2019年8月11日日曜日

アンナ・カヴァン/アサイラム・ピース

アンナ・カヴァン、読むのは二冊目。
この本は短編集で、前読んだ長編「氷」とはだいぶ趣が異なる。「氷」が不条理ながらもSFの要素を持っていた(バラードが絶賛した)のに対して、この本に収められた短編にはいずれもその要素はない。一部(「上の世界へ」はSF的な世界観を感じ取れる)を除きどれも日常に根ざした現実的な物語である。
ほぼ女性の一人称「私」が主人公の物語であって、これらは作品であってたとえ、私小説であってもフィクションなのだからそのまま作者の姿を投影しているわけではないのだが、それでもだいぶ生々しい内容になっているように感じられる。

概ね、孤独であり(家族、恋人、友人から話されており、また会社で働いていない)、現実的な問題(裁判などか?)を抱えているが、それ以上の獏としたつまり根拠のない不安とそして罪悪感を抱えており、それが現実世界に対する認知・知覚に変容を発生させている、といった共通した女性像が浮かんでくる。

アンナ・カヴァンは変わった人で世界を転々として育ち、常に不安や抑うつを抱え、ヘロインを常用し(少なくとも使い始めた当初のイギリスでは合法だったらしい)、自分で創作したキャラクターの名前に本名を改名した。
どこにも居場所がない、はっきりしないが確かな不安感があり、別の誰かになりたい、なんとなく前述の主人公の姿に通じるところがある。
なんなら表題作は自身が入院した精神病院をもとに作っているし。彼女の作品と彼女の人生は(どの作家もそうだが彼女の場合は特に)強く結びついている。
書くことは彼女のセラピー、現実に適応しようとする試みだったのかもしれない。(が、最終的に彼女をそれが癒やしきることはなかった。)

どうしても生い立ちなどからヴァージニア・ウルフを思い出してしまう。暗い作風など共通点はあるが、読んでみるとだいぶ印象は異なる。
意識の流れを捉えようとしたウルフの場合は知覚過敏という印象が強い。とにかく敏感な人で通常の生活ですら彼女には刺激が強い。ギラギラ突き刺すように輝く彼女には世界がよく見えず、それをなんとか解き明かそうとしているように見える。

世界が不可解である、生きにくいという部分は共通しているが、カヴァンの場合世界が自分に対して敵意を持っている、とまで思いつめているようだ。自分の痛みには敏感だが、カヴァンは他人に対しては鈍感というかわかりやすくて、他人というのはほぼ彼女にとって敵でしかない。あまり好奇心というのはなくて、世界というのはとにかく怖い。理由はほぼないのだが、なぜだか自分が有罪だと強く信じ、確信している。面白かったのは、はじめ太宰治の「待つ」の女主人公に似ているものなのかなと、つまり何かを待っている、白黒つかない宙ぶらりんの空白が彼女を怖いと思わせているのかと(怖いのは恐ろしい物自体ではなく常にそれを待っているときであるので)。ところが「終わりはそこに」を読むと、残酷な現在という回答が提示された後も彼女の不安は消えないので、これは相当厄介な抑うつ状態である。いわばもう諦めて絶望しているような状態。

一方でウルフに関しては他社は不可解だが、常にその謎を解き明かしたいという探究心がある。彼女にとってはまだ世界は未確定であり、絶望しきっていない物語を提示する。(つまり希望がある分より残酷だと言える。)

一貫して心の弱さが提示されるのだが、しかし一連の「アサイラム・ピース」では無垢な精神薄弱者の危うさと対比して醜悪に自分勝手なパートナーたちが静かにしかし強烈に描かれている。
彼らは残酷な世界からのエージェントで彼女たちを苦しめる敵そのものだ。
殴りようのない、広く巨大で無慈悲な世界を擬人化し、その醜さを描くという意味で、これはアンナ・カヴァンの抵抗なのだ。

2019年7月28日日曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]2

エリスン編集のアンソロジー、分冊版の2冊め。
かつての翻刻での翻訳の試みは1冊目で頓挫したからようやっと陽の目が出たのがこの2冊めから。

前回はSFという括りにとらわれないラディカルな小説が集められている、というようなことを描いたがもちろんもともと一冊の本であるからしてこの本でもその傾向は同じ。
とにかく本当は裏方に回るはずの編集者にして発起人のエリスンが前に出過ぎ、語りまくるのがこの一連の本の魅力でもある。
彼によるとこの本に集められているのはScience Fictionではなく(注意してほしいのだが彼はこの本に収めれている本がいわゆるSFではないとは一度も言っていない)、Speculative Fictionであるということである。
Speculativeというのは「思弁的な」という意味らしい。これを調べてみると経験によらない思考や論理にのみ基づいている様、ということだ。
つまりここでは純粋に思考力もっというと作者の想像力によって書かれている作品が集められており、科学的であることは必須ではないのだ。そこは熱烈な、というよりは熱狂的なSFの支持者であり、過激な思想家であり、そして作者でもあるエリスンなので彼の審美眼に叶う作品には多かれ少なかれ一つの創作文学の分野としてのSFの要素が含まれている。しかしオールドスクールな既成概念や伝統に縛られることなく、自由で挑戦的な作品が選ばれているのは面白い。

ここでいう「危険な」というのは、誰もが見たことのないという意味とほぼ同意である。それは革新的であることと、そして誰もが見たことを否定するようなないものとして扱うようなな内容を含むこともその範疇に入るだろう。前の一冊の冒頭の物語や、今回では奇しくも最後似収録されたデーモン・ナイトの「最後の審判」などはそのカテゴリに入る。要するにキリスト教とその神聖を否定というよりは別の味方からみる(なので悪魔的な小説というのは当たらない)、アメリカではかなり攻撃的な内容になっている。
それは固定概念への挑戦であり、想像の壁を取り払う前進でもある。

もう一つ大きな要素、というか個人的に嬉しいこのアンソロジーの要素は「反体制」だ。ハーラン・エリスンはパンクスなのだ。この激烈なエネルギーを持ったナードの小男はどこの誰より激しいパンクスなのだ。
この本で言えばフィリップ・K・ディック「父祖の進信仰」、ラリイ・ニーヴン「ジグソー・マン」、ポール・アンダーソン「理想郷」はいずれもディストピアを描き(あるいはユートピアを描きそれに疑問を提示する)、そのいずれもが現代の危機や懸念をはらんだ社会問題をそのまま発展させたものである。(この危機意識が思弁的と言えると思う。)
現代への警鐘というと逆に陳腐な表現だが、やはりそこには抜群に面白い小説というオブラートに包まれた批判精神がある。むしろその批判精神こそが面白さの源泉なのだろう。
私はなんせ「「悔い改めよハーレクイン!」とチクタクマンは言った」でエリスンにあっという間に心酔した人間であるから、やはりこのエリスンのエリスンのためのアンソロジーに彼のそういった反骨精神とその優しさが反映されているのを見て取るのは非常に楽しい。

2019年7月21日日曜日

ダシール・ハメット/血の収穫

ハードボイルドというジャンルがあり、この小説を書いたダシール・ハメットがその創始者らしい。そのハメットのはじめての長編がこの本。
読んでみるとたしかにこの本でハードボイルド、ノワール小説というのがもう完全にできあがってしまった感じすらある、

ただ相当ハードで異質であるので、この本を読んで衝撃を受けた人が自分なりのハードボイルドを追求したのだろう。今からすると隔世の感もあるのも事実。

一番面白いのは主人公の造形。ハードボイルドというとソフト帽にトレンチコートに身を包んだ長身の男、無口だがめっぽう腕が立ちかならず事件の渦中にある美女といい感じになる、というような類型が頭に浮かぶのは私だけだろうか。
ところがハメットの主人公私は全然そうではない。おそらくスーツは着て帽子はかぶっているだろうが、100キロ近い巨漢だしそもそも名前がない。ハードボイルドの典型からも離れているが、その上こいつは全く自分というものがないのだ。かなり非人間的なキャラクターである。
もちろん腕っぷしは立つ。更に頭は切れる、切れすぎるほどに切れ、もはや探偵の役割を超えて悪徳の街を一時的にだが自分の手で動かしている。
ところがこいつには個性というものがない。悪徳の街を浄化しようというのは、一応依頼人のリクエストに乗っているがこれは口実に過ぎず(依頼人が徹底的に信用出来ないので)、やられたからやり返すというもの。これは私怨というか怨恨だが、どうもそれより叩かれたら手が出るような反射的なものに感じられる。
「私」は私情がない。自分の過去を話さないのはたしかにハードボイルドだが、「私」の場合は全く過去がなく、この街に来る前にそのままの姿で生まれたかのようだ。
自分がのっぴきならない立場に追い込まれても極めて冷静。自分の正義を信じているわけではない。自分が間違いを犯したかもな、と極めて冷静に一つの可能性としてカウントするだけだ。
こいつには全く気持ちというのがない。何かでブレることもない。

物語には動かし手や説明手が必要だ。狂言回しと言っても良い。外部からきた異端のものである探偵はその役にうってつけだが、例えば事件が終わるまでなんにもしない本邦の金田一耕助とは全く異なり(こっちは探偵小説ではなくミステリーだからジャンルも違うんだけど)、「私」は回すどころではなく自分が物語を動かしていく。
めちゃくちゃ肉体的だが精神がまったくない「私」。
あまりに強すぎて「ありえねー」というキャラクター造形はなんとなく見たことあるような気がするが、この物語の主人公は全く別の意味から衝撃的である。
なんとなくキングのホラー小説(例えば「ニードフル・シングス」のような)にでてくる自治体に不幸と不和を撒き散らしていく悪魔にも通じるところがある。ただ悪魔は人間を堕落させることを至上の喜びとしており、その報酬で動くが、「私」の場合は不自然な反骨心めいたもので動いており、やはり不可解である。

不思議だ不思議だと書いてしまったがこの「血の収穫」とても面白くて、普段本を読まない休日も使ってあっという間に読んでしまった。
多分私の他にも魅力にとりつかれたがなぜを抱えた人がたくさんいて、そんな人達が自分なりの解釈として書き始めたものがハードボイルドというジャンルを作ったのでは、と考えるのは少し面白い。
でもそんな事を考えてしまうほどこの小説は完成されている割に、どこかいびつなのだ。

2019年7月15日月曜日

ハーラン・エリスン編/危険なヴィジョン[完全版]1

アメリカの作家ハーラン・エリスンが編集した伝説的なアンソロジー。
長大ゆえに日本では1983年に3冊に分けて発売されるはずだったが、はじめの1冊だけ出てそのまま中座してしまったいわくつきの本だったが、30年以上経ってようやく完全版としてリリースされる運びになったそう。

「世界の中心で愛を叫んだけもの」をだいぶ前に読んで、昨今短編集「死の鳥」でハーラン・エリスンにハマった私はとりあえず購入。
エリスンは相当エネルギッシュな人らしくいろいろな逸話が残っている。おそらくそれなりに尾ひれもついているのだろうと思うが、とにかく変わった人ではあったのだろう。そんな人が編んだアンソロジーなら面白くないわけがない。この本ではすべての短編にエリスンが温度の高い解説を付けている。

ロボット三原則の生みの親アイザック・アシモフのまえがきから始まるのは良い。とても良い。なるほどね、わかりますってなる。しかし続くラインナップにブライアン・オールディスが入っていることにまずは嬉しくなる。それからロバート・ブロックが入っている。彼は映画化もされた「サイコ」が有名だが、なんといってもラブクラフトの年若い友人であり愛弟子でもある。これはと思うのは私だけではないと思う。

この本ははじめの三分の一であるが、まず言えるのは一風変わった審美眼で収録作品が選ばれているということだ。フィリップ・ホセ・ファーマーの作品を読めばその序盤のどぎつさに呆れてしまうだろう。かなりどぎつい。
まえがきに続くエリスンが気炎を履きまくる序文を読めば彼がこの本に、もっと視線を広げてSFに対してどんな気持ちを抱いているかわかるだろう。彼はSF作家であると同時に極めて熱心なSFファン、フリークなのだ。それも相当ラディカルな。彼なりのSFがあり、それを追求し、集め、そして時にはなだめすかしたり、脅しをかけたりしてそんな作品を書かせたりする。それがエリスンなのだ。タイトルに「危険な」という文字が含まれるのは非常に納得感がある。当たり障りのない名作を集めたアンソロジーとは明確に違うのである。

科学による神殺しと人間の傲慢さを描いたレスター・デル・レイの「夕べの祈り」から始まり、どれもひねくれた作品が並んでいる。
フレデリック・ポールの「火星人が来た日の翌日」も異星人とのファーストコンタクトという劇的な出来事の背後にある、通常描かれることのない人の営みを描いているという点で興味深い。
いわばSFにてしても王道に対するカウンターとしての側面がある作品が集められているように感じる。それはオーソリティに対する純粋で冷静な疑問であり、反体制的という点で「危険」なのである。

2019年7月7日日曜日

野谷文昭編訳/20世紀ラテンアメリカ短編集

最近アメリカ文学にハマっていたが、このときのアメリカは北アメリカ大陸のことを指した。
国は違えどアメリカ大陸には南があるわけで、こちらの方は私は未開の土地である。
ボルヘスを数冊、ガルシア・マルケスを数冊、あとはアンソロジーを1冊くらいか。

北と南、私はいずれも行ったことがないが隣り合う両者に格差があるのは確かだ。
経済的な観点で言えば北が高く、南側の人間が北に行くには制限がある。(10年以上前に北アメリカに留学していた友人に聞いた。)
イメージで言えば南は粗野でメキシコは終わりのない麻薬戦争に疲弊している。
要するにゴシップ的な知識のみで、肝心な文化がわからないのだ。
旅慣れない私はこの本を手にとった。

編者はいくつかのテーマを作り、それに区分けする形で物語を紹介している。それによってなるべく万遍なくラテンアメリカの文学を紹介しようという試みだろうと思う。その為非常にバリエーションに富む内容になっている。

ラテンアメリカは広大だ。決して目に見えない国境線で区切られ、多数の異なる文化を持つものが住んでいる。彼らは互いに争い、そしてまた異なる大陸からの征服者と争い、破れている。
おそらくラテンアメリカが粗野で文明的にはやや遅れていると私達が思っているのは、このヨーロッパやアメリカからの侵略とそれに対する屈服、勝てば官軍なら負けるのは悪人であるから、負けたラテンアメリカは悪くて劣っているという認識が蔓延したせいではなかろうか。

ラテンアメリカの文学はそういった意味では剣呑である。高低差があり、その差が苦い記憶と暗い気持ちを生み出している。
一方的な軋轢が弱者を現実的な力で苦しみ、彼らの呻吟する声を汲み取って文字にした、そんな趣きがある。だからどの物語も血と死で彩られている。
ところがどの物語をとっても単純でわかりやすい恨み節担っていないのが面白い、そして病的でもある。
殴られ続ける子供がこれが日常だと思いこむように、ラテンアメリカの人々は闘いそして奪われることにある意味慣れてしまった。大丈夫というのではない。ただ感覚と感情が麻痺してしまった。
だから彼らは強くたくましくそして悲劇的である。
彼らの日常には常に影がつきまとう。そして文学とは人を書くことだから、筆の先がその暗い歴史と感情を掘り起こすのだろう。

別に彼らの歴史は血にまみれており、今もその苦しみは終わらない、彼らは可愛そうな人たち、というのではなく。すでにその時期はとっくに過ぎており、例えば南米の死者の日とかで楽しそうに笑っている彼ら一人ひとりが苦しい歴史を持っていて、それでも笑ったり泣いたりしているのである。
彼らがねじれているとしたらそれはもう長い間に起きたことの結果であり、良くも悪くも彼らの一分になってしまっていて、私の目からするとそれはなんだかとても不思議で、こんな言い方を許してほしいのだが面白くも写ってしまう。

2019年6月23日日曜日

トルーマン・カポーティ/遠い声 遠い部屋

「冷血」が面白かったので2冊めに手にとったのはこの本。
あちらはノンフィクション、こちらはフィクションだから趣が異なるのは当たり前だが、最近もっぱら読んでいるアメリカ文学という文脈でもなかなか奇異な本だった。

