フラナリー・オコナーは1925年にアメリカの南部で生まれた作家で、39歳の若さで自己免疫疾患でなくなった。
短編小説の名手と呼ばれ、優れた短編に贈られるオー・ヘンリー賞を3度受賞した。
彼女の全部の短編をまとめたのがこちらの2冊。
オコナーの短編はだいたいアメリカの南部に住む人々の風俗、生活を描いたもの。
例えば同じ南部でもスタインベックの描くそれとは風景や光景は似ていても、受ける印象は遥かに異なる。
描かれる世代が違うこともあるけど人間の表現に決定的に差異がある。
スタインベックは虐げられても誇りを失わない素朴だけド強靭な人々として南部人を描いたが、オコナーの描く南部人は徹底的に自分本位でときにグロテスクでさえある。
オコナーは敬虔なクリスチャンであったそうで私には読んでいる間それがずっと不思議だった。
「善人はなかなかいない」という作品があるまさにそのとおりでオコナーの描く南部人は、無知で傲慢で差別意識が非常に強い。
登場人物の殆どがそうである。登場人物に好感をいだくことは非常に難しいだろう。全員嫌なやつだからだ。
■描かれているのは地獄
オコナーは地獄を描いていると思う。
彼女の小説には暴力が出てくる。
度々出てくるわけではないからむしろ効果的である。
私は彼女の小説には死の匂いがするから地獄だというのではない。
フラナリー・オコナーという人は「人がわかり合えない」という状況を書いていて、それが地獄だと思うのだ。
バベルに怒った神が人間に複数の言語を課して互いの意志が通じることを困難足らしめたが、その罰が今でも続いているように思える。
むしろもっと悪いか。人間は同じ言語で話しても互いを理解することができないのだから。
■人間の最も親密な関係のミクロという意味での親子関係
オコナーはよく家族、親子関係を描く。
(出番の少ない父親はおいておいて)出てくる母親というのは確かに根は優しくて子供に対する愛情もあるんだろうが、総じて過保護で子供をいい年になっても子供扱いしている。
一方子供の方でも独立心があっても結局親から離れらずに恩恵を受けている割には非常に傲慢である。
オコナー自身南部に生まれ大学院への進学をきっかけに南部を離れ、作家とのキャリアが始まった以降は実家に戻るつもりはなかったようだ。
しかしその後父親と同じ難病を発症し、故郷に戻り終生母親と暮らした。
この実体験が反映されているのではと思う(がもちろん実際のところはわからない)。
彼女がしばしば親子関係を描くのはそれが最も親密な人間の関わり合いだからだ。
それすらも、わかり合うことが殆どない。
最悪いずれかが死ぬ、さらには一方がもう一方を直接的または間接的に殺めてしまう。
■不和の要因
わかり合えない、というのは何が原因なのか。
これらの物語に出てくる人たちというのは基本的に変わることがない。
人の言うことを聞かない。
この世界では「(論理的な意味での)明晰な思考(≠正しさ)」ということがほとんど意味をなさない。
なぜなら論理的な正しさを受け入れる人がほとんどいないからだ。
『床屋』では明確に知性が数に敗北するシーンが書かれている。
いわば衆愚であって、これの前には進歩が立ち行かないのである。
『強制追放者』ではナチの迫害から逃れてきた人々に対する無知と差別が描かれている。
また『障害者優先』では人間の優れた性質である親切さ思いやりを実践するのがいかに困難か描かれている。この物語は2方向に対する優しさとその失敗、人間の思い上がりを描いていて面白い。
■まとめと宗教の意味
フラナリー・オコナーの各世界では人はお互いに好きなことを言い、他人の言うことは聞かない。
みんなが自分が一番世の中で苦労し一番不幸だと思い、他者を口だけ達者でよく喋るだけの怠け者だと見下している。
彼らがその境遇に甘んじているのは彼らの努力が足りないからだと思い、自分の今の暮らしがただの幸運の上に成立していることを理解しない。
大人だけでない、子供もそうである。
他者への優しさは自分の傲慢と、そして他人を信じられない心から必ず失敗する。
このわかりあえなさと、理解への失敗がオコナーの短編をして地獄だなと思わせるのだ。
私は仏教徒でもキリスト教徒でもないが、キリスト教はたとえば念仏を唱えれば悪人でも浄土に行ける、ってわけでもないらしい。少なくともオコナーはそう思っていた。
いわば様々な欠点をもったマイナスの人間が、プラスになるには何が必要なのか。
極端な話、オコナーは人の力では無理だと思っていたフシがある。
そのマイナスからゼロを経てプラスになる過程、飛躍が神の恩寵ではないか。
『善人はなかなかいない』のラスト、または『長引く悪寒』、または『障害者優先』『家庭の安らぎ』のそれぞれのラストでも良い。
苦い結末にかすかに登場人物たちの心の変化が見て取れるはず。
この転化が神の恩寵とオコナーは捉えているのではないか。
オコナーは暴力が神であると考えているのではなくて、その暴力が気づきのきっかけになる場合があるということだ。
敬虔さというが、かなりストイックに見える。
■是非読んでどうぞ
この本を読んでアメリカの南部はやっぱり差別意識が強いと感じるなら浅すぎる。
いわばオコナーは人間の欠点を強烈に南部の風俗に投影したのだ。
登場人物に共感は全くできなくても、彼らの一部一部に自分の姿を見るだろう。
オコナーの短編はそういった意味では非常に普遍的な物語であり、いつの時代でも決して色褪せることがないだろう。
うんざりするようなぬるい地獄の中に、汚い都会の空に瞬く星のような救いがかすかに見えるかもしれない。
格差と差別で相変わらず揺れる現代、あえてこの本をとっても良いのでは。
2020年9月6日日曜日
2020年8月2日日曜日
スコット・スミス/シンプル・プラン
仕事で疲れて帰ってきてようやくくたくたになった体を布団に横たえる。
ひどい疲労のためか、明日への不安のためか眠れなくなるときは自分がふとしたことで金持ちになったことを考える。
会社はやめる、都心に部屋を借りるか家を買って昼まで寝る。
車を買うならこの車種、ハイブランドの服も買う。
そんな事を考えている間に眠りにつき、また死んだ顔で朝の電車に揺られる。
現代生活では金持ちになるというのはもうおとぎ話だ。
なるほどベンチャー企業の台頭で嘘みたいな出世を遂げる、誰も気が付かなかったアイディアを針の目を通すような緻密さで商品化し、IPOで株を売り抜けあとはもう悠々自適の生活、または仮想通貨のようなバブルもある、だがそんなのは本当に本当に稀で、そしてそれらですら自分から行動しないと決して得ることはできない。
あなたはそんな努力をしているか?
してないなら毎回の査定の分でしか一生給料は上がらない。
富裕層は日本では全体の2.4%とするとあとの約98%は一生うだつの上がらない生活をするわけだ。
金があれば、でも金はない。
もし金があれば、しかし一生がそれだけで変わるくらいの金をどうやって?
何もしてない俺が?
答えは簡単、拾うのだ。
落ちている金を拾っちゃうわけ。
それは恐らくまずい金だからお前が懐に入れちゃえば良い。
それはどこにあるの?
雪ぶかい郊外に墜落したセスナ機の中に。
それは誰の金なの?
恐らく犯罪者がどこかから強奪したもの。
どうやって見つければ?
大晦日の日に兄とその悪友と自殺した両親の墓参りに行く途中に、兄の犬が野生の動物を追いかけていき、その先で見つけるのさ。
スコット・スミスはすべてのサラリーマンの夢を神経症的に肉付けし始めた。
金を得る妄想の第一段階を。
すべてのうだつの上がらない、努力しないあなたたち(9割以上の私達)が如何にして現実的に大金を手にするか。
だいぶ運に頼りにしたとしても、うだつの上がらない僕を始めとする登場人物たちが揃い、カネを手にした。いわばシミュレーションの初期設定が揃った状態で、そこで物語はほぼ自然に転がりだす。
文字通り坂を下りだす。(本人たちは人生の坂がようやく登り始めたと思っているのがお笑い草なんだ)
貧困層の子供として生まれ、なんの才能もなく、生活に手一杯としてもなにもやってこなかった僕たちがカネを手にするとどうなるのか。
いわば金は選択肢を倍加させるツールである。
あくまでもこれは手段であって金がほしいと常にいっている人でも硬貨や紙幣を愛しているわけではない。これをどう使うかが問題なのだ。
そして所在不明の金は消費する前にどう使うかが重要になってくる。
ほとぼりが冷めるところまで保管し、その後発見者の3人で分けよう、と主人公の僕は提案し実施しようとする。
これが平凡な僕が考えたシンプル・プランだった。
一度自分のものと思った金に次第に執着し始める主人公たち。
金という何色にでもなる絵の具で灰色だったキャンバスを色とりどりに染めていくはずだった。
ところがその前段でシンプル・プランが狂い始めていく。
必死に修正しようとする主人公の姿はなるほど滑稽で無様だが、しかし殆どのあなたたちは裏社会に繋がりがあるわけでも、警察の操作情報を抜けるほど強いパイプがあるわけでもない。
彼らより果たしてうまく動くことができただろうか。
これは金がほしいという妄想に対しての一つの回答である。
正直言えばかなり運に頼りすぎている印象は拭いきれない。
主人公はめっぽう運が悪いのだが、最終的には異常に運が良いからそれが物語の作為に見えるところも結構ある。
しかし、主人公たちの灰色さ、真綿で絞め殺されているようなぬるい地獄が雪に振り込められる田舎町に暗示されている表現は楽しかった。
2020年3月29日日曜日
リチャード・ブローティガン/アメリカの鱒釣り
ブローティガンの本を読むのはこれで三冊目だが、これが一番わからないかもしれない。
彼はビート・ジェネレーションの一人に数えられることもあるそうだが、非常に面白いあとがきにも描いてあるとおり、私はビートニクには感じられない。
弾いたら割れそうに衝動が詰まった無軌道な若さがないし、ドラッグなどで酩酊している様子もない。
アウトローではあるが、アウトローの群れには属さない本物に思える。
この本には220ページ弱に50弱の短編が収められている。
その短さも、内容的にも物語というよりは詩に近い。
厳しくも何回でもないのだがその真意を掴むのは本当難しい。
さながらタイトルの鱒のように掴もうとするとこちらの理解からぬるっと逃げてしまうように。
そこにあるのにつかめないのだ。
こりゃ一体なんだろうと思った。
ブローティガンの作品にはいろいろなものがないのだ。
物語がない
若さがない
酩酊がない
脈絡がない
説明がない
常識がない
こう書くと全然面白くなさそうな物語が想定されるが実際にはそんなことはない。
このわかりにくい本は全世界の少なからぬ人々の琴線を打つなにかがある。
例えばこうだ。
アメリカを旅して回る風変わりな男がいて、彼は人当たりもいいし、頭もいい。
ただ普通の教育を受けて、一箇所に腰を落ち着けて働いた経験がないから、同じ文化に所属していても彼の真意が測りかねる時がある。
彼は危険な男ではなく、日差しのよく当たる公園で休んでいるといつの間にかよってきている、割と大きい猫のような男だ。
そんな男がもっている古びた、小さい、革のカバーがついた日記がなにかのはずみでベンチに置かれていて、持ち主の彼は通りの向かいのスーパーに何かを買いに行っているのだろう。
それをちょっとした好奇心で悪いと思いながら読んでみたような感じだ。
殺しの日記なんてものじゃなくて、彼の目で捉えたアメリカが書いてある。
なんだか夢中で読んでいると後ろに持ち主の彼が立っていて、ごめんと謝ると手エレ臭そうにその日記帳を受取る、なんだかそんな風景が思い浮かぶ。
彼はホントの意味でドロップアウトでアウトサイダーだ。
ドラッグアビューザーが日常の前項の正反対にいる存在なら間違いなく彼は通常の世界に属するものである。(キリスト教における反キリスト主義者のように)
ところがブローティガンは日常に暮らしながらも水平というより垂直に底から離れており、(彼から見たら)奇妙な私達の生活をノートに書き付けている。
故に悪行としての酩酊がなく、また彼は若くもない。年老いてもいないが、少なくとも家庭があって、アメリカを敵意と可能性の大地としては捉えていないようだ。
そこでは殺人やドラッグの売買、喧嘩などの暴力=事件は起きなく、日々が続いていく。
野生の川をちょん切って反物かなんかのように長さ単位で売ってしまうようなホームセンターがあり、また釣った鱒にポルトワインを飲ませて殺してしまう最高死刑執行人がいたり、超常に片足を突っ込んでいるがそこにあるのはやはり日常である。
擬人化されたアメリカの鱒釣りが象徴するように、非人間がアメリカの生活の象徴となって行動している。
一方で「クルーエイド中毒者」「アメリカの鱒釣りテロリスト」のようにほぼ幼少期の体験をそのまま言葉にしたような作品もあって、これは日本人の私もノスタルジーを感じるわけなんだけど、つまり彼のない事件のない、ドラマのない文体というのはつまるところ日常を書いているのであって、それが言葉の限界迎えたときブローティガン流のアメリカの鱒釣りちんちくりんや最高死刑執行人たちがどこからともなく現れ、そして河川が売りに出されたりしだす。
なるほど確かに一風変わっていて真意は測りかねるけれども、なにやらブローティガンさんのほら話といった感じで非常に優しくそして現実的である。
ラベル:
アメリカ,
リチャード・ブローティガン,
純文学,
本
2020年3月22日日曜日
ニコ・ウォーカー/チェリー
青春小説と言うにはあまりにも情けなく、
戦争小説と言うにはあまりにもカタルシスがない、
ドラッグ小説というにはあまりにもおしゃれでなく、
犯罪小説としてはあまりにもしょぼい、これはそんな小説。
この物語はいうまでもなく自伝的フィクションである。
実際の著者ニコことニコラス・ウォーカーは、第4歩兵師団第167装甲連隊の衛生兵として(本人が自分のことをどう思っているかはわからないが)戦場では7つの勲章を授与された優れた兵士であり、PTSDで21日間も一睡もできなかった。
ニコはチェリーの「俺」になり、つまり道化を演じることで本を書き、現実を笑おうとしたのだが、しかしその”変身”はアメリカのギラギラ輝く巨大なドリームの、その色濃い影をくっきりと読者に意識させる。
IED(即席爆発装置)で爆破されて残骸となったハンヴィーのハンドルから垂れ下がる肉片。吹き飛ばされて顔がなくなった死体。
友人の金庫をこじ開けて盗んだクラック。オキシコンチンに溶ける奨学金。禁断症状で始終吐くゲロ。
「俺」にはほとんど自分の意志がない。
流されるようにドラッグに溺れ、流されるように兵士になり、流されるようにイラクに行き、そして帰ってきてまたドラッグに耽溺した。金がなくなったので純粋にドラッグを買う金を稼ぐために銀行強盗を始めた。
彼は別に貧困層の出ではない。ギャングでもない。
人に馬鹿だと思われている「俺」にはたしかに意思がない、向上心がない、信念もない、愛国心もない。
おい、この物語はバカの一生というにはあまりにも陰惨ではないか?
