2020年3月29日日曜日

リチャード・ブローティガン/アメリカの鱒釣り

ブローティガンの本を読むのはこれで三冊目だが、これが一番わからないかもしれない。
彼はビート・ジェネレーションの一人に数えられることもあるそうだが、非常に面白いあとがきにも描いてあるとおり、私はビートニクには感じられない。
弾いたら割れそうに衝動が詰まった無軌道な若さがないし、ドラッグなどで酩酊している様子もない。
アウトローではあるが、アウトローの群れには属さない本物に思える。

この本には220ページ弱に50弱の短編が収められている。
その短さも、内容的にも物語というよりは詩に近い。
厳しくも何回でもないのだがその真意を掴むのは本当難しい。
さながらタイトルの鱒のように掴もうとするとこちらの理解からぬるっと逃げてしまうように。
そこにあるのにつかめないのだ。
こりゃ一体なんだろうと思った。
ブローティガンの作品にはいろいろなものがないのだ。

物語がない
若さがない
酩酊がない
脈絡がない
説明がない
常識がない

こう書くと全然面白くなさそうな物語が想定されるが実際にはそんなことはない。
このわかりにくい本は全世界の少なからぬ人々の琴線を打つなにかがある。

例えばこうだ。
アメリカを旅して回る風変わりな男がいて、彼は人当たりもいいし、頭もいい。
ただ普通の教育を受けて、一箇所に腰を落ち着けて働いた経験がないから、同じ文化に所属していても彼の真意が測りかねる時がある。
彼は危険な男ではなく、日差しのよく当たる公園で休んでいるといつの間にかよってきている、割と大きい猫のような男だ。
そんな男がもっている古びた、小さい、革のカバーがついた日記がなにかのはずみでベンチに置かれていて、持ち主の彼は通りの向かいのスーパーに何かを買いに行っているのだろう。
それをちょっとした好奇心で悪いと思いながら読んでみたような感じだ。
殺しの日記なんてものじゃなくて、彼の目で捉えたアメリカが書いてある。
なんだか夢中で読んでいると後ろに持ち主の彼が立っていて、ごめんと謝ると手エレ臭そうにその日記帳を受取る、なんだかそんな風景が思い浮かぶ。

彼はホントの意味でドロップアウトでアウトサイダーだ。
ドラッグアビューザーが日常の前項の正反対にいる存在なら間違いなく彼は通常の世界に属するものである。(キリスト教における反キリスト主義者のように)
ところがブローティガンは日常に暮らしながらも水平というより垂直に底から離れており、(彼から見たら)奇妙な私達の生活をノートに書き付けている。

故に悪行としての酩酊がなく、また彼は若くもない。年老いてもいないが、少なくとも家庭があって、アメリカを敵意と可能性の大地としては捉えていないようだ。
そこでは殺人やドラッグの売買、喧嘩などの暴力=事件は起きなく、日々が続いていく。

野生の川をちょん切って反物かなんかのように長さ単位で売ってしまうようなホームセンターがあり、また釣った鱒にポルトワインを飲ませて殺してしまう最高死刑執行人がいたり、超常に片足を突っ込んでいるがそこにあるのはやはり日常である。

擬人化されたアメリカの鱒釣りが象徴するように、非人間がアメリカの生活の象徴となって行動している。

一方で「クルーエイド中毒者」「アメリカの鱒釣りテロリスト」のようにほぼ幼少期の体験をそのまま言葉にしたような作品もあって、これは日本人の私もノスタルジーを感じるわけなんだけど、つまり彼のない事件のない、ドラマのない文体というのはつまるところ日常を書いているのであって、それが言葉の限界迎えたときブローティガン流のアメリカの鱒釣りちんちくりんや最高死刑執行人たちがどこからともなく現れ、そして河川が売りに出されたりしだす。

なるほど確かに一風変わっていて真意は測りかねるけれども、なにやらブローティガンさんのほら話といった感じで非常に優しくそして現実的である。

2020年3月22日日曜日

ニコ・ウォーカー/チェリー

青春小説と言うにはあまりにも情けなく、
戦争小説と言うにはあまりにもカタルシスがない、
ドラッグ小説というにはあまりにもおしゃれでなく、
犯罪小説としてはあまりにもしょぼい、これはそんな小説。

