2019年2月24日日曜日

エルモア・レナード/オンブレ

ジョジョの奇妙な冒険スティール・ボール・ランにリンゴォ・ロードアゲインというキャラクターが出てくる。彼の決め台詞が「ようこそ、男の世界へ」というもの。かなり特殊なキャラクターで、敵役ながら異様な存在感を放っていた。主人公たちを妨害するのは真剣勝負をするためなのだ。覚悟を決めたもののみが命の取り合いをする真剣勝負をすることができる。それがリンゴォ・ロードアゲインのいう「男の世界」なのだ。

この本には2つの短編が収められている。表題作「オンブレ」は完全に西部劇の世界である。無人の荒野でガンマンが悪役と対峙する。
思い出したのが冒頭の「男の世界」だ。この世界での男というのは覚悟が決まった男のことを指す。それはオンブレと呼ばれるジョン・ラッセルなのである。
彼は馬車で目的地を目指す一行の中で唯一の男である。覚悟というのは何もただ殺す覚悟というのでは正しくない。それは困難に自分の意志で、強靭な体と実用的な経験で立ち向かうその姿勢のことだ。
一行の他の人間にはそれがない。いわば羊の群れであり、真の男ではない。だから彼らはラッセルを理解できないのだが、異常な状況下では彼についていかざるを得ない。彼に頼れないと荒野では生きていくことすらできない。
同じくジョジョの奇妙な冒険の主人公ジョルノに言わせれば「覚悟と暗闇の荒野に進むべき道を切り開くこと」なのだ。
ハードボイルドだ。ハードボイルドというのは寡黙で、酒に強く、腕っぷしが立ち、女性にモテる、というのは本質ではない。
覚悟が決まっており、そしてさらに人に優しくならないといけない。

リンゴォ・ロードアゲインは純粋に命がけの勝負を欲する社会不適合者だったが、ラッセルは違う。必要な時以外の暴力は欲せず(必要だと思うときは十二分にその力を発揮する)、合理的な人間で可能な限り無理な戦いは避けようとする。
ラッセルは一人でこの苦境を脱することができたろう。一行をおいて行けば簡単に。だかそうはしなかった。寄っかかられたらほっとくことができないのだった。

覚悟に加えて、この利他の精神、そしてそれと反比例する自分の命への無頓着さ、これこそがハードボイルドなのだ。
他の記事でも書いているが、ハードボイルドというのは独りよがりの世界なのだ。格好良くてもそれは外から見ればそう見えるだけで、たとえばラッセルに家族がいたらまたこの物語は違う見方が加わるだろう。
こういった特性は常に滅びゆく、なくなりつつある力として描かれる。開拓地としての西部が血の抗争を経て平定され、その役目を終えて消えていったように。

一方でもう一方の短編「三時十分発ユマ行き」の主人公はラッセルに比べれば人間的である。彼は覚悟、つまり職責によって男になる話。こちらのほうが短い分緊迫感があり、また主人公に共感できると思う。

サミュエル・ベケット/ゴドーを待ちながら

二人の貧しい男が決して来ることのない男をずっと待ちわびている。
待っている間することがないのでなんなやかんやで暇つぶしをしようとする。

いろんな物語には原型や典型があったりする。これは典型というよりはもはや日記に近い。動きがあっても繋がりがない。ただただ時間がダラダラと過ぎていく。途中で登場人物が増えるものの会話は妙にふわふわして噛み合わず、そして定まらない。走行しているうちに日が暮れ、待ち人は遂に来ないことが発表され、また明日は必ずその人は来るので待ってほしいと言われる。
これって何かと言われると私達の生活にほかならない。私達の生活は本当に同仕様もなく、そして自分たちは貧しいけどいつか救い主がきてそうすると私達の毎日は劇的に向上するはず。今は良くないけど今後良くなるから頑張ろうというわけだ。待ち人、つまりゴドーはキリストやその他のマスコットである必要はない。例えば宝くじが当たるでもよいし、お金持ちの男(との結婚)でも良いし、自分への正当な評価である出世や予期せぬ遺産相続でもよい。ゴドーとは私達の希望の総体、擬人化されたそれであり、そしてそれはくるくるとは言われているのに、決して来ることがない。

