2017年12月29日金曜日

椎名誠/ねじのかいてん

日本の作家の短編小説集。
椎名誠さんの超常短編集の一冊。中古で購入。タイトルはもちろんヘンリ・ジェイムズの短編小説から取っているのだろう。

前回紹介した「鉄塔のひと」はSFの要素があっても結果的にSFと呼べる作品は収録されていなかったが、この本ははっきりSFと言い切っても良い作品が収録されている。あとはこの作者に対しては珍しく”しかけ”のあるホラー風の短編や、軽妙で軽薄な文体を活かしたファニーな短編など。何と言っても目玉はやはりこの間紹介したSF長編「水域」の原型の短編バージョンの「水域」だろう。長編の大体中盤までの物語を大まかに書いてある。面白いのは主人公の設定で、こちらだと結構熟練の旅人であるのに対して、長編に書き直した方はいっこの青春小説と言って良いくらい主人公が若く、そして青く設定されている。こうした結果読者の裾野を広げると行った意味もあるだろうが、むしろ旅の危うさ、そして初々しさというのが圧倒的に強調されており、冒険小説というのはその主人公はある程度無知(かつ才気と情熱に横溢している)な人のほうが面白くなるのだな、と妙に納得してしまった。
私もかつてはそうだったが、椎名誠さんというとやたらがっしりしていてCMとかに出ている作家のひとというイメージで(外国で馬に乗っていて「シーナさん」「シーナさん」と呼びかけられる何かのCMのことをおぼろげに覚えている。)、それから実際に椎名さんが書いた本を読むと、「うおお本当に作家だったのね」というギャップめいた驚きに打たれるものだ。渡しの場合はでもやはり結構健康的な見た目にあった強靭な内容だな〜と思ったのだが、幾つか作品を読むとただただ牧歌的な風景の中で造語にまみれたへんてこな小説を書くだけのひとではないということに気付かされる。おそらく意識的にあまり出さないようにしているが、やはりその底にはどろりとした凄みや怖さというのがあって、それがたまにその作品に滲み出しているのを感じるのである。はじめから剣呑であれば(とくに直接的な脅威でないほどに)人間というのはそれに適応してしまうものなので、逆に言うとこうやってたまに垣間見えるほうがその恐ろしさが強調されるものである。この短編集でも、そのヤバさみたいなのが幾つかの作品で垣間見えて面白い。「ニワトリ」の滑稽な状況に背後にある男の身勝手さ(これは仕事でいつも家を留守にして置いてけぼりにしている実際の奥様に対する椎名さんの罪悪感が色濃く強調されているようなきがする。ほかにも妻との関係に不安が浮かび上がったような不安な小説が幾つかある。)や、なんといっても「月の夜」における、人間に対する深い愛情とそしてその愚かさを、人外を語り手にすることでなかば神の視点で客観的に浮かび上がらせており、その人間からすると非常にすら見える寛大さが、人間にとってはこの上なく理解不能で恐ろしく見えるのである。

SFほど異世界ではないし、かといって日常からは1歩か2歩は逸脱している程よいレベルなので、古本屋さんで見かけたら手に取ってもらって是非どうぞ。

2017年12月24日日曜日

椎名誠/鉄塔のひと その他の短編

日本の作家の短編小説集。
私は椎名誠さんのファンなのだが、SFがメインでその他のフィクションとなると短編集1〜2冊しか読んでいない。というわけで何冊か、フィクションでそれも少し不思議な要素が入っていさそうな本を買った。

そもそも椎名誠さんのSFの面白いところに突飛な世界観(SFは多かれ少なかれ突飛な事が多いけど、この作者の場合説明が少なく、かわりに造語を多分に用いた)と、そこに蠢く(人間も含めた)奇妙で生命力に溢れたキャラクターが起こす小さな(たとえば銀河系の命運を決める、とかそういうのではないという意味で)騒動だと思うのだが、その要素がSF以外では活かしきれないのでは?という気が私は全然しなかったんだけど、改めてSFではない作品を読んでもやはりそのとおりだった。
この本に収録されている10の短編はどれもSFとは言い難いが、日常のなにか表層を一部だけひっくり返したような超常性があり、そこが怖い。というのもわかりやすいのは妻が別人に思えてならない話(「妻」)などは妻帯者でなくても夫婦という状況が想像しやすいゆえに、突飛でなく(むしろ突飛でないゆえに)恐ろしいのである。この日常に埋もれた非日常感というのが大切で、例えば田舎で良い感じに酔っ払って裏道に迷い込んで不思議な祭りに遭遇する話(「抱貝」)なんかは、特に都会で暮らす者にとっては非日常である田舎の暮らしに抱くロマン(ちょっと色っぽいシーンも有る)が見事に表現されていると思う。それは未知との遭遇であり、つまりSF的でもあると思う。(この短編は椎名流の造語も出てきて一番SFっぽいと言っても良い。)つまり筆者の持ち味はSFというフィールドを離れても少しの瑕疵もなく、同じ軽薄な文体の中にとらえどころなく存在している。それは言ってしまえばここではない、どこかへのあこがれであり、それが日常のちょっとした空隙の先に存在しているという優しい物語である。

また文体に気取ったところが一切なく、それでいて読みやすさを考慮されて練られた独特の語り口(つまり昭和軽薄体)は非常に読みやすく、ごろんと寝転んで読んでいいのね、位の気持ちで物語に入れるようになっている。軽い気持ちで是非どうぞ。

Bell Witch/Mirror Reaper

アメリカ合衆国ワシントン州シアトルのドゥーム・メタルバンドの3rdアルバム。
2017年にProfound Lore Recordsからリリースされた。
2010年にドラムとベース兼ボーカルの二人組で結成されたバンド。バンド名は実際にアメリカで起こった幽霊屋敷事件に基づく。(wikiなんかを読むと非常に面白い事件であるようだ。)なんとなく1st「Longing」の頃から聴いている。2016年にオリジナルメンバーであるドラマーのAdrian Guerraが逝去。もうバンドとしては終わりになってしまうのかと思っていたのだが、新しくドラムのメンバーを迎え入れて発表した新作。嬉しくてLP盤を購入。アートワークはベクシンスキーっぽい。

