2017年2月26日日曜日

オルダス・ハクスリー/すばらしい新世界

イギリスの作家によるSF小説。
原題は「Brave New World」で1932年に発表された。日本でも何回か翻訳の上出版されているが、この度ハヤカワ文庫から大森望さんの新訳で出版されることになった。ディストピア小説フェアというのがやっているのでそれに合わせたのかもしれぬ。
ジョージ・オーウェルの「1984年」と並ぶディストピア小説の先駆けにして金字塔で、「1984年」に先立つこと17年。「1984年」は以前読んで大変感銘を受けた。本を読む余裕のある人なら皆読んで欲しいくらいの本だ。今更ながら再販をきっかけにこちらにも手を出した。
一体ディストピアというのはどんなものだろうか?色々なそれが描かれているがなんとなく圧政が敷かれ苦しむ民草というのは共通認識ではなかろうか。明確に敵がいて我々民衆はひたすら搾取されるというわかりやすい対立構造である。「1984年」もそうだった。しかし会社の人とも話すのだが、実はもし絶対的な支配者がいるなら生かさず殺さずが一番よいのではなかろうか。1984年の末尾の資料が暗示するように明確な悪政は倒されるリスクがある。あまりに搾り取り過ぎれば人は死ぬしかない、死を覚悟した人間はなりふり構わず捨て身の反撃に身を投じるだろう。でもなんとか飯を食える、たまに気晴らしもある、ならどうだろうか。明日飯が食えなくなるのは辛い、そうなれば諾々と権力者の無理に従うかもしれない。
この小説はそのもう一つのディストピア像を推し進めたものだ。題名はもちろん皮肉の意味も含んでいるが、果たしてその姿はなんだろうか。もちろんディストピア小説だが、この物語で描かれている世界をあなたは否定できるだろうか。私は最近読んだ「都市と星」、または「スキャナーに生きがいはない」に代表される人類補完機構シリーズを連想してしまう。発達したテクノロジーが戦争による徹底的な荒廃に反省し、そして人類の過保護な親となる。人類は生ぬるい、完全にコントロールされた平和にまどろむことになる。その安寧、安逸は作られたものだ。そこでは危機が排除されるのはもちろん、可能性の芽も極めて厳重に判別され、廃棄されている。いわば未来がない。実は過去もない。日常しかない。毎日しかない。寝て起きたらくるのはいつもと同じ今日なのだ。しかし平和である。私はとにかく臆病、怯懦な人間であるから安全と聞けばその安全には自由が損なわれるというおまけがついていてもついつい心惹かれてしまう。この気持ちは反人間的なものだろうか。人間は常に危険な荒野に死の危険を、流血の可能性を伴いながらも打って出て行くべきなのだろうか。あなたが親なら子をあえて危険な目には会わせたくはないだろう。これが詭弁なのはわかっている。なぜなら危険も安全も程度の問題であるからだ。つまりディストピア、あるいはユートピアというのは程度の問題に立脚していることになる。ハクスリーの登場人物は新世界をしてディストピアなんてとんでもない!と言う。少なくとも統制官の一人は、欠点を認めつつもこれが大勢のためになると言う。完璧なユートピアとは言えないかもしれないが、これが最大公約数の天国なのだと言わんばかりだ。いわば優しさで動いている。ハクスリーの描く世界が優れているのはここにあまり高低がないのだ。世界統制官は絶大な権力を持つが、精々が大勢に敬意を払われ、禁制の芸術品を楽しむことができ、世界の仕組みを理解しているくらいではなかろうか。少なくともハーレムを作ったり、美味いものを食ったりしているわけではない。愚かな民草をことさらこき使うこともない。なぜならこの煌めく世界では基本的にフリー・セックスだし、合法的に気分を亢進させる薬が配給されている。民草は頭の程度をコントロールされていることで明確に高級から低級に割り振られているが、階級間の憎悪というのが条件付けによって全然ない。(それぞれが身分の階級の高低にかかわらず別の階級にはなりたくねえなあ〜と思っている。)争いがないわけではないけど、国家を超越した戦争なんてない。だって衣食住に困らないんだもの。なるほど全体主義であってみんなが国家に奉仕しているが、仕事は定時で終わる。(本当は仕事の時間は半分にできるけどみんな時間が余ると荒むので実は世界統制官によってあえて労働時間は引き伸ばされているのだが。)争う必要なんてないんだ。
読者は俯瞰して眺めるからこの世界を歪んだものと捉えるだろう。この新世界の統制官の罪はなんだろう。人の気持ちを踏みにじっている、然り。意識的に人間の知能をはじめとする出生をコントロールしている、然り。しかしこうまとめることができる。この優しさは世界の可能性を、詩的な言い方をすれば未来を奪っている。大衆は無知で、子供でいることが強制されている。これが悪だろうか。本当の邪悪だろうか。今、この平和と争いごとが一緒くたになっているこの歪に光る世界に住む私たちがこのディストピアを邪悪なものだと本当に断罪することができるのだろうか。今いる世界がそれでもこのすばらしい新世界より優れているということができるだろうか。今私たちが暮らす社会、世界は素晴らしいのだろうか。

ぜひこの本を読んで何かを思ってほしい。なぜならこれは世界についての話で、あなたは世界に対して何かを言葉にできないながらも感じているだろうからだ。

Jagged Visions/Black Sun Zenith

アメリカはコネチカット州ニューヘイブンのハードコアバンドの1stアルバム。
(ノルウェイにJagged Visionというバンドがいるがもちろん別物。)
2016年に(おそらく)自主リリースされた。
Ancestral Unholy Terrorを標榜する現在は4人組(5人組時代もあったようだ)のバンドで少なくとも2012年には活動を開始していた。たまたま2014年Trip Machine LaboratoryからリリースされたEP「Beyond The Serpent's Touch」の7インチを購入したらカッコ良かったのでデジタル形式でフルアルバム、とその後リリースされたEP「Eternal Order of the Golden Sun」を購入した。

モノトーンを基調にしたアートワークを見るとどちらかというとメタリックな雰囲気を醸し出しており、ストレートなハードコアスタイルとはやや異なった指向性を持っていることがわかる。
音楽の方はというとしゃがれ声の邪悪なボーカルはブラックメタルっぽさもあるのだが吐き捨て型のスタイルは明らかにハードコアだし、演奏の方もメタリックな要素もありつつ明確に思い切りの良いハードコア。モダンな作風で叩きつけるようなリズミカルな演奏で暴れつつ暴れさせる。モッシュに適した、という言葉がぴったりくる縦の動きにゆったりとした円環の動きを混ぜ込んだノリで速度は基本遅めで全編ブルータルだが、イントロや中盤の速度の落とし込みでわかりやすいほどの踊りやすさを展開。
面白いのは楽曲によって結構多彩なゲストボーカルを迎えていること。マッチョなこれぞハードコアな人から、ラッパーまで。演奏がパーカッシブなのでラップはマッチしている。ColdWorldをはじめとして結構ラッパーを招くハードコアバンドは多いけど、一風変わったメタリック・ハードコアにラッパーを招聘するって自分的には結構面白かった。Slamcokeほどの下品さ、ごった煮(なんでもありのミクスチャー)感ではないかな、という感じ。全部で10曲だが飽きさせずに聞かせる工夫にもなっていると思う。
邪悪なメタリック・フレーバーを聞かせつつゴリゴリ乗せにくるというフックの効いたイケイケ感が個人的には結構気に入った。あえていうならアルバムの前後に出しているEPの方が”黒さ”が色濃くてもうちょっとそこらへんの要素をアルバムにも盛り込んでも良かったかな、と思う。特にアルバムの4ヶ月後にリリースされたEP「Eternal Order of the Golden Sun」ではなんか勇壮なメタリック・コーラスを導入した楽曲もあって、えーこんなこともするのかよ、かっこいいとなったり。そう入った意味では次の音源も楽しみ。

