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2021年1月24日日曜日

東雅夫編/日本怪奇実話集 亡者会

 


日本の実話怪談を集めたアンソロジー。

明治末期から昭和初期に活躍した作家の作品を集めているんだが、この本はもともと平井呈一が編集した「屍衣の花嫁 世界怪奇実話集」(1959年)に愛着がある東雅夫がこの本を復活させるべく、対抗馬を出して盛り上げようとして企画したのがこの一冊だからである。

いわば60年以上経ってから東西実話怪談対決をさせてみようという粋な計らいから生まれた本でもある。


西洋編と同様実話怪談が収められている。

実話怪談はいわば完成された物語、娯楽としての怪談の原型のようなものできっちり落ちがついていなかったり、因果が説明されていなかったり、整合性が取れなかったりで読み終えてもスッキリするところがない。ただしその分怖いのである。この居心地の悪さはまさしく怪異、つまりよくわからないもの。

因果応報を体現した幽霊、共同体の仏教的な戒めとして機能する側面もある妖怪など、洗練された異形たちと違って、ここで語られる怪異たちにははっきりとした相貌がなく、真意がわからないところがあり、人はよくわからないものを1番恐れるのだからとても怖い。

この訳のわからなさに名前をつけて筋道を立てたのが洗練された創作怪談になるのだろう。

いわば物語の源泉であるこれらの実話怪談というのは野趣あふれて混沌としている。


私が面白いなと思ったのは橘外男「蒲団」小泉八雲「日本海に沿うて」中の蒲団のエピソードだ。

図らずとも蒲団というアイテム、そこに込められた念が怪異を引き起こすという点が共通しているのだが、それだけではなくて、結局この怪異の詳細は説明されないのだが、どうも2つとも共通して虐げられた弱者の復讐の装置として怪異が働いているところである。

いわば非業の死を遂げたもの=弱者、その肉体は消え去ったが無念を汲み取った、という構造があって、これはやはり生きている人=語り部の作為があるからひょっとして実話怪談の本領から少しずれてしまうのかもしれないが、恐ろしい存在である幽霊たちに同情できる、という極めて人間的な魅力があってやはり面白いと思ってしまう。

いわば権力によっていじめ殺された不運な人々を物語の中で復讐を遂げさせて弔ってやる、という怪談の役割があるのかもしれないというように考えた。

そういった意味では怪談は恐ろしくも、優しい物語でもあると考えることは別に捻くれた見方ではないと思う。

怪談というのは民衆のものなのだ、民衆の娯楽と言っても良い。

2020年11月23日月曜日

平井呈一 翻訳/世界怪奇実話集 屍衣の花嫁


怪談が好きでそれこそ学校の怖い話から小泉八雲の怪談、それから死ぬ程洒落にならない怖い話、稲川淳二さんの怪談はもちろんyoutubeの玄人・素人怪談師などなど。

別に蒐集家というわけではないがとにかく怖い話を求めてしまう、人一倍怖がりなのに。


怪談というのは創作怪談と実話怪談がある。

創作怪談は文字通り作者が想像で組み立て作ったもの、一方実話怪談は実際に起ったことの記録である。

ところが怪談を好きな人ならわかるが、怪談というのはたいてい実際に起ったという体で語られることが非常に多い。

話の枕に「これは友人の先輩(兄嫁の友人、義理の兄の親友、職場の先輩のおじさんとか何でも良い)から聞いた話なんだけど~」という枕がつくあれです。

怪談というのはノンフィクションであることが前提なのだ、いくら創作でも実際の伝聞ですよ、とするのはお約束のようなものだ。


前置きが長くなってしまったが、平井呈一がイギリスの実話怪談を集めたアンソロジー。

ここに集められたのは怪談の原型にして本質である。

私いちいち話しにオチを求めてくるやつが一番つまらないと思っているタチであるが、それでも無意識に話に落ち着き、起承転結を求めてしまう傾向があることは否めない。

この本で展開される物語はそういう意味ではきれいに落ちていないものも少なくない。

いかにも因縁の有りそうな幽霊たちの由来は詳らかにされないし、絶対存在するはずの怪しい城塞の隠し部屋はついに発見されない。

また逆に本筋に関係のない情報が多く含まれていたりもする。

要するにあんまり洗練されていないわけで、これは当時に実際に怪異を経験した者たちの伝聞をまとめた記録だからである。

この物語としては大きく欠損のあるエピソードが、しかしそれ故に抜群に怖くて面白い。

要するに、どうにもスッキリしないがゆえにこれは本当にあったんだ、と読み手が思えちゃうのだ。怪談好きとしてはこの体験は何にも代えがたい。

これらの原材料である素材の粗さを自分の想像力で補い、整合性の取れた完成度の高い怪談が後々生まれていくのである。

そこでは幽霊にまつわる悲劇があるだろうし、怪しい館には猟奇的な過去のある秘密の小部屋があるのである。

特に生々しい「ハリファックス卿怪談集」からの抜粋も含むI、それからⅢのベル・ウィッチ事件の詳細な研究は面白かった。

Ⅰは階段の原型、Ⅲは原型を(悪意はないんだろうけど)研究して超自然を解明しようとして結果因果の枠に当てはめようとする、つまり怪談の誕生の場面として面白い。


ネットが行き渡った現代は素人が誰でも発信できるのだから、今は(実話)怪談の時代と言える。

怪談を好む人ならこの本を手にとってもらって間違いない。

後書きによるとこの本が復刊されるのは60年ぶりということだ。

東雅夫さんに感謝。少なくともひとりここにこの本の再発を喜んでいるおばけ好きがいます。

2020年10月25日日曜日

ハーバート・ヴァン・サール編 金井美子訳/終わらない悪夢


イギリスのホラー・アンソロジー。

収録作品は下記の通り。

  1. 終わらない悪夢 ロマン・ガリ 著
  2. 皮コレクター M.S.ウォデル 著
  3. レンズの中の迷宮 ベイジル・コパー 著
  4. 誕生パーティー ジョン・バーク 著
  5. 許されざる者 セプチマス・デール 著
  6. 人形使い アドービ・ジェイムズ 著
  7. 蠅のいない日 ジョン・レノン 著
  8. 心臓移植 ロン・ホームズ 著
  9. 美しい色 ウイリアム・サンソム 著
  10. 緑の想い ジョン・コリア 著
  11. 冷たい手を重ねて ジョン・D.キーフォーバー 著
  12. 私の小さなぼうや エイブラハム・リドリー 著
  13. うなる鞭 H.A.マンフッド 著
  14. 入院患者 リチャード・デイヴィス 著
  15. 悪魔の舌への帰還 ウォルター・ウィンウォード 著
  16. パッツの死 セプチマス・デール 著
  17. 暗闇に続く道 アドービ・ジェイムズ 著
  18. 死の人形 ヴィヴィアン・メイク 著
  19. 私を愛して M.S.ウォデル 著
  20. 基地 リチャード・スタップリイ 著

ホラー大国のイギリスのアンソロジーは別段珍しくはないのだろうが、そんな中この本は面白い特色を打ち出している。

それは無名の作家の作品を多く収録していること。

名前と作品リストくらいしかわからない、あとの経歴は不明、という作家の作品がかなり収録されている。

だいたいいくつかアンソロジーを読んでみると、その中のいくつかはかぶってくるものである。「くじ」とか「猿の手」とか。それらを改めてじっくり読む、というのももちろん面白いが、まだ見たことのない作品を読みたいのが人の心。

この本はそんな気持ちに答えてくれる一冊。

つまりこれからホラーを読みたいという初心者にはおすすめできないかもしれないが、有名所は結構読んだという怪談蒐集家には非常におすすめ。

マイナー作品だからメジャーな作品のようなダイナミックさはないが、「無名だからつまらない」という理論はこんなブログを読んでいる方なら全く成立しない、ということはご存知だと思う。

あと面白いところでいうとあのジョン・レノンの作品も収録されているからビートルズ好きな人は買わないか。。。


アンソロジーのいいところは編者の個性やそのジャンルに対する好みが表れてくるところだと思う。

この本の収録作はゴースト、スラッシャー、幻想と比較的ページ数が少ないことと前述の無名な作家でも収録することを抑えつつジャンル的には多岐にわたっている。

ただ明確に多いのがいわゆるいまでいう人怖というジャンルで超自然の要素の有無や、その過多はあれど、人間が狂気に陥って結果的になにか事件が起きる、という形式の作品が多い。

じゃあ何が人を狂わせるか、ということなんだがこの編者のヴァン・サールはこれはもうはっきりと「執着」というビジョンをはっきり持っていたようだ。

金に対する執着、女性に対する執着、愛情に対する執着とその欠如に対しての一方的な復讐、息子娘に対する執着、いろいろな欲望がコレクションされていてさながら奇妙な博物館の様相を呈している。

暴力や黒魔術はあくまでも手段に過ぎない。本当に怖いのは人間だという説教よりは、怪異は外から来るのではなく内側から発生する、という視点が強調されている。

救いのない世界、神も仏もないこの世界で人間が獣性むき出しで殺し合う、そんな薄皮一枚の虚構を取り去ったあとの世界の本質、それがフィクションでもなかなか鬼気迫る編者の気迫が感じられないだろうか。

聖職者が卑劣な悪に見を染める⑤なんかはとくにその神聖への過激な問いかけにも見える。

ただもはや寓話的になっている⑰はどうだろうな、結局天国化地獄に決めるのは人間次第、ということだろうか。これは典型的とも言える物語だが私は結構好きだ。


2020年9月22日火曜日

ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト/ボーダー 二つの世界


収録作は下記の通り。

  1. ボーダー 二つの世界
  2. 坂の上のアパートメント
  3. Equinox
  4. 見えない!存在しない!
  5. 臨時教員
  6. エターナル/ラブ
  7. 古い夢は葬って
  8. 音楽が止むまであなたを抱いて
  9. マイケン
  10. 紙の壁
  11. 最終処理