ヘミングウェイの「老人と海」のあとがきでアメリカは歴史がないのでその文学というのはヨーロッパのそれとは大きな隔たりがあると書いてあった。具体的には歴史がない、奥行きが無いためその文体は必然的に肉体的に、(その人が言うには)浅薄になるそうだ。
確かにアメリカ文学では肉体的な動作が強調される。自分はそこを短所とは思わず、むしろ長所だと思っている。
ところがこの本は肉体的な動きは最低限に抑えられ、舞台装置も含めてイギリスのゴシックめいた雰囲気がある。動きがない割に重々しく、そして多分に観念的である。
ニューオーリンズに近いアメリカ南部という、まさにアメリカ文学会のど真ん中を舞台にしているのだが。

親類をたらい回しにされているがゆえに精神的に早熟、しかし都会ぐらいゆえに肉体的には脆い線の細い、頭でっかちな男の子が主人公。
彼が一度もあったことのない父親に招かれたのはアメリカ南部の田舎町の、更に郊外にある崩壊しつつある奇妙な屋敷である。
ここは異界で、そしてタイムマシンでもある。
ここでは時空が捻じ曲がっていて主人公は未来の自分に合う。
完全に私の解釈だが、暇を持てあまし、人生に倦んでおり、頭の良さがむしろ健康的な生活の足かせになっている、弁が立つが人嫌い、手先が器用で芸術に対する造詣が深い、才能はあるがやる気や野心とは無縁な、豊富な知識と独特の諧謔をもちあわせたランドルフ。この妙に丸っこいフォルムのこの男、その見た目もあって私にはカポーティ自身に思えてしまうのである。(ちなみにカポーティ自身がランドルフには彼自身ではない二人のモデルがいると公言している。)
早熟だがもやしっ子の主人公ジョエルは、もちろん複雑な環境で育ったカポーティである。
これから人生が広がっていく少年と、彼の悲しい末路である中年が異界で出会う。
これは輝かしい未来の否定であり、少年からすれば失敗の運命の暗示である。

異様な舞台を盛り上げるように出てくる登場人物たちは変人ばかり。個性は強いが全員共通してそれぞれの悲哀がある。人生の蹉跌があり、一筋縄ではいかない複雑な性格をしている。
アメリカ文学で重要な、労働、勤勉、悪とそれに対する正義、義憤などといったものは殆ど出てこないが、アメリカ南部ということもあって生命力は異常にある。
ゴシックの雰囲気ただようが、妙な粗雑さもあって、それが野蛮な魔術めいた圧力で、例えば劇中で言及される強すぎる太陽のように複雑な心情の層をぐいぐい押し付けている。
妙なものがたくさん配置されている。そして後半は幽霊屋敷に慣れた主人公の思いが縦横に広がっていく。(押されていた分浮き上がっていく。)
しかし騙されていはいけない。この本には不思議な事は書いていない。どこまでも現実の悲哀を書いているのである。原因があり、そして結果があるこの世界はときに空想より残酷である。
そういった意味ではやはりどこまで行ってもアメリカ文学か。
後半、自分=父親なのかとも思ったが、やはりそんな陳腐な展開はなかった。

すべての試みが失敗しており、そういった意味では陰鬱な物語だが、ラストのジョエルの決心が切なくも心強い。それは過酷な人生に対峙する決心。
アメリカ南部の、廃墟のような屋敷、荒れ放題の庭に佇む少年は異常に色の濃い光の中で影法師のようになっている。
それは人を感動させる。

2019年6月15日土曜日

スタインベック/ハツカネズミと人間

荒野で凸凹コンビが出会ったらどうなるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。

誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。

私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。

この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。

天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。

スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。

私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。

この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。

マーク・トウェイン/ハックルベリイ・フィンの冒険

アメリカ文学界にそびえ立つ記念碑的な作品。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。

前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。

一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。

保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。

マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。

ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。

ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。

黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。

徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。

2019年5月25日土曜日

アシュラ

嫌な映画である。
ノワールというのは権謀術数、裏切り渦巻くどろどろした世界だが、最後は結局暴力がモノを言うわかりやすいジャンルでもある。
しかしこの映画はどうもすっきりしない。

結論から言うと登場人物が全員嫌な奴だから、ということになると思う。

「全員悪人」というキャッチコピーが非常に印象的な北野武監督の一連の「アウトレイジ」シリーズ。
たしかに凄惨であるし、登場人物全員が悪人だけあってどいつもこいつもろくでなしばかりである。
北野武の美学に則ったラストもいかにも虚無的だ。
しかし不思議と見た後はスッキリする。

映画というのはたいてい登場人物に感情移入してみるものだ。
そうなると俄然物語に興味が出てくる。
身近に感じられてリアルに思えてくる。
手に汗握る。

「アシュラ」でもそのプロセスは起こるわけだが、こちらの映画は登場人物が全員クズなのである。
クズと悪人はちょっと違う。
北野武の描くキャラクターたちは近寄りがたい暴力的な男ばかりだが、どこか愛嬌がある。
会話や仕草に愛嬌と笑いがある。
北野武自身が芸人であることに結びつけるのはいささか短絡的で、たいていどんなノワールでもそんな共感しやすい、というよりは応援しやすいスキが作られている。
もしくは悪いが格好いいのだ。

「アシュラ」の登場人物たちにはそれがない。
主人公はうまく立ち回っているふうだが、実際にはかなりドジを踏んでいるし、病気の女房を看病しながらも浮気はしている。
すぐにカッとなって後先考えずに行動する。
ガキ扱いしていた後輩が上司に気に入られているのが気に食わない。嫉妬する。

悪辣な男パク市長はサイコパスである。
こういうキャラクターは大抵サディストのように書かれることが多い役柄だが、この映画はそんなキャッチーなことはしない。
単に権力と金にとりつかれた汚い男である。
イカれているが魅力的ではないのだ。

検察側のキムも一見寡黙でできる男を装っているが、いざとなると頼りにならない。
情けない。

みんな欲望が人一倍強いわりに、痛がりですぐに保身に走る。
かっこよくない。

ここで描かれているのは確かに邪悪だが、それはフィクションにありがちなロマンティックな狂気ではない。(この言葉は春日武彦さんの本の名前から拝借した。)
私達が抱くありふれた、小心な欲望から生まれた狂気なのだ。
これは見ても面白くない。
むしろ自分が心中密かに抱えている欲望を見せつけられているようで気分が悪い。

かっこよくないクズがかっこよくないクズと争う。
これはすっきりしない。
大量の血、痛々しい暴力という装置によって緊迫感だけが高まっていくが、ラストのラストまでそれが解消されることなく終わる。

私達全員を糾弾しているわけではなかろうが、暴力とはこんなものだ、と汚物を叩きつけているようでその姿勢に顔をしかめながらもどこか楽しくなってしまうのだ。

何回も見たいような映画ではないが、この作りの底意地の悪さにはゾクゾクした。
よいね。
韓国映画はやっぱりやりすぎで、残酷でとても面白い。

リチャード・ブローティガン/芝生の復讐

ブローティガンは大学生の頃に「西瓜糖の日々」を読んだっけ。
だからもう10年以上前か。内容は殆ど覚えていない。
あちらは長編だったが、この本は短編集。
全部で62個の短編が収録されている。どれもとても短い。ショートショートくらい。

どの短編も日常を切り取ったような語り口で、主に現実的な内容について平明な言葉で書かれている。
しかし日記と言うには唐突で脈絡がないし、かと言って幻想文学と言うには現実的すぎる。絶妙なバランスで書かれていて、しかしどれもがオフビートである。
余計なお世話だと思うが、もっと恋愛もしくはセックスについて触れ、生活臭をなるべくげんじておしゃれに仕立て上げたら、あるいはもっと意味の有りそう(で実はまったくない)もっともらしい言葉を充填すれば、もっと大衆の評価を得たのではと。それだとブローティガンが好きな人はそっぽを向くだろうが。

ものによっては一風変わった世捨て人のボヤキ集みたいな趣があり、仕方なく入った冴えないバーに忘れられた使い込まれたノートを読んでいるような趣である。(実際には日記名ているが、きちんとした文学作品である。こんなにも引き込む日記はない。)

もとはといえばマッカーシーの作品に触れて、そのアメリカ像に拭い去ることのできない血の匂いを嗅ぎつけたのが、私がアメリカ文学にハマった要因の一つだ。
風変わりなビートニクだったブローティガンには暴力性がない。しかし私は書き方としてのアメリカ文学を彼の文章に確かに感じ取った。
アメリカ文学(少なくともその一部)は徹底的に肉体的である。
感情表現より肉体表現が優先される。それは運動であり、現象である。
完全に好みだが、私は人の運動を見て(読んで)その人が何を考えているのか、今どんな心情なのかを想像するのが好きなのである。(直接的に心情を描くのは何故かあまり好きじゃない。)
ブローティガンの短編はどれも幻想というには具体的である。いくらか時代が違うものの私達が送っているのとほぼ同じ生活が書かれている。
オフビートでぶっきらぼう。動きは早くないがそこに書かれているのはちょっとした運動たちである。
人の心情を描き出すのは不可能である。だから絵画や音楽は優れている。なぜならそれは「私は悲しい」という気持ちをそのまま表現することができないからだ。だから別の形態をとってそれを表現しようとする。
一方で人の気持ちは複雑で多層的だから、「私は悲しい」と言葉にすることはたしかに真実だが、それが全てではない。大抵は悲しみ以外の気持ちが含まれているからだ。
心情を言葉にすることはわかりやすさを獲得させるが、同時に多層的な感情を固定化しすぎてしまう。
だからブローティガンはそれを直接書くことを良しとせず、感じた気持ちをそれを感じるに至った運動(=日常の一部)をまるごと書くことにしたのだ。
しかし人は生まれたときから連続しているから、1日の1部を切り取って読ませても書いた人と読む人で感じる気持ちは別物である。
この断絶が文学であり、私にはとても面白い。

最後は拳銃自殺したブローティガン。
この本に書いてある小説の中には思わずにやりとさせられるものも多いが、手放しで明るいものはほぼない。
どれもなんとも言えない憂鬱をその内に含んでいる。
毎日を送ることはできる。しかし常に不可解だ。そんな気持ちは単に読みての心情を投影しているだけだろうか。

生きにくさを感じている人はこの本を読んでみると良いかもしれない。
めくるめくスペクタクルはないし、ときによく意味すらわからないが妙に「なんとなくわかるな」と思うのではないかと思う。

マーク・トウェイン/トム・ソーヤーの冒険

最近はアメリカ文学を好んで読んでいる。
名作は数あれど必ず名前が上がるのがマーク・トウェインの「ハックルベリィ・フィンの冒険」。読んでみるかと思ったのだがこの話には前日譚というべきもう一つの物語があって、それが「トム・ソーヤーの冒険」。
流石に名前くらい走っているが読んだことがなかった。子供向けの冒険小説だと思っていたから、なんとなく子供の頃に読みそびれてそのままである。

読み始めると作者のまえがきで「この物語は子供が主人公で読者も子供を想定しているけど大人も読んでくれよ」って釘を差してくる。
ほうほう、ってページをめくるとたしかに面白かった。

子供の頃学校からの帰路、道路の上に引かれた白線の上を歩いて家に帰った。この線を踏み外すと死ぬからである。
祖父母の家に向かう新幹線の車窓の外、時速200kmで流れ去るその景色。家々の屋根の上には忍者が走って電車を追いかけていた。
子供の頃にはいろいろな法則があった。それは呪いであり、ルールでもあった。また子供同士の共通の言語でもあった。
人気のない校舎には人知を超えた存在が密かに潜み、また特殊な指の組合せはそれらの魔に抗する力を秘めていた。
それらは他愛のない子供の想像力の産物であったが、しかし私はあれ程真に迫り(私達が語り合った虚構はたしかに真実だった)、そして愉快な空想を物心ついて以来したことがない。

この本にはそんな子供の呪いがこれでもかというくらいふんだんに書き込まれている。
土地も、言語も、肌の色も違うが、それでも彼らの会話の一つづつが懐かしい。
たしかにこれは単に子供に向けて作られた話ではない。なぜなら誰しも一度は子供だからだ。つまりこれは私達全員の物語。

普遍的な子供と大人の心理を扱いつつ、時代性も閉じ込めている。
一言で言うならおおらかさだろうか。
トム・ソーヤーはかなり破天荒な少年である。
多分小学校低学年くらいの年頃なんだと思うが、学校には全然行かないし、手の混んだ悪戯をするし、夜の12時位に家を抜け出したりもする。
やたら行方不明になって村の人総動員でトムを探したりもする。
現代なら超問題児で炎上確定だろうが、この時代だと結構大目に見られて暖かく見守られているといった体。
昔は良かったというのではない。概ね技術の進み具合で生活環境とそれに乗っかる社交性が変遷しているからだ。
現代には現代の呪いがあり、現代のトム・ソーヤーがいるはずだ。


2019年5月19日日曜日

ヘミングウェイ/老人と海

ヘミングウェイは学生の頃に何冊か読んだたことがある。
最近はアメリカ文学に興味があるので読んでなかったこの代表作に手を伸ばした次第。

小説というのは省略だと思う。
面白いと思うのはこれは本当にタイトル通りで、おじいさんが小舟で魚を取りに行くだけの話である。ページ数も少ない。

何かを表現するときに割と話が広がっていく(地理的時間的にだったり、人が死んだりして内容的に劇的にする)小説が多くてその”たくさん”の中に人生のなにかを入れ込んだりることが多いと思っていたのだけど、この話は逆にどこまでもスケールを小さくしていくというか、老人の3日間(ほぼ一人きり)を淡々と書いている。つまり通常の手法と違って、何かを付け足して本質を浮かび上がらしていくのではない。研磨して研磨して余計なものを取り除いて、そこにちょっとだけキラリと光る本質を取り出そうとしているのだ。砂金採りに似ているような作り。

もう一つ印象的なのはタイトルで内容的には「老人と魚」になるはずだが実際には海。
これはわかりやすい、というのもサンチャゴおじいさんが何度も行っているように彼にとって魚というのは友達であって、本当ならそんな崇高な奴らを撮って食う権利は人間などにはないのだ。食うために殺すという仏教的な迷いを抱えつつ、人は海に出ていく。
ただ自然に戦いを挑んでいく人間の姿を賛美しているわけではないのだ。
海の上では何一つうまくいかない、そして友人(サンチャゴ曰く兄弟)と命をとしてやり合う、というのはそのまま人生に拡大解釈することができる。
命がけで獲得した成果も姑息なサメが掠め取っていくように、とかくこの世では真剣勝負すら許されないのだった。

翻訳した福田恆存氏のあとがきが大変面白かった。
この人は基本的にアメリカ文学はヨーロッパのそれに比べるとつまらね〜と思っている人で、最近アメリカ文学にハマっている身としては諸手を挙げて酸性とはならないんだけど、言っていることは興味深い。

とにかく肉体で世界にぶつかっていくのがアメリカ文学で、私にはその無骨さが好きだ。世界を拳で制していくという世界観はむしろ嫌いなのだが、登場人物の心情を読みたくないのだ。想像する楽しみがないから。
そこ行くとこういう小説はやっぱり良いなと思う。

2019年5月12日日曜日

鼓直編/ラテンアメリカ怪談集

自宅の小さい部屋の閉じこもる私にとってラテンアメリカは未知の土地である。
メキシコでは麻薬戦争が常態化し、そして人々は死者の日やサンタ・ムエルテに代表されるように死にたいして独特の信仰を持っているとか。
それではキューバでは?ウルグアイでは?
全然わからない。
作家で言えば、ボルヘス、マルシア・ガルケス、バルガス=リョサ、コルタサルくらいか。
そんな私にとっての暗黒大陸であるラテンアメリカの、更に怪談とくれば買わないわけにはいけない。

死者が鬼として起き上がる中国の怪談、古式騒然たる荘厳な屋敷に曰くある幽霊が出現する英国怪異、表情豊かな妖怪たち恨みを持って、または死んだ女の幽霊が人を脅かす本邦の怪談。
どうもラテンアメリカの怪談はこれらとは合致しないようだ。
いわゆる私達の頭の中にあるオールドスクールな「怪談」の範疇に入るのは意外に少なくて、ウルグアイのキローガの「彼方へ」、メキシコの作家フエンテスの手による「トラクトカツィネ」のみだろうか。(これが一番幽霊譚かなと。個人的には抜群に怖く、そして面白い。)

