2019年12月8日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集3

2008年から2018年の間に発表された怪談を集めた、平成を怪奇小説という視点で切り取るアンソロジーのラスト一冊。

①京極夏彦「成人」
②高原英理「グレー・グレー」
③大濱普美子「盂蘭盆会」
④木内昇「こおろぎ橋」(※「こおろぎ」は「虫」偏に「車」)
⑤有栖川有栖「天神坂」
⑥高橋克彦「さるの湯」
⑦恒川光太郎「風天孔参り」
⑧小野不由美「雨の鈴」
⑨藤野可織「アイデンティティ」
⑩小島水青「江の島心中」
⑪舞城王太郎「深夜百太郎(十四太郎、十六太郎、三十六太郎)」
⑫諏訪哲史「修那羅(しよなら)」
⑬宇佐美まこと「みどりの吐息」
⑭黒史郎「海にまつわるもの」
⑮澤村伊智「鬼のうみたりければ」

記憶にいまだ新しい311、東日本大震災が起きたのは2011年。
この未曾有の大災害がどのくらい影響したのかはわからないが、怪奇小説では怪談の復権が起こったということをこの本で認識した。

このアンソロジーの1冊目は恐怖の対象は隣りにいる他者だった。彼らが本当は何を考えているのかわからなかった。愛情があるからこそ怖くなった。
2冊めは内省の時代。バブル時代が終焉を迎え、社会的な軋みが現実的な問題となって表れ不安を感じた人々は深く内省的に自己探求に潜り込んでいた。
この3冊めでは理不尽な天災と露呈した認識や対応の甘さによる人災により、多くの人が深刻なダメージを負った。家と街が壊れ、そして大切な人がいなくなった。
昨日まで元気だったあの人(たち)が今日はもういない。その途方も無い過酷さ、理不尽さを日本人は平成の世で再認識した。

この最後の本では明確に非日常、怪異、特に幽霊がはっきりと出てくる物語が多い。
そしてその幽霊や異形たちにははっきりと個性がある。
つまり生者が死を経験して死者になる。そして幽霊になるのである。
幽霊譚はミステリ小説に似ているところがある。
異常があり、調べてみると彼や彼女がなぜ死んで、なぜ成仏しきれずに恨みを持っているかがわかるからだ。幽霊の正体に迫ることは彼彼女がどう生きたかに肉薄することにほかならない。
典型的な日本の幽霊譚とはだから実は(生きていた)人を描く物語でもある。

今平成の終わりに親しい人があっという間に命を奪われる災害があった。
ここで怪談がその本来の意義を取り戻し、再び光を当てられたように思う。
理不尽になくなった人々が何を考え、どんな人生を送り、そして死を迎えたのか。
怪談はときに優しくもはや口のなくなった死者に寄り添う。
言葉なく死んでいったものたちをいわばここで代弁しているのだ。
(怪談の時代、すなわち口寄せの時代とも言えるかもしれない。)

④⑤⑥の実は死んでいた、という話の組み立て方は非常にわかりやすい。
物語が彼らの人生を紐解き、その無念を汲み取り、成仏させて空に返すのだ。

幽霊ではなくゾンビを扱う②も言葉の通じない死者との交流という意味でやはりこの範疇に属するように思う。

③はまさに生活、生きている人たちの日々を非常に冷徹に描いている。静かな毎日の中にも喜びや正気のほころびがある。人は生きて死ぬ。

①⑪⑭はもっと曖昧。名状しがたい怪異を扱っている。どれも土着の地方臭がつよいこともあって、ここで描かれる怪異は自然そのものを表しているようだ。周りの人間は翻弄されるが、それが何なのかはわからない。回避することもできない。
その探求というのは常に私達の好奇心を掻き立てる。

⑩はちょっと変わっていてこれはゴースト・ストーリーであることは間違いないが、偶然ですれ違いほんの一瞬だけ交差した人生が、幽霊の、つまりかつての生者の人生を描写し得ていない。だから「あの人はなんだったのだろう」という疑問が残り、これがまた妙に切ない。

怪談の復権。
ここでいう怪談とは理不尽への説明であり、代弁である。
死者のためにできることは一つもないので、死者に無念を語らせるのも生きているもののため。
そういう意味ではこの本に収録されている作品の多くが優しい。
今の時代に怪談がそのように人に寄り添うように機能するのは私には大変面白く見える。
すべての怪談がかくあるべきだとは全く思わないが、ただ血みどろにすれば怪談だと考える人がいるとしたら、その人はわかってない。

2019年11月24日日曜日

グレッグ・イーガン/ビット・プレイヤー

久しぶりに読むイーガン。

バリエーションに富んだ作品が収録されている。
面白いのは難民問題をタイムトラベルを絡ませてSF的に書いている「失われた大陸」。面白いネタを選んだ結果、というわけではない。
難民問題の核をむしろタイムトラベルというギミックを使うことで露骨にわかりやすく描いている。ここで強調されるのは具体的には隔絶と孤独感、どこにも所属する事ができない人をどう救うのか?または逆に排除するのかという問題だ。
後書きによるとイーガンは執筆が後回しになるくらい、この問題に熱心に取り組んだそうだ。
非常に効率的な考え方が反映された小説を多く書く人なので(面白いのは彼が書く物語は結果的に非常に感情的なのだが)、この事実は面白かった。

その他はいつものイーガン節。
意識の拡張や変遷が作品の根底にあり(テーマそのものではない)、そこから物語が動き出していく。
資格の拡張、そこから意識と記憶を非人間体への移植(彼は人間でもロボットでもないので周囲との摩擦が生じて物語になる)、さらにジャンプアップしていき(この短編集は日本オリジナルで作品のチョイスと並べ方は非常に巧みだと思う)印象的なのはラスト2つの中編。
はるか未来、どのくらいかというと僕らがもう古代人として伝説的に思い出されるくらいの未来。
肉体を捨てた人類を含めた様々な人種がデジタル情報になって広大な宇宙を行き来する融合世界アマルガムを舞台にした小説群。

肉体を捨てて意識をデジタルに、というアイディア自体はありふれたもので、私達も攻殻機動隊を始めいろいろな作品で慣れ親しんでいる。
多くが肉体を乗り捨てる、不老長寿になるといった考えにとどまっている中、イーガンはその先を進んでいる印象。
精神など肉体のおもちゃに過ぎないというが、逆に言うと肉体の軛から抜け出した精神は自由に選べる肉体、はたまたその肉体自体なくても存在できる意識となってどんどん変容していく。
衣食住、食欲、性欲、睡眠欲といった肉体に起因する”問題”から開放された人間の精神はどんどん現状から変容していく。
肉体的欲求は娯楽や美徳として昇華(消化)されている側面があるため、現代人から見るとモラルや常識が通じないので、イーガンの描く世界が偉くいびつに”非人間的”に見えるかもしれないが、逆にイーガンは人間の本質は精神、というとあれだがデジタル化できるデータだと捉えているわけで、非人間的というのは当たらない。むしろ肉体という制限がなくなったときに残る人間の本質とは?という問題に真摯に取り組んでいるのがイーガンでは?


2019年11月23日土曜日

沼野充義編/ロシア怪談集

物語というのはそれが書かれた土地、時代を反映するものである。もちろん怪談だってそう。これを読めばその土地に暮らす人の生活が、そして何を恐れていたかがわかる。

私はロシアに関してはほとんど無知だ。
学生の頃に読んだドストエフスキー、最近ナボコフの「ロリータ」を読んだっけ?レムはロシアではない。そんなところだ。
この短編集に関しても他のアンソロジーでゴーゴリの「ヴィイ」を読んだことがあるのみ。

怪談にいろいろな形があるが古典に関して言えば出てくるのは、幽霊か化け物である。
これには当然その次代の死生観、さらには信仰と宗教が関わってくる。
世界は今より暗かった。科学の光は田舎に届かず、ランプの照らす僅かな空間の外に何がうごめいているか、わかったものではなかったのだ。

特定の現象、感情、出来事を擬人化する、もしくは言い訳をつけるための怪異だとすると、幽霊や化け物はなにかの比喩であり象徴になる。
つまり記号的な存在なので文字で表現されれば背景が読めるといった寸法だ。
つまり記号であるということは意思伝達のための表現である。

いろいろな土地でキリスト教がその他の宗教を異端として押しつぶして全てを平らかにしてしまったが、もともとどこにだって土着の進行というものはあって、この本を読むとロシアにもそれが息づいていたことがわかる。

ロシア正教というのは教義的にはどう異なるのかわからないが、まず悪魔が出てくる。ルシファーの忠実な部下たちである。
それから有名な話だがロシアには魔女がいる。
瞼が地面まで垂れた鉄の魔物がいる。
それから血を好み、吸うことで仲間を増やす典型的な吸血鬼がいる。
もちろん死にきれずに広大で豪奢な屋敷をさまよう幽霊もいる。
いわば、キリストの威光も海を隔てた向こう側ほど強くなかったようで、様々な怪異が混沌としている。

それから少し時代がさかのぼり、チェーホフ、ソログープあたりになると今度は恐怖の対象が自分たちの外側から内側に遷移してくる。
これはいわば日本でも流行った神経というやつで(本邦では有名な怪談「真景累ヶ淵」というのがある)、自分たちの感覚が狂ったゆえに自然に怪異を見て聞いてしまうというやつ。

ロシアはとにかく広い。そしていろいろな人種やルーツを持つ人がいるから当然摩擦があるわけで、その雑多な摩擦が様々物語を混ぜ込んでいる。
田舎の郷士がキリストを敬いつつも、魔女や怪異を(キリスト教の悪魔という文脈ではなくありのままを)恐れている、という構図からして非常に面白い。
多様性と共存であって、これは一見クリスマスも正月も同じように祝う日本的に見えるけど、実は結構日本の古典的な怪異というのは概ね方が決まっているから、これは間違いなくロシアの特色と言えるのではなかろうか。

2019年11月4日月曜日

チャールズ・L・ハーネス/パラドックス・メン

聞き覚えのない作者だったが、ブライアン・オールディスが推薦していること。そのオールディスの「寄港地のない船」と同じ竹書房から出ていること。翻訳したのが中村融であることという条件が揃えば買わないわけにはいかない。

ジャンルはオールディス曰くワイドスクリーン・バロックということである。というかこのジャンルはこの作品を褒めたいがためにオールディスが作り出したというのだからなおさら読まねばならない。いわば近代SFの一つの里程標的な作品と言えるだろう。
以前にも数冊このジャンルを読んだことがある。
簡単にまとめると時空(宇宙と時間)を舞台に(=ワイドスクリーン)、特殊な能力を持つ主人公(=バロック)が縦横に活劇を繰り広げる、という物語である。
真っ先に思い浮かんだのはむしろこのジャンルでは語られることがない(と思う)ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズ。

この物語の場合主人公であるアラールという男は記憶喪失で自分が一体何物なのか?という謎を追っていくことで物語が進んでいく。
一方私がちょうど思春期の頃、日本ではセカイ系といわれる一連の物語が非常に流行ったことがある。
「新世紀エヴァンゲリオン」以降の、作品名を上げると高橋しんによる「最終兵器彼女」など、どこかで読んだので間違っているかもしれないがとある人(名前は忘れた、東浩紀氏だったような)によると「主人公たちの問題がそのまま世界の命運に紐付いてい」るような作品を指す言葉、ジャンルだったと思う。
ちなみに最近読んだ神永長平の「戦闘妖精雪風」もちょっとこの雰囲気あった。

この「パラドックス・メン」では銀河を舞台に地球の命運をかけた闘いがあり、どうもその鍵を握っているのが主人公とその正体、ということになっているので、個人的にはこの作品、さらにはこの作品を説明するために生まれたワイドスクリーン・バロックという言葉にセカイ系を感じてしまったのである。
この作品「The Paradox Men」(が下の題の「Flight to Yesterday」という名で)発表されたのが1953年なので、もちろん2000年代周辺(雪風は1985年だそうだ)の日本の作品が(もし本当に受けたとすれば)この作品からの流れに影響を受けたのだ。

もちろん結構な差異もあるわけで、この作品のアラールは救世主、あるいはセカイの破壊者たる自覚を持って積極的に戦線に参加していくわけではない。むしろ巻き込まれ型の主人公を地で行く、追われる中で戦い、そして真相に近づいていく。(こういう物語の運び方はハリウッド的)
いわば主人公の自意識が超拡大して物語、つまり作品の中の時空を覆っていないわけで、あの「セカイ系」に特有の青臭さというはまったくない。
「パラドックス・メン」では時間を3次元に追加するもう一次元捉える4次元論が展開されるあたり、かなりまっとうなサイエンス・フィクションである。

ただこういうワイドスクリーン・バロックが、コードウェイナー・スミスによる一連の単語とキャラクターの世界と融合し、独自に飲み込み、ある部分を拡大解釈して生まれたのが「新世紀エヴァンゲリオン」(作中の人類補完計画はスミスの「人類保管機構」からとった、またスミスの作品に出ている猫少女ク・メルは日本でオタク流に解釈されたとか)などの日本の創作群だったらと考える。
そういった「線」を感じさせる作品なので、今読むのは非常に面白い。

2019年10月27日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集2

平成というすでに過ぎ去った時代を怪談という切り口で捉えようとする試み。
冒頭を飾る前作で時代性というものをたしかに私は感じ取ったのだった。
二冊目のラインナップは下記の通り。

①小川洋子「匂いの収集」
②飯田茂実「一文物語集(244~255)」
③鈴木光司「空に浮かぶ棺」
④牧野修「グノーシス心中」
⑤津原泰水「水牛群」
⑥福澤徹三「厠牡丹」
⑦川上弘美「海馬」
⑧岩井志麻子「乞食(ほいと)柱」
⑨朱川湊人「トカビの夜」
⑩恩田陸「蛇と虹」
⑪浅田次郎「お狐様の話」
⑫森見登美彦「水神」
⑬光原百合「帰去来の井戸」
⑭綾辻行人「六山の夜」
⑮我妻俊樹「歌舞伎」
⑯勝山海百合「軍馬の帰還」
⑰田辺青蛙「芙蓉蟹」
⑱山白朝子「鳥とファフロッキーズ現象について」

確実に作品の趣が1と変わってきている。
時系列で作品を収録しているから平成という中でも意識の流れに変遷がある事がわかる。
前回の感想でも書いたけど、前作収録作品が書かれた(性格には世に出た)平成初期には確実に親しい他人、家族や恋人が大いなる謎であり、その感情はふとしたきっかけで恐怖に変わることが、あったはずだ。そのぼんやりとした不安を怪奇小説に消化している作品がいくつか見受けられた。
ところが時代がかわってこの短編集だとそのたぐいのものはないかな。強いて言えば①は恋人がわからない、という要素はあるけれどもどちらかというと不穏な伏線が落とし穴のような恐怖に落ち込む典型的に落ちが聞いた怪談といえる。

どちらかというと私が感じたのは自己の内部に踏み込んでいく作品が多いこと。
平成中期は他者から離れて自己に向き合う、いわば精神病的な時代だった。
現実とのギャップが心身に軋みを生み出し日常生活に支障が出る。自己と深く向き合う中で本当の自分、または新しい自分に出会い、問題の解決に一歩踏み出す、というような。
浮世離れした少年が預言者のような男にであり、本来の自分を見出していく④、アルコール中毒になり会社と社会から脱落した男が非現実で闘争し治癒に向かう⑤、忌み嫌う父親の血が自分の中に流れていることを自覚し、そして同一化していく⑥、ぼんやりと霞がかかった日常を生きる女が本来の荒々しい自分を取り戻す⑦までが、そういった流れになっていて非常に興味深い。私小説的になりがちなこういう物語で、暗いおとぎ話のような鈍い光を放っている⑦は特に好きだ。

