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2020年11月15日日曜日

ナオミ・オルダーマン/パワー

今年面白かったゲームと言えば「Ghost of Tsushima」だろう。

開発元であるサッカーパンチが2009年に発表した「インファマス」というゲームは手から電撃を放つ男が主人公のオープンワールドゲームだった。

また、冨樫義博の漫画「ハンターハンター」でも登場人物の一人キルアは雷を操る。

ハリウッド映画の「アベンジャーズ」に登場するトールももとは雷神で、雷神というのは日本含めて様々な国の神話に登場する。

雷というのは、単に力の象徴にとどまらない。

超自然のちからなら、別に念動力でも炎を操る力でも良い。

雷というのは天から地に落ちるから、これは神性を帯びたもので、それを人が使うということはいわば由緒のある天上の存在から人間に下賜された形になる。

つまり雷を操るということは天意を得た、ということの暗示になる。


この本では雷を手に取るのは女性たちである。

作中でも言われているがこの力を得た状態というのは弾が装填された銃を持っているようなものだ。

世界中で銃で人命が失われているが、悪いのは銃だろうか?

いや、それを使う人間が悪いのだ。銃はどこまで行っても道具だからだ。

つまり、力というのはあればそこに秩序をもたらし、また暴力や死を呼ぶ。

たとえ天から授けられた力であっても使う人間によってその結果は様々でこの本が面白いのは、力を得た女性の変遷を素直に書いているところだ。

つまり女性の男性化である。

端的に言って暴力的になる。

思考が力に立脚しているから、力づくでものを得、力づくで異性をレイプするようになる。

オルダーマンはこの作品で女性らしさは生得のものではなく、環境が形作るものだと定義している。

つまり女性が力を得れば女性らしさが失われ、社会的に弱い場立場になった男性がその代わりに女性らしさを身に着けていく。

当然この世界では、おしとやかで異性に従う性質は男性らしさと呼ばれることになり、女性はこの気質と振る舞いを男性に求め、そうでなければ男性を虐待するだろう。

女性が力を得れば女性らしい世界、優しく生産的な世界が成立するのだろう、というのは幻想であると言っている。


男性は夜一人で歩けない、襲われるからだ。

もし夜道でレイプされ金を取られたとしよう。

警察に行くとそこは女性警官でいっぱいである。

襲われたと訴えると、あなたが犯人を誘惑したのでは?と言われるのだ。

そんなバカな、と男性のあなたは言うかもしれない。

しかし女性は今そういう立場にある。

この男女の逆転を回す力になっているのが女性に与えられた新しい力、雷である。

何を馬鹿な、腕力も武器もあるぞ、と思うかもしれないが、男性が女性に基本的に上から目線で接することができるのは潜在的に力が、つまり腕力が強いという点によっている。

いざとなれば殴っちまえ、というわけだ。

例えば相手が見るからに反社会的勢力のような外見をしていたり、筋骨隆々の男性なら女性には攻勢に出る男性もほぼ100%態度が変わるだろう。

男性が実際に力が強いことを根拠に女性に対して潜在的に自信を持っている。

これが作中では装填した銃に例えられているが、雷を得た女性は雷によってこの自信を獲得したわけだ。


せっかく世界に平らかにする力を天から得たのに、バランスが逆転しただけで結局力によって一報を制御搾取する構造は変わらない、という円環の物語でもある。

砂時計を逆にしたかのごとく、世界の構造は変わらない。

女性優位の世界はディストピアだとすれば、いま男性が女性を力で抑えている状況がすでにディストピアである。

大切なのは、男女いずれかが優れているわけでも劣っているわけでもないということだ。

女性の作者がこれを書くことは大変だったと思う。

なぜなら力の弱い女性が力を持ったら男性に対する積年の恨みを晴らしてスッキリ、という物語になるのが人情ってものだからだ。

天に与えられた力が人間界を変えられないなら人間の力で変えていくしかない、というメッセージを私はこの本から受け取った。


2020年9月6日日曜日

フラナリー・オコナー/フラナリー・オコナー全短編

フラナリー・オコナーは1925年にアメリカの南部で生まれた作家で、39歳の若さで自己免疫疾患でなくなった。
短編小説の名手と呼ばれ、優れた短編に贈られるオー・ヘンリー賞を3度受賞した。
彼女の全部の短編をまとめたのがこちらの2冊。

オコナーの短編はだいたいアメリカの南部に住む人々の風俗、生活を描いたもの。
例えば同じ南部でもスタインベックの描くそれとは風景や光景は似ていても、受ける印象は遥かに異なる。
描かれる世代が違うこともあるけど人間の表現に決定的に差異がある。
スタインベックは虐げられても誇りを失わない素朴だけド強靭な人々として南部人を描いたが、オコナーの描く南部人は徹底的に自分本位でときにグロテスクでさえある。

オコナーは敬虔なクリスチャンであったそうで私には読んでいる間それがずっと不思議だった。
「善人はなかなかいない」という作品があるまさにそのとおりでオコナーの描く南部人は、無知で傲慢で差別意識が非常に強い。
登場人物の殆どがそうである。登場人物に好感をいだくことは非常に難しいだろう。全員嫌なやつだからだ。

■描かれているのは地獄
オコナーは地獄を描いていると思う。
彼女の小説には暴力が出てくる。
度々出てくるわけではないからむしろ効果的である。
私は彼女の小説には死の匂いがするから地獄だというのではない。
フラナリー・オコナーという人は「人がわかり合えない」という状況を書いていて、それが地獄だと思うのだ。
バベルに怒った神が人間に複数の言語を課して互いの意志が通じることを困難足らしめたが、その罰が今でも続いているように思える。
むしろもっと悪いか。人間は同じ言語で話しても互いを理解することができないのだから。

■人間の最も親密な関係のミクロという意味での親子関係
オコナーはよく家族、親子関係を描く。
(出番の少ない父親はおいておいて)出てくる母親というのは確かに根は優しくて子供に対する愛情もあるんだろうが、総じて過保護で子供をいい年になっても子供扱いしている。
一方子供の方でも独立心があっても結局親から離れらずに恩恵を受けている割には非常に傲慢である。
オコナー自身南部に生まれ大学院への進学をきっかけに南部を離れ、作家とのキャリアが始まった以降は実家に戻るつもりはなかったようだ。
しかしその後父親と同じ難病を発症し、故郷に戻り終生母親と暮らした。
この実体験が反映されているのではと思う(がもちろん実際のところはわからない)。

彼女がしばしば親子関係を描くのはそれが最も親密な人間の関わり合いだからだ。
それすらも、わかり合うことが殆どない。
最悪いずれかが死ぬ、さらには一方がもう一方を直接的または間接的に殺めてしまう。

■不和の要因
わかり合えない、というのは何が原因なのか。
これらの物語に出てくる人たちというのは基本的に変わることがない。
人の言うことを聞かない。
この世界では「(論理的な意味での)明晰な思考(≠正しさ)」ということがほとんど意味をなさない。
なぜなら論理的な正しさを受け入れる人がほとんどいないからだ。
『床屋』では明確に知性が数に敗北するシーンが書かれている。
いわば衆愚であって、これの前には進歩が立ち行かないのである。
『強制追放者』ではナチの迫害から逃れてきた人々に対する無知と差別が描かれている。
また『障害者優先』では人間の優れた性質である親切さ思いやりを実践するのがいかに困難か描かれている。この物語は2方向に対する優しさとその失敗、人間の思い上がりを描いていて面白い。

■まとめと宗教の意味
フラナリー・オコナーの各世界では人はお互いに好きなことを言い、他人の言うことは聞かない。
みんなが自分が一番世の中で苦労し一番不幸だと思い、他者を口だけ達者でよく喋るだけの怠け者だと見下している。
彼らがその境遇に甘んじているのは彼らの努力が足りないからだと思い、自分の今の暮らしがただの幸運の上に成立していることを理解しない。
大人だけでない、子供もそうである。
他者への優しさは自分の傲慢と、そして他人を信じられない心から必ず失敗する。
このわかりあえなさと、理解への失敗がオコナーの短編をして地獄だなと思わせるのだ。

私は仏教徒でもキリスト教徒でもないが、キリスト教はたとえば念仏を唱えれば悪人でも浄土に行ける、ってわけでもないらしい。少なくともオコナーはそう思っていた。
いわば様々な欠点をもったマイナスの人間が、プラスになるには何が必要なのか。
極端な話、オコナーは人の力では無理だと思っていたフシがある。
そのマイナスからゼロを経てプラスになる過程、飛躍が神の恩寵ではないか。
『善人はなかなかいない』のラスト、または『長引く悪寒』、または『障害者優先』『家庭の安らぎ』のそれぞれのラストでも良い。
苦い結末にかすかに登場人物たちの心の変化が見て取れるはず。
この転化が神の恩寵とオコナーは捉えているのではないか。
オコナーは暴力が神であると考えているのではなくて、その暴力が気づきのきっかけになる場合があるということだ。
敬虔さというが、かなりストイックに見える。

■是非読んでどうぞ
この本を読んでアメリカの南部はやっぱり差別意識が強いと感じるなら浅すぎる。
いわばオコナーは人間の欠点を強烈に南部の風俗に投影したのだ。
登場人物に共感は全くできなくても、彼らの一部一部に自分の姿を見るだろう。
オコナーの短編はそういった意味では非常に普遍的な物語であり、いつの時代でも決して色褪せることがないだろう。
うんざりするようなぬるい地獄の中に、汚い都会の空に瞬く星のような救いがかすかに見えるかもしれない。
格差と差別で相変わらず揺れる現代、あえてこの本をとっても良いのでは。

