2020年5月4日月曜日

G・ガルシア=マルケス/百年の孤独

この物語のどこが孤独なのか?
この物語に出てくる人々は私達が漠然と南米に抱いている先入観というか固定観念をある程度なぞるようである。
つまり南米の人たちというのは、、、

  • 猥雑で底抜けに明るい。
  • よく飲みよく食べ、色事も多い。
  • 気前が良く、親族を大切にするし、また他人であっても身内のように扱う。
  • 情熱的で優しい。
  • 独特の死生観と宗教を持ち、その明るい生活には流血が伴う。
  • 彼らの生活には死が隠しようもなく存在感を持ち、異なる文化圏に属するものからすると不謹慎や唐突という印象を抱くこともある。

要するに孤独とは一番縁遠い人たちに見えるわけで、この蜃気楼の村マコンドが地上に存在するその100年間は概ね熱狂の年月と言っても良い。
彼らは常に誰かといて愛し合い、食べ、そして眠っている。
一人でいるということはほとんどなくて、小さい頃は本の虫であってもそのくらい穴蔵からいずれ出て他人と愛し合うか、もしくは殺し合う。
そうブエンティアの一族の男性はまたよく戦い、よく殺し合ってもいる。

彼らは他人と関わることで生きている。
愛するにしても、殺すにしても他人との関係性があり、つまりここのどこに孤独があるのか?


微笑みの爆弾と孤独
突然だが冨樫義博さんの漫画「幽遊白書」のアニメ版の主題歌、馬渡松子さんの歌う「微笑みの爆弾」という歌をご存知だろうか?
こちらの冒頭の歌詞を読むと、孤独には2種類ある事がわかる。
つまり、誰もいない環境での孤独と人がいる中での孤独の2つが。
前者のほうが希望がある分、後者のほうがより孤独であるだろう。
この百年の孤独というのはこのとき間違いなく後者の孤独である。
マコンドのブエンティアには常に人がいて、そしてたいてい騒がしいのだから。

彼らは大家族で、妻や愛人その子ら孫らに囲まれ、その気前の良さから親族ではなくても慕う人も多く、同時に敵も多く命を狙われることもあるが、それでも孤独なのだ。
なんでだ。
彼らは愛し合っているのでは???


愛の不在=孤独
物語の終盤、百年の中でようやく愛によって生まれた子供がいた。
それまでのブエンティア家には愛によって生まれた子供がいなかったのだ。
彼らの百年の楽しい喧騒の中には実は愛がなかった。

つまり孤独というのは愛の不在ということになる。
じゃあ愛ってなんだ?
この南米の人達は情熱的に愛していたのでは、恋人を、子どもたちを。

彼らがただただ殺し合いをしていたというのではない。
例えば独善的な(つまり変わった考えを頑固に持っている)アマランタやフェルナンダにしても彼女らの恋人や子供を自分なりの方法で愛していた。


愛の正体と成立の困難さ
愛って難しいって話で、愛というのは片方が愛していてもだめだし、またお互いに愛していてもそれが通じ合っていなければだめだというのです。

よくよく読んでみると愛し合っている二人でも本当に通じ合っているケースは本当に少ない、というか作者によると最後の二人以外には誰もいない。
彼らの愛は性欲由来でただ消費するようなものだったり(これは非常に多い、大佐の17人の子どもたちなど)、相手を思った愛でもその対象には届かないというかむしろ害になったり(フェルナンダとメメの親子関係など)、通じ合ってはいなかった。
ウルスラはそういった意味で象徴的な存在。文字通りブエンティア家の地母神的な存在で異常な長命で孫の孫の孫の〜くらいの子孫までその手で育て上げた。ウルスラは子孫たち、その妻たちを限りない愛をもって接したが、誰もそれと同じようにはウルスラを愛さなかった。彼女はそういった意味では孤独を象徴しているキャラクターでもある。


