2019年8月11日日曜日

アンナ・カヴァン/アサイラム・ピース

アンナ・カヴァン、読むのは二冊目。
この本は短編集で、前読んだ長編「氷」とはだいぶ趣が異なる。「氷」が不条理ながらもSFの要素を持っていた(バラードが絶賛した)のに対して、この本に収められた短編にはいずれもその要素はない。一部(「上の世界へ」はSF的な世界観を感じ取れる)を除きどれも日常に根ざした現実的な物語である。
ほぼ女性の一人称「私」が主人公の物語であって、これらは作品であってたとえ、私小説であってもフィクションなのだからそのまま作者の姿を投影しているわけではないのだが、それでもだいぶ生々しい内容になっているように感じられる。

概ね、孤独であり(家族、恋人、友人から話されており、また会社で働いていない)、現実的な問題(裁判などか?)を抱えているが、それ以上の獏としたつまり根拠のない不安とそして罪悪感を抱えており、それが現実世界に対する認知・知覚に変容を発生させている、といった共通した女性像が浮かんでくる。

アンナ・カヴァンは変わった人で世界を転々として育ち、常に不安や抑うつを抱え、ヘロインを常用し(少なくとも使い始めた当初のイギリスでは合法だったらしい)、自分で創作したキャラクターの名前に本名を改名した。
どこにも居場所がない、はっきりしないが確かな不安感があり、別の誰かになりたい、なんとなく前述の主人公の姿に通じるところがある。
なんなら表題作は自身が入院した精神病院をもとに作っているし。彼女の作品と彼女の人生は(どの作家もそうだが彼女の場合は特に)強く結びついている。
書くことは彼女のセラピー、現実に適応しようとする試みだったのかもしれない。(が、最終的に彼女をそれが癒やしきることはなかった。)

どうしても生い立ちなどからヴァージニア・ウルフを思い出してしまう。暗い作風など共通点はあるが、読んでみるとだいぶ印象は異なる。
意識の流れを捉えようとしたウルフの場合は知覚過敏という印象が強い。とにかく敏感な人で通常の生活ですら彼女には刺激が強い。ギラギラ突き刺すように輝く彼女には世界がよく見えず、それをなんとか解き明かそうとしているように見える。

世界が不可解である、生きにくいという部分は共通しているが、カヴァンの場合世界が自分に対して敵意を持っている、とまで思いつめているようだ。自分の痛みには敏感だが、カヴァンは他人に対しては鈍感というかわかりやすくて、他人というのはほぼ彼女にとって敵でしかない。あまり好奇心というのはなくて、世界というのはとにかく怖い。理由はほぼないのだが、なぜだか自分が有罪だと強く信じ、確信している。面白かったのは、はじめ太宰治の「待つ」の女主人公に似ているものなのかなと、つまり何かを待っている、白黒つかない宙ぶらりんの空白が彼女を怖いと思わせているのかと(怖いのは恐ろしい物自体ではなく常にそれを待っているときであるので)。ところが「終わりはそこに」を読むと、残酷な現在という回答が提示された後も彼女の不安は消えないので、これは相当厄介な抑うつ状態である。いわばもう諦めて絶望しているような状態。

一方でウルフに関しては他社は不可解だが、常にその謎を解き明かしたいという探究心がある。彼女にとってはまだ世界は未確定であり、絶望しきっていない物語を提示する。(つまり希望がある分より残酷だと言える。)

一貫して心の弱さが提示されるのだが、しかし一連の「アサイラム・ピース」では無垢な精神薄弱者の危うさと対比して醜悪に自分勝手なパートナーたちが静かにしかし強烈に描かれている。
彼らは残酷な世界からのエージェントで彼女たちを苦しめる敵そのものだ。
殴りようのない、広く巨大で無慈悲な世界を擬人化し、その醜さを描くという意味で、これはアンナ・カヴァンの抵抗なのだ。

