2019年7月28日日曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]2

エリスン編集のアンソロジー、分冊版の2冊め。
かつての翻刻での翻訳の試みは1冊目で頓挫したからようやっと陽の目が出たのがこの2冊めから。

前回はSFという括りにとらわれないラディカルな小説が集められている、というようなことを描いたがもちろんもともと一冊の本であるからしてこの本でもその傾向は同じ。
とにかく本当は裏方に回るはずの編集者にして発起人のエリスンが前に出過ぎ、語りまくるのがこの一連の本の魅力でもある。
彼によるとこの本に集められているのはScience Fictionではなく(注意してほしいのだが彼はこの本に収めれている本がいわゆるSFではないとは一度も言っていない)、Speculative Fictionであるということである。
Speculativeというのは「思弁的な」という意味らしい。これを調べてみると経験によらない思考や論理にのみ基づいている様、ということだ。
つまりここでは純粋に思考力もっというと作者の想像力によって書かれている作品が集められており、科学的であることは必須ではないのだ。そこは熱烈な、というよりは熱狂的なSFの支持者であり、過激な思想家であり、そして作者でもあるエリスンなので彼の審美眼に叶う作品には多かれ少なかれ一つの創作文学の分野としてのSFの要素が含まれている。しかしオールドスクールな既成概念や伝統に縛られることなく、自由で挑戦的な作品が選ばれているのは面白い。

ここでいう「危険な」というのは、誰もが見たことのないという意味とほぼ同意である。それは革新的であることと、そして誰もが見たことを否定するようなないものとして扱うようなな内容を含むこともその範疇に入るだろう。前の一冊の冒頭の物語や、今回では奇しくも最後似収録されたデーモン・ナイトの「最後の審判」などはそのカテゴリに入る。要するにキリスト教とその神聖を否定というよりは別の味方からみる(なので悪魔的な小説というのは当たらない)、アメリカではかなり攻撃的な内容になっている。
それは固定概念への挑戦であり、想像の壁を取り払う前進でもある。

もう一つ大きな要素、というか個人的に嬉しいこのアンソロジーの要素は「反体制」だ。ハーラン・エリスンはパンクスなのだ。この激烈なエネルギーを持ったナードの小男はどこの誰より激しいパンクスなのだ。
この本で言えばフィリップ・K・ディック「父祖の進信仰」、ラリイ・ニーヴン「ジグソー・マン」、ポール・アンダーソン「理想郷」はいずれもディストピアを描き(あるいはユートピアを描きそれに疑問を提示する)、そのいずれもが現代の危機や懸念をはらんだ社会問題をそのまま発展させたものである。(この危機意識が思弁的と言えると思う。)
現代への警鐘というと逆に陳腐な表現だが、やはりそこには抜群に面白い小説というオブラートに包まれた批判精神がある。むしろその批判精神こそが面白さの源泉なのだろう。
私はなんせ「「悔い改めよハーレクイン!」とチクタクマンは言った」でエリスンにあっという間に心酔した人間であるから、やはりこのエリスンのエリスンのためのアンソロジーに彼のそういった反骨精神とその優しさが反映されているのを見て取るのは非常に楽しい。

2019年7月21日日曜日

ダシール・ハメット/血の収穫

ハードボイルドというジャンルがあり、この小説を書いたダシール・ハメットがその創始者らしい。そのハメットのはじめての長編がこの本。
読んでみるとたしかにこの本でハードボイルド、ノワール小説というのがもう完全にできあがってしまった感じすらある、