神を必要としない世界の酷薄さと
愛を実現できる可能性としての人間のポジティブさを歌う
いつからかマコンドに置かれたキリスト教会とその牧師もうまく動いているとは言い難い。
彼らは百年にわたって部外者である。
神がいないで完結している世界。
愛に神は必要ない。
本当は人間だけで完成するのだ、この世界は。
流血と嘘、弾丸とナイフ、謀略で汚れたこの地を地獄と呼ぶのは勝手だがこの混沌の中でも人間には可能性があって、でもそれが人間の愚かさで実現できないのは悲劇であり、そして喜劇でもある。

前述の通りようやく完成した人間の愛、しかしそれもまた儚く終わってしまった。
ここにあるのは本来の野蛮な世界である。
直接の引き金が人間の怠慢であっても、自然本来の残酷さが強調されている。

欠点のある他人を愛することは難しいなら愛し合うことは更に困難だ。
しかもそれがきちんとお互いに通じ合うとなるとこれはもう奇跡だ。
「百年の孤独」はその奇跡に至る道、ではない。
読めばわかるがマコンドの、ブエンティア家の百年は繰り返しの百年でもあった。
つまりループだった。
愛し合い、殺し合い、食べ、排泄するループ。
その中でやっと生まれた愛がどうなったか?

ガルシア=マルケスは「百年の孤独」で人間に絶望しているわけではない。
たとえ百年ごしに生まれた愛がすぐに終わったとしても、この神ですら役に立たない、残酷な暗闇の世界で愛の火を灯せるのは人間だけだ、と言っているように私には思えた。
つまりゴールがある(愛が生まれた!よかった!完!という)物語ではなく、この世界、そこに住む人間が持つ可能性をこの長い物語に込めた、(消えた愛がまた生まれる可能性があることを示唆する)終わることのない人間讃歌であった。

2020年3月29日日曜日

リチャード・ブローティガン/アメリカの鱒釣り

ブローティガンの本を読むのはこれで三冊目だが、これが一番わからないかもしれない。
彼はビート・ジェネレーションの一人に数えられることもあるそうだが、非常に面白いあとがきにも描いてあるとおり、私はビートニクには感じられない。
弾いたら割れそうに衝動が詰まった無軌道な若さがないし、ドラッグなどで酩酊している様子もない。
アウトローではあるが、アウトローの群れには属さない本物に思える。

この本には220ページ弱に50弱の短編が収められている。
その短さも、内容的にも物語というよりは詩に近い。
厳しくも何回でもないのだがその真意を掴むのは本当難しい。
さながらタイトルの鱒のように掴もうとするとこちらの理解からぬるっと逃げてしまうように。
そこにあるのにつかめないのだ。
こりゃ一体なんだろうと思った。
ブローティガンの作品にはいろいろなものがないのだ。

物語がない
若さがない
酩酊がない
脈絡がない
説明がない
常識がない

こう書くと全然面白くなさそうな物語が想定されるが実際にはそんなことはない。
このわかりにくい本は全世界の少なからぬ人々の琴線を打つなにかがある。

例えばこうだ。
アメリカを旅して回る風変わりな男がいて、彼は人当たりもいいし、頭もいい。
ただ普通の教育を受けて、一箇所に腰を落ち着けて働いた経験がないから、同じ文化に所属していても彼の真意が測りかねる時がある。
彼は危険な男ではなく、日差しのよく当たる公園で休んでいるといつの間にかよってきている、割と大きい猫のような男だ。
そんな男がもっている古びた、小さい、革のカバーがついた日記がなにかのはずみでベンチに置かれていて、持ち主の彼は通りの向かいのスーパーに何かを買いに行っているのだろう。
それをちょっとした好奇心で悪いと思いながら読んでみたような感じだ。
殺しの日記なんてものじゃなくて、彼の目で捉えたアメリカが書いてある。
なんだか夢中で読んでいると後ろに持ち主の彼が立っていて、ごめんと謝ると手エレ臭そうにその日記帳を受取る、なんだかそんな風景が思い浮かぶ。

彼はホントの意味でドロップアウトでアウトサイダーだ。
ドラッグアビューザーが日常の前項の正反対にいる存在なら間違いなく彼は通常の世界に属するものである。(キリスト教における反キリスト主義者のように)
ところがブローティガンは日常に暮らしながらも水平というより垂直に底から離れており、(彼から見たら)奇妙な私達の生活をノートに書き付けている。