2020年6月28日日曜日

マリオ・バルガス=リョサ/楽園への道

同じ血を引く反逆者の物語
サマセット・モームの「月と6ペンス」を読んだのでなんとなくゴーギャンのイメージはあまり良くなかったが、この人物は小説家を魅了するらしい。
ゴーギャンは実はペルーに縁があり、それがこのノーベル賞作家バルガス=リョサの何かに引っかかったらしい。
彼はゴーギャンとその祖母、フローラ・トリスタンを題材に長い小説を書いた。それがこの「楽園への道」だ。
ゴーギャンは名前だけ走っている人も多いだろうが、フローラ・トリスタンとは?
彼女は1800年代初頭に生きたペルーの貴族の血筋で、貧困にあえいで育ち、逃亡者で、思想家であり、著述家であり、労働者を団結させて組合を立ち上げさせようとした社会主義者でもあった。
バルガス=リョサはこの二人の晩年の人生を交互に、ミルフィーユのように何層にも重ねて書いている。
かなり特車構造でもある。なぜかというとこの祖母と孫は生きている間は一度も面識がなく、したがって交互に繰り返される二人の人生が直接交わることがないからだ。
バルガス=リョサはこの二人を異なる時代に生きた反逆者として書いている。
反逆者と言っても社会の破壊者ではない、それぞれの理想を追い求め、当時の社会にその実現を目指した追求者として、だからタイトルは「楽園への道」なのだ。

二人の共通点〜出自〜
同じ血を引いている以上にこの二人の反逆者には似ているところが多い。
ふたりとも根っからの反逆者ではなく、しばらくは既存の社会の一員として生活をしていた。
ゴーギャンでいえばむしろ金融業界で働くエリート(当時で言うブルジョワ)であった。(その前は船員をやっていたから育ちが良いわけではない。)それがほとんど興味がなかった絵画に出会って自ら筆を執り、そしてその魅力に取り憑かれて人生を狂わせていく。
フローラはペルーの貴族であった父親が早逝し、その後は貧困から望まない結婚をし、そこから逃亡し、文字通り世界を遍歴する中でフェミニズム、それからコミュニズムに開眼していく。
いわばある出来事から覚醒し、それから世界と戦うことになった。

二人の共通点〜生き方〜
既存の世界と対立する新しい世界秩序に目覚めた二人は、爆発的なエネルギー。
それまで持て余していたエネルギーを文字通り100%ぶつけていくことになる。
そのためには周囲との反発も厭わなかった。アウトサイダーになり、警察を始めとする権力と摩擦が生じることもじさない。
禁欲的ではなく感情を発露させ、他人と戦い、快楽をあけっぴろげに求めた。
しかし結局は自分の理想が全てに優先された。
世界との対立にしても、自分の居場所を作る的な自己防衛ではなく、世界の一員であることを高らかに宣言し、それでいて世界をあけすけに批判した。
ここはゴッホとの対比を見てほしい。アルルの狂人ゴッホにとっては世界は違和感に満ちていて、そこにとどまって生きること自体が戦いだった。
一方でこの祖母と孫はどんな環境でも生きるたくましさ、強靭さがあった。
無知や搾取と戦った。
今までこうだったから同じやり方を踏襲している、という考えのなさを批判するベンチャー精神で、未踏の大地(ゴーギャンでいう南の島、フローラでいう諸外国の労働環境)を切り開いていった。

二人の共通点〜最期〜
二人も自分勝手と言われて差し支えないほど自己中心的で、無限のエネルギーを燃焼して生き急いでいる。
最後は旅の途中でなくなるまで燃え続けた。
ふたりともついに終の棲家を見つけることができず、家族に対しては愛情はあっても保護することはなかった。それは自分本位で身内は愛さなかったと行っても良い。また生きるために他人を利用する強かさと鈍感さを持っていた。

二人の差異
二人の共通点はそうだとして、違うところはどこだろう?
性別が違う。
これは結構重要で、フローラは女性であることがそもそも彼女の苦難のひとつなのだ。
搾取される側のフローラと、半ば無意識に搾取する側のゴーギャンであると言える。
また祖母は世界と明確に対立したが、孫は世界と対立したのは副次的なものだった。
楽園を実際の社会構造に求めたフローラと、あくまでも自己の内部(の発露しての作品とそれに付随する名声)に求めたゴーギャン。

楽園とは
まずこの二人は楽園を目指したが、それは確実に存在しなかった。
いわば頭の中にある楽園を創造しようとした。
フローラが実際に労働者とあってもほとんど賛同が得られなかったように、ゴーギャンが移住したタヒチでも彼の夢想した楽園がなかったように。
失望や落胆は彼らを諦めさせることはできなかった。
フローラは時に非合法の会合を持ち続け、ゴーギャンは絵筆を取り続けた。
ともに病魔がその体を蝕んで動けなくなるまで。
かっこいい死に様は存在せず、かっこいい生き方だけがあるように楽園はなく、ただそれにいたろうとする道こそが人を感動させた。
いわば不可能への挑戦であり、作品や思想そのもの質と関係なく、その情熱やその実行者が単に善悪の基準を超えて、燃え盛る炎のように人を魅了する。

批判性と普遍性
この作品は文明というよりは画一的な近代化批判がある。
西洋の進んだとされる文明が後進国を教化することで、もともと個性があった文明の良さを消してしまうこと。
そして教化のあとは鈍化させることで労働力として搾取すること。その権力の手先として活動するのが警察とそれからキリスト教教会だった。
フローラの置かれている状況も非常に悲惨であって、近年の#metoo運動もそうだけど女性は生まれながらにして差別されている、ということを強く意識させる。
またゴーギャンもフローラも人種差別はしないことも非常に面白い。
 今世界が混乱している、というよりは混乱が世界の抱える問題をあぶり出しているだけだと思うが、そんなときにこの小説を読み、そしていつになったら人が平等に生きられるのだろうか、と考えることは楽しい。
そのためにできることが見つかればそれは間違いなく楽園への道、その道は非常に険しいだろうけど、あなたや私が道半ばで倒れてもそれはとても尊い。
凡人である私は、少なくともその道を歩む人をバカにしない人間になりたい。

2020年5月4日月曜日

G・ガルシア=マルケス/百年の孤独

この物語のどこが孤独なのか?
この物語に出てくる人々は私達が漠然と南米に抱いている先入観というか固定観念をある程度なぞるようである。
つまり南米の人たちというのは、、、

  • 猥雑で底抜けに明るい。
  • よく飲みよく食べ、色事も多い。
  • 気前が良く、親族を大切にするし、また他人であっても身内のように扱う。
  • 情熱的で優しい。
  • 独特の死生観と宗教を持ち、その明るい生活には流血が伴う。
  • 彼らの生活には死が隠しようもなく存在感を持ち、異なる文化圏に属するものからすると不謹慎や唐突という印象を抱くこともある。

要するに孤独とは一番縁遠い人たちに見えるわけで、この蜃気楼の村マコンドが地上に存在するその100年間は概ね熱狂の年月と言っても良い。
彼らは常に誰かといて愛し合い、食べ、そして眠っている。
一人でいるということはほとんどなくて、小さい頃は本の虫であってもそのくらい穴蔵からいずれ出て他人と愛し合うか、もしくは殺し合う。
そうブエンティアの一族の男性はまたよく戦い、よく殺し合ってもいる。

彼らは他人と関わることで生きている。
愛するにしても、殺すにしても他人との関係性があり、つまりここのどこに孤独があるのか?


微笑みの爆弾と孤独
突然だが冨樫義博さんの漫画「幽遊白書」のアニメ版の主題歌、馬渡松子さんの歌う「微笑みの爆弾」という歌をご存知だろうか?
こちらの冒頭の歌詞を読むと、孤独には2種類ある事がわかる。
つまり、誰もいない環境での孤独と人がいる中での孤独の2つが。
前者のほうが希望がある分、後者のほうがより孤独であるだろう。
この百年の孤独というのはこのとき間違いなく後者の孤独である。
マコンドのブエンティアには常に人がいて、そしてたいてい騒がしいのだから。

彼らは大家族で、妻や愛人その子ら孫らに囲まれ、その気前の良さから親族ではなくても慕う人も多く、同時に敵も多く命を狙われることもあるが、それでも孤独なのだ。
なんでだ。
彼らは愛し合っているのでは???