もともと長尺の曲を演奏するドゥーム・メタルバンドだったが、1stが6曲、2ndで4曲、ついにこの3rdで1曲83分という次元に突入。この情報で当惑するのではなくテンション上がるのは変な人だと思う。一応LPだと「As」、「Above」、「So」、「Below」と片面ずつ別れているようだが…。
1曲にしたのはもちろん長い曲をやるために他ならない。元々長い曲をドローンの要素を入れつつプレイしていたが、それでも結構明確にパートが分かれているのがこのバンドの特徴だった。今回ではそれぞれのパートを本当に贅沢に使っており、83分という長さを活かした”1曲”をプレイしている。ベースと言っても6弦あるものを使っているようで、ダウンチューニングしてエフェクトを掛けたギターと正直あまり違いがわからないのだが(バンドやっている人ならやはり明確にわかるのだろうか)、それをズアーーーっともったり引き伸ばすような弾き方をしており、とにかく全体的にめちゃくちゃ引き伸ばされた残響を楽しむためのバンドである。それ故フューネラル・ドゥームの要素もあるのだが、わかりやすくブラックメタルを彷彿とさせる要素はあまりない。邪悪さも黒さもあるが、それこそ幽霊のように”曖昧”であることがこのバンドの一番の魅力だ。
khanateを通過してのSunn O)))に通じるところがある(世界観や雰囲気も)が、しかしあちらが邪悪な神話だとするとこちらはロアというかやはり幽霊譚というのがしっくり来る。もっとしっとり、いやじっとりと湿っていて、そして地味であまり知られていない感じ。この湿度というのはつまり叙情的であることだ。この手のジャンルでは敬遠されがちな感情豊かな表現をBell Witchは積極的に自分のフィールドとしている。とにかく重たく遅々として進まない演奏と地を這うような低音ボーカルを主体にしながらも、はクリーンボーカルが歌うメロディそして、感情的なメロディ性のあるベースライン。とくにリフはもはやフレーズと化していて、このバンドならではの曲の長さを存分に活かして贅沢に長く、そして繰り返されていく様はまさに桃源郷。よくよく計算されていて音はでかいが、フィードバックノイズは制限されており、体の表皮を震わし、その後体内に浸透していくような柔らかさがある。いわばうるさくないノイズだ。ひたすら暗く、潜行していくように下に潜っていくが、どんな幽霊もその重さのない身(心)中に物語を隠しているように、聞けば聞くほどにその豊かさにハッとする。
そしてやっぱりクリーンボーカルが映えること。今回もたまらなく良い。うっすらあるメロディラインを良い感じに魂の抜けた声がふわーっと通り過ぎていく。うっすら滲む諦念が背後に渦巻く低音にのってじわじわしみてくる。アメリカのバンドだが、この彼らの「幽霊感」に和風な、恐ろしくも儚く、そして地上には特定の条件下でしかとどまっていないような存在の薄さ、軽さを感じてしまう。非常にヘヴィな音楽なので我ながら妙な感想だとは思うのだが。

曲の長さもあってとっつきやすい音楽ではないが、この手の音楽が好きな人は是非どうぞ。私はやはり非常に好きだ。スラッジ方面に舵を取るでもなく、この物語性に飛んだ幽玄さに感じを取るというのはメタル的だが、どれもやはりソリッドでこういう浮遊感のあるバンドというのは他に知らない。じっとりとした湿度は日本人にはしっくり来ると思うのでぜひ聴いてみて頂きたい。きっと予想より聞きやすいはず!おすすめです。

ミシェル・ウェルベック/地図と領土

フランスの作家による長編小説。
なんとなく名前はしっていた作家の作品、何の気なしに買ってみたのがこちら。作者ミシェル・ウェルベックはフランスで今最もスキャンダラスな作家だとか。イスラムの台頭と脅威を予見したとか、その過激な言動でとか。この本でかれはフランスで最も権威のある文学賞の一つであるゴングール賞を受賞した。

舞台はフランス。成功した建築士を父親に持ち、母親は若くして自殺、ジェド・マルタンは芸術の道に進んだ。世間ずれした男だが、若くして成功したジェドの前には前途洋々とした道が広がっていた。

人が殺される小説だがミステリーではない。ジェド・マルタンというアーティストの人生を追った純文学である。私はなんとなく難解な現代文学なのかな、と思っていたが(気になった本は殆ど調べずに買ってしまう。)、読んでみると違った。まだ中盤にようやく差し掛かるか、というところでtwitterで「俗っぽい」と表現したのだがこれは間違いだった。たしかに主人公は若くしてアーティストとして成功し、俗っぽさのひとつの頂点であるところの社交界に入り、セレブリティたちの仲間入りをする。おそらく作者ウェルベックの経験を存分に活かして書いたのだろうこのパートは、私のように昼ごはんの値段に一喜一憂するみみっちい小市民からするとギラギラ輝いて非常に魅力的である。私にできるのは虚構の世界のくだらなさにかこつけて、僻みっぽくつぶやくことくらいである。(もし自分がそこに入れたらな、と夢想くせに。)しかしこの小説はセレブリティたちの現実離れしたライフスタイルをひたすら書いていく通俗小説ではない。そこが若きアーティストの通過地点だから書いたに過ぎない。
ジェドというのは変わった男で人と世間に対して極端に没交渉である。女性らしい魅力的な容姿に恵まれていて、なにより才能と名声もあるので美しい恋人もできる。しかし友達はほぼ一人もいなくて、たまにはコールガールを買ったりもする。めんどくさがり屋で食べ物にはこだわりがなく、部屋は汚い。言葉少なく一見すると仙人めいた超人に見えるが、ウェルベックはそんな彼を変わっているが(天才なのだろうが)一人の何の変哲もない人間として描いている。恋人との別れを平然と選べるし、離れようとする彼女を止めないし(彼女は止めてほしかったのだが)、その後10年間も連絡を取らないような男だが、別れの直後は泣いたりする。(泣き叫ぶ人が一番悲しんでいるわけでは当たり前だがない。)なにより世間と交渉のない彼は父親に対して強い愛情というか、絆を感じている。頻繁に会うわけではないが(むしろあまり会わない方なのかもしれないが)、必ずクリスマスには食事をともにし、父親のこと知りたいと考えている。
文体は結構特徴的で、時系列の連続性がたまにずれるし、会話のようにとある言葉や事柄から話題がそれていくような書き方をする。翻訳が上手いこともあって読みにくさというのは皆無だが、特徴的ではあると思う。言葉は多い方だが、あまり説明的でなく、出来事を描写することに終始している。作者がこの作品にどんな思いを込めているか、というのは読む人次第で解釈が変わるとも言える。ミステリアスであり、たしかに話題性のある書き方である。つまり何か重要なことを行っているように思える、という作品でもある。別にディスっているわけではなく、このやり方で中身が伴わなければただの軽い小説になってしまうだろう。
月並みに言って人生を書いた小説であり、孤独とその辛さを書いた小説である。ジェドはなぜ成功したのか、というと物語的にも面白くなるのはあるけど、逆に不遇の芸術家でもいくらでも物語ができる。おそらくだが、なぜ彼は芸術家で有り続けたのか?というのを書くためであるのではと思う。ジェドは結構人生の早々に一生困らないくらいの金持ちになる。しかし彼はあまり金に頓着がなく、ずっと調子の悪いボイラーのある(おそらく)あまりセレブリティが住むような部屋(マンションなので)に住み続けている。ウェルベックはこう言いたい、つまりジェドは成功しても成功しなくても一生アートに取り組み続けただろう。彼は表現者であり、それ故道具を選ばない。はじめは写真、そして絵画、次は動画と表現手段を変えつつ、一貫して作品を生み出し続けた。実はここにあまりよくある「産みの苦しみ」(一作品だけ完成しなかった作品があってそこに表現されているが)、「生まれながらの芸術家としてのこだわり(アートのために生まれてきた、アートによって生かされアートが私にとって生きることである、みたいなくだらないやつ)」ではなく、ただ何かの巨大な法則の一部として自分はアートに取り組んでいる、のようなかかれ方がしているのが一番個人的には面白かったし良かった。彼にとってアートが重要であることは、生涯それに取り組み続けたことを見れば一目瞭然である。かれはアート(そしてそれを生み出す自分を)を至高(苦しいがみんなのために取り組み続ける殉教者のような(非常にくだらない))何か、に誇張することなく、それに取り組み続けた。言葉は少ないが、人生を捧げたと言っても良い。