2019年7月28日日曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]2

エリスン編集のアンソロジー、分冊版の2冊め。
かつての翻刻での翻訳の試みは1冊目で頓挫したからようやっと陽の目が出たのがこの2冊めから。

前回はSFという括りにとらわれないラディカルな小説が集められている、というようなことを描いたがもちろんもともと一冊の本であるからしてこの本でもその傾向は同じ。
とにかく本当は裏方に回るはずの編集者にして発起人のエリスンが前に出過ぎ、語りまくるのがこの一連の本の魅力でもある。
彼によるとこの本に集められているのはScience Fictionではなく(注意してほしいのだが彼はこの本に収めれている本がいわゆるSFではないとは一度も言っていない)、Speculative Fictionであるということである。
Speculativeというのは「思弁的な」という意味らしい。これを調べてみると経験によらない思考や論理にのみ基づいている様、ということだ。
つまりここでは純粋に思考力もっというと作者の想像力によって書かれている作品が集められており、科学的であることは必須ではないのだ。そこは熱烈な、というよりは熱狂的なSFの支持者であり、過激な思想家であり、そして作者でもあるエリスンなので彼の審美眼に叶う作品には多かれ少なかれ一つの創作文学の分野としてのSFの要素が含まれている。しかしオールドスクールな既成概念や伝統に縛られることなく、自由で挑戦的な作品が選ばれているのは面白い。

ここでいう「危険な」というのは、誰もが見たことのないという意味とほぼ同意である。それは革新的であることと、そして誰もが見たことを否定するようなないものとして扱うようなな内容を含むこともその範疇に入るだろう。前の一冊の冒頭の物語や、今回では奇しくも最後似収録されたデーモン・ナイトの「最後の審判」などはそのカテゴリに入る。要するにキリスト教とその神聖を否定というよりは別の味方からみる(なので悪魔的な小説というのは当たらない)、アメリカではかなり攻撃的な内容になっている。
それは固定概念への挑戦であり、想像の壁を取り払う前進でもある。

もう一つ大きな要素、というか個人的に嬉しいこのアンソロジーの要素は「反体制」だ。ハーラン・エリスンはパンクスなのだ。この激烈なエネルギーを持ったナードの小男はどこの誰より激しいパンクスなのだ。
この本で言えばフィリップ・K・ディック「父祖の進信仰」、ラリイ・ニーヴン「ジグソー・マン」、ポール・アンダーソン「理想郷」はいずれもディストピアを描き(あるいはユートピアを描きそれに疑問を提示する)、そのいずれもが現代の危機や懸念をはらんだ社会問題をそのまま発展させたものである。(この危機意識が思弁的と言えると思う。)
現代への警鐘というと逆に陳腐な表現だが、やはりそこには抜群に面白い小説というオブラートに包まれた批判精神がある。むしろその批判精神こそが面白さの源泉なのだろう。
私はなんせ「「悔い改めよハーレクイン!」とチクタクマンは言った」でエリスンにあっという間に心酔した人間であるから、やはりこのエリスンのエリスンのためのアンソロジーに彼のそういった反骨精神とその優しさが反映されているのを見て取るのは非常に楽しい。

2019年7月21日日曜日

ダシール・ハメット/血の収穫

ハードボイルドというジャンルがあり、この小説を書いたダシール・ハメットがその創始者らしい。そのハメットのはじめての長編がこの本。
読んでみるとたしかにこの本でハードボイルド、ノワール小説というのがもう完全にできあがってしまった感じすらある、