愛の不在=孤独
物語の終盤、百年の中でようやく愛によって生まれた子供がいた。
それまでのブエンティア家には愛によって生まれた子供がいなかったのだ。
彼らの百年の楽しい喧騒の中には実は愛がなかった。

つまり孤独というのは愛の不在ということになる。
じゃあ愛ってなんだ?
この南米の人達は情熱的に愛していたのでは、恋人を、子どもたちを。

彼らがただただ殺し合いをしていたというのではない。
例えば独善的な(つまり変わった考えを頑固に持っている)アマランタやフェルナンダにしても彼女らの恋人や子供を自分なりの方法で愛していた。


愛の正体と成立の困難さ
愛って難しいって話で、愛というのは片方が愛していてもだめだし、またお互いに愛していてもそれが通じ合っていなければだめだというのです。

よくよく読んでみると愛し合っている二人でも本当に通じ合っているケースは本当に少ない、というか作者によると最後の二人以外には誰もいない。
彼らの愛は性欲由来でただ消費するようなものだったり(これは非常に多い、大佐の17人の子どもたちなど)、相手を思った愛でもその対象には届かないというかむしろ害になったり(フェルナンダとメメの親子関係など)、通じ合ってはいなかった。
ウルスラはそういった意味で象徴的な存在。文字通りブエンティア家の地母神的な存在で異常な長命で孫の孫の孫の〜くらいの子孫までその手で育て上げた。ウルスラは子孫たち、その妻たちを限りない愛をもって接したが、誰もそれと同じようにはウルスラを愛さなかった。彼女はそういった意味では孤独を象徴しているキャラクターでもある。


神を必要としない世界の酷薄さと
愛を実現できる可能性としての人間のポジティブさを歌う
いつからかマコンドに置かれたキリスト教会とその牧師もうまく動いているとは言い難い。
彼らは百年にわたって部外者である。
神がいないで完結している世界。
愛に神は必要ない。
本当は人間だけで完成するのだ、この世界は。
流血と嘘、弾丸とナイフ、謀略で汚れたこの地を地獄と呼ぶのは勝手だがこの混沌の中でも人間には可能性があって、でもそれが人間の愚かさで実現できないのは悲劇であり、そして喜劇でもある。

前述の通りようやく完成した人間の愛、しかしそれもまた儚く終わってしまった。
ここにあるのは本来の野蛮な世界である。
直接の引き金が人間の怠慢であっても、自然本来の残酷さが強調されている。

欠点のある他人を愛することは難しいなら愛し合うことは更に困難だ。
しかもそれがきちんとお互いに通じ合うとなるとこれはもう奇跡だ。
「百年の孤独」はその奇跡に至る道、ではない。
読めばわかるがマコンドの、ブエンティア家の百年は繰り返しの百年でもあった。
つまりループだった。
愛し合い、殺し合い、食べ、排泄するループ。
その中でやっと生まれた愛がどうなったか?

ガルシア=マルケスは「百年の孤独」で人間に絶望しているわけではない。
たとえ百年ごしに生まれた愛がすぐに終わったとしても、この神ですら役に立たない、残酷な暗闇の世界で愛の火を灯せるのは人間だけだ、と言っているように私には思えた。
つまりゴールがある(愛が生まれた!よかった!完!という)物語ではなく、この世界、そこに住む人間が持つ可能性をこの長い物語に込めた、(消えた愛がまた生まれる可能性があることを示唆する)終わることのない人間讃歌であった。

2020年3月29日日曜日

リチャード・ブローティガン/アメリカの鱒釣り

ブローティガンの本を読むのはこれで三冊目だが、これが一番わからないかもしれない。
彼はビート・ジェネレーションの一人に数えられることもあるそうだが、非常に面白いあとがきにも描いてあるとおり、私はビートニクには感じられない。
弾いたら割れそうに衝動が詰まった無軌道な若さがないし、ドラッグなどで酩酊している様子もない。
アウトローではあるが、アウトローの群れには属さない本物に思える。

この本には220ページ弱に50弱の短編が収められている。
その短さも、内容的にも物語というよりは詩に近い。
厳しくも何回でもないのだがその真意を掴むのは本当難しい。
さながらタイトルの鱒のように掴もうとするとこちらの理解からぬるっと逃げてしまうように。
そこにあるのにつかめないのだ。
こりゃ一体なんだろうと思った。
ブローティガンの作品にはいろいろなものがないのだ。

物語がない
若さがない
酩酊がない
脈絡がない
説明がない
常識がない

こう書くと全然面白くなさそうな物語が想定されるが実際にはそんなことはない。
このわかりにくい本は全世界の少なからぬ人々の琴線を打つなにかがある。

例えばこうだ。
アメリカを旅して回る風変わりな男がいて、彼は人当たりもいいし、頭もいい。
ただ普通の教育を受けて、一箇所に腰を落ち着けて働いた経験がないから、同じ文化に所属していても彼の真意が測りかねる時がある。
彼は危険な男ではなく、日差しのよく当たる公園で休んでいるといつの間にかよってきている、割と大きい猫のような男だ。
そんな男がもっている古びた、小さい、革のカバーがついた日記がなにかのはずみでベンチに置かれていて、持ち主の彼は通りの向かいのスーパーに何かを買いに行っているのだろう。
それをちょっとした好奇心で悪いと思いながら読んでみたような感じだ。
殺しの日記なんてものじゃなくて、彼の目で捉えたアメリカが書いてある。
なんだか夢中で読んでいると後ろに持ち主の彼が立っていて、ごめんと謝ると手エレ臭そうにその日記帳を受取る、なんだかそんな風景が思い浮かぶ。

彼はホントの意味でドロップアウトでアウトサイダーだ。
ドラッグアビューザーが日常の前項の正反対にいる存在なら間違いなく彼は通常の世界に属するものである。(キリスト教における反キリスト主義者のように)
ところがブローティガンは日常に暮らしながらも水平というより垂直に底から離れており、(彼から見たら)奇妙な私達の生活をノートに書き付けている。

故に悪行としての酩酊がなく、また彼は若くもない。年老いてもいないが、少なくとも家庭があって、アメリカを敵意と可能性の大地としては捉えていないようだ。
そこでは殺人やドラッグの売買、喧嘩などの暴力=事件は起きなく、日々が続いていく。

野生の川をちょん切って反物かなんかのように長さ単位で売ってしまうようなホームセンターがあり、また釣った鱒にポルトワインを飲ませて殺してしまう最高死刑執行人がいたり、超常に片足を突っ込んでいるがそこにあるのはやはり日常である。

擬人化されたアメリカの鱒釣りが象徴するように、非人間がアメリカの生活の象徴となって行動している。

一方で「クルーエイド中毒者」「アメリカの鱒釣りテロリスト」のようにほぼ幼少期の体験をそのまま言葉にしたような作品もあって、これは日本人の私もノスタルジーを感じるわけなんだけど、つまり彼のない事件のない、ドラマのない文体というのはつまるところ日常を書いているのであって、それが言葉の限界迎えたときブローティガン流のアメリカの鱒釣りちんちくりんや最高死刑執行人たちがどこからともなく現れ、そして河川が売りに出されたりしだす。

なるほど確かに一風変わっていて真意は測りかねるけれども、なにやらブローティガンさんのほら話といった感じで非常に優しくそして現実的である。

2020年3月22日日曜日

ニコ・ウォーカー/チェリー

青春小説と言うにはあまりにも情けなく、
戦争小説と言うにはあまりにもカタルシスがない、
ドラッグ小説というにはあまりにもおしゃれでなく、
犯罪小説としてはあまりにもしょぼい、これはそんな小説。

この物語はいうまでもなく自伝的フィクションである。
実際の著者ニコことニコラス・ウォーカーは、第4歩兵師団第167装甲連隊の衛生兵として(本人が自分のことをどう思っているかはわからないが)戦場では7つの勲章を授与された優れた兵士であり、PTSDで21日間も一睡もできなかった。
ニコはチェリーの「俺」になり、つまり道化を演じることで本を書き、現実を笑おうとしたのだが、しかしその”変身”はアメリカのギラギラ輝く巨大なドリームの、その色濃い影をくっきりと読者に意識させる。

IED(即席爆発装置)で爆破されて残骸となったハンヴィーのハンドルから垂れ下がる肉片。吹き飛ばされて顔がなくなった死体。

友人の金庫をこじ開けて盗んだクラック。オキシコンチンに溶ける奨学金。禁断症状で始終吐くゲロ。

「俺」にはほとんど自分の意志がない。
流されるようにドラッグに溺れ、流されるように兵士になり、流されるようにイラクに行き、そして帰ってきてまたドラッグに耽溺した。金がなくなったので純粋にドラッグを買う金を稼ぐために銀行強盗を始めた。
彼は別に貧困層の出ではない。ギャングでもない。

人に馬鹿だと思われている「俺」にはたしかに意思がない、向上心がない、信念もない、愛国心もない。
しかしその愚かさを命綱にして地獄=アメリカの底辺の現実にスルスルと降りていく。
そして馬鹿だ馬鹿だと言われながら、地獄の刻印をその体に刻みつけて帰ってきて、その二度目の贈り物の人生を自分の手で破滅させようとしている。
おい、この物語はバカの一生というにはあまりにも陰惨ではないか?