ちょっと変わったハードコアを聴きたい人は是非どうぞ。ミクスチャーという言葉にちょっと思うところがあるよ、という音楽好きな人もとっつきやすいのでは。

MIZERY/Absolute Light

アメリカはカリフォルニア州サンディエゴのハードコアバンドの1stアルバム。
2016年にFlashpot Recordsからリリースされた。
バンド名は悲哀を意味する単語Miseryをもじったものだと思う。
Twitching TonguesやXibalbaのメンバーらが結成したバンド。両方のバンドが好きなので何とは無しに購入してみた。

前述の二つのバンドは男臭い叙情性を持ち込んだハードコアと、陰惨なモッシュコアなわけなんだけど共通してその音は重苦しい。両者に比べるとこのバンドはかなり趣が異なる。音が軽いわけではないけどひたすら低音にこだわることは意識していないようだ。分離が良いクリアな音で録音されており、ドラム、ベースはもちろんギターも中音域が程よくザラついていながら湿気の少ないカラッとした音作りがなされている。昨今流行の先端を行くようなかなりリズムに特化した、パーカッシブなハードコアサウンドからは明らかに一線を画すサウンドが展開されている。影響を受けたものにMetallicaをあげるくらいスラッシュメタルに影響を受けた歯切れの良く勢いのあるリフが曲を引っ張って行く。速度もズドンと落とし込むようなブレイクダウンは無し。速度が速いといってもファストコアのような雰囲気もなしで、オールドスクールなハードコアを演奏している。
ベテランらしく明快な楽曲も創意工夫に飛んでいる。単語ごとに歯切れよくしゃがれ声で吐き捨てて行くボーカルに対して、ギターはかなり感情的。特にスラッシーなリフ、つんのめるように展開するハードコアなリフ、そしてコード感溢れる高速アルペジオ(いわゆるエモスタイルな単音をなぞっていくようなやり方とは一線を画す)のような音数の多いでシンプルな中にも豊かな感情を表現していく。特に最後の弾き方は必殺技みたいな形で結構いろんな曲でも顔を出す。

カラッとした陽気さの中にもやんちゃな”悪さ”が見え隠れてしていてそれがかっこいい。いったことはないんだけどカリフォルニアか〜という感じのサウンド。ブルータル合戦にちょっと疲れました…という人は手にとってみたらいかがでしょうか。

SHUT YOUR MOUTH/Phoenix

日本は東京のハードコアバンドの1stアルバム。
2016年にtoosmell Recordsからリリースされた。
現在は5人組のバンドで2013年にデモを発表していることから結成はそれ以前ということになる。私は小岩で彼らのライブを見て格好良かったのでその場で音源を買った次第。

その日はハードコアバンドが多く出演しており、その中でも音楽性の違いはあれどどれも結構無慈悲な音を鳴らしていた。その中でShut Your Mouthはブルータルなハードコアを鳴らしながらも感情に訴えかけるフレーズが織り込まれていて異彩を放っていた。ハードコアの魅力の一つにタフさがあるとしたら、そのタフさを損なわずに色彩を豊かにしている、そんな印象だった。
改めて音源を聴くと感情的な部分はもちろんあるが、それ以上に滅茶苦茶かっちりしたハードコアを演奏していることに驚く。うわおこんなに激しかったっけ。
低音が強調され、ミュートで区切られた鉄の塊のような音(音質とタメを効かせた弾き方という意味で非常にメタリック)をしたギターがドラム、ベースと合間って巨大なビートを作っていく。時に抉るような、猛獣が押さえつけられてもがくようなフレーズが飛び出し、それがたまらない。ハードコアで遅いということはかっこいい。遅さを生かすために遅さ一辺倒ではなく速度のコントロールにも気を配られていて同じ曲の中でも走るところ、溜めるところ、暴れるところとメリハリがきっちり。
低音ギターに被せてくるもう一本、ライブではキャッチーさを曲に添加していると思ったが、音源を聴くとそれ以外にも低音を這い回る蜘蛛のような不吉な雰囲気を作ったりして非常に面白い。低音に特化した暴れるためにはもってこいの音楽だが(ライブはもちろん部屋で一人でも楽しめる)、改めて聞いてみるとやはり表現力の豊かさに心が動く。
歌詞は日本語と英語を併用したもので時に同一の曲の中でも共存している。概ね「私」の独白という形で決意を秘めた日記を読んでいるようなイメージ。ラストを飾る「Grey Flag」の「クソみたいに生きてる」というワードが分厚い音の壁を抜けて胸に突き刺さる。

フラストレーションをピュアに音楽に昇華した音楽。日常を彩る感情も感じることができる。ハードコア好きな人でまだ聞いていない人は是非どうぞ。

kamomekamome/BEDSIDE DONORS

日本は千葉県柏市のハードコアバンドの4thアルバム。
2013年にIkki Not Deadからリリースされた。
ヌンチャクのボーカリスト向さんがヌンチャク解散後の2002年に結成したバンド。かなりテクニカルなハードコアと聞いてなんとなくビビっていた印象がある。2ndアルバム「ルガーシーガル」のみいつどこで買ってのか覚えていないが持っている。非常に叙情的な「クワイエットが呼んでいる」という曲が好き。それくらいの関わり方だったのだがこの間新代田Feverで見たライブがとても楽しく、私ほほとんど曲を知らないにもかかわらず盛り上がったので、恥ずかしながらライブ終演後物販で買ったのがこのCD。

とにかくライブが楽しかった。激しいんだけどみんな楽しそうだった。印象的だったのはとにかく客が向さんと一緒に声を張り上げて歌う。当たらめて目下の最新作であるこのアルバムを聴くと歌が強調されたバンドだと思う。ライブでもそうだったが、向さんの野太い咆哮とそれを補う様なベースの中瀬さんの甲高いスクリームが掛け合う激しいハードコアパートと、一転してメロディアスなクリーンパート。エモというのは簡単だが、この隠しようもない叙情的な完成と激しさと歌メロのくっきりさはどちらかというとPoison the Wellにちょっと似ている。感情が高ぶってきて叫んでしまう激情やスクリーモとは一線を隠している様に思える。クリーンパートはキャッチーで思わず歌ってしまう気持ちがよくわかる。これは基本全て日本語で書かれた歌詞もあるだろうし(向さんの書く歌詞はどこか変わっていて妙に具体的に一部の場面を切り取った様だが、言葉は抽象的で顔が具体的に思い浮かばない匿名性がある非常に面白いもの)、何より日本語ロックの影響が強くてよく日本人に馴染むのではなかろうか。クリーンパートには時間を割いて撮ってつけたメロディアスさだったり、激しさが落ち込む先としてのみ機能するサビ(つまり激しいパートがつまらない)としてのみ使っていないところが面白い。曲によってはかなりクリーン主体で進行することもある。
演奏の方は流石に凝っていてツインギターをこれでもかというくらい活かした重低音を効かした重厚なリフに、運指の激しいテクニカルな中音リフが重なってくる。後者に関しては単音でメロディをなぞるといったよくある”エモさ”を超越した複雑さを持っており、なるほど昨今のテクニカルなメタルのそれの影響が色濃くあるだろうと思う。
kamomekamomeの凄さは何かというと本当にこの間のライブを見ていてよかったのだが、そのテクニカルさに対する潔い姿勢だと思う。kamomekamomeバンドはハードコアバンドだ。これは間違いない。超絶技巧を棒立ちで眺めるバンド(こういうバンドが悪いといってるわけではないです、念のため。)とは明らかに一線を隠す。体を動かし、時にはモッシュし、時にはダイブし、拳を振り上げて一緒に歌うのがこのバンド。テクニカルさはクオリティ(not技巧)を高める手段でしかない。あくまでもそれらで作り上げる曲が生命線。だから非常に直感的で肉感的でタフ。そして聞き手にとってはこの上なく楽しい。メロディが欲しいなら全編メロディアスな曲を聴けば良いので、激しさを追求するバンドがなぜクリーンパートを導入するのか、という問題に対しての一個の回答の様な音楽性だと思う。つまり激しさもメロディアスさも手段であって目的地とは微妙に異なるのかもしれない。激しさとメロディが渾然一体となったこれらの楽曲が何を志向しているのか、というのは非常に面白い問題だ。

