2019年3月24日日曜日

ヴァージニア・ウルフ/ダロウェイ夫人

おおよそ物語というのは世界を切り取ろうという試みである。
巨大なそれを制限のある言葉や映像で表現しようというので、当然それは省略され、重要なパーツは誇張される。
事件が配置されて物語はある程度の典型を通ることになる。

こういったやり方に真っ向から反抗したのがこの小説。
この作品は世界の極小の一部をなるべくそのまま切り取り、そしてそれをあるがままに表現(しようと)した。
世界というのは日常(作品で頻出するところの「瞬間」か)の積み重ねでできているので、実際にこれを表現しようと言うならば、任意の日常(瞬間)を切り出せばそれで事足りるだろうというわけだ。
その考え方には同意できるが、おそらくは物語性が失われるため多くの作家はあえてこれを用いなかった。(もしくは頭に思い浮かびもしなかった。)

しかしだからといってこの小説を究極の写実的な小説というのには無理がある。
出来事をただ観測していくのではなく、登場人物の内面の描写にその殆どの文字数を割いているから。
他人の内面、心の動きを写実的に描写することは不可能だ。
つまりバイアスが掛かった見方になるが、しかし私達はバイアスなしには世界を見ることができない。
一度はフィルターがかかった状態でそれを見る。

この物語は筋的には全く大したことがない。ある婦人がパーティを開く1日をただ描いているだけだ。
そのありふれた光景がすなわち世界で。

クラリッサの別人格だが、彼が別の個人に分割されたのはおそらく、一つには本来検討された結末が劇的過ぎたせいだろう。
これだと物語全体が劇的すぎて普通の日常から乖離してしまう。
他人は死ぬが自分は決して死なないのが(主観的な、すなわちありのままの(私達は主観的にしか世界を認識できないので))世界なのだ。
もう一つは気分の浮き沈みが陰影濃く描写できるから。劇的ではあるがこれは一種のデフォルメである。私達にもある気分の昇降をわかりやすく描いている。

ウルフは今作で日常をそのまま書き取ろうとした。
じゃあ日常ってなんだ?それを考えるのは(別に考えなくても全く問題ない)読み手の仕事だ。
言うまでもなく彼女の、ウルフの目を通した日常は不安に満ちている。
この本に出てくる登場人物たちは(大抵男女の)二人組である。
夫婦や恋人が大半を占めるにしてもそれだけにとどまらず、色々なペアが出てくる。
およそこの他者との関係性が問題になってきており、登場人物たちはこれに翻弄されている。
常に相手によく思われたい。また好きじゃないにしてもそれには理由が必要である。要するに常に人の目が気になる。
よく言えば気を使っているし、悪く言えばビクビクしている。
いわば少し神経症的なところがあり、この終わらない痙攣めいた反射こそがウルフの目を通した世界なのだ。
それは楽しみを生み出しつつも、大きな負担を人に強い、結果的に登場人物はこの世界において多かれ少なかれ披露している。(エリザベスは例外か。)

男と女、夫と妻、長年の友人通し、富裕層と貧者、老人と若者、さまざな組み合わせが浮世の楽しみと苦しみを代弁している。
多分気にしない人も多くて、全く他人の目を意識しない人もいるだろう。
しかしウルフはそうではなく、彼女の代弁者である登場人物たちは磨耗していき、そして死に惹かれるようになる。
彼らは何か特定の出来事によって死ぬのではない。ただ日常の中で疲労していくのだ。
いわば生活が彼らを殺しているのだ。
この作品では(ウルフ自身の最後を考えるなら)まだ、結局人生は死んだ方がましだという小説ではない。
(だから当初考えられた通りに進んでしまえば全く違った小説になったはずだ。)
私の目にはそういった感情も含めて(彼女の考える)生活を描き出そうという試みに見える。

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