あまりにも軽い命、ここで現実と作品がごっちゃになってしまうが、しかしニコラス・ウォーカーは実際には真の愛国者であり英雄であった。
彼を誰が馬鹿にできるのだろうか?(私は彼が徹頭徹尾聖人だと言いたいわけではない。)
いわばアメリカン・ドリーム、グレートなアメリカの実態を暴くのがこの小説なのだと言いたいのだ。

彼がホワイトトラッシュなら、その馬鹿なカードの裏は戦場の英雄ってわけだ。
ニコラス・ウォーカーはなかなかどうしてクレバーなジョーカーかもしれない。
彼の軽口に騙されてはいけない。

2020年3月1日日曜日

フォークナー/響きと怒り

さきに「アブサロム、アブサロム!」を読んでいたから、後(1936年)に書かれたそちらより1929年に書かれた本書のほうがだいぶ読みやすかった。
理由としては3点。
・文体
・物語の動き
・物語の構造

文体
文体の方はアメリカ文学的というより、イギリス文学的な意識な流れに則っている。
つまり人間の意識をそのまま言語化しようかという大胆な試みで持って、人間の思考を時系列で文字で表現しようとする手法である。
ただ明らかに「アブサロム、アブサロム!」よりは読まれることを意識していて、露骨にわかりにくい表現は省かれている。
ただし第1章は重度の知的障害をもっている男性の意識を追っているから、どうしても構造上読みにくい。ただこれは思考法が健常人のそれとことなる、いわば思考の基底が異なる人間の思考を書いているのであって、(本書における)意識の流れ自体が読みにくいということにはならない。

物語の動き
物語の構造としては、本筋にいくつか印象的な事件が配置されており、それに沿って物語が進んでいく。
「アブサロム」では語り手の意識が行動を上回っており、言い回しもあって難解であったが、「響きと怒り」ではわかりやすい事件が配置されて物語が進んでいくから単純に読者としては読みやすい。

物語の構造
また、すでにしに去った幽霊たちを語りという信用できない言語で蘇生させようとする(もちろん作者に寄って意図された)はなから無理がある試みだった「アブサロム」に対して、こちらは素直に日記帳の語りで物語が進んでいく。
語りては必ずしも真実を語るわけではない(やはりそもそも人間が客観的な真実を語るのは無理がある)が、それでも読みやすさはこちらのほうに断然軍配が上がる。

フォークナーの特異さ
じゃあ「響きと怒り」は読みやすい物語がというとそんなことはない。
斜陽にあるアメリカ南部のコンプソン家の没落の様を描いている、という筋だがそこから何かを読み取るのが難しい。
フォークナーの凄さというのは、単純に良い物語を書くというのではなく、長大なアメリカの歴史を切り取って物語にまとめることができる、という能力ではなかろうか。
物語に起承転結や筋が必要なのは、単にいえば読みやすくするものである。
歴史書だって当然事件に終始するものであって、長い目で見れば線的だが実際は点の集合点である。
「響きと怒り」では短い、「アブサロム、アブサロム!」では長期の歴史を線的に書こうとするのがフォークナーの試みというか狙いである。
いずれの物語でもショッキングな出来事は含まれるが、それが本質でないことは読めばわかる。それを含んだ日常を書くのが彼の目的であり、いわばそれは日常である。
日常を事件に置き換えないで描ききるというのはなかなかできることではない。
故にフォークナーの作品は非凡である。

響きと怒り
フォークナーは自分の生まれ育った土地に着想を得て、そこから虚構の街、底に住む虚構の人々を作って彼らの生きるさまを丹念に描いた。
つまり南部とその生活というものがフォークナーの書きたいことそのもの。
彼はこの南部という土地を愛していた。
その上で本作がどんな物語かというと、相変わらず無知傲慢人種差別男尊女卑暴力搾取人間の暗部がこれでもかというくらい書かれているが、これは南部の(特定の)人間が卑しく結果的に南部は地獄の様相を描いている、というわけではない。
「八月の光」「サンクチュアリ」などの作品に比べると「響きと怒り」「アブサロム」に関しては人間の暗部をことさら書きたいわけではない。
4章の主人公ジェイソンを見て嫌なやつだが自分みたいだと思った。
この物語の登場人物たちは大悪人というわけではなく、これは私達全員である。だからこの物語が神話的であるといえる。
フォークナーのミューズでもあるキャディという女性が物語の中心であることは間違いない。
殆どの登場人物の人生が彼女の行動に大きく左右されている。
いわば生きる事件であって、その影響を観察しているのが本作かもしれない。
登場人物たちが悪人でないと書いたが、かといって愉快な奴らかというとそんなことはなくて、つまり書かれているのが日常なのだからそれはそうだ。
一つ思ったのはこれは日常からの脱出だなと。
キャディは南部の没落しつつある一家に生まれ、理屈っぽくて頭は良いが生活能力のない父親、僻みっぽくて常にメソメソ泣いている不健康ぶる割には健康な母親、父親の性向を強く受け継いだ優しいが思い込みが強く妹に自分の運命を託している兄、重い知的障害を持つ兄、真面目だが意地の悪い兄、生活能力がなく姉にたかる叔父に囲まれて生きてきた。
彼女にとってよその男というのはそんな日常から脱出させてくれる存在だった。
2000年も20を数えた現代とは違うのである。
女性がトランクひとつで家を出てどうなるものでもない。
だが、キャディは家を出たもののやはりコンプソン家に(少なくとも20年ほど)は囚われた。
そんなキャディの失敗と無念を同じ道筋をたどりながらももっとうまくやってのけたのが自死した兄と同じ名を持ったキャディの一人娘、クエンティンだった。
彼女の広大でも荒廃しつつある屋敷からの脱出劇は、そのまま(近親相姦、人種差別、男尊女卑の)因習に囚われた南部からの脱出であった。

2020年2月9日日曜日

ウィリアム・フォークナー/アブサロム、アブサロム!

■文体とアメリカ文学における特異さ
フォークナーの文は読みにくい。句読点を省いた一文が非常に長いのに加えて、比喩を含んだ表現が多く、時系列は直線的でないし、さらには説明が省かれていたりする。
「八月の光」「サンクチュアリ」はリズム重視で読み飛ばしていたのでは?という疑念から今回はじっくり理解できるまで一文一文噛み締めていくような読み方したら時間がかかってしまった。

句読点を省いた独特の文体は後にマッカーシーに受け継がれていくのだろう、フォークナーはアメリカ文学界の巨匠である、言うまでもなく。
ただ今作読んで思ったのは結構アメリカ的ではないな、この人の書く物語は。
ヘミングウェイの「老人と海」がアメリカ文学における一つの大きな里程標だとするとそこに書き込まれているのはぶっきらぼうとも言える、極めて肉体的な”動き”にのみフォーカスした、逆に言えば心理的な描写を徹底的に排した文体である。
これは「ハックルベリー・フィンの冒険」から受け継がれる、アメリカという歴史と背景を持たない新しい国が生み出した一つの新しい伝統。

ところがフォークナーの文体は明白にイギリスのヴァージニア・ウルフの書くそれに似ている。
意識の流れ、と評されることがあるその文体は人間の意識に発生する”動き”を丹念に描いていく手法だ。
外界の刺激に比例しない動きなので、人の内面描写に優れる分、実際の行動に対して長くなりがちだし、ときに退屈でもある。
物語が現実の省略、デフォルメだとするとその長大な流れのなかに置かれた石のような、不思議な手法ではある。

■歴史を語るという構造
「アブサロム、アブサロム!」は歴史的な小説である。
歴史をメタ的に扱っている小説という意味で、歴史小説という意味ではない。
「燃えよ剣」は歴史を扱っているが、歴史という概念はここではジャンルであって内容には関係ない。
ところがフォークナーはこの本で歴史を物語ろうとしているわけだ。
サトペンという謎めいた男の人生を紐解いていくことで。
神の視点でサトペン本人にフォーカスして地の文を書いていく(例えばサトペンは馬にまたがった、のように)のではなく、すでにいなくなったサトペンを別の人達が語っていくのである。幽霊が、と冒頭で表現されているのは正しい。
痕跡、ここで事実とそして大半は人の記憶の伝聞からサトペンという過去生きた男を再構築していくわけだ。
これは解釈という言葉で置き換え可能で、そういう意味ではすでに事実からかけ離れている。ローザに関しては私情というより私怨が入りすぎているからすでに彼女の語るサトペン像は奇妙に歪んでいるだろう。
上巻の183ページ目、いかにもフォークナーらしい書き方で、記憶や手紙から再構築したサトペンたちにはなにかが足りていないことが示唆されている。
そういった意味では神話的であり、サトペンは一つの伝説であるといえる。
足りない部分は残された者たちがそれぞれの思い入れを注入して補填しているのだ。

■悪魔のような男ことサトペンと南部の呪い
①サトペン
悪魔とも称されるサトペンという男はでは何を代表していて、何の代表なのかというとこれは南部ということになる。
南部の体現者。
貧困から立ち上がり、KKKを追い返したが、自分から偉大な白人の血統を始めようとした男。妻に黒人の血が混じっていることがわかれば離縁したこともある。
血にこだわる急進的な差別主義者ではない差別主義者。
「黒人か、そうでないか」の思考で生きている差別主義者。
彼が作中で悪魔と言われるゆえんはしかし差別主義者だったことは一度もない。
彼は寡黙な独裁者という独特な雰囲気で、目的のために手段を選ばない。
良く言えば取り繕うということをしない正直な男でもある。
戦争に従軍する勇気もある。
自ら地所に家を建てる根気も気力も体力もある。
何より強引だが実行力に長けている。
白人の金持ちの持つ黒人の召使いにあしらわれたことが、彼の人生の立身の動機となったが、差別が差別を生み出したように彼も黒人を排除しようとは思わないが、やはり差別主義者になった。

②呪いについて
この南部の呪われたた血の連鎖は父子関係で受け継がれていて、みんながなにか自分に足りない何かを求めてこの地上をさまよっている。
サトペンは自分を始祖とする偉大な白人の血統、その息子ヘンリーは自分の恋愛感情を妹に置き換えて伊達者と結婚させようとしている、(サトペンの)娘ジュディスの許嫁秘めた思惑をこれまた(しかし母親から)上代から受け継がれたボンは復讐と陰謀の中で常に自分にとっては不在だった父親からの認知を求めている。
ボンの息子エティエンヌは呪いの犠牲者とも言うべき境遇で自分は黒人だと自他ともに認めさせるように黒人の女性と結婚し、また白人に喧嘩を売り続けて死んでしまった。
ジョーンズは南部の英雄の従者になりたかったわけではなく、栄光に浴されたかったわけで、いわばサトペンの隣に座したかったのであり、積年の奉公がついに甲斐なくなったとわかったときようやく武器をとった。彼は常に遅いものであり、ただし裏切り者ではなかった。ジョーンズの勝手な思い込みであっても裏切ったのはサトペンだった。
男性は執着や失ったもの、得ることができない(できなかった)ものを取り戻そうとして動いている。