いわゆる幻想文学という範疇に入るような作風の物語が多いが、面白いのは概ねどの話にも「死」の要素が入っている。
死を描くってどういうことだろう?
ただの死はニュースで聞く海の向こうの死と同じだ。痛ましいが数値でしかない。
つまり物語において死を描くというのは生を描くことだ。
わかりやすいのは日本的な幽霊譚で、多くの物語がなぜ彼もしくは彼女が幽霊となったのか、というのを解き明かすことが物語の軸になっている。(「モノノ怪」という非常に優れたアニメを思い出す。)

「断頭遊戯」や「魔法の書」などはそんな死に至る(あるいは至らない)奇妙な、数奇な運命をたどる生を描写していく。
幽霊にしても死後存在し続けるというのは生きている人たちにとっては慰めである。
そこをバツリと断ち切るのがラテンアメリカの死生観なのだろうか。だとしたらだいぶ救いがない。
そういえばこの本には天国や地獄は出てこない。彼らはいまある生だけがすべてであって、死後人間は何も残さずにただ消えると考えているなら非常に面白い。
死の意味が非常に重たくなり、同時に反対の要素である生もまた非常に貴重なものになっていくからだ。

死に侵食されるというのは生が危うくなることで、これは「ジャカランダ」(これは正統派の幻想)、「ミスター・テイラー」(これは風刺だが死が生を制圧している)などで取り扱われている。
「幽霊なんていないさ」しかし、死が確実に人間の性に影響を与えそれを幽霊と呼ぶこともできるかもしれない。「騎兵大佐」はそんな死が擬人化されているようにも読める。

死者たちがひょうきんに出歩いているイメージがなんとなくラテンアメリカにはあったけど、この本を読むとどうもちょっとそうでもないみたいだ。
この未知の土地の文学をもっともっと読んでみたい。

Mateus Asato -LIVE in JAPAN 2019-@下北沢Garden

twitter好きなのは色んな人のおすすめ(音楽、食べ物、絵画、映画、漫画…)を知ることができるからだ。
音楽は自分で掘るのが一番、でも私は人のおすすめを聞くのが好きだ。何故かと言うと興味が広がるからだ。自分の感覚ではスルーしてしまう音楽も、特に興味のある人(友人、知り合い、好きなバンドマン)が勧めているものはその人達なりのフィルータを通して新しい可能性になる。

私の会社の上司は大概頭がおかしいのだが、自身演奏することもあって音楽が好きである。そんな上司がおすすめするのがこのMateus Asatoだった。若干25歳のギタリスト、活動の場はtwitterやyoutubeなど。確実に新しい世代のミュージシャンなのだろう。面白いのは音源がほぼ皆無(コンピレーションに1曲のみ提供したものが流通しているのみ)なのにギターメイカーから彼のシグネイチャーモデルが発売されていること。

私は中学生の頃Sex Machinegunsにハマっていた。初めて買った洋楽のCDはBuckcherryではなくて確かJohn Sykesだったと思う。とはいえほぼほぼテクニカル系の音楽は聞かないできた。一回Nunoの来日を見に行ったことがあるけど、高音がきつい上にこれでもかというくらい弾きまくる(大抵のファンは喜ぶんだろうが、私は「Crave」などどちらかというとNunoのソングライティングの方に惹かれていたのです。)ので途中でちょっとうーむとなってしまった。

たしかに普段聞き慣れないジャンルではある、しかしメタルコアとクラシック音楽、そして日本のフォーク(長渕剛、吉田拓郎など)をこよなく愛する上司が押すくらいなら間違いないだろうということでライブへ。(平日にライブのために会社を抜け出すのは困難を極めるが、上司が一緒だととても安心だということを皆さんはご存知だろうか。)

下北沢のライブハウスには何回か行ったことがあるが、Gardenは初めて。
きれいで私がいつも行くようなライブハウスに比べると大きめ。
客はかなりはいっていて、男性がとても多め。見るからに学生、スーツ姿のサラリーマン、年配の方、バンドマンっぽい雰囲気の人、いろいろなカテゴリが参集していたがなんとなくみんなギターを弾きそう、という雰囲気が共通していて面白い。

やや押してライブがスタート。
以前の来日(上司は2回ともいったらしい)はマテウス本人のみだったが、今回はドラム、ベースとギターのマテウスの三人でバンド編成。(いずれもバカテク。)
この日のマテウスは終始リラックスした感じ。
どうなるもんだろう?という感じだったが始まってみるとこれがとても良かった!
まずは彼の表現力に驚かされる。とてもメロディアスでエモーショナルだ。こんな表現はどんな音楽にも当てはまるから意味がないが、まずこう描いておく。
通常の曲というのはテーマ(サビ)があってそれの前にいくつかの提携のメロディが配置されている。これはポップスもそうだが、メタルだろうがハードコアでもほぼ同じやり方が踏襲されている。ところがマテウスはそうではない。もちろんテーマはあるのだろうが、もっともっと自由に弾く。

(明確に継ぎ目がわからないのでなんとも言えないが)おそらく1曲はかなり長いと思う。例えば5個以下のリフとメインとなるメロディを作ってそれを回していく、というのではない。全部が連続していて、そして同じようなフレーズはあまり出てこない。
相当プログレッシブかというとそんな気がしない。相当テクニカルではある。しかし大仰な感じはまったくない。フレーズ自体が複雑でもリズムがシンプルでこまめに変えていかないからだと思う。

ギターの音色は弱めの歪み、リバーブなどの空間系をほんのちょっとかけるのみでごまかしの聞かないロウ(粗いではなく生々しい)なやつ。
音の粒がとにかくきれいで、雑味が入らない、音量が揃っているというよりは完全にアタックの強弱でコントロールされている、音はのっぺりしていなく、スライドやチョーキングで意図的に揺らされている。粘り気があり、ゆらぎがある。例えるならこうだ。ある晴れた日にお天気雨が降り、窓についた雨粒が流れるのを眺めているような。細かく、小気味の良い音が鈴なりになっている。

ピック弾きと指弾きを流れるように切り替え、単音、コード、カッティング、速弾き、スライド、チョーキング、ハーモニクスを駆使して曲を組み上げていく。(技術的な描写力のなさが歯がゆい。)どれにも固執することがなく、ただ必要だからそこにあるというテクニックだ。それでいて高等技術の博覧会的な要素はまったくない。全ては良い曲のため。

ボーカルが担当していたメロディラインをギターが担当する、または轟音ギターで重々しくもシンプルなメロディを補填するといったポストロック感はなし。
曲によってはかなりロックであり、ロック・ミュージックのギター解釈。それが結果的に典型的なロックの枠を出ている、といった趣。
音はきれいだがBGMとして耳から耳に素通りしていく小奇麗なそれではない。かなり実験的でそして挑戦的だ。

聴いてて思ったのは音楽は数学だ。
私も楽譜はみたことがあるが、オタマジャクシの種類に頓着したことがない。実際には4分音符、8分音符、休符と様々な種類があり、どんな音が鳴るかを示している。
一定の時間という概念、小節で切り取った時間を更に音符が分割していく。
マテウスはここが匠で、小節を自由自在に切り刻んでいく。たとえば小終わりの方でつじつまを合わせるみたいなのはない。音の数が増えたり減ったり、縦横無尽である。これによってメタルののっぺりした速弾きとは異なり、音にうねりが生まれてくる。
マシンみたいに正確ってなぜか芸術の分野ではむしろ侮蔑的に使われることがあるが、確実にそんなことはない。技巧が表現力を表現力が感動を生むのだ。

マテウスは常に良い顔でギターを弾く。よく白目をむいている。気持ち良いのかもしれない。終始楽しげで、そんな彼の人柄がよくよくにじみ出たライブだった。

ちなみに上司は痛く感動し、性的興奮すら覚えたと言っていた。やはりギターを弾く人間は頭がオカシイなと思った。

2019年5月5日日曜日

フォークナー/フォークナー短編集

同じアメリカの南部を描いた短編作品でも、1902年生まれのスタインベックの「朝めし」とフ1897年生まれのォークナーのこの短編集に収録された作品では雲泥の差がある。(二人共にノーベル文学賞を受賞している。)
前者が貧しいながらもアメリカの息を呑む光景の中での、たくましくも優しい人間の絆を美しく描いているのに対して、フォークナーの描く短編はどれも峻厳な景色の中で人間同士が憎み合い、そして時に殺し合う。

コップに半分入れられた水を見て何を思うかが千差万別のように、アメリカの土地と生活を見て、スタインベックとフォークナーは全く異なる感想を抱いたようだ。ただしふたりとも当時のアメリカという土地は生きるには大変厳しい土地だと考えているところは共通している。
苦境に立たされる貧しい者たちの尊厳を描いたスタインベック、一方フォークナーは前任の不在、とくに「サンクチュアリ」を読んで感じたのはフォークナーは悪人以上に平凡な人こそ諸悪の根源である衆愚であり、彼らを憎んでいたのではないかということだ。ここではキリスト教というのは愚か者の大義、つまりいわれのない差別、不正や暴力の言い訳にされている。フォークナーは教会に通っていたのだろうか???

この本には嫉妬に狂って男を殺す夫、執着心から婚約者を殺す女、身持ちの悪い黒人女、黒人にレイプされたと偽証する年増の女、偽証に基づき黒人をリンチして殺す白人男などなど、南部のいやらしさがこれでもかというくらいドロドロ描かれている。
ここでは教会、牧師、神父や聖書が役に立った試しがない。(それらしい描写があったかも怪しい。)

黒人を搾取し、差別し、そして殺す白人と、常に被害者として黒人、という構図でもない。もちろん状況が賢くなることを許さないのだが、学がない黒人の愚かさもフォークナーは克明に描いていく。
彼は一体どんな目でアメリカを見ていたのか???
彼の前では人は肌の色、性別、老若とわずすべてが愚かで救いがない。
死んだ目で米を見ていたのだろうか、いやおそらく違うだろう。自分も骨の髄までそんな南部人であることを否が応でも自覚させられ、その矛盾の中でこれらを生み出したのだ。

アメリカは呪われた土地だ、暴力と死で溢れているというのはいろいろな意味で間違いだ。(少なくともいくらかは間違いだ。)
スタインベックが描いたように美しい光景があったはず。フォークナーもそんな一瞬を必ず目にしたはず、香りを嗅いだはず、舌で味わったはずである。

個人的には言われているほどに「八月の光」のヒロインに陰に対する陽を感じられない。
しかしこの本の「バーベナの匂い」「納屋は燃える」には明らかに陰に対する陽が書かれている。一つは非暴力であり、一つ糾弾だ。
共通しているのは因習、つまり大多数(=衆愚)の法則に対する抵抗であること、自分の頭で考え、それに自分の手足で立ち向かうこと。
2つの小説の中でこのささやかな反乱を起こすのは二人の若者である。これがそのままフォークナーの希望になるだろう。

ザ・フォーリナー

昔12チャンネルでお昼から2時間吹き替え映画を毎日放送していたのを覚えている人は多分私と同じくらいの年齢の方だと思う。
その時分でも新しいとは言えない(おそらく権利費用が安いからだと思うけど)映画をただただ放送していて、小学生の自分は特に長期の休みのときにはよくそれを見ていた。ほぼ毎日かな?近所に友達がいなかったもんで。
で、よく放送されることもあって印象にあるのはジャッキー・チェン主演の映画である。「酔拳」「ポリス・ストーリー」「スパルタンX」などなど。当時の私は手に汗握ってみたし、笑ったものだ。
当時からだいぶ時間が経ち、上記の映画の記憶も全然曖昧なのだが(タイトルごとに区別つかないグチャッとした記憶になってる。)、自分のなかではジャッキー・チェンというのはスターである。いつもちょっとすきがあって、時に情けなかったりするが、正義のために戦う男。

そんなジャッキーが今までとは違う役柄に挑戦ってことで前々から気になっていた「ザ・フォーリナー」を見に行った。これは原作があるそうなのだがあえて読まないことに。

映画の中ではイギリス、ロンドンで中華料理店を営む初老の男になったクワンことジャッキー。テロでたった一人の家族である娘を失ったクワンは犯人探しに乗り出す。
という筋。早々に涙を流し悲しんだあとは、悲しみを封印し、娘を殺された怒りを通り越した無の表情で敵を襲う。とにかく行動が速い。そして呵責がない。手段を選ばず、目的に向かって一直線に愚直に行動する。無表情も相まってサイコパスにも見える。

良かったね。私は贔屓目があるから正当に判断できないかもしれないが、面白かった。
異質なジャッキーもきちんと描けている。彼の持つ非人間性は人間的な感情に基づいているからだ。スイッチのオンオフのようにキャラクターが切り替わるのも特殊部隊の経験が生んだモンスターと言う感じで良かった。
なにより途中で気がつくのだが、実は破滅的な攻めも抑制が効いている。それが彼に陰湿な印象を与え、それがなおさら怖い。
本当の敵以外は不殺を貫く、それも格好いい。はじめの爆破から「これは、イカれてますわ…」と思ってしまうんだけど、そうじゃない。行動からクワンの心理状態と覚悟が読み取れる。そうするとジャッキーの無の表情に対する印象も見ている間に変わってくる。こういうの楽しいよね。
ひょこひょこしたいかにもおじいちゃんぽいあるき方や、強引な割に礼儀正しい態度も示唆的だ。ここらへんの描写はなにより一辺倒でなく、そしてくどくなく簡潔で好きだ。
ジャッキー・アクション(私が今作った言葉)といえばそこら辺に落ちているものを戦闘に利用するってのがあると思うんだけど、今作でもそれは健在。
ジャッキーは明らかに強いのだけれど演技しているときは必死の形相で、今作は特に痛みの描写は結構すごい。ただすかっとするんじゃない、見てて「いてて」ってこっちが顔をしかめてしまう。

復讐劇なのだが、どちらかというとピアーズ・ブロスナン演じる副首相ヘネシーとの対決に焦点を絞っているのが良かった。
ヘネシーは権力、家族、仲間、そして土地に対する由緒を”持っ”ている男らしい男で、外国人で移住してきて慎ましく暮らし、そして今家族を失ったジャッキー演じるクワンとは正反対。
クワンがヘネシーを追い詰めていき、次第に彼の力=持っていたものが剥がれ落ちていく。そしていよいよ対決という構図になる。

敵側の人間はクワンのことを「チャイナ・マン」と呼ぶ。
フォーリナーである彼(ら)は表情が読みにくいし、何考えているかわからない、というところからこの物語が生まれたのかもしれない。
原作者Stephen Leatherはイギリスの方でこの物語の原題は「The Chinaman」。

私が子供の頃はまだIRAのニュースが結構耳に入ってきた。
最近はとんと聞かないような気がしていたのだが、もちろん血で血を洗う抗争があっという間に終わるわけもなく、いまでも続いているのかと思うと暗澹たる気持ちになった。
日常生活を害すテロリズム、破壊行動は嫌なものです。

私達世代、具体的には30〜40代くらいで子供の頃にジャッキー・チェンの映画を見て興奮した方は是非どうぞ。
ちなみにエンディングに流れる主題歌はジャッキー・チェン自らマイクを取って歌ってる。これはホント最高。

2019年4月30日火曜日

DEATHRO TOUR2019 THIRTY-ONE≠ZERO. 『STARDUST MELODY』 RELEASE BASH 1-MAN 2DAYS@下北沢Shlter

私はお昼のライブが結構好きだ。
なんとなく気軽な気持ちで行ける。
というわけでDEATHROのライブへ。
ついこの間まで「デスロー」と読んでしまう(正しくは「デスロ」)ようなにわかである。音源は一個も持ってない。
雨が降ったので自転車NG。
GW時間なのかバスが全然来なくてヤキモキしたが少し押したのでなんとかスタートには間に合った。

DEATHROはもともとAngel O.D.、Cosmic Neuroseというハードコアバンドで活動していたが、2016年にソロとしてキャリアを開始しているそうだ。
お客さんはかなり入っていて、私は前情報がないのでどんな音楽だろうかと思いドキドキしていた。
いよいよライブスタート。