今まで聞かなかったのがもったいなかったな、と思わせる素晴らしい内容。まだ聞いていない人は是非どうぞ。

2017年2月25日土曜日

Recluse/The Black Famine

アメリカ合衆国とフランスの混成ブラックメタルユニットの編集盤アルバム。
2016年にVault of Dried Bones Recordsからリリースされた。
元々は2014年に自主リリースされたカセットだが(おそらく)新メンバーである元Vlad TepesのメンバーWladが加入したのをきかっけに録音し直したのがこちら。
メンバーの片割れは問題行動を起こしてバンドをやめた元CobaltのメンバーMcSorleyである。新アルバムである「Stillbirth in Bethlehem」と同時にレーベルから購入したもの。

意外にもそっけなかった新作と違ってブックレットが豪華仕様になっており、中身には死体の写真とそれから歌詞が乗せられている。
先に新作の方を聴いていたので、汚いロウ・ブラックメタルなのだろうな〜と思って切ったらあれれ??意外にこちらの方は小ぎれいにまとまっている印象。まずサウンドプロダクションが良いのか、音の分離がはっきりしている。これは結構大きい。というのも新作でも気色の悪いブラックメタルの悪臭の向こう側にややメロディの残骸らしきものが、かろうじて認めらるかもしれないがそれは幻覚の可能性が高い、と言った音楽性だったのがこちらの音源だと比較的容易に聞き取ることができる。「McSorleyできるやんけ!こういうことやぞ!」と思わず快哉を叫んだ人がいるとかいないとか。(まあ前作からのギャップでだいぶ綺麗に聞こえてしまうというマジックはあるとおもうけど)全体を覆っていた正気の様なノイズ成分も控えめなので、本来の曲の良さ(汚いプロダクションも含めての曲の良さなのでここでは曲という方程式の出来の良さくらいの意味で)が実感できる。Venomのアルバムとして産声を上げて以降、(少なくとも形だけでも)反キリスト教・反体制というカウンターカルチャーとして地下で育まれてきたブラック・メタルのピュアさを受け継ぐ、時代と時流、ユーザーの軽薄なニーズなど一切無視した寒々しく汚い、邪悪だが悪魔の様に暗闇で光る、儚くそして捉えどころのない薄いヴェールの様なメロディラインで構築された音楽である。メロディにしても耽美で退廃的なそれとは無縁なコールドさ。ガシャガシャしたギターに奏でられるそれはやはり初期以降のDarkthroneを彷彿とさせる。バンドサウンドプラスノイズのみで構成されているが、お得意のガリガリした(このガリガリさが個人的には好き)トレモロに加え、物寂しいアルペジオやミニマルさをいかした放心した様なアンビエントパートなど決して一本調子にならない構成で心に訴えかけてくる。「サタンに常しえの栄光を!」と歌い上げる詩もマジに思えてくるくらいのガチさ。廃墟に放置された進歩と文明に唾を吐きかける邪悪な隠遁者の日記を盗み見している様なゾクゾクする背徳感と危険性がある。
個人的には何と言っても「Frozen Blood」が良い。ミニマルなトレモロがゆったりとした速度で行進していく様はなんとも美しい。凍てついた森の上に冷たい月が浮かぶ夜の景色だ。新作が忌まわしい音楽だとすると、こちらはこの世の中に忘れ去られた様な音楽だろうか。音がクリアな分寂寞とした感じが強調されており、私としては暗さは減退しているが、こちらの音源の方が好みだ。

興味がある人やMcSorley在籍時のCobaltが好きな人は是非どうぞ。新作とはセットで買うか、もしくは先にこちらを聴いてみるのが良いかもしれない。非常にかっこいい。

Berlin Atonal presents New Assembly Tokyo@渋谷Contact

Berlin Atonalはその名の通りドイツ、ベルリンで行われる実験的な電子音楽のイベントのことらしい。それが日本でもやりますよ、というのがこのイベント。これには元Nine Inch Nais(2004-2008,2013)のキーボディストAlessandro Cortiniが出演するとのこと。私はなんだかんだ言って一番好きなのは中学生の時に出会ったninなのだが、熱心なファンというわけではなく、現にTrent以外のメンバーときたらDanny Lohnerくらいしか思い浮かばない(Lohnerはとっくに辞めてる)。これはきっかけみたいなもので実は(単独)音源も持っていないMerzbowと共演するということもあって、なんとなく渋谷Contactに行って見た。
Contactは入場する際に会員登録しないといけないのでちょっとめんどい。駐車場の地下にあるので秘密基地感があるのは良いけど。中に入るとバカみたいに広いわけではないけどいくつかのフロアに分かれている。
19時過ぎに着くとメインフロアではRyo Murakamiがプレイしている。ドローンとしたノイズをプレイしているのだが、弦楽器のアンサンブルをサンプリングしていたりと結構お面白そうだった。しかし私は同時にやっているKiller-Bongが気になったのでそこを離れた。

Killer-OMA
いわゆるダブってことになるのだと思う。おそらく即興性の高いもので日本で一番黒い(あるいは煙たい)レーベルBlack Smokerの首魁Killer-Bongがビートを作ってラップを乗せていく。ラップには音響処理がその場で書かれており、ぼわんぼわんしている。独特の声をしている人だが、実際生で聴くとその変態性は頭抜けており、台本があるとは思えないのだが、流れるように言葉を吐き出していく。声質と音質で歌詞の内容は聞き取れない。まるで酔っ払った男の日記めいた独白を聞いているようだ。五月蠅くないトラックとあってこれがかっこいい。どうでも良いがベースラインが凄すぎないか?と思ったらなんとこの日は鈴木勲さんというベースプレイヤーとのコラボ。鈴木さんは真っ白な髪の毛が印象的などう見てもたたき上げのジャズプレイヤー。ウッドベースをバッキバッキスラップ奏法で聞いていく。研ぎ澄まされた短いリフが途切れることなくフロアにこだまする。眩惑的なダブだが、ベースの音に限って言えばこの上なくソリッドでリアルだ。時にビートになって曲を作っていく。体を揺らせていたらあっという間に終わってしまった。

伊東篤宏+カイライバンチ
先ほどとは違うフロア。この時は既に人がすごくてかなり後ろの方で見たんだけど、蛍光灯が等間隔に3つ放射状に設置されたさながら風車のような機械がぐるぐる回転をしている。何かと思われるが、他に表現のしようがない。風車はマニュピレーターになっており、蛍光灯は広がった状態から蕾のように閉じたりしながらその回転速度を変えていく。蛍光灯は明滅しており、その時に音が出るようだ。伊東さんは蛍光灯を使ったノイズユニットoptrumの人。私はこのoptrumはCDを持っている。この日は巨大なよくわからない機械を使って音楽を奏でるカイライバンチとのコラボ。蛍光灯風車の他にも、ジェットエンジンみたいなのが回転したり、アナログテレビを複数台つなげたものが明滅することで出すノイズを出したりと、音楽というよりそれを包括する前衛芸術だと思う。というのも機械の動きが音を出しているので(音と機械が連動している)、妙な機械がすなわち楽器である。出される音は全部ノイズといっても良い。人類が死に絶えた未来で壊れかけた機械が偶然出している音を聞いているみたいで面白かった。