あまりにも軽い命、ここで現実と作品がごっちゃになってしまうが、しかしニコラス・ウォーカーは実際には真の愛国者であり英雄であった。
彼を誰が馬鹿にできるのだろうか?(私は彼が徹頭徹尾聖人だと言いたいわけではない。)
いわばアメリカン・ドリーム、グレートなアメリカの実態を暴くのがこの小説なのだと言いたいのだ。
彼がホワイトトラッシュなら、その馬鹿なカードの裏は戦場の英雄ってわけだ。
ニコラス・ウォーカーはなかなかどうしてクレバーなジョーカーかもしれない。
彼の軽口に騙されてはいけない。
戦争小説と言うにはあまりにもカタルシスがない、
ドラッグ小説というにはあまりにもおしゃれでなく、
犯罪小説としてはあまりにもしょぼい、これはそんな小説。
この物語はいうまでもなく自伝的フィクションである。
実際の著者ニコことニコラス・ウォーカーは、第4歩兵師団第167装甲連隊の衛生兵として(本人が自分のことをどう思っているかはわからないが)戦場では7つの勲章を授与された優れた兵士であり、PTSDで21日間も一睡もできなかった。
ニコはチェリーの「俺」になり、つまり道化を演じることで本を書き、現実を笑おうとしたのだが、しかしその”変身”はアメリカのギラギラ輝く巨大なドリームの、その色濃い影をくっきりと読者に意識させる。
IED(即席爆発装置)で爆破されて残骸となったハンヴィーのハンドルから垂れ下がる肉片。吹き飛ばされて顔がなくなった死体。
友人の金庫をこじ開けて盗んだクラック。オキシコンチンに溶ける奨学金。禁断症状で始終吐くゲロ。
「俺」にはほとんど自分の意志がない。
流されるようにドラッグに溺れ、流されるように兵士になり、流されるようにイラクに行き、そして帰ってきてまたドラッグに耽溺した。金がなくなったので純粋にドラッグを買う金を稼ぐために銀行強盗を始めた。
彼は別に貧困層の出ではない。ギャングでもない。
人に馬鹿だと思われている「俺」にはたしかに意思がない、向上心がない、信念もない、愛国心もない。
しかしその愚かさを命綱にして地獄=アメリカの底辺の現実にスルスルと降りていく。
そして馬鹿だ馬鹿だと言われながら、地獄の刻印をその体に刻みつけて帰ってきて、その二度目の贈り物の人生を自分の手で破滅させようとしている。おい、この物語はバカの一生というにはあまりにも陰惨ではないか?
あまりにも軽い命、ここで現実と作品がごっちゃになってしまうが、しかしニコラス・ウォーカーは実際には真の愛国者であり英雄であった。
彼を誰が馬鹿にできるのだろうか?(私は彼が徹頭徹尾聖人だと言いたいわけではない。)
いわばアメリカン・ドリーム、グレートなアメリカの実態を暴くのがこの小説なのだと言いたいのだ。
彼がホワイトトラッシュなら、その馬鹿なカードの裏は戦場の英雄ってわけだ。
ニコラス・ウォーカーはなかなかどうしてクレバーなジョーカーかもしれない。
彼の軽口に騙されてはいけない。
2020年3月14日土曜日
スティーヴン・キング&ベヴ・ヴィンセント編/死んだら飛べる
キングとキングの小説の解説本を描いている作家ベヴ・ヴィンセントが編集したホラー小説のアンソロジー。
原題は「FLIGHT OR FRIGHT」Frightは怖がらせるの意味。
飛行機に関するホラー小説を集めた短編集である。
収録作品は下記の通り。
「序文」スティーヴン・キング/白石朗訳
「貨物」E・マイクル・ルイス/中村融訳 ★初訳
「大空の恐怖」アーサー・コナン・ドイル/西崎憲訳
「高度二万フィートの恐怖」リチャード・マシスン/矢野浩三郎訳
「飛行機械」アンブローズ・ビアス/中村融訳 ★新訳
「ルシファー!」E・C・タブ/中村融訳 ★初訳
「第五のカテゴリー」トム・ビッセル/中村融訳 ★初訳
「二分四十五秒」ダン・シモンズ/中村融訳 ★初訳
「仮面の悪魔」コーディ・グッドフェロー/安野玲訳 ★初訳
「誘拐作戦」ジョン・ヴァーリイ/伊藤典夫訳
「解放」ジョー・ヒル/白石朗訳 ★初訳
「戦争鳥(ウォーバード)」デイヴィッド・J・スカウ/白石朗訳 ★初訳
「空飛ぶ機械」レイ・ブラッドベリ/中村融訳 ★新訳
「機上のゾンビ」ベヴ・ヴィンセント/中村融訳 ★初訳
「彼らは歳を取るまい」ロアルド・ダール/田口俊樹訳
「プライベートな殺人」ピーター・トレメイン/安野玲訳 ★新訳
「乱気流エキスパート」スティーヴン・キング/白石朗訳 ★初訳
「落ちてゆく」ジェイムズ・ディッキー/安野玲訳 ★初訳
(版元ドットコムより)
飛行機が怖い人はたくさんいる。
墜落を連想させるからだろう。
でも実際には飛行機事故が発生する可能性はめちゃくちゃ低いと聞く。
自動車事故のほうがよほど頻繁に起こるそうだ。
一節によると0.0009%とか。
キングは序文にてこれに加えて、狭いところに押し込められる恐怖、それから自由意志の剥奪による恐怖を上げている。
例えば自動車を自分で運転しているなら高速道路飲めの前で重大な玉突き事故が発生しても自分の運転技術で回避できる、と人は思うのである。
当然自動機の運転手の技術より飛行機のパイロットのほうが技術は高いと思うけど。
自分の運命が自分の手にある、と思えない(これは当然思い込みであるので)と人間は不安になる。
飛行機にいる間はなにかが起こっても自分でできることはほぼできない。
墜落している長いとも短い間に家族あてに震えた字で遺書を書くことくらいだろうか。
実際アンソロジーに収録されている作品のうち、民間用の旅客機が墜落する作品は4個。
予想より少ない。
純粋に高所からの個人的な墜落を描いているのは詩の形をとっている「落ちてゆく」だけ。
落ちるのは結末であって、普通はそこだけ描いてもホラーにはならない。
(だから「ルシファー!」の墜落の書き方は相当すごい。)
読みては落ちるぞ落ちるぞと思って読んでいるから、むしろ落ちたら安心してしまう。
要するに落ちるぞ落ちるぞと思わせるのがホラーだから、ホラーの本質はオチにはない。
むしろその工程にこそホラーの醍醐味がある。
さすが作家は、飛行機というシチュエーションを生かして墜落やそうでない恐怖をそれぞれ編み出している。
つまり飛行機が舞台で、その上に独自の恐怖を乗っけるというやり方。
ビアスとブラッドベリは単に空を飛ぶという以上の、社会的機能を持つ飛行機の側面を描き、ドイルは技術の革新が新しい(恐怖の)フロンティアを人間の想像力の新しい空白にマッピングしたことを示している。
個人的に面白いのは戦争に関わる物語が6つ収録されていること。
戦争は死に直結しているし、その暴力的な表現でホラーにうってつけである。
イラク戦争の拷問に関連する権謀術数が暴力で動く「第五のカテゴリー」、それからなんといってもジブリの「紅の豚」の”あのシーン”の元ネタ(というかほぼそのままじゃネーカ)の「彼らは歳を取るまい」が最高。著者のロアルド・ダールは「チャーリーとチョコレート工場」の作者でもある。彼は実際に戦争のエースパイロットで撃墜王だった。
キングの実子ヒルの「開放」も良い。
これは世界の終末を観察する物語で、監視塔としてはそらとぶ飛行機はうってつけの場所に位置している。
こうやって見ると飛行機というのは、神や幽霊に近づく異界であり、着地するまで逃げることができない自分でどうすることもできない牢獄であり、最前線の戦場であり人が死ぬ地獄であり、そしてなによりその濃さが翻弄される人間の運命を端的に表しているのかもしれない。
原題は「FLIGHT OR FRIGHT」Frightは怖がらせるの意味。
飛行機に関するホラー小説を集めた短編集である。
収録作品は下記の通り。
「序文」スティーヴン・キング/白石朗訳
「貨物」E・マイクル・ルイス/中村融訳 ★初訳
「大空の恐怖」アーサー・コナン・ドイル/西崎憲訳
「高度二万フィートの恐怖」リチャード・マシスン/矢野浩三郎訳
「飛行機械」アンブローズ・ビアス/中村融訳 ★新訳
「ルシファー!」E・C・タブ/中村融訳 ★初訳
「第五のカテゴリー」トム・ビッセル/中村融訳 ★初訳
「二分四十五秒」ダン・シモンズ/中村融訳 ★初訳
「仮面の悪魔」コーディ・グッドフェロー/安野玲訳 ★初訳
「誘拐作戦」ジョン・ヴァーリイ/伊藤典夫訳
「解放」ジョー・ヒル/白石朗訳 ★初訳
「戦争鳥(ウォーバード)」デイヴィッド・J・スカウ/白石朗訳 ★初訳
「空飛ぶ機械」レイ・ブラッドベリ/中村融訳 ★新訳
「機上のゾンビ」ベヴ・ヴィンセント/中村融訳 ★初訳
「彼らは歳を取るまい」ロアルド・ダール/田口俊樹訳
「プライベートな殺人」ピーター・トレメイン/安野玲訳 ★新訳
「乱気流エキスパート」スティーヴン・キング/白石朗訳 ★初訳
「落ちてゆく」ジェイムズ・ディッキー/安野玲訳 ★初訳
(版元ドットコムより)
飛行機が怖い人はたくさんいる。
墜落を連想させるからだろう。
でも実際には飛行機事故が発生する可能性はめちゃくちゃ低いと聞く。
自動車事故のほうがよほど頻繁に起こるそうだ。
一節によると0.0009%とか。
キングは序文にてこれに加えて、狭いところに押し込められる恐怖、それから自由意志の剥奪による恐怖を上げている。
例えば自動車を自分で運転しているなら高速道路飲めの前で重大な玉突き事故が発生しても自分の運転技術で回避できる、と人は思うのである。
当然自動機の運転手の技術より飛行機のパイロットのほうが技術は高いと思うけど。
自分の運命が自分の手にある、と思えない(これは当然思い込みであるので)と人間は不安になる。
飛行機にいる間はなにかが起こっても自分でできることはほぼできない。
墜落している長いとも短い間に家族あてに震えた字で遺書を書くことくらいだろうか。
実際アンソロジーに収録されている作品のうち、民間用の旅客機が墜落する作品は4個。
予想より少ない。
純粋に高所からの個人的な墜落を描いているのは詩の形をとっている「落ちてゆく」だけ。
落ちるのは結末であって、普通はそこだけ描いてもホラーにはならない。
(だから「ルシファー!」の墜落の書き方は相当すごい。)
読みては落ちるぞ落ちるぞと思って読んでいるから、むしろ落ちたら安心してしまう。
要するに落ちるぞ落ちるぞと思わせるのがホラーだから、ホラーの本質はオチにはない。
むしろその工程にこそホラーの醍醐味がある。
さすが作家は、飛行機というシチュエーションを生かして墜落やそうでない恐怖をそれぞれ編み出している。
つまり飛行機が舞台で、その上に独自の恐怖を乗っけるというやり方。
ビアスとブラッドベリは単に空を飛ぶという以上の、社会的機能を持つ飛行機の側面を描き、ドイルは技術の革新が新しい(恐怖の)フロンティアを人間の想像力の新しい空白にマッピングしたことを示している。
個人的に面白いのは戦争に関わる物語が6つ収録されていること。
戦争は死に直結しているし、その暴力的な表現でホラーにうってつけである。
イラク戦争の拷問に関連する権謀術数が暴力で動く「第五のカテゴリー」、それからなんといってもジブリの「紅の豚」の”あのシーン”の元ネタ(というかほぼそのままじゃネーカ)の「彼らは歳を取るまい」が最高。著者のロアルド・ダールは「チャーリーとチョコレート工場」の作者でもある。彼は実際に戦争のエースパイロットで撃墜王だった。
キングの実子ヒルの「開放」も良い。
これは世界の終末を観察する物語で、監視塔としてはそらとぶ飛行機はうってつけの場所に位置している。
こうやって見ると飛行機というのは、神や幽霊に近づく異界であり、着地するまで逃げることができない自分でどうすることもできない牢獄であり、最前線の戦場であり人が死ぬ地獄であり、そしてなによりその濃さが翻弄される人間の運命を端的に表しているのかもしれない。
2020年3月1日日曜日
フォークナー/響きと怒り
さきに「アブサロム、アブサロム!」を読んでいたから、後(1936年)に書かれたそちらより1929年に書かれた本書のほうがだいぶ読みやすかった。
理由としては3点。
・文体
・物語の動き
・物語の構造
文体
文体の方はアメリカ文学的というより、イギリス文学的な意識な流れに則っている。
つまり人間の意識をそのまま言語化しようかという大胆な試みで持って、人間の思考を時系列で文字で表現しようとする手法である。
ただ明らかに「アブサロム、アブサロム!」よりは読まれることを意識していて、露骨にわかりにくい表現は省かれている。
ただし第1章は重度の知的障害をもっている男性の意識を追っているから、どうしても構造上読みにくい。ただこれは思考法が健常人のそれとことなる、いわば思考の基底が異なる人間の思考を書いているのであって、(本書における)意識の流れ自体が読みにくいということにはならない。
物語の動き
物語の構造としては、本筋にいくつか印象的な事件が配置されており、それに沿って物語が進んでいく。
「アブサロム」では語り手の意識が行動を上回っており、言い回しもあって難解であったが、「響きと怒り」ではわかりやすい事件が配置されて物語が進んでいくから単純に読者としては読みやすい。
物語の構造
また、すでにしに去った幽霊たちを語りという信用できない言語で蘇生させようとする(もちろん作者に寄って意図された)はなから無理がある試みだった「アブサロム」に対して、こちらは素直に日記帳の語りで物語が進んでいく。
語りては必ずしも真実を語るわけではない(やはりそもそも人間が客観的な真実を語るのは無理がある)が、それでも読みやすさはこちらのほうに断然軍配が上がる。
フォークナーの特異さ
じゃあ「響きと怒り」は読みやすい物語がというとそんなことはない。
斜陽にあるアメリカ南部のコンプソン家の没落の様を描いている、という筋だがそこから何かを読み取るのが難しい。
フォークナーの凄さというのは、単純に良い物語を書くというのではなく、長大なアメリカの歴史を切り取って物語にまとめることができる、という能力ではなかろうか。
物語に起承転結や筋が必要なのは、単にいえば読みやすくするものである。
歴史書だって当然事件に終始するものであって、長い目で見れば線的だが実際は点の集合点である。
「響きと怒り」では短い、「アブサロム、アブサロム!」では長期の歴史を線的に書こうとするのがフォークナーの試みというか狙いである。
