2019年3月10日日曜日

ウトヤ島、7月22日

どんな映画でも楽しいシーンが少しはあるはずだがこの映画にはそれが1分もなかった。

この映画は2011年にノルウェーで実際に起ったテロ事件をもとに描かれたフィクションだ。かなり衝撃的な事件だったから覚えている人も多いだろう。
極右の男が庁舎を爆破、8人を殺害したあと湖にある小島ウトヤ島で無差別に銃を用いて更に69人を殺害した。当時の島ではノルウェー労働党青年部のサマーキャンプが開かれており、多くの若者が命を落とした。銃撃は72分間続いたという。

エリック・ホッペ監督はこの72分間をワンカットで撮影した。
作品を撮るに当たり当時島にいた被害者の方々に話を聞いたところ、複数の人が銃撃が始まってから警察が来て終わるまで72分間が永遠に感じられるほど長かったと答えたそうだ。この時間を表現するために実際の尺で撮ろうというのが監督の意図だ。

ウトヤ島は10.6ヘクタールの島だ。ピンとこない。106,000平方メートル。まだわからない。もし正方形だとするとこれは大体325.6メートル×325.6メートルだ。狭い。障害物がなければ見渡せる距離である。ここに700人。あなたなら逃げ切れる気がするだろうか?
当然当時に島にいいた人は犯人が単独なのか複数なのかもわからない。想像するまでもないが、銃と弾薬をふんだんに持った犯人に空手で立ち向かえるものではない。
なるべく銃声から離れる。ただし派手に逃げれば視認される中で逃げて隠れないといけない。彼らは永遠にも感じられる72分間(もちろん当時は72分なんてわからないから、ずっと)逃げなければいけない。
72分間、逆にとても短く感じられたのでは?と正直見る前は思ったのだが、そうではなかった。待っている時間というのは常に長いものだ。そしてそれが自分の命を終わらせるなにかを待っている時間ならなおさらだ。
1分1秒が長く長く、彼らそこに対抗するために様々な会話や行動を繰り広げる。それは真に迫り、混乱しており、そして時には妙に場違いに感じられる。死を前にした圧倒的な熱量とそして諦めが入り混じっているような空虚さが、ないまぜになってそれが彼らの力のない抵抗(他に何ができるのだろうか?)であり、絶望的な状況をそのまま表現している。

この映画はあくまでも被害者の立場に立って撮られており、犯人の主義主張に一切触れていない。彼の姿は殆ど一瞬しか映らない。
思うんだが人間は非常なもので69人が命を落としてもその知らせを聞いただけだとピンとこない。悲しいと思うが実際の衝撃が想像できない。監督の挑戦というのはこの意識を覆してやろうという試みにほかならない。あの時あそこで何が起こったのか。島にいた700人がどういう行動をし、そして何を思ったのか、それを考えてほしいというのがこの映画だ。69という数字の向こうにある現実(この映画はフィクションであるから現実のも方ではあるが)を今一度考えてほしいと。
そこにあるのは個人の、ひとりひとりの人間の死であり、死がそれだけで存在し得ないのだから、そこにはひとりひとりの生活があった。長回し一発撮りという制限(時間)の中でホッペ監督はなるべくその生が立体的に見えるように会話や仕草を練り込んでいる。
カメラは特定の誰かではないが、まるで主人公の女の子と一緒に逃げてるような視線で撮っている。一発撮りも相まって観客にも緊張感を強いる。私達は結末を知っているだけにさらに落ち込む。

編集や視点の変更、舞台の俯瞰、時間の短縮や跳躍、つまり時間と空間を固定した世界であぶり出されるのは1秒1秒の重さ、そしてリアルさだろう。私達の貧弱な想像力を刺激する。無音のエンドロールがずっしりと響く。考えてくれという監督のメッセージだ。極端なものの考え方、圧倒的な暴力と死、個人の死。個人が死ぬということについて。

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