2019年5月12日日曜日

鼓直編/ラテンアメリカ怪談集

自宅の小さい部屋の閉じこもる私にとってラテンアメリカは未知の土地である。
メキシコでは麻薬戦争が常態化し、そして人々は死者の日やサンタ・ムエルテに代表されるように死にたいして独特の信仰を持っているとか。
それではキューバでは?ウルグアイでは?
全然わからない。
作家で言えば、ボルヘス、マルシア・ガルケス、バルガス=リョサ、コルタサルくらいか。
そんな私にとっての暗黒大陸であるラテンアメリカの、更に怪談とくれば買わないわけにはいけない。

死者が鬼として起き上がる中国の怪談、古式騒然たる荘厳な屋敷に曰くある幽霊が出現する英国怪異、表情豊かな妖怪たち恨みを持って、または死んだ女の幽霊が人を脅かす本邦の怪談。
どうもラテンアメリカの怪談はこれらとは合致しないようだ。
いわゆる私達の頭の中にあるオールドスクールな「怪談」の範疇に入るのは意外に少なくて、ウルグアイのキローガの「彼方へ」、メキシコの作家フエンテスの手による「トラクトカツィネ」のみだろうか。(これが一番幽霊譚かなと。個人的には抜群に怖く、そして面白い。)

いわゆる幻想文学という範疇に入るような作風の物語が多いが、面白いのは概ねどの話にも「死」の要素が入っている。
死を描くってどういうことだろう?
ただの死はニュースで聞く海の向こうの死と同じだ。痛ましいが数値でしかない。
つまり物語において死を描くというのは生を描くことだ。
わかりやすいのは日本的な幽霊譚で、多くの物語がなぜ彼もしくは彼女が幽霊となったのか、というのを解き明かすことが物語の軸になっている。(「モノノ怪」という非常に優れたアニメを思い出す。)

「断頭遊戯」や「魔法の書」などはそんな死に至る(あるいは至らない)奇妙な、数奇な運命をたどる生を描写していく。
幽霊にしても死後存在し続けるというのは生きている人たちにとっては慰めである。
そこをバツリと断ち切るのがラテンアメリカの死生観なのだろうか。だとしたらだいぶ救いがない。
そういえばこの本には天国や地獄は出てこない。彼らはいまある生だけがすべてであって、死後人間は何も残さずにただ消えると考えているなら非常に面白い。
死の意味が非常に重たくなり、同時に反対の要素である生もまた非常に貴重なものになっていくからだ。

死に侵食されるというのは生が危うくなることで、これは「ジャカランダ」(これは正統派の幻想)、「ミスター・テイラー」(これは風刺だが死が生を制圧している)などで取り扱われている。
「幽霊なんていないさ」しかし、死が確実に人間の性に影響を与えそれを幽霊と呼ぶこともできるかもしれない。「騎兵大佐」はそんな死が擬人化されているようにも読める。

死者たちがひょうきんに出歩いているイメージがなんとなくラテンアメリカにはあったけど、この本を読むとどうもちょっとそうでもないみたいだ。
この未知の土地の文学をもっともっと読んでみたい。

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