Ena + Rashad Becker
続いてはメインのフロアでドイツ人と日本人の音楽家のコラボ。
音としては完全にノイズなのだがいわゆるハーシュノイズとは一線を画す内容。音がもっと単発で無作為である。それも引きずるような、軋むような、どこかに引っかかったような音が落ちてくる水滴のように予測不能で繰り出される。それからベースとなるような低音が出てくる(これはパイプオルガンのような音で非常に好みだった)と音の数が次第に増えていく。とは言え相変わらず音の種類は同じで連続性がない。ふと思ったのだが深宇宙からやってくる電波を受信したのをなんらかの機械を使って音響化したような響きがある。声はランダムさが最大の魅力で、連続するノイズのそれとはかなり違う。グリッチ音のみで構成されたノイズのようなイメージ。常に前に前に進んでいく直線のイメージ。渦を巻いていないからトンネルで音が通り過ぎていくみたい。とっかかりになる低音を見つけたとしても、それはいつの間にか何処かに行ってしまう。黙って宇宙からの音に耳を傾けることにした。

Alessandro Cortini + Merzbow
続いては元ninのキーボーディストと日本のノイズシーンの巨人とのコラボ。Merbowはロック、ハードコアのアーティストとも積極的にコラボしている。私は単独音源は持っていないけど、ぱっと思い浮かぶとBorisとFull of Hellのコラボ作を持っている。
Alessandroはyoutube見ていると相当の機材マニアみたいで私からするともはや楽器にすら見えない機械を使って音を出す人のようだ。
始まってみるとAlessandroがシンセサイザーを使ってループする小単位を作ってそれの形を少しずつ変えていく。一方Merzbowは連続性はあるが単位はない低音のノイズを出していく。明確にビートがあるわけではないがシンセ音は時にそれの代替物としての機能を持っており、またMerzbowの出す音も良いバランスで抑えられているので大変聴きやすい。同じノイズでもEna + Rashad Beckerとは全く違った音だ。こちらの方も次第に音の厚みが増してくる。それに浸っているとこの上なく快感だ。音がでかいが耳が痛いということはなかった。シャーとどこまでも滑らかな平面上を滑っていくかのようなノイズが例えようもなく美しい。音の洪水でそれは幻なのだ。たまに現れる高音も霧の波間に浮かぶビーコンのように幽玄としている。阿吽像のように佇む二人はさながらゲートのようだった。本当に最後合わせるところ以外、ほとんどお互いをみることもしなかった。

軽い気持ちで行って見たが楽しかった。Black Smokerはもう少しライブを見てみたい。

2017年2月19日日曜日

Grief/Dismal

アメリカはマサチューセッツ州ボストンのスラッジコアバンドの1stアルバム。
オリジナルは1992年にGreavance Recordsからリリースされた。私が持っているのはFuck Yoga Recordsから2015年にリリースされた再発盤のCD。オリジナルにDystopiaとのスプリット音源、EP「Depression」の楽曲を追加したもの。バンドのロゴは白。その後のアルバムのアウトサイダーなスラッジアートに比べると圧倒的にハードコアなジャケットが印象的。1991年にDisruptの元メンバーらによって結成されたバンドですでに解散している。私はSouthern Lordから出た編集盤で好きになり、2nd「Come to Grief」を持っている。

「陰気な」というタイトル通りとにかく自己評価の低い厭世観に満ちたアルバムで「世の中はクソだ、でも俺が一番クソだ」というその劣等感に満ちたバンドの音楽性はすでにこの頃から確立されている。おそらくKhanateにも影響を大きく与えたであろう不自然に引き伸ばされた様なトーチャー・スラッジをプレイしている。
音数が少ない分一撃が重くなり、そして乗りやすいというのがスラッジの良さだとすると、このGriefに関しては音の感覚が広く、また変則的なリズムだったりするから聴きなれないと乗ろうと思った音が思ったところで出なかったりして(自分がタイミングをミスっているだけ説)、妙に気まずい感じで聴いたりするのだが個人的にはそういうちょっとわかりにくいところも大好きだ。

Griefの良さってなんだろう、と考えながら歌詞カードを見ると「Fuck」、「Shit」、「Dead」なんかのハードコアな(あるいはメタルな)ワードに加えて「Solitude」、「Isolated」と言った言葉も目立つ。スラッジというと薬食いまくり、酒飲みまくり、タバコ吸いまくりの不健全さが売りなところもあるが、Griefはもっとカッコつけないし、もっと生活感にあふれている。
「Lifeless」の歌詞を見ると
俺の葬式には誰もこない、友達なんて一人もいない、俺が死んでも誰も気にしない、俺の名すら知らない、俺は惨めに孤独に死んだ、俺にとっては人生には意味がない
なんて書かれている。むしろ格好悪いくらいの歌詞だ。でもこれが良い。破滅的な音楽の裏に潜むこの素直さ。どうしようもない自分の惨めさ。寂しさ。みんな殺したいと言えない気の弱さ。羨望、嫉妬、やっかみ。そんな感情が溢れている。素敵な皆様はそんな感情には無縁なのだろうが、(私の様に)そうでない人もいるのだ。アメリカのダウンタウン、スラムの危険な別世界ではない。全世界に共通するすでにある地獄と孤独な牢獄についての歌だ。つまり毎日の、日常についての歌だ。だから島国にいる私の心にもしみるのだ。

やっぱりカッコいい。この世界観は本当に好きだ。3rd以降も再発してくれないだろうか。自分の生活が惨めすぎるあなたはこの音楽を聴くときっと少しは楽になるだろう。奇をてらっているわけではなくそういう意味で優しい音楽だと思う。是非聴いてみてほしい。

RORCAL/CREON

スイスはジュネーブのブラックメタル/スラッジメタルバンドの4thアルバム。
2016年にBleak Recordsingsからリリースされた。私が買ったのはLonglegslongarms Recordsからリリースされた日本盤でこれには歌詞の和訳や解説などが書かれた小冊子が付属する。2005年に結成されたバンドで今まで3枚のアルバムをリリースしている5人組。タイトルの「クレオン(または「クレオーン」)はギリシア神話の登場人物でテーバイの王のことだとか。

全4曲で収録時間は51分。どの曲も10分を超える大曲。ギリシャ神話を題材にとったコンセプチュアルなアルバムらしく、「劇的」という言葉がぴったりの荘厳なアルバム。音楽的には表現が難しいが、ブラックメタルを基調にして速度をぐっと落としたもの、ブラッケンドしたドゥーム/スラッジというとちょっと実は違うんじゃないかと思う。個人的には遅く、複雑なブラックメタルという印象で、どちらかというと世間でも言われている通りポストハードコアというのは結構しっくりくる。
トレモロリフは連続して音を出していくという性質上遅くするのは難しいのだけど、トレモロをトレモロたり得る速度まで落としそれからドラムは遅めのビートを刻めば、基本的にはRORCALの大まかな音がイメージできると思う。ドゥームがブラック化すればもっと音に隙間ができるはずなのだが、このバンドはトレモロに最大の比重を置くバンドらしく、ほとんど隙間を変えることをしない。どうなるかというととにかく重苦しくなる。トレモロが低音に特化していることもあって息苦しい。長い長い水中潜行のような息苦しさ。スラッジやドゥームは隙間があることでうねりや息継ぎの合間ができてリラックスできたんだなあ、と思うような音の密度だ。もちろん極端な反面、残響を意識したフィードバックノイズで引っ張るドローン的なパートもあるし、ドラムは結構実は手数が多く時に速度を増している。疾走パートだ!待ってました!となるはずがこのバンドの場合はなぜか速く聞こえないのである。不思議。砂漠でさまよってオアシスかと思ったら蜃気楼でした、という絶望感。逃げ場なし。一つはとにかくシャウトを引っ張るボーカルがあると思う。完全にブラックメタルなイーヴィルなシャウトなのだが、こいつがある意味ではストーリーテラーである。朗々とはしていないものの、噛んで含めるようなねっとりとしたボーカルには高速感が皆無なのだ。せっかくドラムが頑張って叩いているのに、ボーカルが亀さんなのだ。この感じ、どこかで…と思ったらkhanateにちょっと似ている。助けてくれ〜となるあの音楽性。ところで私はkhanateが大好きなのだ。そう考えると急にRORCALの曲もかっこよくなってくるから現金なもの。よくよく聞くとただの拷問ではなく、よくよく練られた曲だということが随所に散りばめられたパーツパーツに感じられる。一番印象的でわかりやすいのはメロディラインで、これはこのジャンル特有のトレモロリフに込める、という形で現れている。トレモロの牢獄も、よくよく聞くと潮の満ち引きの様なうねりのあるメロディを繊細な音に混ぜ込んでいるし、一人称が変わる歌詞におそらく合わせて曲の展開を変えていく。
音楽性でいうと最新作で楽曲をコンパクト化した以前のDownfall of Gaiaに通じるところがある。暗く、重く、そして劇的だ。ブラックで長い尺というとカスカディアンなブラックメタルバンドが思い浮かぶが、自然への数位牌と調和を意識した芳醇さはなく、代わりにスラッジ/ドゥームの手法を取り入れることでブラックメタルにない別種の黒さを獲得している。オルタナティブな黒ともいうべき、別の色としての黒。ギリシャ神話にはほぼ触れたことがないのだが、歌詞を読むと別世界に遊ぶ神々の華やかさは皆無で、むしろ難解な言葉綴られる物語は暗く重苦しい、人間界にはない暗さを神話に託したのか、それとも人間界の愛憎と悲哀を神話の暗黒で例えているのか、果たして真意はわからないものの、この世ならぬものを作ってやろうという並々ならぬ気概だけはしっかと伝わる。