いずれの物語でもショッキングな出来事は含まれるが、それが本質でないことは読めばわかる。それを含んだ日常を書くのが彼の目的であり、いわばそれは日常である。
日常を事件に置き換えないで描ききるというのはなかなかできることではない。
故にフォークナーの作品は非凡である。
響きと怒り
フォークナーは自分の生まれ育った土地に着想を得て、そこから虚構の街、底に住む虚構の人々を作って彼らの生きるさまを丹念に描いた。
つまり南部とその生活というものがフォークナーの書きたいことそのもの。
彼はこの南部という土地を愛していた。
その上で本作がどんな物語かというと、相変わらず無知傲慢人種差別男尊女卑暴力搾取人間の暗部がこれでもかというくらい書かれているが、これは南部の(特定の)人間が卑しく結果的に南部は地獄の様相を描いている、というわけではない。
「八月の光」「サンクチュアリ」などの作品に比べると「響きと怒り」「アブサロム」に関しては人間の暗部をことさら書きたいわけではない。
4章の主人公ジェイソンを見て嫌なやつだが自分みたいだと思った。
この物語の登場人物たちは大悪人というわけではなく、これは私達全員である。だからこの物語が神話的であるといえる。
フォークナーのミューズでもあるキャディという女性が物語の中心であることは間違いない。
殆どの登場人物の人生が彼女の行動に大きく左右されている。
いわば生きる事件であって、その影響を観察しているのが本作かもしれない。
登場人物たちが悪人でないと書いたが、かといって愉快な奴らかというとそんなことはなくて、つまり書かれているのが日常なのだからそれはそうだ。
一つ思ったのはこれは日常からの脱出だなと。
キャディは南部の没落しつつある一家に生まれ、理屈っぽくて頭は良いが生活能力のない父親、僻みっぽくて常にメソメソ泣いている不健康ぶる割には健康な母親、父親の性向を強く受け継いだ優しいが思い込みが強く妹に自分の運命を託している兄、重い知的障害を持つ兄、真面目だが意地の悪い兄、生活能力がなく姉にたかる叔父に囲まれて生きてきた。
彼女にとってよその男というのはそんな日常から脱出させてくれる存在だった。
2000年も20を数えた現代とは違うのである。
女性がトランクひとつで家を出てどうなるものでもない。
だが、キャディは家を出たもののやはりコンプソン家に(少なくとも20年ほど)は囚われた。
そんなキャディの失敗と無念を同じ道筋をたどりながらももっとうまくやってのけたのが自死した兄と同じ名を持ったキャディの一人娘、クエンティンだった。
彼女の広大でも荒廃しつつある屋敷からの脱出劇は、そのまま(近親相姦、人種差別、男尊女卑の)因習に囚われた南部からの脱出であった。
理由としては3点。
・文体
・物語の動き
・物語の構造
文体
文体の方はアメリカ文学的というより、イギリス文学的な意識な流れに則っている。
つまり人間の意識をそのまま言語化しようかという大胆な試みで持って、人間の思考を時系列で文字で表現しようとする手法である。
ただ明らかに「アブサロム、アブサロム!」よりは読まれることを意識していて、露骨にわかりにくい表現は省かれている。
ただし第1章は重度の知的障害をもっている男性の意識を追っているから、どうしても構造上読みにくい。ただこれは思考法が健常人のそれとことなる、いわば思考の基底が異なる人間の思考を書いているのであって、(本書における)意識の流れ自体が読みにくいということにはならない。
物語の動き
物語の構造としては、本筋にいくつか印象的な事件が配置されており、それに沿って物語が進んでいく。
「アブサロム」では語り手の意識が行動を上回っており、言い回しもあって難解であったが、「響きと怒り」ではわかりやすい事件が配置されて物語が進んでいくから単純に読者としては読みやすい。
物語の構造
また、すでにしに去った幽霊たちを語りという信用できない言語で蘇生させようとする(もちろん作者に寄って意図された)はなから無理がある試みだった「アブサロム」に対して、こちらは素直に日記帳の語りで物語が進んでいく。
語りては必ずしも真実を語るわけではない(やはりそもそも人間が客観的な真実を語るのは無理がある)が、それでも読みやすさはこちらのほうに断然軍配が上がる。
フォークナーの特異さ
じゃあ「響きと怒り」は読みやすい物語がというとそんなことはない。
斜陽にあるアメリカ南部のコンプソン家の没落の様を描いている、という筋だがそこから何かを読み取るのが難しい。
フォークナーの凄さというのは、単純に良い物語を書くというのではなく、長大なアメリカの歴史を切り取って物語にまとめることができる、という能力ではなかろうか。
物語に起承転結や筋が必要なのは、単にいえば読みやすくするものである。
歴史書だって当然事件に終始するものであって、長い目で見れば線的だが実際は点の集合点である。
「響きと怒り」では短い、「アブサロム、アブサロム!」では長期の歴史を線的に書こうとするのがフォークナーの試みというか狙いである。
いずれの物語でもショッキングな出来事は含まれるが、それが本質でないことは読めばわかる。それを含んだ日常を書くのが彼の目的であり、いわばそれは日常である。
日常を事件に置き換えないで描ききるというのはなかなかできることではない。
故にフォークナーの作品は非凡である。
響きと怒り
フォークナーは自分の生まれ育った土地に着想を得て、そこから虚構の街、底に住む虚構の人々を作って彼らの生きるさまを丹念に描いた。
つまり南部とその生活というものがフォークナーの書きたいことそのもの。
彼はこの南部という土地を愛していた。
その上で本作がどんな物語かというと、相変わらず無知傲慢人種差別男尊女卑暴力搾取人間の暗部がこれでもかというくらい書かれているが、これは南部の(特定の)人間が卑しく結果的に南部は地獄の様相を描いている、というわけではない。
「八月の光」「サンクチュアリ」などの作品に比べると「響きと怒り」「アブサロム」に関しては人間の暗部をことさら書きたいわけではない。
4章の主人公ジェイソンを見て嫌なやつだが自分みたいだと思った。
この物語の登場人物たちは大悪人というわけではなく、これは私達全員である。だからこの物語が神話的であるといえる。
フォークナーのミューズでもあるキャディという女性が物語の中心であることは間違いない。
殆どの登場人物の人生が彼女の行動に大きく左右されている。
いわば生きる事件であって、その影響を観察しているのが本作かもしれない。
登場人物たちが悪人でないと書いたが、かといって愉快な奴らかというとそんなことはなくて、つまり書かれているのが日常なのだからそれはそうだ。
一つ思ったのはこれは日常からの脱出だなと。
キャディは南部の没落しつつある一家に生まれ、理屈っぽくて頭は良いが生活能力のない父親、僻みっぽくて常にメソメソ泣いている不健康ぶる割には健康な母親、父親の性向を強く受け継いだ優しいが思い込みが強く妹に自分の運命を託している兄、重い知的障害を持つ兄、真面目だが意地の悪い兄、生活能力がなく姉にたかる叔父に囲まれて生きてきた。
彼女にとってよその男というのはそんな日常から脱出させてくれる存在だった。
2000年も20を数えた現代とは違うのである。
女性がトランクひとつで家を出てどうなるものでもない。
だが、キャディは家を出たもののやはりコンプソン家に(少なくとも20年ほど)は囚われた。
そんなキャディの失敗と無念を同じ道筋をたどりながらももっとうまくやってのけたのが自死した兄と同じ名を持ったキャディの一人娘、クエンティンだった。
彼女の広大でも荒廃しつつある屋敷からの脱出劇は、そのまま(近親相姦、人種差別、男尊女卑の)因習に囚われた南部からの脱出であった。
ラベル:
アメリカ,
ウィリアム・フォークナー,
純文学,
本
2020年2月9日日曜日
ウィリアム・フォークナー/アブサロム、アブサロム!
■文体とアメリカ文学における特異さ
フォークナーの文は読みにくい。句読点を省いた一文が非常に長いのに加えて、比喩を含んだ表現が多く、時系列は直線的でないし、さらには説明が省かれていたりする。
「八月の光」「サンクチュアリ」はリズム重視で読み飛ばしていたのでは?という疑念から今回はじっくり理解できるまで一文一文噛み締めていくような読み方したら時間がかかってしまった。
句読点を省いた独特の文体は後にマッカーシーに受け継がれていくのだろう、フォークナーはアメリカ文学界の巨匠である、言うまでもなく。
ただ今作読んで思ったのは結構アメリカ的ではないな、この人の書く物語は。
ヘミングウェイの「老人と海」がアメリカ文学における一つの大きな里程標だとするとそこに書き込まれているのはぶっきらぼうとも言える、極めて肉体的な”動き”にのみフォーカスした、逆に言えば心理的な描写を徹底的に排した文体である。
これは「ハックルベリー・フィンの冒険」から受け継がれる、アメリカという歴史と背景を持たない新しい国が生み出した一つの新しい伝統。
ところがフォークナーの文体は明白にイギリスのヴァージニア・ウルフの書くそれに似ている。
意識の流れ、と評されることがあるその文体は人間の意識に発生する”動き”を丹念に描いていく手法だ。
外界の刺激に比例しない動きなので、人の内面描写に優れる分、実際の行動に対して長くなりがちだし、ときに退屈でもある。
物語が現実の省略、デフォルメだとするとその長大な流れのなかに置かれた石のような、不思議な手法ではある。
■歴史を語るという構造
「アブサロム、アブサロム!」は歴史的な小説である。
歴史をメタ的に扱っている小説という意味で、歴史小説という意味ではない。
「燃えよ剣」は歴史を扱っているが、歴史という概念はここではジャンルであって内容には関係ない。
ところがフォークナーはこの本で歴史を物語ろうとしているわけだ。
サトペンという謎めいた男の人生を紐解いていくことで。
神の視点でサトペン本人にフォーカスして地の文を書いていく(例えばサトペンは馬にまたがった、のように)のではなく、すでにいなくなったサトペンを別の人達が語っていくのである。幽霊が、と冒頭で表現されているのは正しい。
痕跡、ここで事実とそして大半は人の記憶の伝聞からサトペンという過去生きた男を再構築していくわけだ。
これは解釈という言葉で置き換え可能で、そういう意味ではすでに事実からかけ離れている。ローザに関しては私情というより私怨が入りすぎているからすでに彼女の語るサトペン像は奇妙に歪んでいるだろう。
上巻の183ページ目、いかにもフォークナーらしい書き方で、記憶や手紙から再構築したサトペンたちにはなにかが足りていないことが示唆されている。
そういった意味では神話的であり、サトペンは一つの伝説であるといえる。
足りない部分は残された者たちがそれぞれの思い入れを注入して補填しているのだ。
■悪魔のような男ことサトペンと南部の呪い
①サトペン
悪魔とも称されるサトペンという男はでは何を代表していて、何の代表なのかというとこれは南部ということになる。
南部の体現者。
貧困から立ち上がり、KKKを追い返したが、自分から偉大な白人の血統を始めようとした男。妻に黒人の血が混じっていることがわかれば離縁したこともある。
血にこだわる急進的な差別主義者ではない差別主義者。
「黒人か、そうでないか」の思考で生きている差別主義者。
彼が作中で悪魔と言われるゆえんはしかし差別主義者だったことは一度もない。
彼は寡黙な独裁者という独特な雰囲気で、目的のために手段を選ばない。
良く言えば取り繕うということをしない正直な男でもある。
戦争に従軍する勇気もある。
自ら地所に家を建てる根気も気力も体力もある。
何より強引だが実行力に長けている。
白人の金持ちの持つ黒人の召使いにあしらわれたことが、彼の人生の立身の動機となったが、差別が差別を生み出したように彼も黒人を排除しようとは思わないが、やはり差別主義者になった。
②呪いについて
この南部の呪われたた血の連鎖は父子関係で受け継がれていて、みんながなにか自分に足りない何かを求めてこの地上をさまよっている。
サトペンは自分を始祖とする偉大な白人の血統、その息子ヘンリーは自分の恋愛感情を妹に置き換えて伊達者と結婚させようとしている、(サトペンの)娘ジュディスの許嫁秘めた思惑をこれまた(しかし母親から)上代から受け継がれたボンは復讐と陰謀の中で常に自分にとっては不在だった父親からの認知を求めている。
ボンの息子エティエンヌは呪いの犠牲者とも言うべき境遇で自分は黒人だと自他ともに認めさせるように黒人の女性と結婚し、また白人に喧嘩を売り続けて死んでしまった。
ジョーンズは南部の英雄の従者になりたかったわけではなく、栄光に浴されたかったわけで、いわばサトペンの隣に座したかったのであり、積年の奉公がついに甲斐なくなったとわかったときようやく武器をとった。彼は常に遅いものであり、ただし裏切り者ではなかった。ジョーンズの勝手な思い込みであっても裏切ったのはサトペンだった。
男性は執着や失ったもの、得ることができない(できなかった)ものを取り戻そうとして動いている。
③暴力について
結末はやはり暴力があって、それも自分で振るわないといけない。
ボンとヘンリーは呪われた未来を神、戦争という暴力に託したが結論は幸か不幸かついに出ず、お互いにお互いに殺してくれることを望む持久戦になってしまった。ヘンリーは我慢比べに負けた。
一方サトペンは血糖を繰り返していて暴力に慣れていた。これは現実で日常的に決断力を持っていたのはサトペンだけであることを表してもいる。(だから彼は強かった。)
つまりこの物語で(自分で振るう)暴力とは決断になる。これが現実を運命の手からとって自分で定める、という行動の象徴で、しかし暴力は当然不幸しか招いていない。
④呪いの構造
ボンの母親は地理的に部外者なので置いておく(彼女はサトペンと似ていて人生にはっきり目的がある人である)。同様にカナダ人のシュリーヴも部外者になる。彼にとっては異様な南部への「なぜ?」という問いかけが物語を進めていく(=人物を解析していく)動機になる。(クエンティンも同期は同じだが彼は渦中にいる。)
この物語に登場する女性陣を考えてみると概ね彼女たちは巻き込まれ、男性たちに影響されていることがわかる。
南部では圧倒的に男性優位で女性は男性の周りに配置され、そのために消費される。