面白かった。ちゃんと読みやすく、わかりやすい山場(上流階級の暮らしぶりや凄惨な殺人)もあるが、それでいてなによりも非常に真面目な小説であった。読み終わらないうちからウェルベックの別の本を買った。

Amenra/Mass IIII

ベルギーはウェスト=フランデレン州コルトレイクのポストメタル/ハードコアバンドの4thアルバム。2008年にHepertension Recordsからリリースされた。私が買ったのは一つ前の記事の前作とセットになった編集盤の、さらに日本盤でTokyo Jupiter Recordsからリリースされたもの。

基本的な路線は前作を踏襲しているが、大きく変えているところはある。
一つは演奏技術力の向上による表現力の幅の増加。スキルが上がったことと更に、そこを支点にして曲に新しい要素を加えようという意思を感じる。これは展開にあらわれていて、ミニマル差を実験精神の表現として使っていた前作から脱却して曲を”動か”すことに意識を向けている。プログレッシブ方向に舵を取ったとも言えるが、むしろ曲の中を区切ってそれぞれのパーツの差異がはっきりして陰影がついた。立体的になって曲が鮮やかに(明るくなったという意味ではなく)なっている。私の耳には各パーツの以降はスムーズに聞こえる。つまりドゥーム的な”重苦しい長さ”はプログレッシブさの導入により損なわれていない。
もう一つはよりハードな方面への舵取りで、クリーンボーカルの登場頻度を減らしている。前作の感想で書いたが、重苦しく閉鎖的で更に長い楽曲だからこそクリーンなメロディ(ただし陰々滅々とした)はよく映えたし、ハードなバンドのわかり易い表現の取っ掛かりになっていた。ここを大胆に減らしている。完全にオミットしているわけではなく使用自体はしているが、曲中占める割合は減り、ともすると何回か聞けば聞き手が一緒に歌えるくらいの明快なメロディというのは減退しており、より曖昧に、不穏な部分を強調するような断片的なものに変更されている。自分たちの持ち味がどこにあるのかという時にやはりハードコアだろうという判断が生じたのかもしれない。
この手のジャンルで用いられるアトモスフェリックというのは何かというと、個人的には浮遊感や壮大さというか、バンドサウンド以外の音も積極的に取り入れて得る”非ソリッド感”のような気がしている。表現の幅が広がる反面、バンドサウンドの生々しさや直感性は損なわれるわけだ。そこへ来ると前作もそうだったが、Amenraに関してはそういったアトモスフェリックなテイストはあまり感じられない。アートワークや宙吊りになるというステージングからアート感というより、どうやって自分たちが見られるか、そして見られたいか、という意図や企図は感じられるのだが、音の方は徹頭徹尾暗く陰気である。閉塞感という言葉がしっくり来る。増やした展開も重たい霧のように全体を覆い尽くす陰鬱さを切り裂くようなものではない。変転する世界が幾つもの層を持っているとして、世界の変転を認めず、そして明るい面を半ば無視して暗い面ばかり凝視しているような音楽である。そんな生き方は体に毒だと思うのだが、鈍い輝きは人を引きつけるのかもしれない。

ぜひTokyo Jupiter Recordsから出ている前作とのセットの編集盤をどうぞ。年内に売り切れると来日の可能性アリとのことなので。このあとの5th、それから最新作も気になるところ。

Amnera/Mass III-II

ベルギーはウェスト=フランデレン州コルトレイクのポストメタル/ハードコアバンドの3rdアルバムにボーナストラックを加えたもの。
元は2005年にHypertension Records(良いレーベル名だ)など複数のレーベルからリリースされたもの。私が買ったのはボーナストラック3曲(EPから2曲、ライブトラック1曲)を追加して、さらにこの後リリースされたアルバム「Mass IIII」をセットにしたコンピレーションアルバム「Mass III-II + Mass IIII」というアルバム。こちらも幾つかのレーベルからリリースされたが、私のは日本のTokyo Jupiter Recordsから出ているもの。元は別の作品なので別々に感想を書こうかなと。
Amenraでアメン・ラーだ。たしかエジプトの太陽神の名前だったと思う。結成は1999年で今は5人組のようだ。メンバーチェンジもあったようでオリジナルメンバーは今二人(ボーカルとギター)残っている。もう一人ギター担当のメンバーがいてこの人はOathbreakerのメンバーでもあるそうな。

新作はNeurot Recordingsからリリースされているのだが、それも納得のサウンドを鳴らしている。根っこがハードコアだが病みに病んで速度が遅くなり、展開も複雑かつ大仰になったスラッジ・サウンドを鳴らしている。スラッジと言ってもEyehategod系の退廃的かつ厭世的、薬とアルコールでハイになったスラッジ・コアとは明らかに一線を画す暗い内容でどちらかと言うと、頭にポストとつく感じのインテリジェンスなサウンド。不良というよりは優等生が病んだ的な雰囲気の方のやつです。ポストの次がロック(ではないような印象だけど)、メタル、ハードコアのどれかっていうのがちょっと判然としないのがこのバンドの面白いところ。この手のバンドはDownfall of Gaiaとか、Rorcalとかが思い浮かぶが、曲が長くなるに連れて展開が複雑に、そして劇的(ドラマティック)になってくるものだけど、このバンドは結構その手の方向に進むことを拒否していてあくまでも陰湿なハードコアを徹頭徹尾プレイしている。外へ外へ広がっていかないのだ。また美麗なアルペジオや浮遊感のあるシンセサウンドもなし。あくまでもソリッドかつ重厚でどこか想像の別天地に飛翔することを許さない牢獄感。逃げようとする足首をぐっと掴んでくる陰湿さがある。もともと内省的なジャンルだが音もその精神に忠実で中期(遅くなって以降の)Neurosisの影響を色濃く感じる。結果密室的で閉塞感のあるハードコアが長尺で延々とプレイされるかなりハードな地獄絵図が展開されるのだが、最後の希望が用意されている。それが陰鬱なメロディの大胆な導入。サビのための他のパートという使い方ではなく、長い曲のなかの一部としてクリーンボーカルによるメロディを取り込んでいる。この「歌」というのもなかなかどうしても暗く陰鬱で、少し耽美なところがある。病的な男の現実逃避めいていて、音楽が密室を構築するなら、梁に縄を引っ掛ける時に幼く幸せだったときの同様を口ずさんでいるような嫌〜な感じがする。これが良い。
前述の2つのバンドのようなハードコアから始まり、ブラックメタルも飲み込んだ壮大なポストメタル/スラッジというより、自分的には激情系やエモバイオレンスに自殺感を持ち込んだようなイメージが近い。というのも長い曲でアトモスフェリックな要素をほぼ用いず、バンドサウンドで勝負していること。アート感はなく、ハードコアを貫いていること。歌詞は分からないが、全体的に極めて内省的で自己批判的な精神が感じられること、これは出す音が”個人的”なように私には聞こえる。矮小や卑小と言っても良いかもしれないが、壮大な曲のドラマティックさに胸を打たれるのも良いが、どこまで行っても自分という檻からは逃げ切れないような、そういった日常的な悲痛さが強調されていて個人的には妙に共感してしまう。