一方で怪談が現代に息を吹き返して豊穣な花を咲かせたのも平成中期だったのかと。
平成を代表する怪談の一つ「リング」シリーズのスピンオフである③、「ぼっけえきょうてえ」の作者の田舎の土着ホラー⑧、大阪の下町を舞台にした近代ノスタルジックホラーの⑨、人と神の交わり、そして神の摂理の前に人間としてただただ呆然とするしかない⑪と⑫などなど。題材としては古典的と言っても良い恐怖の要素を現代という、怪談が成立しにくい明るい舞台装置の中で見事に復活させていて、どれも面白い。
特に浅田次郎は「鉄道員」などだけ読んで良くも悪くも読みやすい本を書く人だと思っていたが、実は全然違った。こんなに美しい文体を書けるとは。なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。怪奇小説の短編集があるということで必ず読む。

世の中が電気と知識の敷衍によって便利になっていき、幽霊たちの居場所はなくなるようだが、この本を読むと恐怖という感情は普遍的で現代平成の世になってもちっとも減じていないようである。

マイケル・フィーゲル/ブラックバード

誘拐事件や監禁事件の際に加害者と被害者に特異な関係が築かれることがある。
一種の共存関係が結ばれるわけだ。ストックホルム症候群という名称で知られるこの概念はフィクションでの登場頻度は高いのではないか。

この物語は一人職業テロリスト(本来の思想的テロリストと区別するために私が勝手に作った言葉です。)が犯行現場で女の子を拾ったところから物語が始まる。
禁断の関係がドラマティックに物語を盛り上げるように、この小説も恋愛小説といえる。
誘拐犯と被害者、そして父親と女の子と、二重の意味で禁断の関係が描かれている。
恋愛では互いに秘密を共有することで関係性が深まるという。
罪の感情というのはとっておきの秘密であり、これを時期に展開する物語は非常にロマンティックだと言える。

被害者に生じるストックホルム症候群は一種の防衛機制で圧倒的な力関係の中でサバイブするための術である。
一方で共依存という関係があって、これは不健全な関係で二者がそれぞれの役割にハマって依存すること。ときにはこれは自分によって良くない自覚があってもその関係から抜け出すことができないとか。
職業テロリストなもので終日さらってきた女の子を見張っているわけには行かない。
女の子の方はやろうと思えば逃げ出せる環境で色々な理由をつけて結局誘拐犯の男から逃げることをしない。男は自分を間接的に殺そうとしたのにである。
不幸な家庭に育ったこともありどこにも居場所がないのが一つ、テロリストに鍛え上げられて殺人を犯した今帰りにくいのが一つ、男と奇妙な関係になっているのが一つ。
だが実際には新しい生活を始めるのが怖い、もっと素直に言えば生活スタイルを変えるのが文字通り(テロリストであり、組織からも追われているので)死ぬほど面倒くさいのだ。ブラック企業からなかなか退職できない社畜みたいなもんだ。忙しくて時間ないし、まともなスキルもないしといっている間にズルズル時間が立ち更にやめにくくなる。

面白いことに誘拐した男の方も同じである。
幼いときに否応なしにこの業界に突っ込まれ、中年を迎えるまで他の生き方を知らないのだ。彼が女の子を拾ったのは寂しかったからである。互いに食い合う裏社会で信頼できる仲間が欲しかった。(この恋愛小説がある観点ではずっと片思いなのは面白い。)
彼は組織を抜けたあとも殺し屋以外の生き方を模索しようとはしていない。

この本にはカタルシスがないのは意図的なのだろうかと考える。
フィクションとして殺し屋の追われ命を狙われる生活も楽しそうには書かれていない。
断片的な男の日記をたどっていく少女の旅路だが、しかし殺し屋のくせによく寝る男の本質も特別ニヒルでもない(故に私は好感が持てた)、つまり冴えない男であり(これは本書の帯にも退屈なという形容詞で表現されている)、そんな男を追う少女の姿はなかなか納得できないものがあるが、その他人には理解不能な情熱が恋なのだろうかな?と思った。

2019年10月15日火曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集1

題名の通り終わりを告げた平成という時代に世に出た日本のホラー小説を集めたアンソロジー。
過去の偉大なアンソロジーに対する敬意とその衣鉢を継ごうという意思を感じる一冊。
平井呈一が翻訳した小説を集めたアンソロジー「幽霊島」を読んで再燃したホラー熱で購入。というのも私はあまり日本の最近の作家の小説を熱心に読んでいるわけではないから。

収録作は下記の通り。
①「ある体験」吉本ばなな
②「墓碑銘〈新宿〉」菊地秀行
③「光堂」赤江瀑
④「角の家」日影丈吉
⑤「お供え」吉田知子
⑥「命日」小池真理子
⑦「正月女」坂東眞砂子
⑧「百物語」北村薫
⑨「文月の使者」皆川博子
⑩「千日手」松浦寿輝
⑪「家──魔象」霜島ケイ
⑫「静かな黄昏の国」篠田節子
⑬「抱きあい心中」夢枕獏
⑭「すみだ川」加門七海
⑮「布団部屋」宮部みゆき

この本は明確に収録作に指向性があるわけで、なにか訴えたいことがある。もしくはまとめて読むことに意味がある。
怪奇な物語、という側面から一つの時代を切り取ってみようという試みであることは間違いない。
時代性という言葉がなにか、というのは最近考えるのだが、一つに時代性を抽出することで比較検討ができるというのがある。
恐怖(とそれを嗜好する趣味)は普遍的な感情だが、流行り廃りだけでなく物語にはそれが書かれた時代が反映されている。
ここでは「平成」のそして「日本」という時空が抽出されている。

収録作を読んで思ったのが、人間、つまり他者との関係性がそのまま怖い話になり得るなということ。
独断で収録作を対人関係に起因する物語だと感じたのは①②⑦か。どれも超自然に片足は突っ込んでいるが、幽霊譚や怪談というのはちょっと違う。どれも怪異の発生源は明確に実在する具体的な人間関係だ。
電力が行き渡り明るくなった世界に、暗がりで生きるモノたちの居場所が亡くなったのもそうだろう(幽霊がリアルではなくなった、説得力が減じた)。
(また穿ってみれば現代人の比喩が下手になったとも言えるかもしれないが、)幽霊は因縁の可視化だとすると恐怖の一つが人間関係であることは昔からそうだが、どうも平成ではいま生きて横にいる親しい人間が恐怖の対象でもあったわけだ。
核家族化から少子化へ、共働きによる労働時間の増加などによる孤立化が生み出した現代なりの恐怖なのかもしれない。知らない、ことが何よりの恐怖になり得るのだから。
④や⑤は隣人に対する恐怖と考えることができるから、この段階を経て、しかしすぐにふっとばしてもう親や恋人が何を考えているのかわからない、と飛躍するのは面白い。ここは日本ならではか?

典型的な怪談もあるが、どれも見事に平成の世に馴染んでいる。
⑧のような短い短編を見るとわかるのだが、どの物語にも怪異を呼び出すための装置が巧妙に配置されている。
というよりは恐怖の本質はいくつかの類型があるが概ね普遍的であり、あとはそれを日常生活になじませる手段が必要だとすれば、各作中に出てくる風俗という点で怪談というフォーマット自体がその都度の時代を色濃く反映しているのも必然というわけだろうか。

⑫などは現代でしか生まれ得ない怪談であり、そういった意味では非常に面白い。私はなんとなく盲目的な科学への信頼は宗教じみていると思っているのだけれど、そういった意味ではSFは未来(と現代)の怪談とも言える。(ここは例えばバラードなんかを引き合いに出すともっと面白そうだ。)

2019年10月6日日曜日

神林長平/戦闘妖精・雪風<改>

作者はひねくれ者なのかちょっと変わった構造になっている小説。
ファースト・コンタクトから30年経ち未だ見知らぬ異星人(どんな姿をしているのか地球人は未だにわかってない)ジャムと戦い続ける地球空軍の話。
読んだことはないが「言葉使い師」という著者もある作者の言葉はある意味では信じていけない。一番わかり易いヒントは主人公に対する描写でとにかく「感情がない非人間的」ことが地の文や会話で強調されるが、実際は正反対の人物造形をしていることがすぐわかる。

本来地を這う人間が空、しかも異星の空で戦闘機で戦うという上と下の構造。これはそれと重なるようにもう一つの階層がある。
それがジャムと人間の関係で実際に相手の姿すらつかめていない地球人がもちろんジャムの下につけている。
作中ではジャムはおそらく機械知性であることが示唆されており、人間とはそもそも体、もしくは媒体と言ってもよいがそれの概念が全く違う。だからお互いにお互いを近くできないのだ。人間が無視されているように感じる、という主人公深井中尉の直感はだから正しい。
敵が機会だから面白いのではなくて、種族が違うのでお互いにわかりあえない、認知できないというのは私が面白いと感じるところ。だから戦争というコミュニーケーションに落ち込んでしまうのは生物的に見て双方ともに共通して愚かである、ということを表している気もする。
この一冊は同じ世界観の物語が連作短編という形で進行するのだが、最後の「スーパーフェニックス」は怪談めいているのだが、実際には上記の媒体の差異による認知のズレを強制的に正そうとする試み、いわばファースト・コンタクトをやり直す、といった趣があってこの本の中でもダントツに面白い。
ぶれていた階層が強制的に重ね合わされる、コネクトされるのだがそこにはやはり違和感しかなくて、これはもう一つの人間の限界を示している。

ある人が何かを造ったときそれを世に出した時点でもう自分のものではなくなってしまうように、人類が作った機械知性ももはや人間の手を離れてしまった。
この先はジャムと手を組んで人間の及び知らぬはるか高みに登ってしまうのだったら、それは面白いなと思う。雪風シリーズはあと2つこのあとに続編が出ているからそれを読めばわかるのだろうけれども。
戦争に人間が必要なのか?とはこの作品によく出てくるワードなのだが、そもそもこれは戦争なのだろうか。はじめから人間は無視されているような気がしてならない。だって飛べないから、というのはあまりに詩的だろうけど。そういう(人間的な)雰囲気も込められている、あくまでも人間の視点で書かれているのが非常に面白い。

2019年9月23日月曜日

A・ブラックウド 他 平井呈一 訳/幽霊島 平井呈一階段翻訳集成

翻訳家平井呈一が翻訳した海外のホラー小説を集めたアンソロジー。
平井呈一といったらなんといってもブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」の翻訳だ。真っ赤な表紙のあの本。それから明らかにドラキュラに対応した真っ青な表紙のレ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を読んだ学生時代。アーサー・マッケンの「怪奇クラブ」。それから猫が表紙に書いてある平井呈一自身が書いた「真夜中の檻」も読んだ。

そんなわけで若干のノスタルジーもあって手にとったこの本、ごくたまにある面白すぎて読みすすめるのがもったいない、という気持ちを味わえる良い本だった。
中でも心底震えたのがF・マリオン・クロフォードの手による「死骨の咲顔」。まさに鬼気迫るこの怖さはなんだろうと思ったら、齢100歳の幽霊屋敷に使えるおばあさんの口調だった。まるで金田一耕助シリーズに出てくるようなおばあちゃん口調なのだ。年振り、少しなまっているような、半ば死んだ言葉たち。もちろん原著は英語で書いてあるわけだから、(単語のチョイスはあるだろうが)訳者である平井が言葉を当てはめ、補いこの雰囲気を作っているのである。
ここに平井呈一の凄みを感じたわけで、つまり英語をそのまま翻訳しても堅い文章にしかならない。例えば現代ならGoogle翻訳にかけたような少し奇妙な日本語である。これに意識というフィルターを掛け、意訳の工程を経て硬かった文を柔らかく、違和感なくしていくのが翻訳者の仕事だろうか。
それだとしたら時代背景や小説の設定、それから読者のことを慮って更に言葉を選んでいくのが翻訳家平井呈一の腕なわけだ。
もちろん原文からの距離は離れるから、それは批判があるかもしれない。しかし断言してもよいが波の翻訳者が前述の「死骨の咲顔」を翻訳しても絶対にこんなに怖くはならないだろう。
平井呈一は原著を再構築する作家的な側面を持っているといいいたいわけではなく、極めて尖ったどこまでも翻訳者なのである。
彼の目的は唯一つ、原著の面白さを英語を解さない日本人に伝えて怖がらせること。

そう思って読みすすめると付録の生田耕作との対話でやはり翻訳に対する強いこだわりを見せていて、これは非常に納得感があった。
つまりただ訳すだけでは全くだめだと、翻訳者は日本の言葉をとにかくたくさん身につけてないといけない、そしてこの教養を存分に奮って翻訳しないとならない。そういった意味では平井は自身を職人だと考えている。

かねがね思っていたのだが、ラブクラフトの仰々しい文体は現実離れした恐怖や怪異を読者に伝えるための一つのやり口であって、そういった意味では怪異を呼び出す呪文なのだ。平易な文章で恐怖を惹起させる巧みな作者もいるだろうが、やはり凝った文体が生み出す圧倒的な没入感を伴う恐怖というのは他に代えがたい。

ラブクラフトといえばこの本に収録されているのはいわゆるクトゥルー物ではなくて「アウトサイダー」というのも面白くて、つまり平井が考える恐怖が肉体的な恐怖ではなく、考えること、根本的にはその暗がりに何変えたいのしれないモノがいるのではないか?と考える恐怖であることを示している。そういった意味で収録されている作品にははっきりとした共通項があるようである。
こうなるとか怪異自体とそれに影響される人間の認知のゆがみというか揺らぎが、もう一つの恐怖の源泉でもある。

じっとりとした恐怖を味わいたいならこんなにうってつけの一冊もないだろう。

2019年9月16日月曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]3

設定や舞台がはるか未来、別の惑星であっても、その中での極めて短いスパンの個人的な体験を描いている物語が多い。

スペースオペラ的な勇猛果敢な冒険のようなものはなく、どれもひねりが効いている。
説教的とまでは行かないが警告的である。
つまり基本的にどの作品も未来的で先進的でありながら、多分に現実的であり、物語自体が比喩的である。
技術が進歩した未来で人類にとって脅威になりえるのは、攻撃的な異形のエイリアンではなく、どこまでいっても人類の抱える問題である。
未来やまだない技術を扱うのはそれ自体予言と言うよりは、それを使って視点を変えることにある。
つまりすでに発生している現実的な問題、中にはあえて無視されている問題について別の視点でそれを眺めることによって、その危険性を暴露してやろう、という思想・姿勢とそれの実施が、ハーラン・エリスンが私達に提示する危険なヴィジョンである。
新しい問題を広大な宇宙にもとめるというよりは、既知の問題、根源的な問題を宇宙というスクリーンに映し出すというやり口は、どちらかというと内省の動きであって、そういった意味では「インナー・スペース」を提唱して新しい波の旗手となったバラードの短編が収録されているのも頷ける。

エリスンの短編を手にとったことのある人ならわかると思うが、エリスンは弱い人の味方だ。
だからこの本、一連の3冊に含まれている物語はどれも個人的な物語の体裁をとっている。
ときに光の速度を超えて宇宙の果にたどり着けたとしても、変わらない悩みにとらわれる人間、少しも賢くならない人間が書かれている。
こんな作品ばかり集めたのはエリスンで、なぜなら彼はこんな物語が好きで、そしてSF自体を愛する彼はこれらの物語が(人がなんと言おうと)素晴らしい物語だと信じている。
だからこれは襟すんなりの布教なのである。

大言壮語の夢物語が跋扈する文學界に、見たくもない現実を叩きつける聖典といってもそれは正しいだろうが、はちょっと違うものにも思える。
学生自体友人と音楽を進めあったあの時だ。「絶対いいから聞いてみろ」といってニヤニヤした顔でイヤホンを片方差し出してくる、あの雰囲気である。
この本が夜に出てから早~年。一度は本邦で挫折したこのシリーズを、今たしかに懐かしい悪友のような顔をしたエリスン自身からからしかと受け取ったぜ。
(諦めきれずにこの危険なヴィジョンシリーズの全冊発売にこぎつけた日本の関係者の方々に深く感謝。)