ただ相当ハードで異質であるので、この本を読んで衝撃を受けた人が自分なりのハードボイルドを追求したのだろう。今からすると隔世の感もあるのも事実。

一番面白いのは主人公の造形。ハードボイルドというとソフト帽にトレンチコートに身を包んだ長身の男、無口だがめっぽう腕が立ちかならず事件の渦中にある美女といい感じになる、というような類型が頭に浮かぶのは私だけだろうか。
ところがハメットの主人公私は全然そうではない。おそらくスーツは着て帽子はかぶっているだろうが、100キロ近い巨漢だしそもそも名前がない。ハードボイルドの典型からも離れているが、その上こいつは全く自分というものがないのだ。かなり非人間的なキャラクターである。
もちろん腕っぷしは立つ。更に頭は切れる、切れすぎるほどに切れ、もはや探偵の役割を超えて悪徳の街を一時的にだが自分の手で動かしている。
ところがこいつには個性というものがない。悪徳の街を浄化しようというのは、一応依頼人のリクエストに乗っているがこれは口実に過ぎず(依頼人が徹底的に信用出来ないので)、やられたからやり返すというもの。これは私怨というか怨恨だが、どうもそれより叩かれたら手が出るような反射的なものに感じられる。
「私」は私情がない。自分の過去を話さないのはたしかにハードボイルドだが、「私」の場合は全く過去がなく、この街に来る前にそのままの姿で生まれたかのようだ。
自分がのっぴきならない立場に追い込まれても極めて冷静。自分の正義を信じているわけではない。自分が間違いを犯したかもな、と極めて冷静に一つの可能性としてカウントするだけだ。
こいつには全く気持ちというのがない。何かでブレることもない。

物語には動かし手や説明手が必要だ。狂言回しと言っても良い。外部からきた異端のものである探偵はその役にうってつけだが、例えば事件が終わるまでなんにもしない本邦の金田一耕助とは全く異なり(こっちは探偵小説ではなくミステリーだからジャンルも違うんだけど)、「私」は回すどころではなく自分が物語を動かしていく。
めちゃくちゃ肉体的だが精神がまったくない「私」。
あまりに強すぎて「ありえねー」というキャラクター造形はなんとなく見たことあるような気がするが、この物語の主人公は全く別の意味から衝撃的である。
なんとなくキングのホラー小説(例えば「ニードフル・シングス」のような)にでてくる自治体に不幸と不和を撒き散らしていく悪魔にも通じるところがある。ただ悪魔は人間を堕落させることを至上の喜びとしており、その報酬で動くが、「私」の場合は不自然な反骨心めいたもので動いており、やはり不可解である。

不思議だ不思議だと書いてしまったがこの「血の収穫」とても面白くて、普段本を読まない休日も使ってあっという間に読んでしまった。
多分私の他にも魅力にとりつかれたがなぜを抱えた人がたくさんいて、そんな人達が自分なりの解釈として書き始めたものがハードボイルドというジャンルを作ったのでは、と考えるのは少し面白い。
でもそんな事を考えてしまうほどこの小説は完成されている割に、どこかいびつなのだ。

2019年7月15日月曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]1

アメリカの作家ハーラン・エリスンが編集した伝説的なアンソロジー。
長大ゆえに日本では1983年に3冊に分けて発売されるはずだったが、はじめの1冊だけ出てそのまま中座してしまったいわくつきの本だったが、30年以上経ってようやく完全版としてリリースされる運びになったそう。

「世界の中心で愛を叫んだけもの」をだいぶ前に読んで、昨今短編集「死の鳥」でハーラン・エリスンにハマった私はとりあえず購入。
エリスンは相当エネルギッシュな人らしくいろいろな逸話が残っている。おそらくそれなりに尾ひれもついているのだろうと思うが、とにかく変わった人ではあったのだろう。そんな人が編んだアンソロジーなら面白くないわけがない。この本ではすべての短編にエリスンが温度の高い解説を付けている。

ロボット三原則の生みの親アイザック・アシモフのまえがきから始まるのは良い。とても良い。なるほどね、わかりますってなる。しかし続くラインナップにブライアン・オールディスが入っていることにまずは嬉しくなる。それからロバート・ブロックが入っている。彼は映画化もされた「サイコ」が有名だが、なんといってもラブクラフトの年若い友人であり愛弟子でもある。これはと思うのは私だけではないと思う。