③暴力について
結末はやはり暴力があって、それも自分で振るわないといけない。
ボンとヘンリーは呪われた未来を神、戦争という暴力に託したが結論は幸か不幸かついに出ず、お互いにお互いに殺してくれることを望む持久戦になってしまった。ヘンリーは我慢比べに負けた。
一方サトペンは血糖を繰り返していて暴力に慣れていた。これは現実で日常的に決断力を持っていたのはサトペンだけであることを表してもいる。(だから彼は強かった。)
つまりこの物語で(自分で振るう)暴力とは決断になる。これが現実を運命の手からとって自分で定める、という行動の象徴で、しかし暴力は当然不幸しか招いていない。

④呪いの構造
ボンの母親は地理的に部外者なので置いておく(彼女はサトペンと似ていて人生にはっきり目的がある人である)。同様にカナダ人のシュリーヴも部外者になる。彼にとっては異様な南部への「なぜ?」という問いかけが物語を進めていく(=人物を解析していく)動機になる。(クエンティンも同期は同じだが彼は渦中にいる。)
この物語に登場する女性陣を考えてみると概ね彼女たちは巻き込まれ、男性たちに影響されていることがわかる。
南部では圧倒的に男性優位で女性は男性の周りに配置され、そのために消費される。
ローズは子を生む役目を露骨に告げられてサトペンを恨んでいる。彼女はサトペン似人生を狂わされたと思いこんでいる。(が、実はほぼ自滅していることが描かれている。)
エレンは南部に疑問がなく無知だがそれゆえ幸福に死んだ。
クライテムネストラは女性性を否定して従僕として生きている。
私がこの物語で一番謎だったのはジュディスで彼女は父親であるサトペン(とエレン)婚約者であるボン、さらには兄のヘンリーからも道具として扱われているが、常に自分がないように動いている。とにかく真意が汲み取れない。存在感がないが曖昧に悩んでいるわけではないが、妙に行動が明確である。他人に自分の大切な手紙を託したり、親族の墓を用意したり、ボンの息子を引き取ったり。彼女には感情の起伏がないように感じる。この物語で起こる何事も彼女にダメージを与えていないようだ。
呪いで身を滅ぼす男たち、だが強権で周囲の女性も不幸にする。これが呪いの構造というかアウトラインだろう。

■アブサロム、アブサロム!とは
「サンクチュアリ」、「八月の光」と比べてこの物語がわかりにくいのは扱っている悪がわかりにくいからである。例えばレイプ、黒人差別そういった一言に集約できない。
フォークナーが作品を通じて呼びかけたかったのは「レイプや差別はだめよ」という言葉に集約できない。
彼は暴力が生まれる悲劇的な土壌や資質を一貫して書きたかったので、それは何かと言ったら南部という土地だった。
つまるところ善悪は概念であるから、南部での生活を書きたいわけで、そこには悲喜と清濁が混じり合っている。
南部が呪われていて地獄だ!というふうには言いたくなかったわけだ。だからクエンティンの本当の最後の独白がある。
長大な一個の「なぜ?」のような小説。

2019年9月8日日曜日

ボストン・テラン/その犬の歩むところ

ロードノヴェルだが、物語を動かしていくのは、何かを得ようとする言葉に出来ない若い情熱でも、なにかから逃げようとする恐怖心でもない、一匹の犬である。そしてこれは何かを得ようとする物語でもあり、ときになにかから逃避行でもある。
広大な北アメリカ大陸を切り裂き、その内部に踏み込んでいく現代アメリカの神話だと思った。

複数の教義に向かってモーセよろしく犬がアメリカ大陸を渡っていく。
すべてがそのドグマに向かっているのであり、登場人物たちはそのために配置されている。彼らの喋る言葉、そして地の文体は神話を構成する言葉たちであり、それらは現代の小説のレベルからすると明らかに仰々しい。
ハワード・フィリップス・ラブクラフトが彼の物語に仰々しい文体を持ち込んだのはそれが呪文だったからだ。触腕蠢く怪物たちはいわばそういった呪文なしに顕現し得ない「現実離れし」た存在である。彼の文体は現実と虚構の埋まり難い溝を埋めるための呪文であった。もしくは読み手に対する催眠と言っても良い。
一方テランはこの物語の格を上げるために装飾的な文体を用いる。それは彼(もしくは彼女、テランは覆面作家)が書く作品が素晴らしい物語だからだ。

彼女の描く人物たちは非常に個性的だし、それぞれが十分に人間的である。納得できる行動をするし、髪型や髪の色、語尾に変な癖をつけたり、(面白い黒人のような)明らかに誇張された「わかりやすいキャラクター」ではない。
その上で棘がつまり複雑性がなく、ややのっぺりした人物像系である。複雑な人間性というのがある程度省略されて、主要な人物たちは概ね定まった過去と声質を持っている。
つまり、
過去に悲惨な経験をし、それを悔やんでいる。
過去の悲劇の少なくとも何割かは自分の責任だと思っている。
その自責の念を別の何かで夫妻をゼロにしようと密かに願っている。

主要な登場人物たちをさして彼らが全員根っからの善人だとするのは不十分だ。
彼らは善悪がはっきりと別れており、主人公たち全人は葛藤はある家のように書かれているが、読者の一人としては彼らの迷いを感じ取ることができない。
いざとなったら自分の命を他者のために投げ出す彼らは、私からするとやはりどこかの神話の登場人物たちに見えてしまう。

彼らの見えない顔は実は苦痛に恍惚としているのでは。
彼らの涙や苦痛は私の感情を引き出すには足りない。
というのも彼らへの共感ができないのだ。それは神話の問題というよりは、神話が救おうとしている人物のハードルが高く、私のような卑小で世俗にどっぷり浸かったつまらない男などはその崇高な門の前では門前払いされてしまうからだ。


2019年8月11日日曜日

アンナ・カヴァン/アサイラム・ピース

アンナ・カヴァン、読むのは二冊目。
この本は短編集で、前読んだ長編「氷」とはだいぶ趣が異なる。「氷」が不条理ながらもSFの要素を持っていた(バラードが絶賛した)のに対して、この本に収められた短編にはいずれもその要素はない。一部(「上の世界へ」はSF的な世界観を感じ取れる)を除きどれも日常に根ざした現実的な物語である。
ほぼ女性の一人称「私」が主人公の物語であって、これらは作品であってたとえ、私小説であってもフィクションなのだからそのまま作者の姿を投影しているわけではないのだが、それでもだいぶ生々しい内容になっているように感じられる。

概ね、孤独であり(家族、恋人、友人から話されており、また会社で働いていない)、現実的な問題(裁判などか?)を抱えているが、それ以上の獏としたつまり根拠のない不安とそして罪悪感を抱えており、それが現実世界に対する認知・知覚に変容を発生させている、といった共通した女性像が浮かんでくる。

アンナ・カヴァンは変わった人で世界を転々として育ち、常に不安や抑うつを抱え、ヘロインを常用し(少なくとも使い始めた当初のイギリスでは合法だったらしい)、自分で創作したキャラクターの名前に本名を改名した。
どこにも居場所がない、はっきりしないが確かな不安感があり、別の誰かになりたい、なんとなく前述の主人公の姿に通じるところがある。
なんなら表題作は自身が入院した精神病院をもとに作っているし。彼女の作品と彼女の人生は(どの作家もそうだが彼女の場合は特に)強く結びついている。
書くことは彼女のセラピー、現実に適応しようとする試みだったのかもしれない。(が、最終的に彼女をそれが癒やしきることはなかった。)

どうしても生い立ちなどからヴァージニア・ウルフを思い出してしまう。暗い作風など共通点はあるが、読んでみるとだいぶ印象は異なる。
意識の流れを捉えようとしたウルフの場合は知覚過敏という印象が強い。とにかく敏感な人で通常の生活ですら彼女には刺激が強い。ギラギラ突き刺すように輝く彼女には世界がよく見えず、それをなんとか解き明かそうとしているように見える。

世界が不可解である、生きにくいという部分は共通しているが、カヴァンの場合世界が自分に対して敵意を持っている、とまで思いつめているようだ。自分の痛みには敏感だが、カヴァンは他人に対しては鈍感というかわかりやすくて、他人というのはほぼ彼女にとって敵でしかない。あまり好奇心というのはなくて、世界というのはとにかく怖い。理由はほぼないのだが、なぜだか自分が有罪だと強く信じ、確信している。面白かったのは、はじめ太宰治の「待つ」の女主人公に似ているものなのかなと、つまり何かを待っている、白黒つかない宙ぶらりんの空白が彼女を怖いと思わせているのかと(怖いのは恐ろしい物自体ではなく常にそれを待っているときであるので)。ところが「終わりはそこに」を読むと、残酷な現在という回答が提示された後も彼女の不安は消えないので、これは相当厄介な抑うつ状態である。いわばもう諦めて絶望しているような状態。

一方でウルフに関しては他社は不可解だが、常にその謎を解き明かしたいという探究心がある。彼女にとってはまだ世界は未確定であり、絶望しきっていない物語を提示する。(つまり希望がある分より残酷だと言える。)