2019年9月8日日曜日

ボストン・テラン/その犬の歩むところ

ロードノヴェルだが、物語を動かしていくのは、何かを得ようとする言葉に出来ない若い情熱でも、なにかから逃げようとする恐怖心でもない、一匹の犬である。そしてこれは何かを得ようとする物語でもあり、ときになにかから逃避行でもある。
広大な北アメリカ大陸を切り裂き、その内部に踏み込んでいく現代アメリカの神話だと思った。

複数の教義に向かってモーセよろしく犬がアメリカ大陸を渡っていく。
すべてがそのドグマに向かっているのであり、登場人物たちはそのために配置されている。彼らの喋る言葉、そして地の文体は神話を構成する言葉たちであり、それらは現代の小説のレベルからすると明らかに仰々しい。
ハワード・フィリップス・ラブクラフトが彼の物語に仰々しい文体を持ち込んだのはそれが呪文だったからだ。触腕蠢く怪物たちはいわばそういった呪文なしに顕現し得ない「現実離れし」た存在である。彼の文体は現実と虚構の埋まり難い溝を埋めるための呪文であった。もしくは読み手に対する催眠と言っても良い。
一方テランはこの物語の格を上げるために装飾的な文体を用いる。それは彼(もしくは彼女、テランは覆面作家)が書く作品が素晴らしい物語だからだ。

彼女の描く人物たちは非常に個性的だし、それぞれが十分に人間的である。納得できる行動をするし、髪型や髪の色、語尾に変な癖をつけたり、(面白い黒人のような)明らかに誇張された「わかりやすいキャラクター」ではない。
その上で棘がつまり複雑性がなく、ややのっぺりした人物像系である。複雑な人間性というのがある程度省略されて、主要な人物たちは概ね定まった過去と声質を持っている。
つまり、
過去に悲惨な経験をし、それを悔やんでいる。
過去の悲劇の少なくとも何割かは自分の責任だと思っている。
その自責の念を別の何かで夫妻をゼロにしようと密かに願っている。

主要な登場人物たちをさして彼らが全員根っからの善人だとするのは不十分だ。
彼らは善悪がはっきりと別れており、主人公たち全人は葛藤はある家のように書かれているが、読者の一人としては彼らの迷いを感じ取ることができない。
いざとなったら自分の命を他者のために投げ出す彼らは、私からするとやはりどこかの神話の登場人物たちに見えてしまう。

彼らの見えない顔は実は苦痛に恍惚としているのでは。
彼らの涙や苦痛は私の感情を引き出すには足りない。
というのも彼らへの共感ができないのだ。それは神話の問題というよりは、神話が救おうとしている人物のハードルが高く、私のような卑小で世俗にどっぷり浸かったつまらない男などはその崇高な門の前では門前払いされてしまうからだ。


2019年9月1日日曜日

椎名誠/[北政府]コレクション

読書のはたくさんの楽しみがある。
醍醐味といっていい、その中の一つに「想像す」ることがある。
”街の上空に浮かぶ巨大な宇宙船”という言葉で想像する宇宙船は人によって異なる。
人によってはアダムスキー型、スタートレックに出てくるような金属質だが丸みを帯びたもの、日本のアニメに出てくるような前後に長く数多の砲塔が突き出ているもの、近代的な角度によって色が変わる道の材質でできている流線型。
物語は文字で書かれているからじつは書かれた時点では完成していない。読み手が読んだ時点で完成するからだ。一つの書かれた物語を100人が読めば、100通りの物語、世界、風景、解釈がある。
こう考えると単に物語を読むという以上に、読書という行為が崇高なものに思えていつもゾクゾクする。

椎名誠のSFを読むとこれは読書の本質をついていると思う。
徹底的にぶっきらぼうで愛想がないからだ。世界や人物の過去や未来がほとんどかかれない。なぜなら「生存すること」がいろいろな椎名の物語では目的に吸えられていて、そんな人間や動物たちには今しかないからだ。
いわば説明のない空漠とした世界に、著者は適当な生物、構造物を作り上げてくる。筆を一振りすれば、人間すら捕食する虫と思しきもの、もうひとふりすれば人造の生体機械たちが生まれてくる。いわば神に等しい行為で、まさしく絶対心としてのストーリーメイカーの面目躍如といった趣。
ただ多かれ少なかれこんなことはどの作者(プロでもアマチュアでも)やっている。
ここで活きてくるのが作者・椎名誠の世界の辺境を放浪した実体験である。(あとどうも椎名さんは図鑑を読むのが好きらしいので、紙で得た知識もあるはずだ。)
自分で触った、食った経験がその椎名誠という一人の神であり、ホラ吹き男である作者の放言に妙な説得力を与える。
人造人間つがねの強靭さと危うさ、人を襲う野生の馬のような筒だましの恐怖、誰も実態を知らないが世界に爪痕を残した北政府、そんな見たことも聞いたこともない生物や機構の姿が無愛想な文字を追ってくると不思議に脳裏に浮かんでくる。(これは既存の言葉に頼らず、自分で言葉を生み出しているそのやり方もその力に大いに寄与していると思う。)数々の修羅場をくぐった百舌(もず)の峻厳でしたたかな顔つきもなぜだか想像できるようだ。

全くわからない世界、それを説明もしないが、まるでオーバーハングした長大な絶壁のような物語を書くのが椎名だが、そこには実は確固たる足がかりが用意されている。
これを縁にえっちらおっちら物語の壁を登っていく、そして振り返るとそこにはここでしか見れない絶景がある。

今回この本に収録されている物語は私全部読んだことがある。
でもやっぱり面白い。とてつもなく良い。
これが物語の、読書ん醍醐味だと実感する。

肉体的であるという意味ではアメリカ文学に通じるところがある。
登場人物たちが感傷的でないということは、前述の通り生きることに必死過ぎて余裕がないからだ。(とはいえ弛緩はあって、多く含まれている食事のシーンで表現されている。)
しかしこれを脳筋バカの極めて男性的な物語とは捉えていけない。なぜなら鑑賞はなくても思考があるからだ。
生き残るということは戦いで、それは判断の連続だ。武器を使うことはその一つに過ぎない。
だからこれらの物語の楽しさの一つに戦闘シーンが挙げられるが、それだけがすべてではない。
誤った判断で徹底的に荒廃した世界で手前勝手な判断(結構よく間違っている)でたくましく生きていく、それは非常に無益でそして抜群に面白い。

2019年8月24日土曜日

ドン・ウィンズロウ/ザ・ボーダー

埋められた死体、吊るされた死体、バラバラに刻まれて奇妙なオブジェクトのように積み上げられた死体、切られ並べられた生首たち。メキシコではカルテルと呼ばれる組織が幅を利かせ、警察や国を買収して血で血を洗う抗争を日夜休むことなく繰り広げ、大量の麻薬を北のアメリカ合衆国に運び込んでいる。また同時に移民や犯罪者が大量に国境から合衆国に流出している。
憂慮した第45代アメリカ合衆国大統領はメキシコとの国境に長大な壁を築くことを公約に掲げている。

邪悪な暗黒大陸(と言われる)メキシコで何が起きているのか、それ丁寧に書いたのがこの一連の小説だと思う。
丁寧にとはどういうことか。それはマクロな視点とミクロな視点で麻薬戦争という出来事を書くことだ。

ドン・ウィンズロウは麻薬戦争をその言葉通り戦争と捉え、半世紀以上続くアメリカが取り組んでいる最も長い戦争だと捉える。なぎ倒されるわらのような大量の死を描く一方でなぶり殺しにされる一人の個人を描いてきた。アメリカの警官が拷問されて死ぬ、メキシコのナルコ(麻薬を売る人たち)やシカリオ(カルテルの暗殺者たち)が大量の銃弾を浴びて死ぬ、老人が殺され、子供が橋から投げ落とされ、大学生が焼き殺された。
万単位の死とそれを構成する、一人ひとりの死をつまり、各個人の生きざまを描いてきた。

一つの放たれた銃弾のような男、(この物語の主人公)アート・ケラーははじめは若き捜査官として、その後出世を重ね今作ではアメリカ合衆国麻薬取締局(DEA)の局長としてこの戦いにアメリカ側の兵力として参加してきた。
自分の手を血で汚し、汚職に加担したケラーは麻薬戦争にどっぷり浸かってきた。

そこで彼がみた生まれながらにして邪悪なメキシコ人が神聖なるアメリカを汚染している風景ではなかった。いかにして麻薬が生まれ、それがビジネスになるのか。
直接的な戦争以上に人が死ぬ争いが継続しているのは紛れもない。とんでもない金を生むからだ。貧困から麻薬を作り、貧困から麻薬を売る、そしてアメリカの貧困層が麻薬を買って使う。
汚い金でも金は金ではアメリカの高官ですら買うことができる。

いよいよ善悪の区別がつかなくなってきた。嘘つきの人殺し共に囲まれてケラーは自分が一体何と戦っているのかわからなくなってくる。(自分が嘘つきの人殺しの一人に成り下がったことに失望している。)キリのない殺し合いの連鎖に疲れてくる。誰が本当の悪なのか。
麻薬戦争を描くということはその表面の残酷性を描くだけでは不十分だ。
誰が駒を動かしているのか?
アメリカは本当に被害者でクリーンなのか?
この物語はあくまでも物語だ。この本に書かれていることが全て真実だと信じることは危険だが、私のような門外漢にはルポタージュ的な側面も強いと思う。

壁を作ることのアホらしさには気がついていたが、はっきりと言葉に出来ない違和感を根本を読むことで少しクリアにはできた。
アメリカでは大麻の合法化が進んでいる。
身体に影響がある以上大麻の合法化がいいことしかないというのは嘘だと思う。依存症などの問題は絶対ある。
しかし禁制になっていないだけでタバコや酒だって同じように薬物なのだ。(アメリカには禁酒法というのがあった。結果的にはマフィアが力を得た。)
合法化された州では大麻を楽しむことができる。かつては大麻はナルコたちの主要なビジネスの一つで、そのために一体何人の人間が殺されたのだろうか。
諦めないナルコたちは次の商品を開発し、新商品の一つフェンタニルは国境を超えたアメリカで大量の貧乏人や若者を殺している。(アメリカのラッパーLil Peepはフェンタニルの過剰摂取で亡くなっている。これは現実の話。)

麻薬の合法化を聞くとベスターの「虎よ!虎よ!」というSF小説を思い出す。
巨大すぎる力をあえて民衆にばらまいてしまう主人公。
使い方はみんな次第。規制するのではなくて民衆を信じたのだ。

年を経たケラーは清濁を併せ呑み、そして彼なりの考えを導き出した。
この柔軟さがかれの本当の強さの一つだ。
排除するのではなく向き合っていこうという姿勢。
たしかにこのやり方があっているかどうかはわからない。
しかしもうあまりに血が流れ、そしてそれは止まる気配がない。
善対悪というわかりやすい欺瞞から脱却し、今違う手段を取るべきだという、それは一つの提案である。

この物語を読んで感じるのは怒りだった。第一作「犬の力」からそうだった。
それはケラーのと言ってもよいが、作者のウィンズロウのだ。
ウィンズロウは他の作品でもアメリカに蔓延する麻薬について、アメリカの社会構造を交えて描いている。
買い手があるから売り手がある。かくて市場が完成する。
終わりのない戦いは続く。
ケラーの戦いはひとまずこの物語で終わり。

2019年8月11日日曜日

アンナ・カヴァン/アサイラム・ピース

アンナ・カヴァン、読むのは二冊目。
この本は短編集で、前読んだ長編「氷」とはだいぶ趣が異なる。「氷」が不条理ながらもSFの要素を持っていた(バラードが絶賛した)のに対して、この本に収められた短編にはいずれもその要素はない。一部(「上の世界へ」はSF的な世界観を感じ取れる)を除きどれも日常に根ざした現実的な物語である。
ほぼ女性の一人称「私」が主人公の物語であって、これらは作品であってたとえ、私小説であってもフィクションなのだからそのまま作者の姿を投影しているわけではないのだが、それでもだいぶ生々しい内容になっているように感じられる。

概ね、孤独であり(家族、恋人、友人から話されており、また会社で働いていない)、現実的な問題(裁判などか?)を抱えているが、それ以上の獏としたつまり根拠のない不安とそして罪悪感を抱えており、それが現実世界に対する認知・知覚に変容を発生させている、といった共通した女性像が浮かんでくる。

アンナ・カヴァンは変わった人で世界を転々として育ち、常に不安や抑うつを抱え、ヘロインを常用し(少なくとも使い始めた当初のイギリスでは合法だったらしい)、自分で創作したキャラクターの名前に本名を改名した。
どこにも居場所がない、はっきりしないが確かな不安感があり、別の誰かになりたい、なんとなく前述の主人公の姿に通じるところがある。
なんなら表題作は自身が入院した精神病院をもとに作っているし。彼女の作品と彼女の人生は(どの作家もそうだが彼女の場合は特に)強く結びついている。
書くことは彼女のセラピー、現実に適応しようとする試みだったのかもしれない。(が、最終的に彼女をそれが癒やしきることはなかった。)

どうしても生い立ちなどからヴァージニア・ウルフを思い出してしまう。暗い作風など共通点はあるが、読んでみるとだいぶ印象は異なる。
意識の流れを捉えようとしたウルフの場合は知覚過敏という印象が強い。とにかく敏感な人で通常の生活ですら彼女には刺激が強い。ギラギラ突き刺すように輝く彼女には世界がよく見えず、それをなんとか解き明かそうとしているように見える。

世界が不可解である、生きにくいという部分は共通しているが、カヴァンの場合世界が自分に対して敵意を持っている、とまで思いつめているようだ。自分の痛みには敏感だが、カヴァンは他人に対しては鈍感というかわかりやすくて、他人というのはほぼ彼女にとって敵でしかない。あまり好奇心というのはなくて、世界というのはとにかく怖い。理由はほぼないのだが、なぜだか自分が有罪だと強く信じ、確信している。面白かったのは、はじめ太宰治の「待つ」の女主人公に似ているものなのかなと、つまり何かを待っている、白黒つかない宙ぶらりんの空白が彼女を怖いと思わせているのかと(怖いのは恐ろしい物自体ではなく常にそれを待っているときであるので)。ところが「終わりはそこに」を読むと、残酷な現在という回答が提示された後も彼女の不安は消えないので、これは相当厄介な抑うつ状態である。いわばもう諦めて絶望しているような状態。

一方でウルフに関しては他社は不可解だが、常にその謎を解き明かしたいという探究心がある。彼女にとってはまだ世界は未確定であり、絶望しきっていない物語を提示する。(つまり希望がある分より残酷だと言える。)

一貫して心の弱さが提示されるのだが、しかし一連の「アサイラム・ピース」では無垢な精神薄弱者の危うさと対比して醜悪に自分勝手なパートナーたちが静かにしかし強烈に描かれている。
彼らは残酷な世界からのエージェントで彼女たちを苦しめる敵そのものだ。
殴りようのない、広く巨大で無慈悲な世界を擬人化し、その醜さを描くという意味で、これはアンナ・カヴァンの抵抗なのだ。

