2019年12月8日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集3

2008年から2018年の間に発表された怪談を集めた、平成を怪奇小説という視点で切り取るアンソロジーのラスト一冊。

①京極夏彦「成人」
②高原英理「グレー・グレー」
③大濱普美子「盂蘭盆会」
④木内昇「こおろぎ橋」(※「こおろぎ」は「虫」偏に「車」)
⑤有栖川有栖「天神坂」
⑥高橋克彦「さるの湯」
⑦恒川光太郎「風天孔参り」
⑧小野不由美「雨の鈴」
⑨藤野可織「アイデンティティ」
⑩小島水青「江の島心中」
⑪舞城王太郎「深夜百太郎(十四太郎、十六太郎、三十六太郎)」
⑫諏訪哲史「修那羅(しよなら)」
⑬宇佐美まこと「みどりの吐息」
⑭黒史郎「海にまつわるもの」
⑮澤村伊智「鬼のうみたりければ」

記憶にいまだ新しい311、東日本大震災が起きたのは2011年。
この未曾有の大災害がどのくらい影響したのかはわからないが、怪奇小説では怪談の復権が起こったということをこの本で認識した。

このアンソロジーの1冊目は恐怖の対象は隣りにいる他者だった。彼らが本当は何を考えているのかわからなかった。愛情があるからこそ怖くなった。
2冊めは内省の時代。バブル時代が終焉を迎え、社会的な軋みが現実的な問題となって表れ不安を感じた人々は深く内省的に自己探求に潜り込んでいた。
この3冊めでは理不尽な天災と露呈した認識や対応の甘さによる人災により、多くの人が深刻なダメージを負った。家と街が壊れ、そして大切な人がいなくなった。
昨日まで元気だったあの人(たち)が今日はもういない。その途方も無い過酷さ、理不尽さを日本人は平成の世で再認識した。

この最後の本では明確に非日常、怪異、特に幽霊がはっきりと出てくる物語が多い。
そしてその幽霊や異形たちにははっきりと個性がある。
つまり生者が死を経験して死者になる。そして幽霊になるのである。
幽霊譚はミステリ小説に似ているところがある。
異常があり、調べてみると彼や彼女がなぜ死んで、なぜ成仏しきれずに恨みを持っているかがわかるからだ。幽霊の正体に迫ることは彼彼女がどう生きたかに肉薄することにほかならない。
典型的な日本の幽霊譚とはだから実は(生きていた)人を描く物語でもある。

今平成の終わりに親しい人があっという間に命を奪われる災害があった。
ここで怪談がその本来の意義を取り戻し、再び光を当てられたように思う。
理不尽になくなった人々が何を考え、どんな人生を送り、そして死を迎えたのか。
怪談はときに優しくもはや口のなくなった死者に寄り添う。
言葉なく死んでいったものたちをいわばここで代弁しているのだ。
(怪談の時代、すなわち口寄せの時代とも言えるかもしれない。)

④⑤⑥の実は死んでいた、という話の組み立て方は非常にわかりやすい。
物語が彼らの人生を紐解き、その無念を汲み取り、成仏させて空に返すのだ。

幽霊ではなくゾンビを扱う②も言葉の通じない死者との交流という意味でやはりこの範疇に属するように思う。

③はまさに生活、生きている人たちの日々を非常に冷徹に描いている。静かな毎日の中にも喜びや正気のほころびがある。人は生きて死ぬ。

①⑪⑭はもっと曖昧。名状しがたい怪異を扱っている。どれも土着の地方臭がつよいこともあって、ここで描かれる怪異は自然そのものを表しているようだ。周りの人間は翻弄されるが、それが何なのかはわからない。回避することもできない。
その探求というのは常に私達の好奇心を掻き立てる。

⑩はちょっと変わっていてこれはゴースト・ストーリーであることは間違いないが、偶然ですれ違いほんの一瞬だけ交差した人生が、幽霊の、つまりかつての生者の人生を描写し得ていない。だから「あの人はなんだったのだろう」という疑問が残り、これがまた妙に切ない。

