2019年6月15日土曜日

スタインベック/ハツカネズミと人間

荒野で凸凹コンビが出会ったらどうなるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。

誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。

私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。

この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。

天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。

スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。

私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。

この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。

マーク・トウェイン/ハックルベリイ・フィンの冒険

アメリカ文学界にそびえ立つ記念碑的な作品。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。

前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。

一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。

保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。

マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。

ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。

ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。

黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。

徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。

2019年5月25日土曜日

アシュラ

嫌な映画である。
ノワールというのは権謀術数、裏切り渦巻くどろどろした世界だが、最後は結局暴力がモノを言うわかりやすいジャンルでもある。
しかしこの映画はどうもすっきりしない。

結論から言うと登場人物が全員嫌な奴だから、ということになると思う。

「全員悪人」というキャッチコピーが非常に印象的な北野武監督の一連の「アウトレイジ」シリーズ。
たしかに凄惨であるし、登場人物全員が悪人だけあってどいつもこいつもろくでなしばかりである。
北野武の美学に則ったラストもいかにも虚無的だ。
しかし不思議と見た後はスッキリする。

映画というのはたいてい登場人物に感情移入してみるものだ。
そうなると俄然物語に興味が出てくる。
身近に感じられてリアルに思えてくる。
手に汗握る。

「アシュラ」でもそのプロセスは起こるわけだが、こちらの映画は登場人物が全員クズなのである。
クズと悪人はちょっと違う。
北野武の描くキャラクターたちは近寄りがたい暴力的な男ばかりだが、どこか愛嬌がある。
会話や仕草に愛嬌と笑いがある。
北野武自身が芸人であることに結びつけるのはいささか短絡的で、たいていどんなノワールでもそんな共感しやすい、というよりは応援しやすいスキが作られている。
もしくは悪いが格好いいのだ。

「アシュラ」の登場人物たちにはそれがない。
主人公はうまく立ち回っているふうだが、実際にはかなりドジを踏んでいるし、病気の女房を看病しながらも浮気はしている。
すぐにカッとなって後先考えずに行動する。
ガキ扱いしていた後輩が上司に気に入られているのが気に食わない。嫉妬する。

悪辣な男パク市長はサイコパスである。
こういうキャラクターは大抵サディストのように書かれることが多い役柄だが、この映画はそんなキャッチーなことはしない。
単に権力と金にとりつかれた汚い男である。
イカれているが魅力的ではないのだ。

検察側のキムも一見寡黙でできる男を装っているが、いざとなると頼りにならない。
情けない。

みんな欲望が人一倍強いわりに、痛がりですぐに保身に走る。
かっこよくない。

ここで描かれているのは確かに邪悪だが、それはフィクションにありがちなロマンティックな狂気ではない。(この言葉は春日武彦さんの本の名前から拝借した。)
私達が抱くありふれた、小心な欲望から生まれた狂気なのだ。
これは見ても面白くない。
むしろ自分が心中密かに抱えている欲望を見せつけられているようで気分が悪い。

かっこよくないクズがかっこよくないクズと争う。
これはすっきりしない。
大量の血、痛々しい暴力という装置によって緊迫感だけが高まっていくが、ラストのラストまでそれが解消されることなく終わる。

私達全員を糾弾しているわけではなかろうが、暴力とはこんなものだ、と汚物を叩きつけているようでその姿勢に顔をしかめながらもどこか楽しくなってしまうのだ。

何回も見たいような映画ではないが、この作りの底意地の悪さにはゾクゾクした。
よいね。
韓国映画はやっぱりやりすぎで、残酷でとても面白い。

リチャード・ブローティガン/芝生の復讐

ブローティガンは大学生の頃に「西瓜糖の日々」を読んだっけ。
だからもう10年以上前か。内容は殆ど覚えていない。
あちらは長編だったが、この本は短編集。
全部で62個の短編が収録されている。どれもとても短い。ショートショートくらい。

どの短編も日常を切り取ったような語り口で、主に現実的な内容について平明な言葉で書かれている。
しかし日記と言うには唐突で脈絡がないし、かと言って幻想文学と言うには現実的すぎる。絶妙なバランスで書かれていて、しかしどれもがオフビートである。
余計なお世話だと思うが、もっと恋愛もしくはセックスについて触れ、生活臭をなるべくげんじておしゃれに仕立て上げたら、あるいはもっと意味の有りそう(で実はまったくない)もっともらしい言葉を充填すれば、もっと大衆の評価を得たのではと。それだとブローティガンが好きな人はそっぽを向くだろうが。

ものによっては一風変わった世捨て人のボヤキ集みたいな趣があり、仕方なく入った冴えないバーに忘れられた使い込まれたノートを読んでいるような趣である。(実際には日記名ているが、きちんとした文学作品である。こんなにも引き込む日記はない。)

