2020年9月22日火曜日

ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト/ボーダー 二つの世界


収録作は下記の通り。

  1. ボーダー 二つの世界
  2. 坂の上のアパートメント
  3. Equinox
  4. 見えない!存在しない!
  5. 臨時教員
  6. エターナル/ラブ
  7. 古い夢は葬って
  8. 音楽が止むまであなたを抱いて
  9. マイケン
  10. 紙の壁
  11. 最終処理

①は映画の原作。⑦は映画化した作品(「ぼくのエリ 200歳の少女」その後「モールス」として再映画化)の関連作。

私は両方見ていない。


③④⑤はホラー。ただしいずれも登場人物の認知を通して描かれているので、一体異常な事態が進行しているのか、それとも主人公が狂っているのか、読者は判別できない。

柳を幽霊と間違えているのか、それとも世界の真理に気が付き日常がベリベリ音を立ててめくれていくのか。

いわば日常と非日常はつながっていて、そのボーダーは非常に曖昧である。


②⑪は純粋にホラーエンタメとして楽しむことができる。

ここでは日常と非日常が(怪物・ゾンビ)明確に分かれていて、主人公たちはその一線を否応なく飛び越えることになる。

明確なボーダーが提示されている。


面白いのが⑥と⑨。

⑨は社会性がある設定で困窮する世界から異常の世界の存在を知り、自分の決断でそちらの世界に足を踏み入れるはなし。娘の死で精神に異常をきたした夫を貧困の中で介護する彼女は正常な世界の被害者で、異常な世界に加担して自分を足蹴にした世界にささやかな復讐をするという流れ。

⑥は異常な世界を垣間見るのだが、自分の決断でそこに足を踏み入れることを拒否。真理に気が付き力を得た夫とは対象的に普通に生きることを選んだ主人公。

ボーダーを提示され、いずれの側に自分の居場所と定めるか、という問題を提示される。


表題作でもある①は、⑥と⑨の構図をさらに推し進めたもの。

謎をはらむ物語で、進行とともに明確なボーダーが主人公と読者の眼前に浮かび上がってくる。

主人公はこのボーダーを飛び越えるわけだが、そこには自分のルーツを知り、自分の出自の由来を知るという過程があり、ボーダーを飛び越えるというよりは生まれてからずっと異郷の地で生活を捨てて、自分のふるさとに立ち返る話でもある。

つまりこの物語だけ、ボーダーを超える動きが2回ある。


作者の共通した作風なのか、選定がいいのか、作品のバリエーションが豊富な割にはとにかく境界という共通のテーマがあって統一感がある。

全編を通してボーダーのあちらもこちらも楽園ではないと描かれているのがシビアなところか。逃避先としてのあちら側は提示されておらず、むしろ⑦では明確にこちら側での幸福が描かれている。

向こう側は常に魅力的だ。現実に疲れているものたちにとっては特に。正気の逃げ場としての狂気なのか、異形として夜の世界に生きるのか、いずれにしても楽でも楽しそうでもない。このビターさが良い。

2020年9月6日日曜日

フラナリー・オコナー/フラナリー・オコナー全短編

フラナリー・オコナーは1925年にアメリカの南部で生まれた作家で、39歳の若さで自己免疫疾患でなくなった。
短編小説の名手と呼ばれ、優れた短編に贈られるオー・ヘンリー賞を3度受賞した。
彼女の全部の短編をまとめたのがこちらの2冊。

オコナーの短編はだいたいアメリカの南部に住む人々の風俗、生活を描いたもの。
例えば同じ南部でもスタインベックの描くそれとは風景や光景は似ていても、受ける印象は遥かに異なる。
描かれる世代が違うこともあるけど人間の表現に決定的に差異がある。
スタインベックは虐げられても誇りを失わない素朴だけド強靭な人々として南部人を描いたが、オコナーの描く南部人は徹底的に自分本位でときにグロテスクでさえある。

オコナーは敬虔なクリスチャンであったそうで私には読んでいる間それがずっと不思議だった。
「善人はなかなかいない」という作品があるまさにそのとおりでオコナーの描く南部人は、無知で傲慢で差別意識が非常に強い。
登場人物の殆どがそうである。登場人物に好感をいだくことは非常に難しいだろう。全員嫌なやつだからだ。