怪談の復権。
ここでいう怪談とは理不尽への説明であり、代弁である。
死者のためにできることは一つもないので、死者に無念を語らせるのも生きているもののため。
そういう意味ではこの本に収録されている作品の多くが優しい。
今の時代に怪談がそのように人に寄り添うように機能するのは私には大変面白く見える。
すべての怪談がかくあるべきだとは全く思わないが、ただ血みどろにすれば怪談だと考える人がいるとしたら、その人はわかってない。

2019年11月24日日曜日

グレッグ・イーガン/ビット・プレイヤー

久しぶりに読むイーガン。

バリエーションに富んだ作品が収録されている。
面白いのは難民問題をタイムトラベルを絡ませてSF的に書いている「失われた大陸」。面白いネタを選んだ結果、というわけではない。
難民問題の核をむしろタイムトラベルというギミックを使うことで露骨にわかりやすく描いている。ここで強調されるのは具体的には隔絶と孤独感、どこにも所属する事ができない人をどう救うのか?または逆に排除するのかという問題だ。
後書きによるとイーガンは執筆が後回しになるくらい、この問題に熱心に取り組んだそうだ。
非常に効率的な考え方が反映された小説を多く書く人なので(面白いのは彼が書く物語は結果的に非常に感情的なのだが)、この事実は面白かった。

その他はいつものイーガン節。
意識の拡張や変遷が作品の根底にあり(テーマそのものではない)、そこから物語が動き出していく。
資格の拡張、そこから意識と記憶を非人間体への移植(彼は人間でもロボットでもないので周囲との摩擦が生じて物語になる)、さらにジャンプアップしていき(この短編集は日本オリジナルで作品のチョイスと並べ方は非常に巧みだと思う)印象的なのはラスト2つの中編。
はるか未来、どのくらいかというと僕らがもう古代人として伝説的に思い出されるくらいの未来。
肉体を捨てた人類を含めた様々な人種がデジタル情報になって広大な宇宙を行き来する融合世界アマルガムを舞台にした小説群。

肉体を捨てて意識をデジタルに、というアイディア自体はありふれたもので、私達も攻殻機動隊を始めいろいろな作品で慣れ親しんでいる。
多くが肉体を乗り捨てる、不老長寿になるといった考えにとどまっている中、イーガンはその先を進んでいる印象。
精神など肉体のおもちゃに過ぎないというが、逆に言うと肉体の軛から抜け出した精神は自由に選べる肉体、はたまたその肉体自体なくても存在できる意識となってどんどん変容していく。
衣食住、食欲、性欲、睡眠欲といった肉体に起因する”問題”から開放された人間の精神はどんどん現状から変容していく。
肉体的欲求は娯楽や美徳として昇華(消化)されている側面があるため、現代人から見るとモラルや常識が通じないので、イーガンの描く世界が偉くいびつに”非人間的”に見えるかもしれないが、逆にイーガンは人間の本質は精神、というとあれだがデジタル化できるデータだと捉えているわけで、非人間的というのは当たらない。むしろ肉体という制限がなくなったときに残る人間の本質とは?という問題に真摯に取り組んでいるのがイーガンでは?


2019年11月23日土曜日

沼野充義編/ロシア怪談集

物語というのはそれが書かれた土地、時代を反映するものである。もちろん怪談だってそう。これを読めばその土地に暮らす人の生活が、そして何を恐れていたかがわかる。

私はロシアに関してはほとんど無知だ。
学生の頃に読んだドストエフスキー、最近ナボコフの「ロリータ」を読んだっけ?レムはロシアではない。そんなところだ。
この短編集に関しても他のアンソロジーでゴーゴリの「ヴィイ」を読んだことがあるのみ。

怪談にいろいろな形があるが古典に関して言えば出てくるのは、幽霊か化け物である。
これには当然その次代の死生観、さらには信仰と宗教が関わってくる。
世界は今より暗かった。科学の光は田舎に届かず、ランプの照らす僅かな空間の外に何がうごめいているか、わかったものではなかったのだ。

