2019年4月6日土曜日

スタインベック/スタインベック短編集

「怒りの葡萄」で搾取される農民の姿を強烈に描いたスタインベックの短編集。
「怒りの葡萄」は反体制、半経済主義の性質を持つが、スタインベックがなぜこの話を書いたのかと言うのはこの本を読めば少しは分かるかもしれない。
ここで描かれるのはカリフォリニア州のサリーナス渓谷の暮らしだ。調べてみるとこの地は荒れていて、砂漠の様相を呈しており、今でも未開拓の土地という印象。
ここで生まれ育ったスタインベックはこの土地を愛していたのだろう。そしてここに生きる人々の姿を小説に書いた。

大開拓時代、フロンティア・スピリットとは開拓者精神のこと。切り拓いた土地は自分たちのものになる。だから開拓者たちは必死で働いた。荒野を切り拓いて開墾し、牛と馬を飼いならし、食物を育てた。隙間風の吹く粗末な小屋を打ち立て、そこに寝起きした。ときには蛇蝎や外敵と戦うために武器を手にした。
彼らは強かった。なぜって自分の生活を自分たちの手で文字通り組みてたから。
彼らは寝る間を惜しんで働いたからなるほど学はなかったけど、愚かではなかった。
もちろん政治や経済だって当たり前にあった。
ただ彼らには彼らのルールがあって、それは彼らの自治体に属さない人々からすると古く、埃っぽく汚れていて、不合理で、奇妙に見えるのだ。

農民たち、田舎で原始的な暮らしを営む人々をさして純朴で単純で、そして少し愚かだというのは差別主義である。まず事実として間違っているし、そして彼らの作ったご飯をあなた方(つまり私達)は食べているからである。こんな事を言うと国産のものは高いから国外の食物を食べている、などというのは更に愚の骨頂であって、それは自分はバカで、お高く留まり、偉そうな面で顔のない人たちを搾取していますよ、と喧伝しているのと同じである。

農耕で暮らしを立てている田舎の人達は愚かではない。そして全員が素朴でもないし、何なら全員が善人では決していない。彼らは人間だ。あなたと私と同じ。
彼らと都会人の差が強靭さだ。
私が子供の頃大好きだった漫画で「今日から俺は!!」というヤンキー漫画(ヤンキー漫画じゃないという人もいるが私がこれこそヤンキー漫画だろって思う。)があって、その中で忘れられないエピソードがある。森にキャンプを行った主人公たちはメインディッシュの肉を忘れてしまう。同行した主人公の母親は農家で豚を購入し、主人公に殺せと迫る。可愛そうなので殺せないという主人公に母親が肉は食うのに他人にだけ殺させるのは卑怯だし弱いと説教をする。苛烈だが私はこれが真実だとも思う。(だから動物が可愛そうだから動物の肉は食わないという方々の考え方は理解できるし、立派だとも思う。)
これが田舎の人の持つ強靭さだ。彼らは殺して生かして生きているからだ。

スタインベックは農村部で暮らす人々の姿を正確に写し取ろうとする。彼らはすべて善人ではない。というか生まれついての悪人でも良いところがあるようにどんな人間にもある良いところと悪いところを、その混淆が作る生きた人間を書こうとする。
だからこの小説の登場人物たちは殺人を犯し、法から逃走しようとするし、酒を飲み娼婦を買うし、黒人を法の手に委ねずにリンチして殺したりする。
女性であろうと身を粉にして働く、一方で共産主義に走るものもいれば、労働を一切拒否するものもいる。
多種多様な人物はどこか、私達からするとどこか逸脱しているが、しかしこれらの人は(実際はそうではないがしかし)生きていたし、生きているべきなのだ。それがスタインベックの伝えたいことだ。
スタインベックは別に半経済主義者ではない、私の考えでは。彼は荒野を愛し、そこで生きる人達が実際にいて彼らは間違っているところもあるが愛すべき人間で、そして都市部に住む人間と同じように生きているんですよ、ということを言いたかったのだ。
更には彼らには自分たちのルールが有り、そしてはたからは不合理に見えるルールでも彼らにとっては生きたルールだったのだと、言いたかったのかもしれない。ここで私は殺人やリンチを許せといっているわけではない。でも例えば農民は無知だから差別主義者で不合理な殺人やリンチをするのだというのは間違っているだろう。

綿摘みで生計を立てる家族に他人(スタインベック本人だろう)が加わり朝食をともにする「朝めし」。この家族は他人に無償で与え見返りを求めない。朝めしをごちそうになる側も傲慢ではないが言葉少なげに感謝の気持ちを表し、半ば当然のような顔で食卓をともにする。朝焼けに染まる渓谷の美しさよ。この短編集でも一番だと思うけど、例えばこの物語だけ抜き出して、農民生活は素晴らしい、というのも間違っているとは言わないが、やはり十分ではないだろう。
だからこの短編集は短編集という形態で一つの物語なのだ。

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