくて本当締めるところバッチバチにしまっていて結構個人的にはビリビリ震えた。すごかった。


Rosetta
続いてはこの日のとり。アメリカ合衆国はペンシルベニア州のポスト・メタルバンド。
白状してしまうと1st「The Galilean Satellites」しか持っていない。2枚組の同時がけ推奨の厄介なやつである。
ギタリスト2人に、選任ボーカルがいる5人組。最近は追っかけてなかったので、もっと頭でっかちなバンドで例えばシンセ担当のメンバーがいるのかな?とか複雑な展開のアートっぽい曲なのかな?と思っていたのだが、始まって見ると全然肉体的な音楽やっていてびっくりした。(1stも聞き返すと別に頭でっかちでは全然なかったのでした。)バンドアンサンブル以外の音はボーカリストがタブレット(?)から出すくらいでそれも味付け程度。基本はかっちり重厚なメタルサウンド。ポストとついてもロックとはかなり違(これはバンドによって異なるだろうが)って、Rosettaに関していえば全編これクライマックスというくらいギュッと凝縮した曲をプレイするバンドのようだ。もっとこう静かに始まって徐々に組み立てていくのかと思っていたので結構びっくりした。音は大きいが刺々しいでかい音というよりは轟音を柔らかいわたで包んだような独特なもので、シューゲイザーとはまた異なる。これに浸っているととても気持ちが良い。そうこうしているとボーカリストの咆哮が入ってくる。こっちはこっちで声が入るときは基本全部叫んでいる。例えばアルペジオから轟音パート、のようなわかりやすい展開というよりはゆっくり曲が鳴り続けてその姿を変えていくようなイメージか。とにかくうるさいの独特の恍惚感があって確かに、ポスト・メタルというジャンルをしっかりに脳に刻んでくる。ボーカリストの方は細身だが、格闘技の経験者のようなゆっくりしているが非常にしなやかな動きで妙に雰囲気があってかっこいい。煽り方も非常に良かった。
終演後アンコールの拍手が鳴り止まなかったのだが、締められたカーテンからボーカリストの方がひょっと顔を出して「ごめん今日はここまで、またすぐにくるよ」(たぶん)とのことでした。

Tokyo Jupiterと3LAはかなりカラーの違うレーベルで、こうやってそれぞれが選出したバンドが顔を並べてイベントをやるとその違いが浮き彫りになっていて非常に面白かった。ひとえに轟音といっても結構違いがあるし、ポスト感の解釈も結構千差万別かなと。個人的にはブラッケンドという一つのムーブメントに対して色々なバンドがそれに参画し、それを構成しつつも、今この時にそれぞれの付き合い方が微妙に変わってきているのが面白かった。

米原万里/オリガ・モリソヴナの反語法

日本の作家による長編小説。
会社の上司に勧められて買った本。とにかく知っている(好きな人や興味のある人)人のオススメというのは本でも音楽でも映画でもなんでも良いに決まっている。自分の好みとは違った世界を知ることができるからだ。もし本屋でこの本を見ても買わなかっただろう、教えてもらわなかったら。
幼少期にチェコのソビエト学校に通っていた主人公が大人になってから印象的だった舞踊の教師の生い立ちに迫る、というストーリー。うーん、やっぱり自分では買わない。会社の上司というのは私の好みを知っているので、何かあるだろうなと思って読んでみると果たしてそうであった。単なる良い話などではなく、かなり壮絶な歴史が提示される。
さて(絶滅)収容所と言ったらナチのそれが有名だが、実はロシアというかソ連にもあったのだ。ルビヤンカといえば知っている人もいるかもしれない。とはいえ私も持っている知識はそれくらいだった。(確かプリーモ・レヴィの本で言及されていたのを読んだかな、というくらい)私だけかもしれないが、ロシアというのは近い割には日本人にとっては謎の国である。なんとなくすごく寒くて陰気というイメージがあるのではなかろうか。でも実はロシア人というのはすごく陽気らしい。確か、ドストエフスキーの本か何かに書いてあったから間違いない。大学の授業で社会主義というのは基本的に失敗するシステム、みたいに紹介されていたのが印象的だが(酷いいいようだと当時も思った。)、その社会主義の国家がソヴィエト連邦だ。レーニンという人が建国して、スターリンという独裁者が暴政を敷いたということくらいしか知らない。この時代はとにかく混沌としていて大勢の人が殺された。人がいなくなってもそれが日常茶飯事なのできにする人も少なかったとか。アンドレイ・チカチーロもこの混乱の時代に暗躍したのは有名な話。脱線してしまったが、この物語はそんな時代に生きた女性の物語。かなり奇抜な学校の先生だった女性に降りかかった過酷な運命を、かつて彼女の教え子だった女性が辿っていく。