Downfall of Gaia好きな人には刺さるだろうし、意外にkhanate好きな人とかは向いていると思う。速度の遅いブラックメタルの威力をまざまざと見せつけられる一枚。

チャイナ・ミエヴィル/言語都市

イギリスの作家によるSF小説。
原題は「EmbassyTown」で直訳すると「大使館の街」というところだろうか。時期的には「クラーケン」の後に執筆・発表(2011年)された。私はチャイナ・ミエヴィル作品が好きなので購入した。相変わらず読みやすいとは言えない文体で読むのにだいぶかかってしまった。

遥か未来人類は宇宙に進出。私たちが宇宙だと思っていたのは実は通常宇宙と言ってあまたある宇宙の一つの表層であり、その裏側にあるイマー、恒常宇宙は人間には正確に把握することができないいわば高次の宇宙であった。そのイマーに潜行することで星の海の距離もある程度は問題ではなくなった。人類は広く銀河とその外に広がる宇宙に広がり(ディアスポラと呼ばれる)、異星人とも遭遇、今では共存する様になった。
宇宙の辺境にあるアリエカに住む異星人は変わった身体構造を持っている。口が二つあり、二つのそれらが同時に言語を喋る。困ったことに二つの口に共通の意思がないとアリエカ人はそれを言語と認識できないため、意思がない翻訳機では用をなさない。アリエカ人の高い技術力を融通してもらうため、近隣の星であり一つの国であるブレーメンは人工的に一卵性の双子を精製、訓練、薬物、テクノロジーによって同一の別人を作り出し、これを大使としてアリエカ人と交渉することにした。アリエカ人は馬と昆虫が合体した様な外見をしているが基本的には友好的で、人類は大使を中心とした都市エンバシータウンをアリエカに建設し、そこではある程度の人類はアリエカ人と共存していた。
アリエカ生まれのアヴィスは恒常宇宙飛行士イマーサーとしてアリエカを一度は出たもの、夫となった男の研究のため生まれ故郷であるアリエカに戻ることになる。時をほぼ同じくしてアリエカにブレーメンから新しい大使が送られてくる。彼らの外見は全く違うばかりか、彼らは双子ではなく全く別個の人間であるという。エズ/ラーという名の大使たちはアリエカに大きな変革をもたらすことになる。

とにかく設定が特殊でこれを説明するのが大変。アリエカは別系統の技術によって進歩し、無機物を基礎とした科学が発展した人類に対して、バイオリグという生物を基調とした技術が進歩しており、文で読むだけでその異様さに目眩がしてくる別世界だ。グロテスクと言っても良い。ここら辺はミエヴィルは「ペルディード・ストリート・ステーション」なんかでも書いていたごった煮の異様な世界に共通している。「気持ち悪いというよりは感覚が違うのさ」という様な作者なりの美学が感じられる。その圧倒的な世界観にただただ幻惑されるのが面白い。相変わらず見慣れない単語を頻発する割には説明しないスタイルなので読んでいると疑問符が浮かぶこともしばしばだが、それは当然もう読み進めてなんとなく掴んでいくしかない。今回は特に読むのに時間を要したわけだけど、そう言った一歩一歩おっかなびっくり進んでいく読書体験も、冒険めいていてそれだけで面白い。
ミエヴィルは差異を描く作家で特定の異なるテリトリーをあえて近接させることで物語を加速させていく。いうまでもなく境界ではその差異が明確になるからだ。そう言った意味では巻き込まれ型の主人公が魔術の世界に落ち込んでいく「クラーケン」は面白かったな。今回はかなり気の強い女性主人公が物語にグイグイ介入していく。この女性も強いんだが、弱いんだかわかない人間味溢れる人で私はちょっとついていけないな…と思うこともしばしば。(選民意識と被害者意識が強い割に気が小さいんだもん。)
今回は言語の構造が一つのテーマになっているわけだけど、こういう思い出がある。高校生の時に国語の先生が「言葉って何」と問いかけると私も含めて「情報伝達の手段」とか答えるわけだけど、先生は不満そう。一人が「言語は世界です」というとその先生は「それだ!」声を張り上げたものだ。ちなみに彼は東大に行った。言語というのは一番わかりやすいのは名前をつけるということだけど、人間は言語を通して世界を認識しているわけだから、同じ景色を見ていても思考の基体となる言語体系が異なれば世界自体が違って見えてくる。それがこの本のテーマで、いわば辺境で素朴に育まれていた異星人の文化、世界に人間の言語(と考え方)という毒が紛れ込んでくる。両者は隔たりすぎてい他ので当初は混じり合わなかったわけだけど、特異な性質を持つ人間の大使の出現で否応無く毒がアリエカ人に蔓延する。この毒というのは比喩表現だけどそれを実際の表現にするのがミエヴィルであって、大使の都市は中盤以降聴き的な状況に陥ってくる。さながらゾンビに囲まれ逃げるのもままならない人類という、サバイバルホラーの様相を呈してくる。
異なる二つが遭遇する時、片方がもう一方絶滅させる以外の選択肢、それが文化的な融合になってくる。人種が違うので確実に合一はできないわけだけど、人類とアリエカ人の今後に関してはある意味では不公平になっている。人類は技術に劣るけど失うものがなかった。一方アリエカ人は技術に劣る人類から毒とその解除方法を学ぶわけなんだけど、人類が言語と世界認識で優れているというわけではなくて、たまたまそうせざるを得ない変化だったからそれを選択したわけだ。ここはどうなんだろう?純粋さを失ったこと自体は問題ではないのだが、人類の世界認識にもうちょっと疑問を呈して欲しかった。(ただ人間は人言の言語以上の思考はできないので相当難しいと思うけど。)否応ない変化が種を次のステージに引っ張り上げるというのは良かった。

相変わらず一筋縄ではいかない小説を書いている。難しいから、わかりにくいから面白い、高尚だというのではなくて、自分が考える以上の考えを聞かされるとそれを膾炙するのに時間がかかる。そう行った意味でチャイナ・ミエヴィルの各物語は超一級品だ。気になった人は是非どうぞ。