ポストメタルが好きな人が聴いてみるのはもちろん良いし、日本や海外の悩み過ぎ系病みハードコアが好きな人も結構好きになるのではないかと思う。

ちなみに年内にこの編集盤が完売すると、発売元のTokyo Jupiter Recordsが来日に向けてバンド側との本格的な交渉に入るとのこと。残り少ない年内だが、気になっている人は買ってみると良いかもしれない。
また、Decayed Sun Recordsの特集記事がとても読み応えがあるのでぜひ読んでみていただきたい。私は自分が書いているのは感想文なのだが、この記事というのは私が考えるレビューの一つの理想形だと思う。

2017年12月16日土曜日

All Pigs Must Die/Hostage Animals

アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのハードコアバンドの3rdアルバム。
2017年にSouthern Lord Recordingsからリリースされた。
ConvergeのドラマーBen Kollerが在籍していることで有名なバンド。他にはBloodhorseやThe Hope Conspiracyといった同じボストンのバンドのメンバーが名を連ねている。
スーパーグループってことになるのかもしれないけどコンスタントに活動しているようではや三枚目。私はこのアルバムで初めて聴く。

タイトルは「人質動物」だろうか。10曲をほぼ35分で突っ走るハードコアのアルバムなのだが、ハードコアというフォーマットでよくもここまで…という圧倒的な表現力を存分に発揮しているアルバムになっている。
シンプルかつソリッドなハードコアが他ジャンルからの要素を取り込みつつ、新しい表現力を獲得してきて久しい。わかりやすいのは明快なメロディの導入、ひたすら速さの中にピュア度を上げることに心血を注ぐファストコアや激烈な速さとそしてベクトルの真逆の遅さを取り入れたパワーバイオレンスなどなど。音的にも特に同じうるさい音楽というくくりで特にメタルからの影響は強くて、スラッシュメタル、ポストロック、昨今ではブラックメタルなどのサブジャンルを解体し、刻みまくるリフ、アルペジオや複雑な展開、トレモロリフなどに分解したパートをハードコアという骨組みに再構築する作業。まさにクロスオーバーな異ジャンル感の異種交配が、ハードコア(に限らないが)というジャンルを豊かにしていった。当たり前だが別の手法を持ち込めばしかし、元々のハードコアの濃度というのはどうしても薄まってしまう。今では音だけ聞いたら初期衝動あふれるハードコア・パンクから遠くはなれてしまったバンドなどは枚挙に暇がない。(念のため言っておくどちらが良い悪いのはなしではない。)
前置きが長くなってしまったが、どうしても表現力を豊かにしようとするとハードコアというフォーマットだとその濃度が薄まってしまうということが言いたく、その点からするとこの「Hostage Animal」というアルバムはどこまで言ってもシンプルかつソリッドで攻撃的なハードコアでい続けながら、その表現力の豊かさには目をみはるものがあると言いたい。ジャンルの限界に挑戦した、などというのは非常に陳腐な表現だが、このアルバムに関してはそう言いきってもよいのではと個人的に思っている。別に目新しいことを、奇をてらったことをやっているわけではない。しかしそれ故更に驚異的である。基本に忠実ながらここまで感情の振れ幅のあるアルバムはそうない。感情の表現といえばエモ、エモバイオレンス、激情などのサブジャンルが思い浮かぶが、それらのジャンルがそれなりの舞台装置を曲の中で作り上げるのに対して、APMDはあくまでもハードコアだ。余計な部分がほぼない。冗長にもなってしまうアルペジオや、悩みすぎて捻くれた複雑なリフと展開、ことさら残虐性を強調する(ともするとメタル的な)スラッジ展開、もちろんわかりやすいメロディなんかもない。だがそれらで表現しようとする、”アグレッション以外の何か”がたしかに存在する。一つにはリフというかフレーズの引き出しが半端なく、短いフレーズにも心を打つ響きが隠されていること、それから速度をうまく使っていること(テンポチェンジというのではなくて)があると思うのだが、それだけなら他のバンドもやっているだろう。なんとなく長大な曲を作ってそのコアだけが残るように削ぎ落としてしまったような感じすらある。ボーカルだけとるとどの曲も汚くがなりたてているだけであるのに(もちろん良い意味で。)、なんでこうも曲によって、そして曲の中に感情が詰まっているのか。シンプルに表現すればシンプルな感動が惹起されるというのは明確に間違いであるということを証明している、という意味で非常に優れたハードコアのアルバム。

表現力のために拡張し続けるジャンルを雑に殴りつけるような、バッキバキに引き締まりまくった筋肉質なアルバム。ちょっとこれはすごくて今年はConvergeの新作もあったが、そちらに行けずにここにとどまってしまったくらい。色々こねくり回す必要なんてなかったのか??と呆然とする。実際にハードコアのバンドをやっている人の感想が聞きたいところ。非常におすすめなので是非どうぞ。

Blut aus Nord/Deus Salutis Meae

フランスはノルマンディ地方モンドヴィルのブラックメタルバンドの12枚めのアルバム。
2017年にDebemur Morti Productionsからリリースされた。
1994年から活動しており2011年からコンセプチュアルな3枚のアルバムをリリースして話題になっていたバンド。当時はなんとなく横目で見ていただけだけど今回はじめて買ってみた。
タイトルはラテン語で翻訳すると「私の神」となるようだ。覆面被った三人組なのだが、日本のwikiにかなり情報があって、そちらによると意外にも悪魔崇拝が売りの典型的なブラックメタル・バンドとは違うんだよ、ということらしい。おどろおどろしいイメージや音を使っているが、どうも独自の世界観を作ろうというバンドらしい。

実際に聞いてみるとなるほどかなり尖った音の作りになっている。音質悪くも生々しいプリミティブ・ブラックメタルとも違うし、デスメタルと融合しつつある力強くモダンで攻撃的なブラックメタルとも異なる。陰湿な世界観をややノイズに接近した音の作りで、決して速くないもったりとした速度で瘴気が滞留するように垂れ流す不穏な音世界。低音からずるっと滑るように滑らかに耳障りな高音に移行するギターリフ。ぐしゃっと潰れた低音や朗々とした詠唱めいた呪術的なボーカルが特徴的で、なんとなくDeathspell Omegaっぽいな、というのがファースト・インプレッション。もちろんこちらのバンドのほうが活動歴は長いのだが。ブラックメタルの武器であるブリザードのように寒々しいトレモロの中にうっすら見える美メロ、というのはもう気前よく捨てて別の次元で勝負しようというアルバム。(どうもアルバムごとにだいぶ作風を変えてくるバンドらしい。)
このアルバムを聴いて思ったのはかなりテクノ的ではないか?ということ。中心となるリフがあってそれをもったーり執拗に反復していく。かなりミニマル。ボーカルが変幻自在に唸ったりするもので一見してわかりにくいのだが、ふと我に返ると同じところをぐるぐると迷っていことに気がつく。途中でツーバスを踏んできたり、なんとも名状しがたいリフがうねうねとその様相を変えていくさま(曲によってはオーストラリアのデスメタルバンドPortalにも通じるところがある、あそこまであからさまにテクニカルではないのだが。)など、微妙にその姿を変えていくのも面白い。かなり強靭なリズム(金属質でインダストリアル、といっても良いくらい。)が一本曲を貫いているのだが、メロディというわかりやすい取っ掛かりが一切排除されているため、全体的に茫洋とした音になっており、聴いている人がどこにいるのかがわかりにくい。昔のゲームだと画面がスクロールしても同じような景色が続く「迷いの森」的なステージがあったのだが(流石に今はないんだろうな〜)、ああい言う感じで執拗かつ陰湿に曲が練られており、聞き手は自分の居場所がわからなくなってしまうのだ。こういうふうに曲を作るバンドというのは実はあまりいないのではなかろうか。非常に面白い。「私たちには別の美意識がある。」と言い放つのもなかなかすごいが、有言実行なのはさらにすごい。
かなりわかりにくいアルバムなのだが10曲を34分弱にまとめており、気がつくと終わっている。この突き放したような感じが良い。悪夢のサントラみたいな感じ。