2019年7月28日日曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]2

エリスン編集のアンソロジー、分冊版の2冊め。
かつての翻刻での翻訳の試みは1冊目で頓挫したからようやっと陽の目が出たのがこの2冊めから。

前回はSFという括りにとらわれないラディカルな小説が集められている、というようなことを描いたがもちろんもともと一冊の本であるからしてこの本でもその傾向は同じ。
とにかく本当は裏方に回るはずの編集者にして発起人のエリスンが前に出過ぎ、語りまくるのがこの一連の本の魅力でもある。
彼によるとこの本に集められているのはScience Fictionではなく(注意してほしいのだが彼はこの本に収めれている本がいわゆるSFではないとは一度も言っていない)、Speculative Fictionであるということである。
Speculativeというのは「思弁的な」という意味らしい。これを調べてみると経験によらない思考や論理にのみ基づいている様、ということだ。
つまりここでは純粋に思考力もっというと作者の想像力によって書かれている作品が集められており、科学的であることは必須ではないのだ。そこは熱烈な、というよりは熱狂的なSFの支持者であり、過激な思想家であり、そして作者でもあるエリスンなので彼の審美眼に叶う作品には多かれ少なかれ一つの創作文学の分野としてのSFの要素が含まれている。しかしオールドスクールな既成概念や伝統に縛られることなく、自由で挑戦的な作品が選ばれているのは面白い。

ここでいう「危険な」というのは、誰もが見たことのないという意味とほぼ同意である。それは革新的であることと、そして誰もが見たことを否定するようなないものとして扱うようなな内容を含むこともその範疇に入るだろう。前の一冊の冒頭の物語や、今回では奇しくも最後似収録されたデーモン・ナイトの「最後の審判」などはそのカテゴリに入る。要するにキリスト教とその神聖を否定というよりは別の味方からみる(なので悪魔的な小説というのは当たらない)、アメリカではかなり攻撃的な内容になっている。
それは固定概念への挑戦であり、想像の壁を取り払う前進でもある。

もう一つ大きな要素、というか個人的に嬉しいこのアンソロジーの要素は「反体制」だ。ハーラン・エリスンはパンクスなのだ。この激烈なエネルギーを持ったナードの小男はどこの誰より激しいパンクスなのだ。
この本で言えばフィリップ・K・ディック「父祖の進信仰」、ラリイ・ニーヴン「ジグソー・マン」、ポール・アンダーソン「理想郷」はいずれもディストピアを描き(あるいはユートピアを描きそれに疑問を提示する)、そのいずれもが現代の危機や懸念をはらんだ社会問題をそのまま発展させたものである。(この危機意識が思弁的と言えると思う。)
現代への警鐘というと逆に陳腐な表現だが、やはりそこには抜群に面白い小説というオブラートに包まれた批判精神がある。むしろその批判精神こそが面白さの源泉なのだろう。
私はなんせ「「悔い改めよハーレクイン!」とチクタクマンは言った」でエリスンにあっという間に心酔した人間であるから、やはりこのエリスンのエリスンのためのアンソロジーに彼のそういった反骨精神とその優しさが反映されているのを見て取るのは非常に楽しい。

2019年7月21日日曜日

ダシール・ハメット/血の収穫

ハードボイルドというジャンルがあり、この小説を書いたダシール・ハメットがその創始者らしい。そのハメットのはじめての長編がこの本。
読んでみるとたしかにこの本でハードボイルド、ノワール小説というのがもう完全にできあがってしまった感じすらある、

ただ相当ハードで異質であるので、この本を読んで衝撃を受けた人が自分なりのハードボイルドを追求したのだろう。今からすると隔世の感もあるのも事実。

一番面白いのは主人公の造形。ハードボイルドというとソフト帽にトレンチコートに身を包んだ長身の男、無口だがめっぽう腕が立ちかならず事件の渦中にある美女といい感じになる、というような類型が頭に浮かぶのは私だけだろうか。
ところがハメットの主人公私は全然そうではない。おそらくスーツは着て帽子はかぶっているだろうが、100キロ近い巨漢だしそもそも名前がない。ハードボイルドの典型からも離れているが、その上こいつは全く自分というものがないのだ。かなり非人間的なキャラクターである。
もちろん腕っぷしは立つ。更に頭は切れる、切れすぎるほどに切れ、もはや探偵の役割を超えて悪徳の街を一時的にだが自分の手で動かしている。
ところがこいつには個性というものがない。悪徳の街を浄化しようというのは、一応依頼人のリクエストに乗っているがこれは口実に過ぎず(依頼人が徹底的に信用出来ないので)、やられたからやり返すというもの。これは私怨というか怨恨だが、どうもそれより叩かれたら手が出るような反射的なものに感じられる。
「私」は私情がない。自分の過去を話さないのはたしかにハードボイルドだが、「私」の場合は全く過去がなく、この街に来る前にそのままの姿で生まれたかのようだ。
自分がのっぴきならない立場に追い込まれても極めて冷静。自分の正義を信じているわけではない。自分が間違いを犯したかもな、と極めて冷静に一つの可能性としてカウントするだけだ。
こいつには全く気持ちというのがない。何かでブレることもない。

物語には動かし手や説明手が必要だ。狂言回しと言っても良い。外部からきた異端のものである探偵はその役にうってつけだが、例えば事件が終わるまでなんにもしない本邦の金田一耕助とは全く異なり(こっちは探偵小説ではなくミステリーだからジャンルも違うんだけど)、「私」は回すどころではなく自分が物語を動かしていく。
めちゃくちゃ肉体的だが精神がまったくない「私」。
あまりに強すぎて「ありえねー」というキャラクター造形はなんとなく見たことあるような気がするが、この物語の主人公は全く別の意味から衝撃的である。
なんとなくキングのホラー小説(例えば「ニードフル・シングス」のような)にでてくる自治体に不幸と不和を撒き散らしていく悪魔にも通じるところがある。ただ悪魔は人間を堕落させることを至上の喜びとしており、その報酬で動くが、「私」の場合は不自然な反骨心めいたもので動いており、やはり不可解である。

不思議だ不思議だと書いてしまったがこの「血の収穫」とても面白くて、普段本を読まない休日も使ってあっという間に読んでしまった。
多分私の他にも魅力にとりつかれたがなぜを抱えた人がたくさんいて、そんな人達が自分なりの解釈として書き始めたものがハードボイルドというジャンルを作ったのでは、と考えるのは少し面白い。
でもそんな事を考えてしまうほどこの小説は完成されている割に、どこかいびつなのだ。

2019年7月15日月曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]1

アメリカの作家ハーラン・エリスンが編集した伝説的なアンソロジー。
長大ゆえに日本では1983年に3冊に分けて発売されるはずだったが、はじめの1冊だけ出てそのまま中座してしまったいわくつきの本だったが、30年以上経ってようやく完全版としてリリースされる運びになったそう。

「世界の中心で愛を叫んだけもの」をだいぶ前に読んで、昨今短編集「死の鳥」でハーラン・エリスンにハマった私はとりあえず購入。
エリスンは相当エネルギッシュな人らしくいろいろな逸話が残っている。おそらくそれなりに尾ひれもついているのだろうと思うが、とにかく変わった人ではあったのだろう。そんな人が編んだアンソロジーなら面白くないわけがない。この本ではすべての短編にエリスンが温度の高い解説を付けている。

ロボット三原則の生みの親アイザック・アシモフのまえがきから始まるのは良い。とても良い。なるほどね、わかりますってなる。しかし続くラインナップにブライアン・オールディスが入っていることにまずは嬉しくなる。それからロバート・ブロックが入っている。彼は映画化もされた「サイコ」が有名だが、なんといってもラブクラフトの年若い友人であり愛弟子でもある。これはと思うのは私だけではないと思う。

この本ははじめの三分の一であるが、まず言えるのは一風変わった審美眼で収録作品が選ばれているということだ。フィリップ・ホセ・ファーマーの作品を読めばその序盤のどぎつさに呆れてしまうだろう。かなりどぎつい。
まえがきに続くエリスンが気炎を履きまくる序文を読めば彼がこの本に、もっと視線を広げてSFに対してどんな気持ちを抱いているかわかるだろう。彼はSF作家であると同時に極めて熱心なSFファン、フリークなのだ。それも相当ラディカルな。彼なりのSFがあり、それを追求し、集め、そして時にはなだめすかしたり、脅しをかけたりしてそんな作品を書かせたりする。それがエリスンなのだ。タイトルに「危険な」という文字が含まれるのは非常に納得感がある。当たり障りのない名作を集めたアンソロジーとは明確に違うのである。

科学による神殺しと人間の傲慢さを描いたレスター・デル・レイの「夕べの祈り」から始まり、どれもひねくれた作品が並んでいる。
フレデリック・ポールの「火星人が来た日の翌日」も異星人とのファーストコンタクトという劇的な出来事の背後にある、通常描かれることのない人の営みを描いているという点で興味深い。
いわばSFにてしても王道に対するカウンターとしての側面がある作品が集められているように感じる。それはオーソリティに対する純粋で冷静な疑問であり、反体制的という点で「危険」なのである。

2019年7月7日日曜日

野谷文昭編訳/20世紀ラテンアメリカ短編集

最近アメリカ文学にハマっていたが、このときのアメリカは北アメリカ大陸のことを指した。
国は違えどアメリカ大陸には南があるわけで、こちらの方は私は未開の土地である。
ボルヘスを数冊、ガルシア・マルケスを数冊、あとはアンソロジーを1冊くらいか。

北と南、私はいずれも行ったことがないが隣り合う両者に格差があるのは確かだ。
経済的な観点で言えば北が高く、南側の人間が北に行くには制限がある。(10年以上前に北アメリカに留学していた友人に聞いた。)
イメージで言えば南は粗野でメキシコは終わりのない麻薬戦争に疲弊している。
要するにゴシップ的な知識のみで、肝心な文化がわからないのだ。
旅慣れない私はこの本を手にとった。

編者はいくつかのテーマを作り、それに区分けする形で物語を紹介している。それによってなるべく万遍なくラテンアメリカの文学を紹介しようという試みだろうと思う。その為非常にバリエーションに富む内容になっている。

ラテンアメリカは広大だ。決して目に見えない国境線で区切られ、多数の異なる文化を持つものが住んでいる。彼らは互いに争い、そしてまた異なる大陸からの征服者と争い、破れている。
おそらくラテンアメリカが粗野で文明的にはやや遅れていると私達が思っているのは、このヨーロッパやアメリカからの侵略とそれに対する屈服、勝てば官軍なら負けるのは悪人であるから、負けたラテンアメリカは悪くて劣っているという認識が蔓延したせいではなかろうか。

ラテンアメリカの文学はそういった意味では剣呑である。高低差があり、その差が苦い記憶と暗い気持ちを生み出している。
一方的な軋轢が弱者を現実的な力で苦しみ、彼らの呻吟する声を汲み取って文字にした、そんな趣きがある。だからどの物語も血と死で彩られている。
ところがどの物語をとっても単純でわかりやすい恨み節担っていないのが面白い、そして病的でもある。
殴られ続ける子供がこれが日常だと思いこむように、ラテンアメリカの人々は闘いそして奪われることにある意味慣れてしまった。大丈夫というのではない。ただ感覚と感情が麻痺してしまった。
だから彼らは強くたくましくそして悲劇的である。
彼らの日常には常に影がつきまとう。そして文学とは人を書くことだから、筆の先がその暗い歴史と感情を掘り起こすのだろう。

別に彼らの歴史は血にまみれており、今もその苦しみは終わらない、彼らは可愛そうな人たち、というのではなく。すでにその時期はとっくに過ぎており、例えば南米の死者の日とかで楽しそうに笑っている彼ら一人ひとりが苦しい歴史を持っていて、それでも笑ったり泣いたりしているのである。
彼らがねじれているとしたらそれはもう長い間に起きたことの結果であり、良くも悪くも彼らの一分になってしまっていて、私の目からするとそれはなんだかとても不思議で、こんな言い方を許してほしいのだが面白くも写ってしまう。

2019年6月23日日曜日

トルーマン・カポーティ/遠い声 遠い部屋

「冷血」が面白かったので2冊めに手にとったのはこの本。
あちらはノンフィクション、こちらはフィクションだから趣が異なるのは当たり前だが、最近もっぱら読んでいるアメリカ文学という文脈でもなかなか奇異な本だった。

ヘミングウェイの「老人と海」のあとがきでアメリカは歴史がないのでその文学というのはヨーロッパのそれとは大きな隔たりがあると書いてあった。具体的には歴史がない、奥行きが無いためその文体は必然的に肉体的に、(その人が言うには)浅薄になるそうだ。
確かにアメリカ文学では肉体的な動作が強調される。自分はそこを短所とは思わず、むしろ長所だと思っている。
ところがこの本は肉体的な動きは最低限に抑えられ、舞台装置も含めてイギリスのゴシックめいた雰囲気がある。動きがない割に重々しく、そして多分に観念的である。
ニューオーリンズに近いアメリカ南部という、まさにアメリカ文学会のど真ん中を舞台にしているのだが。

親類をたらい回しにされているがゆえに精神的に早熟、しかし都会ぐらいゆえに肉体的には脆い線の細い、頭でっかちな男の子が主人公。
彼が一度もあったことのない父親に招かれたのはアメリカ南部の田舎町の、更に郊外にある崩壊しつつある奇妙な屋敷である。
ここは異界で、そしてタイムマシンでもある。
ここでは時空が捻じ曲がっていて主人公は未来の自分に合う。
完全に私の解釈だが、暇を持てあまし、人生に倦んでおり、頭の良さがむしろ健康的な生活の足かせになっている、弁が立つが人嫌い、手先が器用で芸術に対する造詣が深い、才能はあるがやる気や野心とは無縁な、豊富な知識と独特の諧謔をもちあわせたランドルフ。この妙に丸っこいフォルムのこの男、その見た目もあって私にはカポーティ自身に思えてしまうのである。(ちなみにカポーティ自身がランドルフには彼自身ではない二人のモデルがいると公言している。)
早熟だがもやしっ子の主人公ジョエルは、もちろん複雑な環境で育ったカポーティである。
これから人生が広がっていく少年と、彼の悲しい末路である中年が異界で出会う。
これは輝かしい未来の否定であり、少年からすれば失敗の運命の暗示である。

異様な舞台を盛り上げるように出てくる登場人物たちは変人ばかり。個性は強いが全員共通してそれぞれの悲哀がある。人生の蹉跌があり、一筋縄ではいかない複雑な性格をしている。
アメリカ文学で重要な、労働、勤勉、悪とそれに対する正義、義憤などといったものは殆ど出てこないが、アメリカ南部ということもあって生命力は異常にある。
ゴシックの雰囲気ただようが、妙な粗雑さもあって、それが野蛮な魔術めいた圧力で、例えば劇中で言及される強すぎる太陽のように複雑な心情の層をぐいぐい押し付けている。
妙なものがたくさん配置されている。そして後半は幽霊屋敷に慣れた主人公の思いが縦横に広がっていく。(押されていた分浮き上がっていく。)
しかし騙されていはいけない。この本には不思議な事は書いていない。どこまでも現実の悲哀を書いているのである。原因があり、そして結果があるこの世界はときに空想より残酷である。
そういった意味ではやはりどこまで行ってもアメリカ文学か。
後半、自分=父親なのかとも思ったが、やはりそんな陳腐な展開はなかった。

すべての試みが失敗しており、そういった意味では陰鬱な物語だが、ラストのジョエルの決心が切なくも心強い。それは過酷な人生に対峙する決心。
アメリカ南部の、廃墟のような屋敷、荒れ放題の庭に佇む少年は異常に色の濃い光の中で影法師のようになっている。
それは人を感動させる。

2019年6月15日土曜日

スタインベック/ハツカネズミと人間

荒野で凸凹コンビが出会ったらどうなるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。

誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。

私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。

この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。

天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。

スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。

私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。

この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。

マーク・トウェイン/ハックルベリイ・フィンの冒険

アメリカ文学界にそびえ立つ記念碑的な作品。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。

前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。

一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。

保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。

マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。

ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。

ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。

黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。

徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。

2019年5月25日土曜日

アシュラ

嫌な映画である。
ノワールというのは権謀術数、裏切り渦巻くどろどろした世界だが、最後は結局暴力がモノを言うわかりやすいジャンルでもある。
しかしこの映画はどうもすっきりしない。