故に悪行としての酩酊がなく、また彼は若くもない。年老いてもいないが、少なくとも家庭があって、アメリカを敵意と可能性の大地としては捉えていないようだ。
そこでは殺人やドラッグの売買、喧嘩などの暴力=事件は起きなく、日々が続いていく。

野生の川をちょん切って反物かなんかのように長さ単位で売ってしまうようなホームセンターがあり、また釣った鱒にポルトワインを飲ませて殺してしまう最高死刑執行人がいたり、超常に片足を突っ込んでいるがそこにあるのはやはり日常である。

擬人化されたアメリカの鱒釣りが象徴するように、非人間がアメリカの生活の象徴となって行動している。

一方で「クルーエイド中毒者」「アメリカの鱒釣りテロリスト」のようにほぼ幼少期の体験をそのまま言葉にしたような作品もあって、これは日本人の私もノスタルジーを感じるわけなんだけど、つまり彼のない事件のない、ドラマのない文体というのはつまるところ日常を書いているのであって、それが言葉の限界迎えたときブローティガン流のアメリカの鱒釣りちんちくりんや最高死刑執行人たちがどこからともなく現れ、そして河川が売りに出されたりしだす。

なるほど確かに一風変わっていて真意は測りかねるけれども、なにやらブローティガンさんのほら話といった感じで非常に優しくそして現実的である。

2020年3月22日日曜日

ニコ・ウォーカー/チェリー

青春小説と言うにはあまりにも情けなく、
戦争小説と言うにはあまりにもカタルシスがない、
ドラッグ小説というにはあまりにもおしゃれでなく、
犯罪小説としてはあまりにもしょぼい、これはそんな小説。

この物語はいうまでもなく自伝的フィクションである。
実際の著者ニコことニコラス・ウォーカーは、第4歩兵師団第167装甲連隊の衛生兵として(本人が自分のことをどう思っているかはわからないが)戦場では7つの勲章を授与された優れた兵士であり、PTSDで21日間も一睡もできなかった。
ニコはチェリーの「俺」になり、つまり道化を演じることで本を書き、現実を笑おうとしたのだが、しかしその”変身”はアメリカのギラギラ輝く巨大なドリームの、その色濃い影をくっきりと読者に意識させる。

IED(即席爆発装置)で爆破されて残骸となったハンヴィーのハンドルから垂れ下がる肉片。吹き飛ばされて顔がなくなった死体。

友人の金庫をこじ開けて盗んだクラック。オキシコンチンに溶ける奨学金。禁断症状で始終吐くゲロ。

「俺」にはほとんど自分の意志がない。
流されるようにドラッグに溺れ、流されるように兵士になり、流されるようにイラクに行き、そして帰ってきてまたドラッグに耽溺した。金がなくなったので純粋にドラッグを買う金を稼ぐために銀行強盗を始めた。
彼は別に貧困層の出ではない。ギャングでもない。

人に馬鹿だと思われている「俺」にはたしかに意思がない、向上心がない、信念もない、愛国心もない。
しかしその愚かさを命綱にして地獄=アメリカの底辺の現実にスルスルと降りていく。
そして馬鹿だ馬鹿だと言われながら、地獄の刻印をその体に刻みつけて帰ってきて、その二度目の贈り物の人生を自分の手で破滅させようとしている。
おい、この物語はバカの一生というにはあまりにも陰惨ではないか?

あまりにも軽い命、ここで現実と作品がごっちゃになってしまうが、しかしニコラス・ウォーカーは実際には真の愛国者であり英雄であった。
彼を誰が馬鹿にできるのだろうか?(私は彼が徹頭徹尾聖人だと言いたいわけではない。)
いわばアメリカン・ドリーム、グレートなアメリカの実態を暴くのがこの小説なのだと言いたいのだ。

彼がホワイトトラッシュなら、その馬鹿なカードの裏は戦場の英雄ってわけだ。
ニコラス・ウォーカーはなかなかどうしてクレバーなジョーカーかもしれない。
彼の軽口に騙されてはいけない。

