2019年6月23日日曜日

トルーマン・カポーティ/遠い声 遠い部屋

「冷血」が面白かったので2冊めに手にとったのはこの本。
あちらはノンフィクション、こちらはフィクションだから趣が異なるのは当たり前だが、最近もっぱら読んでいるアメリカ文学という文脈でもなかなか奇異な本だった。

ヘミングウェイの「老人と海」のあとがきでアメリカは歴史がないのでその文学というのはヨーロッパのそれとは大きな隔たりがあると書いてあった。具体的には歴史がない、奥行きが無いためその文体は必然的に肉体的に、(その人が言うには)浅薄になるそうだ。
確かにアメリカ文学では肉体的な動作が強調される。自分はそこを短所とは思わず、むしろ長所だと思っている。
ところがこの本は肉体的な動きは最低限に抑えられ、舞台装置も含めてイギリスのゴシックめいた雰囲気がある。動きがない割に重々しく、そして多分に観念的である。
ニューオーリンズに近いアメリカ南部という、まさにアメリカ文学会のど真ん中を舞台にしているのだが。

親類をたらい回しにされているがゆえに精神的に早熟、しかし都会ぐらいゆえに肉体的には脆い線の細い、頭でっかちな男の子が主人公。
彼が一度もあったことのない父親に招かれたのはアメリカ南部の田舎町の、更に郊外にある崩壊しつつある奇妙な屋敷である。
ここは異界で、そしてタイムマシンでもある。
ここでは時空が捻じ曲がっていて主人公は未来の自分に合う。
完全に私の解釈だが、暇を持てあまし、人生に倦んでおり、頭の良さがむしろ健康的な生活の足かせになっている、弁が立つが人嫌い、手先が器用で芸術に対する造詣が深い、才能はあるがやる気や野心とは無縁な、豊富な知識と独特の諧謔をもちあわせたランドルフ。この妙に丸っこいフォルムのこの男、その見た目もあって私にはカポーティ自身に思えてしまうのである。(ちなみにカポーティ自身がランドルフには彼自身ではない二人のモデルがいると公言している。)
早熟だがもやしっ子の主人公ジョエルは、もちろん複雑な環境で育ったカポーティである。
これから人生が広がっていく少年と、彼の悲しい末路である中年が異界で出会う。
これは輝かしい未来の否定であり、少年からすれば失敗の運命の暗示である。

異様な舞台を盛り上げるように出てくる登場人物たちは変人ばかり。個性は強いが全員共通してそれぞれの悲哀がある。人生の蹉跌があり、一筋縄ではいかない複雑な性格をしている。
アメリカ文学で重要な、労働、勤勉、悪とそれに対する正義、義憤などといったものは殆ど出てこないが、アメリカ南部ということもあって生命力は異常にある。
ゴシックの雰囲気ただようが、妙な粗雑さもあって、それが野蛮な魔術めいた圧力で、例えば劇中で言及される強すぎる太陽のように複雑な心情の層をぐいぐい押し付けている。
妙なものがたくさん配置されている。そして後半は幽霊屋敷に慣れた主人公の思いが縦横に広がっていく。(押されていた分浮き上がっていく。)
しかし騙されていはいけない。この本には不思議な事は書いていない。どこまでも現実の悲哀を書いているのである。原因があり、そして結果があるこの世界はときに空想より残酷である。
そういった意味ではやはりどこまで行ってもアメリカ文学か。
後半、自分=父親なのかとも思ったが、やはりそんな陳腐な展開はなかった。

すべての試みが失敗しており、そういった意味では陰鬱な物語だが、ラストのジョエルの決心が切なくも心強い。それは過酷な人生に対峙する決心。
アメリカ南部の、廃墟のような屋敷、荒れ放題の庭に佇む少年は異常に色の濃い光の中で影法師のようになっている。
それは人を感動させる。

2019年6月15日土曜日

スタインベック/ハツカネズミと人間

荒野で凸凹コンビが出会ったらどうなるだろう。
きっと彼らが辿る道行きがそのまま物語になるだろう。
きっと悲喜こもごもいろいろなエピソードが生まれるだろう。
きっとそれらは人の心を動かすだろう。
ここがアメリカではなければ。
そして作者がスタインベックでなければ。

誰かと一緒に生きられずにはいられない人と、人が幸福になることを許さない世界がある。
この世界では人は互いに歩み寄ろうとする。常に誰かを求めている。しかしその試みは往々にしてうまくいかない。
すれ違うし、ときにはいがみ合い遺恨を残して終わることもある。
言葉は空疎で無力だが、とはいえ肉体は絶えずそれ以上に失敗する。

私達は言葉や肉体を使っていろいろなものを作ることができる。
作物を育てることができる。
動物を飼うことができる。
立派な建物を作ることができる。
しかしなぜだか隣りにいる人と本当に心を通じ合わせることができない。
この世のすべてが虚しい実験場のように思えることもある。

この様々な試みがうまくいかない過程を書けばそれはまた紛れもない物語である。
悲劇とは希望や期待が裏切られることで、しかし全ての失敗がそれに至るまでの過程が確かにあったはず。
スタインベックはそれを無骨な言葉で描いていく。
残酷さというよりは優しさで。
貧しいということはチャンスがないことだ。選択肢がないことだ。