ただ相当ハードで異質であるので、この本を読んで衝撃を受けた人が自分なりのハードボイルドを追求したのだろう。今からすると隔世の感もあるのも事実。

一番面白いのは主人公の造形。ハードボイルドというとソフト帽にトレンチコートに身を包んだ長身の男、無口だがめっぽう腕が立ちかならず事件の渦中にある美女といい感じになる、というような類型が頭に浮かぶのは私だけだろうか。
ところがハメットの主人公私は全然そうではない。おそらくスーツは着て帽子はかぶっているだろうが、100キロ近い巨漢だしそもそも名前がない。ハードボイルドの典型からも離れているが、その上こいつは全く自分というものがないのだ。かなり非人間的なキャラクターである。
もちろん腕っぷしは立つ。更に頭は切れる、切れすぎるほどに切れ、もはや探偵の役割を超えて悪徳の街を一時的にだが自分の手で動かしている。
ところがこいつには個性というものがない。悪徳の街を浄化しようというのは、一応依頼人のリクエストに乗っているがこれは口実に過ぎず(依頼人が徹底的に信用出来ないので)、やられたからやり返すというもの。これは私怨というか怨恨だが、どうもそれより叩かれたら手が出るような反射的なものに感じられる。
「私」は私情がない。自分の過去を話さないのはたしかにハードボイルドだが、「私」の場合は全く過去がなく、この街に来る前にそのままの姿で生まれたかのようだ。
自分がのっぴきならない立場に追い込まれても極めて冷静。自分の正義を信じているわけではない。自分が間違いを犯したかもな、と極めて冷静に一つの可能性としてカウントするだけだ。
こいつには全く気持ちというのがない。何かでブレることもない。

物語には動かし手や説明手が必要だ。狂言回しと言っても良い。外部からきた異端のものである探偵はその役にうってつけだが、例えば事件が終わるまでなんにもしない本邦の金田一耕助とは全く異なり(こっちは探偵小説ではなくミステリーだからジャンルも違うんだけど)、「私」は回すどころではなく自分が物語を動かしていく。
めちゃくちゃ肉体的だが精神がまったくない「私」。
あまりに強すぎて「ありえねー」というキャラクター造形はなんとなく見たことあるような気がするが、この物語の主人公は全く別の意味から衝撃的である。
なんとなくキングのホラー小説(例えば「ニードフル・シングス」のような)にでてくる自治体に不幸と不和を撒き散らしていく悪魔にも通じるところがある。ただ悪魔は人間を堕落させることを至上の喜びとしており、その報酬で動くが、「私」の場合は不自然な反骨心めいたもので動いており、やはり不可解である。

不思議だ不思議だと書いてしまったがこの「血の収穫」とても面白くて、普段本を読まない休日も使ってあっという間に読んでしまった。
多分私の他にも魅力にとりつかれたがなぜを抱えた人がたくさんいて、そんな人達が自分なりの解釈として書き始めたものがハードボイルドというジャンルを作ったのでは、と考えるのは少し面白い。
でもそんな事を考えてしまうほどこの小説は完成されている割に、どこかいびつなのだ。

2019年7月15日月曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]1

アメリカの作家ハーラン・エリスンが編集した伝説的なアンソロジー。
長大ゆえに日本では1983年に3冊に分けて発売されるはずだったが、はじめの1冊だけ出てそのまま中座してしまったいわくつきの本だったが、30年以上経ってようやく完全版としてリリースされる運びになったそう。

「世界の中心で愛を叫んだけもの」をだいぶ前に読んで、昨今短編集「死の鳥」でハーラン・エリスンにハマった私はとりあえず購入。
エリスンは相当エネルギッシュな人らしくいろいろな逸話が残っている。おそらくそれなりに尾ひれもついているのだろうと思うが、とにかく変わった人ではあったのだろう。そんな人が編んだアンソロジーなら面白くないわけがない。この本ではすべての短編にエリスンが温度の高い解説を付けている。

ロボット三原則の生みの親アイザック・アシモフのまえがきから始まるのは良い。とても良い。なるほどね、わかりますってなる。しかし続くラインナップにブライアン・オールディスが入っていることにまずは嬉しくなる。それからロバート・ブロックが入っている。彼は映画化もされた「サイコ」が有名だが、なんといってもラブクラフトの年若い友人であり愛弟子でもある。これはと思うのは私だけではないと思う。

