2019年3月3日日曜日

フィッツジェラルド/グレート・ギャツビー

高嶺の花、身の程知らずの恋、成り上がり物の悲哀と孤独。この物語にはいろいろな要素が含まれているが、ある意味きれいにまとまった悲劇の背後にあるのは傲慢なものに対する怒りであろう。
完成された物語でとにかく結末まできれいに流れていく。個人的には演劇的と言っても良いくらいぴっちりハマっている。でもよく読むとフィッツジェラルドのメッセージが確実に含まれていて面白い。自分が気になったのは最後のところ、ギャツビーの友人(ギャツビーはある程度知己を得た人を親友と読んだが主人公だけが本当の親友だった。)である主人公が上流階級の身勝手さに戸惑いを覚えている最後にとどめを刺されて気がつくシーン。彼は生まれながらに跳んでいるものの傲慢さを「不注意さ」として表現、これを柔らかく表現しながらもその実強く、強く批判している。
持てるものは生まれついての傲慢さ故に、自分以外がどうなろうと知ったことがないのである。利用するだけ利用してそれをぽいっと捨ててしまう。主人公の(かつての)親友トムはギャツビーだけでなく、愛人だって身勝手に捨てているし、妻に対しても愛情はない。唯自分の持ち物に執着があるだけだ。持っているくせになくすことにはひどく敏感なのだ。
一方ギャツビーはどうか。彼は生まれたときから殆ど持っていなかった。どうしても欲しいもの、運命の女性にであい、そして苦難の中で危ない橋を渡り、自分の望むものを取りに行った。彼は金持ちになったが常に人に対して何かを惜しみなく与えてきた。真摯な男で自分のフィールドではない、上流階級のルールで戦ったのだった。彼ほどの富があれば、運命の人を手に入れるためにもっと違った方法だってあったのだろうと思う。

フィッツジェラルド自身豊かな出自ではない。彼は自分の力で本を書き、そして一躍時代の寵児になったのだ。彼の栄華は長続きせず、その上昇中下降中に様々な人々と会ったのだろう。
物書きだから多少は自ら進んでセレブリティーのカリカチュアを演じることもあったのではなかろうか。それは他人を喜ばせるホストとしての美徳であり、そして本当の自己を守るための縦だったのかもしれない。そんな中で様々な人にあったのだろう。その中には生まれついてのお金持ち、貧しいということの意味が本当にはわからない、考えたことすらない人々もいて、フィッツジェラルドはお近づきになりたいと思っていた彼らを目の当たりにし、時には嫉妬にとどまらない不快感や軽蔑を覚えたのかもしれぬ。
それはわかりやすい、読者の考える陳腐なストーリーに過ぎないが、しかしあくまでも絢爛であり物語としてきっちりしすぎていても、ギャツビーのたぎる情熱とそれ故の滑稽さは否定することができない。彼はいいやつなので、そんな彼を冷たくあしらう社交界は見た目ほどよいものではないのかもしれない。

「怒りの葡萄」とは全く異なる小説なのだが、上下の階級の差が描かれているところは共通している。一方「八月の光」は白人と黒人、横の階級の差だった。つくづくアメリカというのは徹底的に縦で横で階級闘争に明け暮れている。やはり面白い国だなと思う。
アメリカ人だけが闘争的だと言っているのではない。ただ彼らは日常的にそれを隠さず争ってきたし、今も闘っている。その根源は人ならば誰でも持っているものであり、だから彼らの物語が海を超えた日本に住む私に響くのだ。

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