ドラム、ベース、ギターのバックバンドはラフな格好だが、DEATHROさんはバッチリメイクに、上下革で決めてくる。
曲が始まると結構びっくりする。すごくポップだからだ。
早くもなく遅くもないビートで、キラキラしているがわかりやすい(コード感のある)バックに、クリーンのボーカルが乗る。
ハードコア、という感じは微塵もなくAメロ、Bメロ、サビ×2、ギターソロ、(Bメロ、)サビという曲展開。
とにかくメロディアス。
おお、これはポップだ。洗練されている。そして無駄がない。
決して洗練はされていない。しかし垢抜けないのではない、懐かしいのだ。

これは楽曲やPV、見た目など、今の流行とは違う、特定の年代の音楽を意識されているから。具体的には90年台のJ-ROCKということだ。
インタビューを読むと、氷室京介さんやBOØWYやヴィジュアル系バンドの名前が出てくる、なるほど。
個人的にはDEATHROはヴィジュアル系の影響はありつつも、マニアックかつ独特の耽美さというよりは、もっと骨太なロックぽさが強め。
歌が強いんだけど、演奏はただなっているだけで耳に残らない歌謡曲ではない。
面白いなと思ったのはギターで、イントロやギターソロの入りにその曲のサビのラインをほぼそのまま、やや崩して入れている。個人的にはこのやり方が「あ、あの頃!」ってなった。音自体もクリーンに空間系を噛ませてブーストさせて太い、あの感じ。
今やると言葉は悪いんだけどちょっとダサくなってしまう。これはそのものがダサいんじゃなくて今の流行と断絶があるからに過ぎない。
だから変に手法だけ取ればダサいんだけど、DEATHROは全体的に90年台を志向しているから全体的にはすごくしっくりしている。部分的にとってきてリバイバルですよというのじゃない、根本から持ってきて(リスペクトがあるからできることだと思う。)今2019年に新しい音楽を作っている。
ギターのリフはキラキラしていて、反面裏のベースがかなりしっかりしていてリフが格好いい。
ちなみに終演後に気がついたのだが、耳に痛くはまったくないけど結構音は大きかった。

DEATHROはとにかく客を煽っていく。
盛り上げ方がうまくて無理やり乗せるんでない。
「もっと行けるよね」と煽ってくる。決して大きいライブハウスでなくても、すごく大きい会場のようなスケールの大きい煽り方。
観客はDEATHROに引っ張り上げられてどんどんテンションが上っていくような感じだった。
初披露の曲も「シンガロングしてよな」といって笑いを誘うが、実際めちゃくちゃポップなので本当に初回で歌える。すごい。(新曲の「プラスティック(もしくはラスティック)エモーション」という曲はすごく良かった。)

アンコールは丸山さんという女性のピアニストを迎えてのピアノアレンジを挟んで、ラスト2曲で締め。
楽しかった。


情報量が多くてあれこれ考えちゃう。
まずDEATHROさんは時代性を持ったアイドルだなと思った。
時代性というのは大体わかってもらえると思う。90年台のJ-ROCKだ。
でもじゃあ具体的には?ボウイや氷室京介の名前を上げることはできるだろう。でもそれだけじゃないよね。
そう、こういうなにかによく似ている感じ。いざ具体的にその似ている大本を上げるのは実は結構難しい。
なぜかというと「あの頃」は具体的なバンド(やその他なんでもいい)を含めた全体的な雰囲気であることが多いからだ。結構抽象的なんだ。きっとひとりひとり別々の「あの頃」があるはずだ。
みんなの頭、胸のうちにある「あの時(代)」を見事に体現している。
つまりDEATHROは抽象性を汲み取って具体的にこの世界に顕れている。(一つの現象といえますね。)
みんなの思いを具体的にして顕現している、これは偶像、つまりアイドルだなと思ったわけ。

ところがDEATHRO演じているようで演じていない。
スケールの大きいMCも上から目線では全然ないし。
地元県央の日常を歌にしているとのことで、歌詞は地に足ついて現実的だ。(個人的に新曲のもう一つ、歌詞が結構儚かったような気がする。「全部風になって消える」的な。)
こういう部分は現実に立って主張するハードコア由来だろうか。

ライブの雰囲気がとても良い。というのもお客さんが楽しそう。顔見知りも多いのだろう、終演後はみんな口々にライブの感想を言い合ったりしている。
元ハードコアの人ということで、サーフする人もいたし、アンコール最後はフロア前方の密度は相当。でも危険な感じはないし、女性も多かった。
みんな笑顔だ。わかる、初見の私も楽しかったもの。

DEATHROさんが「新しい時代は差別とかがなくなるといい」と言っていてたしかにそうだと思う。
ただ4月30日が5月1日になった途端に世界が変わるわけじゃないから、自分たちが良くしていかないとな、と思いつつ帰宅。

2019年4月21日日曜日

シャーウッド・アンダーソン/ワインズバーグ、オハイオ

いびつな人たちの書。
なるほど奇抜な人、奇矯な人、変人たちが出てくる連作小説だが、この本を読めば彼ら奇態な人たちが、時代と国を隔たった私(たち)と以外にも多くの共通点を持っていることに気がつくだろう。
実にいろいろな人達が出てくる。
子供、大人、老人。男、女。金持ち、貧乏人。既婚者、未婚者。親と子。夫婦。
そしてそのいずれの人間もどこかしらに孤独を抱えている。
これにも種類があり、友人や恋人がいない孤独、それから人がいる故に強調される孤独。

ワインズバーグという架空の町。町というのは人の集まるところ。人と集まろうとする試みが街と言ってもよい。ワインズバーグは小さい町だが、それゆえに都会にはない濃密なコミュニケーションがある。顔見知りも多い。
しかしそんな町であっても各人は程度は違えど孤独であり、そして自分の居場所はここではないという違和感を抱えて生きている。

人混みを嫌い深山の奥に隠遁する人嫌いの孤独ではない。
むしろ近くに人がいるからこそ感じる自分の孤独である。
周りの人たちは楽しそうにしているが自分には友達や恋人、語り合う人がいない。
もしくはようやくそういう人達に出会ったと思ったけど、心が通じ合えず断絶してしまった。

人の中にいる孤独のほうが、一人ぼっちの孤独よりなお悪い。
独りよがりなら希望があるが、その希望が打ち砕かれたのが人の中にいる孤独だからだ。
つまり失敗した希望として孤独であり、その挫折の記憶が脳に刻印され、今でもそれに苛まされている。
具体的には過去の出来事により現在の行動が捻じ曲げられている。
トラウマと言う言葉を持ち出すのは簡単だが、実際にその言葉を使わず力学を説明している。
帰らぬ恋人を待つ女、同性愛者としてリンチされそうになり逃げてきた男、結婚に失敗し最愛の息子ともすれ違う母親、肉欲に悩む牧師。
劇的な響きを持つトラウマと言う言葉の一歩手前、しかし彼らの架空の人生を見れば確実に過去の様々な蹉跌の実際的な力の持ちようを伺うことができる。
人間が学習する生き物なら、間違いなく過去の経験が人間を構成しているのである。

この本での失敗はほとんど他人とうまく関係性を築けないところに端を発している。というかそれ自体が問題か。
そうなると当然多くの人が住みながらどれも噛み合っていないとすれば、町というのが空虚であり、それ自体が皮肉の象徴に落ちてしまいそうだが、本書ではそうではない。
人々の虚しい他人とわかり合おうとする、という試みは常に継続中である。
すれ違ったり、言い争ったり、喧嘩をしたり、憎み合ったりしている。
そのエネルギーが、田舎の景観とあって妙に愛しく感じられるのもまた事実で。
いわば町の喧騒の招待を書いているのがこの物語といっても良いかもしれない。
その背後にあるのは悲しみだ。
でもそれでも人はこうやって儚い試みを続けていくのだ、生きていく限り。

この本には本当に幸せな人は一人も出てこない。
人は誰しも孤独だと作者が言いたかったのか、それとも冒頭に掲げられた「いびつな者たちの書」という言葉の通り、あえてそういう人たちに焦点を絞ったのか。
自分は後者だと思う。どんなときでも楽しめる人がいる一方、必ずしもどんなときでも楽しめない人達がいるはずだ。
そういう人たちはこの本を読んで共感するところがきっと多いだろうと思う。
特大の不幸はないかもしれないが、それ故いびつな者たちを見てその中に確かに自分の一部を見出すことができるだろう。
そういった意味では優しい本である。

2019年4月14日日曜日

山尾悠子/歪み真珠

タイトルの「歪み真珠」とはバロックという言葉の元ネタだそうだ。
バロックというのは「大仰で荘厳な」という漠然としたイメージだったが、どうもそんなわけでもなさそうだ。(私の持つイメージはどうもバロック建築に結びついている。ゴシックをバロックと混同しているような気もする。)

あとがきで歪み真珠とはバロックのことだよと書かれているわけで、本を読んでいるうちはどちらかというとダリの絵のようなシュールさがあるなと思っていた。
さすがに前衛的でどこをどうってもよくわからない、ということはないのだが、作者の各作品にはどれも不可解の要素が入っていて、そこから生まれる(登場人物たち、または読者の)戸惑いが完成されて美しい作品の背景、世界の水面をわずかに(大胆な破局があるわけではない。語り口のせいかもしれないが。)揺らすのだ。その波紋が多分山尾優子さんの小説の面白さだ。

幻想文学、幻想小説だと本当に想像力と言葉の魔術で見ただけではっと息を呑むくらい美しい珠のような物語を作り出す人もいるわけだけど、ここではそうではない。あえてちょっと傷がつけてある。
だから歪み真珠、というのはすごく納得感があるわけだ。読後に「あ、確かに」とひとり呟いてしまうくらい。

その歪みというのは何かとなると、一つには人間臭さがある。
たとえ高尚な世界でも、たとえば世界が延々と続く空洞であっても、そこに可燃物は希少だからという妙にケチ臭い人間心理がふっとでてくる。
魔法のようなどこか別世界。美しい別の法則が支配する異世界であっても、そこに住まう(多くは)人間たちには私達にあるような低俗な五感とハートがあって、なんだか一枚の絵のようにしっくりハマってこないところがある。(一枚の絵から着想を得てなんとも言えない違和感を物語にした「美神の通過」という話も収録されている。)
最終的に神話にならない物語というか。

完成されたあえて世界に泥をつける、いわば反体制の作家というのでは全然ない。
というのも幻想に対する”普通”や”日常”があれば、むしろ幻想の不可解性が顕になるからだ。
そういった意味では日常に怪異が侵食する「ホラー」というジャンルの手法に近いのか。
そういえば「ドロテアの首と銀の皿」は(これ私の頭がこの作品についていかずに単純な解釈をしていることは承知なのだが)怪談に読めなくもない。珍しく説明がつくのも含めてだ。

卑近な要素があるからと言って幻想の醍醐味が損なわれることはなく。
むしろ作品によってはかなり難解だったりするのだが(なかなか想像が追いつかなかったりする)、そんなときは同じく戸惑っている登場人物たちの気持ちで、おっかなびっくり作中を歩けばよいし。
そしてなにより完全に理解はできなくても、それに触れたり、楽しんだりすることができるのは芸術の良いところだ。

フォークナー/サンクチュアリ

この小説は作者が「自分が想像しうる限り最も恐ろしい」と評しているが何が恐ろしいかというと、バランスが悪い。(「八月の光」も正直同様に悪いと思う。)
悪を扱った小説で善悪のバランスが悪く、著しくいずれかに傾いている。
端的に言って正義が敗北するが、しかし正義が敗北するフィクションは巷にあふれているわけで、なぜこの小説だけが恐ろしいのだろう。なぜ読後感がこうもすっきりしないのだろう。

正義が敗北するのは悲劇だ。やるせない。
しかしこの小説ではそれは一つの象徴に過ぎない。
本当に悲劇なのは正義が常に概ね敗北する、その環境自体である。
「サンクチュアリ」は一つの事件を軸にその環境を顕にしようという試みである。

だから真犯人ポパイを排除した後もこの居心地の悪さが続いていく
それはつまり社会の、この世のいびつさの違和感であり、私達は否応なくそれにくるまれている。
ポパイは悪人だが彼はアウトサイダーだ。社会が生み出したモンスターと言うよりは社会に産み落とされた異端児である。
社会を作っているのは誰かというとそれは民衆になる。
あなたと私である。
前科があり、素行が悪いからという理由で(少なくとも殺人に関しては)潔白な男を断罪し、あまつさえ私刑にかける。
確かにこれは言語道断の非道に見えるが、しかしもし似たような事件が起こった場合、無論私刑はしないにしてもあなたは同じように彼の無罪を確信できただろうか?
私はそうは思わない。前科がありまた密売しているなら殺人だってやりかねないと思ってしまうような気がする。
偽証したテンプルも愚かなら、死を目前にして頑なに証言を拒んだグッドウィンも愚かである。実直に真実が無実を証明すると信じていたベンボウも愚かだ。
そして彼らの愚かさは私達みんながもっている愚かさなのだ。

正義の不在を嘆くというよりは、人間の愚かさに絶望している。
そしてその愚かさは治る見込みがないから、この物語は考えうる限り恐ろしい小説なのである。
現代批判だとして、批判したところで改善の見込みがないから。

ポパイという男の存在に騙されてはいけない。
彼は確かに悪人でトリックスターだが、本当の悪は彼ではない。
彼はいわばこの物語の狂言回しで、彼に対する反応で本当の悪=衆愚が暴かれていく。

有罪と信じ無実の男に火をつける男たち。
体面と街の秩序を気にし他人の生活にケチをつける信仰心の厚い女たち。
どいつもこいつも身勝手で主観的、何よりタチが悪いのは自分たちが正しいと信じて疑わないところ。
この間違った正義感、いわば悪を目指す悪ではなく、消極的な悪がホレス・ベンボウが持っていた正義感や親切心を破壊していく。
この世が地獄なら地獄の業火は私達自身がこの身に放ったのだ。
私達はいわば失敗しており、自滅している。

誤認逮捕されたポパイが死んでいくというのはそのまま彼の強運の裏返しであり、
真の悪に対する消極的な悪の完全勝利を表現していて皮肉である。

この世界に対する嫌悪感はベンボウの独白に現れている。

たぶんこういう状況のときに、人は、この世が悪でできていると認めるわけなんだ、結局人間は死ぬものだと認めるんだー頭のなかでは、かつて見たことのある死んだ子供の瞳を思い出し、また他の死人たちのことを考えたーそこでは憤怒も冷えていき、激しい絶望の表情も薄れていき、あとには二個のうつろな眼球が残って、そのなかでは極小の姿となった世界が深いところでじっと漂っているばかりなのだ。

この文から、ここからコーマック・マッカーシーにつながっていくのだと個人的には感じたのだ。
いわば呪われた土地としてのアメリカの物語だ。

2019年4月6日土曜日

スタインベック/スタインベック短編集

「怒りの葡萄」で搾取される農民の姿を強烈に描いたスタインベックの短編集。
「怒りの葡萄」は反体制、半経済主義の性質を持つが、スタインベックがなぜこの話を書いたのかと言うのはこの本を読めば少しは分かるかもしれない。
ここで描かれるのはカリフォリニア州のサリーナス渓谷の暮らしだ。調べてみるとこの地は荒れていて、砂漠の様相を呈しており、今でも未開拓の土地という印象。
ここで生まれ育ったスタインベックはこの土地を愛していたのだろう。そしてここに生きる人々の姿を小説に書いた。

大開拓時代、フロンティア・スピリットとは開拓者精神のこと。切り拓いた土地は自分たちのものになる。だから開拓者たちは必死で働いた。荒野を切り拓いて開墾し、牛と馬を飼いならし、食物を育てた。隙間風の吹く粗末な小屋を打ち立て、そこに寝起きした。ときには蛇蝎や外敵と戦うために武器を手にした。
彼らは強かった。なぜって自分の生活を自分たちの手で文字通り組みてたから。
彼らは寝る間を惜しんで働いたからなるほど学はなかったけど、愚かではなかった。
もちろん政治や経済だって当たり前にあった。
ただ彼らには彼らのルールがあって、それは彼らの自治体に属さない人々からすると古く、埃っぽく汚れていて、不合理で、奇妙に見えるのだ。

農民たち、田舎で原始的な暮らしを営む人々をさして純朴で単純で、そして少し愚かだというのは差別主義である。まず事実として間違っているし、そして彼らの作ったご飯をあなた方(つまり私達)は食べているからである。こんな事を言うと国産のものは高いから国外の食物を食べている、などというのは更に愚の骨頂であって、それは自分はバカで、お高く留まり、偉そうな面で顔のない人たちを搾取していますよ、と喧伝しているのと同じである。