2020年3月14日土曜日

スティーヴン・キング&ベヴ・ヴィンセント編/死んだら飛べる

キングとキングの小説の解説本を描いている作家ベヴ・ヴィンセントが編集したホラー小説のアンソロジー。
原題は「FLIGHT OR FRIGHT」Frightは怖がらせるの意味。
飛行機に関するホラー小説を集めた短編集である。

収録作品は下記の通り。
「序文」スティーヴン・キング/白石朗訳
「貨物」E・マイクル・ルイス/中村融訳 ★初訳
「大空の恐怖」アーサー・コナン・ドイル/西崎憲訳
「高度二万フィートの恐怖」リチャード・マシスン/矢野浩三郎訳
「飛行機械」アンブローズ・ビアス/中村融訳 ★新訳
「ルシファー!」E・C・タブ/中村融訳 ★初訳
「第五のカテゴリー」トム・ビッセル/中村融訳 ★初訳
「二分四十五秒」ダン・シモンズ/中村融訳 ★初訳
「仮面の悪魔」コーディ・グッドフェロー/安野玲訳 ★初訳
「誘拐作戦」ジョン・ヴァーリイ/伊藤典夫訳
「解放」ジョー・ヒル/白石朗訳 ★初訳
「戦争鳥(ウォーバード)」デイヴィッド・J・スカウ/白石朗訳 ★初訳
「空飛ぶ機械」レイ・ブラッドベリ/中村融訳 ★新訳
「機上のゾンビ」ベヴ・ヴィンセント/中村融訳 ★初訳
「彼らは歳を取るまい」ロアルド・ダール/田口俊樹訳
「プライベートな殺人」ピーター・トレメイン/安野玲訳 ★新訳
「乱気流エキスパート」スティーヴン・キング/白石朗訳 ★初訳
「落ちてゆく」ジェイムズ・ディッキー/安野玲訳 ★初訳
版元ドットコムより)

飛行機が怖い人はたくさんいる。
墜落を連想させるからだろう。
でも実際には飛行機事故が発生する可能性はめちゃくちゃ低いと聞く。
自動車事故のほうがよほど頻繁に起こるそうだ。
一節によると0.0009%とか。

キングは序文にてこれに加えて、狭いところに押し込められる恐怖、それから自由意志の剥奪による恐怖を上げている。
例えば自動車を自分で運転しているなら高速道路飲めの前で重大な玉突き事故が発生しても自分の運転技術で回避できる、と人は思うのである。
当然自動機の運転手の技術より飛行機のパイロットのほうが技術は高いと思うけど。
自分の運命が自分の手にある、と思えない(これは当然思い込みであるので)と人間は不安になる。
飛行機にいる間はなにかが起こっても自分でできることはほぼできない。
墜落している長いとも短い間に家族あてに震えた字で遺書を書くことくらいだろうか。

実際アンソロジーに収録されている作品のうち、民間用の旅客機が墜落する作品は4個。
予想より少ない。
純粋に高所からの個人的な墜落を描いているのは詩の形をとっている「落ちてゆく」だけ。
落ちるのは結末であって、普通はそこだけ描いてもホラーにはならない。
(だから「ルシファー!」の墜落の書き方は相当すごい。)
読みては落ちるぞ落ちるぞと思って読んでいるから、むしろ落ちたら安心してしまう。
要するに落ちるぞ落ちるぞと思わせるのがホラーだから、ホラーの本質はオチにはない。
むしろその工程にこそホラーの醍醐味がある。

さすが作家は、飛行機というシチュエーションを生かして墜落やそうでない恐怖をそれぞれ編み出している。
つまり飛行機が舞台で、その上に独自の恐怖を乗っけるというやり方。

ビアスとブラッドベリは単に空を飛ぶという以上の、社会的機能を持つ飛行機の側面を描き、ドイルは技術の革新が新しい(恐怖の)フロンティアを人間の想像力の新しい空白にマッピングしたことを示している。

個人的に面白いのは戦争に関わる物語が6つ収録されていること。
戦争は死に直結しているし、その暴力的な表現でホラーにうってつけである。
イラク戦争の拷問に関連する権謀術数が暴力で動く「第五のカテゴリー」、それからなんといってもジブリの「紅の豚」の”あのシーン”の元ネタ(というかほぼそのままじゃネーカ)の「彼らは歳を取るまい」が最高。著者のロアルド・ダールは「チャーリーとチョコレート工場」の作者でもある。彼は実際に戦争のエースパイロットで撃墜王だった。