①は映画の原作。⑦は映画化した作品(「ぼくのエリ 200歳の少女」その後「モールス」として再映画化)の関連作。

私は両方見ていない。


③④⑤はホラー。ただしいずれも登場人物の認知を通して描かれているので、一体異常な事態が進行しているのか、それとも主人公が狂っているのか、読者は判別できない。

柳を幽霊と間違えているのか、それとも世界の真理に気が付き日常がベリベリ音を立ててめくれていくのか。

いわば日常と非日常はつながっていて、そのボーダーは非常に曖昧である。


②⑪は純粋にホラーエンタメとして楽しむことができる。

ここでは日常と非日常が(怪物・ゾンビ)明確に分かれていて、主人公たちはその一線を否応なく飛び越えることになる。

明確なボーダーが提示されている。


面白いのが⑥と⑨。

⑨は社会性がある設定で困窮する世界から異常の世界の存在を知り、自分の決断でそちらの世界に足を踏み入れるはなし。娘の死で精神に異常をきたした夫を貧困の中で介護する彼女は正常な世界の被害者で、異常な世界に加担して自分を足蹴にした世界にささやかな復讐をするという流れ。

⑥は異常な世界を垣間見るのだが、自分の決断でそこに足を踏み入れることを拒否。真理に気が付き力を得た夫とは対象的に普通に生きることを選んだ主人公。

ボーダーを提示され、いずれの側に自分の居場所と定めるか、という問題を提示される。


表題作でもある①は、⑥と⑨の構図をさらに推し進めたもの。

謎をはらむ物語で、進行とともに明確なボーダーが主人公と読者の眼前に浮かび上がってくる。

主人公はこのボーダーを飛び越えるわけだが、そこには自分のルーツを知り、自分の出自の由来を知るという過程があり、ボーダーを飛び越えるというよりは生まれてからずっと異郷の地で生活を捨てて、自分のふるさとに立ち返る話でもある。

つまりこの物語だけ、ボーダーを超える動きが2回ある。


作者の共通した作風なのか、選定がいいのか、作品のバリエーションが豊富な割にはとにかく境界という共通のテーマがあって統一感がある。

全編を通してボーダーのあちらもこちらも楽園ではないと描かれているのがシビアなところか。逃避先としてのあちら側は提示されておらず、むしろ⑦では明確にこちら側での幸福が描かれている。

向こう側は常に魅力的だ。現実に疲れているものたちにとっては特に。正気の逃げ場としての狂気なのか、異形として夜の世界に生きるのか、いずれにしても楽でも楽しそうでもない。このビターさが良い。

2020年9月6日日曜日

フラナリー・オコナー/フラナリー・オコナー全短編

フラナリー・オコナーは1925年にアメリカの南部で生まれた作家で、39歳の若さで自己免疫疾患でなくなった。
短編小説の名手と呼ばれ、優れた短編に贈られるオー・ヘンリー賞を3度受賞した。
彼女の全部の短編をまとめたのがこちらの2冊。

オコナーの短編はだいたいアメリカの南部に住む人々の風俗、生活を描いたもの。
例えば同じ南部でもスタインベックの描くそれとは風景や光景は似ていても、受ける印象は遥かに異なる。
描かれる世代が違うこともあるけど人間の表現に決定的に差異がある。
スタインベックは虐げられても誇りを失わない素朴だけド強靭な人々として南部人を描いたが、オコナーの描く南部人は徹底的に自分本位でときにグロテスクでさえある。

オコナーは敬虔なクリスチャンであったそうで私には読んでいる間それがずっと不思議だった。
「善人はなかなかいない」という作品があるまさにそのとおりでオコナーの描く南部人は、無知で傲慢で差別意識が非常に強い。
登場人物の殆どがそうである。登場人物に好感をいだくことは非常に難しいだろう。全員嫌なやつだからだ。

■描かれているのは地獄
オコナーは地獄を描いていると思う。
彼女の小説には暴力が出てくる。
度々出てくるわけではないからむしろ効果的である。
私は彼女の小説には死の匂いがするから地獄だというのではない。
フラナリー・オコナーという人は「人がわかり合えない」という状況を書いていて、それが地獄だと思うのだ。
バベルに怒った神が人間に複数の言語を課して互いの意志が通じることを困難足らしめたが、その罰が今でも続いているように思える。
むしろもっと悪いか。人間は同じ言語で話しても互いを理解することができないのだから。

■人間の最も親密な関係のミクロという意味での親子関係
オコナーはよく家族、親子関係を描く。
(出番の少ない父親はおいておいて)出てくる母親というのは確かに根は優しくて子供に対する愛情もあるんだろうが、総じて過保護で子供をいい年になっても子供扱いしている。
一方子供の方でも独立心があっても結局親から離れらずに恩恵を受けている割には非常に傲慢である。
オコナー自身南部に生まれ大学院への進学をきっかけに南部を離れ、作家とのキャリアが始まった以降は実家に戻るつもりはなかったようだ。
しかしその後父親と同じ難病を発症し、故郷に戻り終生母親と暮らした。
この実体験が反映されているのではと思う(がもちろん実際のところはわからない)。

彼女がしばしば親子関係を描くのはそれが最も親密な人間の関わり合いだからだ。
それすらも、わかり合うことが殆どない。
最悪いずれかが死ぬ、さらには一方がもう一方を直接的または間接的に殺めてしまう。

■不和の要因
わかり合えない、というのは何が原因なのか。
これらの物語に出てくる人たちというのは基本的に変わることがない。
人の言うことを聞かない。
この世界では「(論理的な意味での)明晰な思考(≠正しさ)」ということがほとんど意味をなさない。
なぜなら論理的な正しさを受け入れる人がほとんどいないからだ。
『床屋』では明確に知性が数に敗北するシーンが書かれている。
いわば衆愚であって、これの前には進歩が立ち行かないのである。
『強制追放者』ではナチの迫害から逃れてきた人々に対する無知と差別が描かれている。
また『障害者優先』では人間の優れた性質である親切さ思いやりを実践するのがいかに困難か描かれている。この物語は2方向に対する優しさとその失敗、人間の思い上がりを描いていて面白い。

■まとめと宗教の意味
フラナリー・オコナーの各世界では人はお互いに好きなことを言い、他人の言うことは聞かない。
みんなが自分が一番世の中で苦労し一番不幸だと思い、他者を口だけ達者でよく喋るだけの怠け者だと見下している。
彼らがその境遇に甘んじているのは彼らの努力が足りないからだと思い、自分の今の暮らしがただの幸運の上に成立していることを理解しない。
大人だけでない、子供もそうである。
他者への優しさは自分の傲慢と、そして他人を信じられない心から必ず失敗する。
このわかりあえなさと、理解への失敗がオコナーの短編をして地獄だなと思わせるのだ。

私は仏教徒でもキリスト教徒でもないが、キリスト教はたとえば念仏を唱えれば悪人でも浄土に行ける、ってわけでもないらしい。少なくともオコナーはそう思っていた。
いわば様々な欠点をもったマイナスの人間が、プラスになるには何が必要なのか。
極端な話、オコナーは人の力では無理だと思っていたフシがある。
そのマイナスからゼロを経てプラスになる過程、飛躍が神の恩寵ではないか。
『善人はなかなかいない』のラスト、または『長引く悪寒』、または『障害者優先』『家庭の安らぎ』のそれぞれのラストでも良い。
苦い結末にかすかに登場人物たちの心の変化が見て取れるはず。
この転化が神の恩寵とオコナーは捉えているのではないか。
オコナーは暴力が神であると考えているのではなくて、その暴力が気づきのきっかけになる場合があるということだ。
敬虔さというが、かなりストイックに見える。

■是非読んでどうぞ
この本を読んでアメリカの南部はやっぱり差別意識が強いと感じるなら浅すぎる。
いわばオコナーは人間の欠点を強烈に南部の風俗に投影したのだ。
登場人物に共感は全くできなくても、彼らの一部一部に自分の姿を見るだろう。
オコナーの短編はそういった意味では非常に普遍的な物語であり、いつの時代でも決して色褪せることがないだろう。
うんざりするようなぬるい地獄の中に、汚い都会の空に瞬く星のような救いがかすかに見えるかもしれない。
格差と差別で相変わらず揺れる現代、あえてこの本をとっても良いのでは。

2020年7月12日日曜日

日影丈吉 編/フランス怪談集

河出文庫の正解の怪談集(の復刊)シリーズ、フランス編。
収録先は下記の通り。
編集と収録先の翻訳の一部も務める日影丈吉は自身も作家で怪談も書いている。(短編集の感想はここから。)

  1. 魔法の手 ネルヴァル著 入沢康夫訳.
  2. 死霊の恋 ゴーチエ著 田辺貞之助訳.
  3. イールのヴィーナス メリメ著 杉捷夫訳.
  4. 深紅のカーテン ドールヴィイ著 秋山和夫訳.
  5. 木乃伊つくる女 シュオップ著 日影丈吉訳.
  6. 水いろの目 グウルモン著 堀口大学訳.
  7. 聖母の保証 フランス著 日影丈吉訳.
  8. 或る精神異常者 ルヴェル著 田中早苗訳.
  9. 死の鍵 グリーン著 日影丈吉訳.
  10. 壁をぬける男 エーメ著 山崎庸一郎訳.
  11. 死の劇場 マンディアルグ著 渋沢竜彦訳.
  12. 代書人 ゲルドロード著 酒井三喜訳.
※(上記収録先、ここから拝借)

不在がちな超自然要素
フランスのステレオタイプ、おしゃれで恋愛好きと言うのが真実であればさぞかし幻想的な怪談が生まれそうだと思って読んだんだけど、良い意味で期待を半分裏切られた。