農耕で暮らしを立てている田舎の人達は愚かではない。そして全員が素朴でもないし、何なら全員が善人では決していない。彼らは人間だ。あなたと私と同じ。
彼らと都会人の差が強靭さだ。
私が子供の頃大好きだった漫画で「今日から俺は!!」というヤンキー漫画(ヤンキー漫画じゃないという人もいるが私がこれこそヤンキー漫画だろって思う。)があって、その中で忘れられないエピソードがある。森にキャンプを行った主人公たちはメインディッシュの肉を忘れてしまう。同行した主人公の母親は農家で豚を購入し、主人公に殺せと迫る。可愛そうなので殺せないという主人公に母親が肉は食うのに他人にだけ殺させるのは卑怯だし弱いと説教をする。苛烈だが私はこれが真実だとも思う。(だから動物が可愛そうだから動物の肉は食わないという方々の考え方は理解できるし、立派だとも思う。)
これが田舎の人の持つ強靭さだ。彼らは殺して生かして生きているからだ。

スタインベックは農村部で暮らす人々の姿を正確に写し取ろうとする。彼らはすべて善人ではない。というか生まれついての悪人でも良いところがあるようにどんな人間にもある良いところと悪いところを、その混淆が作る生きた人間を書こうとする。
だからこの小説の登場人物たちは殺人を犯し、法から逃走しようとするし、酒を飲み娼婦を買うし、黒人を法の手に委ねずにリンチして殺したりする。
女性であろうと身を粉にして働く、一方で共産主義に走るものもいれば、労働を一切拒否するものもいる。
多種多様な人物はどこか、私達からするとどこか逸脱しているが、しかしこれらの人は(実際はそうではないがしかし)生きていたし、生きているべきなのだ。それがスタインベックの伝えたいことだ。
スタインベックは別に半経済主義者ではない、私の考えでは。彼は荒野を愛し、そこで生きる人達が実際にいて彼らは間違っているところもあるが愛すべき人間で、そして都市部に住む人間と同じように生きているんですよ、ということを言いたかったのだ。
更には彼らには自分たちのルールが有り、そしてはたからは不合理に見えるルールでも彼らにとっては生きたルールだったのだと、言いたかったのかもしれない。ここで私は殺人やリンチを許せといっているわけではない。でも例えば農民は無知だから差別主義者で不合理な殺人やリンチをするのだというのは間違っているだろう。

綿摘みで生計を立てる家族に他人(スタインベック本人だろう)が加わり朝食をともにする「朝めし」。この家族は他人に無償で与え見返りを求めない。朝めしをごちそうになる側も傲慢ではないが言葉少なげに感謝の気持ちを表し、半ば当然のような顔で食卓をともにする。朝焼けに染まる渓谷の美しさよ。この短編集でも一番だと思うけど、例えばこの物語だけ抜き出して、農民生活は素晴らしい、というのも間違っているとは言わないが、やはり十分ではないだろう。
だからこの短編集は短編集という形態で一つの物語なのだ。

2019年3月24日日曜日

ヴァージニア・ウルフ/ダロウェイ夫人

おおよそ物語というのは世界を切り取ろうという試みである。
巨大なそれを制限のある言葉や映像で表現しようというので、当然それは省略され、重要なパーツは誇張される。
事件が配置されて物語はある程度の典型を通ることになる。

こういったやり方に真っ向から反抗したのがこの小説。
この作品は世界の極小の一部をなるべくそのまま切り取り、そしてそれをあるがままに表現(しようと)した。
世界というのは日常(作品で頻出するところの「瞬間」か)の積み重ねでできているので、実際にこれを表現しようと言うならば、任意の日常(瞬間)を切り出せばそれで事足りるだろうというわけだ。
その考え方には同意できるが、おそらくは物語性が失われるため多くの作家はあえてこれを用いなかった。(もしくは頭に思い浮かびもしなかった。)

しかしだからといってこの小説を究極の写実的な小説というのには無理がある。
出来事をただ観測していくのではなく、登場人物の内面の描写にその殆どの文字数を割いているから。
他人の内面、心の動きを写実的に描写することは不可能だ。
つまりバイアスが掛かった見方になるが、しかし私達はバイアスなしには世界を見ることができない。
一度はフィルターがかかった状態でそれを見る。

この物語は筋的には全く大したことがない。ある婦人がパーティを開く1日をただ描いているだけだ。
そのありふれた光景がすなわち世界で。

クラリッサの別人格だが、彼が別の個人に分割されたのはおそらく、一つには本来検討された結末が劇的過ぎたせいだろう。
これだと物語全体が劇的すぎて普通の日常から乖離してしまう。
他人は死ぬが自分は決して死なないのが(主観的な、すなわちありのままの(私達は主観的にしか世界を認識できないので))世界なのだ。
もう一つは気分の浮き沈みが陰影濃く描写できるから。劇的ではあるがこれは一種のデフォルメである。私達にもある気分の昇降をわかりやすく描いている。

ウルフは今作で日常をそのまま書き取ろうとした。
じゃあ日常ってなんだ?それを考えるのは(別に考えなくても全く問題ない)読み手の仕事だ。
言うまでもなく彼女の、ウルフの目を通した日常は不安に満ちている。
この本に出てくる登場人物たちは(大抵男女の)二人組である。
夫婦や恋人が大半を占めるにしてもそれだけにとどまらず、色々なペアが出てくる。
およそこの他者との関係性が問題になってきており、登場人物たちはこれに翻弄されている。
常に相手によく思われたい。また好きじゃないにしてもそれには理由が必要である。要するに常に人の目が気になる。
よく言えば気を使っているし、悪く言えばビクビクしている。
いわば少し神経症的なところがあり、この終わらない痙攣めいた反射こそがウルフの目を通した世界なのだ。
それは楽しみを生み出しつつも、大きな負担を人に強い、結果的に登場人物はこの世界において多かれ少なかれ披露している。(エリザベスは例外か。)

男と女、夫と妻、長年の友人通し、富裕層と貧者、老人と若者、さまざな組み合わせが浮世の楽しみと苦しみを代弁している。
多分気にしない人も多くて、全く他人の目を意識しない人もいるだろう。
しかしウルフはそうではなく、彼女の代弁者である登場人物たちは磨耗していき、そして死に惹かれるようになる。
彼らは何か特定の出来事によって死ぬのではない。ただ日常の中で疲労していくのだ。
いわば生活が彼らを殺しているのだ。
この作品では(ウルフ自身の最後を考えるなら)まだ、結局人生は死んだ方がましだという小説ではない。
(だから当初考えられた通りに進んでしまえば全く違った小説になったはずだ。)
私の目にはそういった感情も含めて(彼女の考える)生活を描き出そうという試みに見える。

Twolow presents “garlic? Vol.7” @小岩bushbash

皆さんお元気ですか?
私はなかなか忙しくやっております。
悩みのタネは尽きない。
なくなったらこっちが探すからです。
生活が苦しいのはもう慣れるしかねえな、と思う今日このごろ。
なかなかかぶりが酷かったこの日、自分が行ったのは小岩。

FIXED
見るのは2回目、おなじbushbashで。
ストレートかつパワフルなハードコアかと思いきや、ファーストフルリリース後改めて見るとかなり印象が異なる。
ずらりと並んでアンプも異様で音がでかい。
ドラムも位置だけでなく前に前に出てくる印象。
全音音量マックスの迫力だか、聞いてみるとハードコアに留まらない何かを感じる。
単に空間系のエフェクトを噛ませたスローパートがあるからじゃない。もっと他の何かだ。
このギター、ギターがロックじゃない?
ハードコアの枠に収まらなくない?
エネルギッシュに前に出てくるかんじ、でも勢いだけでない、フックがある。
スピーディなリフの中にもう一つアクセントを入れるような印象。
敢えてそれをハードコアに噛ませる姿勢だけど、しかしそれによって確実に類を見ない音楽になっている。
ブルースとまではいかないが、ビンテージな感じ、少し埃ぽい。
確実に違うところもありながら、私の頭に浮かんだのは最近新作をドロップした金沢のGREENMACHiNE。(ちょうど聴いていたってこともあるか。)
そういえば彼らはHardcore Rockを標榜、実践している。
あそこまで泥沼に足を突っ込んだ泥濘サウンドではないが、タメがありながらもそれによって生まれる独自の突進力とグルーヴを展開しているという意味で似てると思う。
そうなるとスローパートも老人の仕事の浮遊感に通じるような…穿ち過ぎ?

ALP$BOYS
始まってすぐ思ったのはこれはファストコアではない。
まず露骨にドラムのリズムがおかしい。
シンバルを多用するフリージャズの要素がある。
粘っこいベースと噛み合って横ノリを生み出している。
なんだこれは。
そして歪ませすぎないギターの反復。
これはEarthlessのサイケデリアか。
ボーカルもハードコアな低音かと思いきやラップも披露。
フリーキーな横ノリで揺らせて、サビはロックの縦ノリで吹っ飛ばす、華麗な空中コンボ。
さながらRage  Against the Machineか。
ロックのフォーマットでアウトプットされているが、その実雑多でマニアックなな元ネタたちが渦巻いてる、鎌首もたげてとぐろ巻いてる。
そんな殺気をフルファストな曲に込めてシメ。
ボーカリストは野球の素振りめいた動作をしたり、ナーバスのときに一人モッシュをしたり、近寄りがたい雰囲気で格好良かった。
音楽的には豊穣なんだけど最終的にハードコアになっているのはこういったアティチュードによるのかもしれない。

sasaya-
最近リリースされた二枚目のアルバムがとても良かったが、やっとこ見ることができる
張り詰めている。
緊張感が。
スリーピースで突き刺すように尖ったギターの音。
必死の形相のボーカルの力の入れよう。
まるで愉快なお芝居を見に来たはずが、それは実は口実であり、実際には非公式の法廷で観客の私たちが丸ごと糾弾されているようですらある。
ただしそれだけではない。
それだけではとても説明がつかない。

音的にはジャンクと自ら称することもあり、なるほどハードコア、パンクの範疇から逸脱したひりついた殺伐さは、シンプルな編成飾らない音作りという楽曲のスタイルとあいまってUnsaneに代表されるノイズロックに大いに通じるところがあると思う。
ただし血塗れの世界を狂気を孕んだ目で、ある意味冷たく俯瞰する彼らとはこのバンドは一線を画している。
冷笑的な、つまり皮肉に富んだユーモアがsassya-にはない。
あくまでも主観的に、世界が血塗れならそこで苦しんでいる姿を表現している。
浮世の生がもはやよ呪いなら「脊髄のラスト」で命を燃やして生きろというメッセージはその呪いが解けないことを指しているから残酷である。

 しかし「きっと今より良くなる」というメッセージよりも私にらよっぽど真実らしく響くのだ。
良かったね、圧倒的に。

Nervous Light of Sunday
ハードコアは、特にニュースクール以降は怖くないとみたいな思い込みがある。
なにも銃声を楽曲のイントロにいれたり、マフィアぽさをアピールする必要は無くて
ライブで見た時おっかないかどうかである。
この日のラインナップでは異質だろうと思うが、異質さを一切隠すことなくハードコアの怖さを披露。
怖くてステージ前に行けないあの感じ。
ガッチリ固めた低音の塊と、耳障りな高音の単音。
それが何かしら人体に作用するらしい。
とにかくミュートでザクザクというより、強制的に抑えつけるようにバツバツ空間を切り取っていくのが気持ち良い。
速いし重たい、タフなんだけど、どこかしら何かに追われるような神経症めいたところがあり、個人的にはそこが好きだ。(いわゆる激情系に通じるところはあると思う。クールすぎない。)
モッシュパート一辺倒のブルータルハードコアというより、ちょっとCave Inみたいに捻った所もある。
あっという間に終わってしまった。
音楽的には全然違うけど、前のsasaya-から繋がっているような気がした。

Twolow
ベーシストのメンバーチェンジ後見るのは初。
メンバーみんなでかい。
まずドラム。
単に音量が大きいのか?
周りが下げてバランス調整してるのかもしれない。
いずれにしてもドラムの存在感よ。
音数は決して多くないが一撃の重たさと思い切りの良さ、「俺はこのリズムで行く!」という潔さがバチバチ来る。
ギタリストはpaleのメンバーでもあるが、こっちでのプレイスタイルは明らかにこのバンドに寄せてきている。
徹底的な引き算の世界。
ミニマルですらあるし、無愛想すぎる。
ベースのシンプルな骨太さがドラムと噛み合い、骨組ができるわけだけど、ギターが二本更に乗っても、体感的には骨組しかない。
リズム、リズム、リズム。
ここまで削ぎ落とすと、ハードコア的なカタルシスはない、どっしり落ち着き、コード感もほぼ消えている。
ところがボーカルにメロディがあって、それ故にTwolowがオルタナティブと称されるのも首肯できる。
日本のHelmet。
メンバーが運営しているレーベル、3LAの性格もあってついつい分かりやすい日本らしさを探してしまうのだが、しかしアメリカだ。
スプリットの相方Sunday Bloody Sundayもそうだけど、アメリカを感じてしまう。

どのバンドも違って、それを違和感なくまとめているのは主催者Twolowのオルタナティブの魔力だからか。
個人的にはALP$BOYSが楽しかった。音源聞いて「なるほどなるほど」ってなるのをいざライブをみると印象全然違って面白い。こういう野ライブの醍醐味だと思う。
あとsassya-はやはりすごかった。
今回は会場でぽちぽち感想の元ネタを書いてみた。bushbashは良いライブハウスだな〜。

2019年3月17日日曜日

コーマック・マッカーシー/チャイルド・オブ・ゴッド

高校生の時にたまたま見た深夜ドラマ「Trick」にハマった。
緊張感がありながらコミカルな内容に毎回楽しく見てた。
鬼束ちひろさんのエンディングテーマが良くて、その名も「月光」といった。
「I'm God's Child」という歌詞が印象的で、この世はとてもサヴェージで、蔑むべきここを押し付けられて生きているといったものだったと思う。
つまり彼女の言う「God's Child」というのは無垢な存在で、それがこんなにひどい世界で苦しんでいるといったわけだ。

一方マッカーシーの描く神の子は無垢で無害な存在ではなかった。
恵まれない容姿(小さい体、斜視)と同じようにひねくれた精神がライフルを手にし、山中に潜み人を殺し、またその死体を犯した。
言うまでもなく神はその似姿で人間を作ったのだから、人間の性質は神から受け継いだものだ。
とすれば、このタイトルはなかなかアメリカでは挑戦的ではないだろうか。
この残酷な獣が神の似姿なのだから。

マッカーシーは概ね残酷な世界を書いてきた。
その中で動き回る主人公や登場人物たちたちはいずれもタフだ。
単純に善人とは言えない(ときには明確に悪いこともする)が、いずれも読者を引きつけるなにかがあった。
ところが今作の主人公レスター・バラードにはそれがない。
彼は矮小で卑屈で、気が弱い。

思春期を迎えた人がそうであるように、私もかつてシリアル・キラーに関する資料を読むのが好きだった。
平山夢明さんの本や、インターネットの個人サイトでよく時間を消費したものだ。
常人にはできない殺人を何回もこともなげにやってのけるのだから、彼らは超人かあるいは逆に欠落しているだろうと思い、そこに魅力を感じたのだった。
ところが斜め読みしていくに連れてシリアル・キラーたちが貧困や虐待など劣悪な環境に育ったり、生まれつき身体に障害があったり、それらがなかったとしても性的不能が殺人に結びついていたりと、非人間性を求めていた私からするとむしろ普通の人たちよりよっぽど人間臭くて、なんだか思ったのと違うなーと思ってしまったのだった。つまりそこに私の求める劇的で暗い色をしたなファンタジーはなかったのだ。
レスター・バラードはフィクションだがこういったシリアル・キラーたちの系譜に正しく連なるものであり、貧困と無知、身体的な弱点を抱えている。いわば格好良くない方のシリアル・キラーの物語。
人の革をなめして奇妙な日用品を作ったエド・ゲインのようにレスターも殺した女の頭皮で作った鬘をかぶり、女装して人を襲うようになった。彼の場合は殺す対象とレイプする対象が一致しない点が面白い。彼にとってはいわばコミュニケーションの手段として殺人があるのかもしれない。殺してからレイプするやり口もかれのコミュ障っぷりを表現している。