結論から言うと登場人物が全員嫌な奴だから、ということになると思う。

「全員悪人」というキャッチコピーが非常に印象的な北野武監督の一連の「アウトレイジ」シリーズ。
たしかに凄惨であるし、登場人物全員が悪人だけあってどいつもこいつもろくでなしばかりである。
北野武の美学に則ったラストもいかにも虚無的だ。
しかし不思議と見た後はスッキリする。

映画というのはたいてい登場人物に感情移入してみるものだ。
そうなると俄然物語に興味が出てくる。
身近に感じられてリアルに思えてくる。
手に汗握る。

「アシュラ」でもそのプロセスは起こるわけだが、こちらの映画は登場人物が全員クズなのである。
クズと悪人はちょっと違う。
北野武の描くキャラクターたちは近寄りがたい暴力的な男ばかりだが、どこか愛嬌がある。
会話や仕草に愛嬌と笑いがある。
北野武自身が芸人であることに結びつけるのはいささか短絡的で、たいていどんなノワールでもそんな共感しやすい、というよりは応援しやすいスキが作られている。
もしくは悪いが格好いいのだ。

「アシュラ」の登場人物たちにはそれがない。
主人公はうまく立ち回っているふうだが、実際にはかなりドジを踏んでいるし、病気の女房を看病しながらも浮気はしている。
すぐにカッとなって後先考えずに行動する。
ガキ扱いしていた後輩が上司に気に入られているのが気に食わない。嫉妬する。

悪辣な男パク市長はサイコパスである。
こういうキャラクターは大抵サディストのように書かれることが多い役柄だが、この映画はそんなキャッチーなことはしない。
単に権力と金にとりつかれた汚い男である。
イカれているが魅力的ではないのだ。

検察側のキムも一見寡黙でできる男を装っているが、いざとなると頼りにならない。
情けない。

みんな欲望が人一倍強いわりに、痛がりですぐに保身に走る。
かっこよくない。

ここで描かれているのは確かに邪悪だが、それはフィクションにありがちなロマンティックな狂気ではない。(この言葉は春日武彦さんの本の名前から拝借した。)
私達が抱くありふれた、小心な欲望から生まれた狂気なのだ。
これは見ても面白くない。
むしろ自分が心中密かに抱えている欲望を見せつけられているようで気分が悪い。

かっこよくないクズがかっこよくないクズと争う。
これはすっきりしない。
大量の血、痛々しい暴力という装置によって緊迫感だけが高まっていくが、ラストのラストまでそれが解消されることなく終わる。

私達全員を糾弾しているわけではなかろうが、暴力とはこんなものだ、と汚物を叩きつけているようでその姿勢に顔をしかめながらもどこか楽しくなってしまうのだ。

何回も見たいような映画ではないが、この作りの底意地の悪さにはゾクゾクした。
よいね。
韓国映画はやっぱりやりすぎで、残酷でとても面白い。

リチャード・ブローティガン/芝生の復讐

ブローティガンは大学生の頃に「西瓜糖の日々」を読んだっけ。
だからもう10年以上前か。内容は殆ど覚えていない。
あちらは長編だったが、この本は短編集。
全部で62個の短編が収録されている。どれもとても短い。ショートショートくらい。

どの短編も日常を切り取ったような語り口で、主に現実的な内容について平明な言葉で書かれている。
しかし日記と言うには唐突で脈絡がないし、かと言って幻想文学と言うには現実的すぎる。絶妙なバランスで書かれていて、しかしどれもがオフビートである。
余計なお世話だと思うが、もっと恋愛もしくはセックスについて触れ、生活臭をなるべくげんじておしゃれに仕立て上げたら、あるいはもっと意味の有りそう(で実はまったくない)もっともらしい言葉を充填すれば、もっと大衆の評価を得たのではと。それだとブローティガンが好きな人はそっぽを向くだろうが。

ものによっては一風変わった世捨て人のボヤキ集みたいな趣があり、仕方なく入った冴えないバーに忘れられた使い込まれたノートを読んでいるような趣である。(実際には日記名ているが、きちんとした文学作品である。こんなにも引き込む日記はない。)

もとはといえばマッカーシーの作品に触れて、そのアメリカ像に拭い去ることのできない血の匂いを嗅ぎつけたのが、私がアメリカ文学にハマった要因の一つだ。
風変わりなビートニクだったブローティガンには暴力性がない。しかし私は書き方としてのアメリカ文学を彼の文章に確かに感じ取った。
アメリカ文学(少なくともその一部)は徹底的に肉体的である。
感情表現より肉体表現が優先される。それは運動であり、現象である。
完全に好みだが、私は人の運動を見て(読んで)その人が何を考えているのか、今どんな心情なのかを想像するのが好きなのである。(直接的に心情を描くのは何故かあまり好きじゃない。)
ブローティガンの短編はどれも幻想というには具体的である。いくらか時代が違うものの私達が送っているのとほぼ同じ生活が書かれている。
オフビートでぶっきらぼう。動きは早くないがそこに書かれているのはちょっとした運動たちである。
人の心情を描き出すのは不可能である。だから絵画や音楽は優れている。なぜならそれは「私は悲しい」という気持ちをそのまま表現することができないからだ。だから別の形態をとってそれを表現しようとする。
一方で人の気持ちは複雑で多層的だから、「私は悲しい」と言葉にすることはたしかに真実だが、それが全てではない。大抵は悲しみ以外の気持ちが含まれているからだ。
心情を言葉にすることはわかりやすさを獲得させるが、同時に多層的な感情を固定化しすぎてしまう。
だからブローティガンはそれを直接書くことを良しとせず、感じた気持ちをそれを感じるに至った運動(=日常の一部)をまるごと書くことにしたのだ。
しかし人は生まれたときから連続しているから、1日の1部を切り取って読ませても書いた人と読む人で感じる気持ちは別物である。
この断絶が文学であり、私にはとても面白い。

最後は拳銃自殺したブローティガン。
この本に書いてある小説の中には思わずにやりとさせられるものも多いが、手放しで明るいものはほぼない。
どれもなんとも言えない憂鬱をその内に含んでいる。
毎日を送ることはできる。しかし常に不可解だ。そんな気持ちは単に読みての心情を投影しているだけだろうか。

生きにくさを感じている人はこの本を読んでみると良いかもしれない。
めくるめくスペクタクルはないし、ときによく意味すらわからないが妙に「なんとなくわかるな」と思うのではないかと思う。

マーク・トウェイン/トム・ソーヤーの冒険

最近はアメリカ文学を好んで読んでいる。
名作は数あれど必ず名前が上がるのがマーク・トウェインの「ハックルベリィ・フィンの冒険」。読んでみるかと思ったのだがこの話には前日譚というべきもう一つの物語があって、それが「トム・ソーヤーの冒険」。
流石に名前くらい走っているが読んだことがなかった。子供向けの冒険小説だと思っていたから、なんとなく子供の頃に読みそびれてそのままである。

読み始めると作者のまえがきで「この物語は子供が主人公で読者も子供を想定しているけど大人も読んでくれよ」って釘を差してくる。
ほうほう、ってページをめくるとたしかに面白かった。

子供の頃学校からの帰路、道路の上に引かれた白線の上を歩いて家に帰った。この線を踏み外すと死ぬからである。
祖父母の家に向かう新幹線の車窓の外、時速200kmで流れ去るその景色。家々の屋根の上には忍者が走って電車を追いかけていた。
子供の頃にはいろいろな法則があった。それは呪いであり、ルールでもあった。また子供同士の共通の言語でもあった。
人気のない校舎には人知を超えた存在が密かに潜み、また特殊な指の組合せはそれらの魔に抗する力を秘めていた。
それらは他愛のない子供の想像力の産物であったが、しかし私はあれ程真に迫り(私達が語り合った虚構はたしかに真実だった)、そして愉快な空想を物心ついて以来したことがない。

この本にはそんな子供の呪いがこれでもかというくらいふんだんに書き込まれている。
土地も、言語も、肌の色も違うが、それでも彼らの会話の一つづつが懐かしい。
たしかにこれは単に子供に向けて作られた話ではない。なぜなら誰しも一度は子供だからだ。つまりこれは私達全員の物語。

普遍的な子供と大人の心理を扱いつつ、時代性も閉じ込めている。
一言で言うならおおらかさだろうか。
トム・ソーヤーはかなり破天荒な少年である。
多分小学校低学年くらいの年頃なんだと思うが、学校には全然行かないし、手の混んだ悪戯をするし、夜の12時位に家を抜け出したりもする。
やたら行方不明になって村の人総動員でトムを探したりもする。
現代なら超問題児で炎上確定だろうが、この時代だと結構大目に見られて暖かく見守られているといった体。
昔は良かったというのではない。概ね技術の進み具合で生活環境とそれに乗っかる社交性が変遷しているからだ。
現代には現代の呪いがあり、現代のトム・ソーヤーがいるはずだ。


2019年5月19日日曜日

ヘミングウェイ/老人と海

ヘミングウェイは学生の頃に何冊か読んだたことがある。
最近はアメリカ文学に興味があるので読んでなかったこの代表作に手を伸ばした次第。

小説というのは省略だと思う。
面白いと思うのはこれは本当にタイトル通りで、おじいさんが小舟で魚を取りに行くだけの話である。ページ数も少ない。

何かを表現するときに割と話が広がっていく(地理的時間的にだったり、人が死んだりして内容的に劇的にする)小説が多くてその”たくさん”の中に人生のなにかを入れ込んだりることが多いと思っていたのだけど、この話は逆にどこまでもスケールを小さくしていくというか、老人の3日間(ほぼ一人きり)を淡々と書いている。つまり通常の手法と違って、何かを付け足して本質を浮かび上がらしていくのではない。研磨して研磨して余計なものを取り除いて、そこにちょっとだけキラリと光る本質を取り出そうとしているのだ。砂金採りに似ているような作り。

もう一つ印象的なのはタイトルで内容的には「老人と魚」になるはずだが実際には海。
これはわかりやすい、というのもサンチャゴおじいさんが何度も行っているように彼にとって魚というのは友達であって、本当ならそんな崇高な奴らを撮って食う権利は人間などにはないのだ。食うために殺すという仏教的な迷いを抱えつつ、人は海に出ていく。
ただ自然に戦いを挑んでいく人間の姿を賛美しているわけではないのだ。
海の上では何一つうまくいかない、そして友人(サンチャゴ曰く兄弟)と命をとしてやり合う、というのはそのまま人生に拡大解釈することができる。
命がけで獲得した成果も姑息なサメが掠め取っていくように、とかくこの世では真剣勝負すら許されないのだった。

翻訳した福田恆存氏のあとがきが大変面白かった。
この人は基本的にアメリカ文学はヨーロッパのそれに比べるとつまらね〜と思っている人で、最近アメリカ文学にハマっている身としては諸手を挙げて酸性とはならないんだけど、言っていることは興味深い。

とにかく肉体で世界にぶつかっていくのがアメリカ文学で、私にはその無骨さが好きだ。世界を拳で制していくという世界観はむしろ嫌いなのだが、登場人物の心情を読みたくないのだ。想像する楽しみがないから。
そこ行くとこういう小説はやっぱり良いなと思う。

2019年5月12日日曜日

鼓直編/ラテンアメリカ怪談集

自宅の小さい部屋の閉じこもる私にとってラテンアメリカは未知の土地である。
メキシコでは麻薬戦争が常態化し、そして人々は死者の日やサンタ・ムエルテに代表されるように死にたいして独特の信仰を持っているとか。
それではキューバでは?ウルグアイでは?
全然わからない。
作家で言えば、ボルヘス、マルシア・ガルケス、バルガス=リョサ、コルタサルくらいか。
そんな私にとっての暗黒大陸であるラテンアメリカの、更に怪談とくれば買わないわけにはいけない。

死者が鬼として起き上がる中国の怪談、古式騒然たる荘厳な屋敷に曰くある幽霊が出現する英国怪異、表情豊かな妖怪たち恨みを持って、または死んだ女の幽霊が人を脅かす本邦の怪談。
どうもラテンアメリカの怪談はこれらとは合致しないようだ。
いわゆる私達の頭の中にあるオールドスクールな「怪談」の範疇に入るのは意外に少なくて、ウルグアイのキローガの「彼方へ」、メキシコの作家フエンテスの手による「トラクトカツィネ」のみだろうか。(これが一番幽霊譚かなと。個人的には抜群に怖く、そして面白い。)

いわゆる幻想文学という範疇に入るような作風の物語が多いが、面白いのは概ねどの話にも「死」の要素が入っている。
死を描くってどういうことだろう?
ただの死はニュースで聞く海の向こうの死と同じだ。痛ましいが数値でしかない。
つまり物語において死を描くというのは生を描くことだ。
わかりやすいのは日本的な幽霊譚で、多くの物語がなぜ彼もしくは彼女が幽霊となったのか、というのを解き明かすことが物語の軸になっている。(「モノノ怪」という非常に優れたアニメを思い出す。)

「断頭遊戯」や「魔法の書」などはそんな死に至る(あるいは至らない)奇妙な、数奇な運命をたどる生を描写していく。
幽霊にしても死後存在し続けるというのは生きている人たちにとっては慰めである。
そこをバツリと断ち切るのがラテンアメリカの死生観なのだろうか。だとしたらだいぶ救いがない。
そういえばこの本には天国や地獄は出てこない。彼らはいまある生だけがすべてであって、死後人間は何も残さずにただ消えると考えているなら非常に面白い。
死の意味が非常に重たくなり、同時に反対の要素である生もまた非常に貴重なものになっていくからだ。

死に侵食されるというのは生が危うくなることで、これは「ジャカランダ」(これは正統派の幻想)、「ミスター・テイラー」(これは風刺だが死が生を制圧している)などで取り扱われている。
「幽霊なんていないさ」しかし、死が確実に人間の性に影響を与えそれを幽霊と呼ぶこともできるかもしれない。「騎兵大佐」はそんな死が擬人化されているようにも読める。

死者たちがひょうきんに出歩いているイメージがなんとなくラテンアメリカにはあったけど、この本を読むとどうもちょっとそうでもないみたいだ。
この未知の土地の文学をもっともっと読んでみたい。

Mateus Asato -LIVE in JAPAN 2019-@下北沢Garden

twitter好きなのは色んな人のおすすめ(音楽、食べ物、絵画、映画、漫画…)を知ることができるからだ。
音楽は自分で掘るのが一番、でも私は人のおすすめを聞くのが好きだ。何故かと言うと興味が広がるからだ。自分の感覚ではスルーしてしまう音楽も、特に興味のある人(友人、知り合い、好きなバンドマン)が勧めているものはその人達なりのフィルータを通して新しい可能性になる。

私の会社の上司は大概頭がおかしいのだが、自身演奏することもあって音楽が好きである。そんな上司がおすすめするのがこのMateus Asatoだった。若干25歳のギタリスト、活動の場はtwitterやyoutubeなど。確実に新しい世代のミュージシャンなのだろう。面白いのは音源がほぼ皆無(コンピレーションに1曲のみ提供したものが流通しているのみ)なのにギターメイカーから彼のシグネイチャーモデルが発売されていること。

私は中学生の頃Sex Machinegunsにハマっていた。初めて買った洋楽のCDはBuckcherryではなくて確かJohn Sykesだったと思う。とはいえほぼほぼテクニカル系の音楽は聞かないできた。一回Nunoの来日を見に行ったことがあるけど、高音がきつい上にこれでもかというくらい弾きまくる(大抵のファンは喜ぶんだろうが、私は「Crave」などどちらかというとNunoのソングライティングの方に惹かれていたのです。)ので途中でちょっとうーむとなってしまった。

たしかに普段聞き慣れないジャンルではある、しかしメタルコアとクラシック音楽、そして日本のフォーク(長渕剛、吉田拓郎など)をこよなく愛する上司が押すくらいなら間違いないだろうということでライブへ。(平日にライブのために会社を抜け出すのは困難を極めるが、上司が一緒だととても安心だということを皆さんはご存知だろうか。)