2017年2月12日日曜日

RESET/REBUILD@新代田Fever

結構前になんとなしに買ったチケット。買った後で同日にswarrrmのライブがあって「げ〜〜」となったんだけどもちろんチケットを購入したこちらにいくことにした。特にどれがお目当てということでもないくらいの軽い気持ちで遊びに行った。ところがこれがとんでもなく面白かったんだな。
新代田Feverは本当に駅から近い綺麗なライブハウス。物販のスペースも結構広い。フロアも縦横に広くて多分200人くらい入るのかな?開演ちょい前に到着したら既に人が7割がた入っていました。

bilo'u
一番手はbilo'u。バンド名からなんとなくアングラなドゥームかな?とか思っていたのだが、蓋を開けてみたら全然違った。非常にテクニカルなプログレッシブなハードコア(デスコアというのだろうか?)を演奏するバンドだった。5人組のバンドで3人の弦楽隊は全員楽器の位置が高く、ネックが太かったのでおそらく弦の多い楽器を操っているのだろう。とにかく音がよく動く。モダンな作風でMeshuggah(とそこから続くDjentの系譜か)を彷彿とさせる同じ低音をマシーンのようにズガガガと奏でる一方、もう一方のギターがテクデスばりの高温フレーズを弾いていくめまぐるしいスタイル。ウヒョーと思ったが、よく聞いているとThe Dillinger Escape Planにも通じるところがある。向こうはしたいにハードコアにポップさを曲と特に歌に溶け込ませていったが、このバンドはメロディアス性をギターの音に託しているのが違うかな。あとは音の数が多い。結構変わった音(琴みたいな)をSEに使ったりもしている。個人的にはピロピロフレーズより、メロデスみたいにある程度キャッチーな単音を低音に被せていくようなパートの方が好きだな。格好良かったけどボーカルの変態ちっくな高音パートが演奏に埋もれがちだったのがちょっと勿体無いと思った。

Tomy Wealth
続いてはTomy Wealth。この人はちょっと前から企画で名前を目にしていたのだが、一体どんな音楽をやるのかちっともわからない。どうもドラマーの方だという。客の密度がぐっと上がっていたのでおそらくすごい人気がある人なのだろうと思う。
この日はTomyさんがドラム、サポートにベース、キーボード、バイオリンというバンド編成。始まってみるとぶっといドラムビートにずしりベースが入って、その上にキーボードとバイオリンが非常に美麗なフレーズ、メロディを乗せていく。これは人力ブレイクビーツかもしれないと思う。nujabes以降のピアノを使ったエレクトロニカにも通じるところがある。とにかく綺麗でお洒落だ。しかし力が強すぎる。ドラムは流石にメタルとは全く違って音をもっとソリッドに音を作っているけど、やはりブレイクビーツ/インストヒップホップに比べると音が強すぎるし、音の数も多い。(Tomyさんは結構おかずを入れてくる。)聞いている途中に思ったのだが、前述のジャンルの要素もありつつ、ポストロックにも片足を突っ込んでいるのでは?と思った。美麗、お洒落の要素では意識されがちな儚げさはあまりなくて、かなり力強くてライブで見ると高揚感を煽ってくる。ポストロックから頭でっかちな要素を配して、美麗さに特化するとこういう音になるのかもしれない。面白かった。

palm
続いては大阪のハードコアバンドpalm。ConvergeのJacobがアルバムのアートワークを担当したことも有名。ライブを見るのは2回目でその激しさを目にしていたから「これから暴力の始まりだ、グフフ」とかおたくくさいことを考えていたのだが、いざ始まって前より前で見ているとその考えは半分外れていた。カオティックを巻き込んだフックのあるハードコアを演奏するが、曲の速度は速くありつつ暴れられる低音パートを同居させていて直感的に楽しめるハードコアを演奏するバンド。激しい曲もそうだが、ボーカルの高橋さんがその激しいステージアクションでフロアを混沌とさせていく。左右に落ち着きなく動き回る。フロアからそれとわかるくらい勢い強く足を振り下ろす。マイクを頭にぶつける(赤くなっていた)。などなど曲はほとんど全部叫びっぱなし。演奏が始まってすぐにフロアではピットが発声。マイクをフロアに向けると熱心なファンが叫びに飛び込んでくる。高橋さんはおっかないがその顔は笑っている。暴力性というとこのバンドの魅力の半分も伝えられていない。palmの音楽はライブで聴くと伝染性がある。palmの音楽はライブハウスという空間に対する強制的なエネルギーの充填である。過激なパフォーマンスが見ているものに伝染していって客も暴れ出す。エネルギーがどんどん消費されていく。なんかすごいものを「熱い」と例えるのは少なくともこの場ではとてもあっている。熱いものはご存知の通り分子の動きが激しいということだ。ぶつかり合う客は熱さの象徴に他ならない。高橋さんは喋るととっても人懐っこい人で「ありがとうございました!」という言葉が印象的。大人になって思うのはきちんとお礼を言える人は本当にかっこいい。めっちゃ良かった。

Vampillia
続いてはやはり大阪の音楽集団Vampillia。ステージに姿を現さないリーダーのもと、ブラックメタルを基盤とした独自の音楽性を展開している。音楽以外のところでも結構目立つので話題性に富んでいるバンド。ライブを見るのは結構久しぶり。今日はゲストのギタリストを迎えた編成で、全部で10人(ギター3人、ベース、ドラム2人、キーボード、ノイズ、バイオリン、ボーカル)でステージにはほとんど余裕なし。
ベースのミッチーが最初に宣言した通り笑いの要素はほとんどなしでシリアスかつタイトな内容だった。過去のアルバムから結構満遍なく演奏していたと思う。個人的には大好きな「Circle」をモンゴロイドさん一人バージョンでやってくれたのが嬉しかった。ツインドラムが轟音を叩き出し、トリプルギターが絡みつくトレモロリフを奏で、ピアノとバイオリンが別世界のように美しくも胸をかきむしるくらい悲しい音色を奏で、ノイズをまぶした中ボーカルが絶叫スタイル。今回見てわかったのはそれは美への挑戦だ。もともとほとんど楽器を弾けない素人を集めて作ったのがこのVampilliaだという。そんな音楽的なブサイク集団が時に大言を吹きつつも、こんなイマジネーションで作るゲートのような曲を演奏するなんてこんな物語はちょっと痛快である。Vampilliaは美麗な曲を演奏しつつ、醜い自分たちを隠さない(むしろ茶化して前面に押し出したりする)、それは既存の美に対する挑戦だ。モンゴロイドさんの不敵なえみにもその話題性の背後にある強い強い不屈の闘志を感じた。既存の美をぶっ壊して新しい世界を作る、という試み。というよりは企てだろうか。
本日の企画名は「Reset/Rebuild」だ。palmの現状を突破しようとする動き、Vampilliaの新しいものへの渇望めいた推進力を目の当たりにしてこの企画名に対して感嘆の念を感じた。すごい。

kamomekamome
興奮冷めやらぬ私が呆然としているとトリのkamomekamomeが始まる。元ヌンチャクの向さんのバンドで今までで4枚のアルバムをリリースしている。ハードコアをベースにかなりテクニカルな要素を持ち込んだバンドで、さらにそこにメロディアスな日本語ロックの哀愁を持ち込んだオリジナリティを持っている。といっても私は2nd「ルガーシーガル」(回文である)しか持っていない。どんな感じかな?くらいの気持ちだったが、フロアの密度が半端ない。ぎゅうぎゅうだ。演奏が始まり向さんが出てくるとすごい声援。そしてあっという間にダイバーが頻出するハードコアなフロアに。Vampilliaは異界に連れていく異次元だとすると、kamomekamomeは徹頭徹尾現実的なハードコアだ。テクニカルな要素は隠しようがないが、それを包括するハードコアのストレートな勢いはどうしたことだろう。明らかに曲が中心にあり、テクニカルさはその道具でしかない。技巧に走って曲の区別がつかなくなるなんてことは皆無である。ベースと向さんの掛け合うようなボーカルに客が手を振り上げ、そして一緒に歌う。ダイバーは絶え間ない。向さんは格闘家のような動きと多彩なボーカル(クリーンで歌う、ハードコアに叫ぶ、メタリックに咆哮する)で一挙手一投足から目を離せない求心力がある。MCではまた仕事が始まる毎日があるのだから土日は楽しもう(というかぶちかませ!と最終的には煽りまくっていたのだが)という生活に根ざした、明確な哲学を感じさせる。桃源郷的な別世界に対して、こちらは疲れる日常にあるエアポケットのような祭りの場のようなイメージだろうか。気づけば曲も知らないのにむやみに腕を振り上げる自分がいて面白かった。汗だくだった。ライブ、ライブの楽しさはいろいろあるだろうが、この日のkamomekamomeはめちゃくちゃ楽しかった。