もとはといえばマッカーシーの作品に触れて、そのアメリカ像に拭い去ることのできない血の匂いを嗅ぎつけたのが、私がアメリカ文学にハマった要因の一つだ。
風変わりなビートニクだったブローティガンには暴力性がない。しかし私は書き方としてのアメリカ文学を彼の文章に確かに感じ取った。
アメリカ文学(少なくともその一部)は徹底的に肉体的である。
感情表現より肉体表現が優先される。それは運動であり、現象である。
完全に好みだが、私は人の運動を見て(読んで)その人が何を考えているのか、今どんな心情なのかを想像するのが好きなのである。(直接的に心情を描くのは何故かあまり好きじゃない。)
ブローティガンの短編はどれも幻想というには具体的である。いくらか時代が違うものの私達が送っているのとほぼ同じ生活が書かれている。
オフビートでぶっきらぼう。動きは早くないがそこに書かれているのはちょっとした運動たちである。
人の心情を描き出すのは不可能である。だから絵画や音楽は優れている。なぜならそれは「私は悲しい」という気持ちをそのまま表現することができないからだ。だから別の形態をとってそれを表現しようとする。
一方で人の気持ちは複雑で多層的だから、「私は悲しい」と言葉にすることはたしかに真実だが、それが全てではない。大抵は悲しみ以外の気持ちが含まれているからだ。
心情を言葉にすることはわかりやすさを獲得させるが、同時に多層的な感情を固定化しすぎてしまう。
だからブローティガンはそれを直接書くことを良しとせず、感じた気持ちをそれを感じるに至った運動(=日常の一部)をまるごと書くことにしたのだ。
しかし人は生まれたときから連続しているから、1日の1部を切り取って読ませても書いた人と読む人で感じる気持ちは別物である。
この断絶が文学であり、私にはとても面白い。

最後は拳銃自殺したブローティガン。
この本に書いてある小説の中には思わずにやりとさせられるものも多いが、手放しで明るいものはほぼない。
どれもなんとも言えない憂鬱をその内に含んでいる。
毎日を送ることはできる。しかし常に不可解だ。そんな気持ちは単に読みての心情を投影しているだけだろうか。

生きにくさを感じている人はこの本を読んでみると良いかもしれない。
めくるめくスペクタクルはないし、ときによく意味すらわからないが妙に「なんとなくわかるな」と思うのではないかと思う。

マーク・トウェイン/トム・ソーヤーの冒険

最近はアメリカ文学を好んで読んでいる。
名作は数あれど必ず名前が上がるのがマーク・トウェインの「ハックルベリィ・フィンの冒険」。読んでみるかと思ったのだがこの話には前日譚というべきもう一つの物語があって、それが「トム・ソーヤーの冒険」。
流石に名前くらい走っているが読んだことがなかった。子供向けの冒険小説だと思っていたから、なんとなく子供の頃に読みそびれてそのままである。

読み始めると作者のまえがきで「この物語は子供が主人公で読者も子供を想定しているけど大人も読んでくれよ」って釘を差してくる。
ほうほう、ってページをめくるとたしかに面白かった。

子供の頃学校からの帰路、道路の上に引かれた白線の上を歩いて家に帰った。この線を踏み外すと死ぬからである。
祖父母の家に向かう新幹線の車窓の外、時速200kmで流れ去るその景色。家々の屋根の上には忍者が走って電車を追いかけていた。
子供の頃にはいろいろな法則があった。それは呪いであり、ルールでもあった。また子供同士の共通の言語でもあった。
人気のない校舎には人知を超えた存在が密かに潜み、また特殊な指の組合せはそれらの魔に抗する力を秘めていた。
それらは他愛のない子供の想像力の産物であったが、しかし私はあれ程真に迫り(私達が語り合った虚構はたしかに真実だった)、そして愉快な空想を物心ついて以来したことがない。

この本にはそんな子供の呪いがこれでもかというくらいふんだんに書き込まれている。
土地も、言語も、肌の色も違うが、それでも彼らの会話の一つづつが懐かしい。
たしかにこれは単に子供に向けて作られた話ではない。なぜなら誰しも一度は子供だからだ。つまりこれは私達全員の物語。

普遍的な子供と大人の心理を扱いつつ、時代性も閉じ込めている。
一言で言うならおおらかさだろうか。
トム・ソーヤーはかなり破天荒な少年である。
多分小学校低学年くらいの年頃なんだと思うが、学校には全然行かないし、手の混んだ悪戯をするし、夜の12時位に家を抜け出したりもする。
やたら行方不明になって村の人総動員でトムを探したりもする。
現代なら超問題児で炎上確定だろうが、この時代だと結構大目に見られて暖かく見守られているといった体。
昔は良かったというのではない。概ね技術の進み具合で生活環境とそれに乗っかる社交性が変遷しているからだ。
現代には現代の呪いがあり、現代のトム・ソーヤーがいるはずだ。