昨今のベンチャー起業家、実業家、金満家なら「主人公の2人は待っているだけで自分から行動を起こさない。彼らの貧困は自己責任。」とでものたまいそうだが、しっかり今作にはそんな金持ちが奴隷を引き連れて出てくる。彼ポッツォは奴隷を搾取することで生活の水準を満たしているのだ。満たされているがゆえにゴドーを必要としないが、そんな彼にも不幸が訪れる。
こうなると俄然ゴドー=死説が現実味を帯びてくる。無慈悲なゴドーを私達は待つ必要がないのだが。主人公2人は常に自殺が一つの解決策として検討している。待っても来ないならこちらから会いに行こうというわけだ。
死への欲求タナトス、しかしそれは貧者にのみ許された最後の贅沢でもある。一方止めるものは望まなくても迫りくる死を受けれなくてはいけない。

この本は限界までに余計なものを削っている。遂には話の筋すらなくなってしまった。そのシンプルさはさしずめ鏡となって人はそこに自分の顔、つまり自分の望むものを見るわけだ。そういった意味では読み手側にとっては楽しい本だ。作品の解釈をあーだこーだ考えるのは、受け取り側の醍醐味だからだ。正解はないので虚しくもあるんだけど…。


2019年2月17日日曜日

leave them all behind 2019@渋谷O-east

CONVERGEとNEUROSISが来日。これは行くだろう。
私なんて妙に焦って会社から抽選申し込んだくらい。そしてあっという間に当日が来るのだ。
開演後、ロッカーに荷物を入れるのももどかしいくらい逸る気持ちでステージ前に。

Self Deconstruction
久しぶりに見たが他に類を観ないバンドだなと改めて思った。
グラインドコア、パワーバイオレンス、似たようにうるさくて早い音を出すバンドはたくさんいるけど、よくよくこのバンドを目前にするとその特異さがすぐに分かる。
大きい特徴はほぼリフレインがない。メタル(ハードコア)はリフの音楽だというが、ほとんどはいくつかのリフによって楽曲が組まれている。いくつかの(多すぎない)コードがポピュラー音楽の楽曲を形作っているように。
ところがSelf Deconstructionは違う。リフを惜しみなく使い捨てていく。一回使ったリフはもう出てこない。(ように聞こえた。)まさに究極の贅沢。これって特にエクストリーム・ミュージック界隈ではかなり難易度が高いことに思える。尖れば尖るほどバリエーションを出しにくくなる界隈でお約束的なリフを使い回すことができないのだから。つまり弾き手の引き出しの多さが試されている。Self Deconstructionの楽曲をそういう観点で聴いてみると、ギターは確かに低音を貴重としながらも指板を文字通り縦横に行き来する相当フリーでフリーキーな弾き方をしている。すごい。グラインドコア、パワーバイオレンスに仕上げている、といってもその中身は相当異次元だよ。途中で「Concubine」のカバーを披露していたと思うけど、あのぶっきらぼうな曲ですらリフレインがあり、あきらかにセットリストで浮いていたもの。(もちろんとてもかっこよかった。)単に弾きまくるわけではなく、しっかりキャッチーなリフも挟んでいく。
3つのバラバラの個性がかっちりあっているからまた格好良い。お互いほぼ見ることないのに、決めるところはきっちり合わせてくる。