特定の現象、感情、出来事を擬人化する、もしくは言い訳をつけるための怪異だとすると、幽霊や化け物はなにかの比喩であり象徴になる。
つまり記号的な存在なので文字で表現されれば背景が読めるといった寸法だ。
つまり記号であるということは意思伝達のための表現である。

いろいろな土地でキリスト教がその他の宗教を異端として押しつぶして全てを平らかにしてしまったが、もともとどこにだって土着の進行というものはあって、この本を読むとロシアにもそれが息づいていたことがわかる。

ロシア正教というのは教義的にはどう異なるのかわからないが、まず悪魔が出てくる。ルシファーの忠実な部下たちである。
それから有名な話だがロシアには魔女がいる。
瞼が地面まで垂れた鉄の魔物がいる。
それから血を好み、吸うことで仲間を増やす典型的な吸血鬼がいる。
もちろん死にきれずに広大で豪奢な屋敷をさまよう幽霊もいる。
いわば、キリストの威光も海を隔てた向こう側ほど強くなかったようで、様々な怪異が混沌としている。

それから少し時代がさかのぼり、チェーホフ、ソログープあたりになると今度は恐怖の対象が自分たちの外側から内側に遷移してくる。
これはいわば日本でも流行った神経というやつで(本邦では有名な怪談「真景累ヶ淵」というのがある)、自分たちの感覚が狂ったゆえに自然に怪異を見て聞いてしまうというやつ。

ロシアはとにかく広い。そしていろいろな人種やルーツを持つ人がいるから当然摩擦があるわけで、その雑多な摩擦が様々物語を混ぜ込んでいる。
田舎の郷士がキリストを敬いつつも、魔女や怪異を(キリスト教の悪魔という文脈ではなくありのままを)恐れている、という構図からして非常に面白い。
多様性と共存であって、これは一見クリスマスも正月も同じように祝う日本的に見えるけど、実は結構日本の古典的な怪異というのは概ね方が決まっているから、これは間違いなくロシアの特色と言えるのではなかろうか。

2019年11月4日月曜日

チャールズ・L・ハーネス/パラドックス・メン

聞き覚えのない作者だったが、ブライアン・オールディスが推薦していること。そのオールディスの「寄港地のない船」と同じ竹書房から出ていること。翻訳したのが中村融であることという条件が揃えば買わないわけにはいかない。

ジャンルはオールディス曰くワイドスクリーン・バロックということである。というかこのジャンルはこの作品を褒めたいがためにオールディスが作り出したというのだからなおさら読まねばならない。いわば近代SFの一つの里程標的な作品と言えるだろう。
以前にも数冊このジャンルを読んだことがある。
簡単にまとめると時空(宇宙と時間)を舞台に(=ワイドスクリーン)、特殊な能力を持つ主人公(=バロック)が縦横に活劇を繰り広げる、という物語である。
真っ先に思い浮かんだのはむしろこのジャンルでは語られることがない(と思う)ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズ。

この物語の場合主人公であるアラールという男は記憶喪失で自分が一体何物なのか?という謎を追っていくことで物語が進んでいく。
一方私がちょうど思春期の頃、日本ではセカイ系といわれる一連の物語が非常に流行ったことがある。
「新世紀エヴァンゲリオン」以降の、作品名を上げると高橋しんによる「最終兵器彼女」など、どこかで読んだので間違っているかもしれないがとある人(名前は忘れた、東浩紀氏だったような)によると「主人公たちの問題がそのまま世界の命運に紐付いてい」るような作品を指す言葉、ジャンルだったと思う。
ちなみに最近読んだ神永長平の「戦闘妖精雪風」もちょっとこの雰囲気あった。