典型的な幽霊譚、怪異譚に属するものは、②③だけ!
少ない。しっとりとした情緒は和風ホラーに通じるところがあるのでは、って気がしていたが。
他のどの話ももちろん怪異を扱っているのだが、非常に現実的なのだ。
現実に起こった(という体の)不思議な話、恐ろしい話が殆どを占める。(ただしこれは編集者の日陰の趣味も大いに関係しているとは思うからフランスの怪談全体の傾向をこれと決めつけるのは尚早か。)
例えば④なんかは華やかな社交界(女性)と勇壮な戦場(男性)で人を引きつける紳士が若い頃に遭遇した、男女間の艶っぽい出来事を扱った中編で大変怖いが超自然的な怪異の要素はゼロだ。

フランス人の恐れたもの、それは恋愛
多様な収録先の共通点として、現実的である(超自然の不在、つまり自然である)ということが根底にある。となると次にその中でどんな傾向があるかというと、これはズバリ恋愛である。
恋愛が作中で大きなファクターになっているのは①②④⑥⑨、やや弱いがロマンスという意味では③⑤⑦⑩を入れてもいいはず。
恋愛というのは強い執着を生むわけだから、これは怖い話になりやすい。(本邦だと四谷怪談か、ぱっと思い浮かぶのは。)
資料に取り憑かれる②は、日本にも通じる強烈な想いが幽霊となって結実するパターンだが、他の短編はそっちに舵を取らずに現実を変容させて悲劇に落ち込ませている。
嫉妬が不幸を招く①⑨(⑨は中編で④と合わせてこの本の中でも主役級の2編だと思う。)、恋心が破滅を招く、もしくは予兆させる⑤⑥⑩などは、そんなフランスのお国柄を意識させる短編と言える。
怪談というのは人を怖がらせないといけないから、その土地その次代の風俗や慣習を色濃く反映している。怪談を読めばそれを読む人たちが何を恐れていたかが読み取れる。
フランスの人たちにとって恋愛は大きな関心ごとで、大きな喜びを生み出す一方でときに大きな不幸や不和の種になることを知っていたのだ。

改めて超自然要素
恋愛の怖い話をそのまま書いてしまえば、まあメンヘラ化彼女がストーカーしたとか、メンヘラ化した彼女が刺しに来たとか、そういった物語としては下世話でつまらないものになってしまう。
そこで再登場するのが超自然要素なのだ。これは怪談集なのだ。
その不在がちな超自然要素がどのように働いているか、改めて考えていきたい。
①ならジプシーの魔術が現実を捻じ曲げて不幸に導く。
⑨は来たるべき破滅を超自然が横にずらす(このずらしはぜひ読んでほしい)。いわば不幸の転移であり、それが物語にもたらすのは悲しみだ。あえて怖くしなかったことで情緒が出た。この短編は常に閉鎖された状況でストレスが増大していく構成で非常に面白い。
徹頭徹尾現実的では面白さに制限がかかってしまう。それを超自然が未知の境地に押し上げてている、もしくは転移させている。
これで物語に転換がおこる。ゾンビものとは違う、現実が続いて最後に突き落とすのだ。
いわば恋愛における悲劇的な結末を一段深化させる、そんな感じか。
日常ではいけない場所に突き落とすためのスパイスのような。危ない薬と言ってもいい。


2020年6月13日土曜日

種村季弘 編/ドイツ怪談集

河出文庫の世界怪談アンソロジーシリーズ、ドイツ編。
収録先は下記の通り。

  1. ロカルノの女乞食 ハインリヒ・フォン・クライスト著
  2. 廃屋 E.T.A.ホフマン著
  3. 金髪のエックベルト ル-トヴィッヒ・ティ-ク著
  4. オルラッハの娘 エスティ-ヌス・ケルナ-著
  5. 幽霊船の話 ヴィルヘルム・ハウフ著
  6. 奇妙な幽霊物語 ヨ-ハン・ペ-タ-・ヘ-ベル著
  7. 騎士バッソンピエ-ルの奇妙な冒険 フ-ゴ-・フォン・ホ-フマンスタ-ル著
  8. こおろぎ遊び グスタフ・マイリンク著
  9. カディスのカ-ニヴァル ハンス・ハインツ・エ-ヴェルス著
  10. 死の舞踏 カ-ル・ハンス・シュトロ-ブル著
  11. ハ-シェルと幽霊 アルブレヒト・シェッファ-著
  12. 庭男 ハンス・ヘニ-・ヤ-ン著
  13. 三位一体亭 オスカル・パニッツァ著
  14. 怪談 マリ-・ルイ-ゼ・カシュニッツ著
  15. ものいう髑髏 ヘルベルト・マイヤ-著

日本の階段との共通点
共通認識としての宗教、勧善懲悪と因果応報、つまり民衆のための怪談。
上記のうち、
1,4,5,6,10,11、14
は幽霊譚に属する。
幽霊譚の構造というのは(物語の逆順をたどると)過去思いを残したまま死んだ人が現世に幽霊として現れて、そのわだかまりとともに成仏(や昇天)するというもの。
いわば人生のロスタイムであり、おまけ。
本来死んで終わりの人生に対する想像上の救済措置といえる。

これに加えてあるのが因果応報の要素。
1,2,3,4,5,7
幽霊譚とかぶりつつも上記の作品がこれに該当する。
こちらは言うまでもなく過去の悪行は未来で必ず相応の罰で返されるというもの。
悪いことをすれば必ず報いを受ける、ということは善行の奨励でもある。

幽霊譚と因果応報の要素が一番わかりやすく出ているのが4の「オルラッハの娘」。これは善悪の幽霊両方にとりつかれた娘が主人公の極めて宗教的な物語。

宗教はいろいろな側面があるけど、大衆を押さえつけておくための手段として為政者に機能していた面もあるはずだ。
  • (年、または権力の)上にあるものを尊敬し、いうことを聞くこと。
  • 悪行をすると必ず報いがあること。
  • 善行と勤勉が奨励され、その報いは死後に待っていること。
(余談だが私は宗教を現代において、例えばテロリズムの言い訳や隠れ蓑にされることを上げて無益どころか有害、という言に関しては強く反対だけど、じゃあ宗教が全部良かったかというとそうではない。宗教の各キャラクターが象徴するがごとく、宗教を良し悪しで判断するのは無理だ。)

この宗教観が敷衍した世界で成立する怪談というのが、構造的に日本に似ている。
日本の怪談は仏教、儒教的な規範に基づいているところが多いから、死後報われるというよりは徳のランクがあがってまた人間に生まれる、とかなのか?ここは少し違うね。

為政者が幽霊を使って愚かな民衆に説教をかましている、とは流石に穿ちすぎでもっと純粋に楽しめば良いと思うけど、背景を考えると清濁合わせて民衆のための物語である、という認識。

逸脱した怪談たち=Black Metal
友達のお兄ちゃんの同級生が体験した話なんだけど~
上司の親戚に起こった話なんだけど~
怪談の枕に語られるこの手の導入には、この怪談は実話ですよ、というエクスキューズが含まれる。
幽霊なんていないし、といったら怪談はだいなしなのである。
難しいもので人の体験の伝聞というのは整合が取れすぎていると逆に嘘くさくなる。
実話というのは少し不整合や、矛盾が残っているものである。

上記の「典型」の範疇に入らない怪談たち。
それも抜群に面白い。
8,9,12,13,15
がそれらか。
9「カディスのカ-ニヴァル」の意味不明さ、それ故に残る不気味さはまさに口述される怪談の醍醐味だ。
またこれらの逸脱はキリスト教外というのがキーワードにもなりそう。
pagan、つまり異教(キリスト教こそ異教で土着の信仰なんだけど…って思うけど)の物語は、常識として大衆に定着した宗教観の埒外にある。
それは非常識でそしてオルタナティブだ。
12「庭男」は恐ろしくも自由だ。自然の大きさ、わけの分からなさ、人間を魅了するが人間の味方ではないその闊達さを表していてめちゃくちゃ面白い。

これらの怪談の野蛮な力は、権力としてのキリスト教に反旗を翻し、顔に死化粧を施し、土着の神々の名をなのって気炎を吐いたブラックメタルを彷彿とさせる。
キリスト教の生に対するアンチテーゼだから当然死がモチーフになるんだけど、実は相当エネルギッシュだ。
(面白いのは文字通り死のデスメタルはスラッシュメタルなどの激化だから、対立的なブラックメタルとはちょっと構造が違う。)

2020年3月14日土曜日

スティーヴン・キング&ベヴ・ヴィンセント編/死んだら飛べる

キングとキングの小説の解説本を描いている作家ベヴ・ヴィンセントが編集したホラー小説のアンソロジー。
原題は「FLIGHT OR FRIGHT」Frightは怖がらせるの意味。
飛行機に関するホラー小説を集めた短編集である。

収録作品は下記の通り。
「序文」スティーヴン・キング/白石朗訳
「貨物」E・マイクル・ルイス/中村融訳 ★初訳
「大空の恐怖」アーサー・コナン・ドイル/西崎憲訳
「高度二万フィートの恐怖」リチャード・マシスン/矢野浩三郎訳
「飛行機械」アンブローズ・ビアス/中村融訳 ★新訳
「ルシファー!」E・C・タブ/中村融訳 ★初訳
「第五のカテゴリー」トム・ビッセル/中村融訳 ★初訳
「二分四十五秒」ダン・シモンズ/中村融訳 ★初訳
「仮面の悪魔」コーディ・グッドフェロー/安野玲訳 ★初訳
「誘拐作戦」ジョン・ヴァーリイ/伊藤典夫訳
「解放」ジョー・ヒル/白石朗訳 ★初訳
「戦争鳥(ウォーバード)」デイヴィッド・J・スカウ/白石朗訳 ★初訳
「空飛ぶ機械」レイ・ブラッドベリ/中村融訳 ★新訳
「機上のゾンビ」ベヴ・ヴィンセント/中村融訳 ★初訳
「彼らは歳を取るまい」ロアルド・ダール/田口俊樹訳
「プライベートな殺人」ピーター・トレメイン/安野玲訳 ★新訳
「乱気流エキスパート」スティーヴン・キング/白石朗訳 ★初訳
「落ちてゆく」ジェイムズ・ディッキー/安野玲訳 ★初訳
(版元ドットコムより)