2019年5月19日日曜日

ヘミングウェイ/老人と海

ヘミングウェイは学生の頃に何冊か読んだたことがある。
最近はアメリカ文学に興味があるので読んでなかったこの代表作に手を伸ばした次第。

小説というのは省略だと思う。
面白いと思うのはこれは本当にタイトル通りで、おじいさんが小舟で魚を取りに行くだけの話である。ページ数も少ない。

何かを表現するときに割と話が広がっていく(地理的時間的にだったり、人が死んだりして内容的に劇的にする)小説が多くてその”たくさん”の中に人生のなにかを入れ込んだりることが多いと思っていたのだけど、この話は逆にどこまでもスケールを小さくしていくというか、老人の3日間(ほぼ一人きり)を淡々と書いている。つまり通常の手法と違って、何かを付け足して本質を浮かび上がらしていくのではない。研磨して研磨して余計なものを取り除いて、そこにちょっとだけキラリと光る本質を取り出そうとしているのだ。砂金採りに似ているような作り。

もう一つ印象的なのはタイトルで内容的には「老人と魚」になるはずだが実際には海。
これはわかりやすい、というのもサンチャゴおじいさんが何度も行っているように彼にとって魚というのは友達であって、本当ならそんな崇高な奴らを撮って食う権利は人間などにはないのだ。食うために殺すという仏教的な迷いを抱えつつ、人は海に出ていく。
ただ自然に戦いを挑んでいく人間の姿を賛美しているわけではないのだ。
海の上では何一つうまくいかない、そして友人(サンチャゴ曰く兄弟)と命をとしてやり合う、というのはそのまま人生に拡大解釈することができる。
命がけで獲得した成果も姑息なサメが掠め取っていくように、とかくこの世では真剣勝負すら許されないのだった。

翻訳した福田恆存氏のあとがきが大変面白かった。
この人は基本的にアメリカ文学はヨーロッパのそれに比べるとつまらね〜と思っている人で、最近アメリカ文学にハマっている身としては諸手を挙げて酸性とはならないんだけど、言っていることは興味深い。

とにかく肉体で世界にぶつかっていくのがアメリカ文学で、私にはその無骨さが好きだ。世界を拳で制していくという世界観はむしろ嫌いなのだが、登場人物の心情を読みたくないのだ。想像する楽しみがないから。
そこ行くとこういう小説はやっぱり良いなと思う。

2019年5月12日日曜日

鼓直編/ラテンアメリカ怪談集

自宅の小さい部屋の閉じこもる私にとってラテンアメリカは未知の土地である。
メキシコでは麻薬戦争が常態化し、そして人々は死者の日やサンタ・ムエルテに代表されるように死にたいして独特の信仰を持っているとか。
それではキューバでは?ウルグアイでは?
全然わからない。
作家で言えば、ボルヘス、マルシア・ガルケス、バルガス=リョサ、コルタサルくらいか。
そんな私にとっての暗黒大陸であるラテンアメリカの、更に怪談とくれば買わないわけにはいけない。

死者が鬼として起き上がる中国の怪談、古式騒然たる荘厳な屋敷に曰くある幽霊が出現する英国怪異、表情豊かな妖怪たち恨みを持って、または死んだ女の幽霊が人を脅かす本邦の怪談。
どうもラテンアメリカの怪談はこれらとは合致しないようだ。
いわゆる私達の頭の中にあるオールドスクールな「怪談」の範疇に入るのは意外に少なくて、ウルグアイのキローガの「彼方へ」、メキシコの作家フエンテスの手による「トラクトカツィネ」のみだろうか。(これが一番幽霊譚かなと。個人的には抜群に怖く、そして面白い。)

いわゆる幻想文学という範疇に入るような作風の物語が多いが、面白いのは概ねどの話にも「死」の要素が入っている。
死を描くってどういうことだろう?
ただの死はニュースで聞く海の向こうの死と同じだ。痛ましいが数値でしかない。
つまり物語において死を描くというのは生を描くことだ。
わかりやすいのは日本的な幽霊譚で、多くの物語がなぜ彼もしくは彼女が幽霊となったのか、というのを解き明かすことが物語の軸になっている。(「モノノ怪」という非常に優れたアニメを思い出す。)

「断頭遊戯」や「魔法の書」などはそんな死に至る(あるいは至らない)奇妙な、数奇な運命をたどる生を描写していく。
幽霊にしても死後存在し続けるというのは生きている人たちにとっては慰めである。
そこをバツリと断ち切るのがラテンアメリカの死生観なのだろうか。だとしたらだいぶ救いがない。
そういえばこの本には天国や地獄は出てこない。彼らはいまある生だけがすべてであって、死後人間は何も残さずにただ消えると考えているなら非常に面白い。
死の意味が非常に重たくなり、同時に反対の要素である生もまた非常に貴重なものになっていくからだ。

死に侵食されるというのは生が危うくなることで、これは「ジャカランダ」(これは正統派の幻想)、「ミスター・テイラー」(これは風刺だが死が生を制圧している)などで取り扱われている。
「幽霊なんていないさ」しかし、死が確実に人間の性に影響を与えそれを幽霊と呼ぶこともできるかもしれない。「騎兵大佐」はそんな死が擬人化されているようにも読める。

死者たちがひょうきんに出歩いているイメージがなんとなくラテンアメリカにはあったけど、この本を読むとどうもちょっとそうでもないみたいだ。
この未知の土地の文学をもっともっと読んでみたい。