2019年6月15日土曜日

マーク・トウェイン/ハックルベリイ・フィンの冒険

アメリカ文学界にそびえ立つ記念碑的な作品。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。

前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。

一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。

保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。

マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。

ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。

ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。

黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。

徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。

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