キングの実子ヒルの「開放」も良い。
これは世界の終末を観察する物語で、監視塔としてはそらとぶ飛行機はうってつけの場所に位置している。

こうやって見ると飛行機というのは、神や幽霊に近づく異界であり、着地するまで逃げることができない自分でどうすることもできない牢獄であり、最前線の戦場であり人が死ぬ地獄であり、そしてなによりその濃さが翻弄される人間の運命を端的に表しているのかもしれない。

2020年3月1日日曜日

フォークナー/響きと怒り

さきに「アブサロム、アブサロム!」を読んでいたから、後(1936年)に書かれたそちらより1929年に書かれた本書のほうがだいぶ読みやすかった。
理由としては3点。
・文体
・物語の動き
・物語の構造

文体
文体の方はアメリカ文学的というより、イギリス文学的な意識な流れに則っている。
つまり人間の意識をそのまま言語化しようかという大胆な試みで持って、人間の思考を時系列で文字で表現しようとする手法である。
ただ明らかに「アブサロム、アブサロム!」よりは読まれることを意識していて、露骨にわかりにくい表現は省かれている。
ただし第1章は重度の知的障害をもっている男性の意識を追っているから、どうしても構造上読みにくい。ただこれは思考法が健常人のそれとことなる、いわば思考の基底が異なる人間の思考を書いているのであって、(本書における)意識の流れ自体が読みにくいということにはならない。

物語の動き
物語の構造としては、本筋にいくつか印象的な事件が配置されており、それに沿って物語が進んでいく。
「アブサロム」では語り手の意識が行動を上回っており、言い回しもあって難解であったが、「響きと怒り」ではわかりやすい事件が配置されて物語が進んでいくから単純に読者としては読みやすい。

物語の構造
また、すでにしに去った幽霊たちを語りという信用できない言語で蘇生させようとする(もちろん作者に寄って意図された)はなから無理がある試みだった「アブサロム」に対して、こちらは素直に日記帳の語りで物語が進んでいく。
語りては必ずしも真実を語るわけではない(やはりそもそも人間が客観的な真実を語るのは無理がある)が、それでも読みやすさはこちらのほうに断然軍配が上がる。

フォークナーの特異さ
じゃあ「響きと怒り」は読みやすい物語がというとそんなことはない。
斜陽にあるアメリカ南部のコンプソン家の没落の様を描いている、という筋だがそこから何かを読み取るのが難しい。
フォークナーの凄さというのは、単純に良い物語を書くというのではなく、長大なアメリカの歴史を切り取って物語にまとめることができる、という能力ではなかろうか。
物語に起承転結や筋が必要なのは、単にいえば読みやすくするものである。
歴史書だって当然事件に終始するものであって、長い目で見れば線的だが実際は点の集合点である。
「響きと怒り」では短い、「アブサロム、アブサロム!」では長期の歴史を線的に書こうとするのがフォークナーの試みというか狙いである。
いずれの物語でもショッキングな出来事は含まれるが、それが本質でないことは読めばわかる。それを含んだ日常を書くのが彼の目的であり、いわばそれは日常である。
日常を事件に置き換えないで描ききるというのはなかなかできることではない。
故にフォークナーの作品は非凡である。