この本ははじめの三分の一であるが、まず言えるのは一風変わった審美眼で収録作品が選ばれているということだ。フィリップ・ホセ・ファーマーの作品を読めばその序盤のどぎつさに呆れてしまうだろう。かなりどぎつい。
まえがきに続くエリスンが気炎を履きまくる序文を読めば彼がこの本に、もっと視線を広げてSFに対してどんな気持ちを抱いているかわかるだろう。彼はSF作家であると同時に極めて熱心なSFファン、フリークなのだ。それも相当ラディカルな。彼なりのSFがあり、それを追求し、集め、そして時にはなだめすかしたり、脅しをかけたりしてそんな作品を書かせたりする。それがエリスンなのだ。タイトルに「危険な」という文字が含まれるのは非常に納得感がある。当たり障りのない名作を集めたアンソロジーとは明確に違うのである。

科学による神殺しと人間の傲慢さを描いたレスター・デル・レイの「夕べの祈り」から始まり、どれもひねくれた作品が並んでいる。
フレデリック・ポールの「火星人が来た日の翌日」も異星人とのファーストコンタクトという劇的な出来事の背後にある、通常描かれることのない人の営みを描いているという点で興味深い。
いわばSFにてしても王道に対するカウンターとしての側面がある作品が集められているように感じる。それはオーソリティに対する純粋で冷静な疑問であり、反体制的という点で「危険」なのである。

2019年7月7日日曜日

野谷文昭編訳/20世紀ラテンアメリカ短編集

最近アメリカ文学にハマっていたが、このときのアメリカは北アメリカ大陸のことを指した。
国は違えどアメリカ大陸には南があるわけで、こちらの方は私は未開の土地である。
ボルヘスを数冊、ガルシア・マルケスを数冊、あとはアンソロジーを1冊くらいか。

北と南、私はいずれも行ったことがないが隣り合う両者に格差があるのは確かだ。
経済的な観点で言えば北が高く、南側の人間が北に行くには制限がある。(10年以上前に北アメリカに留学していた友人に聞いた。)
イメージで言えば南は粗野でメキシコは終わりのない麻薬戦争に疲弊している。
要するにゴシップ的な知識のみで、肝心な文化がわからないのだ。
旅慣れない私はこの本を手にとった。

編者はいくつかのテーマを作り、それに区分けする形で物語を紹介している。それによってなるべく万遍なくラテンアメリカの文学を紹介しようという試みだろうと思う。その為非常にバリエーションに富む内容になっている。

ラテンアメリカは広大だ。決して目に見えない国境線で区切られ、多数の異なる文化を持つものが住んでいる。彼らは互いに争い、そしてまた異なる大陸からの征服者と争い、破れている。
おそらくラテンアメリカが粗野で文明的にはやや遅れていると私達が思っているのは、このヨーロッパやアメリカからの侵略とそれに対する屈服、勝てば官軍なら負けるのは悪人であるから、負けたラテンアメリカは悪くて劣っているという認識が蔓延したせいではなかろうか。

ラテンアメリカの文学はそういった意味では剣呑である。高低差があり、その差が苦い記憶と暗い気持ちを生み出している。
一方的な軋轢が弱者を現実的な力で苦しみ、彼らの呻吟する声を汲み取って文字にした、そんな趣きがある。だからどの物語も血と死で彩られている。
ところがどの物語をとっても単純でわかりやすい恨み節担っていないのが面白い、そして病的でもある。
殴られ続ける子供がこれが日常だと思いこむように、ラテンアメリカの人々は闘いそして奪われることにある意味慣れてしまった。大丈夫というのではない。ただ感覚と感情が麻痺してしまった。
だから彼らは強くたくましくそして悲劇的である。
彼らの日常には常に影がつきまとう。そして文学とは人を書くことだから、筆の先がその暗い歴史と感情を掘り起こすのだろう。

別に彼らの歴史は血にまみれており、今もその苦しみは終わらない、彼らは可愛そうな人たち、というのではなく。すでにその時期はとっくに過ぎており、例えば南米の死者の日とかで楽しそうに笑っている彼ら一人ひとりが苦しい歴史を持っていて、それでも笑ったり泣いたりしているのである。
彼らがねじれているとしたらそれはもう長い間に起きたことの結果であり、良くも悪くも彼らの一分になってしまっていて、私の目からするとそれはなんだかとても不思議で、こんな言い方を許してほしいのだが面白くも写ってしまう。