一貫して心の弱さが提示されるのだが、しかし一連の「アサイラム・ピース」では無垢な精神薄弱者の危うさと対比して醜悪に自分勝手なパートナーたちが静かにしかし強烈に描かれている。
彼らは残酷な世界からのエージェントで彼女たちを苦しめる敵そのものだ。
殴りようのない、広く巨大で無慈悲な世界を擬人化し、その醜さを描くという意味で、これはアンナ・カヴァンの抵抗なのだ。

2019年6月23日日曜日

トルーマン・カポーティ/遠い声 遠い部屋

「冷血」が面白かったので2冊めに手にとったのはこの本。
あちらはノンフィクション、こちらはフィクションだから趣が異なるのは当たり前だが、最近もっぱら読んでいるアメリカ文学という文脈でもなかなか奇異な本だった。

ヘミングウェイの「老人と海」のあとがきでアメリカは歴史がないのでその文学というのはヨーロッパのそれとは大きな隔たりがあると書いてあった。具体的には歴史がない、奥行きが無いためその文体は必然的に肉体的に、(その人が言うには)浅薄になるそうだ。
確かにアメリカ文学では肉体的な動作が強調される。自分はそこを短所とは思わず、むしろ長所だと思っている。
ところがこの本は肉体的な動きは最低限に抑えられ、舞台装置も含めてイギリスのゴシックめいた雰囲気がある。動きがない割に重々しく、そして多分に観念的である。
ニューオーリンズに近いアメリカ南部という、まさにアメリカ文学会のど真ん中を舞台にしているのだが。

親類をたらい回しにされているがゆえに精神的に早熟、しかし都会ぐらいゆえに肉体的には脆い線の細い、頭でっかちな男の子が主人公。
彼が一度もあったことのない父親に招かれたのはアメリカ南部の田舎町の、更に郊外にある崩壊しつつある奇妙な屋敷である。
ここは異界で、そしてタイムマシンでもある。
ここでは時空が捻じ曲がっていて主人公は未来の自分に合う。
完全に私の解釈だが、暇を持てあまし、人生に倦んでおり、頭の良さがむしろ健康的な生活の足かせになっている、弁が立つが人嫌い、手先が器用で芸術に対する造詣が深い、才能はあるがやる気や野心とは無縁な、豊富な知識と独特の諧謔をもちあわせたランドルフ。この妙に丸っこいフォルムのこの男、その見た目もあって私にはカポーティ自身に思えてしまうのである。(ちなみにカポーティ自身がランドルフには彼自身ではない二人のモデルがいると公言している。)
早熟だがもやしっ子の主人公ジョエルは、もちろん複雑な環境で育ったカポーティである。
これから人生が広がっていく少年と、彼の悲しい末路である中年が異界で出会う。
これは輝かしい未来の否定であり、少年からすれば失敗の運命の暗示である。

異様な舞台を盛り上げるように出てくる登場人物たちは変人ばかり。個性は強いが全員共通してそれぞれの悲哀がある。人生の蹉跌があり、一筋縄ではいかない複雑な性格をしている。
アメリカ文学で重要な、労働、勤勉、悪とそれに対する正義、義憤などといったものは殆ど出てこないが、アメリカ南部ということもあって生命力は異常にある。
ゴシックの雰囲気ただようが、妙な粗雑さもあって、それが野蛮な魔術めいた圧力で、例えば劇中で言及される強すぎる太陽のように複雑な心情の層をぐいぐい押し付けている。
妙なものがたくさん配置されている。そして後半は幽霊屋敷に慣れた主人公の思いが縦横に広がっていく。(押されていた分浮き上がっていく。)
しかし騙されていはいけない。この本には不思議な事は書いていない。どこまでも現実の悲哀を書いているのである。原因があり、そして結果があるこの世界はときに空想より残酷である。
そういった意味ではやはりどこまで行ってもアメリカ文学か。
後半、自分=父親なのかとも思ったが、やはりそんな陳腐な展開はなかった。

すべての試みが失敗しており、そういった意味では陰鬱な物語だが、ラストのジョエルの決心が切なくも心強い。それは過酷な人生に対峙する決心。
アメリカ南部の、廃墟のような屋敷、荒れ放題の庭に佇む少年は異常に色の濃い光の中で影法師のようになっている。
それは人を感動させる。

2019年6月15日土曜日

スタインベック/ハツカネズミと人間

荒野で凸凹コンビが出会ったらどうなるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。

誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。

私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。

この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。

天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。

スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。

私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。

この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。

マーク・トウェイン/ハックルベリイ・フィンの冒険

アメリカ文学界にそびえ立つ記念碑的な作品。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。

前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。

一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。

保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。

マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。

ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。

ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。

黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。

徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。

2019年5月25日土曜日

リチャード・ブローティガン/芝生の復讐

ブローティガンは大学生の頃に「西瓜糖の日々」を読んだっけ。
だからもう10年以上前か。内容は殆ど覚えていない。
あちらは長編だったが、この本は短編集。
全部で62個の短編が収録されている。どれもとても短い。ショートショートくらい。

どの短編も日常を切り取ったような語り口で、主に現実的な内容について平明な言葉で書かれている。
しかし日記と言うには唐突で脈絡がないし、かと言って幻想文学と言うには現実的すぎる。絶妙なバランスで書かれていて、しかしどれもがオフビートである。
余計なお世話だと思うが、もっと恋愛もしくはセックスについて触れ、生活臭をなるべくげんじておしゃれに仕立て上げたら、あるいはもっと意味の有りそう(で実はまったくない)もっともらしい言葉を充填すれば、もっと大衆の評価を得たのではと。それだとブローティガンが好きな人はそっぽを向くだろうが。

ものによっては一風変わった世捨て人のボヤキ集みたいな趣があり、仕方なく入った冴えないバーに忘れられた使い込まれたノートを読んでいるような趣である。(実際には日記名ているが、きちんとした文学作品である。こんなにも引き込む日記はない。)

もとはといえばマッカーシーの作品に触れて、そのアメリカ像に拭い去ることのできない血の匂いを嗅ぎつけたのが、私がアメリカ文学にハマった要因の一つだ。
風変わりなビートニクだったブローティガンには暴力性がない。しかし私は書き方としてのアメリカ文学を彼の文章に確かに感じ取った。
アメリカ文学(少なくともその一部)は徹底的に肉体的である。
感情表現より肉体表現が優先される。それは運動であり、現象である。
完全に好みだが、私は人の運動を見て(読んで)その人が何を考えているのか、今どんな心情なのかを想像するのが好きなのである。(直接的に心情を描くのは何故かあまり好きじゃない。)
ブローティガンの短編はどれも幻想というには具体的である。いくらか時代が違うものの私達が送っているのとほぼ同じ生活が書かれている。
オフビートでぶっきらぼう。動きは早くないがそこに書かれているのはちょっとした運動たちである。
人の心情を描き出すのは不可能である。だから絵画や音楽は優れている。なぜならそれは「私は悲しい」という気持ちをそのまま表現することができないからだ。だから別の形態をとってそれを表現しようとする。
一方で人の気持ちは複雑で多層的だから、「私は悲しい」と言葉にすることはたしかに真実だが、それが全てではない。大抵は悲しみ以外の気持ちが含まれているからだ。
心情を言葉にすることはわかりやすさを獲得させるが、同時に多層的な感情を固定化しすぎてしまう。
だからブローティガンはそれを直接書くことを良しとせず、感じた気持ちをそれを感じるに至った運動(=日常の一部)をまるごと書くことにしたのだ。
しかし人は生まれたときから連続しているから、1日の1部を切り取って読ませても書いた人と読む人で感じる気持ちは別物である。
この断絶が文学であり、私にはとても面白い。

最後は拳銃自殺したブローティガン。
この本に書いてある小説の中には思わずにやりとさせられるものも多いが、手放しで明るいものはほぼない。
どれもなんとも言えない憂鬱をその内に含んでいる。
毎日を送ることはできる。しかし常に不可解だ。そんな気持ちは単に読みての心情を投影しているだけだろうか。

生きにくさを感じている人はこの本を読んでみると良いかもしれない。
めくるめくスペクタクルはないし、ときによく意味すらわからないが妙に「なんとなくわかるな」と思うのではないかと思う。

マーク・トウェイン/トム・ソーヤーの冒険

最近はアメリカ文学を好んで読んでいる。
名作は数あれど必ず名前が上がるのがマーク・トウェインの「ハックルベリィ・フィンの冒険」。読んでみるかと思ったのだがこの話には前日譚というべきもう一つの物語があって、それが「トム・ソーヤーの冒険」。
流石に名前くらい走っているが読んだことがなかった。子供向けの冒険小説だと思っていたから、なんとなく子供の頃に読みそびれてそのままである。

読み始めると作者のまえがきで「この物語は子供が主人公で読者も子供を想定しているけど大人も読んでくれよ」って釘を差してくる。
ほうほう、ってページをめくるとたしかに面白かった。

子供の頃学校からの帰路、道路の上に引かれた白線の上を歩いて家に帰った。この線を踏み外すと死ぬからである。
祖父母の家に向かう新幹線の車窓の外、時速200kmで流れ去るその景色。家々の屋根の上には忍者が走って電車を追いかけていた。
子供の頃にはいろいろな法則があった。それは呪いであり、ルールでもあった。また子供同士の共通の言語でもあった。
人気のない校舎には人知を超えた存在が密かに潜み、また特殊な指の組合せはそれらの魔に抗する力を秘めていた。
それらは他愛のない子供の想像力の産物であったが、しかし私はあれ程真に迫り(私達が語り合った虚構はたしかに真実だった)、そして愉快な空想を物心ついて以来したことがない。