内容的にはどうしたって陰惨になるし、実際強制収容所の中の生活の描写はひどいものだ。暴力があり、悲劇がある。男性なら復讐という奴の暴力に落ち込んでいくのだろうが、この物語は女性が描く女性の物語なのだ。踊りを軸に綴られる物語はただただくらいだけものではない。登場人物たちは過酷な状況下でも常に生き残ることが念頭にあり、そして誰もが何かをなくし、それゆえに傍にある拾える命を拾って守ろうとする。これは絆の物語でもある。ひどく不平等な世界で登場人物のほとんどが家族を失っている。その経験がゆえに他人を救おうとするのであった。もう二度と思っているからだ。
この物語はレジスタンスのそれではない。圧倒的な力、まさに圧政に最後までいたぶられ嬲られ尽くした後になんとか生き残り、そして確実に磨り減った心身でそのあとの人生をさらに生きていく話である。こんな残酷な話があるか。しかし実際には革命だ、反抗だ、
復讐だ、そんなにうまく成就するものだろうか。子供を産んで世界を作り上げてきたのは常に女性たちだった。女性はいつの時代でも黙って耐えろというのではない。(断じてない。)しかし歴史では実際に耐えに耐え抜いた女性たちがその後の社会を作っていたのだと、思った。そういった意味では救いがない話ではある。しかし筆致が柔らかくて、そして何より柔らかい。彼女らは過去のことを決して忘れないが、それに拘泥して沈んでいくということがない。彼女たちのたくましさが美しいのだ。ロシアの暗い時代について語りながらも、ロシアへの深い愛着が感じられる。

2018年9月23日日曜日

Palm/TO LIVE IS TO DIE,TO DIE IS TO LIVE

日本は大阪のハードコアバンドの3rdアルバム。
2018年にDeliver B Recordsからリリースされた。
活動拠点は大阪なのだが活動は活発で関東圏でも結構よくライブを行なっている印象。何回か目にしたライブではどこもマイクの奪い合いが起こるほどの盛り上がりで、熱い楽曲だけではなくてバンド側からどんどん盛り上げて行く姿勢が非常に印象的だった。(結構珍しいのではなかろうか。)4人編成だがメンバーは流動的なようで今作でも録音したベーシストは多分今在籍していないようだ。