なかなか万人におすすめできるアルバムではないが、激しい音楽に攻撃性だけを求めるのではなく、もっと暗い世界観が好きなんだと言う人なら聴いてみると良いのではと。あとは実験的な音楽が好きな人はブラックメタルのフォーマットでやっているこのアルバムを聞いてどんな感想を持つか知りたいところ。

アルフレッド・ベスター/ベスター傑作選 イヴのないアダム

アメリカの作家の短編小説集。
アルフレッド・ベスターである。SFのオールタイムベストを出すと必ず名前の出て来る「虎よ、虎よ!」の作者である。私も学生時代に寺田克也さんの表紙の文庫本を今はなき渋谷のビルまるごとブックファーストで購入したのだった。アレクサンドル・デュマの「巌窟王」(私は子供の頃青い鳥文庫で読んだだけなんだけど)を下敷きにした、広大な宇宙を舞台にした一人の男の執念の復讐譚であり、その壮大な、壮大なストーリーともはや一つの記念碑のようになっているラストでもって私は心臓を顔に入れ墨のある大男(「虎よ、虎よ!」の主人公)とベスターに鷲掴みにされたのである。いつかこの現実から青ジョウントしたいものだ、と今も思っている。(完全に余談だがその後私の「虎よ、虎よ!」はゴールディングの「蝿の王」とともに飼い猫のおしっこを引っ掛けられ泣く泣く捨てたので、いい加減買い直そうかなと思っている。)
その後最近になって「分解された男」を読み、これは完全にディストピアを書いた小説だと一人頷いたものだ。そして今度は短編集がでるというので喜び勇んで買ったわけ。ちなみにこの本の後書きによるとベスターは作家以外(コミック、ラジオ、ドラマのシナリオライター)の活動期間も長く、あまり作品自体は書いていなかったようなのだ。たしかにあとは「ゴーレム100」くらいなのかな?日本で出ているのは。(他の短編集はおそらく収録作品がこの本とかぶっている。)

SFで描かれる未来というのはたいてい暗いものだが、ベスターは輪にかけて苦い世界を書く。2つの長編でもそうだったが、短編となると壮大さにはページを割かない分その苦さがより個人的なものになっており、範囲が狭まった分より生々しくなっている。ベスターの描く未来というのは人間を幸福にするはずの科学や近代的な思想が、取り扱う人間の愚かさ故に人間を苦しめる枷になっているというもので、未来に行けば行くほどその枷が重くなっているようだ。つまり人間は根本的に良い方向に進化せず、愚かなままだと言っているようだ。暴力は高きから低きに流れ、常にその時弱いものがツケを払わされている。技術がむしろ人間の愚かさを無遠慮に露呈している。星まで到達しているのに相変わらず人間たちは騙し、妬み、互いに殺し合っている。「地獄は永遠に」では5分の4の地獄は現代のことであった。ベスター流として一見華麗な世界を醜く暴くというやり方に心血をそいでいるというところがあって、実は人間の内面を描いているとしても、人間の内面の不可解さ(ことさら否定的、批判的ではないと思う。)を冷静に書こうとするバラードなんかとは明らかに一線を画している。ベスターのほうが情熱的だが、その持ち味は暗く一般受けはしないだろうなと思う。ただ徹底的に人間嫌いがベスターなわけではなく、この短編では唯一「時と三番街と」だけが異彩を放っている。そこで書かれているのは人間の善性への期待であり、この善性というのは生まれ持って備えたものというよりは、未熟な状態で生まれ持ったそれをしがらみの多い暗い世界で、考えることで人類はまだ発揮することができるのだ、というベスター流の期待が描かれており、そういった意味では非常に希望のある作品である。「虎よ、虎よ!」のラストを思い出してほしい。あのラストは本法に絶望だけしている人間には決して書けないということは沢山の人にわかってもらえると思う。多くは語れないが、あそこにはベスターの希望が圧倒的なカタルシスになって詰まっていると思っている。あそこがないと「虎よ、虎よ!」はだめなんだ。あそこに向かって無茶苦茶な速度で分解しながら落ちていくような、そんな小説なんだと私は思っているので、そういった意味ではやはりこの短編集の中にも、ベスターのそんな思いを感じ取ってやはりじーんと熱くなってしまうのであった。

手頃にベスターの作品を味わえるという意味では非常に良い短編集。短いながらも暗い世界観がぎっちり。ここを通過してぜひ「虎よ、虎よ!」を読んでほしいと思う。

香山滋/海鰻荘奇談 香山滋傑作選

日本の作家香山滋の短編集。河出文庫の<探偵・怪奇・幻想シリーズ>の一冊としてリリースされた。今庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」を皮切りに今何回目かのゴジラ・ブームなのだろうけど、その「ゴジラ」の原作を書いたのがこの香山滋という人。1904年生まれで昭和の時代に活躍した文人。私は多分短編一つも読んだことがなかったと思うが、名前は知っていたのでなんとなく買ってみた次第。怪奇も幻想も好きなので。

奇妙なタイトルは海の鰻とかいて「かいまん」と読む。海鰻というのはうつぼのこと。
冒頭を飾るデビュー作「オラン・ペンデクの復讐」を少し読めばそこにあるのは重厚なで大仰な文体で飾られた昔日の怪奇譚で、例えば夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読み始めたときのような、「ああ私は今現代とはかけ離れた異郷の地のような世界に足を踏みれたぞ」というようなくらっとする感覚が味わえて興奮する。この頃の日本の小説にしか出ない味ではなかろうか。一体ラブクラフトの小説もそうだが超自然という”不自然”をあたかも存在するかのように描写するには、かなり凝った下準備と言うか舞台装置が必要で、その一つが仰々しい文体ではなかろうかと思っている。(音楽ジャンルとしてのメタルに少し通じるところがあると思う。)おそらくだが完全な幻想文学というのはやはり日本では(外国ではどうなのだろうか)なかなかやっていくのが難しいのだろう。香山滋もその溢れ出る怪奇への情熱をミステリーという鋳型に収めるように整形して小説を組み立てている。物語の中心となるのは殺人であり、それを取り巻くのは血と汗の匂いのする人間たち、そしてその周囲に異形の者の影がちらつくというやり方だ。やはりどうしても江戸川乱歩の世界を思い出してしまうのは仕方ないだろうと思う。(ちなみにあとがきを読むと乱歩も香山滋のことをよく評価しているようだ。)
精密な”怪奇”を描くにあたって香山が武器にしているのが博物学というか、生物と植物に対する深い造詣と図鑑的な説明文の大胆な挿入だろう。動植物にしても一般に流布している名称でなくて、学名をいちいち入れてきたりと、異常さをアピールすることに余念がない。これらはあくまでも作者にとって道具であって説明に終始しないところも結構読みやすさを意識して描いている姿勢が見て取れる。
もう一つ面白いのが”憧れ”でこれは具体的には地球上にまだある未開の地へのあこがれである。衛生で地球の地表上ほぼすべてを網羅できる現代では難しいかもしれないが、昭和の時代ならまだ人類未踏破の未知の世界があり、そこには文明に発見されていない全く目新しい生物、植物が溢れているだろうという考えである。(もっともいくら昭和でもないのはわかっているけどやはり憧れを抑えきれない、という知識人の心持ちだったのではないかと思うけど。)その憧憬が絶海の孤島のトカゲだらけの島や、ゴビ砂漠の奥地から来た未知の蝶だったりという要素を生み出す一つの理由になっているように思う。まったく私達の世界の理論とは別の思考体型で動き躍動する生命の野蛮さというのが、半端に文明化された私達の心に不思議なノスタルジックさ(人間はいったことのない土地、存在したことのない土地にもノスタルジーを感じることができる。)を呼び起こす。

