2019年2月11日月曜日

ジョン・スタインベック/怒りの葡萄

こんな私でも働いている。こんな私でも受け止めてくれる会社があるというのは良いことだ。仕事ができないので時間でカバーさせられているのだが。
さてそうして働いている人に合うこともある。爽やかで私よりずっと若い営業マンである。今となってほとんどの人が使ったことがあるであろう通販サイトだ。もはや巨大すぎて通販というか物流の何割かを担っていて、それ故に問題になったりもした。ピッタリとしたスーツに身を包み、髪の毛を今風におしゃれだが、遊びすぎないくらいの程よい短髪にし、ピッタリと固める。その彼いわく「ウチは質が良い商品を安くお客様に提供することができます。なぜなら一番良く見られるページに表示されるには価格を下げること、ユーザーへの応対が良いこと、これらの条件を満たさないといけないからです。」なるほど。彼は爽やかな顔で去っていった。うちの会社は彼の進めるシステムを導入するだろう。私は浮かない顔で自分の席に戻った。
私は会社の行き帰りに本を読んでいる。今はジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」だ。

貧しいということは、豊かであるということはどういうことだろうか。
私は選択肢の過多だろうと思っていた。いま日本では豊かさというのは金のあるなしであって、例えば金がなければパンの耳しか食えないが、金があればコンビニで、ファストフードで、ファミリーレストランで、高級レストランで、ステーキが、寿司が、天ぷらが、なんだって食べることができる。
たくさん食べることができるのが良いことというよりは、その時その時自分のいいように決められるということが私の考える豊かさだ。
最近はなんと行っても食わないという選択肢もある。糖質が気になるのだ。一回飛ばしてその後なにかすごく良いものを食べるんだろう。

今はもう情報がある程度均一化されていてみんな必死になっている。何かを買う場合は店に見に行き、そしてその場で現物を確かめて1円でも安いものをネットで買う。効率性のみが神であり、情報を使えないやつは情弱でコスパが悪いのだ。
だがそれでみんな豊かになっているだろうか?
近所にやすさを売りにする量販店ができ、みんながそこの黄色い袋を持っているのが嫌だった。
安いものを買うのはいい。自分もそうしている。でも安く使うということは自分も安く使われるということなのだ。自分だけはいつかこの境遇から抜け出すことができる、いやほとんど無理だろうと思う。

会社の上司が言っていた。今の人は狭い部屋に住んで安いものばかり食べているが、高いスマートフォンや車、服などを単発的に持てれば自分をそこそこの金持ちだと思いこんでしまうのだろうと。馬鹿だなあというよりはなんだか悲しくなっちゃうよねえと力なく微笑む上司は結婚しており、家族を養うのに必死だ。働くということの意味が私とは違う。

今この物語を読んで中には主人公であるジョード一家に同情するどころか避難する人もいるんではないか。彼らは昔ながらの生活に甘んじ、その生活がもはや何ら保証されなく鳴ったことに気が付かなかった。良いときにお金を貯めることもしなかったので、結局失業し、自分の意志で学もなかったので結局他人にこき使われて死ぬしかないと。まとめれば自己責任なのだと。
表面だけ撫でればそんな感想もあるかも知れない。しかしよく読めば主人公たちを同じように迫害するカリフォルニアの中産階級もどんどん新しいアメリカの経済によってその仕事を奪われ、奴隷になる未来が描かれている。いつの時代も同じだ。ほぼ同じ階層でお互いにいがみ合っているのも。
今も昔ももうすでに富を持っているものが、持たざる者同士で争わせ、労働力を安い賃金で買いたたき、死ぬまでこき使っている。同じ人種で、異なった人種で。この日本でも日常的に起こっていることだ。コンビニやファストフードに入れば店員の殆どは外国人だ。実質これは搾取にほからないない。コンビニのオーナーは非常に厳しいと聞いたことがある。(売れる見込みがある良い土地の店舗は本部の直営店なのだろうだ。)そしてオーナーたちも生活できないなら外国人以下の賃金で働かされるというわけだ。
持たないものは持つもののルールで戦うしかないのだ。少ない賃金で終わりのない価格競争で疲弊していく一方、上に行けば行くほどその薄利のうまい汁を吸っている。
そして彼らは知的に優れているのでそうする権利があり、今貧しいものは結果的に愚かなのでその貧困と苦しみは自己責任というわけだ。

うちに来た営業もときに何も考えずに、自社の素晴らしい質と価格の保証について語ってくれたが、要するにどこでもそんな事が行われているのだ。私達もただ被害者というわけではなく、安いもののみを購入することでその立派なシステムの完成に一役買っているというわけである。

今はもうジョードたちと違って私達は滅多なことがなければ飢えて死んだりはしないし、理不尽な言いがかりをつけてゴミのように殺されることもない。
私達は何ならそれなりの生活をしているように思っている。しかし少なくとも私は周りを見回すと、みんな生活に疲れていて、将来に不安がある。もしくは子供を持ちたいのに持てないでいる。私は現状の生活が最悪だとは言わないが、どうも緩やかに真綿で締められるように自分たちの命を搾取されているような気持ちがあるのも正直なところだ。

これは私の個人的な感想に過ぎない。この本を読めば読んだ人の数だけ感想がある。
私的にはオーウェルの「1984年」に並んでこの「怒りの葡萄」に関しても全人類に対する課題図書にしたいなと思った。

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