メンバーの変遷はあっても音楽的な嗜好は普遍。コンセプトがしっかりしているのだろう。異常に忙しない他動的なハードコアだ。ただ不安定なところがなく変幻自在な曲をぶっとい芯が貫いているようでもある。Follow-upのインタビューを読むと初めはハードコアというよりはメタルバンドとしてスタートしたそうだ。確かに随所はかなりメタリックである。ツーバスはかなりがっちり正確でぎっちり詰まった重量感がありメタリックである。ギターに関してもかなりの技巧が冴えているリフが印象的でサラサラーと流れるというよりはリフ自体にフックがあって思ったより直接的ではない。この手のバンドには珍しいだろうギターソロも曲によっては存在する。音色も豊かである。このままだとパートごとの重量感に引きづられて曲もそれなりに重たくなってしまうのだろうが、このバンドはここから良い感じに音を抜いていて、またメタリックな奏法をパーツ的に取り扱うことで
メタリックといっても単音リフに代表されるミリタント的なマニアックさからはあえて距離を置いて、全体的にカラッと仕上げているところが特徴で何よりそういうところがフロアでもうけているのだろうと思う。モッシュするもの腕や脚を振り回すものも発生するのだが、バッチリタフガイオンリーです的な敷居の高さというより、体が動いちゃうやつ全員で暴れようぜ的なポジティブさが感じられた。ここら辺は音楽性というか関西的なノリもあるのかな?と個人的には思う。(私は思うんだけど関西人ってその人が面白いというよりは他人を喜ばせようという人ってイメージ。)
落とすところではバッチリ落としてくるんだけど、それすらもあっという間にすっ飛ばしていくような勢いが爽快。曲は上記の通りよく練りこまれているのだが、このバンド何が面白いかというと頓着というか拘泥がない。刹那的というか生き急いでいるというか、今があっという間に過去になる過程を曲にしているように常に今を更新し続ける。インタビューを読むとそれまでは英語で書いていた歌詞を試しに日本語で書いてみたらしっくり来たと書いてあって、その歌詞を読んでみるとなかなかヘイトに満ちた危険なものなのだが、これもネチネチとしてない。いうこと言って次に進む感じ。お前はそこにいればいいけど俺らは先に行くから、というようなポジティブさがあってそれがこのバンドの駆動力かと思う。

発狂したメーターのように極端を行き来するようで非常に面白い。ドロドロの高エネルギーを捏ね上げて作り上げたようなロウな質感でそういった意味で混沌としている。タイトルに関しても前作「My Darkest Friends」のラスト「My Battle Could Be Yours, Your Battle Could Be Mine」に通じる逆さまの視点でそういった意味で一貫してぶれてないバンドだと思う。