下北沢のライブハウスには何回か行ったことがあるが、Gardenは初めて。
きれいで私がいつも行くようなライブハウスに比べると大きめ。
客はかなりはいっていて、男性がとても多め。見るからに学生、スーツ姿のサラリーマン、年配の方、バンドマンっぽい雰囲気の人、いろいろなカテゴリが参集していたがなんとなくみんなギターを弾きそう、という雰囲気が共通していて面白い。

やや押してライブがスタート。
以前の来日(上司は2回ともいったらしい)はマテウス本人のみだったが、今回はドラム、ベースとギターのマテウスの三人でバンド編成。(いずれもバカテク。)
この日のマテウスは終始リラックスした感じ。
どうなるもんだろう?という感じだったが始まってみるとこれがとても良かった!
まずは彼の表現力に驚かされる。とてもメロディアスでエモーショナルだ。こんな表現はどんな音楽にも当てはまるから意味がないが、まずこう描いておく。
通常の曲というのはテーマ(サビ)があってそれの前にいくつかの提携のメロディが配置されている。これはポップスもそうだが、メタルだろうがハードコアでもほぼ同じやり方が踏襲されている。ところがマテウスはそうではない。もちろんテーマはあるのだろうが、もっともっと自由に弾く。

(明確に継ぎ目がわからないのでなんとも言えないが)おそらく1曲はかなり長いと思う。例えば5個以下のリフとメインとなるメロディを作ってそれを回していく、というのではない。全部が連続していて、そして同じようなフレーズはあまり出てこない。
相当プログレッシブかというとそんな気がしない。相当テクニカルではある。しかし大仰な感じはまったくない。フレーズ自体が複雑でもリズムがシンプルでこまめに変えていかないからだと思う。

ギターの音色は弱めの歪み、リバーブなどの空間系をほんのちょっとかけるのみでごまかしの聞かないロウ(粗いではなく生々しい)なやつ。
音の粒がとにかくきれいで、雑味が入らない、音量が揃っているというよりは完全にアタックの強弱でコントロールされている、音はのっぺりしていなく、スライドやチョーキングで意図的に揺らされている。粘り気があり、ゆらぎがある。例えるならこうだ。ある晴れた日にお天気雨が降り、窓についた雨粒が流れるのを眺めているような。細かく、小気味の良い音が鈴なりになっている。

ピック弾きと指弾きを流れるように切り替え、単音、コード、カッティング、速弾き、スライド、チョーキング、ハーモニクスを駆使して曲を組み上げていく。(技術的な描写力のなさが歯がゆい。)どれにも固執することがなく、ただ必要だからそこにあるというテクニックだ。それでいて高等技術の博覧会的な要素はまったくない。全ては良い曲のため。

ボーカルが担当していたメロディラインをギターが担当する、または轟音ギターで重々しくもシンプルなメロディを補填するといったポストロック感はなし。
曲によってはかなりロックであり、ロック・ミュージックのギター解釈。それが結果的に典型的なロックの枠を出ている、といった趣。
音はきれいだがBGMとして耳から耳に素通りしていく小奇麗なそれではない。かなり実験的でそして挑戦的だ。

聴いてて思ったのは音楽は数学だ。
私も楽譜はみたことがあるが、オタマジャクシの種類に頓着したことがない。実際には4分音符、8分音符、休符と様々な種類があり、どんな音が鳴るかを示している。
一定の時間という概念、小節で切り取った時間を更に音符が分割していく。
マテウスはここが匠で、小節を自由自在に切り刻んでいく。たとえば小終わりの方でつじつまを合わせるみたいなのはない。音の数が増えたり減ったり、縦横無尽である。これによってメタルののっぺりした速弾きとは異なり、音にうねりが生まれてくる。
マシンみたいに正確ってなぜか芸術の分野ではむしろ侮蔑的に使われることがあるが、確実にそんなことはない。技巧が表現力を表現力が感動を生むのだ。

マテウスは常に良い顔でギターを弾く。よく白目をむいている。気持ち良いのかもしれない。終始楽しげで、そんな彼の人柄がよくよくにじみ出たライブだった。

ちなみに上司は痛く感動し、性的興奮すら覚えたと言っていた。やはりギターを弾く人間は頭がオカシイなと思った。

2019年5月5日日曜日

フォークナー/フォークナー短編集

同じアメリカの南部を描いた短編作品でも、1902年生まれのスタインベックの「朝めし」とフ1897年生まれのォークナーのこの短編集に収録された作品では雲泥の差がある。(二人共にノーベル文学賞を受賞している。)
前者が貧しいながらもアメリカの息を呑む光景の中での、たくましくも優しい人間の絆を美しく描いているのに対して、フォークナーの描く短編はどれも峻厳な景色の中で人間同士が憎み合い、そして時に殺し合う。

コップに半分入れられた水を見て何を思うかが千差万別のように、アメリカの土地と生活を見て、スタインベックとフォークナーは全く異なる感想を抱いたようだ。ただしふたりとも当時のアメリカという土地は生きるには大変厳しい土地だと考えているところは共通している。
苦境に立たされる貧しい者たちの尊厳を描いたスタインベック、一方フォークナーは前任の不在、とくに「サンクチュアリ」を読んで感じたのはフォークナーは悪人以上に平凡な人こそ諸悪の根源である衆愚であり、彼らを憎んでいたのではないかということだ。ここではキリスト教というのは愚か者の大義、つまりいわれのない差別、不正や暴力の言い訳にされている。フォークナーは教会に通っていたのだろうか???

この本には嫉妬に狂って男を殺す夫、執着心から婚約者を殺す女、身持ちの悪い黒人女、黒人にレイプされたと偽証する年増の女、偽証に基づき黒人をリンチして殺す白人男などなど、南部のいやらしさがこれでもかというくらいドロドロ描かれている。
ここでは教会、牧師、神父や聖書が役に立った試しがない。(それらしい描写があったかも怪しい。)

黒人を搾取し、差別し、そして殺す白人と、常に被害者として黒人、という構図でもない。もちろん状況が賢くなることを許さないのだが、学がない黒人の愚かさもフォークナーは克明に描いていく。
彼は一体どんな目でアメリカを見ていたのか???
彼の前では人は肌の色、性別、老若とわずすべてが愚かで救いがない。
死んだ目で米を見ていたのだろうか、いやおそらく違うだろう。自分も骨の髄までそんな南部人であることを否が応でも自覚させられ、その矛盾の中でこれらを生み出したのだ。

アメリカは呪われた土地だ、暴力と死で溢れているというのはいろいろな意味で間違いだ。(少なくともいくらかは間違いだ。)
スタインベックが描いたように美しい光景があったはず。フォークナーもそんな一瞬を必ず目にしたはず、香りを嗅いだはず、舌で味わったはずである。

個人的には言われているほどに「八月の光」のヒロインに陰に対する陽を感じられない。
しかしこの本の「バーベナの匂い」「納屋は燃える」には明らかに陰に対する陽が書かれている。一つは非暴力であり、一つ糾弾だ。
共通しているのは因習、つまり大多数(=衆愚)の法則に対する抵抗であること、自分の頭で考え、それに自分の手足で立ち向かうこと。
2つの小説の中でこのささやかな反乱を起こすのは二人の若者である。これがそのままフォークナーの希望になるだろう。

ザ・フォーリナー

昔12チャンネルでお昼から2時間吹き替え映画を毎日放送していたのを覚えている人は多分私と同じくらいの年齢の方だと思う。
その時分でも新しいとは言えない(おそらく権利費用が安いからだと思うけど)映画をただただ放送していて、小学生の自分は特に長期の休みのときにはよくそれを見ていた。ほぼ毎日かな?近所に友達がいなかったもんで。
で、よく放送されることもあって印象にあるのはジャッキー・チェン主演の映画である。「酔拳」「ポリス・ストーリー」「スパルタンX」などなど。当時の私は手に汗握ってみたし、笑ったものだ。
当時からだいぶ時間が経ち、上記の映画の記憶も全然曖昧なのだが(タイトルごとに区別つかないグチャッとした記憶になってる。)、自分のなかではジャッキー・チェンというのはスターである。いつもちょっとすきがあって、時に情けなかったりするが、正義のために戦う男。

そんなジャッキーが今までとは違う役柄に挑戦ってことで前々から気になっていた「ザ・フォーリナー」を見に行った。これは原作があるそうなのだがあえて読まないことに。

映画の中ではイギリス、ロンドンで中華料理店を営む初老の男になったクワンことジャッキー。テロでたった一人の家族である娘を失ったクワンは犯人探しに乗り出す。
という筋。早々に涙を流し悲しんだあとは、悲しみを封印し、娘を殺された怒りを通り越した無の表情で敵を襲う。とにかく行動が速い。そして呵責がない。手段を選ばず、目的に向かって一直線に愚直に行動する。無表情も相まってサイコパスにも見える。

良かったね。私は贔屓目があるから正当に判断できないかもしれないが、面白かった。
異質なジャッキーもきちんと描けている。彼の持つ非人間性は人間的な感情に基づいているからだ。スイッチのオンオフのようにキャラクターが切り替わるのも特殊部隊の経験が生んだモンスターと言う感じで良かった。
なにより途中で気がつくのだが、実は破滅的な攻めも抑制が効いている。それが彼に陰湿な印象を与え、それがなおさら怖い。
本当の敵以外は不殺を貫く、それも格好いい。はじめの爆破から「これは、イカれてますわ…」と思ってしまうんだけど、そうじゃない。行動からクワンの心理状態と覚悟が読み取れる。そうするとジャッキーの無の表情に対する印象も見ている間に変わってくる。こういうの楽しいよね。
ひょこひょこしたいかにもおじいちゃんぽいあるき方や、強引な割に礼儀正しい態度も示唆的だ。ここらへんの描写はなにより一辺倒でなく、そしてくどくなく簡潔で好きだ。
ジャッキー・アクション(私が今作った言葉)といえばそこら辺に落ちているものを戦闘に利用するってのがあると思うんだけど、今作でもそれは健在。
ジャッキーは明らかに強いのだけれど演技しているときは必死の形相で、今作は特に痛みの描写は結構すごい。ただすかっとするんじゃない、見てて「いてて」ってこっちが顔をしかめてしまう。

復讐劇なのだが、どちらかというとピアーズ・ブロスナン演じる副首相ヘネシーとの対決に焦点を絞っているのが良かった。
ヘネシーは権力、家族、仲間、そして土地に対する由緒を”持っ”ている男らしい男で、外国人で移住してきて慎ましく暮らし、そして今家族を失ったジャッキー演じるクワンとは正反対。
クワンがヘネシーを追い詰めていき、次第に彼の力=持っていたものが剥がれ落ちていく。そしていよいよ対決という構図になる。

敵側の人間はクワンのことを「チャイナ・マン」と呼ぶ。
フォーリナーである彼(ら)は表情が読みにくいし、何考えているかわからない、というところからこの物語が生まれたのかもしれない。
原作者Stephen Leatherはイギリスの方でこの物語の原題は「The Chinaman」。

私が子供の頃はまだIRAのニュースが結構耳に入ってきた。
最近はとんと聞かないような気がしていたのだが、もちろん血で血を洗う抗争があっという間に終わるわけもなく、いまでも続いているのかと思うと暗澹たる気持ちになった。
日常生活を害すテロリズム、破壊行動は嫌なものです。

私達世代、具体的には30〜40代くらいで子供の頃にジャッキー・チェンの映画を見て興奮した方は是非どうぞ。
ちなみにエンディングに流れる主題歌はジャッキー・チェン自らマイクを取って歌ってる。これはホント最高。

2019年4月30日火曜日

DEATHRO TOUR2019 THIRTY-ONE≠ZERO. 『STARDUST MELODY』 RELEASE BASH 1-MAN 2DAYS@下北沢Shlter

私はお昼のライブが結構好きだ。
なんとなく気軽な気持ちで行ける。
というわけでDEATHROのライブへ。
ついこの間まで「デスロー」と読んでしまう(正しくは「デスロ」)ようなにわかである。音源は一個も持ってない。
雨が降ったので自転車NG。
GW時間なのかバスが全然来なくてヤキモキしたが少し押したのでなんとかスタートには間に合った。

DEATHROはもともとAngel O.D.、Cosmic Neuroseというハードコアバンドで活動していたが、2016年にソロとしてキャリアを開始しているそうだ。
お客さんはかなり入っていて、私は前情報がないのでどんな音楽だろうかと思いドキドキしていた。
いよいよライブスタート。

ドラム、ベース、ギターのバックバンドはラフな格好だが、DEATHROさんはバッチリメイクに、上下革で決めてくる。
曲が始まると結構びっくりする。すごくポップだからだ。
早くもなく遅くもないビートで、キラキラしているがわかりやすい(コード感のある)バックに、クリーンのボーカルが乗る。
ハードコア、という感じは微塵もなくAメロ、Bメロ、サビ×2、ギターソロ、(Bメロ、)サビという曲展開。
とにかくメロディアス。
おお、これはポップだ。洗練されている。そして無駄がない。
決して洗練はされていない。しかし垢抜けないのではない、懐かしいのだ。

これは楽曲やPV、見た目など、今の流行とは違う、特定の年代の音楽を意識されているから。具体的には90年台のJ-ROCKということだ。
インタビューを読むと、氷室京介さんやBOØWYやヴィジュアル系バンドの名前が出てくる、なるほど。
個人的にはDEATHROはヴィジュアル系の影響はありつつも、マニアックかつ独特の耽美さというよりは、もっと骨太なロックぽさが強め。
歌が強いんだけど、演奏はただなっているだけで耳に残らない歌謡曲ではない。
面白いなと思ったのはギターで、イントロやギターソロの入りにその曲のサビのラインをほぼそのまま、やや崩して入れている。個人的にはこのやり方が「あ、あの頃!」ってなった。音自体もクリーンに空間系を噛ませてブーストさせて太い、あの感じ。
今やると言葉は悪いんだけどちょっとダサくなってしまう。これはそのものがダサいんじゃなくて今の流行と断絶があるからに過ぎない。
だから変に手法だけ取ればダサいんだけど、DEATHROは全体的に90年台を志向しているから全体的にはすごくしっくりしている。部分的にとってきてリバイバルですよというのじゃない、根本から持ってきて(リスペクトがあるからできることだと思う。)今2019年に新しい音楽を作っている。
ギターのリフはキラキラしていて、反面裏のベースがかなりしっかりしていてリフが格好いい。
ちなみに終演後に気がついたのだが、耳に痛くはまったくないけど結構音は大きかった。

DEATHROはとにかく客を煽っていく。
盛り上げ方がうまくて無理やり乗せるんでない。
「もっと行けるよね」と煽ってくる。決して大きいライブハウスでなくても、すごく大きい会場のようなスケールの大きい煽り方。
観客はDEATHROに引っ張り上げられてどんどんテンションが上っていくような感じだった。
初披露の曲も「シンガロングしてよな」といって笑いを誘うが、実際めちゃくちゃポップなので本当に初回で歌える。すごい。(新曲の「プラスティック(もしくはラスティック)エモーション」という曲はすごく良かった。)

アンコールは丸山さんという女性のピアニストを迎えてのピアノアレンジを挟んで、ラスト2曲で締め。
楽しかった。


情報量が多くてあれこれ考えちゃう。
まずDEATHROさんは時代性を持ったアイドルだなと思った。
時代性というのは大体わかってもらえると思う。90年台のJ-ROCKだ。
でもじゃあ具体的には?ボウイや氷室京介の名前を上げることはできるだろう。でもそれだけじゃないよね。
そう、こういうなにかによく似ている感じ。いざ具体的にその似ている大本を上げるのは実は結構難しい。
なぜかというと「あの頃」は具体的なバンド(やその他なんでもいい)を含めた全体的な雰囲気であることが多いからだ。結構抽象的なんだ。きっとひとりひとり別々の「あの頃」があるはずだ。
みんなの頭、胸のうちにある「あの時(代)」を見事に体現している。
つまりDEATHROは抽象性を汲み取って具体的にこの世界に顕れている。(一つの現象といえますね。)
みんなの思いを具体的にして顕現している、これは偶像、つまりアイドルだなと思ったわけ。