この「パラドックス・メン」では銀河を舞台に地球の命運をかけた闘いがあり、どうもその鍵を握っているのが主人公とその正体、ということになっているので、個人的にはこの作品、さらにはこの作品を説明するために生まれたワイドスクリーン・バロックという言葉にセカイ系を感じてしまったのである。
この作品「The Paradox Men」(が下の題の「Flight to Yesterday」という名で)発表されたのが1953年なので、もちろん2000年代周辺(雪風は1985年だそうだ)の日本の作品が(もし本当に受けたとすれば)この作品からの流れに影響を受けたのだ。

もちろん結構な差異もあるわけで、この作品のアラールは救世主、あるいはセカイの破壊者たる自覚を持って積極的に戦線に参加していくわけではない。むしろ巻き込まれ型の主人公を地で行く、追われる中で戦い、そして真相に近づいていく。(こういう物語の運び方はハリウッド的)
いわば主人公の自意識が超拡大して物語、つまり作品の中の時空を覆っていないわけで、あの「セカイ系」に特有の青臭さというはまったくない。
「パラドックス・メン」では時間を3次元に追加するもう一次元捉える4次元論が展開されるあたり、かなりまっとうなサイエンス・フィクションである。

ただこういうワイドスクリーン・バロックが、コードウェイナー・スミスによる一連の単語とキャラクターの世界と融合し、独自に飲み込み、ある部分を拡大解釈して生まれたのが「新世紀エヴァンゲリオン」(作中の人類補完計画はスミスの「人類保管機構」からとった、またスミスの作品に出ている猫少女ク・メルは日本でオタク流に解釈されたとか)などの日本の創作群だったらと考える。
そういった「線」を感じさせる作品なので、今読むのは非常に面白い。

2019年10月27日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集2

平成というすでに過ぎ去った時代を怪談という切り口で捉えようとする試み。
冒頭を飾る前作で時代性というものをたしかに私は感じ取ったのだった。
二冊目のラインナップは下記の通り。

①小川洋子「匂いの収集」
②飯田茂実「一文物語集(244~255)」
③鈴木光司「空に浮かぶ棺」
④牧野修「グノーシス心中」
⑤津原泰水「水牛群」
⑥福澤徹三「厠牡丹」
⑦川上弘美「海馬」
⑧岩井志麻子「乞食(ほいと)柱」
⑨朱川湊人「トカビの夜」
⑩恩田陸「蛇と虹」
⑪浅田次郎「お狐様の話」
⑫森見登美彦「水神」
⑬光原百合「帰去来の井戸」
⑭綾辻行人「六山の夜」
⑮我妻俊樹「歌舞伎」
⑯勝山海百合「軍馬の帰還」
⑰田辺青蛙「芙蓉蟹」
⑱山白朝子「鳥とファフロッキーズ現象について」

確実に作品の趣が1と変わってきている。
時系列で作品を収録しているから平成という中でも意識の流れに変遷がある事がわかる。
前回の感想でも書いたけど、前作収録作品が書かれた(性格には世に出た)平成初期には確実に親しい他人、家族や恋人が大いなる謎であり、その感情はふとしたきっかけで恐怖に変わることが、あったはずだ。そのぼんやりとした不安を怪奇小説に消化している作品がいくつか見受けられた。
ところが時代がかわってこの短編集だとそのたぐいのものはないかな。強いて言えば①は恋人がわからない、という要素はあるけれどもどちらかというと不穏な伏線が落とし穴のような恐怖に落ち込む典型的に落ちが聞いた怪談といえる。

どちらかというと私が感じたのは自己の内部に踏み込んでいく作品が多いこと。
平成中期は他者から離れて自己に向き合う、いわば精神病的な時代だった。
現実とのギャップが心身に軋みを生み出し日常生活に支障が出る。自己と深く向き合う中で本当の自分、または新しい自分に出会い、問題の解決に一歩踏み出す、というような。
浮世離れした少年が預言者のような男にであり、本来の自分を見出していく④、アルコール中毒になり会社と社会から脱落した男が非現実で闘争し治癒に向かう⑤、忌み嫌う父親の血が自分の中に流れていることを自覚し、そして同一化していく⑥、ぼんやりと霞がかかった日常を生きる女が本来の荒々しい自分を取り戻す⑦までが、そういった流れになっていて非常に興味深い。私小説的になりがちなこういう物語で、暗いおとぎ話のような鈍い光を放っている⑦は特に好きだ。