飛行機が怖い人はたくさんいる。
墜落を連想させるからだろう。
でも実際には飛行機事故が発生する可能性はめちゃくちゃ低いと聞く。
自動車事故のほうがよほど頻繁に起こるそうだ。
一節によると0.0009%とか。

キングは序文にてこれに加えて、狭いところに押し込められる恐怖、それから自由意志の剥奪による恐怖を上げている。
例えば自動車を自分で運転しているなら高速道路飲めの前で重大な玉突き事故が発生しても自分の運転技術で回避できる、と人は思うのである。
当然自動機の運転手の技術より飛行機のパイロットのほうが技術は高いと思うけど。
自分の運命が自分の手にある、と思えない(これは当然思い込みであるので)と人間は不安になる。
飛行機にいる間はなにかが起こっても自分でできることはほぼできない。
墜落している長いとも短い間に家族あてに震えた字で遺書を書くことくらいだろうか。

実際アンソロジーに収録されている作品のうち、民間用の旅客機が墜落する作品は4個。
予想より少ない。
純粋に高所からの個人的な墜落を描いているのは詩の形をとっている「落ちてゆく」だけ。
落ちるのは結末であって、普通はそこだけ描いてもホラーにはならない。
(だから「ルシファー!」の墜落の書き方は相当すごい。)
読みては落ちるぞ落ちるぞと思って読んでいるから、むしろ落ちたら安心してしまう。
要するに落ちるぞ落ちるぞと思わせるのがホラーだから、ホラーの本質はオチにはない。
むしろその工程にこそホラーの醍醐味がある。

さすが作家は、飛行機というシチュエーションを生かして墜落やそうでない恐怖をそれぞれ編み出している。
つまり飛行機が舞台で、その上に独自の恐怖を乗っけるというやり方。

ビアスとブラッドベリは単に空を飛ぶという以上の、社会的機能を持つ飛行機の側面を描き、ドイルは技術の革新が新しい(恐怖の)フロンティアを人間の想像力の新しい空白にマッピングしたことを示している。

個人的に面白いのは戦争に関わる物語が6つ収録されていること。
戦争は死に直結しているし、その暴力的な表現でホラーにうってつけである。
イラク戦争の拷問に関連する権謀術数が暴力で動く「第五のカテゴリー」、それからなんといってもジブリの「紅の豚」の”あのシーン”の元ネタ(というかほぼそのままじゃネーカ)の「彼らは歳を取るまい」が最高。著者のロアルド・ダールは「チャーリーとチョコレート工場」の作者でもある。彼は実際に戦争のエースパイロットで撃墜王だった。

キングの実子ヒルの「開放」も良い。
これは世界の終末を観察する物語で、監視塔としてはそらとぶ飛行機はうってつけの場所に位置している。

こうやって見ると飛行機というのは、神や幽霊に近づく異界であり、着地するまで逃げることができない自分でどうすることもできない牢獄であり、最前線の戦場であり人が死ぬ地獄であり、そしてなによりその濃さが翻弄される人間の運命を端的に表しているのかもしれない。

2020年2月16日日曜日

浅田次郎/あやしうらめしあなかなし

浅田次郎というと「鉄道員」のイメージ。
私が対して興味がない日本映画の原作、みたいな。
だからホラーのアンソロジーに短編が収録されている事自体が驚きだったし、読んだらおの物語の面白いことにびっくりした。

怪談の文章は呪文なのである程度の方式が必要な場合がある。(現代怪談なら不要だが、時代がかったものならそれなりの言葉を使ったほうが絶対怖い。)
浅田の分はここを抑えていて、しかもたただ難しい漢字や言葉を普通の分に当て込んだみたいな、知識というよりはPCの変換機能に頼ったような素人くさいものではなく、幅広く深い見識がかけないような美文だったのでそこが良かった。
で、買ったのがこの短編集。

フリークスが襲いかかってくるようなホラーの場合でも、異形の者達というのは明るい場所にいきなり出てくることはそんなにないものである。(つまり相当の筆の技が要求されるってこと。)
廃墟となった教会でも、苔むした墓場でも、忌まわしい儀式が行われた跡の残る隠匿された湿る地下室でも良い。あるいは提灯の明かりに照らされた柳の下でも。
幽霊や怪異に合うにはどこかに行くか、あるいは幽霊がどこかを通り抜けてくる。井戸とか。

浅田の場合は幽霊というのは過去にいる。
だから物語が進む、ということは誰かの過去に踏み入っていく、という深さの構造がある。
物語が真相に向けて潜っていくわけで、まずこの構造が息を止めることを要求してきて行く苦しい。恐怖としては上質である。

基本的な構造としては何も知らないまま生きている。
過去主人公の知らぬところで進行していた何かしらの出来事を知らされる。
その出来事が主人公の人生の気持ちに作用して人生が転回される。
物語の王道を抑えているわけでここらへんは流石にいわゆる”売れる”作品を書き続ける商業作家の面目躍如。
作者の世代的に先の大戦の話が入るのは全然構わないのだが、物語の構造と相まってやや説教臭くなるのは個人的にはちょっとかな、、、。

個人的にはやはり冒頭と最後に配置された神道系ホラーが一番好きなのでその数をもう少し増やしてほしいというのが正直なところ。
文の美しさもここが一番映えているように思う。

2020年1月18日土曜日

中野美代子 武田雅哉 編/中国怪談集


怪談集ではない。
河出文庫の怪談アンソロジーの復刊はこれで最後。
10年ちょっと前くらいに逃げなく手にとった中国の怪談話集聊斎志異、これがとても面白かった。
なのでこの一連の復刊シリーズ、最後に読むのは中国にしようと思っていた。
ところが怪談じゃなかったのだ、これが。

収録作品は下記の通り。


  1. 人肉を食う 陶宗儀 著
  2. 十【キン】楼 季漁 著
  3. 揚州十日記 王秀楚 著
  4. 台湾の言語について ジョージ・サルマナザール 著
  5. 砂漠の風 紀昀 著
  6. ボール小僧の涙 武田雅哉 訳
  7. ワニも僕の兄弟だ 中野美代子 訳
  8. 宇宙山海経 江希張 著
  9. 薬 魯迅 著
  10. 阿Q正伝 魯迅 著
  11. “鉄魚”の鰓 許地山 著
  12. 死人たちの物語 黄海 著
  13. 五人の娘と一本の縄 葉蔚林 著
  14. 北京で発生した反革命暴乱の真相 中国共産党北京市委員会宣伝部 著

なかなか特殊な本になっている。
まず①③④⑤⑥⑦⑭はフィクションではない。これは事実である、というわけではないのだが、いわゆる物語とは違って少なくとも当時はこれが事実として存在したという報告、である。⑧も物語ではないが内容はかなり特殊だ。
この内⑭は明確に新聞「人民日報」からの抜粋。

コンセプトは人を喰った話
人を喰った話とはよく用いられる表現だ。これはもちろん比喩で意味としては小馬鹿にしている、とか尊大であるとか。
ところがこの本は冒頭の①「人肉を食う」から実際に人肉を食事として摂取した人々の話を集めた報告である。
⑨魯迅のこの話も文字通りの人肉を薬として食べる話。これには戦乱が関わっている。

③は戦乱の恐ろしさを巻き込まれた市民が語る話、心底震え上がる。
⑭は中国がなかったことにしている天安門事件の詳細を体制側が説明したもの。私達はある程度起こったことを知っているから、恐ろしいというよりは今度は怒りで体が震える。
⑩もまた魯迅の著名な物語。これはトラスト直前まではむしろコミカルだが、最後まで読み終えれば笑ってはいられないだろう。愚かな阿Qは私達である。これも戦乱に市民が巻き込まれその命を奪われる話である。(これはフィクションだが)
⑪はフィクションだが、これも小市民が戦乱によってその穏やかな生活を破壊され殺される物語。
⑫はフィクションで、独裁的な国家体制が虐殺を行う物語。

②⑤⑥⑦は広大な領土で起こる奇妙な出来事・話を報告したもの。
②⑥は奇形を取り扱っている共通点がある。(あるいは人からワニが生まれるという
⑦も)

④は誤謬や誤解があるものの歴史的なかちがあるそうだ。

⑧は壮大なほら話と言ったらあまりに酷か。これはエンタメ性あふれるフィクションと言っても良い。

⑬は個人的にとても面白かった。5人の仲良しの女の子が集団自殺を企てるもので、若い娘たちの姦しさがキラキラと眩いが、その背後には中国の田舎が抱える男尊女卑と暴力が重たく横たわっている。そういった意味ではこれも反体制の物語である。


作品を大別するとこのような形になる。
編者があとがきで述べている通りこれは人を喰った話である。

怪談集とか陰ながら幽霊が一人も出こないのは小馬鹿にしているし、
また文字通り人肉を食う人間からびっくりするくらいの奇想、椿事が事実であるように語られる。広大な領土に奇人変人奇妙な風習のはびこる中国(これは明確に誤った認識であるが、人の共通認識(例えばイタリア人は皆陽気だのような)に訴えかけるものとして用いています。)ではさもありなんと感じさせる。
そしてその奇妙奇天烈さから、この国家で行われてきた戦乱の無残さを暴き出すものである。(もっともこれは何も中国だけが残酷な国家であるというよりどの国にもある暴政暴力抑圧を批判するものである。)

要するになかなかラディカルかつ意欲的なアンソロジーといえる。
手垢のついた怪談は一遍も入れないという気炎もあとがきで吐かれている。
当初は出版社も難色を示したようである。