ローズは子を生む役目を露骨に告げられてサトペンを恨んでいる。彼女はサトペン似人生を狂わされたと思いこんでいる。(が、実はほぼ自滅していることが描かれている。)
エレンは南部に疑問がなく無知だがそれゆえ幸福に死んだ。
クライテムネストラは女性性を否定して従僕として生きている。
私がこの物語で一番謎だったのはジュディスで彼女は父親であるサトペン(とエレン)婚約者であるボン、さらには兄のヘンリーからも道具として扱われているが、常に自分がないように動いている。とにかく真意が汲み取れない。存在感がないが曖昧に悩んでいるわけではないが、妙に行動が明確である。他人に自分の大切な手紙を託したり、親族の墓を用意したり、ボンの息子を引き取ったり。彼女には感情の起伏がないように感じる。この物語で起こる何事も彼女にダメージを与えていないようだ。
呪いで身を滅ぼす男たち、だが強権で周囲の女性も不幸にする。これが呪いの構造というかアウトラインだろう。
■アブサロム、アブサロム!とは
「サンクチュアリ」、「八月の光」と比べてこの物語がわかりにくいのは扱っている悪がわかりにくいからである。例えばレイプ、黒人差別そういった一言に集約できない。
フォークナーが作品を通じて呼びかけたかったのは「レイプや差別はだめよ」という言葉に集約できない。
彼は暴力が生まれる悲劇的な土壌や資質を一貫して書きたかったので、それは何かと言ったら南部という土地だった。
つまるところ善悪は概念であるから、南部での生活を書きたいわけで、そこには悲喜と清濁が混じり合っている。
南部が呪われていて地獄だ!というふうには言いたくなかったわけだ。だからクエンティンの本当の最後の独白がある。
長大な一個の「なぜ?」のような小説。
フォークナーの文は読みにくい。句読点を省いた一文が非常に長いのに加えて、比喩を含んだ表現が多く、時系列は直線的でないし、さらには説明が省かれていたりする。
「八月の光」「サンクチュアリ」はリズム重視で読み飛ばしていたのでは?という疑念から今回はじっくり理解できるまで一文一文噛み締めていくような読み方したら時間がかかってしまった。
句読点を省いた独特の文体は後にマッカーシーに受け継がれていくのだろう、フォークナーはアメリカ文学界の巨匠である、言うまでもなく。
ただ今作読んで思ったのは結構アメリカ的ではないな、この人の書く物語は。
ヘミングウェイの「老人と海」がアメリカ文学における一つの大きな里程標だとするとそこに書き込まれているのはぶっきらぼうとも言える、極めて肉体的な”動き”にのみフォーカスした、逆に言えば心理的な描写を徹底的に排した文体である。
これは「ハックルベリー・フィンの冒険」から受け継がれる、アメリカという歴史と背景を持たない新しい国が生み出した一つの新しい伝統。
ところがフォークナーの文体は明白にイギリスのヴァージニア・ウルフの書くそれに似ている。
意識の流れ、と評されることがあるその文体は人間の意識に発生する”動き”を丹念に描いていく手法だ。
外界の刺激に比例しない動きなので、人の内面描写に優れる分、実際の行動に対して長くなりがちだし、ときに退屈でもある。
物語が現実の省略、デフォルメだとするとその長大な流れのなかに置かれた石のような、不思議な手法ではある。
■歴史を語るという構造
「アブサロム、アブサロム!」は歴史的な小説である。
歴史をメタ的に扱っている小説という意味で、歴史小説という意味ではない。
「燃えよ剣」は歴史を扱っているが、歴史という概念はここではジャンルであって内容には関係ない。
ところがフォークナーはこの本で歴史を物語ろうとしているわけだ。
サトペンという謎めいた男の人生を紐解いていくことで。
神の視点でサトペン本人にフォーカスして地の文を書いていく(例えばサトペンは馬にまたがった、のように)のではなく、すでにいなくなったサトペンを別の人達が語っていくのである。幽霊が、と冒頭で表現されているのは正しい。
痕跡、ここで事実とそして大半は人の記憶の伝聞からサトペンという過去生きた男を再構築していくわけだ。
これは解釈という言葉で置き換え可能で、そういう意味ではすでに事実からかけ離れている。ローザに関しては私情というより私怨が入りすぎているからすでに彼女の語るサトペン像は奇妙に歪んでいるだろう。
上巻の183ページ目、いかにもフォークナーらしい書き方で、記憶や手紙から再構築したサトペンたちにはなにかが足りていないことが示唆されている。
そういった意味では神話的であり、サトペンは一つの伝説であるといえる。
足りない部分は残された者たちがそれぞれの思い入れを注入して補填しているのだ。
■悪魔のような男ことサトペンと南部の呪い
①サトペン
悪魔とも称されるサトペンという男はでは何を代表していて、何の代表なのかというとこれは南部ということになる。
南部の体現者。
貧困から立ち上がり、KKKを追い返したが、自分から偉大な白人の血統を始めようとした男。妻に黒人の血が混じっていることがわかれば離縁したこともある。
血にこだわる急進的な差別主義者ではない差別主義者。
「黒人か、そうでないか」の思考で生きている差別主義者。
彼が作中で悪魔と言われるゆえんはしかし差別主義者だったことは一度もない。
彼は寡黙な独裁者という独特な雰囲気で、目的のために手段を選ばない。
良く言えば取り繕うということをしない正直な男でもある。
戦争に従軍する勇気もある。
自ら地所に家を建てる根気も気力も体力もある。
何より強引だが実行力に長けている。
白人の金持ちの持つ黒人の召使いにあしらわれたことが、彼の人生の立身の動機となったが、差別が差別を生み出したように彼も黒人を排除しようとは思わないが、やはり差別主義者になった。
②呪いについて
この南部の呪われたた血の連鎖は父子関係で受け継がれていて、みんながなにか自分に足りない何かを求めてこの地上をさまよっている。
サトペンは自分を始祖とする偉大な白人の血統、その息子ヘンリーは自分の恋愛感情を妹に置き換えて伊達者と結婚させようとしている、(サトペンの)娘ジュディスの許嫁秘めた思惑をこれまた(しかし母親から)上代から受け継がれたボンは復讐と陰謀の中で常に自分にとっては不在だった父親からの認知を求めている。
ボンの息子エティエンヌは呪いの犠牲者とも言うべき境遇で自分は黒人だと自他ともに認めさせるように黒人の女性と結婚し、また白人に喧嘩を売り続けて死んでしまった。
ジョーンズは南部の英雄の従者になりたかったわけではなく、栄光に浴されたかったわけで、いわばサトペンの隣に座したかったのであり、積年の奉公がついに甲斐なくなったとわかったときようやく武器をとった。彼は常に遅いものであり、ただし裏切り者ではなかった。ジョーンズの勝手な思い込みであっても裏切ったのはサトペンだった。
男性は執着や失ったもの、得ることができない(できなかった)ものを取り戻そうとして動いている。
③暴力について
結末はやはり暴力があって、それも自分で振るわないといけない。
ボンとヘンリーは呪われた未来を神、戦争という暴力に託したが結論は幸か不幸かついに出ず、お互いにお互いに殺してくれることを望む持久戦になってしまった。ヘンリーは我慢比べに負けた。
一方サトペンは血糖を繰り返していて暴力に慣れていた。これは現実で日常的に決断力を持っていたのはサトペンだけであることを表してもいる。(だから彼は強かった。)
つまりこの物語で(自分で振るう)暴力とは決断になる。これが現実を運命の手からとって自分で定める、という行動の象徴で、しかし暴力は当然不幸しか招いていない。
④呪いの構造
ボンの母親は地理的に部外者なので置いておく(彼女はサトペンと似ていて人生にはっきり目的がある人である)。同様にカナダ人のシュリーヴも部外者になる。彼にとっては異様な南部への「なぜ?」という問いかけが物語を進めていく(=人物を解析していく)動機になる。(クエンティンも同期は同じだが彼は渦中にいる。)
この物語に登場する女性陣を考えてみると概ね彼女たちは巻き込まれ、男性たちに影響されていることがわかる。
南部では圧倒的に男性優位で女性は男性の周りに配置され、そのために消費される。
ローズは子を生む役目を露骨に告げられてサトペンを恨んでいる。彼女はサトペン似人生を狂わされたと思いこんでいる。(が、実はほぼ自滅していることが描かれている。)
エレンは南部に疑問がなく無知だがそれゆえ幸福に死んだ。
クライテムネストラは女性性を否定して従僕として生きている。
私がこの物語で一番謎だったのはジュディスで彼女は父親であるサトペン(とエレン)婚約者であるボン、さらには兄のヘンリーからも道具として扱われているが、常に自分がないように動いている。とにかく真意が汲み取れない。存在感がないが曖昧に悩んでいるわけではないが、妙に行動が明確である。他人に自分の大切な手紙を託したり、親族の墓を用意したり、ボンの息子を引き取ったり。彼女には感情の起伏がないように感じる。この物語で起こる何事も彼女にダメージを与えていないようだ。
呪いで身を滅ぼす男たち、だが強権で周囲の女性も不幸にする。これが呪いの構造というかアウトラインだろう。
■アブサロム、アブサロム!とは
「サンクチュアリ」、「八月の光」と比べてこの物語がわかりにくいのは扱っている悪がわかりにくいからである。例えばレイプ、黒人差別そういった一言に集約できない。
フォークナーが作品を通じて呼びかけたかったのは「レイプや差別はだめよ」という言葉に集約できない。
彼は暴力が生まれる悲劇的な土壌や資質を一貫して書きたかったので、それは何かと言ったら南部という土地だった。
つまるところ善悪は概念であるから、南部での生活を書きたいわけで、そこには悲喜と清濁が混じり合っている。
南部が呪われていて地獄だ!というふうには言いたくなかったわけだ。だからクエンティンの本当の最後の独白がある。
長大な一個の「なぜ?」のような小説。
ラベル:
アメリカ,
ウィリアム・フォークナー,
純文学,
本
2019年12月16日月曜日
荒俣宏 編/アメリカ怪談集
河出書房新社の各国の怪談集が相次いで復刊されているのは非常に嬉しい。
これはそのアメリカ編。編者は荒俣宏氏。
収録作品は下記の通り。
①ホーソーン「牧師の黒いヴェール」
②ジェームズ「古衣裳のロマンス」
③ラブクラフト「忌まれた家」
④ルイス「大鴉の死んだ話」
⑤カウンセル「木の妻」
⑥ホワイトヘッド「黒い恐怖」
⑦フリーマン「寝室の怪」
⑧ウォートン「邪眼」
⑨ビアス「ハルビン・フレーザーの死」
⑩ポオ「悪魔に首を賭けるな 教訓のある話」
⑪ヘクト「死の半途に」
⑫ブラッドベリ「ほほえむ人びと」
⑬ケラー「月を描く人」
私はしばらく前アメリカ文学の古典を読んでいたのだけど、あらためてこうしてアメリカ文学を短編という形で読むとやはり非常に面白い。
アメリカ合衆国というのはいわばイギリスから文化した国であるけれど、その文化はイギリスを受け継ぎつつも結果的にはだいぶ異なる。
怪談という切り口で改めてアメリカ文学を読んでみると気がつくのはその歴史のなさ。
たとえば年振りた由緒ある館で先祖代々の幽霊が夜な夜な広大な屋敷を歩き回るのである…という怪談は当然ない。だってそんな歴史がないのだもの。
歴史がないということは弱点でもあり、強みでもある。
アメリカの文士たちは(恐怖というジャンルに限らず)ないものを補おうと頭を捻って新しいものを作り出したのである。
収録作品で神話の香りを感じさせるのはネイティブ・アメリカンを主題にした④だけ。
先日遅ればせながらヘミングウェイの「老人と海」を読んで、マッカーシーの異常な文体につながるアメリカ文学のもつ肉体性に合点が行ったのだけれど、やはり恐怖小説においてもその流れが確実にある。
歴史がなく、また広大な荒野で外敵に囲まれて生活を送った当初のアメリカ人にとって恐怖とは常に現実的なものだった。毒蛇やネイティブ・アメリカン、強盗野党のたぐいが彼らにとっての脅威であり、変な話幽霊たちの付け入る好きはあまりなかったのかもしれない。
このアンソロジーのどれも現実的な恐怖や異常を書いている作品が多い。
②は正しく幽霊が出てくるが、それは生前のその人を知っているくらい直近の幽霊なのは非常に象徴的だ。
一方③や⑤の新しい恐怖の対象としてのクリーチャーの造形の視覚的な異常さは面白い。
また心理的な描写が多いのもアメリカ的な怪談の特徴。心理的でない小説はないからこの書き方だと馬鹿らしいのだが、要するに心理学的な要素か。
信仰心と不可解な心理を取り扱う①、迷信を文明が教化する⑥、罪悪感が怪異の形を取る⑧、正しく後のサイコスリラーの系譜に連なる⑫。異常な親子関係という意味では⑨と⑬もその範疇に収めても良いかもしれない。
文学、文章というのは描かれた時代や土地を反映するものだから、やはりテーマや土地で作品を集めればその特性が非常にわかりやすく見て取れる。これが短編集・アンソロジーの醍醐味だろう。
自治体や集落単位で恐れていたものが怪異や異形として結実する、というプロセスは同じにしても昔のアメリカでそれでは一体何が恐れられていたのか?というと、暗く広い荒野にある現実的な恐怖。それから新大陸で病んでいく人の心だろうか。
肉体的で心理的、というと矛盾してそうだが、怪異に関してその謎を、旧来の怪談のように過去の因縁に求めるのか、現代にもとめるのか、そのアプローチこそがアメリカの怪談を特徴づけているものかもしれない。
これはそのアメリカ編。編者は荒俣宏氏。
収録作品は下記の通り。
①ホーソーン「牧師の黒いヴェール」
②ジェームズ「古衣裳のロマンス」
③ラブクラフト「忌まれた家」
④ルイス「大鴉の死んだ話」
⑤カウンセル「木の妻」
⑥ホワイトヘッド「黒い恐怖」
⑦フリーマン「寝室の怪」
⑧ウォートン「邪眼」
⑨ビアス「ハルビン・フレーザーの死」
⑩ポオ「悪魔に首を賭けるな 教訓のある話」
⑪ヘクト「死の半途に」
⑫ブラッドベリ「ほほえむ人びと」
⑬ケラー「月を描く人」
私はしばらく前アメリカ文学の古典を読んでいたのだけど、あらためてこうしてアメリカ文学を短編という形で読むとやはり非常に面白い。
アメリカ合衆国というのはいわばイギリスから文化した国であるけれど、その文化はイギリスを受け継ぎつつも結果的にはだいぶ異なる。