ところがDEATHRO演じているようで演じていない。
スケールの大きいMCも上から目線では全然ないし。
地元県央の日常を歌にしているとのことで、歌詞は地に足ついて現実的だ。(個人的に新曲のもう一つ、歌詞が結構儚かったような気がする。「全部風になって消える」的な。)
こういう部分は現実に立って主張するハードコア由来だろうか。

ライブの雰囲気がとても良い。というのもお客さんが楽しそう。顔見知りも多いのだろう、終演後はみんな口々にライブの感想を言い合ったりしている。
元ハードコアの人ということで、サーフする人もいたし、アンコール最後はフロア前方の密度は相当。でも危険な感じはないし、女性も多かった。
みんな笑顔だ。わかる、初見の私も楽しかったもの。

DEATHROさんが「新しい時代は差別とかがなくなるといい」と言っていてたしかにそうだと思う。
ただ4月30日が5月1日になった途端に世界が変わるわけじゃないから、自分たちが良くしていかないとな、と思いつつ帰宅。

2019年4月21日日曜日

シャーウッド・アンダーソン/ワインズバーグ、オハイオ

いびつな人たちの書。
なるほど奇抜な人、奇矯な人、変人たちが出てくる連作小説だが、この本を読めば彼ら奇態な人たちが、時代と国を隔たった私(たち)と以外にも多くの共通点を持っていることに気がつくだろう。
実にいろいろな人達が出てくる。
子供、大人、老人。男、女。金持ち、貧乏人。既婚者、未婚者。親と子。夫婦。
そしてそのいずれの人間もどこかしらに孤独を抱えている。
これにも種類があり、友人や恋人がいない孤独、それから人がいる故に強調される孤独。

ワインズバーグという架空の町。町というのは人の集まるところ。人と集まろうとする試みが街と言ってもよい。ワインズバーグは小さい町だが、それゆえに都会にはない濃密なコミュニケーションがある。顔見知りも多い。
しかしそんな町であっても各人は程度は違えど孤独であり、そして自分の居場所はここではないという違和感を抱えて生きている。

人混みを嫌い深山の奥に隠遁する人嫌いの孤独ではない。
むしろ近くに人がいるからこそ感じる自分の孤独である。
周りの人たちは楽しそうにしているが自分には友達や恋人、語り合う人がいない。
もしくはようやくそういう人達に出会ったと思ったけど、心が通じ合えず断絶してしまった。

人の中にいる孤独のほうが、一人ぼっちの孤独よりなお悪い。
独りよがりなら希望があるが、その希望が打ち砕かれたのが人の中にいる孤独だからだ。
つまり失敗した希望として孤独であり、その挫折の記憶が脳に刻印され、今でもそれに苛まされている。
具体的には過去の出来事により現在の行動が捻じ曲げられている。
トラウマと言う言葉を持ち出すのは簡単だが、実際にその言葉を使わず力学を説明している。
帰らぬ恋人を待つ女、同性愛者としてリンチされそうになり逃げてきた男、結婚に失敗し最愛の息子ともすれ違う母親、肉欲に悩む牧師。
劇的な響きを持つトラウマと言う言葉の一歩手前、しかし彼らの架空の人生を見れば確実に過去の様々な蹉跌の実際的な力の持ちようを伺うことができる。
人間が学習する生き物なら、間違いなく過去の経験が人間を構成しているのである。

この本での失敗はほとんど他人とうまく関係性を築けないところに端を発している。というかそれ自体が問題か。
そうなると当然多くの人が住みながらどれも噛み合っていないとすれば、町というのが空虚であり、それ自体が皮肉の象徴に落ちてしまいそうだが、本書ではそうではない。
人々の虚しい他人とわかり合おうとする、という試みは常に継続中である。
すれ違ったり、言い争ったり、喧嘩をしたり、憎み合ったりしている。
そのエネルギーが、田舎の景観とあって妙に愛しく感じられるのもまた事実で。
いわば町の喧騒の招待を書いているのがこの物語といっても良いかもしれない。
その背後にあるのは悲しみだ。
でもそれでも人はこうやって儚い試みを続けていくのだ、生きていく限り。

この本には本当に幸せな人は一人も出てこない。
人は誰しも孤独だと作者が言いたかったのか、それとも冒頭に掲げられた「いびつな者たちの書」という言葉の通り、あえてそういう人たちに焦点を絞ったのか。
自分は後者だと思う。どんなときでも楽しめる人がいる一方、必ずしもどんなときでも楽しめない人達がいるはずだ。
そういう人たちはこの本を読んで共感するところがきっと多いだろうと思う。
特大の不幸はないかもしれないが、それ故いびつな者たちを見てその中に確かに自分の一部を見出すことができるだろう。
そういった意味では優しい本である。

2019年4月14日日曜日

山尾悠子/歪み真珠

タイトルの「歪み真珠」とはバロックという言葉の元ネタだそうだ。
バロックというのは「大仰で荘厳な」という漠然としたイメージだったが、どうもそんなわけでもなさそうだ。(私の持つイメージはどうもバロック建築に結びついている。ゴシックをバロックと混同しているような気もする。)

あとがきで歪み真珠とはバロックのことだよと書かれているわけで、本を読んでいるうちはどちらかというとダリの絵のようなシュールさがあるなと思っていた。
さすがに前衛的でどこをどうってもよくわからない、ということはないのだが、作者の各作品にはどれも不可解の要素が入っていて、そこから生まれる(登場人物たち、または読者の)戸惑いが完成されて美しい作品の背景、世界の水面をわずかに(大胆な破局があるわけではない。語り口のせいかもしれないが。)揺らすのだ。その波紋が多分山尾優子さんの小説の面白さだ。

幻想文学、幻想小説だと本当に想像力と言葉の魔術で見ただけではっと息を呑むくらい美しい珠のような物語を作り出す人もいるわけだけど、ここではそうではない。あえてちょっと傷がつけてある。
だから歪み真珠、というのはすごく納得感があるわけだ。読後に「あ、確かに」とひとり呟いてしまうくらい。

その歪みというのは何かとなると、一つには人間臭さがある。
たとえ高尚な世界でも、たとえば世界が延々と続く空洞であっても、そこに可燃物は希少だからという妙にケチ臭い人間心理がふっとでてくる。
魔法のようなどこか別世界。美しい別の法則が支配する異世界であっても、そこに住まう(多くは)人間たちには私達にあるような低俗な五感とハートがあって、なんだか一枚の絵のようにしっくりハマってこないところがある。(一枚の絵から着想を得てなんとも言えない違和感を物語にした「美神の通過」という話も収録されている。)
最終的に神話にならない物語というか。

完成されたあえて世界に泥をつける、いわば反体制の作家というのでは全然ない。
というのも幻想に対する”普通”や”日常”があれば、むしろ幻想の不可解性が顕になるからだ。
そういった意味では日常に怪異が侵食する「ホラー」というジャンルの手法に近いのか。
そういえば「ドロテアの首と銀の皿」は(これ私の頭がこの作品についていかずに単純な解釈をしていることは承知なのだが)怪談に読めなくもない。珍しく説明がつくのも含めてだ。

卑近な要素があるからと言って幻想の醍醐味が損なわれることはなく。
むしろ作品によってはかなり難解だったりするのだが(なかなか想像が追いつかなかったりする)、そんなときは同じく戸惑っている登場人物たちの気持ちで、おっかなびっくり作中を歩けばよいし。
そしてなにより完全に理解はできなくても、それに触れたり、楽しんだりすることができるのは芸術の良いところだ。

フォークナー/サンクチュアリ

この小説は作者が「自分が想像しうる限り最も恐ろしい」と評しているが何が恐ろしいかというと、バランスが悪い。(「八月の光」も正直同様に悪いと思う。)
悪を扱った小説で善悪のバランスが悪く、著しくいずれかに傾いている。
端的に言って正義が敗北するが、しかし正義が敗北するフィクションは巷にあふれているわけで、なぜこの小説だけが恐ろしいのだろう。なぜ読後感がこうもすっきりしないのだろう。

正義が敗北するのは悲劇だ。やるせない。
しかしこの小説ではそれは一つの象徴に過ぎない。
本当に悲劇なのは正義が常に概ね敗北する、その環境自体である。
「サンクチュアリ」は一つの事件を軸にその環境を顕にしようという試みである。

だから真犯人ポパイを排除した後もこの居心地の悪さが続いていく
それはつまり社会の、この世のいびつさの違和感であり、私達は否応なくそれにくるまれている。
ポパイは悪人だが彼はアウトサイダーだ。社会が生み出したモンスターと言うよりは社会に産み落とされた異端児である。
社会を作っているのは誰かというとそれは民衆になる。
あなたと私である。
前科があり、素行が悪いからという理由で(少なくとも殺人に関しては)潔白な男を断罪し、あまつさえ私刑にかける。
確かにこれは言語道断の非道に見えるが、しかしもし似たような事件が起こった場合、無論私刑はしないにしてもあなたは同じように彼の無罪を確信できただろうか?
私はそうは思わない。前科がありまた密売しているなら殺人だってやりかねないと思ってしまうような気がする。
偽証したテンプルも愚かなら、死を目前にして頑なに証言を拒んだグッドウィンも愚かである。実直に真実が無実を証明すると信じていたベンボウも愚かだ。
そして彼らの愚かさは私達みんながもっている愚かさなのだ。

正義の不在を嘆くというよりは、人間の愚かさに絶望している。
そしてその愚かさは治る見込みがないから、この物語は考えうる限り恐ろしい小説なのである。
現代批判だとして、批判したところで改善の見込みがないから。

ポパイという男の存在に騙されてはいけない。
彼は確かに悪人でトリックスターだが、本当の悪は彼ではない。
彼はいわばこの物語の狂言回しで、彼に対する反応で本当の悪=衆愚が暴かれていく。

有罪と信じ無実の男に火をつける男たち。
体面と街の秩序を気にし他人の生活にケチをつける信仰心の厚い女たち。
どいつもこいつも身勝手で主観的、何よりタチが悪いのは自分たちが正しいと信じて疑わないところ。
この間違った正義感、いわば悪を目指す悪ではなく、消極的な悪がホレス・ベンボウが持っていた正義感や親切心を破壊していく。
この世が地獄なら地獄の業火は私達自身がこの身に放ったのだ。
私達はいわば失敗しており、自滅している。

誤認逮捕されたポパイが死んでいくというのはそのまま彼の強運の裏返しであり、
真の悪に対する消極的な悪の完全勝利を表現していて皮肉である。

この世界に対する嫌悪感はベンボウの独白に現れている。

たぶんこういう状況のときに、人は、この世が悪でできていると認めるわけなんだ、結局人間は死ぬものだと認めるんだー頭のなかでは、かつて見たことのある死んだ子供の瞳を思い出し、また他の死人たちのことを考えたーそこでは憤怒も冷えていき、激しい絶望の表情も薄れていき、あとには二個のうつろな眼球が残って、そのなかでは極小の姿となった世界が深いところでじっと漂っているばかりなのだ。

この文から、ここからコーマック・マッカーシーにつながっていくのだと個人的には感じたのだ。
いわば呪われた土地としてのアメリカの物語だ。

2019年4月6日土曜日

スタインベック/スタインベック短編集

「怒りの葡萄」で搾取される農民の姿を強烈に描いたスタインベックの短編集。
「怒りの葡萄」は反体制、半経済主義の性質を持つが、スタインベックがなぜこの話を書いたのかと言うのはこの本を読めば少しは分かるかもしれない。
ここで描かれるのはカリフォリニア州のサリーナス渓谷の暮らしだ。調べてみるとこの地は荒れていて、砂漠の様相を呈しており、今でも未開拓の土地という印象。
ここで生まれ育ったスタインベックはこの土地を愛していたのだろう。そしてここに生きる人々の姿を小説に書いた。

大開拓時代、フロンティア・スピリットとは開拓者精神のこと。切り拓いた土地は自分たちのものになる。だから開拓者たちは必死で働いた。荒野を切り拓いて開墾し、牛と馬を飼いならし、食物を育てた。隙間風の吹く粗末な小屋を打ち立て、そこに寝起きした。ときには蛇蝎や外敵と戦うために武器を手にした。
彼らは強かった。なぜって自分の生活を自分たちの手で文字通り組みてたから。
彼らは寝る間を惜しんで働いたからなるほど学はなかったけど、愚かではなかった。
もちろん政治や経済だって当たり前にあった。
ただ彼らには彼らのルールがあって、それは彼らの自治体に属さない人々からすると古く、埃っぽく汚れていて、不合理で、奇妙に見えるのだ。

農民たち、田舎で原始的な暮らしを営む人々をさして純朴で単純で、そして少し愚かだというのは差別主義である。まず事実として間違っているし、そして彼らの作ったご飯をあなた方(つまり私達)は食べているからである。こんな事を言うと国産のものは高いから国外の食物を食べている、などというのは更に愚の骨頂であって、それは自分はバカで、お高く留まり、偉そうな面で顔のない人たちを搾取していますよ、と喧伝しているのと同じである。

農耕で暮らしを立てている田舎の人達は愚かではない。そして全員が素朴でもないし、何なら全員が善人では決していない。彼らは人間だ。あなたと私と同じ。
彼らと都会人の差が強靭さだ。
私が子供の頃大好きだった漫画で「今日から俺は!!」というヤンキー漫画(ヤンキー漫画じゃないという人もいるが私がこれこそヤンキー漫画だろって思う。)があって、その中で忘れられないエピソードがある。森にキャンプを行った主人公たちはメインディッシュの肉を忘れてしまう。同行した主人公の母親は農家で豚を購入し、主人公に殺せと迫る。可愛そうなので殺せないという主人公に母親が肉は食うのに他人にだけ殺させるのは卑怯だし弱いと説教をする。苛烈だが私はこれが真実だとも思う。(だから動物が可愛そうだから動物の肉は食わないという方々の考え方は理解できるし、立派だとも思う。)
これが田舎の人の持つ強靭さだ。彼らは殺して生かして生きているからだ。

スタインベックは農村部で暮らす人々の姿を正確に写し取ろうとする。彼らはすべて善人ではない。というか生まれついての悪人でも良いところがあるようにどんな人間にもある良いところと悪いところを、その混淆が作る生きた人間を書こうとする。
だからこの小説の登場人物たちは殺人を犯し、法から逃走しようとするし、酒を飲み娼婦を買うし、黒人を法の手に委ねずにリンチして殺したりする。
女性であろうと身を粉にして働く、一方で共産主義に走るものもいれば、労働を一切拒否するものもいる。
多種多様な人物はどこか、私達からするとどこか逸脱しているが、しかしこれらの人は(実際はそうではないがしかし)生きていたし、生きているべきなのだ。それがスタインベックの伝えたいことだ。
スタインベックは別に半経済主義者ではない、私の考えでは。彼は荒野を愛し、そこで生きる人達が実際にいて彼らは間違っているところもあるが愛すべき人間で、そして都市部に住む人間と同じように生きているんですよ、ということを言いたかったのだ。
更には彼らには自分たちのルールが有り、そしてはたからは不合理に見えるルールでも彼らにとっては生きたルールだったのだと、言いたかったのかもしれない。ここで私は殺人やリンチを許せといっているわけではない。でも例えば農民は無知だから差別主義者で不合理な殺人やリンチをするのだというのは間違っているだろう。