ENDON
昨年後半にリリースされた最新作「Boy Meets Girl」は明らかにそれまでの文脈とは異なる問題作だったと思う。そういった意味でも最新の形のライブを見たかった。
のっけからCONVERGEのKurt Ballouがプロデュースそた「Through the Mirror」のキラーチューン「Your Ghost is Dead」でぶっ飛ばす。いつものENDONだ。ところがライブが進むとどうも様子がおかしい。特に新曲群が異常だ。表面上はメンバー2人が垂れ流す激音ノイズがうるさいエクストリーム・ミュージックなのだが、なんだか…あれ?楽しい?すごく楽しい。なんじゃこれと思ったら、ドラムだ。豪腕だがリズムが明確ではっきりしたロックドラムだ。ミニマルなリズムがむしろロックを通り越してダンス・ミュージックに聞こえ始める。言語外のボーカルの存在感は一旦おいておく。そうなるとその他の音の出し方が非常に巧みだ。程よく重たくないギターは言わずもがな。しかしなんといってもこのバンドの主役ノイズの使い方だ。たしかにうるさい。でもいつもハーシュノイズが爆音で流れているわけではない。ときには音を小さく。時には完全に止め。また時にはハーシュノイズではなく、鍵盤から流れ出るような美麗な音も出てくる。これらの音のON/OFF。つまりビートを基調にそこに音を重ねていくやり方は確かにテクノ、ダンス・ミュージックのやり口ではないか?
「Boy Meets Girl」は単に逆に切った奇をてらうだけの飛び道具ではなかった。彼らはとっくに新しい未知を模索し、そして大胆に舵をとっている。かっこいいぜ〜。
初めてこんな広い会場で見たが、この広さの似合うこと。汚く狭い地下室(大好きだ)とは違う高い天井、その余白がなんだか異常にENDONにあっていた。

CONVERGE
続いてはいよいよ今日の主役の片方。ハードコアの街ボストンでジャンルを更新し続けるバンド。もはやその影響は語るまでもないでしょう。観客の期待度も半端なく、前に前にの圧がすごい。ドラマーのBen Kollerが肘の怪我でお休みのためRough Francisというバンドでドラムを担当するUrian Hackneyが急遽代役に。MCによるとほとんど練習する時間もなかったらしい。重たいカーテンがいよいよ開けられるとそこにいたのはCONVERGEだった。
初めて目前で見るとCONVERGEの異様さに気がつく。なんだろうこのハードコアは。完全にハードコアだけどエモーションが溢れすぎている。それはハードコアにしては複雑な楽曲(とくにKurtのギターは低音から高音まで隔てなく用いるリフはもちろんタッピング、ギターソロなど技巧的にも複雑だ。)、そこに内包される特に新作では顕著な(クリーンで歌われることもある)メロディライン。これらの要素は個別ではあるいでは複合でももはやハードコアのシーンでは珍しくない。ただこれらは諸刃の剣で、これらを多用すると音のヘヴィさとは別の「重たさ」が生じて、ハードコアから距離が離れてしまう。とたえばDeathwishならCult LeaderやOathbreaker、日本なら独自の激情系など。ところがCONVERGEに関して言えば表現力が他の追随を許さないくらい豊富なのに、どこまでいってもハードコアなのだ。どうなってんだ。
様々な楽曲の随所に仕込まれているシンガロングパート。乗車率200%のギュウギュウのおしくらまんじゅう状態で拳を振り上げ叫んだ。
Jacob Bannonはとにかく華があるシンガーで、特徴的な歌い方も初めて見るとちゃんと歌っているし(これはセットリストの関係もあるかもしれない)、細身で長身な体をよく動かす。マイクをぶん回してキャッチする、マイクに覆いかぶさるようにシャウトする、水を頭にぶっかける、両手を大きく広げて観客を煽る、どれもすごく画になる。MCは暖かく、またリラックスもしている。
その他のメンバーもさすがのベテランなので落ち着いているが、決して弛緩することはなく、ただ勢いだけではない楽曲、というよりは勢いがありつつ複雑な曲をがっちり合わせてくる。
クラウドサーフが結構発生していて、ステージと客席に隙間があるのでJacobはちょうどサーフ後に落ちた観客にマイクで歌わせていた。みんなすごい笑顔だった!
本当に時間がすぎるのがあっという間でラストの「Concubine」。なんとSelf Deconstructionのボーカリストの方と共演。すごかったなあ。