怪談という切り口で改めてアメリカ文学を読んでみると気がつくのはその歴史のなさ。
たとえば年振りた由緒ある館で先祖代々の幽霊が夜な夜な広大な屋敷を歩き回るのである…という怪談は当然ない。だってそんな歴史がないのだもの。
歴史がないということは弱点でもあり、強みでもある。
アメリカの文士たちは(恐怖というジャンルに限らず)ないものを補おうと頭を捻って新しいものを作り出したのである。
収録作品で神話の香りを感じさせるのはネイティブ・アメリカンを主題にした④だけ。
先日遅ればせながらヘミングウェイの「老人と海」を読んで、マッカーシーの異常な文体につながるアメリカ文学のもつ肉体性に合点が行ったのだけれど、やはり恐怖小説においてもその流れが確実にある。
歴史がなく、また広大な荒野で外敵に囲まれて生活を送った当初のアメリカ人にとって恐怖とは常に現実的なものだった。毒蛇やネイティブ・アメリカン、強盗野党のたぐいが彼らにとっての脅威であり、変な話幽霊たちの付け入る好きはあまりなかったのかもしれない。
このアンソロジーのどれも現実的な恐怖や異常を書いている作品が多い。
②は正しく幽霊が出てくるが、それは生前のその人を知っているくらい直近の幽霊なのは非常に象徴的だ。
一方③や⑤の新しい恐怖の対象としてのクリーチャーの造形の視覚的な異常さは面白い。
また心理的な描写が多いのもアメリカ的な怪談の特徴。心理的でない小説はないからこの書き方だと馬鹿らしいのだが、要するに心理学的な要素か。
信仰心と不可解な心理を取り扱う①、迷信を文明が教化する⑥、罪悪感が怪異の形を取る⑧、正しく後のサイコスリラーの系譜に連なる⑫。異常な親子関係という意味では⑨と⑬もその範疇に収めても良いかもしれない。
文学、文章というのは描かれた時代や土地を反映するものだから、やはりテーマや土地で作品を集めればその特性が非常にわかりやすく見て取れる。これが短編集・アンソロジーの醍醐味だろう。
自治体や集落単位で恐れていたものが怪異や異形として結実する、というプロセスは同じにしても昔のアメリカでそれでは一体何が恐れられていたのか?というと、暗く広い荒野にある現実的な恐怖。それから新大陸で病んでいく人の心だろうか。
肉体的で心理的、というと矛盾してそうだが、怪異に関してその謎を、旧来の怪談のように過去の因縁に求めるのか、現代にもとめるのか、そのアプローチこそがアメリカの怪談を特徴づけているものかもしれない。
2019年11月4日月曜日
チャールズ・L・ハーネス/パラドックス・メン
聞き覚えのない作者だったが、ブライアン・オールディスが推薦していること。そのオールディスの「寄港地のない船」と同じ竹書房から出ていること。翻訳したのが中村融であることという条件が揃えば買わないわけにはいかない。
ジャンルはオールディス曰くワイドスクリーン・バロックということである。というかこのジャンルはこの作品を褒めたいがためにオールディスが作り出したというのだからなおさら読まねばならない。いわば近代SFの一つの里程標的な作品と言えるだろう。
以前にも数冊このジャンルを読んだことがある。
簡単にまとめると時空(宇宙と時間)を舞台に(=ワイドスクリーン)、特殊な能力を持つ主人公(=バロック)が縦横に活劇を繰り広げる、という物語である。
真っ先に思い浮かんだのはむしろこのジャンルでは語られることがない(と思う)ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズ。
この物語の場合主人公であるアラールという男は記憶喪失で自分が一体何物なのか?という謎を追っていくことで物語が進んでいく。
一方私がちょうど思春期の頃、日本ではセカイ系といわれる一連の物語が非常に流行ったことがある。
「新世紀エヴァンゲリオン」以降の、作品名を上げると高橋しんによる「最終兵器彼女」など、どこかで読んだので間違っているかもしれないがとある人(名前は忘れた、東浩紀氏だったような)によると「主人公たちの問題がそのまま世界の命運に紐付いてい」るような作品を指す言葉、ジャンルだったと思う。
ちなみに最近読んだ神永長平の「戦闘妖精雪風」もちょっとこの雰囲気あった。
この「パラドックス・メン」では銀河を舞台に地球の命運をかけた闘いがあり、どうもその鍵を握っているのが主人公とその正体、ということになっているので、個人的にはこの作品、さらにはこの作品を説明するために生まれたワイドスクリーン・バロックという言葉にセカイ系を感じてしまったのである。
この作品「The Paradox Men」(が下の題の「Flight to Yesterday」という名で)発表されたのが1953年なので、もちろん2000年代周辺(雪風は1985年だそうだ)の日本の作品が(もし本当に受けたとすれば)この作品からの流れに影響を受けたのだ。
もちろん結構な差異もあるわけで、この作品のアラールは救世主、あるいはセカイの破壊者たる自覚を持って積極的に戦線に参加していくわけではない。むしろ巻き込まれ型の主人公を地で行く、追われる中で戦い、そして真相に近づいていく。(こういう物語の運び方はハリウッド的)
いわば主人公の自意識が超拡大して物語、つまり作品の中の時空を覆っていないわけで、あの「セカイ系」に特有の青臭さというはまったくない。
「パラドックス・メン」では時間を3次元に追加するもう一次元捉える4次元論が展開されるあたり、かなりまっとうなサイエンス・フィクションである。
ただこういうワイドスクリーン・バロックが、コードウェイナー・スミスによる一連の単語とキャラクターの世界と融合し、独自に飲み込み、ある部分を拡大解釈して生まれたのが「新世紀エヴァンゲリオン」(作中の人類補完計画はスミスの「人類保管機構」からとった、またスミスの作品に出ている猫少女ク・メルは日本でオタク流に解釈されたとか)などの日本の創作群だったらと考える。
そういった「線」を感じさせる作品なので、今読むのは非常に面白い。
ラベル:
SF,
アメリカ,
チャールズ・L・ハーネス,
本
2019年10月27日日曜日
マイケル・フィーゲル/ブラックバード
誘拐事件や監禁事件の際に加害者と被害者に特異な関係が築かれることがある。
一種の共存関係が結ばれるわけだ。ストックホルム症候群という名称で知られるこの概念はフィクションでの登場頻度は高いのではないか。
この物語は一人職業テロリスト(本来の思想的テロリストと区別するために私が勝手に作った言葉です。)が犯行現場で女の子を拾ったところから物語が始まる。
禁断の関係がドラマティックに物語を盛り上げるように、この小説も恋愛小説といえる。
誘拐犯と被害者、そして父親と女の子と、二重の意味で禁断の関係が描かれている。
恋愛では互いに秘密を共有することで関係性が深まるという。
罪の感情というのはとっておきの秘密であり、これを時期に展開する物語は非常にロマンティックだと言える。
被害者に生じるストックホルム症候群は一種の防衛機制で圧倒的な力関係の中でサバイブするための術である。
一方で共依存という関係があって、これは不健全な関係で二者がそれぞれの役割にハマって依存すること。ときにはこれは自分によって良くない自覚があってもその関係から抜け出すことができないとか。
職業テロリストなもので終日さらってきた女の子を見張っているわけには行かない。
女の子の方はやろうと思えば逃げ出せる環境で色々な理由をつけて結局誘拐犯の男から逃げることをしない。男は自分を間接的に殺そうとしたのにである。
不幸な家庭に育ったこともありどこにも居場所がないのが一つ、テロリストに鍛え上げられて殺人を犯した今帰りにくいのが一つ、男と奇妙な関係になっているのが一つ。
だが実際には新しい生活を始めるのが怖い、もっと素直に言えば生活スタイルを変えるのが文字通り(テロリストであり、組織からも追われているので)死ぬほど面倒くさいのだ。ブラック企業からなかなか退職できない社畜みたいなもんだ。忙しくて時間ないし、まともなスキルもないしといっている間にズルズル時間が立ち更にやめにくくなる。
面白いことに誘拐した男の方も同じである。
幼いときに否応なしにこの業界に突っ込まれ、中年を迎えるまで他の生き方を知らないのだ。彼が女の子を拾ったのは寂しかったからである。互いに食い合う裏社会で信頼できる仲間が欲しかった。(この恋愛小説がある観点ではずっと片思いなのは面白い。)
彼は組織を抜けたあとも殺し屋以外の生き方を模索しようとはしていない。
この本にはカタルシスがないのは意図的なのだろうかと考える。
フィクションとして殺し屋の追われ命を狙われる生活も楽しそうには書かれていない。
断片的な男の日記をたどっていく少女の旅路だが、しかし殺し屋のくせによく寝る男の本質も特別ニヒルでもない(故に私は好感が持てた)、つまり冴えない男であり(これは本書の帯にも退屈なという形容詞で表現されている)、そんな男を追う少女の姿はなかなか納得できないものがあるが、その他人には理解不能な情熱が恋なのだろうかな?と思った。
一種の共存関係が結ばれるわけだ。ストックホルム症候群という名称で知られるこの概念はフィクションでの登場頻度は高いのではないか。
この物語は一人職業テロリスト(本来の思想的テロリストと区別するために私が勝手に作った言葉です。)が犯行現場で女の子を拾ったところから物語が始まる。
禁断の関係がドラマティックに物語を盛り上げるように、この小説も恋愛小説といえる。
誘拐犯と被害者、そして父親と女の子と、二重の意味で禁断の関係が描かれている。
恋愛では互いに秘密を共有することで関係性が深まるという。
罪の感情というのはとっておきの秘密であり、これを時期に展開する物語は非常にロマンティックだと言える。
被害者に生じるストックホルム症候群は一種の防衛機制で圧倒的な力関係の中でサバイブするための術である。
一方で共依存という関係があって、これは不健全な関係で二者がそれぞれの役割にハマって依存すること。ときにはこれは自分によって良くない自覚があってもその関係から抜け出すことができないとか。
職業テロリストなもので終日さらってきた女の子を見張っているわけには行かない。
女の子の方はやろうと思えば逃げ出せる環境で色々な理由をつけて結局誘拐犯の男から逃げることをしない。男は自分を間接的に殺そうとしたのにである。
不幸な家庭に育ったこともありどこにも居場所がないのが一つ、テロリストに鍛え上げられて殺人を犯した今帰りにくいのが一つ、男と奇妙な関係になっているのが一つ。
だが実際には新しい生活を始めるのが怖い、もっと素直に言えば生活スタイルを変えるのが文字通り(テロリストであり、組織からも追われているので)死ぬほど面倒くさいのだ。ブラック企業からなかなか退職できない社畜みたいなもんだ。忙しくて時間ないし、まともなスキルもないしといっている間にズルズル時間が立ち更にやめにくくなる。
面白いことに誘拐した男の方も同じである。
幼いときに否応なしにこの業界に突っ込まれ、中年を迎えるまで他の生き方を知らないのだ。彼が女の子を拾ったのは寂しかったからである。互いに食い合う裏社会で信頼できる仲間が欲しかった。(この恋愛小説がある観点ではずっと片思いなのは面白い。)
彼は組織を抜けたあとも殺し屋以外の生き方を模索しようとはしていない。
この本にはカタルシスがないのは意図的なのだろうかと考える。
フィクションとして殺し屋の追われ命を狙われる生活も楽しそうには書かれていない。
断片的な男の日記をたどっていく少女の旅路だが、しかし殺し屋のくせによく寝る男の本質も特別ニヒルでもない(故に私は好感が持てた)、つまり冴えない男であり(これは本書の帯にも退屈なという形容詞で表現されている)、そんな男を追う少女の姿はなかなか納得できないものがあるが、その他人には理解不能な情熱が恋なのだろうかな?と思った。
ラベル:
アメリカ,
スリラー,
ノワール,
マイケル・フィーゲル,
本
2019年9月23日月曜日
A・ブラックウド 他 平井呈一 訳/幽霊島 平井呈一階段翻訳集成
翻訳家平井呈一が翻訳した海外のホラー小説を集めたアンソロジー。
平井呈一といったらなんといってもブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の翻訳だ。真っ赤な表紙のあの本。それから明らかにドラキュラに対応した真っ青な表紙のレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を読んだ学生時代。アーサー・マッケンの「怪奇クラブ」。それから猫が表紙に書いてある平井呈一自身が書いた「真夜中の檻」も読んだ。
そんなわけで若干のノスタルジーもあって手にとったこの本、ごくたまにある面白すぎて読みすすめるのがもったいない、という気持ちを味わえる良い本だった。
中でも心底震えたのがF・マリオン・クロフォードの手による「死骨の咲顔」。まさに鬼気迫るこの怖さはなんだろうと思ったら、齢100歳の幽霊屋敷に使えるおばあさんの口調だった。まるで金田一耕助シリーズに出てくるようなおばあちゃん口調なのだ。年振り、少しなまっているような、半ば死んだ言葉たち。もちろん原著は英語で書いてあるわけだから、(単語のチョイスはあるだろうが)訳者である平井が言葉を当てはめ、補いこの雰囲気を作っているのである。
ここに平井呈一の凄みを感じたわけで、つまり英語をそのまま翻訳しても堅い文章にしかならない。例えば現代ならGoogle翻訳にかけたような少し奇妙な日本語である。これに意識というフィルターを掛け、意訳の工程を経て硬かった文を柔らかく、違和感なくしていくのが翻訳者の仕事だろうか。
それだとしたら時代背景や小説の設定、それから読者のことを慮って更に言葉を選んでいくのが翻訳家平井呈一の腕なわけだ。
もちろん原文からの距離は離れるから、それは批判があるかもしれない。しかし断言してもよいが波の翻訳者が前述の「死骨の咲顔」を翻訳しても絶対にこんなに怖くはならないだろう。
平井呈一は原著を再構築する作家的な側面を持っているといいいたいわけではなく、極めて尖ったどこまでも翻訳者なのである。
彼の目的は唯一つ、原著の面白さを英語を解さない日本人に伝えて怖がらせること。