人がおかしくなるのはどんなときだろう。それは他人とかかわらなくなったときだと思う。レスター・バラードは天涯孤独の身である。彼はアメリカの深い山の中で己の狂気を密かに高めていった。現実世界から乖離していき、同じ言語を喋ってももはや彼の言うことを理解できる人はいないだろう。(そういった意味では発狂しているといえる。)
マッカーシーの主人公たちはどれもたしかに孤独な人間で、中にはアウトローと言ってもよい人間もいた。しかし彼らは強靭であり、己の欲求を社会の中で勝ち取り、そして満たすことができた。
レスターはそうではない。自分の欲求を社会の中で満たすことができず、山の中にこもったが、一人で生きていけないから野に下り、そして殺人という形でコミュニケーションをとろうとする。
彼がお祭りで大きな人形を取りそれに執着する描写は滑稽ではあるが、私にはとても物悲しく思えてしまった。

ヒルビリーという単語を初めて知ったのはRob Zombieの「Hellbilly Deluxe」(hillbillyのもじりでhellbilly)だったと思う。「田舎者」という意味かと思っていたが、実際にはアメリカには都市部と山の境界で暮らす貧困層を表現する言葉としての側面があるようだ。
レスターの犯罪はすべて彼の責任であるが、しかし彼の貧困は?彼はたしかにヒルビリーであった。
日本人にはわかりにくいかもしれないが、こういった社会構造をマッカーシーは描いているはずだ。
そうなると「神の子供」の意味が少し変わってくる。生まれながらのシリアル・キラーというよりは、遺伝子と生まれついた環境、つまりアメリカの社会的な問題の混血児としてのレスターである。彼はアメリカの暗い側面の象徴である。

獣じみた神の子から野蛮な世界に産み落とされた無垢な子、という見方の転換は難しい(レスタは幼い頃から凶暴な性質はみせていた)が、それでも彼が理解不能の生まれながらのモンスターとは異なることが、最後まで読めば理解できる。
凶暴だがとにかく悲しいやつだ。妙に共感してしまう。

久しぶりに鬼束ちひろさんの「月光」を聴くとやっぱりいい曲だった。

コルタサル/奪われた家/天国の扉 動物寓話集

幻想文学というとだいたい2種類に分かれるかもしれない。一つは稲垣足穂のような絢爛で初めて見る景色なのにどこかノスタルジックな匂いのするおとぎ話めいたもの。もう一つは読み終えるとなんとも名状しがたい不安を感じさせるもの。
コルタサルは後者に属する作家であり、この手のジャンルにありがちな現実世界に少しづつ不可解が侵入してくる、といった趣の作品を書く。
この時不可解というのは不安の象徴であってそういった意味では、構造体で戒めの機能(例えばものを大切にしろと説く付喪神や、神社では行儀よくしろというおとろしなど)として働く(側面がある)社会機能としての「妖怪」に似ている。つまり不安の擬人化としての不可解である。
この手の不可解は登場人物(と読み手)に不安を掻き立てるが、特に読み手にとっては登場人物の神経や感受性に対する疑いを惹起させる。わかりやすく言えば「こいつは発狂してい(=統合失調症をわずらってい)るのでは?というもう一つの不安である。
「ぼんやりとした不安」に怯えたのは芥川龍之介で、彼もいくつも不思議な物語を書いている。この手の小説で面白いか否か、というのはその扱う怪異がどのくらい現実的か、普遍的かというところにかかっているかもしれない。というのも見たことのない不可解ならエンターテインメントだが、これが見知った不可解なら現実的な恐怖であり、そしてまた自分ひとりが神経過敏ではないという共感を得ることができる安心でもある。それこそが醍醐味であると言っても良い。

概ねほんの前半に収録されている作品に関しては、上記のような主人公たちの神経を疑う構造になっており、読んでいるとこちらも不安になる。「偏頭痛」は違うのだが、「バス」あたりから”他者”(この時明確に主事のうに被害を与える加害者として、そして主人公の妄想の理解者として)が登場し始めて空気が変わってくる。いわば前半の狂気は個人的な物語である。
後半は少し趣が変わって例えば「キルケ」などはこれはもう現代風の怪談と言ってもよいのでは。言いしれぬ狂気(独りよがりではなく社会性を持った実在する狂気)を描いていて、それらをグロテスクなアイテムが象徴しているクライマックスはゾクゾクする。
「天国の扉」はまたちょっと違って、ある意味一番社会性がある物語だ。立場が全く違う2人、一人は地位の高く豊かな男(=主人公)でこいつは低層にある人間を観察することが趣味のいやらしい男。もうひとりはお金はないけど情熱的な男で彼は最近愛する妻をなくしてしまった。普通の友人関係ですらないのだが(主人公ではない方の男の優しさで実は保たれている関係か)、そんな2人が同じ幻影を見る、という話。ここでは格差は解消されるためのそれであり(だから主人公鼻持ちならないやつなのである)、そんなものがあっという間に崩れ去る瞬間を書いている。悲しくも爽快である。このときは不可解が共有されている。

共有されていても不可解の性質が減じられることはなくて、引き続き理解することができない。ある物語は終わりを告げ、ある物語は終わったあとも続いていく。やはり日常の物語なのだと思う。

2019年3月10日日曜日

Extreme The DOJO vol.32@渋谷Club Quattro

ライブの開演前または転換中って何をします?
顔なじみの友達と喋ったり、またはtwitterをみたり。
ぜんぜん違うね、できる男はslackをやる。
渋谷Quatroは地上5階にあるため電波が通じないは言い訳にならず、月初に無理言って会社を出た私に会社から鬼のような連絡が来、いつもなら期待と不安が入り混じった緊張感で開演を待つところ、数値が合わないという連絡が来て半端ない冷や汗に包まれていたのがこの日の私だった。(本当にデキる男はきちんと仕事を終わらせてライブに来ます。)
そんな私の動揺を打ち砕いたのが、

Melt Banana
日本のNapalm Deathともスプリットを出しているはず。
見るのは初めてだが2人編成担っているので驚いた。ベースとドラムは事前に用意したもの(おそらく打ち込みだろうか)を使う。Man VS Manの関係性から生まれるオーガニックな阿吽の呼吸、というのが使えないのでまじできっちりマシーンに合わせに行かないといけないわけだ。
Melt Bananaは大きな音楽的な特徴がいくつかあって、その中の一つが変な音を出す。もっというとギターが変な音を出す。
およそグラインドコア界隈ではギターの音はダウンチューニングやエフェクターなどを積極的に用いて低音に偏重した音を出すわけなのだが、このバンドは違う。例えばギターの音を逆に切って軽くする、というのとも違う。
多彩なエフェクターを用いてギターの音色自体を本来のものから大きく変えてしまうのだ。こういう使い方はないわけではないけど、ほとんど飛び道具的なものになる事が多いけど、Melt Bananaは違う。そのサウンドがバンドの核の一つになっている。
この日もチープな光線銃のような音、速度を変えたり、ループさせて重ねたりと、ギタリストのagataさんが八面六臂の大活躍。
かといって前衛ジャズのような実験性は皆無で、バンドサウンド時代はグラインドコアそのもの。
一つは打ち込みによって繰り出されるベースが非常に強固なこと。ドラムは結構打ち込み由来の音の遊びはあったと思うが、ベースがかなりガッチリ、はっきりした輪郭で明確な(ただし起伏、フックがある)リフを描いていた。
そこにさらにボーカリストの操るコントローラで制御されるノイズがフリー(キー)に乗っかってくる。また違う混沌がここにある。
Melt Bananaってkawaiiコアだと思うのだ。それはボーカリストのyakoさんの見目が麗しいからでは断じてない。彼女の歌い方はやはりエクストリーム音楽の(またはハードコア)の流儀とは違って重たく、汚くない。
激しくも遊び心のある演奏と相まって独特の世界観を作り出しているのだが、それがまさにおもちゃ箱をひっくり返したような混沌、ハードコアにあるはずのないワンダーランドでそれがkawaiiのだ。
日本のサブカルチャーってやたら(アニメ/コミック主体の)オタク性と直結されるけど、なにも目がでかい美少女だけじゃなくてこういうのもあるよなって思う。
出音一発で完全に持ってかれた。仕事のこととかもう遥か彼方。どうでも良くなった。これだからライブって好きだ。Melt Bananaも最高にかっこよかった。

Misery Index
初っ端からアクセル全開のイベントだが、一切踏みっぱなしを緩めることなく2つ目のバンド。
出だしの口上であっという間にフロアの耳目と脳をガッチリ掴んでくる様からフロントマンの二人はとにかく華がある。ベーシストはそのスクリームもさることながら見た目も端正。小汚いギター兼任ボーカルとは好対照。
とにかくドラムが圧巻で正確無比かつパワフル。人間慣れるものだからエクストリーム音楽って実はエクストリームじゃないところがすごく重要かと思うのだが、そんなものはFuck Off!とばかりに常にツーバスを踏む。
そこに刻み主体のリフを載せてくるさまはアメリカ製のすべてをなぎ倒して進む重戦車であり、高速でありながら土を噛み、障害を押しつぶしながら乗り越えるその走破性に完膚なきまでに蹂躙されるのは気持ちが良いことだ。
こりゃ完全にデスメタルだ…と思ってあんぐり口開けてみていたわけなんだけど、音に慣れてくるとこのバンドの持ち味が見えてくる。それは荒廃でまじで戦車の通った後はぺんぺん草すら生えねえ、ってくらい荒廃している。メタルはリフの音楽だとすると正統派やはりそこに凝ってくるわけで、それはそれは絢爛なリフが生まれてくる。これはデスメタルでもそうだと思う。漆黒で塗りつぶすにしてもその黒というのは実は非常に豊かな表現で構築されている。
Misery Indexはそんな華美さがあまりない。ひたすらゴリゴリすりつぶしに来る。Dying Fetusのようにブルータリティの中にヘヴィグルーヴを持ち込むバンドもいて、確かに似ているところはあるもののこちらはグルーヴよりスピードに振った感じはある。
つまりグラインドコアの要素があって、そのストイックさが背骨を貫いている。だから武骨。ギターソロも短い。ぶっきらぼう。
ところが端々に、本当に端々に叙情的なアプローチがあるかなきか、そんな残り香があってこれが良いアクセントになっている。
ベーシストの方はHis Hero is GoneのT-シャツを着ていて、流石にクラスト感はないが刻み一辺倒でないリフなどに確実のハードコアの要素はあると思う。冷酷な殺人マシーンとかした殺し屋がたまに人間味を取り戻すみたいな感じがあって面白い。

Eyehatergod
いよいよ。前回の来日から時間が立っていること、ボーカリストのMikeが体を壊していたことなどもあり、この日お目当てはEyehatergodの人が多かったんだろう。シャツを着ている人も割合で言えば全バンドで一番ではなかろうか。
会場を覆う緊張感はこの日随一でビリビリしたあの時あの時間、期待感でステージを見上げているのは本当贅沢な時間だ。
メンバーが登場し、弦楽隊の二人は背を向けた状態でアンプに密着し、フィードバックノイズを出して無言で観客を煽っていく。普通の人なら騒音だろうが、ここには変態しかいないのでどんどんボルテージが上がっていく。
ギタリストのJimmy Bowerがおもむろに前を向き、ギターからシールドを外して指先で弄ぶとまた違ったノイズが発生する。湧く観客。もう、もう勘弁してくれー速くしてくれーーってところで曲がスタート。
ドゥーム、スラッジ、危険なアートワーク、どんなやばい世界が展開されるのかとワクワクしていたら、想像していたのと違ってびっくりした。思ったより殺伐としていない。こんな言い方はあれだが、楽しい。ノリが明らかに違うんだ。今までの縦ノリと違って横乗りというか、もっと余裕を持って体全体がぐるぐる回され揺らされる。
ギターはその巨体に似つかわしくなくかなり繊細なタッチでプレイする印象。もっと豪腕かと思いきや指使いはソフト。それでよく聴いてみると音の数も決して多いわけではないし、複雑なことをしているわけではない。特に最新作に収録のアルバムはBlack Sabbathというよりもっとブルージィな側面がライブだと強調されるような気がした。
なんと行ってもドラムだろう。とにかく溜めがある。さすがに一拍遅れるというわけではないが、2打目以降に独特のディレイがあって(これは毎回このリズムで打っているからも立っているわけではない)、それが多分この独特なグルーヴを出しているのだろう。ジャズで言えばスウィングなのだろうが、そこはEyehategodなのでグルーヴィでありながら、陽気にダンス!という雰囲気ではなくむしろ終始怠い感じで進行していく。
ベースはかっちりまとまっていてリフも明快。これは結構ハードコア的だろうと思う。スラッジというと遅いハードコアというイメージ。このバンドは結構それぞれのプレイヤーが微妙に異なる畑の流儀で演奏し、アンサンブルが組み上がると彼らの独自性溢れる音楽になっているような気がする。
音の数の少なさ、そして個々の音の伸びがグルーヴと合わさり、強烈な(低)音圧で体がブワッと浮かされるのだが浮遊感はまったくなく、時に重苦しいのはやはりボーカル、そして全編を覆う野卑でやかましく不穏なフィードバックノイズのせいだろう。
一時は危ぶまれたMike Williamsは小柄ながら存在感ありすぎる。この社会にフィットしないアウトローの風格が、斜に構えたような動きに出ていて最高に格好良い。喋り方も節々にダルさを隠そうともせず「Thank you kids」(「ありがとガキども」)といったり、頭をかきむしるようなアクション。適当にスタンドにマイクのケーブルを巻き付ける動作。指一本で鼻をかんだりと。とにかく堂々としている。とにかく格好いい!そして怖い。
しゃがれ声が喚くボーカルでいくら演奏が楽しくても基本的にはEyehategodは下に向かっている態度のバンドだとわかるだろう。
あっという間に終わってしまった。本当賞味の話あと倍やってもらっても全然大歓迎だった。

Napalm Death
最後はいよいよNapalm Death。気持ち的に目当てはEyehategodだったし、予想を遥かに上回るステージを目の当たりにして、失礼な話もう今日のもとはとったな〜くらいの気持ちだったのだが、これがとんでもなかった。
全身全霊のグラインドコアだ。掛け値なしのハードコア・パンクだった。ライブを見ているとたまに本当に鳥肌立って持っていかれることがあるけど、この日のNapalm Deathがそれだった。
まずドラムが凄まじいのは当たり前。でもMisery Indexとは少し違う。とにかくプレイが多彩すぎる。それをこともなげに短い1曲の中でコロコロ変えていく。音はこちらのほうが生っぽく個人的にはこれくらいが好み。とにかく気持ちが良い。
そしてギター。(MItch Harrisはツアーには帯同しないのでJohn Cookeが担当)グラインドコアって速度が命のジャンルでもあるから、リフがある程度似通っていたり、突進力のみが重視されても個人的には大丈夫。ただNapalm Deathはリフが恐ろしくキャッチーだ。短い曲の中でワンフレーズ聴いたらそれが耳に残って、知らない曲でも全然乗れる。別に複雑というわけでも、リフそれ自体がメロディアスでもないのだが、とにかく格好良くて耳に残る。これがドラムのフレーズの上にかっちり乗っかっている。
そして私が一番魅了されたのがボーカル。全力。とにかく全力。短パンに身を包んだBarneyはステージを動き回るような独特の動きをするんだけど、私にはそれが真鍮に何かをチャージしているようにも見えた。そうした高まったテンションとエネルギーを叫びとして放出するのだ。速い楽曲で叫び続ければ多少は声が追いつかないのだが、Barneyはそれがほとんど乱れない。すげえ。そして全力で叫ぶ。
速いってごまかしが効かないから地が出ると思う。Napalm Deathは楽曲は激烈なんだけどとにかく真面目でストイック。
私は正直バンドが曲名をコールするのってちょっと照れくさいなと思っていたのだが、Barneyがやるとめちゃくちゃ格好いい。Barneyはプレイする前にそれがどういう曲で何を歌っているのかを説明してくれる。私は英語がわからないのを恥じたね。でも少しは分かるところがあった。中でも印象的なのは今日のT-シャツの売上は日本の恵まれない子供に寄付するよ、ということだった。ハードコアがDIYで有言実行なら、Napalm Deathこそハードコア・パンクバンドだろと思ったわけです。(終演後に物販でビールを売り、これはホームレスの方がへのチャリティだということだった。)
弛緩しているのではなく、笑いがあるステージで見ているこちらも笑顔になった。
Napalm Deathは今もグラインドコアというジャンルの限界に挑戦し続けているのだなと
言うまでもなくグラインドコアというジャンルのオリジネイターであり、地上波のテレビに出演したり、度々来日もしているがまさか目のあたりにするとこんなにすごいとは。
Eyehategodももちろん凄まじかったし魅了されたけど、心底感動したのはNapalm Deathだった。