NEUROSIS
ラストはいよいよNEUROSIS。結成34年。様々なバンドに影響を与えたバンド。私が初めて知ったのはTVKのビデオ星人で流れたライブ動画。さっぱり何がなんだかわからなかったです。あれから20年位経っていまライブをようやく見れるのは感慨深い。
中核メンバー3人は全員髪の毛やひげに白いものが混じり(というかほぼ白い)ロマンスグレーな感じ。Scott Kellyは体格もよく、アメリカの田舎の偏屈おじさんのようで見た目からして怖い。(ギターよりチェーンソーなどが似合いそうだな…とちょっと思った。)
大阪名古屋の感想を見ると絶賛する人が多数。いざ目の当たりにするとたしかにすごい。どのくらいすごいかというと結構ずっと鳥肌立っていた。いやもう「神だな」って終わりにしたいのだが、なんとかそ(れらの音楽や本)の凄さを言語化したくて始めたのがこのブログなのだった。
分厚い音で静と動を大胆に取り入れた楽曲を演奏。実はそんな奇をてらったことはしていない。音はたしかにでかい、轟音と言っても良い。ただし音量やバランスはきちんとコントロールされていて耳に痛いということはまったくない。そして音もどこまで行ってもオーガニック。経年によって水分が抜けた頑丈の木材のような音だ。分厚いが温かみがある。
またスラッジといっても不吉なフィードバックノイズを必要以上に撒き散らすことはしない。むしろたっぷりと空間系のエフェクターを繋いで出した浮遊感のある音を曲中や曲間のつなぎに使っている。特にベースは結構曲中でも独特の音を出していたようだ。
かといって強面の大人がやっているゆるふわ系ポストメタルではまったくない。楽曲から見えるのは30年以上に及ぶ試行錯誤の歴史である。
たっぷりと時間と間をとった楽曲だが、引きずるようなドゥームさはなく、明快に区切られた音はやはりハードコア由来のスラッジだろうと思う。そこにアタックが強いが非常に明確にリズミカルでよく回転する、つまり重量感がありつつも跳ねるドラムが加わる。
原始的と言っていいようなシンプルで強靭なリズム、弦楽器のときにアンビエント、ときにラウドなアンサンブル、立体的なサウンドで時間をかけて楽曲を織り上げていく。トライバルだ。トライバルな呪文のようだ。
「Times of Grace」の「The Last You'll Know」。セットリストに入っていることは知っていたが、ライブで聞くのはやはり別格だ。私はこの楽曲が好きなんだ。厚みのある轟音が私の体にじんわり染み込んでいく。涙が出そうに。


終演後「Times of Grace」のパッチ、(オタクだから)2つ買ってこ!と思ってたら見事に売り切れだった。前の方に行きたかったから開演前に物販に並べなかったのだ。仕方ない。
個人的にとても思い入れのある2つのバンド、いっぺんに見れて幸せ。やっぱり別格だなと思いつつも、日本から迎え撃った2つのバンドも只者ではなかった。楽しかった。

2019年2月11日月曜日

ジョン・スタインベック/怒りの葡萄

こんな私でも働いている。こんな私でも受け止めてくれる会社があるというのは良いことだ。仕事ができないので時間でカバーさせられているのだが。
さてそうして働いている人に合うこともある。爽やかで私よりずっと若い営業マンである。今となってほとんどの人が使ったことがあるであろう通販サイトだ。もはや巨大すぎて通販というか物流の何割かを担っていて、それ故に問題になったりもした。ピッタリとしたスーツに身を包み、髪の毛を今風におしゃれだが、遊びすぎないくらいの程よい短髪にし、ピッタリと固める。その彼いわく「ウチは質が良い商品を安くお客様に提供することができます。なぜなら一番良く見られるページに表示されるには価格を下げること、ユーザーへの応対が良いこと、これらの条件を満たさないといけないからです。」なるほど。彼は爽やかな顔で去っていった。うちの会社は彼の進めるシステムを導入するだろう。私は浮かない顔で自分の席に戻った。
私は会社の行き帰りに本を読んでいる。今はジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」だ。

貧しいということは、豊かであるということはどういうことだろうか。
私は選択肢の過多だろうと思っていた。いま日本では豊かさというのは金のあるなしであって、例えば金がなければパンの耳しか食えないが、金があればコンビニで、ファストフードで、ファミリーレストランで、高級レストランで、ステーキが、寿司が、天ぷらが、なんだって食べることができる。
たくさん食べることができるのが良いことというよりは、その時その時自分のいいように決められるということが私の考える豊かさだ。
最近はなんと行っても食わないという選択肢もある。糖質が気になるのだ。一回飛ばしてその後なにかすごく良いものを食べるんだろう。