この物語はいうまでもなく自伝的フィクションである。
実際の著者ニコことニコラス・ウォーカーは、第4歩兵師団第167装甲連隊の衛生兵として(本人が自分のことをどう思っているかはわからないが)戦場では7つの勲章を授与された優れた兵士であり、PTSDで21日間も一睡もできなかった。
ニコはチェリーの「俺」になり、つまり道化を演じることで本を書き、現実を笑おうとしたのだが、しかしその”変身”はアメリカのギラギラ輝く巨大なドリームの、その色濃い影をくっきりと読者に意識させる。

IED(即席爆発装置)で爆破されて残骸となったハンヴィーのハンドルから垂れ下がる肉片。吹き飛ばされて顔がなくなった死体。

友人の金庫をこじ開けて盗んだクラック。オキシコンチンに溶ける奨学金。禁断症状で始終吐くゲロ。

「俺」にはほとんど自分の意志がない。
流されるようにドラッグに溺れ、流されるように兵士になり、流されるようにイラクに行き、そして帰ってきてまたドラッグに耽溺した。金がなくなったので純粋にドラッグを買う金を稼ぐために銀行強盗を始めた。
彼は別に貧困層の出ではない。ギャングでもない。

人に馬鹿だと思われている「俺」にはたしかに意思がない、向上心がない、信念もない、愛国心もない。
しかしその愚かさを命綱にして地獄=アメリカの底辺の現実にスルスルと降りていく。
そして馬鹿だ馬鹿だと言われながら、地獄の刻印をその体に刻みつけて帰ってきて、その二度目の贈り物の人生を自分の手で破滅させようとしている。
おい、この物語はバカの一生というにはあまりにも陰惨ではないか?

あまりにも軽い命、ここで現実と作品がごっちゃになってしまうが、しかしニコラス・ウォーカーは実際には真の愛国者であり英雄であった。
彼を誰が馬鹿にできるのだろうか?(私は彼が徹頭徹尾聖人だと言いたいわけではない。)
いわばアメリカン・ドリーム、グレートなアメリカの実態を暴くのがこの小説なのだと言いたいのだ。

彼がホワイトトラッシュなら、その馬鹿なカードの裏は戦場の英雄ってわけだ。
ニコラス・ウォーカーはなかなかどうしてクレバーなジョーカーかもしれない。
彼の軽口に騙されてはいけない。

2020年3月14日土曜日

スティーヴン・キング&ベヴ・ヴィンセント編/死んだら飛べる

キングとキングの小説の解説本を描いている作家ベヴ・ヴィンセントが編集したホラー小説のアンソロジー。
原題は「FLIGHT OR FRIGHT」Frightは怖がらせるの意味。
飛行機に関するホラー小説を集めた短編集である。

収録作品は下記の通り。
「序文」スティーヴン・キング/白石朗訳
「貨物」E・マイクル・ルイス/中村融訳 ★初訳
「大空の恐怖」アーサー・コナン・ドイル/西崎憲訳
「高度二万フィートの恐怖」リチャード・マシスン/矢野浩三郎訳
「飛行機械」アンブローズ・ビアス/中村融訳 ★新訳
「ルシファー!」E・C・タブ/中村融訳 ★初訳
「第五のカテゴリー」トム・ビッセル/中村融訳 ★初訳
「二分四十五秒」ダン・シモンズ/中村融訳 ★初訳
「仮面の悪魔」コーディ・グッドフェロー/安野玲訳 ★初訳
「誘拐作戦」ジョン・ヴァーリイ/伊藤典夫訳
「解放」ジョー・ヒル/白石朗訳 ★初訳
「戦争鳥(ウォーバード)」デイヴィッド・J・スカウ/白石朗訳 ★初訳
「空飛ぶ機械」レイ・ブラッドベリ/中村融訳 ★新訳
「機上のゾンビ」ベヴ・ヴィンセント/中村融訳 ★初訳
「彼らは歳を取るまい」ロアルド・ダール/田口俊樹訳
「プライベートな殺人」ピーター・トレメイン/安野玲訳 ★新訳
「乱気流エキスパート」スティーヴン・キング/白石朗訳 ★初訳
「落ちてゆく」ジェイムズ・ディッキー/安野玲訳 ★初訳
版元ドットコムより)