響きと怒り
フォークナーは自分の生まれ育った土地に着想を得て、そこから虚構の街、底に住む虚構の人々を作って彼らの生きるさまを丹念に描いた。
つまり南部とその生活というものがフォークナーの書きたいことそのもの。
彼はこの南部という土地を愛していた。
その上で本作がどんな物語かというと、相変わらず無知傲慢人種差別男尊女卑暴力搾取人間の暗部がこれでもかというくらい書かれているが、これは南部の(特定の)人間が卑しく結果的に南部は地獄の様相を描いている、というわけではない。
「八月の光」「サンクチュアリ」などの作品に比べると「響きと怒り」「アブサロム」に関しては人間の暗部をことさら書きたいわけではない。
4章の主人公ジェイソンを見て嫌なやつだが自分みたいだと思った。
この物語の登場人物たちは大悪人というわけではなく、これは私達全員である。だからこの物語が神話的であるといえる。
フォークナーのミューズでもあるキャディという女性が物語の中心であることは間違いない。
殆どの登場人物の人生が彼女の行動に大きく左右されている。
いわば生きる事件であって、その影響を観察しているのが本作かもしれない。
登場人物たちが悪人でないと書いたが、かといって愉快な奴らかというとそんなことはなくて、つまり書かれているのが日常なのだからそれはそうだ。
一つ思ったのはこれは日常からの脱出だなと。
キャディは南部の没落しつつある一家に生まれ、理屈っぽくて頭は良いが生活能力のない父親、僻みっぽくて常にメソメソ泣いている不健康ぶる割には健康な母親、父親の性向を強く受け継いだ優しいが思い込みが強く妹に自分の運命を託している兄、重い知的障害を持つ兄、真面目だが意地の悪い兄、生活能力がなく姉にたかる叔父に囲まれて生きてきた。
彼女にとってよその男というのはそんな日常から脱出させてくれる存在だった。
2000年も20を数えた現代とは違うのである。
女性がトランクひとつで家を出てどうなるものでもない。
だが、キャディは家を出たもののやはりコンプソン家に(少なくとも20年ほど)は囚われた。
そんなキャディの失敗と無念を同じ道筋をたどりながらももっとうまくやってのけたのが自死した兄と同じ名を持ったキャディの一人娘、クエンティンだった。
彼女の広大でも荒廃しつつある屋敷からの脱出劇は、そのまま(近親相姦、人種差別、男尊女卑の)因習に囚われた南部からの脱出であった。

2020年2月16日日曜日

浅田次郎/あやしうらめしあなかなし

浅田次郎というと「鉄道員」のイメージ。
私が対して興味がない日本映画の原作、みたいな。
だからホラーのアンソロジーに短編が収録されている事自体が驚きだったし、読んだらおの物語の面白いことにびっくりした。

怪談の文章は呪文なのである程度の方式が必要な場合がある。(現代怪談なら不要だが、時代がかったものならそれなりの言葉を使ったほうが絶対怖い。)
浅田の分はここを抑えていて、しかもたただ難しい漢字や言葉を普通の分に当て込んだみたいな、知識というよりはPCの変換機能に頼ったような素人くさいものではなく、幅広く深い見識がかけないような美文だったのでそこが良かった。
で、買ったのがこの短編集。

フリークスが襲いかかってくるようなホラーの場合でも、異形の者達というのは明るい場所にいきなり出てくることはそんなにないものである。(つまり相当の筆の技が要求されるってこと。)
廃墟となった教会でも、苔むした墓場でも、忌まわしい儀式が行われた跡の残る隠匿された湿る地下室でも良い。あるいは提灯の明かりに照らされた柳の下でも。
幽霊や怪異に合うにはどこかに行くか、あるいは幽霊がどこかを通り抜けてくる。井戸とか。

浅田の場合は幽霊というのは過去にいる。
だから物語が進む、ということは誰かの過去に踏み入っていく、という深さの構造がある。
物語が真相に向けて潜っていくわけで、まずこの構造が息を止めることを要求してきて行く苦しい。恐怖としては上質である。

基本的な構造としては何も知らないまま生きている。
過去主人公の知らぬところで進行していた何かしらの出来事を知らされる。
その出来事が主人公の人生の気持ちに作用して人生が転回される。
物語の王道を抑えているわけでここらへんは流石にいわゆる”売れる”作品を書き続ける商業作家の面目躍如。
作者の世代的に先の大戦の話が入るのは全然構わないのだが、物語の構造と相まってやや説教臭くなるのは個人的にはちょっとかな、、、。

個人的にはやはり冒頭と最後に配置された神道系ホラーが一番好きなのでその数をもう少し増やしてほしいというのが正直なところ。
文の美しさもここが一番映えているように思う。

2020年2月9日日曜日

ウィリアム・フォークナー/アブサロム、アブサロム!