そう思って読みすすめると付録の生田耕作との対話でやはり翻訳に対する強いこだわりを見せていて、これは非常に納得感があった。
つまりただ訳すだけでは全くだめだと、翻訳者は日本の言葉をとにかくたくさん身につけてないといけない、そしてこの教養を存分に奮って翻訳しないとならない。そういった意味では平井は自身を職人だと考えている。
かねがね思っていたのだが、ラブクラフトの仰々しい文体は現実離れした恐怖や怪異を読者に伝えるための一つのやり口であって、そういった意味では怪異を呼び出す呪文なのだ。平易な文章で恐怖を惹起させる巧みな作者もいるだろうが、やはり凝った文体が生み出す圧倒的な没入感を伴う恐怖というのは他に代えがたい。
ラブクラフトといえばこの本に収録されているのはいわゆるクトゥルー物ではなくて「アウトサイダー」というのも面白くて、つまり平井が考える恐怖が肉体的な恐怖ではなく、考えること、根本的にはその暗がりに何変えたいのしれないモノがいるのではないか?と考える恐怖であることを示している。そういった意味で収録されている作品にははっきりとした共通項があるようである。
こうなるとか怪異自体とそれに影響される人間の認知のゆがみというか揺らぎが、もう一つの恐怖の源泉でもある。
じっとりとした恐怖を味わいたいならこんなにうってつけの一冊もないだろう。
平井呈一といったらなんといってもブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の翻訳だ。真っ赤な表紙のあの本。それから明らかにドラキュラに対応した真っ青な表紙のレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を読んだ学生時代。アーサー・マッケンの「怪奇クラブ」。それから猫が表紙に書いてある平井呈一自身が書いた「真夜中の檻」も読んだ。
そんなわけで若干のノスタルジーもあって手にとったこの本、ごくたまにある面白すぎて読みすすめるのがもったいない、という気持ちを味わえる良い本だった。
中でも心底震えたのがF・マリオン・クロフォードの手による「死骨の咲顔」。まさに鬼気迫るこの怖さはなんだろうと思ったら、齢100歳の幽霊屋敷に使えるおばあさんの口調だった。まるで金田一耕助シリーズに出てくるようなおばあちゃん口調なのだ。年振り、少しなまっているような、半ば死んだ言葉たち。もちろん原著は英語で書いてあるわけだから、(単語のチョイスはあるだろうが)訳者である平井が言葉を当てはめ、補いこの雰囲気を作っているのである。
ここに平井呈一の凄みを感じたわけで、つまり英語をそのまま翻訳しても堅い文章にしかならない。例えば現代ならGoogle翻訳にかけたような少し奇妙な日本語である。これに意識というフィルターを掛け、意訳の工程を経て硬かった文を柔らかく、違和感なくしていくのが翻訳者の仕事だろうか。
それだとしたら時代背景や小説の設定、それから読者のことを慮って更に言葉を選んでいくのが翻訳家平井呈一の腕なわけだ。
もちろん原文からの距離は離れるから、それは批判があるかもしれない。しかし断言してもよいが波の翻訳者が前述の「死骨の咲顔」を翻訳しても絶対にこんなに怖くはならないだろう。
平井呈一は原著を再構築する作家的な側面を持っているといいいたいわけではなく、極めて尖ったどこまでも翻訳者なのである。
彼の目的は唯一つ、原著の面白さを英語を解さない日本人に伝えて怖がらせること。
そう思って読みすすめると付録の生田耕作との対話でやはり翻訳に対する強いこだわりを見せていて、これは非常に納得感があった。
つまりただ訳すだけでは全くだめだと、翻訳者は日本の言葉をとにかくたくさん身につけてないといけない、そしてこの教養を存分に奮って翻訳しないとならない。そういった意味では平井は自身を職人だと考えている。
かねがね思っていたのだが、ラブクラフトの仰々しい文体は現実離れした恐怖や怪異を読者に伝えるための一つのやり口であって、そういった意味では怪異を呼び出す呪文なのだ。平易な文章で恐怖を惹起させる巧みな作者もいるだろうが、やはり凝った文体が生み出す圧倒的な没入感を伴う恐怖というのは他に代えがたい。
ラブクラフトといえばこの本に収録されているのはいわゆるクトゥルー物ではなくて「アウトサイダー」というのも面白くて、つまり平井が考える恐怖が肉体的な恐怖ではなく、考えること、根本的にはその暗がりに何変えたいのしれないモノがいるのではないか?と考える恐怖であることを示している。そういった意味で収録されている作品にははっきりとした共通項があるようである。
こうなるとか怪異自体とそれに影響される人間の認知のゆがみというか揺らぎが、もう一つの恐怖の源泉でもある。
じっとりとした恐怖を味わいたいならこんなにうってつけの一冊もないだろう。
2019年9月16日月曜日
ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]3
設定や舞台がはるか未来、別の惑星であっても、その中での極めて短いスパンの個人的な体験を描いている物語が多い。
スペースオペラ的な勇猛果敢な冒険のようなものはなく、どれもひねりが効いている。
説教的とまでは行かないが警告的である。
つまり基本的にどの作品も未来的で先進的でありながら、多分に現実的であり、物語自体が比喩的である。
技術が進歩した未来で人類にとって脅威になりえるのは、攻撃的な異形のエイリアンではなく、どこまでいっても人類の抱える問題である。
未来やまだない技術を扱うのはそれ自体予言と言うよりは、それを使って視点を変えることにある。
つまりすでに発生している現実的な問題、中にはあえて無視されている問題について別の視点でそれを眺めることによって、その危険性を暴露してやろう、という思想・姿勢とそれの実施が、ハーラン・エリスンが私達に提示する危険なヴィジョンである。
新しい問題を広大な宇宙にもとめるというよりは、既知の問題、根源的な問題を宇宙というスクリーンに映し出すというやり口は、どちらかというと内省の動きであって、そういった意味では「インナー・スペース」を提唱して新しい波の旗手となったバラードの短編が収録されているのも頷ける。
エリスンの短編を手にとったことのある人ならわかると思うが、エリスンは弱い人の味方だ。
だからこの本、一連の3冊に含まれている物語はどれも個人的な物語の体裁をとっている。
ときに光の速度を超えて宇宙の果にたどり着けたとしても、変わらない悩みにとらわれる人間、少しも賢くならない人間が書かれている。
こんな作品ばかり集めたのはエリスンで、なぜなら彼はこんな物語が好きで、そしてSF自体を愛する彼はこれらの物語が(人がなんと言おうと)素晴らしい物語だと信じている。
だからこれは襟すんなりの布教なのである。
大言壮語の夢物語が跋扈する文學界に、見たくもない現実を叩きつける聖典といってもそれは正しいだろうが、はちょっと違うものにも思える。
学生自体友人と音楽を進めあったあの時だ。「絶対いいから聞いてみろ」といってニヤニヤした顔でイヤホンを片方差し出してくる、あの雰囲気である。
この本が夜に出てから早~年。一度は本邦で挫折したこのシリーズを、今たしかに懐かしい悪友のような顔をしたエリスン自身からからしかと受け取ったぜ。
(諦めきれずにこの危険なヴィジョンシリーズの全冊発売にこぎつけた日本の関係者の方々に深く感謝。)
スペースオペラ的な勇猛果敢な冒険のようなものはなく、どれもひねりが効いている。
説教的とまでは行かないが警告的である。
つまり基本的にどの作品も未来的で先進的でありながら、多分に現実的であり、物語自体が比喩的である。
技術が進歩した未来で人類にとって脅威になりえるのは、攻撃的な異形のエイリアンではなく、どこまでいっても人類の抱える問題である。
未来やまだない技術を扱うのはそれ自体予言と言うよりは、それを使って視点を変えることにある。
つまりすでに発生している現実的な問題、中にはあえて無視されている問題について別の視点でそれを眺めることによって、その危険性を暴露してやろう、という思想・姿勢とそれの実施が、ハーラン・エリスンが私達に提示する危険なヴィジョンである。
新しい問題を広大な宇宙にもとめるというよりは、既知の問題、根源的な問題を宇宙というスクリーンに映し出すというやり口は、どちらかというと内省の動きであって、そういった意味では「インナー・スペース」を提唱して新しい波の旗手となったバラードの短編が収録されているのも頷ける。
エリスンの短編を手にとったことのある人ならわかると思うが、エリスンは弱い人の味方だ。
だからこの本、一連の3冊に含まれている物語はどれも個人的な物語の体裁をとっている。
ときに光の速度を超えて宇宙の果にたどり着けたとしても、変わらない悩みにとらわれる人間、少しも賢くならない人間が書かれている。
こんな作品ばかり集めたのはエリスンで、なぜなら彼はこんな物語が好きで、そしてSF自体を愛する彼はこれらの物語が(人がなんと言おうと)素晴らしい物語だと信じている。
だからこれは襟すんなりの布教なのである。
大言壮語の夢物語が跋扈する文學界に、見たくもない現実を叩きつける聖典といってもそれは正しいだろうが、はちょっと違うものにも思える。
学生自体友人と音楽を進めあったあの時だ。「絶対いいから聞いてみろ」といってニヤニヤした顔でイヤホンを片方差し出してくる、あの雰囲気である。
この本が夜に出てから早~年。一度は本邦で挫折したこのシリーズを、今たしかに懐かしい悪友のような顔をしたエリスン自身からからしかと受け取ったぜ。
(諦めきれずにこの危険なヴィジョンシリーズの全冊発売にこぎつけた日本の関係者の方々に深く感謝。)
2019年9月8日日曜日
ボストン・テラン/その犬の歩むところ
ロードノヴェルだが、物語を動かしていくのは、何かを得ようとする言葉に出来ない若い情熱でも、なにかから逃げようとする恐怖心でもない、一匹の犬である。そしてこれは何かを得ようとする物語でもあり、ときになにかから逃避行でもある。
広大な北アメリカ大陸を切り裂き、その内部に踏み込んでいく現代アメリカの神話だと思った。
複数の教義に向かってモーセよろしく犬がアメリカ大陸を渡っていく。
すべてがそのドグマに向かっているのであり、登場人物たちはそのために配置されている。彼らの喋る言葉、そして地の文体は神話を構成する言葉たちであり、それらは現代の小説のレベルからすると明らかに仰々しい。
ハワード・フィリップス・ラブクラフトが彼の物語に仰々しい文体を持ち込んだのはそれが呪文だったからだ。触腕蠢く怪物たちはいわばそういった呪文なしに顕現し得ない「現実離れし」た存在である。彼の文体は現実と虚構の埋まり難い溝を埋めるための呪文であった。もしくは読み手に対する催眠と言っても良い。
一方テランはこの物語の格を上げるために装飾的な文体を用いる。それは彼(もしくは彼女、テランは覆面作家)が書く作品が素晴らしい物語だからだ。
彼女の描く人物たちは非常に個性的だし、それぞれが十分に人間的である。納得できる行動をするし、髪型や髪の色、語尾に変な癖をつけたり、(面白い黒人のような)明らかに誇張された「わかりやすいキャラクター」ではない。
その上で棘がつまり複雑性がなく、ややのっぺりした人物像系である。複雑な人間性というのがある程度省略されて、主要な人物たちは概ね定まった過去と声質を持っている。
つまり、
過去に悲惨な経験をし、それを悔やんでいる。
過去の悲劇の少なくとも何割かは自分の責任だと思っている。
その自責の念を別の何かで夫妻をゼロにしようと密かに願っている。
主要な登場人物たちをさして彼らが全員根っからの善人だとするのは不十分だ。
彼らは善悪がはっきりと別れており、主人公たち全人は葛藤はある家のように書かれているが、読者の一人としては彼らの迷いを感じ取ることができない。
いざとなったら自分の命を他者のために投げ出す彼らは、私からするとやはりどこかの神話の登場人物たちに見えてしまう。
彼らの見えない顔は実は苦痛に恍惚としているのでは。
彼らの涙や苦痛は私の感情を引き出すには足りない。
というのも彼らへの共感ができないのだ。それは神話の問題というよりは、神話が救おうとしている人物のハードルが高く、私のような卑小で世俗にどっぷり浸かったつまらない男などはその崇高な門の前では門前払いされてしまうからだ。
広大な北アメリカ大陸を切り裂き、その内部に踏み込んでいく現代アメリカの神話だと思った。
複数の教義に向かってモーセよろしく犬がアメリカ大陸を渡っていく。
すべてがそのドグマに向かっているのであり、登場人物たちはそのために配置されている。彼らの喋る言葉、そして地の文体は神話を構成する言葉たちであり、それらは現代の小説のレベルからすると明らかに仰々しい。
ハワード・フィリップス・ラブクラフトが彼の物語に仰々しい文体を持ち込んだのはそれが呪文だったからだ。触腕蠢く怪物たちはいわばそういった呪文なしに顕現し得ない「現実離れし」た存在である。彼の文体は現実と虚構の埋まり難い溝を埋めるための呪文であった。もしくは読み手に対する催眠と言っても良い。
一方テランはこの物語の格を上げるために装飾的な文体を用いる。それは彼(もしくは彼女、テランは覆面作家)が書く作品が素晴らしい物語だからだ。
彼女の描く人物たちは非常に個性的だし、それぞれが十分に人間的である。納得できる行動をするし、髪型や髪の色、語尾に変な癖をつけたり、(面白い黒人のような)明らかに誇張された「わかりやすいキャラクター」ではない。
その上で棘がつまり複雑性がなく、ややのっぺりした人物像系である。複雑な人間性というのがある程度省略されて、主要な人物たちは概ね定まった過去と声質を持っている。
つまり、
過去に悲惨な経験をし、それを悔やんでいる。
過去の悲劇の少なくとも何割かは自分の責任だと思っている。
その自責の念を別の何かで夫妻をゼロにしようと密かに願っている。
主要な登場人物たちをさして彼らが全員根っからの善人だとするのは不十分だ。
彼らは善悪がはっきりと別れており、主人公たち全人は葛藤はある家のように書かれているが、読者の一人としては彼らの迷いを感じ取ることができない。