この本にはそんな子供の呪いがこれでもかというくらいふんだんに書き込まれている。
土地も、言語も、肌の色も違うが、それでも彼らの会話の一つづつが懐かしい。
たしかにこれは単に子供に向けて作られた話ではない。なぜなら誰しも一度は子供だからだ。つまりこれは私達全員の物語。

普遍的な子供と大人の心理を扱いつつ、時代性も閉じ込めている。
一言で言うならおおらかさだろうか。
トム・ソーヤーはかなり破天荒な少年である。
多分小学校低学年くらいの年頃なんだと思うが、学校には全然行かないし、手の混んだ悪戯をするし、夜の12時位に家を抜け出したりもする。
やたら行方不明になって村の人総動員でトムを探したりもする。
現代なら超問題児で炎上確定だろうが、この時代だと結構大目に見られて暖かく見守られているといった体。
昔は良かったというのではない。概ね技術の進み具合で生活環境とそれに乗っかる社交性が変遷しているからだ。
現代には現代の呪いがあり、現代のトム・ソーヤーがいるはずだ。


2019年5月19日日曜日

ヘミングウェイ/老人と海

ヘミングウェイは学生の頃に何冊か読んだたことがある。
最近はアメリカ文学に興味があるので読んでなかったこの代表作に手を伸ばした次第。

小説というのは省略だと思う。
面白いと思うのはこれは本当にタイトル通りで、おじいさんが小舟で魚を取りに行くだけの話である。ページ数も少ない。

何かを表現するときに割と話が広がっていく(地理的時間的にだったり、人が死んだりして内容的に劇的にする)小説が多くてその”たくさん”の中に人生のなにかを入れ込んだりることが多いと思っていたのだけど、この話は逆にどこまでもスケールを小さくしていくというか、老人の3日間(ほぼ一人きり)を淡々と書いている。つまり通常の手法と違って、何かを付け足して本質を浮かび上がらしていくのではない。研磨して研磨して余計なものを取り除いて、そこにちょっとだけキラリと光る本質を取り出そうとしているのだ。砂金採りに似ているような作り。

もう一つ印象的なのはタイトルで内容的には「老人と魚」になるはずだが実際には海。
これはわかりやすい、というのもサンチャゴおじいさんが何度も行っているように彼にとって魚というのは友達であって、本当ならそんな崇高な奴らを撮って食う権利は人間などにはないのだ。食うために殺すという仏教的な迷いを抱えつつ、人は海に出ていく。
ただ自然に戦いを挑んでいく人間の姿を賛美しているわけではないのだ。
海の上では何一つうまくいかない、そして友人(サンチャゴ曰く兄弟)と命をとしてやり合う、というのはそのまま人生に拡大解釈することができる。
命がけで獲得した成果も姑息なサメが掠め取っていくように、とかくこの世では真剣勝負すら許されないのだった。

翻訳した福田恆存氏のあとがきが大変面白かった。
この人は基本的にアメリカ文学はヨーロッパのそれに比べるとつまらね〜と思っている人で、最近アメリカ文学にハマっている身としては諸手を挙げて酸性とはならないんだけど、言っていることは興味深い。

とにかく肉体で世界にぶつかっていくのがアメリカ文学で、私にはその無骨さが好きだ。世界を拳で制していくという世界観はむしろ嫌いなのだが、登場人物の心情を読みたくないのだ。想像する楽しみがないから。
そこ行くとこういう小説はやっぱり良いなと思う。

2019年5月5日日曜日

フォークナー/フォークナー短編集

同じアメリカの南部を描いた短編作品でも、1902年生まれのスタインベックの「朝めし」とフ1897年生まれのォークナーのこの短編集に収録された作品では雲泥の差がある。(二人共にノーベル文学賞を受賞している。)
前者が貧しいながらもアメリカの息を呑む光景の中での、たくましくも優しい人間の絆を美しく描いているのに対して、フォークナーの描く短編はどれも峻厳な景色の中で人間同士が憎み合い、そして時に殺し合う。

コップに半分入れられた水を見て何を思うかが千差万別のように、アメリカの土地と生活を見て、スタインベックとフォークナーは全く異なる感想を抱いたようだ。ただしふたりとも当時のアメリカという土地は生きるには大変厳しい土地だと考えているところは共通している。
苦境に立たされる貧しい者たちの尊厳を描いたスタインベック、一方フォークナーは前任の不在、とくに「サンクチュアリ」を読んで感じたのはフォークナーは悪人以上に平凡な人こそ諸悪の根源である衆愚であり、彼らを憎んでいたのではないかということだ。ここではキリスト教というのは愚か者の大義、つまりいわれのない差別、不正や暴力の言い訳にされている。フォークナーは教会に通っていたのだろうか???

この本には嫉妬に狂って男を殺す夫、執着心から婚約者を殺す女、身持ちの悪い黒人女、黒人にレイプされたと偽証する年増の女、偽証に基づき黒人をリンチして殺す白人男などなど、南部のいやらしさがこれでもかというくらいドロドロ描かれている。
ここでは教会、牧師、神父や聖書が役に立った試しがない。(それらしい描写があったかも怪しい。)

黒人を搾取し、差別し、そして殺す白人と、常に被害者として黒人、という構図でもない。もちろん状況が賢くなることを許さないのだが、学がない黒人の愚かさもフォークナーは克明に描いていく。
彼は一体どんな目でアメリカを見ていたのか???
彼の前では人は肌の色、性別、老若とわずすべてが愚かで救いがない。
死んだ目で米を見ていたのだろうか、いやおそらく違うだろう。自分も骨の髄までそんな南部人であることを否が応でも自覚させられ、その矛盾の中でこれらを生み出したのだ。

アメリカは呪われた土地だ、暴力と死で溢れているというのはいろいろな意味で間違いだ。(少なくともいくらかは間違いだ。)
スタインベックが描いたように美しい光景があったはず。フォークナーもそんな一瞬を必ず目にしたはず、香りを嗅いだはず、舌で味わったはずである。

個人的には言われているほどに「八月の光」のヒロインに陰に対する陽を感じられない。
しかしこの本の「バーベナの匂い」「納屋は燃える」には明らかに陰に対する陽が書かれている。一つは非暴力であり、一つ糾弾だ。
共通しているのは因習、つまり大多数(=衆愚)の法則に対する抵抗であること、自分の頭で考え、それに自分の手足で立ち向かうこと。
2つの小説の中でこのささやかな反乱を起こすのは二人の若者である。これがそのままフォークナーの希望になるだろう。

2019年4月21日日曜日

シャーウッド・アンダーソン/ワインズバーグ、オハイオ

いびつな人たちの書。
なるほど奇抜な人、奇矯な人、変人たちが出てくる連作小説だが、この本を読めば彼ら奇態な人たちが、時代と国を隔たった私(たち)と以外にも多くの共通点を持っていることに気がつくだろう。
実にいろいろな人達が出てくる。
子供、大人、老人。男、女。金持ち、貧乏人。既婚者、未婚者。親と子。夫婦。
そしてそのいずれの人間もどこかしらに孤独を抱えている。
これにも種類があり、友人や恋人がいない孤独、それから人がいる故に強調される孤独。

ワインズバーグという架空の町。町というのは人の集まるところ。人と集まろうとする試みが街と言ってもよい。ワインズバーグは小さい町だが、それゆえに都会にはない濃密なコミュニケーションがある。顔見知りも多い。
しかしそんな町であっても各人は程度は違えど孤独であり、そして自分の居場所はここではないという違和感を抱えて生きている。

人混みを嫌い深山の奥に隠遁する人嫌いの孤独ではない。
むしろ近くに人がいるからこそ感じる自分の孤独である。
周りの人たちは楽しそうにしているが自分には友達や恋人、語り合う人がいない。
もしくはようやくそういう人達に出会ったと思ったけど、心が通じ合えず断絶してしまった。

人の中にいる孤独のほうが、一人ぼっちの孤独よりなお悪い。
独りよがりなら希望があるが、その希望が打ち砕かれたのが人の中にいる孤独だからだ。
つまり失敗した希望として孤独であり、その挫折の記憶が脳に刻印され、今でもそれに苛まされている。
具体的には過去の出来事により現在の行動が捻じ曲げられている。
トラウマと言う言葉を持ち出すのは簡単だが、実際にその言葉を使わず力学を説明している。
帰らぬ恋人を待つ女、同性愛者としてリンチされそうになり逃げてきた男、結婚に失敗し最愛の息子ともすれ違う母親、肉欲に悩む牧師。
劇的な響きを持つトラウマと言う言葉の一歩手前、しかし彼らの架空の人生を見れば確実に過去の様々な蹉跌の実際的な力の持ちようを伺うことができる。
人間が学習する生き物なら、間違いなく過去の経験が人間を構成しているのである。

この本での失敗はほとんど他人とうまく関係性を築けないところに端を発している。というかそれ自体が問題か。
そうなると当然多くの人が住みながらどれも噛み合っていないとすれば、町というのが空虚であり、それ自体が皮肉の象徴に落ちてしまいそうだが、本書ではそうではない。
人々の虚しい他人とわかり合おうとする、という試みは常に継続中である。
すれ違ったり、言い争ったり、喧嘩をしたり、憎み合ったりしている。
そのエネルギーが、田舎の景観とあって妙に愛しく感じられるのもまた事実で。
いわば町の喧騒の招待を書いているのがこの物語といっても良いかもしれない。
その背後にあるのは悲しみだ。
でもそれでも人はこうやって儚い試みを続けていくのだ、生きていく限り。