ライブ行くようになったのが最近なものでExtreme The Dojoは結構憧れのイベントなんだけど復活して、行けてよかった。何がすごいってメンツもすごいんだけどどのバンドもうるさいバンドッテ共通点はあっても、微妙にジャンルは異なっていてこの組み合わせだと思う。
EyehategodのT-シャツは終演後はもう全部なかった。フラッグと迷ったけどNapalm Deathの方を買って帰った。

ウトヤ島、7月22日

どんな映画でも楽しいシーンが少しはあるはずだがこの映画にはそれが1分もなかった。

この映画は2011年にノルウェーで実際に起ったテロ事件をもとに描かれたフィクションだ。かなり衝撃的な事件だったから覚えている人も多いだろう。
極右の男が庁舎を爆破、8人を殺害したあと湖にある小島ウトヤ島で無差別に銃を用いて更に69人を殺害した。当時の島ではノルウェー労働党青年部のサマーキャンプが開かれており、多くの若者が命を落とした。銃撃は72分間続いたという。

エリック・ホッペ監督はこの72分間をワンカットで撮影した。
作品を撮るに当たり当時島にいた被害者の方々に話を聞いたところ、複数の人が銃撃が始まってから警察が来て終わるまで72分間が永遠に感じられるほど長かったと答えたそうだ。この時間を表現するために実際の尺で撮ろうというのが監督の意図だ。

ウトヤ島は10.6ヘクタールの島だ。ピンとこない。106,000平方メートル。まだわからない。もし正方形だとするとこれは大体325.6メートル×325.6メートルだ。狭い。障害物がなければ見渡せる距離である。ここに700人。あなたなら逃げ切れる気がするだろうか?
当然当時に島にいいた人は犯人が単独なのか複数なのかもわからない。想像するまでもないが、銃と弾薬をふんだんに持った犯人に空手で立ち向かえるものではない。
なるべく銃声から離れる。ただし派手に逃げれば視認される中で逃げて隠れないといけない。彼らは永遠にも感じられる72分間(もちろん当時は72分なんてわからないから、ずっと)逃げなければいけない。
72分間、逆にとても短く感じられたのでは?と正直見る前は思ったのだが、そうではなかった。待っている時間というのは常に長いものだ。そしてそれが自分の命を終わらせるなにかを待っている時間ならなおさらだ。
1分1秒が長く長く、彼らそこに対抗するために様々な会話や行動を繰り広げる。それは真に迫り、混乱しており、そして時には妙に場違いに感じられる。死を前にした圧倒的な熱量とそして諦めが入り混じっているような空虚さが、ないまぜになってそれが彼らの力のない抵抗(他に何ができるのだろうか?)であり、絶望的な状況をそのまま表現している。

この映画はあくまでも被害者の立場に立って撮られており、犯人の主義主張に一切触れていない。彼の姿は殆ど一瞬しか映らない。
思うんだが人間は非常なもので69人が命を落としてもその知らせを聞いただけだとピンとこない。悲しいと思うが実際の衝撃が想像できない。監督の挑戦というのはこの意識を覆してやろうという試みにほかならない。あの時あそこで何が起こったのか。島にいた700人がどういう行動をし、そして何を思ったのか、それを考えてほしいというのがこの映画だ。69という数字の向こうにある現実(この映画はフィクションであるから現実のも方ではあるが)を今一度考えてほしいと。
そこにあるのは個人の、ひとりひとりの人間の死であり、死がそれだけで存在し得ないのだから、そこにはひとりひとりの生活があった。長回し一発撮りという制限(時間)の中でホッペ監督はなるべくその生が立体的に見えるように会話や仕草を練り込んでいる。
カメラは特定の誰かではないが、まるで主人公の女の子と一緒に逃げてるような視線で撮っている。一発撮りも相まって観客にも緊張感を強いる。私達は結末を知っているだけにさらに落ち込む。

編集や視点の変更、舞台の俯瞰、時間の短縮や跳躍、つまり時間と空間を固定した世界であぶり出されるのは1秒1秒の重さ、そしてリアルさだろう。私達の貧弱な想像力を刺激する。無音のエンドロールがずっしりと響く。考えてくれという監督のメッセージだ。極端なものの考え方、圧倒的な暴力と死、個人の死。個人が死ぬということについて。

2019年3月3日日曜日

フィッツジェラルド/グレート・ギャツビー

高嶺の花、身の程知らずの恋、成り上がり物の悲哀と孤独。この物語にはいろいろな要素が含まれているが、ある意味きれいにまとまった悲劇の背後にあるのは傲慢なものに対する怒りであろう。
完成された物語でとにかく結末まできれいに流れていく。個人的には演劇的と言っても良いくらいぴっちりハマっている。でもよく読むとフィッツジェラルドのメッセージが確実に含まれていて面白い。自分が気になったのは最後のところ、ギャツビーの友人(ギャツビーはある程度知己を得た人を親友と読んだが主人公だけが本当の親友だった。)である主人公が上流階級の身勝手さに戸惑いを覚えている最後にとどめを刺されて気がつくシーン。彼は生まれながらに跳んでいるものの傲慢さを「不注意さ」として表現、これを柔らかく表現しながらもその実強く、強く批判している。
持てるものは生まれついての傲慢さ故に、自分以外がどうなろうと知ったことがないのである。利用するだけ利用してそれをぽいっと捨ててしまう。主人公の(かつての)親友トムはギャツビーだけでなく、愛人だって身勝手に捨てているし、妻に対しても愛情はない。唯自分の持ち物に執着があるだけだ。持っているくせになくすことにはひどく敏感なのだ。
一方ギャツビーはどうか。彼は生まれたときから殆ど持っていなかった。どうしても欲しいもの、運命の女性にであい、そして苦難の中で危ない橋を渡り、自分の望むものを取りに行った。彼は金持ちになったが常に人に対して何かを惜しみなく与えてきた。真摯な男で自分のフィールドではない、上流階級のルールで戦ったのだった。彼ほどの富があれば、運命の人を手に入れるためにもっと違った方法だってあったのだろうと思う。

フィッツジェラルド自身豊かな出自ではない。彼は自分の力で本を書き、そして一躍時代の寵児になったのだ。彼の栄華は長続きせず、その上昇中下降中に様々な人々と会ったのだろう。
物書きだから多少は自ら進んでセレブリティーのカリカチュアを演じることもあったのではなかろうか。それは他人を喜ばせるホストとしての美徳であり、そして本当の自己を守るための縦だったのかもしれない。そんな中で様々な人にあったのだろう。その中には生まれついてのお金持ち、貧しいということの意味が本当にはわからない、考えたことすらない人々もいて、フィッツジェラルドはお近づきになりたいと思っていた彼らを目の当たりにし、時には嫉妬にとどまらない不快感や軽蔑を覚えたのかもしれぬ。
それはわかりやすい、読者の考える陳腐なストーリーに過ぎないが、しかしあくまでも絢爛であり物語としてきっちりしすぎていても、ギャツビーのたぎる情熱とそれ故の滑稽さは否定することができない。彼はいいやつなので、そんな彼を冷たくあしらう社交界は見た目ほどよいものではないのかもしれない。

「怒りの葡萄」とは全く異なる小説なのだが、上下の階級の差が描かれているところは共通している。一方「八月の光」は白人と黒人、横の階級の差だった。つくづくアメリカというのは徹底的に縦で横で階級闘争に明け暮れている。やはり面白い国だなと思う。
アメリカ人だけが闘争的だと言っているのではない。ただ彼らは日常的にそれを隠さず争ってきたし、今も闘っている。その根源は人ならば誰でも持っているものであり、だから彼らの物語が海を超えた日本に住む私に響くのだ。

2019年2月24日日曜日

エルモア・レナード/オンブレ

ジョジョの奇妙な冒険スティール・ボール・ランにリンゴォ・ロードアゲインというキャラクターが出てくる。彼の決め台詞が「ようこそ、男の世界へ」というもの。かなり特殊なキャラクターで、敵役ながら異様な存在感を放っていた。主人公たちを妨害するのは真剣勝負をするためなのだ。覚悟を決めたもののみが命の取り合いをする真剣勝負をすることができる。それがリンゴォ・ロードアゲインのいう「男の世界」なのだ。

この本には2つの短編が収められている。表題作「オンブレ」は完全に西部劇の世界である。無人の荒野でガンマンが悪役と対峙する。
思い出したのが冒頭の「男の世界」だ。この世界での男というのは覚悟が決まった男のことを指す。それはオンブレと呼ばれるジョン・ラッセルなのである。
彼は馬車で目的地を目指す一行の中で唯一の男である。覚悟というのは何もただ殺す覚悟というのでは正しくない。それは困難に自分の意志で、強靭な体と実用的な経験で立ち向かうその姿勢のことだ。
一行の他の人間にはそれがない。いわば羊の群れであり、真の男ではない。だから彼らはラッセルを理解できないのだが、異常な状況下では彼についていかざるを得ない。彼に頼れないと荒野では生きていくことすらできない。
同じくジョジョの奇妙な冒険の主人公ジョルノに言わせれば「覚悟と暗闇の荒野に進むべき道を切り開くこと」なのだ。
ハードボイルドだ。ハードボイルドというのは寡黙で、酒に強く、腕っぷしが立ち、女性にモテる、というのは本質ではない。
覚悟が決まっており、そしてさらに人に優しくならないといけない。

リンゴォ・ロードアゲインは純粋に命がけの勝負を欲する社会不適合者だったが、ラッセルは違う。必要な時以外の暴力は欲せず(必要だと思うときは十二分にその力を発揮する)、合理的な人間で可能な限り無理な戦いは避けようとする。
ラッセルは一人でこの苦境を脱することができたろう。一行をおいて行けば簡単に。だかそうはしなかった。寄っかかられたらほっとくことができないのだった。

覚悟に加えて、この利他の精神、そしてそれと反比例する自分の命への無頓着さ、これこそがハードボイルドなのだ。
他の記事でも書いているが、ハードボイルドというのは独りよがりの世界なのだ。格好良くてもそれは外から見ればそう見えるだけで、たとえばラッセルに家族がいたらまたこの物語は違う見方が加わるだろう。
こういった特性は常に滅びゆく、なくなりつつある力として描かれる。開拓地としての西部が血の抗争を経て平定され、その役目を終えて消えていったように。

一方でもう一方の短編「三時十分発ユマ行き」の主人公はラッセルに比べれば人間的である。彼は覚悟、つまり職責によって男になる話。こちらのほうが短い分緊迫感があり、また主人公に共感できると思う。

サミュエル・ベケット/ゴドーを待ちながら

二人の貧しい男が決して来ることのない男をずっと待ちわびている。
待っている間することがないのでなんなやかんやで暇つぶしをしようとする。

いろんな物語には原型や典型があったりする。これは典型というよりはもはや日記に近い。動きがあっても繋がりがない。ただただ時間がダラダラと過ぎていく。途中で登場人物が増えるものの会話は妙にふわふわして噛み合わず、そして定まらない。走行しているうちに日が暮れ、待ち人は遂に来ないことが発表され、また明日は必ずその人は来るので待ってほしいと言われる。
これって何かと言われると私達の生活にほかならない。私達の生活は本当に同仕様もなく、そして自分たちは貧しいけどいつか救い主がきてそうすると私達の毎日は劇的に向上するはず。今は良くないけど今後良くなるから頑張ろうというわけだ。待ち人、つまりゴドーはキリストやその他のマスコットである必要はない。例えば宝くじが当たるでもよいし、お金持ちの男(との結婚)でも良いし、自分への正当な評価である出世や予期せぬ遺産相続でもよい。ゴドーとは私達の希望の総体、擬人化されたそれであり、そしてそれはくるくるとは言われているのに、決して来ることがない。

昨今のベンチャー起業家、実業家、金満家なら「主人公の2人は待っているだけで自分から行動を起こさない。彼らの貧困は自己責任。」とでものたまいそうだが、しっかり今作にはそんな金持ちが奴隷を引き連れて出てくる。彼ポッツォは奴隷を搾取することで生活の水準を満たしているのだ。満たされているがゆえにゴドーを必要としないが、そんな彼にも不幸が訪れる。
こうなると俄然ゴドー=死説が現実味を帯びてくる。無慈悲なゴドーを私達は待つ必要がないのだが。主人公2人は常に自殺が一つの解決策として検討している。待っても来ないならこちらから会いに行こうというわけだ。
死への欲求タナトス、しかしそれは貧者にのみ許された最後の贅沢でもある。一方止めるものは望まなくても迫りくる死を受けれなくてはいけない。

この本は限界までに余計なものを削っている。遂には話の筋すらなくなってしまった。そのシンプルさはさしずめ鏡となって人はそこに自分の顔、つまり自分の望むものを見るわけだ。そういった意味では読み手側にとっては楽しい本だ。作品の解釈をあーだこーだ考えるのは、受け取り側の醍醐味だからだ。正解はないので虚しくもあるんだけど…。


2019年2月17日日曜日

leave them all behind 2019@渋谷O-east

CONVERGEとNEUROSISが来日。これは行くだろう。
私なんて妙に焦って会社から抽選申し込んだくらい。そしてあっという間に当日が来るのだ。
開演後、ロッカーに荷物を入れるのももどかしいくらい逸る気持ちでステージ前に。

Self Deconstruction
久しぶりに見たが他に類を観ないバンドだなと改めて思った。
グラインドコア、パワーバイオレンス、似たようにうるさくて早い音を出すバンドはたくさんいるけど、よくよくこのバンドを目前にするとその特異さがすぐに分かる。
大きい特徴はほぼリフレインがない。メタル(ハードコア)はリフの音楽だというが、ほとんどはいくつかのリフによって楽曲が組まれている。いくつかの(多すぎない)コードがポピュラー音楽の楽曲を形作っているように。
ところがSelf Deconstructionは違う。リフを惜しみなく使い捨てていく。一回使ったリフはもう出てこない。(ように聞こえた。)まさに究極の贅沢。これって特にエクストリーム・ミュージック界隈ではかなり難易度が高いことに思える。尖れば尖るほどバリエーションを出しにくくなる界隈でお約束的なリフを使い回すことができないのだから。つまり弾き手の引き出しの多さが試されている。Self Deconstructionの楽曲をそういう観点で聴いてみると、ギターは確かに低音を貴重としながらも指板を文字通り縦横に行き来する相当フリーでフリーキーな弾き方をしている。すごい。グラインドコア、パワーバイオレンスに仕上げている、といってもその中身は相当異次元だよ。途中で「Concubine」のカバーを披露していたと思うけど、あのぶっきらぼうな曲ですらリフレインがあり、あきらかにセットリストで浮いていたもの。(もちろんとてもかっこよかった。)単に弾きまくるわけではなく、しっかりキャッチーなリフも挟んでいく。
3つのバラバラの個性がかっちりあっているからまた格好良い。お互いほぼ見ることないのに、決めるところはきっちり合わせてくる。