天や運に見放された人の、忘れ去られてしまう、他人からすれば詰まらない人生を描くのが優しじゃなければ何なのだ。

スタインベックが描くのはいわば小さな、誰も顧みることのない墓に刻まれた長過ぎる碑文である。

私はこの本を読んで損傷を受けた。
世界が残酷だからではない。
主人公の二人が不器用すぎるし、そして他の登場人物たちもそうだし、なんでそんなにうまくいかないでみんなが孤独なのだろうと考えるとどうしようもなく切ない気分になるからだ。すべての登場人物が愚かで、なんでそんな事するんだと彼らに対して怒りが湧き、そしてなぜだか全員の気持ちを察することもできてそうしてどうしようもないちっぽけな彼らが妙にむしょうに愛おしいのである。

この本には「だれだれは悲しい気持ちになった」なんて一行も書いてねえよ。
だが私はそう思ったし、全然いい気持ちなんかならないが、それが好きなのだ。
この本に書かれている虚しい試みが今も継続しているとしたら、それに対してどう思えばよいのかはわからない。

マーク・トウェイン/ハックルベリイ・フィンの冒険

アメリカ文学界にそびえ立つ記念碑的な作品。
主人公は少年で一見子供向けの本のように見えるのが意外だった。
前日譚である」「トム・ソーヤーの冒険」を経てこの作品のページをめくると、前作との違いがはっきりと感じられる。

前作は縦の世界の物語だった。
アメリカの素朴な田舎町でいたずら小僧トム・ソーヤーが大人の世界をかき回した。
これは本来小さい、つまり身長が低い、守られるべき、保護を受けるべき子供が、大きい、つまり身長が高い、力強い、自立した、大人たちを右往左往させ、やり込める話であった。身長の高低=身分の図式を引っ繰り替えてしており、そこが痛快で面白いのだ。
子供からしたらいつも偉そうな子供をやり込める喜び、大人なら自分の子供時代を思い出し、また型にはまってつまらない大人の社会が揺さぶられるのをみて胸のすくような思いがする。
なんといっても小鬼のようなトム・ソーヤーが愛らしい。彼こそがトリックスターであり、田舎の町を動かした。

一方でトム・ソーヤーの親友の一人ハックルベリイ・フィンはトムとは異なる境遇に身をおいている。暴力的な父親は不在がちで学校にも通わないハックは子供ながら本物のアウトサイダーであった。
今作では彼が窮屈な社会を脱出し、旅を始める物語だ。
前作では縦の、垂直の世界だったが、今回ではそれが水平に動き物語の奥行きがぐっと広がった。
ここで面白いのはハックもまたまだ子供であることだ。つまり水平に広がった世界で垂直が圧倒的に意識されている。むしろこの落差こそが物語の軸になっている。

保護されている環境から抜け出したハックが出会うのは、脅し、暴力、殺人、死体、差別、詐欺、悪口、貧困。あらゆる悪徳のオンパレードである。
安全なオアシスの外には荒廃して厳しいウェイストランドが広がっている。
そもそもハックは実の父親との暮らしに見の危険を感じてそこから抜け出したのだ。
まるでダンテの地獄めぐりのように、川づたいこの世に栄える悪を目にしていく。ただこのときの従者はウェルギリウスではなく、無知で年老いた黒人の奴隷である。
この厳しい世では、上下の関係が強烈に悪用され、子供や黒人奴隷はいい鴨にされる。

マーク・トウェインはハックを温かい目で見つめ、その行く先をユーモアを交えて書いているから全く陰惨ではないけど、なかなかどうして彼の冒険は非常に苦いものである。

ハックは何も持たないもの。金にすら執着がなく、偶然手にした途方もない大金をおいて村を出てきている。
ハックは常に悪がはびこる土地で追い込まれる窮状に自分の知恵と力で立ち向かう。
勇気とは?むろん暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ。
この開拓精神がハックにはある。
教会にも学校にも行かないハックは常に自分の頭で考える。
彼が取るのは悪手である。しかし余裕も手もないのだ。他に何ができるだろう。

ハックが読者に与えるのは楽しかった子供時代の甘酸っぱさではない。
自分で考え行動することの困難さと、そしてその尊さである。
できる環境で考えうる最良と思われる選択をする、おとなになるとその困難さがわかる。

黒人奴隷ジムの存在はアメリカの歪さを表現している。
というを今現代に生きる私が言うのはたいへんたやすい。
当時はこれが普通だったのだ。
ハックルベリイでさえ黒人を下に見ている描写がある。
ハックルベリイは進退窮まったジムを救おうとする。
たとえばハックを指して差別主義者だと罵るのははいるかも知れない。しかし同時に明確に間違いであり、そして無力である。

徹底的に外面的な、肉体的、具体的な動作的な描写にこだわり、内面描写を省いた文体はたしかに広大なアメリカ大陸に流れる無骨な文学の血脈である。
意識されるのは埃っぽく広大な土地とそれをを照らす巨大な太陽である。
そこでは風は停滞し、血の匂いがする。
たがそのむやみな巨大さに何故か心打たれるのである。