一方で怪談が現代に息を吹き返して豊穣な花を咲かせたのも平成中期だったのかと。
平成を代表する怪談の一つ「リング」シリーズのスピンオフである③、「ぼっけえきょうてえ」の作者の田舎の土着ホラー⑧、大阪の下町を舞台にした近代ノスタルジックホラーの⑨、人と神の交わり、そして神の摂理の前に人間としてただただ呆然とするしかない⑪と⑫などなど。題材としては古典的と言っても良い恐怖の要素を現代という、怪談が成立しにくい明るい舞台装置の中で見事に復活させていて、どれも面白い。
特に浅田次郎は「鉄道員」などだけ読んで良くも悪くも読みやすい本を書く人だと思っていたが、実は全然違った。こんなに美しい文体を書けるとは。なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。怪奇小説の短編集があるということで必ず読む。

世の中が電気と知識の敷衍によって便利になっていき、幽霊たちの居場所はなくなるようだが、この本を読むと恐怖という感情は普遍的で現代平成の世になってもちっとも減じていないようである。

マイケル・フィーゲル/ブラックバード

誘拐事件や監禁事件の際に加害者と被害者に特異な関係が築かれることがある。
一種の共存関係が結ばれるわけだ。ストックホルム症候群という名称で知られるこの概念はフィクションでの登場頻度は高いのではないか。

この物語は一人職業テロリスト(本来の思想的テロリストと区別するために私が勝手に作った言葉です。)が犯行現場で女の子を拾ったところから物語が始まる。
禁断の関係がドラマティックに物語を盛り上げるように、この小説も恋愛小説といえる。
誘拐犯と被害者、そして父親と女の子と、二重の意味で禁断の関係が描かれている。
恋愛では互いに秘密を共有することで関係性が深まるという。
罪の感情というのはとっておきの秘密であり、これを時期に展開する物語は非常にロマンティックだと言える。

被害者に生じるストックホルム症候群は一種の防衛機制で圧倒的な力関係の中でサバイブするための術である。
一方で共依存という関係があって、これは不健全な関係で二者がそれぞれの役割にハマって依存すること。ときにはこれは自分によって良くない自覚があってもその関係から抜け出すことができないとか。
職業テロリストなもので終日さらってきた女の子を見張っているわけには行かない。
女の子の方はやろうと思えば逃げ出せる環境で色々な理由をつけて結局誘拐犯の男から逃げることをしない。男は自分を間接的に殺そうとしたのにである。
不幸な家庭に育ったこともありどこにも居場所がないのが一つ、テロリストに鍛え上げられて殺人を犯した今帰りにくいのが一つ、男と奇妙な関係になっているのが一つ。
だが実際には新しい生活を始めるのが怖い、もっと素直に言えば生活スタイルを変えるのが文字通り(テロリストであり、組織からも追われているので)死ぬほど面倒くさいのだ。ブラック企業からなかなか退職できない社畜みたいなもんだ。忙しくて時間ないし、まともなスキルもないしといっている間にズルズル時間が立ち更にやめにくくなる。

面白いことに誘拐した男の方も同じである。
幼いときに否応なしにこの業界に突っ込まれ、中年を迎えるまで他の生き方を知らないのだ。彼が女の子を拾ったのは寂しかったからである。互いに食い合う裏社会で信頼できる仲間が欲しかった。(この恋愛小説がある観点ではずっと片思いなのは面白い。)
彼は組織を抜けたあとも殺し屋以外の生き方を模索しようとはしていない。