いざとなったら自分の命を他者のために投げ出す彼らは、私からするとやはりどこかの神話の登場人物たちに見えてしまう。
彼らの見えない顔は実は苦痛に恍惚としているのでは。
彼らの涙や苦痛は私の感情を引き出すには足りない。
というのも彼らへの共感ができないのだ。それは神話の問題というよりは、神話が救おうとしている人物のハードルが高く、私のような卑小で世俗にどっぷり浸かったつまらない男などはその崇高な門の前では門前払いされてしまうからだ。
2019年8月24日土曜日
ドン・ウィンズロウ/ザ・ボーダー
埋められた死体、吊るされた死体、バラバラに刻まれて奇妙なオブジェクトのように積み上げられた死体、切られ並べられた生首たち。メキシコではカルテルと呼ばれる組織が幅を利かせ、警察や国を買収して血で血を洗う抗争を日夜休むことなく繰り広げ、大量の麻薬を北のアメリカ合衆国に運び込んでいる。また同時に移民や犯罪者が大量に国境から合衆国に流出している。
憂慮した第45代アメリカ合衆国大統領はメキシコとの国境に長大な壁を築くことを公約に掲げている。
邪悪な暗黒大陸(と言われる)メキシコで何が起きているのか、それ丁寧に書いたのがこの一連の小説だと思う。
丁寧にとはどういうことか。それはマクロな視点とミクロな視点で麻薬戦争という出来事を書くことだ。
ドン・ウィンズロウは麻薬戦争をその言葉通り戦争と捉え、半世紀以上続くアメリカが取り組んでいる最も長い戦争だと捉える。なぎ倒されるわらのような大量の死を描く一方でなぶり殺しにされる一人の個人を描いてきた。アメリカの警官が拷問されて死ぬ、メキシコのナルコ(麻薬を売る人たち)やシカリオ(カルテルの暗殺者たち)が大量の銃弾を浴びて死ぬ、老人が殺され、子供が橋から投げ落とされ、大学生が焼き殺された。
万単位の死とそれを構成する、一人ひとりの死をつまり、各個人の生きざまを描いてきた。
一つの放たれた銃弾のような男、(この物語の主人公)アート・ケラーははじめは若き捜査官として、その後出世を重ね今作ではアメリカ合衆国麻薬取締局(DEA)の局長としてこの戦いにアメリカ側の兵力として参加してきた。
自分の手を血で汚し、汚職に加担したケラーは麻薬戦争にどっぷり浸かってきた。
そこで彼がみた生まれながらにして邪悪なメキシコ人が神聖なるアメリカを汚染している風景ではなかった。いかにして麻薬が生まれ、それがビジネスになるのか。
直接的な戦争以上に人が死ぬ争いが継続しているのは紛れもない。とんでもない金を生むからだ。貧困から麻薬を作り、貧困から麻薬を売る、そしてアメリカの貧困層が麻薬を買って使う。
汚い金でも金は金ではアメリカの高官ですら買うことができる。
いよいよ善悪の区別がつかなくなってきた。嘘つきの人殺し共に囲まれてケラーは自分が一体何と戦っているのかわからなくなってくる。(自分が嘘つきの人殺しの一人に成り下がったことに失望している。)キリのない殺し合いの連鎖に疲れてくる。誰が本当の悪なのか。
麻薬戦争を描くということはその表面の残酷性を描くだけでは不十分だ。
誰が駒を動かしているのか?
アメリカは本当に被害者でクリーンなのか?
この物語はあくまでも物語だ。この本に書かれていることが全て真実だと信じることは危険だが、私のような門外漢にはルポタージュ的な側面も強いと思う。
壁を作ることのアホらしさには気がついていたが、はっきりと言葉に出来ない違和感を根本を読むことで少しクリアにはできた。
アメリカでは大麻の合法化が進んでいる。
身体に影響がある以上大麻の合法化がいいことしかないというのは嘘だと思う。依存症などの問題は絶対ある。
しかし禁制になっていないだけでタバコや酒だって同じように薬物なのだ。(アメリカには禁酒法というのがあった。結果的にはマフィアが力を得た。)
合法化された州では大麻を楽しむことができる。かつては大麻はナルコたちの主要なビジネスの一つで、そのために一体何人の人間が殺されたのだろうか。
諦めないナルコたちは次の商品を開発し、新商品の一つフェンタニルは国境を超えたアメリカで大量の貧乏人や若者を殺している。(アメリカのラッパーLil Peepはフェンタニルの過剰摂取で亡くなっている。これは現実の話。)
麻薬の合法化を聞くとベスターの「虎よ!虎よ!」というSF小説を思い出す。
巨大すぎる力をあえて民衆にばらまいてしまう主人公。
使い方はみんな次第。規制するのではなくて民衆を信じたのだ。
年を経たケラーは清濁を併せ呑み、そして彼なりの考えを導き出した。
この柔軟さがかれの本当の強さの一つだ。
排除するのではなく向き合っていこうという姿勢。
たしかにこのやり方があっているかどうかはわからない。
しかしもうあまりに血が流れ、そしてそれは止まる気配がない。
善対悪というわかりやすい欺瞞から脱却し、今違う手段を取るべきだという、それは一つの提案である。
この物語を読んで感じるのは怒りだった。第一作「犬の力」からそうだった。
それはケラーのと言ってもよいが、作者のウィンズロウのだ。
ウィンズロウは他の作品でもアメリカに蔓延する麻薬について、アメリカの社会構造を交えて描いている。
買い手があるから売り手がある。かくて市場が完成する。
終わりのない戦いは続く。
ケラーの戦いはひとまずこの物語で終わり。
2019年7月28日日曜日
ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]2
エリスン編集のアンソロジー、分冊版の2冊め。
かつての翻刻での翻訳の試みは1冊目で頓挫したからようやっと陽の目が出たのがこの2冊めから。
前回はSFという括りにとらわれないラディカルな小説が集められている、というようなことを描いたがもちろんもともと一冊の本であるからしてこの本でもその傾向は同じ。
とにかく本当は裏方に回るはずの編集者にして発起人のエリスンが前に出過ぎ、語りまくるのがこの一連の本の魅力でもある。
彼によるとこの本に集められているのはScience Fictionではなく(注意してほしいのだが彼はこの本に収めれている本がいわゆるSFではないとは一度も言っていない)、Speculative Fictionであるということである。
Speculativeというのは「思弁的な」という意味らしい。これを調べてみると経験によらない思考や論理にのみ基づいている様、ということだ。
つまりここでは純粋に思考力もっというと作者の想像力によって書かれている作品が集められており、科学的であることは必須ではないのだ。そこは熱烈な、というよりは熱狂的なSFの支持者であり、過激な思想家であり、そして作者でもあるエリスンなので彼の審美眼に叶う作品には多かれ少なかれ一つの創作文学の分野としてのSFの要素が含まれている。しかしオールドスクールな既成概念や伝統に縛られることなく、自由で挑戦的な作品が選ばれているのは面白い。
ここでいう「危険な」というのは、誰もが見たことのないという意味とほぼ同意である。それは革新的であることと、そして誰もが見たことを否定するようなないものとして扱うようなな内容を含むこともその範疇に入るだろう。前の一冊の冒頭の物語や、今回では奇しくも最後似収録されたデーモン・ナイトの「最後の審判」などはそのカテゴリに入る。要するにキリスト教とその神聖を否定というよりは別の味方からみる(なので悪魔的な小説というのは当たらない)、アメリカではかなり攻撃的な内容になっている。
それは固定概念への挑戦であり、想像の壁を取り払う前進でもある。
もう一つ大きな要素、というか個人的に嬉しいこのアンソロジーの要素は「反体制」だ。ハーラン・エリスンはパンクスなのだ。この激烈なエネルギーを持ったナードの小男はどこの誰より激しいパンクスなのだ。
この本で言えばフィリップ・K・ディック「父祖の進信仰」、ラリイ・ニーヴン「ジグソー・マン」、ポール・アンダーソン「理想郷」はいずれもディストピアを描き(あるいはユートピアを描きそれに疑問を提示する)、そのいずれもが現代の危機や懸念をはらんだ社会問題をそのまま発展させたものである。(この危機意識が思弁的と言えると思う。)
現代への警鐘というと逆に陳腐な表現だが、やはりそこには抜群に面白い小説というオブラートに包まれた批判精神がある。むしろその批判精神こそが面白さの源泉なのだろう。
私はなんせ「「悔い改めよハーレクイン!」とチクタクマンは言った」でエリスンにあっという間に心酔した人間であるから、やはりこのエリスンのエリスンのためのアンソロジーに彼のそういった反骨精神とその優しさが反映されているのを見て取るのは非常に楽しい。
かつての翻刻での翻訳の試みは1冊目で頓挫したからようやっと陽の目が出たのがこの2冊めから。
前回はSFという括りにとらわれないラディカルな小説が集められている、というようなことを描いたがもちろんもともと一冊の本であるからしてこの本でもその傾向は同じ。
とにかく本当は裏方に回るはずの編集者にして発起人のエリスンが前に出過ぎ、語りまくるのがこの一連の本の魅力でもある。
彼によるとこの本に集められているのはScience Fictionではなく(注意してほしいのだが彼はこの本に収めれている本がいわゆるSFではないとは一度も言っていない)、Speculative Fictionであるということである。
Speculativeというのは「思弁的な」という意味らしい。これを調べてみると経験によらない思考や論理にのみ基づいている様、ということだ。
つまりここでは純粋に思考力もっというと作者の想像力によって書かれている作品が集められており、科学的であることは必須ではないのだ。そこは熱烈な、というよりは熱狂的なSFの支持者であり、過激な思想家であり、そして作者でもあるエリスンなので彼の審美眼に叶う作品には多かれ少なかれ一つの創作文学の分野としてのSFの要素が含まれている。しかしオールドスクールな既成概念や伝統に縛られることなく、自由で挑戦的な作品が選ばれているのは面白い。
ここでいう「危険な」というのは、誰もが見たことのないという意味とほぼ同意である。それは革新的であることと、そして誰もが見たことを否定するようなないものとして扱うようなな内容を含むこともその範疇に入るだろう。前の一冊の冒頭の物語や、今回では奇しくも最後似収録されたデーモン・ナイトの「最後の審判」などはそのカテゴリに入る。要するにキリスト教とその神聖を否定というよりは別の味方からみる(なので悪魔的な小説というのは当たらない)、アメリカではかなり攻撃的な内容になっている。
それは固定概念への挑戦であり、想像の壁を取り払う前進でもある。
もう一つ大きな要素、というか個人的に嬉しいこのアンソロジーの要素は「反体制」だ。ハーラン・エリスンはパンクスなのだ。この激烈なエネルギーを持ったナードの小男はどこの誰より激しいパンクスなのだ。
この本で言えばフィリップ・K・ディック「父祖の進信仰」、ラリイ・ニーヴン「ジグソー・マン」、ポール・アンダーソン「理想郷」はいずれもディストピアを描き(あるいはユートピアを描きそれに疑問を提示する)、そのいずれもが現代の危機や懸念をはらんだ社会問題をそのまま発展させたものである。(この危機意識が思弁的と言えると思う。)
現代への警鐘というと逆に陳腐な表現だが、やはりそこには抜群に面白い小説というオブラートに包まれた批判精神がある。むしろその批判精神こそが面白さの源泉なのだろう。
私はなんせ「「悔い改めよハーレクイン!」とチクタクマンは言った」でエリスンにあっという間に心酔した人間であるから、やはりこのエリスンのエリスンのためのアンソロジーに彼のそういった反骨精神とその優しさが反映されているのを見て取るのは非常に楽しい。
2019年7月21日日曜日
ダシール・ハメット/血の収穫
ハードボイルドというジャンルがあり、この小説を書いたダシール・ハメットがその創始者らしい。そのハメットのはじめての長編がこの本。
読んでみるとたしかにこの本でハードボイルド、ノワール小説というのがもう完全にできあがってしまった感じすらある、
ただ相当ハードで異質であるので、この本を読んで衝撃を受けた人が自分なりのハードボイルドを追求したのだろう。今からすると隔世の感もあるのも事実。
一番面白いのは主人公の造形。ハードボイルドというとソフト帽にトレンチコートに身を包んだ長身の男、無口だがめっぽう腕が立ちかならず事件の渦中にある美女といい感じになる、というような類型が頭に浮かぶのは私だけだろうか。
ところがハメットの主人公私は全然そうではない。おそらくスーツは着て帽子はかぶっているだろうが、100キロ近い巨漢だしそもそも名前がない。ハードボイルドの典型からも離れているが、その上こいつは全く自分というものがないのだ。かなり非人間的なキャラクターである。
もちろん腕っぷしは立つ。更に頭は切れる、切れすぎるほどに切れ、もはや探偵の役割を超えて悪徳の街を一時的にだが自分の手で動かしている。
ところがこいつには個性というものがない。悪徳の街を浄化しようというのは、一応依頼人のリクエストに乗っているがこれは口実に過ぎず(依頼人が徹底的に信用出来ないので)、やられたからやり返すというもの。これは私怨というか怨恨だが、どうもそれより叩かれたら手が出るような反射的なものに感じられる。
「私」は私情がない。自分の過去を話さないのはたしかにハードボイルドだが、「私」の場合は全く過去がなく、この街に来る前にそのままの姿で生まれたかのようだ。
自分がのっぴきならない立場に追い込まれても極めて冷静。自分の正義を信じているわけではない。自分が間違いを犯したかもな、と極めて冷静に一つの可能性としてカウントするだけだ。
こいつには全く気持ちというのがない。何かでブレることもない。
物語には動かし手や説明手が必要だ。狂言回しと言っても良い。外部からきた異端のものである探偵はその役にうってつけだが、例えば事件が終わるまでなんにもしない本邦の金田一耕助とは全く異なり(こっちは探偵小説ではなくミステリーだからジャンルも違うんだけど)、「私」は回すどころではなく自分が物語を動かしていく。
めちゃくちゃ肉体的だが精神がまったくない「私」。
あまりに強すぎて「ありえねー」というキャラクター造形はなんとなく見たことあるような気がするが、この物語の主人公は全く別の意味から衝撃的である。