■描かれているのは地獄
オコナーは地獄を描いていると思う。
彼女の小説には暴力が出てくる。
度々出てくるわけではないからむしろ効果的である。
私は彼女の小説には死の匂いがするから地獄だというのではない。
フラナリー・オコナーという人は「人がわかり合えない」という状況を書いていて、それが地獄だと思うのだ。
バベルに怒った神が人間に複数の言語を課して互いの意志が通じることを困難足らしめたが、その罰が今でも続いているように思える。
むしろもっと悪いか。人間は同じ言語で話しても互いを理解することができないのだから。

■人間の最も親密な関係のミクロという意味での親子関係
オコナーはよく家族、親子関係を描く。
(出番の少ない父親はおいておいて)出てくる母親というのは確かに根は優しくて子供に対する愛情もあるんだろうが、総じて過保護で子供をいい年になっても子供扱いしている。
一方子供の方でも独立心があっても結局親から離れらずに恩恵を受けている割には非常に傲慢である。
オコナー自身南部に生まれ大学院への進学をきっかけに南部を離れ、作家とのキャリアが始まった以降は実家に戻るつもりはなかったようだ。
しかしその後父親と同じ難病を発症し、故郷に戻り終生母親と暮らした。
この実体験が反映されているのではと思う(がもちろん実際のところはわからない)。

彼女がしばしば親子関係を描くのはそれが最も親密な人間の関わり合いだからだ。
それすらも、わかり合うことが殆どない。
最悪いずれかが死ぬ、さらには一方がもう一方を直接的または間接的に殺めてしまう。

■不和の要因
わかり合えない、というのは何が原因なのか。
これらの物語に出てくる人たちというのは基本的に変わることがない。
人の言うことを聞かない。
この世界では「(論理的な意味での)明晰な思考(≠正しさ)」ということがほとんど意味をなさない。
なぜなら論理的な正しさを受け入れる人がほとんどいないからだ。
『床屋』では明確に知性が数に敗北するシーンが書かれている。
いわば衆愚であって、これの前には進歩が立ち行かないのである。
『強制追放者』ではナチの迫害から逃れてきた人々に対する無知と差別が描かれている。
また『障害者優先』では人間の優れた性質である親切さ思いやりを実践するのがいかに困難か描かれている。この物語は2方向に対する優しさとその失敗、人間の思い上がりを描いていて面白い。

■まとめと宗教の意味
フラナリー・オコナーの各世界では人はお互いに好きなことを言い、他人の言うことは聞かない。
みんなが自分が一番世の中で苦労し一番不幸だと思い、他者を口だけ達者でよく喋るだけの怠け者だと見下している。
彼らがその境遇に甘んじているのは彼らの努力が足りないからだと思い、自分の今の暮らしがただの幸運の上に成立していることを理解しない。
大人だけでない、子供もそうである。
他者への優しさは自分の傲慢と、そして他人を信じられない心から必ず失敗する。
このわかりあえなさと、理解への失敗がオコナーの短編をして地獄だなと思わせるのだ。

私は仏教徒でもキリスト教徒でもないが、キリスト教はたとえば念仏を唱えれば悪人でも浄土に行ける、ってわけでもないらしい。少なくともオコナーはそう思っていた。
いわば様々な欠点をもったマイナスの人間が、プラスになるには何が必要なのか。
極端な話、オコナーは人の力では無理だと思っていたフシがある。
そのマイナスからゼロを経てプラスになる過程、飛躍が神の恩寵ではないか。
『善人はなかなかいない』のラスト、または『長引く悪寒』、または『障害者優先』『家庭の安らぎ』のそれぞれのラストでも良い。
苦い結末にかすかに登場人物たちの心の変化が見て取れるはず。
この転化が神の恩寵とオコナーは捉えているのではないか。
オコナーは暴力が神であると考えているのではなくて、その暴力が気づきのきっかけになる場合があるということだ。
敬虔さというが、かなりストイックに見える。

■是非読んでどうぞ
この本を読んでアメリカの南部はやっぱり差別意識が強いと感じるなら浅すぎる。
いわばオコナーは人間の欠点を強烈に南部の風俗に投影したのだ。
登場人物に共感は全くできなくても、彼らの一部一部に自分の姿を見るだろう。
オコナーの短編はそういった意味では非常に普遍的な物語であり、いつの時代でも決して色褪せることがないだろう。
うんざりするようなぬるい地獄の中に、汚い都会の空に瞬く星のような救いがかすかに見えるかもしれない。
格差と差別で相変わらず揺れる現代、あえてこの本をとっても良いのでは。