この本ははじめの三分の一であるが、まず言えるのは一風変わった審美眼で収録作品が選ばれているということだ。フィリップ・ホセ・ファーマーの作品を読めばその序盤のどぎつさに呆れてしまうだろう。かなりどぎつい。
まえがきに続くエリスンが気炎を履きまくる序文を読めば彼がこの本に、もっと視線を広げてSFに対してどんな気持ちを抱いているかわかるだろう。彼はSF作家であると同時に極めて熱心なSFファン、フリークなのだ。それも相当ラディカルな。彼なりのSFがあり、それを追求し、集め、そして時にはなだめすかしたり、脅しをかけたりしてそんな作品を書かせたりする。それがエリスンなのだ。タイトルに「危険な」という文字が含まれるのは非常に納得感がある。当たり障りのない名作を集めたアンソロジーとは明確に違うのである。

科学による神殺しと人間の傲慢さを描いたレスター・デル・レイの「夕べの祈り」から始まり、どれもひねくれた作品が並んでいる。
フレデリック・ポールの「火星人が来た日の翌日」も異星人とのファーストコンタクトという劇的な出来事の背後にある、通常描かれることのない人の営みを描いているという点で興味深い。
いわばSFにてしても王道に対するカウンターとしての側面がある作品が集められているように感じる。それはオーソリティに対する純粋で冷静な疑問であり、反体制的という点で「危険」なのである。

2019年7月7日日曜日

野谷文昭編訳/20世紀ラテンアメリカ短編集

最近アメリカ文学にハマっていたが、このときのアメリカは北アメリカ大陸のことを指した。
国は違えどアメリカ大陸には南があるわけで、こちらの方は私は未開の土地である。
ボルヘスを数冊、ガルシア・マルケスを数冊、あとはアンソロジーを1冊くらいか。

北と南、私はいずれも行ったことがないが隣り合う両者に格差があるのは確かだ。
経済的な観点で言えば北が高く、南側の人間が北に行くには制限がある。(10年以上前に北アメリカに留学していた友人に聞いた。)
イメージで言えば南は粗野でメキシコは終わりのない麻薬戦争に疲弊している。
要するにゴシップ的な知識のみで、肝心な文化がわからないのだ。
旅慣れない私はこの本を手にとった。

編者はいくつかのテーマを作り、それに区分けする形で物語を紹介している。それによってなるべく万遍なくラテンアメリカの文学を紹介しようという試みだろうと思う。その為非常にバリエーションに富む内容になっている。

ラテンアメリカは広大だ。決して目に見えない国境線で区切られ、多数の異なる文化を持つものが住んでいる。彼らは互いに争い、そしてまた異なる大陸からの征服者と争い、破れている。
おそらくラテンアメリカが粗野で文明的にはやや遅れていると私達が思っているのは、このヨーロッパやアメリカからの侵略とそれに対する屈服、勝てば官軍なら負けるのは悪人であるから、負けたラテンアメリカは悪くて劣っているという認識が蔓延したせいではなかろうか。

ラテンアメリカの文学はそういった意味では剣呑である。高低差があり、その差が苦い記憶と暗い気持ちを生み出している。
一方的な軋轢が弱者を現実的な力で苦しみ、彼らの呻吟する声を汲み取って文字にした、そんな趣きがある。だからどの物語も血と死で彩られている。
ところがどの物語をとっても単純でわかりやすい恨み節担っていないのが面白い、そして病的でもある。
殴られ続ける子供がこれが日常だと思いこむように、ラテンアメリカの人々は闘いそして奪われることにある意味慣れてしまった。大丈夫というのではない。ただ感覚と感情が麻痺してしまった。
だから彼らは強くたくましくそして悲劇的である。
彼らの日常には常に影がつきまとう。そして文学とは人を書くことだから、筆の先がその暗い歴史と感情を掘り起こすのだろう。

別に彼らの歴史は血にまみれており、今もその苦しみは終わらない、彼らは可愛そうな人たち、というのではなく。すでにその時期はとっくに過ぎており、例えば南米の死者の日とかで楽しそうに笑っている彼ら一人ひとりが苦しい歴史を持っていて、それでも笑ったり泣いたりしているのである。
彼らがねじれているとしたらそれはもう長い間に起きたことの結果であり、良くも悪くも彼らの一分になってしまっていて、私の目からするとそれはなんだかとても不思議で、こんな言い方を許してほしいのだが面白くも写ってしまう。