なんとなくキングのホラー小説(例えば「ニードフル・シングス」のような)にでてくる自治体に不幸と不和を撒き散らしていく悪魔にも通じるところがある。ただ悪魔は人間を堕落させることを至上の喜びとしており、その報酬で動くが、「私」の場合は不自然な反骨心めいたもので動いており、やはり不可解である。
不思議だ不思議だと書いてしまったがこの「血の収穫」とても面白くて、普段本を読まない休日も使ってあっという間に読んでしまった。
多分私の他にも魅力にとりつかれたがなぜを抱えた人がたくさんいて、そんな人達が自分なりの解釈として書き始めたものがハードボイルドというジャンルを作ったのでは、と考えるのは少し面白い。
でもそんな事を考えてしまうほどこの小説は完成されている割に、どこかいびつなのだ。
読んでみるとたしかにこの本でハードボイルド、ノワール小説というのがもう完全にできあがってしまった感じすらある、
ただ相当ハードで異質であるので、この本を読んで衝撃を受けた人が自分なりのハードボイルドを追求したのだろう。今からすると隔世の感もあるのも事実。
一番面白いのは主人公の造形。ハードボイルドというとソフト帽にトレンチコートに身を包んだ長身の男、無口だがめっぽう腕が立ちかならず事件の渦中にある美女といい感じになる、というような類型が頭に浮かぶのは私だけだろうか。
ところがハメットの主人公私は全然そうではない。おそらくスーツは着て帽子はかぶっているだろうが、100キロ近い巨漢だしそもそも名前がない。ハードボイルドの典型からも離れているが、その上こいつは全く自分というものがないのだ。かなり非人間的なキャラクターである。
もちろん腕っぷしは立つ。更に頭は切れる、切れすぎるほどに切れ、もはや探偵の役割を超えて悪徳の街を一時的にだが自分の手で動かしている。
ところがこいつには個性というものがない。悪徳の街を浄化しようというのは、一応依頼人のリクエストに乗っているがこれは口実に過ぎず(依頼人が徹底的に信用出来ないので)、やられたからやり返すというもの。これは私怨というか怨恨だが、どうもそれより叩かれたら手が出るような反射的なものに感じられる。
「私」は私情がない。自分の過去を話さないのはたしかにハードボイルドだが、「私」の場合は全く過去がなく、この街に来る前にそのままの姿で生まれたかのようだ。
自分がのっぴきならない立場に追い込まれても極めて冷静。自分の正義を信じているわけではない。自分が間違いを犯したかもな、と極めて冷静に一つの可能性としてカウントするだけだ。
こいつには全く気持ちというのがない。何かでブレることもない。
物語には動かし手や説明手が必要だ。狂言回しと言っても良い。外部からきた異端のものである探偵はその役にうってつけだが、例えば事件が終わるまでなんにもしない本邦の金田一耕助とは全く異なり(こっちは探偵小説ではなくミステリーだからジャンルも違うんだけど)、「私」は回すどころではなく自分が物語を動かしていく。
めちゃくちゃ肉体的だが精神がまったくない「私」。
あまりに強すぎて「ありえねー」というキャラクター造形はなんとなく見たことあるような気がするが、この物語の主人公は全く別の意味から衝撃的である。
なんとなくキングのホラー小説(例えば「ニードフル・シングス」のような)にでてくる自治体に不幸と不和を撒き散らしていく悪魔にも通じるところがある。ただ悪魔は人間を堕落させることを至上の喜びとしており、その報酬で動くが、「私」の場合は不自然な反骨心めいたもので動いており、やはり不可解である。
不思議だ不思議だと書いてしまったがこの「血の収穫」とても面白くて、普段本を読まない休日も使ってあっという間に読んでしまった。
多分私の他にも魅力にとりつかれたがなぜを抱えた人がたくさんいて、そんな人達が自分なりの解釈として書き始めたものがハードボイルドというジャンルを作ったのでは、と考えるのは少し面白い。
でもそんな事を考えてしまうほどこの小説は完成されている割に、どこかいびつなのだ。
2019年7月15日月曜日
ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]1
アメリカの作家ハーラン・エリスンが編集した伝説的なアンソロジー。
長大ゆえに日本では1983年に3冊に分けて発売されるはずだったが、はじめの1冊だけ出てそのまま中座してしまったいわくつきの本だったが、30年以上経ってようやく完全版としてリリースされる運びになったそう。
「世界の中心で愛を叫んだけもの」をだいぶ前に読んで、昨今短編集「死の鳥」でハーラン・エリスンにハマった私はとりあえず購入。
エリスンは相当エネルギッシュな人らしくいろいろな逸話が残っている。おそらくそれなりに尾ひれもついているのだろうと思うが、とにかく変わった人ではあったのだろう。そんな人が編んだアンソロジーなら面白くないわけがない。この本ではすべての短編にエリスンが温度の高い解説を付けている。
ロボット三原則の生みの親アイザック・アシモフのまえがきから始まるのは良い。とても良い。なるほどね、わかりますってなる。しかし続くラインナップにブライアン・オールディスが入っていることにまずは嬉しくなる。それからロバート・ブロックが入っている。彼は映画化もされた「サイコ」が有名だが、なんといってもラブクラフトの年若い友人であり愛弟子でもある。これはと思うのは私だけではないと思う。
この本ははじめの三分の一であるが、まず言えるのは一風変わった審美眼で収録作品が選ばれているということだ。フィリップ・ホセ・ファーマーの作品を読めばその序盤のどぎつさに呆れてしまうだろう。かなりどぎつい。
まえがきに続くエリスンが気炎を履きまくる序文を読めば彼がこの本に、もっと視線を広げてSFに対してどんな気持ちを抱いているかわかるだろう。彼はSF作家であると同時に極めて熱心なSFファン、フリークなのだ。それも相当ラディカルな。彼なりのSFがあり、それを追求し、集め、そして時にはなだめすかしたり、脅しをかけたりしてそんな作品を書かせたりする。それがエリスンなのだ。タイトルに「危険な」という文字が含まれるのは非常に納得感がある。当たり障りのない名作を集めたアンソロジーとは明確に違うのである。
科学による神殺しと人間の傲慢さを描いたレスター・デル・レイの「夕べの祈り」から始まり、どれもひねくれた作品が並んでいる。
フレデリック・ポールの「火星人が来た日の翌日」も異星人とのファーストコンタクトという劇的な出来事の背後にある、通常描かれることのない人の営みを描いているという点で興味深い。
いわばSFにてしても王道に対するカウンターとしての側面がある作品が集められているように感じる。それはオーソリティに対する純粋で冷静な疑問であり、反体制的という点で「危険」なのである。
2019年6月23日日曜日
トルーマン・カポーティ/遠い声 遠い部屋
「冷血」が面白かったので2冊めに手にとったのはこの本。
あちらはノンフィクション、こちらはフィクションだから趣が異なるのは当たり前だが、最近もっぱら読んでいるアメリカ文学という文脈でもなかなか奇異な本だった。
ヘミングウェイの「老人と海」のあとがきでアメリカは歴史がないのでその文学というのはヨーロッパのそれとは大きな隔たりがあると書いてあった。具体的には歴史がない、奥行きが無いためその文体は必然的に肉体的に、(その人が言うには)浅薄になるそうだ。
確かにアメリカ文学では肉体的な動作が強調される。自分はそこを短所とは思わず、むしろ長所だと思っている。
ところがこの本は肉体的な動きは最低限に抑えられ、舞台装置も含めてイギリスのゴシックめいた雰囲気がある。動きがない割に重々しく、そして多分に観念的である。
ニューオーリンズに近いアメリカ南部という、まさにアメリカ文学会のど真ん中を舞台にしているのだが。
親類をたらい回しにされているがゆえに精神的に早熟、しかし都会ぐらいゆえに肉体的には脆い線の細い、頭でっかちな男の子が主人公。
彼が一度もあったことのない父親に招かれたのはアメリカ南部の田舎町の、更に郊外にある崩壊しつつある奇妙な屋敷である。
ここは異界で、そしてタイムマシンでもある。
ここでは時空が捻じ曲がっていて主人公は未来の自分に合う。
完全に私の解釈だが、暇を持てあまし、人生に倦んでおり、頭の良さがむしろ健康的な生活の足かせになっている、弁が立つが人嫌い、手先が器用で芸術に対する造詣が深い、才能はあるがやる気や野心とは無縁な、豊富な知識と独特の諧謔をもちあわせたランドルフ。この妙に丸っこいフォルムのこの男、その見た目もあって私にはカポーティ自身に思えてしまうのである。(ちなみにカポーティ自身がランドルフには彼自身ではない二人のモデルがいると公言している。)
早熟だがもやしっ子の主人公ジョエルは、もちろん複雑な環境で育ったカポーティである。
これから人生が広がっていく少年と、彼の悲しい末路である中年が異界で出会う。
これは輝かしい未来の否定であり、少年からすれば失敗の運命の暗示である。
異様な舞台を盛り上げるように出てくる登場人物たちは変人ばかり。個性は強いが全員共通してそれぞれの悲哀がある。人生の蹉跌があり、一筋縄ではいかない複雑な性格をしている。
アメリカ文学で重要な、労働、勤勉、悪とそれに対する正義、義憤などといったものは殆ど出てこないが、アメリカ南部ということもあって生命力は異常にある。
ゴシックの雰囲気ただようが、妙な粗雑さもあって、それが野蛮な魔術めいた圧力で、例えば劇中で言及される強すぎる太陽のように複雑な心情の層をぐいぐい押し付けている。
妙なものがたくさん配置されている。そして後半は幽霊屋敷に慣れた主人公の思いが縦横に広がっていく。(押されていた分浮き上がっていく。)
しかし騙されていはいけない。この本には不思議な事は書いていない。どこまでも現実の悲哀を書いているのである。原因があり、そして結果があるこの世界はときに空想より残酷である。
そういった意味ではやはりどこまで行ってもアメリカ文学か。
後半、自分=父親なのかとも思ったが、やはりそんな陳腐な展開はなかった。
すべての試みが失敗しており、そういった意味では陰鬱な物語だが、ラストのジョエルの決心が切なくも心強い。それは過酷な人生に対峙する決心。
アメリカ南部の、廃墟のような屋敷、荒れ放題の庭に佇む少年は異常に色の濃い光の中で影法師のようになっている。
それは人を感動させる。
ラベル:
アメリカ,
トルーマン・カポーティ,
純文学,
本
2019年6月15日土曜日
スタインベック/ハツカネズミと人間
荒野で凸凹コンビが出会ったらどうなるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。
誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。
私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。
この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。
天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。
スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。
私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。
この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。
ラベル:
アメリカ,
ジョン・スタインベック,
純文学,
本
マーク・トウェイン/ハックルベリイ・フィンの冒険
アメリカ文学界にそびえ立つ記念碑的な作品。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。
前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。
一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。
保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。
マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。
ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。
ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。
黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。
徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。
前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。
一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。
保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。
マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。
ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。
ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。
黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。
徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。
登録:
投稿 (Atom)