■文体とアメリカ文学における特異さ
フォークナーの文は読みにくい。句読点を省いた一文が非常に長いのに加えて、比喩を含んだ表現が多く、時系列は直線的でないし、さらには説明が省かれていたりする。
「八月の光」「サンクチュアリ」はリズム重視で読み飛ばしていたのでは?という疑念から今回はじっくり理解できるまで一文一文噛み締めていくような読み方したら時間がかかってしまった。

句読点を省いた独特の文体は後にマッカーシーに受け継がれていくのだろう、フォークナーはアメリカ文学界の巨匠である、言うまでもなく。
ただ今作読んで思ったのは結構アメリカ的ではないな、この人の書く物語は。
ヘミングウェイの「老人と海」がアメリカ文学における一つの大きな里程標だとするとそこに書き込まれているのはぶっきらぼうとも言える、極めて肉体的な”動き”にのみフォーカスした、逆に言えば心理的な描写を徹底的に排した文体である。
これは「ハックルベリー・フィンの冒険」から受け継がれる、アメリカという歴史と背景を持たない新しい国が生み出した一つの新しい伝統。

ところがフォークナーの文体は明白にイギリスのヴァージニア・ウルフの書くそれに似ている。
意識の流れ、と評されることがあるその文体は人間の意識に発生する”動き”を丹念に描いていく手法だ。
外界の刺激に比例しない動きなので、人の内面描写に優れる分、実際の行動に対して長くなりがちだし、ときに退屈でもある。
物語が現実の省略、デフォルメだとするとその長大な流れのなかに置かれた石のような、不思議な手法ではある。

■歴史を語るという構造
「アブサロム、アブサロム!」は歴史的な小説である。
歴史をメタ的に扱っている小説という意味で、歴史小説という意味ではない。
「燃えよ剣」は歴史を扱っているが、歴史という概念はここではジャンルであって内容には関係ない。
ところがフォークナーはこの本で歴史を物語ろうとしているわけだ。
サトペンという謎めいた男の人生を紐解いていくことで。
神の視点でサトペン本人にフォーカスして地の文を書いていく(例えばサトペンは馬にまたがった、のように)のではなく、すでにいなくなったサトペンを別の人達が語っていくのである。幽霊が、と冒頭で表現されているのは正しい。
痕跡、ここで事実とそして大半は人の記憶の伝聞からサトペンという過去生きた男を再構築していくわけだ。
これは解釈という言葉で置き換え可能で、そういう意味ではすでに事実からかけ離れている。ローザに関しては私情というより私怨が入りすぎているからすでに彼女の語るサトペン像は奇妙に歪んでいるだろう。
上巻の183ページ目、いかにもフォークナーらしい書き方で、記憶や手紙から再構築したサトペンたちにはなにかが足りていないことが示唆されている。
そういった意味では神話的であり、サトペンは一つの伝説であるといえる。
足りない部分は残された者たちがそれぞれの思い入れを注入して補填しているのだ。

■悪魔のような男ことサトペンと南部の呪い
①サトペン
悪魔とも称されるサトペンという男はでは何を代表していて、何の代表なのかというとこれは南部ということになる。
南部の体現者。
貧困から立ち上がり、KKKを追い返したが、自分から偉大な白人の血統を始めようとした男。妻に黒人の血が混じっていることがわかれば離縁したこともある。
血にこだわる急進的な差別主義者ではない差別主義者。
「黒人か、そうでないか」の思考で生きている差別主義者。
彼が作中で悪魔と言われるゆえんはしかし差別主義者だったことは一度もない。
彼は寡黙な独裁者という独特な雰囲気で、目的のために手段を選ばない。
良く言えば取り繕うということをしない正直な男でもある。
戦争に従軍する勇気もある。
自ら地所に家を建てる根気も気力も体力もある。
何より強引だが実行力に長けている。
白人の金持ちの持つ黒人の召使いにあしらわれたことが、彼の人生の立身の動機となったが、差別が差別を生み出したように彼も黒人を排除しようとは思わないが、やはり差別主義者になった。

