2020年12月27日日曜日

ミヒャエル・エンデ/鏡のなかの鏡-迷宮-


「モモ」「はてしない物語」(「ネバーエンディング・ストーリー」として映画化された)など児童文学で有名なミヒャエル・エンデに連作短編小説。
どちらかというと大人向けの物語。

鏡の中に鏡がある、つまり鏡が向かい合っている。
そうなると鏡の中に鏡像が連続してどこまでも続いていくように見える。(実際には際限なく続いていくわけではないそうだ。)
微妙に関連する物語が並んでいる様はまさに合わせ鏡で、私達が現実とよんでいるものが横に、縦に連続してつながっている。
これらの物語は現実ではなくて夢とされていて、私達の現実とは程度に差はあれどいくらかは隔たった不可思議が展開されている。
シュールレアリスム絵画を見ているような感覚だ。(シュールレアリストだったエンデの父の作品が挿絵として使われている。)

夢という形で展開される連作小説というと夏目漱石の夢十夜を思い出す。実際にシュールな風景は似ているところがあるのだが、今作では連続性という点で明確に異なっている。
エンデは前回の話の設定を引き継ぐというか、どこかしらつながっている要素を持って次の話が展開させていく。並行宇宙、数珠つなぎ、しかし最終話が冒頭のエピソードに関連しているから正しくは円環である。

これらの夢はしかし概ね不穏な空気をはらんでいて、極彩色の幻想というわけには行かない。
というのも物語の多くに闘争の要素がある。
エントロピーの増大、拝金主義者が作り上げた危うい構造体、疲れ果てて戻った我が家を乗っ取った大量のネズミ、平原での大虐殺、暴力的な権威による弾圧。
これらは全て敵側というのが常にはっきりしない。どれもなにかの象徴であるのは間違いがないが、しかし暗喩というよりはどちらかというと目にした耳にした触れた現実が混じり合って夢で不可思議な形で結実したという趣がある。キメラ的というか。

この不定形の捉えがたい、名状しがたい悪夢の中でいくつか普遍的な設定があると思う。
一つは前述の通り、常に安寧や安穏というものはなく、何かと戦わなければならないこと。
もう一つは同じ場所にとまどることは死ぬこと。
「惑星の回転のようにゆっくりと」「教室では雨がたえまなく降って」という短編ではかなり直接的に心理的に止まっていたい、安定していたい欲求と、しかしとどまればそのまま凝り固まって死ぬことが示唆されている。
登場人物たちは常に移動することが求められているわけなのだが、この移動とは変化のことで作中では落ちる、もしくは全てを失うことが伴うと書かれている。
移動とは次の夢にいくことであり、これはこの夢(一つの現実)での死を意味する。
だから移動しても移動しなくても死ぬわけではあるんだけど、少なくとも移動すれば次の夢が約束されている。
移動しなければずっとその夢に縛られてそのままだ。
これらの物語の中では年を取ることが残酷に描かれている。
人生はコップみたいなもので別れけば色々と知識や経験が入る余地があるが、老いてしまえばもう新しいことが入る余地がない。
老人は動けなくなり、罠にハマったかのように彼らの人生は停滞する。(「手に手をとって,二人が道を」「俳優たちの廊下で私達は」など)
移動した先にももちろん困難と闘争がある。
しかし常に待っていてはだめだ。
待っていれば唯老いてしまう。
若いうちに動かなければならない。移動しなければならない。

「ここは部屋である,と同時に」は人生には無限に時間がある若者がしかし老いて挫折し、そして恋人とは(少なくとも彼彼女の思うような形では)決して会うことができない、という世界を書いている。
このすれ違いはしかしありふれた地獄でもある。
しかもこの物語は単体でループしている。
このありきたりの悪夢を人間は飽くことなく繰り返していく。
様々な幻想の夢の中があるのに、その全てが不穏な闘争とすれ違いをはらんでいる。
多様な悪夢の中で人間は苦しむ。
当たりの夢がない中で、何回繰り返しても天国に行けない中で。

この人間の解けない謎を抱えたまま、人とわかりあえずに苦しむ人生を、醜悪と思うのか、それともそれでも美しいと思うのか。
問題提起ではないが、プリズムのように地獄なりに色々輝いているように描いてしまえるエンデは凄いな、、、と小学生のような感動を覚えた次第。