エロとグロをしっかり抑えているし、この時代の怪奇にどっぷり浸りたいという人には文句無しでおすすめの一冊。

椎名誠/水域

日本の作家によるSF小説。
椎名誠さんのSF小説はたくさんあるけど、初期の(1990年台)三部作みたいになっているのが「アド・バード」、「武装島田倉庫」、そしてこの「水域」。前の2冊に関しては賞をとったり、漫画化されたり(ちなみに何回も言っているけど「武装〜」の方は弐瓶勉さんの漫画「BLAME!」の元ネタの一つでもある。)しているので手に入りやすいのだけど「水域」だけは結構前から絶版状態。いつか読もうと思っていたけどようやく買ってみた。

地球が水に覆われた未来。当て所なく海流の赴くままに世界を旅する男。偶然手に入れた筏に書いてあるローマ字から「HARU」と名乗り、奇妙に変形した生物、そして荒廃した世界に適応した野蛮な人間たちと出会っていく。

いわゆるポスト・アポカリプスもので現在の文明はほとんど滅びている。海の水位が上昇し地球全体を覆う、というのはそういった映画があったと思う(有名な俳優が出ているやつで中身はあまり覚えていない)。椎名誠さんはたくさんのSFを書いていて、実は一貫しているような世界があるのだが、この物語はどうもその世界には属していないように思える。いわゆる「北政府」ものじゃないんじゃないかなと。あっちの世界でもやはり文明は一度崩壊しているのだが、海は油の被膜で覆われてほとんど曇天が重たくのしかかっているはず。地域が違うという可能性もあるが、「水域」では海は割ときれいで雨はどちらかと言うと珍しいみたいなので。
「つがね」や「ねご銃」などの椎名流の一風変わった(最先端だがどこか土着的な匂いのする)テクノロジーはほぼ出てこないというところも相違点の一つ。なんせほとんど海の上、と言うか水の上(場所によっては淡水だったりするのも天変地異が予想できて面白いところだ。)ということもあって余り”物”自体がない。そういう世界で人間とその生活がどうなるかというとより原始的になってくる。やはり敵性勢力(人やそれ以外)も出て来るが、争い方はより地味で生々しい。椎名さんの小説は一言で言うと「生命力」だと思う。前述のテクノロジーや特異な状況でも「生命力」は発揮されるが、SFのヴェールでやや隠れがちになってしまう。それが「水域」では存分に発揮されている。水の上なのでボートを漕ぐといっても限りがある(海流は強く、流れに逆らって漕ぐのは数時間が限度)、食べ物は魚をとるしかない(水はろ過装置がある)。こんな世界では生命力を発揮する前に魚が取れなかった死ぬし、ボートや筏から落ちたら死ぬし、サバイブすること自体が軽く奇跡めいている。自分の足ですら歩けない世界は非常に過酷である。文明に属する我々からすると恐ろしい世界に落ち込みそうになるが、登場人物たちは基本的に前向きである。彼らからしたら生きるのに必死で落ち込んでいる隙がない。基本的に今を生きて行くしかない。人間の本性は野蛮だとか、文明がなければこんなものだというような説教臭さはまったくなく、死に物狂いで生きて、それでだめならもうダメだ、という達観めいたのんきさ(これが生命力の行き着くところなのかもしれない。争いはじつは効率が悪い。)が全体を覆っていて、状況の悲惨さを緩和している。(というか悲惨さを受けれるしかない、という心構えがデフォルトになっている感じ。つまり悲惨の総量は減じてない。)究極のその日暮らしで、自分がどこに向かっているかもわからず海流任せ。人にあったらどうしても武器は構え無くてはならない。そんな世界。
主人公は「ハル」と名乗るがこれは本名ではない。無名の男でこれはつまり主人公は誰でもあるってことだ。一人の誰でもない、つまり誰でもある(あなたや私である)男の水の上のロードムービー、つまり人生の縮図が淡々とした筆致で軽やかに描かれていく。メタファーとしてのSFというよりは、見るものすべてが新しい、見慣れないという純粋な驚嘆を描くための、作者お手製のよくわからない魚達、植物たち。ここで重要なのは彼らとの関係性だ。よくわからない生き物を書くことはできても、その「よくわからない」たちとのふれあいをこうもリアルに掛けるのはおそらくこの作家だけってことはないだろうけど、やっぱり非常に稀有だと思う。「よくわからない」を捕まえて食べるのはもちろん、「よくわからない」がいっぱいの森を切り開いて歩く時に、手をついた木の幹に張り付く「よくわからない」の奇妙な感触などなどが実際に存在するかのように生々しく描写されている。やはりハードコアな旅人としての作者の経験、膨大な知識量があってこその芸当だと思う。サラリと書いているが確実に唯一無二だ。

作者本人も読みやすいと書いているし、このように素晴らしい本がなぜ長いこと絶版なのかわからない。もっと多くの人に読んでほしいのだが。別にSFに限らず、上質の人生にとっての栄養である「センス・オブ・ワンダー」を求めるなら手にとって絶対に間違いない。

2017年12月3日日曜日

Gnaw/Cutting Pieces

アメリカ合衆国はニューヨーク州ニューヨークシティのドローン・ドゥーム/ノイズバンドの3rdアルバム。
2017年にTranslation Loss Recordsからりリリースされた。
私はすでに解散済みのKhanateというバンドが大好き。メンバーはギタリストにSunn O)))などで活躍中のStephen O'Malleyに、ベースとしてアーティストだけでなくエンジニアとしても活動するJames Plotkin、ドラム担当がPlotkinとO.L.D.というバンドを組んでいたTim Wyskida、そしてボーカルがAlan Dubinである。
Khanate解散後Alanが始めたのがこのGnaw。Khanateはトーチャースラッジとして始まり、初期はそれこそGriefを叩きのめしたようなサウンドにハードコアというよりはメタル的案猟奇的な世界観をぶち込んだバンドで、後期になるに従いドローンやフリー・ジャズのようなアバンギャルドな要素の色を濃く打ち出していった。Sunn O)))はドローンの要素を色濃くKhanateから引き継いでいるが結果的に世界観は結構違う。GnawはよりわかりやすくKhanateの要素を受け継ぐバンドというイメージ。