アンソロジーとしての中国怪談集
良いアンソロジーとはなにか。
興味があるジャンルを読者に提示しつつ、まだ読みてが出会ったことがない作品を提示するのがその役割、良さとしてあるだろう。
とするとこのアンソロジーは明確に良いアンソロジーとは言えない。
怪談に惹かれて手にとった読者が期待する話を提示していないからだ。
ハグされるのかと思ったらとんでもない、平手打ちを食らったようなものだ。

ただ確かに収録作品は面白い。
面白いというかもう不愉快である。できることならこんな話は読みたくなかった。

⑭は特にそうだ。怒りで、目の前が真っ赤になる。
巨大な力の理不尽さに左右され、殴られ、殺される小市民。
③では本当にただ主人公たちはただ逃げ回るだけである。抵抗はせずお金を払って命乞いする。そして気まぐれで殺されていく。
刃物や徒党に漫画や映画のように立ち向かえるようなものではない。
これは「キャッチ=22」でヨッサリアンが垣間見た地獄の本質、本拠地にほかならない。
人間が悪魔、というのは他ならない。
⑬では悪魔は男性で、そして悪魔は人間でもある。(恋人や四宝を見てほしい)
戦乱が人を狂わせ、人肉を食わせしめるなら悪魔とは状況・状態・属性(性差など)にほかならないのでは。

私はこのアンソロジーに不満がないわけではない。
収録作が面白いのには唸らされるが、やはり怪談ではない。
これは看板と売っている内容が異なる。売っているものは素晴らしいから羊頭狗肉とは言わないが、やはり騙されている感じはする。
あとがきの編集者の強気の気概も私には言い訳の裏返しに見えた。

素直に自信を持ってリリースしてほしかったが。
ただ一方で素直に怪談集と銘打たなかったら私はこの本を買っただろうか?

このアンソロジーは素晴らしい。
ただ怪談好きとしては個人的にはもう一冊、中国の怪談集を出してほしい。

2020年1月13日月曜日

種村季弘編/日本怪談集 取り憑く霊

日本の怪談を集めたアンソロジー。
前回は呪われた場所がテーマだったが今回は霊が取り憑くお話を集めた。
収録作は下記の通り。

■動植物
①猫が物いふ話 / 森銑三 著
②くだんのはは / 小松左京 著
③件 / 内田百間 著
④孤独なカラス / 結城昌治 著
⑤ふたたび猫 / 藤沢周平 著
⑥蟹 / 岡本綺堂 著
⑦お菊 / 三浦哲郎 著
■器怪
⑧鎧櫃の血 / 岡本綺堂 著
⑨蒲団 / 橘外男 著
⑩碁盤 / 森銑三 著
⑪赤い鼻緒の下駄 / 柴田錬三郎 著
■身体
⑫足 / 藤本義一 著
⑬手 / 舟崎克彦 著
⑭人間椅子 / 江戸川乱歩 著
⑮竈の中の顔 / 田中貢太郎 著
■霊
⑯仲間 / 三島由紀夫 著
⑰妙な話 / 芥川龍之介 著
⑱予言 / 久生十蘭 著
⑲幽霊 / 吉田健一 著
⑳幽霊 / 正宗白鳥 著
㉑生き口を問ふ女 / 折口信夫 著

前回幽霊は非日常だから現実に出現するためにはある程度の環境が必要で、そのために暗くて人が耐えて住まなくなった家というのがいわば召喚装置のような機能として存在する、みたいなことを書いた。
舌の根も乾かぬうちに恐縮なのだが、こちらでは場所にとらわれない幽霊が縦横に歩き回る。非日常に怪異が出るのではなく、いわば幽霊が出るところが非日常になる。
こうなると環境が必要とか嘘か、となるのだが実は違ってそれが作品の大カテゴリだ。
動植物、器怪、身体、霊の4つ。いわばこれらを媒介として幽霊が出現するわけだ。
くだんという妖怪はわかりやすい。牛の姿を持って人間界に現れるわけだが、そもそも非日常なので体、もしくは顔だけが人間である。

呪われた場所、というのがわかっているなら人は意思を持ってそこに向かうわけだ。
ところが怪異が歩いているとなると、それに遭遇するとはつまり巻き込まれることである。怪異が向こうから来るわけだから。
こうなると事情がわからないまま障りがあるから人はなぜ?という気持ちで解明に向かって動いていく。こういう流れがあると思う。

こちらのほうがより怪談ぽいなと個人的には思う。
何故か。
怪談というのは創作であるとして、本来の意味はどうだったろう?
妖怪を考えるとわかりやすいのだが、これは言い訳や解釈、こじつけなんじゃないかと。
嘘八百ではなく、なにか変なこと、おかしいこと、良いことがある。どうも普通のことには思われないから、ここで妖怪の仕業ということになる。
座敷わらしがわかりやすくて、この可愛い妖怪は富をもたらすが逆に彼女が出ていくと家は傾く。怪談ではたいてい来た、というよりは座敷わらしが離れた、という筋が多いように思う。
つまり長者が没落した、という事実があって「あそこには座敷わらしがいた」という物語があとからできるのである。
だから謎があってその会社が怪談になる。

幽霊のいない明るい現代に生きている私達からするとゴースト、怪異はエンタメでしかないが、それが暗黙の了解的に使われる時代があったのだ。だから怪談の機能というのは共同体で変遷しつつある。いまはもう読み物に堕してしまった。
ミステリー肌から近代的で大胆にミステリーを持ち込んだ④は近代的な怪談といえる。
昨今では幽霊とは解決されるための謎解してあとから生み出されているから、原初の怪談とはその役割というか登場の所以が逆になっている。

だから通常の人が怪異に出会ってそれの解明に乗り出す、もしくは和衷でその解説がなされるというのは怪談のはじめの形を受け継いでいる。
さて、謎があってもそれは解明できないことがある。というかほとんどそんなものじゃないか。だから妖怪幽霊と言った胡乱なものが登場するのだ。

そういった意味で謎があるていどまでしか解明されないで残る物語というのは抜群に恐ろしい。
私が気に入ったのは⑩と⑮だ。これ読んで起こる現代人もいるだろう。謎が解明されないから、結局なんなんだと。
しかし自然など不可解なものだ、本来(だからせめてフィクションでは整然としたオチを求めるのもわかるが)。
だからこの置いてけぼりにされる感じがたまらなく寂しく、心もとなく、そして面白い。
これが怪談の醍醐味だと思う。
恐怖と日常に対する不信と一緒においていかれるのがだ。


由良君美編/イギリス怪談集

河出書房の怪談復刊シリーズのイギリス編。
収録作は以下の通り。
  1. A・N・L・マンビー「霧の中での遭遇」
  2. A・ブラックウッド「空き家」
  3. M・R・ジェイムズ 著「若者よ、口笛吹けば、われ行かん」
  4. H・G・ウェルズ「赤の間」
  5. A・J・アラン「ノーフォークにて、わが椿事」
  6. A・クィラ=クーチ「暗礁の点呼」
  7. A・E・コパード「おーい、若ぇ船乗り!」
  8. B・ストーカー「判事の家」
  9. J・S・レファニュ「遺言」
  10. M・P・シール「ヘンリとロウィーナの物語」
  11. H・R・ウェイクフィールド「目隠し遊び」
  12. E・F・ベンソン「チャールズ・リンクワースの告白」
  13. R・ティンパリー「ハリー」
  14. R・ミドルトン「逝けるエドワード」
  15. J・S・レファニュ「ロッホ・ギア物語」
  16. A・ブラックウッド「僥倖」
  17. E・ヘロン「ハマースミス「スペイン人館」事件」
  18. V・リー「悪魔の歌声」
  19. F・M・クローフォード「上段寝台」

怪談というとまず出てくる日本を脇に置くとやはりイギリスと言うイメージが有る。
英国と日本の怪談は似ているという意見も何度が目にした。
思うに湿った雰囲気がまず似ているのだと思う。
アメリカがフリークス驚かし系だとすると、日英同盟に関しては幽霊祟り系だろうか。

フリークスが何かというとこれは別に何でも良い。
クトゥルーのような高(異)次元の力であったり、昨日まで隣人であったゾンビでも良い。
ところが幽霊となると大抵名無しの幽霊ということはない。
これこれこういった来歴があり、何かしらの悲劇に巻き込まれた末に幽霊になった。
いわば幽霊には来歴、歴史がある。
新大陸アメリカには歴史がないので、必然的に新しい化け物共を想像し創造したのだろうと思う。

イギリスと言うとゴシックのイメージがある。
今ではファッションやメイクとしてのゴスがどうしても頭に浮かぶが、調べてみるとこれはゴート風の建築を指し示した言葉が始まりらしい。
幽霊が出ると言ったら由緒正しい、異常に広く、そして諸般の事情で隅々まで管理が行き届いていない城もしくは館だろう。
そんな私が考えるイギリス怪談の典型というのがあたりか。

面白いのはイギリス怪談というのは意外に

  1. 幽霊や怪異は素直に受けれられ、受け手側の神経は問題にならない。
  2. 除霊のようなことはしない。
  3. 幽霊が非人間的である。

怪談、怖い話というと受けての感覚が疑われることが、比較的多いと思う。
ラテンアメリカの怪談もそうだった。要は怪異の肝心なところを曖昧にする手法でもあって、一体あれは何だったのかという感覚を呼び起こすもので、これは非日常に対する一種の弁解のようにも感じられる。しかし英国では「幽霊です」というと「幽霊ですね」と受け入れられる土壌があるのか、「あなたの頭が心配です」とはならない。これは面白い。
キリスト教というと悪魔祓いは有名だが、果たして除霊となるとあるんだろうか?実はこれないんじゃないかと思う。教会から牧師が来て幽霊を除くのは⑫だけだ。
もう一つ面白いのは、幽霊というのが死んだ時点である程度欠損を生じているところだ。
もちろん⑦のように全く生きている人間と同じように見えたりするケースも有る。
また逆に⑧のように邪悪な悪霊となったことでむしろ強くなっている例もあるのだが、同時に①⑤⑱のように昨日を一部だけ残して人間の残像のように人間界にとどまり続ける幽霊の姿は、チープなゲームのNPCめいて不気味である。