2019年6月23日日曜日

トルーマン・カポーティ/遠い声 遠い部屋

「冷血」が面白かったので2冊めに手にとったのはこの本。
あちらはノンフィクション、こちらはフィクションだから趣が異なるのは当たり前だが、最近もっぱら読んでいるアメリカ文学という文脈でもなかなか奇異な本だった。

ヘミングウェイの「老人と海」のあとがきでアメリカは歴史がないのでその文学というのはヨーロッパのそれとは大きな隔たりがあると書いてあった。具体的には歴史がない、奥行きが無いためその文体は必然的に肉体的に、(その人が言うには)浅薄になるそうだ。
確かにアメリカ文学では肉体的な動作が強調される。自分はそこを短所とは思わず、むしろ長所だと思っている。
ところがこの本は肉体的な動きは最低限に抑えられ、舞台装置も含めてイギリスのゴシックめいた雰囲気がある。動きがない割に重々しく、そして多分に観念的である。
ニューオーリンズに近いアメリカ南部という、まさにアメリカ文学会のど真ん中を舞台にしているのだが。

親類をたらい回しにされているがゆえに精神的に早熟、しかし都会ぐらいゆえに肉体的には脆い線の細い、頭でっかちな男の子が主人公。
彼が一度もあったことのない父親に招かれたのはアメリカ南部の田舎町の、更に郊外にある崩壊しつつある奇妙な屋敷である。
ここは異界で、そしてタイムマシンでもある。
ここでは時空が捻じ曲がっていて主人公は未来の自分に合う。
完全に私の解釈だが、暇を持てあまし、人生に倦んでおり、頭の良さがむしろ健康的な生活の足かせになっている、弁が立つが人嫌い、手先が器用で芸術に対する造詣が深い、才能はあるがやる気や野心とは無縁な、豊富な知識と独特の諧謔をもちあわせたランドルフ。この妙に丸っこいフォルムのこの男、その見た目もあって私にはカポーティ自身に思えてしまうのである。(ちなみにカポーティ自身がランドルフには彼自身ではない二人のモデルがいると公言している。)
早熟だがもやしっ子の主人公ジョエルは、もちろん複雑な環境で育ったカポーティである。
これから人生が広がっていく少年と、彼の悲しい末路である中年が異界で出会う。
これは輝かしい未来の否定であり、少年からすれば失敗の運命の暗示である。

異様な舞台を盛り上げるように出てくる登場人物たちは変人ばかり。個性は強いが全員共通してそれぞれの悲哀がある。人生の蹉跌があり、一筋縄ではいかない複雑な性格をしている。
アメリカ文学で重要な、労働、勤勉、悪とそれに対する正義、義憤などといったものは殆ど出てこないが、アメリカ南部ということもあって生命力は異常にある。
ゴシックの雰囲気ただようが、妙な粗雑さもあって、それが野蛮な魔術めいた圧力で、例えば劇中で言及される強すぎる太陽のように複雑な心情の層をぐいぐい押し付けている。
妙なものがたくさん配置されている。そして後半は幽霊屋敷に慣れた主人公の思いが縦横に広がっていく。(押されていた分浮き上がっていく。)
しかし騙されていはいけない。この本には不思議な事は書いていない。どこまでも現実の悲哀を書いているのである。原因があり、そして結果があるこの世界はときに空想より残酷である。
そういった意味ではやはりどこまで行ってもアメリカ文学か。
後半、自分=父親なのかとも思ったが、やはりそんな陳腐な展開はなかった。

すべての試みが失敗しており、そういった意味では陰鬱な物語だが、ラストのジョエルの決心が切なくも心強い。それは過酷な人生に対峙する決心。
アメリカ南部の、廃墟のような屋敷、荒れ放題の庭に佇む少年は異常に色の濃い光の中で影法師のようになっている。
それは人を感動させる。

2019年6月15日土曜日

スタインベック/ハツカネズミと人間

荒野で凸凹コンビが出会ったらどうなるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。

誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。

私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。

この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。

天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。

スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。

私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。

この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。