O'MalleyとPlotkinという重量級の弦楽隊はなくなったものの、その空隙をうまく活かし、代わりにいやらしく這い回るノイズ分を充当している。Khanateも1stからノイズの要素が強かったのでそこも含めて違和感のない移行といえる。バンドアンサンブルに加えて専門のマニュピュレイターもメンバーに数える力の入れよう。
そんな最新作、基本的に前作・全前作からの流れを踏襲するものだが後半に流れるにしたがい、少しずつ音の形を変えてきているように感じる。具体的には音の数が減らされてきているように思う。1stアルバムだととにかく「Vacant」が好きなのだがこの曲はノイズが実態の重量を持って這い回るどころか屍衣のように曲を覆い尽くす、まさに重たさの塊みたいだった。今回はノイズ成分をうまくコントロールし、偏執病的に空隙をノイズで埋めていく、という作業からは幾分開放されている。khanateも活動時期の後半でも重たさ、重苦しさを別の次元に求めていたから同じような動きがこのGnawでも辿られているようだ。khanateは強烈な個性のぶつかり合いがせめぎあうバンドだった。スラッジから始まってもその範疇にとどまらないくらい(つまり文脈的にはハードコアというよりはメタル的な物語を感じさせるように)陰湿だった。猟奇的だった。病んでいた。この手のジャンルでは生命線である、”強くあること”という衣を剥ぎ取り、ソフトかつ捻くれて醜い中身をさらけ出していた。(ただスラッジは自己評価が低く、自己卑下が強い傾向にあると思う。)高い声で絶叫するAlanは、卑屈に笑みを浮かべる一見無害なやつだが、その実シリアル・キラーという物語/個性を打ち出しており、khanateもその魅力の一つとしてをそこに頼むところが大きかったように思う。その世界観をAlanは変わらず持ち続け、このバンドでも打ち出してきている。ベッドの下にばらばらになった死体を隠し持つように、透明人間が誰にも見られず溺死するように、今度のバンドでも誰かをバラバラに刻もうとしている。Alanの声にはなんとも言えない”弱さ”がある。(念のため言っているがAlan Dubinが現実的に弱い男であるというのでは断じてない。)体力で勝てない弱さ、自分の暗い欲望に屈してしまう弱さ、そんな強い世界(音楽という仮面のために作られた偽りの世界でもあることも往々にある。)では唾棄すべき弱さ、病的な性質がここではたちの悪い粘菌類のようにはびこっており、私にようなじめじめといじけた卑屈な人間はそういった場所こそが居場所がいいのだった。
壁にもたれかかり、猟奇的な夢想にふけるように、耽美な腐敗(現実ではありえない)が妙に時間を引き伸ばされているように、ぐーっと視界と思考の奥に伸びていく、そんな風景があえて音の重さを引き抜くことでもたらされている。質の悪い悪夢に囚われたような無力感に抵抗するすべもないような、どこかしら投げやりな客観性が獲得されつつあるように思える。「This can't be the right」「This must be the wrong place」と歌うように、現実に対する絶望的な違和感と、そこに育まれる正しくない感情の萌芽がこのGnawのテーマの一つではなかろうか。

思春期にサイコパス、シリアル・キラーの文献、ネットを読み漁ったような人なら確実にこの世界観にハマるのではなかろうか。拗けて間違っているが、だからこそ居心地が良いのだ。やはりAlan Dubinはかっこいい。おすすめ。

FAIRLYSOCIALPRESS presents [BOYS DON`T CRY 5]@初台WALL

たまにあることだけど12月2日(土)のライブイベントのかぶり方と行ったら豪華という水準を高く通り越し、もはや残酷だった。スケートパークで轟音に浸るというのも一興だし、killieの凄まじいライブをもう一度みたいというのもある。しかし自分は何回かライブを見たSaigan Terrorというバンドがよく消化できなかったのでその音源欲しさに初台に行くことにした。この日はSaigan TerrorとFight It Outのスプリット7インチのレコ発なのだ。日本のヒップホップのアーティストも名を連ねているので、ヒップホップのライブも見てみたいな、という気持ちもあったので。
ライブハウスにつくとすでにもうかなりの客が入っていてかなりキュウキュウだった。WALLは入り口に「〇〇(多分バンドなのだろう)の☓☓とヴィジュアル系出入り禁止」みたいな張り紙がしてあり、私はどうみてもヴィジュアル系ではないがなんというかハードコアな雰囲気がしてちょっと怖いと思う。(実際怖めの人が多かったし、私のようなオタクっぽい人がいなくてさらに怖いというのがあります。)
ステージの前が不気味に人がいなくて不穏であり、これを見るとハードコアのライブに来てしまった…という感じがする。

Super Structure
一発目はSuper Structure。私は何回か見ているけど見るたびに好きになる、このバンドに関しては。この日もかなりとんがった音を出していた。後のFriendship、Fight It Outはとにかくパワーと音量がでかい。Super Structureも音はでかいのだが曲の方はもっとカオティックだ。別にプログレッシヴだ、カオティック・ハードコアだというのではないが、もっと混沌としている。変な言い方だがどの楽器もフルスピードで鳴らしまくった音が重なると奇跡的に曲に聞こえる、みたいな雰囲気がある。この日共演するバンドと比べると音はもっとざらつき、音の数は多い。パワーバイオレンスといっても流行とは一線を画す内容でもっとラフだ。例えば地獄のようなスラッジパートがあるわけでもない。甲高い、と評しても良いボーカルが激しく細かく忙しないバンドアンサンブルにさらにカオス感を注入している。バンド名は(あとから知ったのだけど)USのニュースクール・ハードコアバンドFall Silentの2ndアルバムからとっていることもあり、ルーツとなっているのがそういった音楽なので、パワーバイオレンスたろうとするパワーバイオレンスバンドとは明確に違う音に仕上がっているのではなかろうか。まさしく鉄砲玉、それも恐ろしく命中率が悪く乱射しまくるような凶悪なバンドで、ラストにやった「Despair」(だと思う。唯一気軽に聴けるこのバンドの音源でもある。)には中盤にギターの高音を響かせる地獄のようなモッシュパートがある。非常に格好いいのだ。私がお金持ちだったら最高の環境で音源を録音してもらうのにな、といつも思う。(音源出してほしいです。)

Friendship
続いてはFriendship。今年アルバムが出てからはみたっけな?結構見る回数が多いのは色んなイベントに招かれているからだろう。全くフレンドリーではないが、普通の意味とは違うキャッチーさがあって、それがわかりやすく”ハードコア”なので少しジャンルをまたぐようなイベントに引っ張りだこになるのかな、と思う。
Super Structureの直後ということもあって両者の違いが明確になる。こちらも非常にやかましいが音の数はぐっと減る。数というか密度だろうか。とにかくキチンと音を抜くことで重苦しいのに閉塞感から適度に脱しており、過密のコントロールが上手いのか、その結果ある意味ハードコアの枠組みだけ残したみたいな音楽になるのだが、それが非常に頑強で非常に暴れられる。初めてFriendshipを見た人でも絶対すぐに「のれ」ると思う。相変わらず一切MCはなく、ボーカルはほぼフロアに降りて歌う。毎回すごいと思うのは一切一体感は演出しない。シンガロングパートはもちろんないし、フロアに降りるボーカルも急に回りの客に向けてタックルを仕掛けてくる。みんなで楽しくモッシュ!って感じでもない。曲もそうだし、こういった姿勢の作り方というのも非常によく考えられている。「策士だね〜」というのではなくて、茨の道を我が物顔で進むな〜という感心の気持ちのほうが勝ってきた。若手、というのだけでなく、例えば私のような門外漢にとってのハードコアのゲートウェイになっていてそういった意味でもすごいバンドだ。