私が気に入ったのは⑬で怪談としてはむしろ淡々としているのだが、語り口が良い。
また低所得者の生活(圏)を入り口に私達の知らないところ、闇の領域を垣間見せるような中盤がとても怖い。死者は地獄にいて生者を引きずり込む。しかし現実は?
愛娘を失った主人公にとっては現実が地獄になってしまった。
地獄は人の数だけある。そういった意味で引きずり込まれたのは娘であり、母親であったわけだ。
途中に出てくる老婆のセリフに背筋が寒くなる。

2019年12月22日日曜日

種村季弘 編/日本怪談集 奇妙な場所

日本の怪談を集めたアンソロジー。
この一冊は日本の怪談であること、に加えて場所に係る怪談であること、の条件で蒐集した短編が収められている。
収録作品は下記の通り。

  1. 日影丈吉「ひこばえ」
  2. 筒井康隆「母子像」
  3. 佐藤春夫「化け物屋敷」
  4. 吉田健一「化けもの屋敷」
  5. 吉行淳之介「出口」
  6. 森鴎外「百物語」
  7. 稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」
  8. 内田百閒「遊就館」
  9. 小泉八雲「狢」
  10. 森鴎外「鼠坂」
  11. 大岡昇平「車坂」
  12. 豊島与志雄「沼のほとり」
  13. 幸田露伴「幻談」
  14. 火野葦平「紅皿」
  15. 小田仁二郎「鯉の巴」
  16. 笹沢左保「老人の予言」
  17. 都筑道夫「怪談の作法」
  18. 武田百合子「怖いこと」
  19. 小沢信男「わたしの赤マント」
  20. 半村良「終の岩屋」
  21. 泉鏡花「雪霊続記」
  22. 澁澤龍彥「髑髏盃」


一体幽霊や化け物というのは日中堂々と出るものではない。
柳の下の幽霊を出すわけでもなく、たいてい恐ろしいものというのは暗い夜に人気がない(例えば墓場のような)特定の場所に現れるものだ。
つまり逆に言えば化け物というのは出現するには一定の条件が必要だと言える。

猫は人ではなく家に懐く、といういうが幽霊は人に憑く場合もあるが、大抵は場所に憑くものだ。
古今の怪談を思い返してみるとほとんどが「行くな」という場所に足を踏み入れて幽霊と出会い、それで憑かれると決まっている。
水場、墓場、古色蒼然たる屋敷でも、暗くジメジメした地下室でも、落書きだらけの廃墟でも良い、とにかく普通ではない建物や場所、そんなところがホラーの舞台になる。
このアンソロジーはそんな「場所」を集めた一冊。

いわば日常から離れた異界があって、知らないうちにそこに入り込んでいる。
そこでは日常的な法則から解き放たれているため、迷い込んだ人間はそこで常ならぬものを目にするというわけだ。

やはり家がわかりやすい。
⑤は象徴的でつまり外から見ても閉ざされていて見えない家の中でなにか異常が進行しているというもの。
⑰は舞台がタクシーでその近代的な時代設定が目を引くが、ある意味基本に忠実で怪談をどこまで縮めるか、という点でも非常に狭く距離が近いタクシーというのは面白い。
②も近代的だが、怪異がSF的なのは作者故か。

一方でthis is 怪談(kwaidan)の⑨八雲の物語はこれは外での出来事だが、開放的ではなくてむしろ坂を登っていくと真っ暗闇の別世界にたどり着いている。
㉑もやはり雪に振り込められて迷い込んだのが異界というパターン。天守物語もそうだけど異界を書くのはやはりお手の物という感じ。

面白いのは因縁のある場所を書いた作品が、場所をテーマに敷いたアンソロジーにしては意外に少ないこと。はっきりしているのは③⑧くらいか。
⑦は様々な人が元ネタにしている稲生物怪録ものだが、これは怪異は外からくる。
⑩と⑪は非常に話の筋が似ていいて、おいてきたと持った過去に復讐される話。いずれも坂が舞台だが、ここに遠く離れた異国の幽霊がいわば訪って復讐を果たしていく。
幽霊たちはいるだけでない、来るのでもある。

個人的に特に面白かったのが④。
アンチ怪談という意味では⑦に似ているがもっと強い。
愛の反対は無関心と入ったものが、幽霊にだって一番きついのは無視されることである。
怖がらない、気にしない、相手にしない、これは幽霊には効く。ただ同時に物語にならないからホラーでは禁じ手である。
④に関しては主人公は幽霊を気にしない。無視するのではない。普通に受け入れちゃう。お化け屋敷で幽霊と暮らしちゃう。言葉にしないが結構いいものだな〜なんて思っている風である。
で、一方の幽霊たちもそんな主人公と暮らしてなんか幸せそうである。
幽霊は怖がらせようとしていて、人間はひたすら怖がる、という常識をさらっと覆し、更に別逆張りで奇をてらっているわけではない。
いろいろな人間がいるようにこういう幽霊がいても良いよなと思わせる。


2019年12月16日月曜日

荒俣宏 編/アメリカ怪談集

河出書房新社の各国の怪談集が相次いで復刊されているのは非常に嬉しい。
これはそのアメリカ編。編者は荒俣宏氏。
収録作品は下記の通り。
①ホーソーン「牧師の黒いヴェール」
②ジェームズ「古衣裳のロマンス」
③ラブクラフト「忌まれた家」
④ルイス「大鴉の死んだ話」
⑤カウンセル「木の妻」
⑥ホワイトヘッド「黒い恐怖」
⑦フリーマン「寝室の怪」
⑧ウォートン「邪眼」
⑨ビアス「ハルビン・フレーザーの死」
⑩ポオ「悪魔に首を賭けるな 教訓のある話」
⑪ヘクト「死の半途に」
⑫ブラッドベリ「ほほえむ人びと」
⑬ケラー「月を描く人」

私はしばらく前アメリカ文学の古典を読んでいたのだけど、あらためてこうしてアメリカ文学を短編という形で読むとやはり非常に面白い。

アメリカ合衆国というのはいわばイギリスから文化した国であるけれど、その文化はイギリスを受け継ぎつつも結果的にはだいぶ異なる。

怪談という切り口で改めてアメリカ文学を読んでみると気がつくのはその歴史のなさ。
たとえば年振りた由緒ある館で先祖代々の幽霊が夜な夜な広大な屋敷を歩き回るのである…という怪談は当然ない。だってそんな歴史がないのだもの。
歴史がないということは弱点でもあり、強みでもある。
アメリカの文士たちは(恐怖というジャンルに限らず)ないものを補おうと頭を捻って新しいものを作り出したのである。
収録作品で神話の香りを感じさせるのはネイティブ・アメリカンを主題にした④だけ。

先日遅ればせながらヘミングウェイの「老人と海」を読んで、マッカーシーの異常な文体につながるアメリカ文学のもつ肉体性に合点が行ったのだけれど、やはり恐怖小説においてもその流れが確実にある。

歴史がなく、また広大な荒野で外敵に囲まれて生活を送った当初のアメリカ人にとって恐怖とは常に現実的なものだった。毒蛇やネイティブ・アメリカン、強盗野党のたぐいが彼らにとっての脅威であり、変な話幽霊たちの付け入る好きはあまりなかったのかもしれない。

このアンソロジーのどれも現実的な恐怖や異常を書いている作品が多い。
②は正しく幽霊が出てくるが、それは生前のその人を知っているくらい直近の幽霊なのは非常に象徴的だ。
一方③や⑤の新しい恐怖の対象としてのクリーチャーの造形の視覚的な異常さは面白い。

また心理的な描写が多いのもアメリカ的な怪談の特徴。心理的でない小説はないからこの書き方だと馬鹿らしいのだが、要するに心理学的な要素か。
信仰心と不可解な心理を取り扱う①、迷信を文明が教化する⑥、罪悪感が怪異の形を取る⑧、正しく後のサイコスリラーの系譜に連なる⑫。異常な親子関係という意味では⑨と⑬もその範疇に収めても良いかもしれない。

文学、文章というのは描かれた時代や土地を反映するものだから、やはりテーマや土地で作品を集めればその特性が非常にわかりやすく見て取れる。これが短編集・アンソロジーの醍醐味だろう。
自治体や集落単位で恐れていたものが怪異や異形として結実する、というプロセスは同じにしても昔のアメリカでそれでは一体何が恐れられていたのか?というと、暗く広い荒野にある現実的な恐怖。それから新大陸で病んでいく人の心だろうか。

肉体的で心理的、というと矛盾してそうだが、怪異に関してその謎を、旧来の怪談のように過去の因縁に求めるのか、現代にもとめるのか、そのアプローチこそがアメリカの怪談を特徴づけているものかもしれない。

2019年12月8日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集3

2008年から2018年の間に発表された怪談を集めた、平成を怪奇小説という視点で切り取るアンソロジーのラスト一冊。

①京極夏彦「成人」
②高原英理「グレー・グレー」
③大濱普美子「盂蘭盆会」
④木内昇「こおろぎ橋」(※「こおろぎ」は「虫」偏に「車」)
⑤有栖川有栖「天神坂」
⑥高橋克彦「さるの湯」
⑦恒川光太郎「風天孔参り」
⑧小野不由美「雨の鈴」
⑨藤野可織「アイデンティティ」
⑩小島水青「江の島心中」
⑪舞城王太郎「深夜百太郎(十四太郎、十六太郎、三十六太郎)」
⑫諏訪哲史「修那羅(しよなら)」
⑬宇佐美まこと「みどりの吐息」
⑭黒史郎「海にまつわるもの」
⑮澤村伊智「鬼のうみたりければ」