コーマック・マッカーシー/ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤

アメリカの作家による長編小説。
この「ブラッド・メリディアン」は作者初期の作品だが、日本では遅れて発表されたそうだ。あとがきにも書かれているが本書「チャイルド・オブ・ゴッド」という作品はその作品内容の過激さからやや敬遠されて射たようで、国境三部作の受けが良かったのでおそらく翻訳が決まったのだろう。そんなわけでこの度やっと文庫化し、購入した。
私は前述のような状況を知らなかったから少しくこの本の内容に驚いたが、とはいえマッカーシーはどの本でも形は違えで様々な残酷さを描いてきた。だから読み終わってから思い返しても彼の作品群でほの本だけが浮いているとは思わない。むしろ野蛮な世界で右往左往する人間たちという共通のテーマがこれほどわかりやすく書かれている作品もないのかもしれない。野蛮さというのは二つあって、一つは大自然の過酷さ。今作でも主人公たち一行は水のない砂漠を砂埃まみれになって旅をする。その過酷さったら現代人からしたら本当にない。もう一つの野蛮さが人の残酷さであって、これら人間というのはおよそ文明ができる前からそして、できた後ですら全く飽きずに殺し合っているのである。映画化もされた「血と暴力の国」ではそんな残酷さが一人の人間に結実して不気味な殺し屋として結晶化していたが、この本に出てくる人間たちというのはほとんどみんな残酷なのだ。主人公はメキシコが非公式に雇ったインディアン狩りのアメリカ人部隊に入隊。賞金がかけられたインディアンの頭皮を求めて、彼らを殺しまくる。好戦的なインディアンも殺しまくるし、異邦人に敵対しないインディアンも殺しまくる。メキシコ人も殺しまくるし、果てにはアメリカ人も殺しまくる。殺して奪って犯してしまう。女だろうが、老人だろうが、子供だろうが、乳児だろうが殺す殺す殺す。彼らは常に呑んだくれて無鉄砲である。明日死ぬかもしれないから金も使い切るし、別にどうなったって良いのだ。彼らは誰にも感謝しないが、今日1日の命に感謝し、そしてその幸運が長続きしないことを知っているので、とにかく好き放題やるのである。それによってほとんどは命を落とすのだが、そんなこと知ったことか。恐ろしいことにこの主人公が属するグラントン・ギャング団は実在したそうだ。主要な人物とエピソードは実際のものから取ってきているらしい。となるとこの本が描いているのはまさにアメリカの歴史で、そして血と暴力に彩られているのだ。
マッカーシーの描く作品は陰影が色濃く出ていてそこが好きだ。具体的には人間たちの興じる些細な残酷ごとに対比して、常にアメリカの自然が目をみはるほど美しい。死んだ鹿の目に世界が写るシーンがあって、私はそれが文学の一つの到達点ではと確信しているが、そんな崇高な美しさが必ずそっけない(これが重要だ、個人的には)筆致で描かれている。いわば天と地の対比であり、単に自然が崇高で人間が卑小というのではない。人間の不自然さが自然の産物であり、私たちはそこの中に含まれる。そして自然の圧倒的な無関心さ、無頓着さ。言葉にできない世界がそのまま文字に込められて物語として構築されている。ただただ畏怖するばかり。
この本で異彩を放っているのがギャング団の古株の一人ホールデン判事であり、荒くれ者の中で彼らの尊敬を集めているのに決して交わらず、そしてその独自の哲学で畏怖されているというキャラクター。主人公の行くてに現れ何かと問答を仕掛けてくる。踊りと殺しが上手い(子供をあっさり殺す)この男は端的に言って悪魔であり、人間の世に混乱をもたらすものであり、人間をたぶらかすものであり、人間は常にこれらと相対しないといけないものだ。前述の「血と暴力の国」のシュガーは悪魔のような男だったし死神であったが、人間とは交わらなかった。ところがホールデンは悪魔であり、悪魔は人間の魂が常に彼の関心ごとなのだ。地上の悪徳は全て悪魔のせいである、というのではない。人間の悪徳は人間のものである。そうすると悪魔だけが人間の本質を理解していて、それについて報せようと語りかけてくるのだろうか。人間は記憶喪失の悪魔なのだろうか、でも簡単に死ぬ人間に悪魔の強靭さはなく、そしてそうなると地上が残酷に溢れる悲劇になるのだ。なんて嫌な世界だろうか。こんな美しいのに。

2018年9月17日月曜日

killie単独公演@下北沢ERA

秋になるとセンチメンタルになる人がいるらしい。私はというと苦手な夏が緩やかに倒れていくような秋の気配がたまらなく好きだからむしろ笑顔になってしまう。一回下がり、そしてまた上がった気温も断末魔めいて悪い気がしない。そんな気分で下北沢へ向かう。killieのライブがあるからだ。昼と夜の二部構成で私は昼の方のチケットを購入した。確か早々にチケットはソールドアウトしていたはずだ。調べるとチケットを買ったのは6月でその時は9月が来るなんで想像ができなかった。そして今はもう9月の後半戦だ。光陰矢の如し、というよりは暗殺者のすり足で時は忍び寄る。そして私たちの命を奪っていくのである。時間が私たちを殺すなら私たちは常に死んでいっているのだから、別に秋だからって感傷的にならなくても良いではないか。特にできることもないんだし。呼吸のことを考えても埒もない、いわんや死ぬことをというわけだ。

12時20分ごろに会場に着くと13時開演を前にすでにそれなりに人が入っている。物販は一つ上の5階でということで見にいくと妙に充実している。音源は既存のもののみだったが、アパレルなどが充実しており、私はHis Hero is GoneをもじったT-シャツとメンバーが大胆に移ったお洒落なT-シャツを購入した。
下に降りるとすでに黒山の人だかりである。これはまずったなーと思ったが時すでに遅しでフロアの真ん中あたりの列に。緊張感がたまらなくてなんども時計で時間を確認してしまう。ほぼ13時きっかりにメンバーが登場してライブがスタート。