本当何の気なしに遊びに行ったライブだったが行って良かった。超楽しかった。巨大な音で脳が活性化するのだと思う。いろいろ考えがわいてくるし、高揚感で体が動いた。ライブは楽しい。いくまで知らなかったのだがこの日はLauraさんという異国の女性が企画したもの。凄まじいバンドの選択眼と、そしてそれを象徴する素晴らしい企画名だと思った。それは現状に満足しないで、うちこわして新しいものを作ろうとする企てであると思った。本当に規格名がストーンと理解できた気がしたもの。どうもありとうございました。

2017年2月11日土曜日

ネム/ピカデシカ

日本は大阪のサイケデリック・ロックバンドの1stアルバム。
2015年にHYPE Recordsからリリースされた。
ネムは2010年に結成されたバンドでメンバーチェンジを経てリリースされたのがこのアルバム。今は三人組。特に知識はなかったがディストロで興味を持って購入。

まずはモノトーンかつ情報量の多いアートワークが良い。サイケデリックって何か?というとキーワードは渦かもしれないなと思っていたので、このジャケットは本当に良いと思う。
内容としてはサイケデリックロックだ。ヘヴィだが変幻自在なギターサウンドが分厚いのでシューゲイザー要素もあるが、幻想的であっても明確に耽美ではない。しっかりとしたドラムとベースが土台をささえ、その上にギターが縦横に走る。例えばEarthlessなんかを彷彿とさせる。ドラムとベースは激しく派手なプレイというよりはミニマルにミニマルにしっかりと手堅いビートを刻んでいく。いつも思うのだが自由に漂う幻想の世界も以外にそれを支えるしっかりとした屋台骨が必要というのは非常に面白い。人間は浮かないものなのか。ギターは強烈に歪ませたものでこれが縦横無尽に走りまくる。リフはメタル的では全くない。単音を多用して時にはソロなのかリフなのか(利き手の知識の問題もあるだろうが)判然としない。シューゲイザーなら空間的な処理を音に過剰にかけるのだろうが、このバンドの場合はあくまでも音はディレイやエコーがありつつも、あくまでもソリッドだ。低音をことさら強調するバンドではないのでその切れ味は鋭い。運指も音の数も多い。ミュートを多用したリフの頻度が高くないので、音の切れ目がない。この音の連続性はノイズに近いのではなかろうか。変幻自在で刻一刻と切れ目なくその姿を変えていく。その職種が導く先が桃源郷でこれをサイケデリアと呼ぶのだろうか?サイケデリックの醍醐味だ。ここまでだと結構交渉で素人お断りな雰囲気を感じさせるけど、聞いてみるとそんなことが全然ないのがこのバンドの最大の魅力だろうか。前述のEarhlessはスペーシーでありながらもデザートな香りの埃っぽいぶっといロックをそこに据えていたから、自由でありながらも芯があって強い。このネムというバンドはそこをオルタナティブ・ロックを持って生きているような気がする。模糊としたサイケデリックと目の覚めるようなソリッドなロックの合体である。曲によってはもうリフからして高揚感のあるオルタナティブ感に満ちていたりする。そこがこのどこまでも再現なく漂ってしまう”なんかわからないものが高尚で賢いんだぜ”という浮ついた気持ちを抑えて曲をビシッと引き締めたものにしているのではと思う。そう考えると曲の尺も5分に納めてくるあたりも確実に聴きやすさ、とっつきやすさを意識しているのではと思えてしまう。ボーカルが入っているのも良いと思う。特に叫ぶときはちょっとsyrup16gの五十嵐さんに似ていると思う。
ちなみに1st以前のEP「デート盤」も同時に買ったんだけど、そちらはやや持ったりとしたアングラサイケ強めに対して、こちらはロック感が強めてある。好みだろうが、わたし的にはフルアルバムの方のテイストが好みだ。こっちの方がソリッドだが個人的には陶酔感はこちらの方が強い。

「幻想文学はしっかりとした言葉でかけ」とおしゃったという澁澤龍彦さんの言葉を思い出した。なるほどな〜。そういった意味ではしっかりとしたロックの土台で描く幻想の世界だ。気になった人は是非どうぞ。

2017年2月5日日曜日

黒電話666/ACCUMULATION

日本は東京のノイズ・アーティストの1stアルバム。
2017年に[...]dotmarkからリリースされた。
黒電話666は2001年から活動している一人ハーシュノイズユニット。名前の通り今となっては懐かしい黒電話を使った激しいライブパフォーマンスが有名とのこと(私はライブを見たことがないので)。名前を知っていたくらい(GHzの記事とかで見たことがあった)だが、今回の音源リリースに伴って企画されたEndonのメンバーらとのインタビューを読んだら内容が面白くて興味を持ち、買った次第。私が購入したのはCD版で、こちらにはデジタル版にはないリミックスが2曲収録されている。

全4曲でオリジナルは2曲だがそれぞれは10分を超える尺があるので聞き応えはある(し、アルバムとしてはコンパクトにまとまっているのでこってりとしたノイズでも聞きやすいのが嬉しい)。内容的にはいわゆるハーシュ・ノイズなのだろうが、思った以上に聞きやすい。インプロゼーション的に作曲、録音されたそうだが実は結構練られているのではないだろうかと思う。ハーシュ・ノイズというととにかく激しい騒音をぶちまけるのが醍醐味だろうが、黒電話666のこのアルバムに収録されている曲に限るとその醍醐味はもちろん最大限に活かしつつ、比較的長めの尺の中で展開を作っているのが面白い。1曲めの「BLAZE」は顕著で静かに始まる前半と、徐々に不穏に侵食されていくような中盤、後半では今までの予兆が現実のものとなり破壊の限りが尽くされる、といったように悪い意味で金太郎飴にならないように一つの曲の中でうねりが展開されている。面白いのは基本的に概ね全てノイズで構成されている。アンビエントなパートも控えめなノイズで構成されている。いわば出力がコントロールされている状態で、減らすことによって持ち味が生かされていると思う。
ノイズの面白さというのは連続性だと思っている。(もう一つは混沌性。)ノイズというのは他の楽器と違って音が基本的に(意図的にブチッと切る手法ももちろんあるので)繋がっている。それだとドローンみたいになるのだが、ノイズの場合はその音が連続しつつ表層を変えていく。ギターのリフだと異なる音を断続がありつつ繋げていくわけで、こうなると明確な差異が面白いのだが、ノイズの場合だと一つのとがグラデーションを描くように変化していく。こうなると違いが意識されないが、瞬間より長いスパンで意識するともちろん確実に音が変わっていく。音の違いが短いスパンだと意識されにくいために曲の印象としては抽象的で曖昧になってくる。これだけでも面白いが黒電話666の場合は、この連続した音のうねりを短い単位でコントロールしつつ、それを長い単位、つまり曲単位にも持ち込んでいるため曲全体に展開があるのかもしれないなと思う。誤解を呼ぶ表現かもしれないが”聴きやすい”ノイズが結果的にできている。聴きやすいというのは別にポップなわけではない、徹頭徹尾ノイズで構成されたハーシュ・ノイズだ。ただ構成を考えることでそれを追うように聞けるので初心者にも優しいのでは、と思う。

ノイズの性格上ライブと音源は全然違うとインタビューで発言していることもあり、是非ライブも体験してみたいものだ。ノイズというと興味があるけどとっつき難いな〜とイメージのある人は是非手に取ってみてはいかがだろうか。おすすめ。