記憶にいまだ新しい311、東日本大震災が起きたのは2011年。
この未曾有の大災害がどのくらい影響したのかはわからないが、怪奇小説では怪談の復権が起こったということをこの本で認識した。

このアンソロジーの1冊目は恐怖の対象は隣りにいる他者だった。彼らが本当は何を考えているのかわからなかった。愛情があるからこそ怖くなった。
2冊めは内省の時代。バブル時代が終焉を迎え、社会的な軋みが現実的な問題となって表れ不安を感じた人々は深く内省的に自己探求に潜り込んでいた。
この3冊めでは理不尽な天災と露呈した認識や対応の甘さによる人災により、多くの人が深刻なダメージを負った。家と街が壊れ、そして大切な人がいなくなった。
昨日まで元気だったあの人(たち)が今日はもういない。その途方も無い過酷さ、理不尽さを日本人は平成の世で再認識した。

この最後の本では明確に非日常、怪異、特に幽霊がはっきりと出てくる物語が多い。
そしてその幽霊や異形たちにははっきりと個性がある。
つまり生者が死を経験して死者になる。そして幽霊になるのである。
幽霊譚はミステリ小説に似ているところがある。
異常があり、調べてみると彼や彼女がなぜ死んで、なぜ成仏しきれずに恨みを持っているかがわかるからだ。幽霊の正体に迫ることは彼彼女がどう生きたかに肉薄することにほかならない。
典型的な日本の幽霊譚とはだから実は(生きていた)人を描く物語でもある。

今平成の終わりに親しい人があっという間に命を奪われる災害があった。
ここで怪談がその本来の意義を取り戻し、再び光を当てられたように思う。
理不尽になくなった人々が何を考え、どんな人生を送り、そして死を迎えたのか。
怪談はときに優しくもはや口のなくなった死者に寄り添う。
言葉なく死んでいったものたちをいわばここで代弁しているのだ。
(怪談の時代、すなわち口寄せの時代とも言えるかもしれない。)

④⑤⑥の実は死んでいた、という話の組み立て方は非常にわかりやすい。
物語が彼らの人生を紐解き、その無念を汲み取り、成仏させて空に返すのだ。

幽霊ではなくゾンビを扱う②も言葉の通じない死者との交流という意味でやはりこの範疇に属するように思う。

③はまさに生活、生きている人たちの日々を非常に冷徹に描いている。静かな毎日の中にも喜びや正気のほころびがある。人は生きて死ぬ。

①⑪⑭はもっと曖昧。名状しがたい怪異を扱っている。どれも土着の地方臭がつよいこともあって、ここで描かれる怪異は自然そのものを表しているようだ。周りの人間は翻弄されるが、それが何なのかはわからない。回避することもできない。
その探求というのは常に私達の好奇心を掻き立てる。

⑩はちょっと変わっていてこれはゴースト・ストーリーであることは間違いないが、偶然ですれ違いほんの一瞬だけ交差した人生が、幽霊の、つまりかつての生者の人生を描写し得ていない。だから「あの人はなんだったのだろう」という疑問が残り、これがまた妙に切ない。

怪談の復権。
ここでいう怪談とは理不尽への説明であり、代弁である。
死者のためにできることは一つもないので、死者に無念を語らせるのも生きているもののため。
そういう意味ではこの本に収録されている作品の多くが優しい。
今の時代に怪談がそのように人に寄り添うように機能するのは私には大変面白く見える。
すべての怪談がかくあるべきだとは全く思わないが、ただ血みどろにすれば怪談だと考える人がいるとしたら、その人はわかってない。

2019年11月24日日曜日

グレッグ・イーガン/ビット・プレイヤー

久しぶりに読むイーガン。

バリエーションに富んだ作品が収録されている。
面白いのは難民問題をタイムトラベルを絡ませてSF的に書いている「失われた大陸」。面白いネタを選んだ結果、というわけではない。
難民問題の核をむしろタイムトラベルというギミックを使うことで露骨にわかりやすく描いている。ここで強調されるのは具体的には隔絶と孤独感、どこにも所属する事ができない人をどう救うのか?または逆に排除するのかという問題だ。
後書きによるとイーガンは執筆が後回しになるくらい、この問題に熱心に取り組んだそうだ。
非常に効率的な考え方が反映された小説を多く書く人なので(面白いのは彼が書く物語は結果的に非常に感情的なのだが)、この事実は面白かった。

その他はいつものイーガン節。
意識の拡張や変遷が作品の根底にあり(テーマそのものではない)、そこから物語が動き出していく。
資格の拡張、そこから意識と記憶を非人間体への移植(彼は人間でもロボットでもないので周囲との摩擦が生じて物語になる)、さらにジャンプアップしていき(この短編集は日本オリジナルで作品のチョイスと並べ方は非常に巧みだと思う)印象的なのはラスト2つの中編。
はるか未来、どのくらいかというと僕らがもう古代人として伝説的に思い出されるくらいの未来。
肉体を捨てた人類を含めた様々な人種がデジタル情報になって広大な宇宙を行き来する融合世界アマルガムを舞台にした小説群。

肉体を捨てて意識をデジタルに、というアイディア自体はありふれたもので、私達も攻殻機動隊を始めいろいろな作品で慣れ親しんでいる。
多くが肉体を乗り捨てる、不老長寿になるといった考えにとどまっている中、イーガンはその先を進んでいる印象。
精神など肉体のおもちゃに過ぎないというが、逆に言うと肉体の軛から抜け出した精神は自由に選べる肉体、はたまたその肉体自体なくても存在できる意識となってどんどん変容していく。
衣食住、食欲、性欲、睡眠欲といった肉体に起因する”問題”から開放された人間の精神はどんどん現状から変容していく。
肉体的欲求は娯楽や美徳として昇華(消化)されている側面があるため、現代人から見るとモラルや常識が通じないので、イーガンの描く世界が偉くいびつに”非人間的”に見えるかもしれないが、逆にイーガンは人間の本質は精神、というとあれだがデジタル化できるデータだと捉えているわけで、非人間的というのは当たらない。むしろ肉体という制限がなくなったときに残る人間の本質とは?という問題に真摯に取り組んでいるのがイーガンでは?


2019年11月23日土曜日

沼野充義編/ロシア怪談集

物語というのはそれが書かれた土地、時代を反映するものである。もちろん怪談だってそう。これを読めばその土地に暮らす人の生活が、そして何を恐れていたかがわかる。

私はロシアに関してはほとんど無知だ。
学生の頃に読んだドストエフスキー、最近ナボコフの「ロリータ」を読んだっけ?レムはロシアではない。そんなところだ。
この短編集に関しても他のアンソロジーでゴーゴリの「ヴィイ」を読んだことがあるのみ。

怪談にいろいろな形があるが古典に関して言えば出てくるのは、幽霊か化け物である。
これには当然その次代の死生観、さらには信仰と宗教が関わってくる。
世界は今より暗かった。科学の光は田舎に届かず、ランプの照らす僅かな空間の外に何がうごめいているか、わかったものではなかったのだ。

特定の現象、感情、出来事を擬人化する、もしくは言い訳をつけるための怪異だとすると、幽霊や化け物はなにかの比喩であり象徴になる。
つまり記号的な存在なので文字で表現されれば背景が読めるといった寸法だ。
つまり記号であるということは意思伝達のための表現である。

いろいろな土地でキリスト教がその他の宗教を異端として押しつぶして全てを平らかにしてしまったが、もともとどこにだって土着の進行というものはあって、この本を読むとロシアにもそれが息づいていたことがわかる。

ロシア正教というのは教義的にはどう異なるのかわからないが、まず悪魔が出てくる。ルシファーの忠実な部下たちである。
それから有名な話だがロシアには魔女がいる。
瞼が地面まで垂れた鉄の魔物がいる。
それから血を好み、吸うことで仲間を増やす典型的な吸血鬼がいる。
もちろん死にきれずに広大で豪奢な屋敷をさまよう幽霊もいる。
いわば、キリストの威光も海を隔てた向こう側ほど強くなかったようで、様々な怪異が混沌としている。

それから少し時代がさかのぼり、チェーホフ、ソログープあたりになると今度は恐怖の対象が自分たちの外側から内側に遷移してくる。
これはいわば日本でも流行った神経というやつで(本邦では有名な怪談「真景累ヶ淵」というのがある)、自分たちの感覚が狂ったゆえに自然に怪異を見て聞いてしまうというやつ。

ロシアはとにかく広い。そしていろいろな人種やルーツを持つ人がいるから当然摩擦があるわけで、その雑多な摩擦が様々物語を混ぜ込んでいる。
田舎の郷士がキリストを敬いつつも、魔女や怪異を(キリスト教の悪魔という文脈ではなくありのままを)恐れている、という構図からして非常に面白い。
多様性と共存であって、これは一見クリスマスも正月も同じように祝う日本的に見えるけど、実は結構日本の古典的な怪異というのは概ね方が決まっているから、これは間違いなくロシアの特色と言えるのではなかろうか。

2019年10月27日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集2

平成というすでに過ぎ去った時代を怪談という切り口で捉えようとする試み。
冒頭を飾る前作で時代性というものをたしかに私は感じ取ったのだった。
二冊目のラインナップは下記の通り。

①小川洋子「匂いの収集」
②飯田茂実「一文物語集(244~255)」
③鈴木光司「空に浮かぶ棺」
④牧野修「グノーシス心中」
⑤津原泰水「水牛群」
⑥福澤徹三「厠牡丹」
⑦川上弘美「海馬」
⑧岩井志麻子「乞食(ほいと)柱」
⑨朱川湊人「トカビの夜」
⑩恩田陸「蛇と虹」
⑪浅田次郎「お狐様の話」
⑫森見登美彦「水神」
⑬光原百合「帰去来の井戸」
⑭綾辻行人「六山の夜」
⑮我妻俊樹「歌舞伎」
⑯勝山海百合「軍馬の帰還」
⑰田辺青蛙「芙蓉蟹」
⑱山白朝子「鳥とファフロッキーズ現象について」