私は最近killieを知ったにわかリスナーでライブも数えるほどしか見ていないが、この日のkillieはいつもとちょっと違った。killieといえばライブハウスの照明を全部落として自前の蛍光灯を足元に置いただけでライブを行う。本日はまずその蛍光灯にバリエーションがあった。都合6本で2本がいつもの白色、2本が鮮やかなブルー、2本がショッキングピンクだ。さらにはプロジェクターを用いてメンバー越しにライブハウスのステージ後ろの壁に映像を投影。これはニュースキャスターが喋っている映像というらしいものから、ゲーム(ディグダグらしくものは少なくとも)、さらには雰囲気のある(おそらく)映画から抜粋したもの。どうもそれなりにショッキングな映像もあったらしいが良い感じに不鮮明なのとメンバーばかり見ていたので私は気がつかなかった。

ほぼ最近リリースされた編集版を忠実に再現したセットリストだと思う。まさしく自分も含めてだが、客層は何かしらの忸怩たる思いを人生に抱えてそうな男性が多くなんとなく大人しめなのかなと思ったいたが割と冒頭の「先入観を考える」で私を含め多くの人間のタガが外れたようである。勢いで前の方に行って頭を振っていた。
City of Caterpillarを見たときに思ったのはkillieに似ていると。今回killieを見て思ったのはやっぱり似ている。一つは緊張感で、これはもう一つの要素の演奏方法から生じているところもあると思う。確かにkillieの曲は激しいパートもあって盛り上がるが、そうではないパートもかなりある。ポスト感のある美麗なアンビエントパートというには不穏だし今日思ったのは演奏が異常にかっちりしている。これで耽美さがないポスト・ハードコア的なパートに力を割いていく。このミニマルさの中に何かしら積み上げられていくのだ。リズムがはっきりしているからこの反復はむしろ気持ちがよく、そうこうしている間に蓄積された像が完成し、そしてハードコアパートでこれをぶち壊すような勢いがある。なんとも背徳的な曲構成であると思う。今日生で聴いて改めて思ったおは前述の通り演奏の巧さと、そしてメンバー陣の音の被らなさである。技術の向上による恩恵でひたすら低音一辺倒を志向するモダンでブルータルなハードコア界隈でkillieはメンバーそれぞれで音の受け持つ範囲がきちんと決まってそしてそれらが綺麗に分離している。分厚いけどギターの音がソリッドであることはすぐにわかると思う。低音から高音まで出揃っていて全てがごまかしがきかないくらいソリッドだ。ギター2本の掛け合いも何回もあったけどどれも素晴らしく、付かず離れずでときにはすれ違ったり、被って行ったりでそれが正鵠を射て釘を使わずに組み立てていく日本の伝統建築のようにかっちり噛み合っていく、見たこともない聖堂が組み上がっていく。それをぶち壊すような劇速パートはまさに神も仏も拒否する世界で(キリストは復活する!!!皮肉な物言いだ。)そんなことやられた日にはビリビリ震えるしかない。もしくは阿呆のように頭を振るかだ。
全てのパートが必然だ、全てのパートが必要なのだ。散漫なごまかしなど一切ないのだ。どれが欠けても曲が違うものになってしまう。そんな雰囲気がある。「地下室には何かあるはずだ」とはkillieのメンバーの言だが、そこには瞬間があるのだ。常に流れていく時間の中では(早回しや戻しが容易にできてしまう音源とは違って)常に瞬間しかない。その瞬間が全体を構成して、それはもう一つも欠けては別ものになってしまうし、そしてもう過ぎ去ったら取り戻すことができないのだ。
ラストアンコール「お前は労力」で〆。あっという間の1時間であった。

ライブ後に情報量の多さやその圧倒的な質感に一旦整理させてくれ、となる状態がたまにあって、この日はそう。汗だくで一旦どうにかして頭と体を冷やさなければと、這々の体で下北沢のまちに歩き出した。
そのあとカレーを食べて、すごいレコード屋さんに寄って帰りました。
ビールを2缶、記憶が消える前にこの感動をせめて書き留め(ようとす)る。
今頃夜の部がやっているだろうな。