今はもう情報がある程度均一化されていてみんな必死になっている。何かを買う場合は店に見に行き、そしてその場で現物を確かめて1円でも安いものをネットで買う。効率性のみが神であり、情報を使えないやつは情弱でコスパが悪いのだ。
だがそれでみんな豊かになっているだろうか?
近所にやすさを売りにする量販店ができ、みんながそこの黄色い袋を持っているのが嫌だった。
安いものを買うのはいい。自分もそうしている。でも安く使うということは自分も安く使われるということなのだ。自分だけはいつかこの境遇から抜け出すことができる、いやほとんど無理だろうと思う。

会社の上司が言っていた。今の人は狭い部屋に住んで安いものばかり食べているが、高いスマートフォンや車、服などを単発的に持てれば自分をそこそこの金持ちだと思いこんでしまうのだろうと。馬鹿だなあというよりはなんだか悲しくなっちゃうよねえと力なく微笑む上司は結婚しており、家族を養うのに必死だ。働くということの意味が私とは違う。

今この物語を読んで中には主人公であるジョード一家に同情するどころか避難する人もいるんではないか。彼らは昔ながらの生活に甘んじ、その生活がもはや何ら保証されなく鳴ったことに気が付かなかった。良いときにお金を貯めることもしなかったので、結局失業し、自分の意志で学もなかったので結局他人にこき使われて死ぬしかないと。まとめれば自己責任なのだと。
表面だけ撫でればそんな感想もあるかも知れない。しかしよく読めば主人公たちを同じように迫害するカリフォルニアの中産階級もどんどん新しいアメリカの経済によってその仕事を奪われ、奴隷になる未来が描かれている。いつの時代も同じだ。ほぼ同じ階層でお互いにいがみ合っているのも。
今も昔ももうすでに富を持っているものが、持たざる者同士で争わせ、労働力を安い賃金で買いたたき、死ぬまでこき使っている。同じ人種で、異なった人種で。この日本でも日常的に起こっていることだ。コンビニやファストフードに入れば店員の殆どは外国人だ。実質これは搾取にほからないない。コンビニのオーナーは非常に厳しいと聞いたことがある。(売れる見込みがある良い土地の店舗は本部の直営店なのだろうだ。)そしてオーナーたちも生活できないなら外国人以下の賃金で働かされるというわけだ。
持たないものは持つもののルールで戦うしかないのだ。少ない賃金で終わりのない価格競争で疲弊していく一方、上に行けば行くほどその薄利のうまい汁を吸っている。
そして彼らは知的に優れているのでそうする権利があり、今貧しいものは結果的に愚かなのでその貧困と苦しみは自己責任というわけだ。

うちに来た営業もときに何も考えずに、自社の素晴らしい質と価格の保証について語ってくれたが、要するにどこでもそんな事が行われているのだ。私達もただ被害者というわけではなく、安いもののみを購入することでその立派なシステムの完成に一役買っているというわけである。

今はもうジョードたちと違って私達は滅多なことがなければ飢えて死んだりはしないし、理不尽な言いがかりをつけてゴミのように殺されることもない。
私達は何ならそれなりの生活をしているように思っている。しかし少なくとも私は周りを見回すと、みんな生活に疲れていて、将来に不安がある。もしくは子供を持ちたいのに持てないでいる。私は現状の生活が最悪だとは言わないが、どうも緩やかに真綿で締められるように自分たちの命を搾取されているような気持ちがあるのも正直なところだ。

これは私の個人的な感想に過ぎない。この本を読めば読んだ人の数だけ感想がある。
私的にはオーウェルの「1984年」に並んでこの「怒りの葡萄」に関しても全人類に対する課題図書にしたいなと思った。

2019年2月6日水曜日

sassya-/脊髄

東京のスリーピースハードコア・パンクバンドの2ndアルバム。
事前に公開されたMV「だっせえパンクバンド」がとても良く、楽しみに購入。
全9曲27分とコンパクトにまとまったアルバムを通して聴いてみると、しかしかなり印象が違う。
唸るギター、勢いのままに突っ走る様はまさにハードコア。
しかし何か違う。何か非常に重苦しい。暗い。陰鬱だ。これはおかしい。陰鬱を吹き飛ばすような爽快なバンドではなかったか?