確実に作品の趣が1と変わってきている。
時系列で作品を収録しているから平成という中でも意識の流れに変遷がある事がわかる。
前回の感想でも書いたけど、前作収録作品が書かれた(性格には世に出た)平成初期には確実に親しい他人、家族や恋人が大いなる謎であり、その感情はふとしたきっかけで恐怖に変わることが、あったはずだ。そのぼんやりとした不安を怪奇小説に消化している作品がいくつか見受けられた。
ところが時代がかわってこの短編集だとそのたぐいのものはないかな。強いて言えば①は恋人がわからない、という要素はあるけれどもどちらかというと不穏な伏線が落とし穴のような恐怖に落ち込む典型的に落ちが聞いた怪談といえる。

どちらかというと私が感じたのは自己の内部に踏み込んでいく作品が多いこと。
平成中期は他者から離れて自己に向き合う、いわば精神病的な時代だった。
現実とのギャップが心身に軋みを生み出し日常生活に支障が出る。自己と深く向き合う中で本当の自分、または新しい自分に出会い、問題の解決に一歩踏み出す、というような。
浮世離れした少年が預言者のような男にであり、本来の自分を見出していく④、アルコール中毒になり会社と社会から脱落した男が非現実で闘争し治癒に向かう⑤、忌み嫌う父親の血が自分の中に流れていることを自覚し、そして同一化していく⑥、ぼんやりと霞がかかった日常を生きる女が本来の荒々しい自分を取り戻す⑦までが、そういった流れになっていて非常に興味深い。私小説的になりがちなこういう物語で、暗いおとぎ話のような鈍い光を放っている⑦は特に好きだ。

一方で怪談が現代に息を吹き返して豊穣な花を咲かせたのも平成中期だったのかと。
平成を代表する怪談の一つ「リング」シリーズのスピンオフである③、「ぼっけえきょうてえ」の作者の田舎の土着ホラー⑧、大阪の下町を舞台にした近代ノスタルジックホラーの⑨、人と神の交わり、そして神の摂理の前に人間としてただただ呆然とするしかない⑪と⑫などなど。題材としては古典的と言っても良い恐怖の要素を現代という、怪談が成立しにくい明るい舞台装置の中で見事に復活させていて、どれも面白い。
特に浅田次郎は「鉄道員」などだけ読んで良くも悪くも読みやすい本を書く人だと思っていたが、実は全然違った。こんなに美しい文体を書けるとは。なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。怪奇小説の短編集があるということで必ず読む。

世の中が電気と知識の敷衍によって便利になっていき、幽霊たちの居場所はなくなるようだが、この本を読むと恐怖という感情は普遍的で現代平成の世になってもちっとも減じていないようである。

2019年10月15日火曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集1

題名の通り終わりを告げた平成という時代に世に出た日本のホラー小説を集めたアンソロジー。
過去の偉大なアンソロジーに対する敬意とその衣鉢を継ごうという意思を感じる一冊。
平井呈一が翻訳した小説を集めたアンソロジー「幽霊島」を読んで再燃したホラー熱で購入。というのも私はあまり日本の最近の作家の小説を熱心に読んでいるわけではないから。

収録作は下記の通り。
①「ある体験」吉本ばなな
②「墓碑銘〈新宿〉」菊地秀行
③「光堂」赤江瀑
④「角の家」日影丈吉
⑤「お供え」吉田知子
⑥「命日」小池真理子
⑦「正月女」坂東眞砂子
⑧「百物語」北村薫
⑨「文月の使者」皆川博子
⑩「千日手」松浦寿輝
⑪「家──魔象」霜島ケイ
⑫「静かな黄昏の国」篠田節子
⑬「抱きあい心中」夢枕獏
⑭「すみだ川」加門七海
⑮「布団部屋」宮部みゆき

この本は明確に収録作に指向性があるわけで、なにか訴えたいことがある。もしくはまとめて読むことに意味がある。
怪奇な物語、という側面から一つの時代を切り取ってみようという試みであることは間違いない。
時代性という言葉がなにか、というのは最近考えるのだが、一つに時代性を抽出することで比較検討ができるというのがある。
恐怖(とそれを嗜好する趣味)は普遍的な感情だが、流行り廃りだけでなく物語にはそれが書かれた時代が反映されている。
ここでは「平成」のそして「日本」という時空が抽出されている。

収録作を読んで思ったのが、人間、つまり他者との関係性がそのまま怖い話になり得るなということ。
独断で収録作を対人関係に起因する物語だと感じたのは①②⑦か。どれも超自然に片足は突っ込んでいるが、幽霊譚や怪談というのはちょっと違う。どれも怪異の発生源は明確に実在する具体的な人間関係だ。
電力が行き渡り明るくなった世界に、暗がりで生きるモノたちの居場所が亡くなったのもそうだろう(幽霊がリアルではなくなった、説得力が減じた)。
(また穿ってみれば現代人の比喩が下手になったとも言えるかもしれないが、)幽霊は因縁の可視化だとすると恐怖の一つが人間関係であることは昔からそうだが、どうも平成ではいま生きて横にいる親しい人間が恐怖の対象でもあったわけだ。
核家族化から少子化へ、共働きによる労働時間の増加などによる孤立化が生み出した現代なりの恐怖なのかもしれない。知らない、ことが何よりの恐怖になり得るのだから。
④や⑤は隣人に対する恐怖と考えることができるから、この段階を経て、しかしすぐにふっとばしてもう親や恋人が何を考えているのかわからない、と飛躍するのは面白い。ここは日本ならではか?

典型的な怪談もあるが、どれも見事に平成の世に馴染んでいる。
⑧のような短い短編を見るとわかるのだが、どの物語にも怪異を呼び出すための装置が巧妙に配置されている。
というよりは恐怖の本質はいくつかの類型があるが概ね普遍的であり、あとはそれを日常生活になじませる手段が必要だとすれば、各作中に出てくる風俗という点で怪談というフォーマット自体がその都度の時代を色濃く反映しているのも必然というわけだろうか。

⑫などは現代でしか生まれ得ない怪談であり、そういった意味では非常に面白い。私はなんとなく盲目的な科学への信頼は宗教じみていると思っているのだけれど、そういった意味ではSFは未来(と現代)の怪談とも言える。(ここは例えばバラードなんかを引き合いに出すともっと面白そうだ。)

2019年9月23日月曜日

A・ブラックウド 他 平井呈一 訳/幽霊島 平井呈一階段翻訳集成

翻訳家平井呈一が翻訳した海外のホラー小説を集めたアンソロジー。
平井呈一といったらなんといってもブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の翻訳だ。真っ赤な表紙のあの本。それから明らかにドラキュラに対応した真っ青な表紙のレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を読んだ学生時代。アーサー・マッケンの「怪奇クラブ」。それから猫が表紙に書いてある平井呈一自身が書いた「真夜中の檻」も読んだ。

そんなわけで若干のノスタルジーもあって手にとったこの本、ごくたまにある面白すぎて読みすすめるのがもったいない、という気持ちを味わえる良い本だった。
中でも心底震えたのがF・マリオン・クロフォードの手による「死骨の咲顔」。まさに鬼気迫るこの怖さはなんだろうと思ったら、齢100歳の幽霊屋敷に使えるおばあさんの口調だった。まるで金田一耕助シリーズに出てくるようなおばあちゃん口調なのだ。年振り、少しなまっているような、半ば死んだ言葉たち。もちろん原著は英語で書いてあるわけだから、(単語のチョイスはあるだろうが)訳者である平井が言葉を当てはめ、補いこの雰囲気を作っているのである。
ここに平井呈一の凄みを感じたわけで、つまり英語をそのまま翻訳しても堅い文章にしかならない。例えば現代ならGoogle翻訳にかけたような少し奇妙な日本語である。これに意識というフィルターを掛け、意訳の工程を経て硬かった文を柔らかく、違和感なくしていくのが翻訳者の仕事だろうか。
それだとしたら時代背景や小説の設定、それから読者のことを慮って更に言葉を選んでいくのが翻訳家平井呈一の腕なわけだ。
もちろん原文からの距離は離れるから、それは批判があるかもしれない。しかし断言してもよいが波の翻訳者が前述の「死骨の咲顔」を翻訳しても絶対にこんなに怖くはならないだろう。
平井呈一は原著を再構築する作家的な側面を持っているといいいたいわけではなく、極めて尖ったどこまでも翻訳者なのである。
彼の目的は唯一つ、原著の面白さを英語を解さない日本人に伝えて怖がらせること。

そう思って読みすすめると付録の生田耕作との対話でやはり翻訳に対する強いこだわりを見せていて、これは非常に納得感があった。
つまりただ訳すだけでは全くだめだと、翻訳者は日本の言葉をとにかくたくさん身につけてないといけない、そしてこの教養を存分に奮って翻訳しないとならない。そういった意味では平井は自身を職人だと考えている。

かねがね思っていたのだが、ラブクラフトの仰々しい文体は現実離れした恐怖や怪異を読者に伝えるための一つのやり口であって、そういった意味では怪異を呼び出す呪文なのだ。平易な文章で恐怖を惹起させる巧みな作者もいるだろうが、やはり凝った文体が生み出す圧倒的な没入感を伴う恐怖というのは他に代えがたい。

ラブクラフトといえばこの本に収録されているのはいわゆるクトゥルー物ではなくて「アウトサイダー」というのも面白くて、つまり平井が考える恐怖が肉体的な恐怖ではなく、考えること、根本的にはその暗がりに何変えたいのしれないモノがいるのではないか?と考える恐怖であることを示している。そういった意味で収録されている作品にははっきりとした共通項があるようである。
こうなるとか怪異自体とそれに影響される人間の認知のゆがみというか揺らぎが、もう一つの恐怖の源泉でもある。

じっとりとした恐怖を味わいたいならこんなにうってつけの一冊もないだろう。