J・S・レ・ファニュ/ドラゴン・ヴォランの部屋

イギリスの作家の短編小説集。
未だに人を魅了する化物「吸血鬼(ヴァンパイア)」。もはや創作物ではおなじみの存在の彼らだが、元は民間伝承であり、その存在を有名にした創作物にブラム・ストーカーによる「ドラキュラ」があると思う。その「ドラキュラ」に先立ち、また影響を与えたとされるのがイギリスの作家レ・ファニュによる「カーミラ」であった。ここでの吸血鬼はカーミラ、女性だった。日本では東京創元社から「吸血鬼カーミラ」という「カーミラ」以外の作品も収めた短編集が出版されている。真っ赤な表紙の「ドラキュラ」と対をなす青い表紙が非常に格好良い。その「吸血鬼カーミラ」が出版されて50年のち、ようやく出版されたレ・ファニュ二冊めの短編集がこちらの「ドラゴン・ヴォランの部屋」だ。
作者ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュは1812年にアイルランドに生まれた。名前から分かる通りフランスからの移民。73年になくなる。この短編はレ・ファニュの生涯で発表された短編・中編から5つを集めた日本オリジナルのもの。
私はレ・ファニュは「カーミラ」はもちろんホラーのアンソロジーに収録された短編「クロウル奥方の幽霊」が大好きなもんで、彼の短編集ということで喜び勇んで買った次第。

表題作「ドラゴン・ヴォランの部屋」が大半以上を占める中編で、他の4編は短編。表題作は世が世ならミステリーと呼ばれていたのではという趣で、主人公の青年の語り口が良い。愛すべき愚か者という感じだが、恋は盲目というのは今に始まった事ではない。仕掛けがいろいろあって面白かったが、むしろ私はそれ以外の短編の方が良かったかな。
というのも他の短編群は多かれ少なかれ超自然的な恐怖の要素が入っており、その多くはケルト、アイリッシュの民間伝承の恐怖譚・妖精譚(アイルランドといえば妖精!)が下敷きにされているからだ。個人的に面白いのはこれら土着の信仰がすでにキリスト教的な価値観によってペイガニズム、つまり邪教に貶められている要素があるってこと。もちろん妖精には悪い奴(取替え子や小鬼なんかが有名か)らもいるわけだけど、反対に良い奴らだっていたはず。ところがキリスト教に言わせるとそれら全部が偉大な神の以降の前では邪になってしまうから個人的には(キリスト教の教えというやつは)全く面白くない。(そもそも土着の信仰がペイガン扱いされるのは納得いかない。)しかしその侵食されたおとぎ話にはだから一抹の、落陽のような儚さとさびさがある。そういった意味では「ローラ・シルヴァー・ベル」は白眉の出来だ。田舎町の田舎娘が悪い妖精に引っ張られる。ここでも年長者の助言に従わなかった愚かな娘が妖精に取られてしまう。妖精は幻術用い、娘を籠絡するが、その実態が非常に薄汚れているというのも興味深い。個人的には黄泉竈食ひ(よもつへぐい)の概念、つまり死者の世界ではそこで供される食べ物を食ってはいけない、さらに宝物も受け取るべきものより多く受け取ってはいけない。具体的には帰れなくなるという精神が日本から遠く離れた異教の地でも存在していたのだという点に感動した。男女の因縁を言葉少なく描く(実はどうだったって書かないことが多い)「ティローン州のある名家の物語」も良かった。狂女は実は狂女ではなかったわけだけど、最後の夫の変化にはなにやら因業めいた”置き土産”感があるのが良かった。小さい世界でどこかおかしい、という状況はやはり面白い。

「悪魔と取引した男」、「アイルランドの土着信仰」なんて単語に魅力を覚える人は是非どうぞ。背筋が凍る怖さ!というのとはちょっと違うが、もっと生活に根ざした考えの裏側にある信仰を読み取る面白さがある。

TRAGEDY/NERVE DAMAGE

アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド(かつてはテネシー州メンフィスを拠点としていたとのこと)のハードコア/クラストバンドの3rdアルバム。
2006年に自身のレーベルTragedy Recordsからリリースされた。
クラストのHis Hero is Goneのメンバーらによって1995年に結成されたバンドで
今までに4枚のアルバムをリリースしている。
この手の音楽では非常に愛されているバンドで多大なフォロワーを生み出しているバンドでにわかな私は名盤と誉れ高い2ndアルバム「Vengeance」を持っている。
どうもこの3rdアルバムからバンドは音楽性を変更させ始めたらしく、4thと合わせてかなりの賛否両論を巻き起こしたという。そんな話題性に富むアルバムは気になるものでかってみた。私が買ったのはLP。鳥の輪郭が青い版。バンドのモチーフである鳥が大胆にあしらわれている。いうまでもなく空高く飛ぶ鳥は自由の象徴だ。

結論から言うと全然かっこいい。むしろ2ndより好きかもしれない。こう書くと「天邪鬼め!」「通ぶりやがる!」と言われそうなのだけど、これはにわかな私が聴いているからだろうだと思う。もっと言うとこのバンドに何を求めているのか?と言うことかもしれない。1st、2ndは疾走感のあるカラッとしたハードコアだった。大変格好良く耳目を集めたわけで当然そんな音楽性を次作にも期待するのが人情というものだ。Tragedyのイメージというのが確立したわけだ。私はそれが固まっていなかったので今作を聞いて「これがTragedyなのだな」とこう思ったのだ。こうなるとやはり2ndを聞き直してみる必要がある。そうしてみるとやはり強く強くそして外へ外へ広がっていく開放感のある気持ち良いハードコアをやっている。一転して今作3rdではそのポジティブさに歯止めがかけられている。これは意図的なもので1曲め「Eyes of Madness」の冒頭のサイレンのサンプリングでわかる。これは文字どおり警鐘を鳴らす音楽であって、全体的に陰鬱さが立ち込めている。外に広がっていくというよりは内側に沈み込んでいく。いわば閉鎖的になっているわけだ。ただ「Nerve Damage」の陰鬱さがダメというなら「Vengeance」にだってその要素はあるでしょ!というのは流石にずるい言い方だと思うけど(色の濃さが問題なので)、暗いからダメというのではないのだないう気がする。勢いがなくなったわけでもない、メロディ性もある。音はメタリックだがそれについては前作も同様だ。ただし今作の方が音の厚みが増しているからそれが壁のようになっていて閉塞感を増しているのかもしれない。ピアノやアコギ、インストも入れてきているのは変化だが、曲自体が大げさに誇張されたものにはなっていない。後半の曲は顕著だがスピードは落としている。ただ古典的なドゥームメタルのように音に隙間がないから緊張感が高まって逃げ場がない。そういった意味では苦しさがあるかもしれない。爽快感を求めているなら確かにちょっとこれには違和感を感じる人も多いだろう。
ただ言いたいのだけどやはり「Nerve Damage」かっこよくないだろうか?Tragedyの良さってなんだろう。一つはハードコアらしさだ。男らしい。今回内巻きに沈み込んでいるとしてもその音楽性は例えば激情ハードコアの持つ内省的で個人的な鬱っぽさ、そして装飾性は皆無だ。基本的な音楽に対する立ち向かい方は変わってないんじゃないかと思う。もう一つはメロディセンス。ぶっとい音で突き進むトレモロめいたハードコアなリフはシンプルだが力強く、そして無骨なメロディに満ちている。ボーカルにメロディラインを導入しない代わりにギターが導く無言のメロディセンスがある。バッキングとそれからソロ的に被せてくる組み合わせは3rdでも健在だ。むしろボーカルパートが減って叙情的なメロディが前面に押し出されていると思う。ぶれてないと思う。

私はもともとHis Hero is Goneにしても超名曲「Raindance」のような勢いというよりもグルーミィな後ろ向きな陰鬱さに満ちたハードコア(ここではピュアなハードコアという意味で)が好きなのでこの「Nerbe Damage」も非常に楽しんで聞くことができた。
飛ぶ鳥の不自由さをあえて歌ったかのような作風。もちろん前作とは異なるという意味では問題作なのだろうが、1st、2ndまでがTragedyなのか判断をするならネットの情報を鵜呑みにするのではなく是非今作を聞いてほしいと思う。