2020年1月13日月曜日

種村季弘編/日本怪談集 取り憑く霊

日本の怪談を集めたアンソロジー。
前回は呪われた場所がテーマだったが今回は霊が取り憑くお話を集めた。
収録作は下記の通り。

■動植物
①猫が物いふ話 / 森銑三 著
②くだんのはは / 小松左京 著
③件 / 内田百間 著
④孤独なカラス / 結城昌治 著
⑤ふたたび猫 / 藤沢周平 著
⑥蟹 / 岡本綺堂 著
⑦お菊 / 三浦哲郎 著
■器怪
⑧鎧櫃の血 / 岡本綺堂 著
⑨蒲団 / 橘外男 著
⑩碁盤 / 森銑三 著
⑪赤い鼻緒の下駄 / 柴田錬三郎 著
■身体
⑫足 / 藤本義一 著
⑬手 / 舟崎克彦 著
⑭人間椅子 / 江戸川乱歩 著
⑮竈の中の顔 / 田中貢太郎 著
■霊
⑯仲間 / 三島由紀夫 著
⑰妙な話 / 芥川龍之介 著
⑱予言 / 久生十蘭 著
⑲幽霊 / 吉田健一 著
⑳幽霊 / 正宗白鳥 著
㉑生き口を問ふ女 / 折口信夫 著

前回幽霊は非日常だから現実に出現するためにはある程度の環境が必要で、そのために暗くて人が耐えて住まなくなった家というのがいわば召喚装置のような機能として存在する、みたいなことを書いた。
舌の根も乾かぬうちに恐縮なのだが、こちらでは場所にとらわれない幽霊が縦横に歩き回る。非日常に怪異が出るのではなく、いわば幽霊が出るところが非日常になる。
こうなると環境が必要とか嘘か、となるのだが実は違ってそれが作品の大カテゴリだ。
動植物、器怪、身体、霊の4つ。いわばこれらを媒介として幽霊が出現するわけだ。
くだんという妖怪はわかりやすい。牛の姿を持って人間界に現れるわけだが、そもそも非日常なので体、もしくは顔だけが人間である。

呪われた場所、というのがわかっているなら人は意思を持ってそこに向かうわけだ。
ところが怪異が歩いているとなると、それに遭遇するとはつまり巻き込まれることである。怪異が向こうから来るわけだから。
こうなると事情がわからないまま障りがあるから人はなぜ?という気持ちで解明に向かって動いていく。こういう流れがあると思う。

こちらのほうがより怪談ぽいなと個人的には思う。
何故か。
怪談というのは創作であるとして、本来の意味はどうだったろう?
妖怪を考えるとわかりやすいのだが、これは言い訳や解釈、こじつけなんじゃないかと。
嘘八百ではなく、なにか変なこと、おかしいこと、良いことがある。どうも普通のことには思われないから、ここで妖怪の仕業ということになる。
座敷わらしがわかりやすくて、この可愛い妖怪は富をもたらすが逆に彼女が出ていくと家は傾く。怪談ではたいてい来た、というよりは座敷わらしが離れた、という筋が多いように思う。
つまり長者が没落した、という事実があって「あそこには座敷わらしがいた」という物語があとからできるのである。
だから謎があってその会社が怪談になる。

幽霊のいない明るい現代に生きている私達からするとゴースト、怪異はエンタメでしかないが、それが暗黙の了解的に使われる時代があったのだ。だから怪談の機能というのは共同体で変遷しつつある。いまはもう読み物に堕してしまった。
ミステリー肌から近代的で大胆にミステリーを持ち込んだ④は近代的な怪談といえる。
昨今では幽霊とは解決されるための謎解してあとから生み出されているから、原初の怪談とはその役割というか登場の所以が逆になっている。

だから通常の人が怪異に出会ってそれの解明に乗り出す、もしくは和衷でその解説がなされるというのは怪談のはじめの形を受け継いでいる。
さて、謎があってもそれは解明できないことがある。というかほとんどそんなものじゃないか。だから妖怪幽霊と言った胡乱なものが登場するのだ。

そういった意味で謎があるていどまでしか解明されないで残る物語というのは抜群に恐ろしい。
私が気に入ったのは⑩と⑮だ。これ読んで起こる現代人もいるだろう。謎が解明されないから、結局なんなんだと。
しかし自然など不可解なものだ、本来(だからせめてフィクションでは整然としたオチを求めるのもわかるが)。
だからこの置いてけぼりにされる感じがたまらなく寂しく、心もとなく、そして面白い。
これが怪談の醍醐味だと思う。
恐怖と日常に対する不信と一緒においていかれるのがだ。


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