アルバムの紹介で引き合いに出されるのがFUGAZIだ。
程よく音を抜いたジャギジャギしたギター、勢いがあるが決して飛ばしすぎないスピード。調整された速度の中でしっかり染み込んでくる歌詞、つまり主張。
ぶっきらぼうで飾らない。タフではあるがただうっぷんを晴らすバンドとは違う。
たしかにsassya-はこの延長線上にあるバンドだと思う。
極端に言えば「お前らが悪い」と主張する攻撃性から、「お前らというのは私達ではないのか?」と自問自答するハードコア。
ダサい(パンク)バンドにはなりたくない。俺たちは本当にそうでないといえるのだろうか?というのはまさしくこの系譜に属する内省的なアティテュードを表している。
だがFUGAZIはここまで陰鬱だったろうか?
sassya-のこのアルバムはなんか苦しい。勢いですらその背後に息継ぎなしで泳ぎ続けるような息苦しさがある。一種の異常なテンション、つまり緊張感(と弛緩)が張り詰めている。

ある音源を何回か繰り返し聴いていると急に気がつくことがある。
今回もなんだろうな?と気になりつつ聴いていて思いついた。
ノイズロックだ。
ギターの音に代表されるノイジーさはもちろんハードコア由来でもあるのだろうが、もう片親はノイズロックではあるまいか。
ノイズロックはその身に狂気をはらんでいる。
ノイズロックの楽しさというのは抜き身で、素っ裸でその危うい内奥をさらけ出す感覚だと思う。
だから彼らは人数は少なく、そしてうるさくはあっても、複雑なリフや必要以上に重低音にこだわらない。
あくまでも周りにあるものでその狂気を表現しようと試みるのであり、そうすることで他にはないすごみが生じる。
アメリカの狂気を体現し、皮肉な視線でそれを語るUNSANEとまではいはかないが、それでもここにあるのは勢いだけで突っ走るストレートさの範疇にはとどまらない、もっとドロリとした何かを感じる。それは狂気じゃないにしても、ただお気楽な歌に丸めて飲み込めるような何かではない。もっとささくれだったなにかだ。

ノイズロックと捉えると音の尖り方、抜き身の緊張感、そして一見それらと相反する微妙な歌心も理解できる。
特にメロディについてはオルタナティブ由来かなと思い、たしかにそうだが実はもっと深いノイズ「ロック」がルーツだとすると納得感がある。
なんとなく日本のRedsheerに通じるところがあると思ったのだが、ハードコアの枠にとどまらない陰鬱さに共通点が、表現の技法に差が出ていて面白い。

単にハードコアとノイズロックのクロスオーバーというのではない。
両者の間の絶妙な綱渡りだ。奈落の上で揺れる危ういバランスの美しさ。
後半にかけて真っ逆さま落ちるように盛り上がっていく。

どこまで行ってもsassya-は正気の音楽だ。
ここが前述のRedsheerとの決定的な差なのだと思う。(Redsheerは歌詞が非公開なので断言できないが。)
血まみれのバラバラ死体も、大鎌を構えた死神もいない、大量殺戮もない、事件すらない。あるのはダラダラ続いていく毎日。これは白線の内側の物語なのだ。(8曲目「T」の歌詞を読んでほしい。)踏みとどまった、死ななかった人の正気の世界だ。人生の大半が苦しいのだから、曲を作ればそれは陰鬱としている。
ノイズロックだけどニヒルじゃない。ハードコアの前向きさが後ろ髪を引っ張って、結果的にはっきりと迷いが露骨に出た曲になっている。日々の懊悩が重苦しくのしかかるが、私はよくよく迷う人間だから、こういう音楽が好きなのだ。
ラストの脊髄のクライマックス、
「いつだってそうだ
 生活の狭間で
 唯、立ち止まり
 途方に暮れる
 跳んだつもり
 それでも日々が
 止め処なく
 押し寄せる
 続いていく
 だから」
とてもとても良い歌詞だ。
そしてこの後に続く一言が。
もうこのアルバム自体がこの一言のためにあると言っても過言ではない。
脊髄は↓で聴くことができる。