この本には本当に幸せな人は一人も出てこない。
人は誰しも孤独だと作者が言いたかったのか、それとも冒頭に掲げられた「いびつな者たちの書」という言葉の通り、あえてそういう人たちに焦点を絞ったのか。
自分は後者だと思う。どんなときでも楽しめる人がいる一方、必ずしもどんなときでも楽しめない人達がいるはずだ。
そういう人たちはこの本を読んで共感するところがきっと多いだろうと思う。
特大の不幸はないかもしれないが、それ故いびつな者たちを見てその中に確かに自分の一部を見出すことができるだろう。
そういった意味では優しい本である。

2019年4月14日日曜日

フォークナー/サンクチュアリ

この小説は作者が「自分が想像しうる限り最も恐ろしい」と評しているが何が恐ろしいかというと、バランスが悪い。(「八月の光」も正直同様に悪いと思う。)
悪を扱った小説で善悪のバランスが悪く、著しくいずれかに傾いている。
端的に言って正義が敗北するが、しかし正義が敗北するフィクションは巷にあふれているわけで、なぜこの小説だけが恐ろしいのだろう。なぜ読後感がこうもすっきりしないのだろう。

正義が敗北するのは悲劇だ。やるせない。
しかしこの小説ではそれは一つの象徴に過ぎない。
本当に悲劇なのは正義が常に概ね敗北する、その環境自体である。
「サンクチュアリ」は一つの事件を軸にその環境を顕にしようという試みである。

だから真犯人ポパイを排除した後もこの居心地の悪さが続いていく。
それはつまり社会の、この世のいびつさの違和感であり、私達は否応なくそれにくるまれている。
ポパイは悪人だが彼はアウトサイダーだ。社会が生み出したモンスターと言うよりは社会に産み落とされた異端児である。
社会を作っているのは誰かというとそれは民衆になる。
あなたと私である。
前科があり、素行が悪いからという理由で(少なくとも殺人に関しては)潔白な男を断罪し、あまつさえ私刑にかける。
確かにこれは言語道断の非道に見えるが、しかしもし似たような事件が起こった場合、無論私刑はしないにしてもあなたは同じように彼の無罪を確信できただろうか?
私はそうは思わない。前科がありまた密売しているなら殺人だってやりかねないと思ってしまうような気がする。
偽証したテンプルも愚かなら、死を目前にして頑なに証言を拒んだグッドウィンも愚かである。実直に真実が無実を証明すると信じていたベンボウも愚かだ。
そして彼らの愚かさは私達みんながもっている愚かさなのだ。

正義の不在を嘆くというよりは、人間の愚かさに絶望している。
そしてその愚かさは治る見込みがないから、この物語は考えうる限り恐ろしい小説なのである。
現代批判だとして、批判したところで改善の見込みがないから。

ポパイという男の存在に騙されてはいけない。
彼は確かに悪人でトリックスターだが、本当の悪は彼ではない。
彼はいわばこの物語の狂言回しで、彼に対する反応で本当の悪=衆愚が暴かれていく。

有罪と信じ無実の男に火をつける男たち。
体面と街の秩序を気にし他人の生活にケチをつける信仰心の厚い女たち。
どいつもこいつも身勝手で主観的、何よりタチが悪いのは自分たちが正しいと信じて疑わないところ。
この間違った正義感、いわば悪を目指す悪ではなく、消極的な悪がホレス・ベンボウが持っていた正義感や親切心を破壊していく。
この世が地獄なら地獄の業火は私達自身がこの身に放ったのだ。
私達はいわば失敗しており、自滅している。

誤認逮捕されたポパイが死んでいくというのはそのまま彼の強運の裏返しであり、
真の悪に対する消極的な悪の完全勝利を表現していて皮肉である。

この世界に対する嫌悪感はベンボウの独白に現れている。

たぶんこういう状況のときに、人は、この世が悪でできていると認めるわけなんだ、結局人間は死ぬものだと認めるんだー頭のなかでは、かつて見たことのある死んだ子供の瞳を思い出し、また他の死人たちのことを考えたーそこでは憤怒も冷えていき、激しい絶望の表情も薄れていき、あとには二個のうつろな眼球が残って、そのなかでは極小の姿となった世界が深いところでじっと漂っているばかりなのだ。

この文から、ここからコーマック・マッカーシーにつながっていくのだと個人的には感じたのだ。
いわば呪われた土地としてのアメリカの物語だ。

2019年4月6日土曜日

スタインベック/スタインベック短編集

「怒りの葡萄」で搾取される農民の姿を強烈に描いたスタインベックの短編集。
「怒りの葡萄」は反体制、半経済主義の性質を持つが、スタインベックがなぜこの話を書いたのかと言うのはこの本を読めば少しは分かるかもしれない。
ここで描かれるのはカリフォリニア州のサリーナス渓谷の暮らしだ。調べてみるとこの地は荒れていて、砂漠の様相を呈しており、今でも未開拓の土地という印象。
ここで生まれ育ったスタインベックはこの土地を愛していたのだろう。そしてここに生きる人々の姿を小説に書いた。

大開拓時代、フロンティア・スピリットとは開拓者精神のこと。切り拓いた土地は自分たちのものになる。だから開拓者たちは必死で働いた。荒野を切り拓いて開墾し、牛と馬を飼いならし、食物を育てた。隙間風の吹く粗末な小屋を打ち立て、そこに寝起きした。ときには蛇蝎や外敵と戦うために武器を手にした。
彼らは強かった。なぜって自分の生活を自分たちの手で文字通り組みてたから。
彼らは寝る間を惜しんで働いたからなるほど学はなかったけど、愚かではなかった。
もちろん政治や経済だって当たり前にあった。
ただ彼らには彼らのルールがあって、それは彼らの自治体に属さない人々からすると古く、埃っぽく汚れていて、不合理で、奇妙に見えるのだ。

農民たち、田舎で原始的な暮らしを営む人々をさして純朴で単純で、そして少し愚かだというのは差別主義である。まず事実として間違っているし、そして彼らの作ったご飯をあなた方(つまり私達)は食べているからである。こんな事を言うと国産のものは高いから国外の食物を食べている、などというのは更に愚の骨頂であって、それは自分はバカで、お高く留まり、偉そうな面で顔のない人たちを搾取していますよ、と喧伝しているのと同じである。

農耕で暮らしを立てている田舎の人達は愚かではない。そして全員が素朴でもないし、何なら全員が善人では決していない。彼らは人間だ。あなたと私と同じ。
彼らと都会人の差が強靭さだ。
私が子供の頃大好きだった漫画で「今日から俺は!!」というヤンキー漫画(ヤンキー漫画じゃないという人もいるが私がこれこそヤンキー漫画だろって思う。)があって、その中で忘れられないエピソードがある。森にキャンプを行った主人公たちはメインディッシュの肉を忘れてしまう。同行した主人公の母親は農家で豚を購入し、主人公に殺せと迫る。可愛そうなので殺せないという主人公に母親が肉は食うのに他人にだけ殺させるのは卑怯だし弱いと説教をする。苛烈だが私はこれが真実だとも思う。(だから動物が可愛そうだから動物の肉は食わないという方々の考え方は理解できるし、立派だとも思う。)
これが田舎の人の持つ強靭さだ。彼らは殺して生かして生きているからだ。

スタインベックは農村部で暮らす人々の姿を正確に写し取ろうとする。彼らはすべて善人ではない。というか生まれついての悪人でも良いところがあるようにどんな人間にもある良いところと悪いところを、その混淆が作る生きた人間を書こうとする。
だからこの小説の登場人物たちは殺人を犯し、法から逃走しようとするし、酒を飲み娼婦を買うし、黒人を法の手に委ねずにリンチして殺したりする。
女性であろうと身を粉にして働く、一方で共産主義に走るものもいれば、労働を一切拒否するものもいる。
多種多様な人物はどこか、私達からするとどこか逸脱しているが、しかしこれらの人は(実際はそうではないがしかし)生きていたし、生きているべきなのだ。それがスタインベックの伝えたいことだ。
スタインベックは別に半経済主義者ではない、私の考えでは。彼は荒野を愛し、そこで生きる人達が実際にいて彼らは間違っているところもあるが愛すべき人間で、そして都市部に住む人間と同じように生きているんですよ、ということを言いたかったのだ。
更には彼らには自分たちのルールが有り、そしてはたからは不合理に見えるルールでも彼らにとっては生きたルールだったのだと、言いたかったのかもしれない。ここで私は殺人やリンチを許せといっているわけではない。でも例えば農民は無知だから差別主義者で不合理な殺人やリンチをするのだというのは間違っているだろう。

綿摘みで生計を立てる家族に他人(スタインベック本人だろう)が加わり朝食をともにする「朝めし」。この家族は他人に無償で与え見返りを求めない。朝めしをごちそうになる側も傲慢ではないが言葉少なげに感謝の気持ちを表し、半ば当然のような顔で食卓をともにする。朝焼けに染まる渓谷の美しさよ。この短編集でも一番だと思うけど、例えばこの物語だけ抜き出して、農民生活は素晴らしい、というのも間違っているとは言わないが、やはり十分ではないだろう。
だからこの短編集は短編集という形態で一つの物語なのだ。