ENDON
昨年後半にリリースされた最新作「Boy Meets Girl」は明らかにそれまでの文脈とは異なる問題作だったと思う。そういった意味でも最新の形のライブを見たかった。
のっけからCONVERGEのKurt Ballouがプロデュースそた「Through the Mirror」のキラーチューン「Your Ghost is Dead」でぶっ飛ばす。いつものENDONだ。ところがライブが進むとどうも様子がおかしい。特に新曲群が異常だ。表面上はメンバー2人が垂れ流す激音ノイズがうるさいエクストリーム・ミュージックなのだが、なんだか…あれ?楽しい?すごく楽しい。なんじゃこれと思ったら、ドラムだ。豪腕だがリズムが明確ではっきりしたロックドラムだ。ミニマルなリズムがむしろロックを通り越してダンス・ミュージックに聞こえ始める。言語外のボーカルの存在感は一旦おいておく。そうなるとその他の音の出し方が非常に巧みだ。程よく重たくないギターは言わずもがな。しかしなんといってもこのバンドの主役ノイズの使い方だ。たしかにうるさい。でもいつもハーシュノイズが爆音で流れているわけではない。ときには音を小さく。時には完全に止め。また時にはハーシュノイズではなく、鍵盤から流れ出るような美麗な音も出てくる。これらの音のON/OFF。つまりビートを基調にそこに音を重ねていくやり方は確かにテクノ、ダンス・ミュージックのやり口ではないか?
「Boy Meets Girl」は単に逆に切った奇をてらうだけの飛び道具ではなかった。彼らはとっくに新しい未知を模索し、そして大胆に舵をとっている。かっこいいぜ〜。
初めてこんな広い会場で見たが、この広さの似合うこと。汚く狭い地下室(大好きだ)とは違う高い天井、その余白がなんだか異常にENDONにあっていた。

CONVERGE
続いてはいよいよ今日の主役の片方。ハードコアの街ボストンでジャンルを更新し続けるバンド。もはやその影響は語るまでもないでしょう。観客の期待度も半端なく、前に前にの圧がすごい。ドラマーのBen Kollerが肘の怪我でお休みのためRough Francisというバンドでドラムを担当するUrian Hackneyが急遽代役に。MCによるとほとんど練習する時間もなかったらしい。重たいカーテンがいよいよ開けられるとそこにいたのはCONVERGEだった。
初めて目前で見るとCONVERGEの異様さに気がつく。なんだろうこのハードコアは。完全にハードコアだけどエモーションが溢れすぎている。それはハードコアにしては複雑な楽曲(とくにKurtのギターは低音から高音まで隔てなく用いるリフはもちろんタッピング、ギターソロなど技巧的にも複雑だ。)、そこに内包される特に新作では顕著な(クリーンで歌われることもある)メロディライン。これらの要素は個別ではあるいでは複合でももはやハードコアのシーンでは珍しくない。ただこれらは諸刃の剣で、これらを多用すると音のヘヴィさとは別の「重たさ」が生じて、ハードコアから距離が離れてしまう。とたえばDeathwishならCult LeaderやOathbreaker、日本なら独自の激情系など。ところがCONVERGEに関して言えば表現力が他の追随を許さないくらい豊富なのに、どこまでいってもハードコアなのだ。どうなってんだ。
様々な楽曲の随所に仕込まれているシンガロングパート。乗車率200%のギュウギュウのおしくらまんじゅう状態で拳を振り上げ叫んだ。
Jacob Bannonはとにかく華があるシンガーで、特徴的な歌い方も初めて見るとちゃんと歌っているし(これはセットリストの関係もあるかもしれない)、細身で長身な体をよく動かす。マイクをぶん回してキャッチする、マイクに覆いかぶさるようにシャウトする、水を頭にぶっかける、両手を大きく広げて観客を煽る、どれもすごく画になる。MCは暖かく、またリラックスもしている。
その他のメンバーもさすがのベテランなので落ち着いているが、決して弛緩することはなく、ただ勢いだけではない楽曲、というよりは勢いがありつつ複雑な曲をがっちり合わせてくる。
クラウドサーフが結構発生していて、ステージと客席に隙間があるのでJacobはちょうどサーフ後に落ちた観客にマイクで歌わせていた。みんなすごい笑顔だった!
本当に時間がすぎるのがあっという間でラストの「Concubine」。なんとSelf Deconstructionのボーカリストの方と共演。すごかったなあ。

NEUROSIS
ラストはいよいよNEUROSIS。結成34年。様々なバンドに影響を与えたバンド。私が初めて知ったのはTVKのビデオ星人で流れたライブ動画。さっぱり何がなんだかわからなかったです。あれから20年位経っていまライブをようやく見れるのは感慨深い。
中核メンバー3人は全員髪の毛やひげに白いものが混じり(というかほぼ白い)ロマンスグレーな感じ。Scott Kellyは体格もよく、アメリカの田舎の偏屈おじさんのようで見た目からして怖い。(ギターよりチェーンソーなどが似合いそうだな…とちょっと思った。)
大阪名古屋の感想を見ると絶賛する人が多数。いざ目の当たりにするとたしかにすごい。どのくらいすごいかというと結構ずっと鳥肌立っていた。いやもう「神だな」って終わりにしたいのだが、なんとかそ(れらの音楽や本)の凄さを言語化したくて始めたのがこのブログなのだった。
分厚い音で静と動を大胆に取り入れた楽曲を演奏。実はそんな奇をてらったことはしていない。音はたしかにでかい、轟音と言っても良い。ただし音量やバランスはきちんとコントロールされていて耳に痛いということはまったくない。そして音もどこまで行ってもオーガニック。経年によって水分が抜けた頑丈の木材のような音だ。分厚いが温かみがある。
またスラッジといっても不吉なフィードバックノイズを必要以上に撒き散らすことはしない。むしろたっぷりと空間系のエフェクターを繋いで出した浮遊感のある音を曲中や曲間のつなぎに使っている。特にベースは結構曲中でも独特の音を出していたようだ。
かといって強面の大人がやっているゆるふわ系ポストメタルではまったくない。楽曲から見えるのは30年以上に及ぶ試行錯誤の歴史である。
たっぷりと時間と間をとった楽曲だが、引きずるようなドゥームさはなく、明快に区切られた音はやはりハードコア由来のスラッジだろうと思う。そこにアタックが強いが非常に明確にリズミカルでよく回転する、つまり重量感がありつつも跳ねるドラムが加わる。
原始的と言っていいようなシンプルで強靭なリズム、弦楽器のときにアンビエント、ときにラウドなアンサンブル、立体的なサウンドで時間をかけて楽曲を織り上げていく。トライバルだ。トライバルな呪文のようだ。
「Times of Grace」の「The Last You'll Know」。セットリストに入っていることは知っていたが、ライブで聞くのはやはり別格だ。私はこの楽曲が好きなんだ。厚みのある轟音が私の体にじんわり染み込んでいく。涙が出そうに。


終演後「Times of Grace」のパッチ、(オタクだから)2つ買ってこ!と思ってたら見事に売り切れだった。前の方に行きたかったから開演前に物販に並べなかったのだ。仕方ない。
個人的にとても思い入れのある2つのバンド、いっぺんに見れて幸せ。やっぱり別格だなと思いつつも、日本から迎え撃った2つのバンドも只者ではなかった。楽しかった。

2019年2月11日月曜日

ジョン・スタインベック/怒りの葡萄

こんな私でも働いている。こんな私でも受け止めてくれる会社があるというのは良いことだ。仕事ができないので時間でカバーさせられているのだが。
さてそうして働いている人に合うこともある。爽やかで私よりずっと若い営業マンである。今となってほとんどの人が使ったことがあるであろう通販サイトだ。もはや巨大すぎて通販というか物流の何割かを担っていて、それ故に問題になったりもした。ピッタリとしたスーツに身を包み、髪の毛を今風におしゃれだが、遊びすぎないくらいの程よい短髪にし、ピッタリと固める。その彼いわく「ウチは質が良い商品を安くお客様に提供することができます。なぜなら一番良く見られるページに表示されるには価格を下げること、ユーザーへの応対が良いこと、これらの条件を満たさないといけないからです。」なるほど。彼は爽やかな顔で去っていった。うちの会社は彼の進めるシステムを導入するだろう。私は浮かない顔で自分の席に戻った。
私は会社の行き帰りに本を読んでいる。今はジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」だ。

貧しいということは、豊かであるということはどういうことだろうか。
私は選択肢の過多だろうと思っていた。いま日本では豊かさというのは金のあるなしであって、例えば金がなければパンの耳しか食えないが、金があればコンビニで、ファストフードで、ファミリーレストランで、高級レストランで、ステーキが、寿司が、天ぷらが、なんだって食べることができる。
たくさん食べることができるのが良いことというよりは、その時その時自分のいいように決められるということが私の考える豊かさだ。
最近はなんと行っても食わないという選択肢もある。糖質が気になるのだ。一回飛ばしてその後なにかすごく良いものを食べるんだろう。

今はもう情報がある程度均一化されていてみんな必死になっている。何かを買う場合は店に見に行き、そしてその場で現物を確かめて1円でも安いものをネットで買う。効率性のみが神であり、情報を使えないやつは情弱でコスパが悪いのだ。
だがそれでみんな豊かになっているだろうか?
近所にやすさを売りにする量販店ができ、みんながそこの黄色い袋を持っているのが嫌だった。
安いものを買うのはいい。自分もそうしている。でも安く使うということは自分も安く使われるということなのだ。自分だけはいつかこの境遇から抜け出すことができる、いやほとんど無理だろうと思う。

会社の上司が言っていた。今の人は狭い部屋に住んで安いものばかり食べているが、高いスマートフォンや車、服などを単発的に持てれば自分をそこそこの金持ちだと思いこんでしまうのだろうと。馬鹿だなあというよりはなんだか悲しくなっちゃうよねえと力なく微笑む上司は結婚しており、家族を養うのに必死だ。働くということの意味が私とは違う。

今この物語を読んで中には主人公であるジョード一家に同情するどころか避難する人もいるんではないか。彼らは昔ながらの生活に甘んじ、その生活がもはや何ら保証されなく鳴ったことに気が付かなかった。良いときにお金を貯めることもしなかったので、結局失業し、自分の意志で学もなかったので結局他人にこき使われて死ぬしかないと。まとめれば自己責任なのだと。
表面だけ撫でればそんな感想もあるかも知れない。しかしよく読めば主人公たちを同じように迫害するカリフォルニアの中産階級もどんどん新しいアメリカの経済によってその仕事を奪われ、奴隷になる未来が描かれている。いつの時代も同じだ。ほぼ同じ階層でお互いにいがみ合っているのも。
今も昔ももうすでに富を持っているものが、持たざる者同士で争わせ、労働力を安い賃金で買いたたき、死ぬまでこき使っている。同じ人種で、異なった人種で。この日本でも日常的に起こっていることだ。コンビニやファストフードに入れば店員の殆どは外国人だ。実質これは搾取にほからないない。コンビニのオーナーは非常に厳しいと聞いたことがある。(売れる見込みがある良い土地の店舗は本部の直営店なのだろうだ。)そしてオーナーたちも生活できないなら外国人以下の賃金で働かされるというわけだ。
持たないものは持つもののルールで戦うしかないのだ。少ない賃金で終わりのない価格競争で疲弊していく一方、上に行けば行くほどその薄利のうまい汁を吸っている。
そして彼らは知的に優れているのでそうする権利があり、今貧しいものは結果的に愚かなのでその貧困と苦しみは自己責任というわけだ。

うちに来た営業もときに何も考えずに、自社の素晴らしい質と価格の保証について語ってくれたが、要するにどこでもそんな事が行われているのだ。私達もただ被害者というわけではなく、安いもののみを購入することでその立派なシステムの完成に一役買っているというわけである。

今はもうジョードたちと違って私達は滅多なことがなければ飢えて死んだりはしないし、理不尽な言いがかりをつけてゴミのように殺されることもない。
私達は何ならそれなりの生活をしているように思っている。しかし少なくとも私は周りを見回すと、みんな生活に疲れていて、将来に不安がある。もしくは子供を持ちたいのに持てないでいる。私は現状の生活が最悪だとは言わないが、どうも緩やかに真綿で締められるように自分たちの命を搾取されているような気持ちがあるのも正直なところだ。

これは私の個人的な感想に過ぎない。この本を読めば読んだ人の数だけ感想がある。
私的にはオーウェルの「1984年」に並んでこの「怒りの葡萄」に関しても全人類に対する課題図書にしたいなと思った。

2019年2月6日水曜日

sassya-/脊髄

東京のスリーピースハードコア・パンクバンドの2ndアルバム。
事前に公開されたMV「だっせえパンクバンド」がとても良く、楽しみに購入。
全9曲27分とコンパクトにまとまったアルバムを通して聴いてみると、しかしかなり印象が違う。
唸るギター、勢いのままに突っ走る様はまさにハードコア。
しかし何か違う。何か非常に重苦しい。暗い。陰鬱だ。これはおかしい。陰鬱を吹き飛ばすような爽快なバンドではなかったか?

アルバムの紹介で引き合いに出されるのがFUGAZIだ。
程よく音を抜いたジャギジャギしたギター、勢いがあるが決して飛ばしすぎないスピード。調整された速度の中でしっかり染み込んでくる歌詞、つまり主張。
ぶっきらぼうで飾らない。タフではあるがただうっぷんを晴らすバンドとは違う。
たしかにsassya-はこの延長線上にあるバンドだと思う。
極端に言えば「お前らが悪い」と主張する攻撃性から、「お前らというのは私達ではないのか?」と自問自答するハードコア。
ダサい(パンク)バンドにはなりたくない。俺たちは本当にそうでないといえるのだろうか?というのはまさしくこの系譜に属する内省的なアティテュードを表している。
だがFUGAZIはここまで陰鬱だったろうか?
sassya-のこのアルバムはなんか苦しい。勢いですらその背後に息継ぎなしで泳ぎ続けるような息苦しさがある。一種の異常なテンション、つまり緊張感(と弛緩)が張り詰めている。

ある音源を何回か繰り返し聴いていると急に気がつくことがある。
今回もなんだろうな?と気になりつつ聴いていて思いついた。
ノイズロックだ。
ギターの音に代表されるノイジーさはもちろんハードコア由来でもあるのだろうが、もう片親はノイズロックではあるまいか。
ノイズロックはその身に狂気をはらんでいる。
ノイズロックの楽しさというのは抜き身で、素っ裸でその危うい内奥をさらけ出す感覚だと思う。
だから彼らは人数は少なく、そしてうるさくはあっても、複雑なリフや必要以上に重低音にこだわらない。
あくまでも周りにあるものでその狂気を表現しようと試みるのであり、そうすることで他にはないすごみが生じる。
アメリカの狂気を体現し、皮肉な視線でそれを語るUNSANEとまではいはかないが、それでもここにあるのは勢いだけで突っ走るストレートさの範疇にはとどまらない、もっとドロリとした何かを感じる。それは狂気じゃないにしても、ただお気楽な歌に丸めて飲み込めるような何かではない。もっとささくれだったなにかだ。

ノイズロックと捉えると音の尖り方、抜き身の緊張感、そして一見それらと相反する微妙な歌心も理解できる。
特にメロディについてはオルタナティブ由来かなと思い、たしかにそうだが実はもっと深いノイズ「ロック」がルーツだとすると納得感がある。
なんとなく日本のRedsheerに通じるところがあると思ったのだが、ハードコアの枠にとどまらない陰鬱さに共通点が、表現の技法に差が出ていて面白い。

単にハードコアとノイズロックのクロスオーバーというのではない。
両者の間の絶妙な綱渡りだ。奈落の上で揺れる危ういバランスの美しさ。
後半にかけて真っ逆さま落ちるように盛り上がっていく。

どこまで行ってもsassya-は正気の音楽だ。
ここが前述のRedsheerとの決定的な差なのだと思う。(Redsheerは歌詞が非公開なので断言できないが。)
血まみれのバラバラ死体も、大鎌を構えた死神もいない、大量殺戮もない、事件すらない。あるのはダラダラ続いていく毎日。これは白線の内側の物語なのだ。(8曲目「T」の歌詞を読んでほしい。)踏みとどまった、死ななかった人の正気の世界だ。人生の大半が苦しいのだから、曲を作ればそれは陰鬱としている。
ノイズロックだけどニヒルじゃない。ハードコアの前向きさが後ろ髪を引っ張って、結果的にはっきりと迷いが露骨に出た曲になっている。日々の懊悩が重苦しくのしかかるが、私はよくよく迷う人間だから、こういう音楽が好きなのだ。
ラストの脊髄のクライマックス、
「いつだってそうだ
 生活の狭間で
 唯、立ち止まり
 途方に暮れる
 跳んだつもり
 それでも日々が
 止め処なく
 押し寄せる
 続いていく
 だから」
とてもとても良い歌詞だ。
そしてこの後に続く一言が。
もうこのアルバム自体がこの一言のためにあると言っても過言ではない。
脊髄は↓で聴くことができる。