2019年4月21日日曜日

シャーウッド・アンダーソン/ワインズバーグ、オハイオ

いびつな人たちの書。
なるほど奇抜な人、奇矯な人、変人たちが出てくる連作小説だが、この本を読めば彼ら奇態な人たちが、時代と国を隔たった私(たち)と以外にも多くの共通点を持っていることに気がつくだろう。
実にいろいろな人達が出てくる。
子供、大人、老人。男、女。金持ち、貧乏人。既婚者、未婚者。親と子。夫婦。
そしてそのいずれの人間もどこかしらに孤独を抱えている。
これにも種類があり、友人や恋人がいない孤独、それから人がいる故に強調される孤独。

ワインズバーグという架空の町。町というのは人の集まるところ。人と集まろうとする試みが街と言ってもよい。ワインズバーグは小さい町だが、それゆえに都会にはない濃密なコミュニケーションがある。顔見知りも多い。
しかしそんな町であっても各人は程度は違えど孤独であり、そして自分の居場所はここではないという違和感を抱えて生きている。

人混みを嫌い深山の奥に隠遁する人嫌いの孤独ではない。
むしろ近くに人がいるからこそ感じる自分の孤独である。
周りの人たちは楽しそうにしているが自分には友達や恋人、語り合う人がいない。
もしくはようやくそういう人達に出会ったと思ったけど、心が通じ合えず断絶してしまった。

人の中にいる孤独のほうが、一人ぼっちの孤独よりなお悪い。
独りよがりなら希望があるが、その希望が打ち砕かれたのが人の中にいる孤独だからだ。
つまり失敗した希望として孤独であり、その挫折の記憶が脳に刻印され、今でもそれに苛まされている。
具体的には過去の出来事により現在の行動が捻じ曲げられている。
トラウマと言う言葉を持ち出すのは簡単だが、実際にその言葉を使わず力学を説明している。
帰らぬ恋人を待つ女、同性愛者としてリンチされそうになり逃げてきた男、結婚に失敗し最愛の息子ともすれ違う母親、肉欲に悩む牧師。
劇的な響きを持つトラウマと言う言葉の一歩手前、しかし彼らの架空の人生を見れば確実に過去の様々な蹉跌の実際的な力の持ちようを伺うことができる。
人間が学習する生き物なら、間違いなく過去の経験が人間を構成しているのである。

この本での失敗はほとんど他人とうまく関係性を築けないところに端を発している。というかそれ自体が問題か。
そうなると当然多くの人が住みながらどれも噛み合っていないとすれば、町というのが空虚であり、それ自体が皮肉の象徴に落ちてしまいそうだが、本書ではそうではない。
人々の虚しい他人とわかり合おうとする、という試みは常に継続中である。
すれ違ったり、言い争ったり、喧嘩をしたり、憎み合ったりしている。
そのエネルギーが、田舎の景観とあって妙に愛しく感じられるのもまた事実で。
いわば町の喧騒の招待を書いているのがこの物語といっても良いかもしれない。
その背後にあるのは悲しみだ。
でもそれでも人はこうやって儚い試みを続けていくのだ、生きていく限り。

この本には本当に幸せな人は一人も出てこない。
人は誰しも孤独だと作者が言いたかったのか、それとも冒頭に掲げられた「いびつな者たちの書」という言葉の通り、あえてそういう人たちに焦点を絞ったのか。
自分は後者だと思う。どんなときでも楽しめる人がいる一方、必ずしもどんなときでも楽しめない人達がいるはずだ。
そういう人たちはこの本を読んで共感するところがきっと多いだろうと思う。
特大の不幸はないかもしれないが、それ故いびつな者たちを見てその中に確かに自分の一部を見出すことができるだろう。
そういった意味では優しい本である。

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