飛行機が怖い人はたくさんいる。
墜落を連想させるからだろう。
でも実際には飛行機事故が発生する可能性はめちゃくちゃ低いと聞く。
自動車事故のほうがよほど頻繁に起こるそうだ。
一節によると0.0009%とか。

キングは序文にてこれに加えて、狭いところに押し込められる恐怖、それから自由意志の剥奪による恐怖を上げている。
例えば自動車を自分で運転しているなら高速道路飲めの前で重大な玉突き事故が発生しても自分の運転技術で回避できる、と人は思うのである。
当然自動機の運転手の技術より飛行機のパイロットのほうが技術は高いと思うけど。
自分の運命が自分の手にある、と思えない(これは当然思い込みであるので)と人間は不安になる。
飛行機にいる間はなにかが起こっても自分でできることはほぼできない。
墜落している長いとも短い間に家族あてに震えた字で遺書を書くことくらいだろうか。

実際アンソロジーに収録されている作品のうち、民間用の旅客機が墜落する作品は4個。
予想より少ない。
純粋に高所からの個人的な墜落を描いているのは詩の形をとっている「落ちてゆく」だけ。
落ちるのは結末であって、普通はそこだけ描いてもホラーにはならない。
(だから「ルシファー!」の墜落の書き方は相当すごい。)
読みては落ちるぞ落ちるぞと思って読んでいるから、むしろ落ちたら安心してしまう。
要するに落ちるぞ落ちるぞと思わせるのがホラーだから、ホラーの本質はオチにはない。
むしろその工程にこそホラーの醍醐味がある。

さすが作家は、飛行機というシチュエーションを生かして墜落やそうでない恐怖をそれぞれ編み出している。
つまり飛行機が舞台で、その上に独自の恐怖を乗っけるというやり方。

ビアスとブラッドベリは単に空を飛ぶという以上の、社会的機能を持つ飛行機の側面を描き、ドイルは技術の革新が新しい(恐怖の)フロンティアを人間の想像力の新しい空白にマッピングしたことを示している。

個人的に面白いのは戦争に関わる物語が6つ収録されていること。
戦争は死に直結しているし、その暴力的な表現でホラーにうってつけである。
イラク戦争の拷問に関連する権謀術数が暴力で動く「第五のカテゴリー」、それからなんといってもジブリの「紅の豚」の”あのシーン”の元ネタ(というかほぼそのままじゃネーカ)の「彼らは歳を取るまい」が最高。著者のロアルド・ダールは「チャーリーとチョコレート工場」の作者でもある。彼は実際に戦争のエースパイロットで撃墜王だった。

キングの実子ヒルの「開放」も良い。
これは世界の終末を観察する物語で、監視塔としてはそらとぶ飛行機はうってつけの場所に位置している。

こうやって見ると飛行機というのは、神や幽霊に近づく異界であり、着地するまで逃げることができない自分でどうすることもできない牢獄であり、最前線の戦場であり人が死ぬ地獄であり、そしてなによりその濃さが翻弄される人間の運命を端的に表しているのかもしれない。

2020年3月1日日曜日

フォークナー/響きと怒り

さきに「アブサロム、アブサロム!」を読んでいたから、後(1936年)に書かれたそちらより1929年に書かれた本書のほうがだいぶ読みやすかった。
理由としては3点。
・文体
・物語の動き
・物語の構造

文体
文体の方はアメリカ文学的というより、イギリス文学的な意識な流れに則っている。
つまり人間の意識をそのまま言語化しようかという大胆な試みで持って、人間の思考を時系列で文字で表現しようとする手法である。
ただ明らかに「アブサロム、アブサロム!」よりは読まれることを意識していて、露骨にわかりにくい表現は省かれている。
ただし第1章は重度の知的障害をもっている男性の意識を追っているから、どうしても構造上読みにくい。ただこれは思考法が健常人のそれとことなる、いわば思考の基底が異なる人間の思考を書いているのであって、(本書における)意識の流れ自体が読みにくいということにはならない。