②呪いについて
この南部の呪われたた血の連鎖は父子関係で受け継がれていて、みんながなにか自分に足りない何かを求めてこの地上をさまよっている。
サトペンは自分を始祖とする偉大な白人の血統、その息子ヘンリーは自分の恋愛感情を妹に置き換えて伊達者と結婚させようとしている、(サトペンの)娘ジュディスの許嫁秘めた思惑をこれまた(しかし母親から)上代から受け継がれたボンは復讐と陰謀の中で常に自分にとっては不在だった父親からの認知を求めている。
ボンの息子エティエンヌは呪いの犠牲者とも言うべき境遇で自分は黒人だと自他ともに認めさせるように黒人の女性と結婚し、また白人に喧嘩を売り続けて死んでしまった。
ジョーンズは南部の英雄の従者になりたかったわけではなく、栄光に浴されたかったわけで、いわばサトペンの隣に座したかったのであり、積年の奉公がついに甲斐なくなったとわかったときようやく武器をとった。彼は常に遅いものであり、ただし裏切り者ではなかった。ジョーンズの勝手な思い込みであっても裏切ったのはサトペンだった。
男性は執着や失ったもの、得ることができない(できなかった)ものを取り戻そうとして動いている。

③暴力について
結末はやはり暴力があって、それも自分で振るわないといけない。
ボンとヘンリーは呪われた未来を神、戦争という暴力に託したが結論は幸か不幸かついに出ず、お互いにお互いに殺してくれることを望む持久戦になってしまった。ヘンリーは我慢比べに負けた。
一方サトペンは血糖を繰り返していて暴力に慣れていた。これは現実で日常的に決断力を持っていたのはサトペンだけであることを表してもいる。(だから彼は強かった。)
つまりこの物語で(自分で振るう)暴力とは決断になる。これが現実を運命の手からとって自分で定める、という行動の象徴で、しかし暴力は当然不幸しか招いていない。

④呪いの構造
ボンの母親は地理的に部外者なので置いておく(彼女はサトペンと似ていて人生にはっきり目的がある人である)。同様にカナダ人のシュリーヴも部外者になる。彼にとっては異様な南部への「なぜ?」という問いかけが物語を進めていく(=人物を解析していく)動機になる。(クエンティンも同期は同じだが彼は渦中にいる。)
この物語に登場する女性陣を考えてみると概ね彼女たちは巻き込まれ、男性たちに影響されていることがわかる。
南部では圧倒的に男性優位で女性は男性の周りに配置され、そのために消費される。
ローズは子を生む役目を露骨に告げられてサトペンを恨んでいる。彼女はサトペン似人生を狂わされたと思いこんでいる。(が、実はほぼ自滅していることが描かれている。)
エレンは南部に疑問がなく無知だがそれゆえ幸福に死んだ。
クライテムネストラは女性性を否定して従僕として生きている。
私がこの物語で一番謎だったのはジュディスで彼女は父親であるサトペン(とエレン)婚約者であるボン、さらには兄のヘンリーからも道具として扱われているが、常に自分がないように動いている。とにかく真意が汲み取れない。存在感がないが曖昧に悩んでいるわけではないが、妙に行動が明確である。他人に自分の大切な手紙を託したり、親族の墓を用意したり、ボンの息子を引き取ったり。彼女には感情の起伏がないように感じる。この物語で起こる何事も彼女にダメージを与えていないようだ。
呪いで身を滅ぼす男たち、だが強権で周囲の女性も不幸にする。これが呪いの構造というかアウトラインだろう。

■アブサロム、アブサロム!とは
「サンクチュアリ」、「八月の光」と比べてこの物語がわかりにくいのは扱っている悪がわかりにくいからである。例えばレイプ、黒人差別そういった一言に集約できない。
フォークナーが作品を通じて呼びかけたかったのは「レイプや差別はだめよ」という言葉に集約できない。
彼は暴力が生まれる悲劇的な土壌や資質を一貫して書きたかったので、それは何かと言ったら南部という土地だった。
つまるところ善悪は概念であるから、南部での生活を書きたいわけで、そこには悲喜と清濁が混じり合っている。
南部が呪われていて地獄だ!というふうには言いたくなかったわけだ。だからクエンティンの本当の最後の独白がある。
長大な一個の「なぜ?」のような小説。