CENJU from DMC
続いては日本は東京のラッパー。実はヒップホップのライブを見るのは初めてかな?結構楽しみにしていた。CENJUはがっしりとした高身長と体躯に恵まれた大男でかなり迫力がある。低音のラップパートを同期させてそこにラップを被せていくように進む。これは合唱で言う下のパートってことだろうか。ヒップホップのライブは(他のラッパーは違うかもだけど)こうなんだな!と面白かった。強面なのは外見だけでなく、かなりハードな内容を噛み砕いた言葉でリリックにしたためるアーティストらしく、(ストリートのなんたるかを知らない私が言うのもちょっとおかしいのだけど)”ストリート感”のあるラップを披露する。つまりリアルでアンダーグラウンドな世界観である。悪いのだ。音の洪水を通り越し、もはや壁(WALLというライブハウスの名前は非常に格好いいと思う。)になっているハードコアとは全然ちがう音の数だ。とにかくシンプルに限界まで削ぎ落としたトラックが鋭い。そして鋭いだけでなく、煙たい、ダルいを表現する。これが良い。よくヒップホップのラップでは「スキル」という言葉が浮き彫りになるが、一人でステージに立つ(そうでない場合も多いが基本的にラップをするときは一人だ。)ラッパーは露骨にその出来にごまかしが効かない。タフな役回りだ。(それ故かっこいい。)CENJUは韻を踏みつつ結構フリーに煽ってくるタイプで客席を大いに沸かせていた。見た目に反して声は少し甘い感じがあるのが個人的には良かった。

Fight It Out
危ないことになるから後ろに下がったんだけど結局ダメでした…。
続いては横浜シティのパワーバイオレンスバンドFight it Out。この日の主役の片方でもある。バイオレンスを音にしたらこうなりました、というバンドで今年発売された3rdアルバムは私のようなオタクも聞いていると何か自分が強くなったように錯覚するようなブルータルなアルバムだった。ライブはモッシュ天国(普通の基準で考えればなぜ金を払ってそんなことを?と思わずにはいられない地獄)になるのは何回か見てことがあるので私は後ろに下がった 。WALLは後ろに長いライブハウスなのだが結果から言うとこの長さを活かした縦長のピットができて、だいたいほぼほぼ安全地帯がなし。全員が当事者に。
音の作り方はFriendshipと似ているモダンで金属的で良い感じに音の数を落としたものだが、こちらはもうモッシュに特化していると言っても良いかもしれない音で、Friendshipのような黒いヴェールのようなものもない粗野な音像。激速と激遅(げきおそ)を行ったり来たりするくせに神経症的な痙攣という病的な感じではなく、暴力性の発露のような運動性が特徴。そういった意味では健康的なのだろうか。あっという間にフロアにヘイトが感染して凶悪なモッシュパートが出来上がる。ボーカルの人はほぼフロアにいたのはFriendshipと同様だが、こちらはシンプルながらシンガロングできるパートがあったりしてモッシュピットに一定の法則、というよりは一つの指向性があったように思えた。腕を振り回す人、足を振り回す人、タックルをかます人、マイクを取りに(一緒に歌おうとしてね)行く人、サーフする人(カオスなのであまり長く上に居続けられない)、もみくちゃで後ろの方にもピットの動きが人を通して伝わってくる。ライブと音源の違い、というの一つのテーマに対する回答を明確にFight It Outが示し、そしてライブ(ともするとライブのみ)がリアルである、というのもうべなるかな、という状況でした。

ILL-TEE
つづいてはILL-TEE。DJの他にもう一人ラッパー、多分MASS-HOLEという人かな?がステージに立つ三人体制。トラックの内外とわず自由にやるCENJUに比べるとこの二人のラッパーはかなりかっちりタイトにトラックにリリックをはめ込んでくる。小節頭に言葉の喋りだしが噛み合ってこれはこれで非常に格好いい。やはりリアルな感じのするリリックだったと思うけど(固くて低い声質もあってCENJUに比べるとやや聞き取りにくい場面もあった。)、もう少し言葉遊びと陰陽の陽にあたるようなリリックもあってヒップホップの楽しさ、というのがわかりやすくそして最大限に発表されるようなステージングだった。ある意味淡々と韻を踏んでいくスタイルではじめは聞き惚れるような感じなのだけど、トラックとのかみ合わせが非常に良くてどんどん気持ちよくなってくる。フックのようなものもあってわかりやすい。ハードコアという明確に違うフィールドで徐々にヒップホップの楽しさ、というのがじわじわ浸透してくるようなライブでやはりもう最終的にはかなり前の方は盛り上がっていた。トラックがシンプルでビートが強いので実は乗りやすい、というのはあると思う。真面目と言っていいほどしっかりしていて格好良かった。

Saigan Terror
続いては東京高円寺のハードコアバンドで結成は1997年(素晴らしいインタビューより)。クロスオーバー、つまりこの場合はハードコアに刻みまくるスラッシュ・メタルをかけ合わせた音楽で私は何回かライブを見たかな?格好いいんだけど言語化するのが難しいな(音源もいまでは廃盤状態なので。)と思っていた。本日はスプリット発売の主役で堂々のトリ。
改めてライブを見るとこんなに重かったっけ?となったブラストビートが冴えまくり、ブラストビートに乗って突っ走るさまはもはやTerrorizerでは!?と思うくらい凄まじかった。よくよく聴いてみるとなるほど確かにグラインドコアというには音が良い感じに抜けていて、より疾走感が強調されているけどそれでも軽薄ということはまったくない。ブラストビートにすべてを掛ける、という音楽性でもなく、シンプルな2ビートが土台を作りそこに凝ってはいるが決してスピード感を減じさせない”刻み”のスラッシュリフが乗る。この日ドラムとともにすごいなと思ったのはベースで、おそらくエフェクターを噛ませて幾つかの音をコントロールしているのだが、かなり硬質で刻みのリフと相対するようなガーンとアタックしたあとミュートしない弾き方が、硬い地面に金属が跳ね返るような強烈さで非常に格好良かった。この日前の3つのバンドは共通点があってそれはとにかく突っ走るときは突っ走る、ということだったが、Saigan Terrorは速度はあってもミュートを用いたリフにはつんのめるような独特の粘りのあるコシが生まれているところが明確に異なる。つまり何が言いたいかというと他のバンドにはない「グルーヴィ」さが生まれていた。これはとにかくピットに反映されていて、Fight It Outの殺伐としてたピットと比べると同じことをやってい人はいるのだけど、もう少し多様性があり、ステップを踏む人やそれこそ女性の人もいた。そして沢山の人が笑顔だったのが一番印象的だった。危なくないわけではないけど、それを圧倒的に上回る楽しさ。ギタリストの方のキャラクターやMCもそんな雰囲気を作り出していくことに大いに寄与していると思う。 20年の貫禄がバチバチ発揮されていた唯一無二のサウンドだった。

もちろんスプリット音源(とZine)を購入してほうほうの体で帰宅。終始激しかったけど楽しかった。ライブを見に行く醍醐味に知らないバンドを知れる、というのがあると思うがそういった意味ではハードコアとヒップホップとクロスオーバーなイベントで知らないジャンルを垣間見れてよかった。