物語の動き
物語の構造としては、本筋にいくつか印象的な事件が配置されており、それに沿って物語が進んでいく。
「アブサロム」では語り手の意識が行動を上回っており、言い回しもあって難解であったが、「響きと怒り」ではわかりやすい事件が配置されて物語が進んでいくから単純に読者としては読みやすい。

物語の構造
また、すでにしに去った幽霊たちを語りという信用できない言語で蘇生させようとする(もちろん作者に寄って意図された)はなから無理がある試みだった「アブサロム」に対して、こちらは素直に日記帳の語りで物語が進んでいく。
語りては必ずしも真実を語るわけではない(やはりそもそも人間が客観的な真実を語るのは無理がある)が、それでも読みやすさはこちらのほうに断然軍配が上がる。

フォークナーの特異さ
じゃあ「響きと怒り」は読みやすい物語がというとそんなことはない。
斜陽にあるアメリカ南部のコンプソン家の没落の様を描いている、という筋だがそこから何かを読み取るのが難しい。
フォークナーの凄さというのは、単純に良い物語を書くというのではなく、長大なアメリカの歴史を切り取って物語にまとめることができる、という能力ではなかろうか。
物語に起承転結や筋が必要なのは、単にいえば読みやすくするものである。
歴史書だって当然事件に終始するものであって、長い目で見れば線的だが実際は点の集合点である。
「響きと怒り」では短い、「アブサロム、アブサロム!」では長期の歴史を線的に書こうとするのがフォークナーの試みというか狙いである。
いずれの物語でもショッキングな出来事は含まれるが、それが本質でないことは読めばわかる。それを含んだ日常を書くのが彼の目的であり、いわばそれは日常である。
日常を事件に置き換えないで描ききるというのはなかなかできることではない。
故にフォークナーの作品は非凡である。

響きと怒り
フォークナーは自分の生まれ育った土地に着想を得て、そこから虚構の街、底に住む虚構の人々を作って彼らの生きるさまを丹念に描いた。
つまり南部とその生活というものがフォークナーの書きたいことそのもの。
彼はこの南部という土地を愛していた。
その上で本作がどんな物語かというと、相変わらず無知傲慢人種差別男尊女卑暴力搾取人間の暗部がこれでもかというくらい書かれているが、これは南部の(特定の)人間が卑しく結果的に南部は地獄の様相を描いている、というわけではない。
「八月の光」「サンクチュアリ」などの作品に比べると「響きと怒り」「アブサロム」に関しては人間の暗部をことさら書きたいわけではない。
4章の主人公ジェイソンを見て嫌なやつだが自分みたいだと思った。
この物語の登場人物たちは大悪人というわけではなく、これは私達全員である。だからこの物語が神話的であるといえる。
フォークナーのミューズでもあるキャディという女性が物語の中心であることは間違いない。
殆どの登場人物の人生が彼女の行動に大きく左右されている。
いわば生きる事件であって、その影響を観察しているのが本作かもしれない。
登場人物たちが悪人でないと書いたが、かといって愉快な奴らかというとそんなことはなくて、つまり書かれているのが日常なのだからそれはそうだ。
一つ思ったのはこれは日常からの脱出だなと。
キャディは南部の没落しつつある一家に生まれ、理屈っぽくて頭は良いが生活能力のない父親、僻みっぽくて常にメソメソ泣いている不健康ぶる割には健康な母親、父親の性向を強く受け継いだ優しいが思い込みが強く妹に自分の運命を託している兄、重い知的障害を持つ兄、真面目だが意地の悪い兄、生活能力がなく姉にたかる叔父に囲まれて生きてきた。
彼女にとってよその男というのはそんな日常から脱出させてくれる存在だった。
2000年も20を数えた現代とは違うのである。
女性がトランクひとつで家を出てどうなるものでもない。
だが、キャディは家を出たもののやはりコンプソン家に(少なくとも20年ほど)は囚われた。
そんなキャディの失敗と無念を同じ道筋をたどりながらももっとうまくやってのけたのが自死した兄と同じ名を持ったキャディの一人娘、クエンティンだった。
彼女の広大でも荒廃しつつある屋敷からの脱出劇は、そのまま(近親相姦、人種差別、男尊女卑の)因習に囚われた南部からの脱出であった。