この本にはカタルシスがないのは意図的なのだろうかと考える。
フィクションとして殺し屋の追われ命を狙われる生活も楽しそうには書かれていない。
断片的な男の日記をたどっていく少女の旅路だが、しかし殺し屋のくせによく寝る男の本質も特別ニヒルでもない(故に私は好感が持てた)、つまり冴えない男であり(これは本書の帯にも退屈なという形容詞で表現されている)、そんな男を追う少女の姿はなかなか納得できないものがあるが、その他人には理解不能な情熱が恋なのだろうかな?と思った。

2019年10月15日火曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集1

題名の通り終わりを告げた平成という時代に世に出た日本のホラー小説を集めたアンソロジー。
過去の偉大なアンソロジーに対する敬意とその衣鉢を継ごうという意思を感じる一冊。
平井呈一が翻訳した小説を集めたアンソロジー「幽霊島」を読んで再燃したホラー熱で購入。というのも私はあまり日本の最近の作家の小説を熱心に読んでいるわけではないから。

収録作は下記の通り。
①「ある体験」吉本ばなな
②「墓碑銘〈新宿〉」菊地秀行
③「光堂」赤江瀑
④「角の家」日影丈吉
⑤「お供え」吉田知子
⑥「命日」小池真理子
⑦「正月女」坂東眞砂子
⑧「百物語」北村薫
⑨「文月の使者」皆川博子
⑩「千日手」松浦寿輝
⑪「家──魔象」霜島ケイ
⑫「静かな黄昏の国」篠田節子
⑬「抱きあい心中」夢枕獏
⑭「すみだ川」加門七海
⑮「布団部屋」宮部みゆき

この本は明確に収録作に指向性があるわけで、なにか訴えたいことがある。もしくはまとめて読むことに意味がある。
怪奇な物語、という側面から一つの時代を切り取ってみようという試みであることは間違いない。
時代性という言葉がなにか、というのは最近考えるのだが、一つに時代性を抽出することで比較検討ができるというのがある。
恐怖(とそれを嗜好する趣味)は普遍的な感情だが、流行り廃りだけでなく物語にはそれが書かれた時代が反映されている。
ここでは「平成」のそして「日本」という時空が抽出されている。

収録作を読んで思ったのが、人間、つまり他者との関係性がそのまま怖い話になり得るなということ。
独断で収録作を対人関係に起因する物語だと感じたのは①②⑦か。どれも超自然に片足は突っ込んでいるが、幽霊譚や怪談というのはちょっと違う。どれも怪異の発生源は明確に実在する具体的な人間関係だ。
電力が行き渡り明るくなった世界に、暗がりで生きるモノたちの居場所が亡くなったのもそうだろう(幽霊がリアルではなくなった、説得力が減じた)。
(また穿ってみれば現代人の比喩が下手になったとも言えるかもしれないが、)幽霊は因縁の可視化だとすると恐怖の一つが人間関係であることは昔からそうだが、どうも平成ではいま生きて横にいる親しい人間が恐怖の対象でもあったわけだ。
核家族化から少子化へ、共働きによる労働時間の増加などによる孤立化が生み出した現代なりの恐怖なのかもしれない。知らない、ことが何よりの恐怖になり得るのだから。
④や⑤は隣人に対する恐怖と考えることができるから、この段階を経て、しかしすぐにふっとばしてもう親や恋人が何を考えているのかわからない、と飛躍するのは面白い。ここは日本ならではか?

典型的な怪談もあるが、どれも見事に平成の世に馴染んでいる。
⑧のような短い短編を見るとわかるのだが、どの物語にも怪異を呼び出すための装置が巧妙に配置されている。
というよりは恐怖の本質はいくつかの類型があるが概ね普遍的であり、あとはそれを日常生活になじませる手段が必要だとすれば、各作中に出てくる風俗という点で怪談というフォーマット自体がその都度の時代を色濃く反映しているのも必然というわけだろうか。

⑫などは現代でしか生まれ得ない怪談であり、そういった意味では非常に面白い。私はなんとなく盲目的な科学への信頼は宗教じみていると思っているのだけれど、そういった意味ではSFは未来(と現代)の怪談とも言える。(ここは例えばバラードなんかを引き合いに出すともっと面白そうだ。)