綿摘みで生計を立てる家族に他人(スタインベック本人だろう)が加わり朝食をともにする「朝めし」。この家族は他人に無償で与え見返りを求めない。朝めしをごちそうになる側も傲慢ではないが言葉少なげに感謝の気持ちを表し、半ば当然のような顔で食卓をともにする。朝焼けに染まる渓谷の美しさよ。この短編集でも一番だと思うけど、例えばこの物語だけ抜き出して、農民生活は素晴らしい、というのも間違っているとは言わないが、やはり十分ではないだろう。
だからこの短編集は短編集という形態で一つの物語なのだ。

2019年3月24日日曜日

ヴァージニア・ウルフ/ダロウェイ夫人

おおよそ物語というのは世界を切り取ろうという試みである。
巨大なそれを制限のある言葉や映像で表現しようというので、当然それは省略され、重要なパーツは誇張される。
事件が配置されて物語はある程度の典型を通ることになる。

こういったやり方に真っ向から反抗したのがこの小説。
この作品は世界の極小の一部をなるべくそのまま切り取り、そしてそれをあるがままに表現(しようと)した。
世界というのは日常(作品で頻出するところの「瞬間」か)の積み重ねでできているので、実際にこれを表現しようと言うならば、任意の日常(瞬間)を切り出せばそれで事足りるだろうというわけだ。
その考え方には同意できるが、おそらくは物語性が失われるため多くの作家はあえてこれを用いなかった。(もしくは頭に思い浮かびもしなかった。)

しかしだからといってこの小説を究極の写実的な小説というのには無理がある。
出来事をただ観測していくのではなく、登場人物の内面の描写にその殆どの文字数を割いているから。
他人の内面、心の動きを写実的に描写することは不可能だ。
つまりバイアスが掛かった見方になるが、しかし私達はバイアスなしには世界を見ることができない。
一度はフィルターがかかった状態でそれを見る。

この物語は筋的には全く大したことがない。ある婦人がパーティを開く1日をただ描いているだけだ。
そのありふれた光景がすなわち世界で。

クラリッサの別人格だが、彼が別の個人に分割されたのはおそらく、一つには本来検討された結末が劇的過ぎたせいだろう。
これだと物語全体が劇的すぎて普通の日常から乖離してしまう。
他人は死ぬが自分は決して死なないのが(主観的な、すなわちありのままの(私達は主観的にしか世界を認識できないので))世界なのだ。
もう一つは気分の浮き沈みが陰影濃く描写できるから。劇的ではあるがこれは一種のデフォルメである。私達にもある気分の昇降をわかりやすく描いている。

ウルフは今作で日常をそのまま書き取ろうとした。
じゃあ日常ってなんだ?それを考えるのは(別に考えなくても全く問題ない)読み手の仕事だ。
言うまでもなく彼女の、ウルフの目を通した日常は不安に満ちている。
この本に出てくる登場人物たちは(大抵男女の)二人組である。
夫婦や恋人が大半を占めるにしてもそれだけにとどまらず、色々なペアが出てくる。
およそこの他者との関係性が問題になってきており、登場人物たちはこれに翻弄されている。
常に相手によく思われたい。また好きじゃないにしてもそれには理由が必要である。要するに常に人の目が気になる。
よく言えば気を使っているし、悪く言えばビクビクしている。
いわば少し神経症的なところがあり、この終わらない痙攣めいた反射こそがウルフの目を通した世界なのだ。
それは楽しみを生み出しつつも、大きな負担を人に強い、結果的に登場人物はこの世界において多かれ少なかれ披露している。(エリザベスは例外か。)

男と女、夫と妻、長年の友人通し、富裕層と貧者、老人と若者、さまざな組み合わせが浮世の楽しみと苦しみを代弁している。
多分気にしない人も多くて、全く他人の目を意識しない人もいるだろう。
しかしウルフはそうではなく、彼女の代弁者である登場人物たちは磨耗していき、そして死に惹かれるようになる。
彼らは何か特定の出来事によって死ぬのではない。ただ日常の中で疲労していくのだ。
いわば生活が彼らを殺しているのだ。
この作品では(ウルフ自身の最後を考えるなら)まだ、結局人生は死んだ方がましだという小説ではない。
(だから当初考えられた通りに進んでしまえば全く違った小説になったはずだ。)
私の目にはそういった感情も含めて(彼女の考える)生活を描き出そうという試みに見える。

Twolow presents “garlic? Vol.7” @小岩bushbash

皆さんお元気ですか?
私はなかなか忙しくやっております。
悩みのタネは尽きない。
なくなったらこっちが探すからです。
生活が苦しいのはもう慣れるしかねえな、と思う今日このごろ。
なかなかかぶりが酷かったこの日、自分が行ったのは小岩。

FIXED
見るのは2回目、おなじbushbashで。
ストレートかつパワフルなハードコアかと思いきや、ファーストフルリリース後改めて見るとかなり印象が異なる。
ずらりと並んでアンプも異様で音がでかい。
ドラムも位置だけでなく前に前に出てくる印象。
全音音量マックスの迫力だか、聞いてみるとハードコアに留まらない何かを感じる。
単に空間系のエフェクトを噛ませたスローパートがあるからじゃない。もっと他の何かだ。
このギター、ギターがロックじゃない?
ハードコアの枠に収まらなくない?
エネルギッシュに前に出てくるかんじ、でも勢いだけでない、フックがある。
スピーディなリフの中にもう一つアクセントを入れるような印象。
敢えてそれをハードコアに噛ませる姿勢だけど、しかしそれによって確実に類を見ない音楽になっている。
ブルースとまではいかないが、ビンテージな感じ、少し埃ぽい。
確実に違うところもありながら、私の頭に浮かんだのは最近新作をドロップした金沢のGREENMACHiNE。(ちょうど聴いていたってこともあるか。)
そういえば彼らはHardcore Rockを標榜、実践している。
あそこまで泥沼に足を突っ込んだ泥濘サウンドではないが、タメがありながらもそれによって生まれる独自の突進力とグルーヴを展開しているという意味で似てると思う。
そうなるとスローパートも老人の仕事の浮遊感に通じるような…穿ち過ぎ?

ALP$BOYS
始まってすぐ思ったのはこれはファストコアではない。
まず露骨にドラムのリズムがおかしい。
シンバルを多用するフリージャズの要素がある。
粘っこいベースと噛み合って横ノリを生み出している。
なんだこれは。
そして歪ませすぎないギターの反復。
これはEarthlessのサイケデリアか。
ボーカルもハードコアな低音かと思いきやラップも披露。
フリーキーな横ノリで揺らせて、サビはロックの縦ノリで吹っ飛ばす、華麗な空中コンボ。
さながらRage  Against the Machineか。
ロックのフォーマットでアウトプットされているが、その実雑多でマニアックなな元ネタたちが渦巻いてる、鎌首もたげてとぐろ巻いてる。
そんな殺気をフルファストな曲に込めてシメ。
ボーカリストは野球の素振りめいた動作をしたり、ナーバスのときに一人モッシュをしたり、近寄りがたい雰囲気で格好良かった。
音楽的には豊穣なんだけど最終的にハードコアになっているのはこういったアティチュードによるのかもしれない。

sasaya-
最近リリースされた二枚目のアルバムがとても良かったが、やっとこ見ることができる
張り詰めている。
緊張感が。
スリーピースで突き刺すように尖ったギターの音。
必死の形相のボーカルの力の入れよう。
まるで愉快なお芝居を見に来たはずが、それは実は口実であり、実際には非公式の法廷で観客の私たちが丸ごと糾弾されているようですらある。
ただしそれだけではない。
それだけではとても説明がつかない。

音的にはジャンクと自ら称することもあり、なるほどハードコア、パンクの範疇から逸脱したひりついた殺伐さは、シンプルな編成飾らない音作りという楽曲のスタイルとあいまってUnsaneに代表されるノイズロックに大いに通じるところがあると思う。
ただし血塗れの世界を狂気を孕んだ目で、ある意味冷たく俯瞰する彼らとはこのバンドは一線を画している。
冷笑的な、つまり皮肉に富んだユーモアがsassya-にはない。
あくまでも主観的に、世界が血塗れならそこで苦しんでいる姿を表現している。
浮世の生がもはやよ呪いなら「脊髄のラスト」で命を燃やして生きろというメッセージはその呪いが解けないことを指しているから残酷である。

 しかし「きっと今より良くなる」というメッセージよりも私にらよっぽど真実らしく響くのだ。
良かったね、圧倒的に。

Nervous Light of Sunday
ハードコアは、特にニュースクール以降は怖くないとみたいな思い込みがある。
なにも銃声を楽曲のイントロにいれたり、マフィアぽさをアピールする必要は無くて
ライブで見た時おっかないかどうかである。
この日のラインナップでは異質だろうと思うが、異質さを一切隠すことなくハードコアの怖さを披露。
怖くてステージ前に行けないあの感じ。
ガッチリ固めた低音の塊と、耳障りな高音の単音。
それが何かしら人体に作用するらしい。
とにかくミュートでザクザクというより、強制的に抑えつけるようにバツバツ空間を切り取っていくのが気持ち良い。
速いし重たい、タフなんだけど、どこかしら何かに追われるような神経症めいたところがあり、個人的にはそこが好きだ。(いわゆる激情系に通じるところはあると思う。クールすぎない。)
モッシュパート一辺倒のブルータルハードコアというより、ちょっとCave Inみたいに捻った所もある。
あっという間に終わってしまった。
音楽的には全然違うけど、前のsasaya-から繋がっているような気がした。

Twolow
ベーシストのメンバーチェンジ後見るのは初。
メンバーみんなでかい。
まずドラム。
単に音量が大きいのか?
周りが下げてバランス調整してるのかもしれない。
いずれにしてもドラムの存在感よ。
音数は決して多くないが一撃の重たさと思い切りの良さ、「俺はこのリズムで行く!」という潔さがバチバチ来る。
ギタリストはpaleのメンバーでもあるが、こっちでのプレイスタイルは明らかにこのバンドに寄せてきている。
徹底的な引き算の世界。
ミニマルですらあるし、無愛想すぎる。
ベースのシンプルな骨太さがドラムと噛み合い、骨組ができるわけだけど、ギターが二本更に乗っても、体感的には骨組しかない。
リズム、リズム、リズム。
ここまで削ぎ落とすと、ハードコア的なカタルシスはない、どっしり落ち着き、コード感もほぼ消えている。
ところがボーカルにメロディがあって、それ故にTwolowがオルタナティブと称されるのも首肯できる。
日本のHelmet。
メンバーが運営しているレーベル、3LAの性格もあってついつい分かりやすい日本らしさを探してしまうのだが、しかしアメリカだ。
スプリットの相方Sunday Bloody Sundayもそうだけど、アメリカを感じてしまう。

どのバンドも違って、それを違和感なくまとめているのは主催者Twolowのオルタナティブの魔力だからか。
個人的にはALP$BOYSが楽しかった。音源聞いて「なるほどなるほど」ってなるのをいざライブをみると印象全然違って面白い。こういう野ライブの醍醐味だと思う。
あとsassya-はやはりすごかった。
今回は会場でぽちぽち感想の元ネタを書いてみた。bushbashは良いライブハウスだな〜。

2019年3月17日日曜日

コーマック・マッカーシー/チャイルド・オブ・ゴッド

高校生の時にたまたま見た深夜ドラマ「Trick」にハマった。
緊張感がありながらコミカルな内容に毎回楽しく見てた。
鬼束ちひろさんのエンディングテーマが良くて、その名も「月光」といった。
「I'm God's Child」という歌詞が印象的で、この世はとてもサヴェージで、蔑むべきここを押し付けられて生きているといったものだったと思う。
つまり彼女の言う「God's Child」というのは無垢な存在で、それがこんなにひどい世界で苦しんでいるといったわけだ。

一方マッカーシーの描く神の子は無垢で無害な存在ではなかった。
恵まれない容姿(小さい体、斜視)と同じようにひねくれた精神がライフルを手にし、山中に潜み人を殺し、またその死体を犯した。
言うまでもなく神はその似姿で人間を作ったのだから、人間の性質は神から受け継いだものだ。
とすれば、このタイトルはなかなかアメリカでは挑戦的ではないだろうか。
この残酷な獣が神の似姿なのだから。

マッカーシーは概ね残酷な世界を書いてきた。
その中で動き回る主人公や登場人物たちたちはいずれもタフだ。
単純に善人とは言えない(ときには明確に悪いこともする)が、いずれも読者を引きつけるなにかがあった。
ところが今作の主人公レスター・バラードにはそれがない。
彼は矮小で卑屈で、気が弱い。

思春期を迎えた人がそうであるように、私もかつてシリアル・キラーに関する資料を読むのが好きだった。
平山夢明さんの本や、インターネットの個人サイトでよく時間を消費したものだ。
常人にはできない殺人を何回もこともなげにやってのけるのだから、彼らは超人かあるいは逆に欠落しているだろうと思い、そこに魅力を感じたのだった。
ところが斜め読みしていくに連れてシリアル・キラーたちが貧困や虐待など劣悪な環境に育ったり、生まれつき身体に障害があったり、それらがなかったとしても性的不能が殺人に結びついていたりと、非人間性を求めていた私からするとむしろ普通の人たちよりよっぽど人間臭くて、なんだか思ったのと違うなーと思ってしまったのだった。つまりそこに私の求める劇的で暗い色をしたなファンタジーはなかったのだ。
レスター・バラードはフィクションだがこういったシリアル・キラーたちの系譜に正しく連なるものであり、貧困と無知、身体的な弱点を抱えている。いわば格好良くない方のシリアル・キラーの物語。
人の革をなめして奇妙な日用品を作ったエド・ゲインのようにレスターも殺した女の頭皮で作った鬘をかぶり、女装して人を襲うようになった。彼の場合は殺す対象とレイプする対象が一致しない点が面白い。彼にとってはいわばコミュニケーションの手段として殺人があるのかもしれない。殺してからレイプするやり口もかれのコミュ障っぷりを表現している。

人がおかしくなるのはどんなときだろう。それは他人とかかわらなくなったときだと思う。レスター・バラードは天涯孤独の身である。彼はアメリカの深い山の中で己の狂気を密かに高めていった。現実世界から乖離していき、同じ言語を喋ってももはや彼の言うことを理解できる人はいないだろう。(そういった意味では発狂しているといえる。)
マッカーシーの主人公たちはどれもたしかに孤独な人間で、中にはアウトローと言ってもよい人間もいた。しかし彼らは強靭であり、己の欲求を社会の中で勝ち取り、そして満たすことができた。
レスターはそうではない。自分の欲求を社会の中で満たすことができず、山の中にこもったが、一人で生きていけないから野に下り、そして殺人という形でコミュニケーションをとろうとする。
彼がお祭りで大きな人形を取りそれに執着する描写は滑稽ではあるが、私にはとても物悲しく思えてしまった。

ヒルビリーという単語を初めて知ったのはRob Zombieの「Hellbilly Deluxe」(hillbillyのもじりでhellbilly)だったと思う。「田舎者」という意味かと思っていたが、実際にはアメリカには都市部と山の境界で暮らす貧困層を表現する言葉としての側面があるようだ。
レスターの犯罪はすべて彼の責任であるが、しかし彼の貧困は?彼はたしかにヒルビリーであった。
日本人にはわかりにくいかもしれないが、こういった社会構造をマッカーシーは描いているはずだ。
そうなると「神の子供」の意味が少し変わってくる。生まれながらのシリアル・キラーというよりは、遺伝子と生まれついた環境、つまりアメリカの社会的な問題の混血児としてのレスターである。彼はアメリカの暗い側面の象徴である。

獣じみた神の子から野蛮な世界に産み落とされた無垢な子、という見方の転換は難しい(レスタは幼い頃から凶暴な性質はみせていた)が、それでも彼が理解不能の生まれながらのモンスターとは異なることが、最後まで読めば理解できる。
凶暴だがとにかく悲しいやつだ。妙に共感してしまう。

久しぶりに鬼束ちひろさんの「月光」を聴くとやっぱりいい曲だった。