2019年3月24日日曜日

ヴァージニア・ウルフ/ダロウェイ夫人

おおよそ物語というのは世界を切り取ろうという試みである。
巨大なそれを制限のある言葉や映像で表現しようというので、当然それは省略され、重要なパーツは誇張される。
事件が配置されて物語はある程度の典型を通ることになる。

こういったやり方に真っ向から反抗したのがこの小説。
この作品は世界の極小の一部をなるべくそのまま切り取り、そしてそれをあるがままに表現(しようと)した。
世界というのは日常(作品で頻出するところの「瞬間」か)の積み重ねでできているので、実際にこれを表現しようと言うならば、任意の日常(瞬間)を切り出せばそれで事足りるだろうというわけだ。
その考え方には同意できるが、おそらくは物語性が失われるため多くの作家はあえてこれを用いなかった。(もしくは頭に思い浮かびもしなかった。)

しかしだからといってこの小説を究極の写実的な小説というのには無理がある。
出来事をただ観測していくのではなく、登場人物の内面の描写にその殆どの文字数を割いているから。
他人の内面、心の動きを写実的に描写することは不可能だ。
つまりバイアスが掛かった見方になるが、しかし私達はバイアスなしには世界を見ることができない。
一度はフィルターがかかった状態でそれを見る。

この物語は筋的には全く大したことがない。ある婦人がパーティを開く1日をただ描いているだけだ。
そのありふれた光景がすなわち世界で。

クラリッサの別人格だが、彼が別の個人に分割されたのはおそらく、一つには本来検討された結末が劇的過ぎたせいだろう。
これだと物語全体が劇的すぎて普通の日常から乖離してしまう。
他人は死ぬが自分は決して死なないのが(主観的な、すなわちありのままの(私達は主観的にしか世界を認識できないので))世界なのだ。
もう一つは気分の浮き沈みが陰影濃く描写できるから。劇的ではあるがこれは一種のデフォルメである。私達にもある気分の昇降をわかりやすく描いている。

ウルフは今作で日常をそのまま書き取ろうとした。
じゃあ日常ってなんだ?それを考えるのは(別に考えなくても全く問題ない)読み手の仕事だ。
言うまでもなく彼女の、ウルフの目を通した日常は不安に満ちている。
この本に出てくる登場人物たちは(大抵男女の)二人組である。
夫婦や恋人が大半を占めるにしてもそれだけにとどまらず、色々なペアが出てくる。
およそこの他者との関係性が問題になってきており、登場人物たちはこれに翻弄されている。
常に相手によく思われたい。また好きじゃないにしてもそれには理由が必要である。要するに常に人の目が気になる。
よく言えば気を使っているし、悪く言えばビクビクしている。
いわば少し神経症的なところがあり、この終わらない痙攣めいた反射こそがウルフの目を通した世界なのだ。
それは楽しみを生み出しつつも、大きな負担を人に強い、結果的に登場人物はこの世界において多かれ少なかれ披露している。(エリザベスは例外か。)

男と女、夫と妻、長年の友人通し、富裕層と貧者、老人と若者、さまざな組み合わせが浮世の楽しみと苦しみを代弁している。
多分気にしない人も多くて、全く他人の目を意識しない人もいるだろう。
しかしウルフはそうではなく、彼女の代弁者である登場人物たちは磨耗していき、そして死に惹かれるようになる。
彼らは何か特定の出来事によって死ぬのではない。ただ日常の中で疲労していくのだ。
いわば生活が彼らを殺しているのだ。
この作品では(ウルフ自身の最後を考えるなら)まだ、結局人生は死んだ方がましだという小説ではない。
(だから当初考えられた通りに進んでしまえば全く違った小説になったはずだ。)
私の目にはそういった感情も含めて(彼女の考える)生活を描き出そうという試みに見える。

Twolow presents “garlic? Vol.7” @小岩bushbash

皆さんお元気ですか?
私はなかなか忙しくやっております。
悩みのタネは尽きない。
なくなったらこっちが探すからです。
生活が苦しいのはもう慣れるしかねえな、と思う今日このごろ。
なかなかかぶりが酷かったこの日、自分が行ったのは小岩。

FIXED
見るのは2回目、おなじbushbashで。
ストレートかつパワフルなハードコアかと思いきや、ファーストフルリリース後改めて見るとかなり印象が異なる。
ずらりと並んでアンプも異様で音がでかい。
ドラムも位置だけでなく前に前に出てくる印象。
全音音量マックスの迫力だか、聞いてみるとハードコアに留まらない何かを感じる。
単に空間系のエフェクトを噛ませたスローパートがあるからじゃない。もっと他の何かだ。
このギター、ギターがロックじゃない?
ハードコアの枠に収まらなくない?
エネルギッシュに前に出てくるかんじ、でも勢いだけでない、フックがある。
スピーディなリフの中にもう一つアクセントを入れるような印象。
敢えてそれをハードコアに噛ませる姿勢だけど、しかしそれによって確実に類を見ない音楽になっている。
ブルースとまではいかないが、ビンテージな感じ、少し埃ぽい。
確実に違うところもありながら、私の頭に浮かんだのは最近新作をドロップした金沢のGREENMACHiNE。(ちょうど聴いていたってこともあるか。)
そういえば彼らはHardcore Rockを標榜、実践している。
あそこまで泥沼に足を突っ込んだ泥濘サウンドではないが、タメがありながらもそれによって生まれる独自の突進力とグルーヴを展開しているという意味で似てると思う。
そうなるとスローパートも老人の仕事の浮遊感に通じるような…穿ち過ぎ?

ALP$BOYS
始まってすぐ思ったのはこれはファストコアではない。
まず露骨にドラムのリズムがおかしい。
シンバルを多用するフリージャズの要素がある。
粘っこいベースと噛み合って横ノリを生み出している。
なんだこれは。
そして歪ませすぎないギターの反復。
これはEarthlessのサイケデリアか。
ボーカルもハードコアな低音かと思いきやラップも披露。
フリーキーな横ノリで揺らせて、サビはロックの縦ノリで吹っ飛ばす、華麗な空中コンボ。
さながらRage  Against the Machineか。
ロックのフォーマットでアウトプットされているが、その実雑多でマニアックなな元ネタたちが渦巻いてる、鎌首もたげてとぐろ巻いてる。
そんな殺気をフルファストな曲に込めてシメ。
ボーカリストは野球の素振りめいた動作をしたり、ナーバスのときに一人モッシュをしたり、近寄りがたい雰囲気で格好良かった。
音楽的には豊穣なんだけど最終的にハードコアになっているのはこういったアティチュードによるのかもしれない。

sasaya-
最近リリースされた二枚目のアルバムがとても良かったが、やっとこ見ることができる
張り詰めている。
緊張感が。
スリーピースで突き刺すように尖ったギターの音。
必死の形相のボーカルの力の入れよう。
まるで愉快なお芝居を見に来たはずが、それは実は口実であり、実際には非公式の法廷で観客の私たちが丸ごと糾弾されているようですらある。
ただしそれだけではない。
それだけではとても説明がつかない。

音的にはジャンクと自ら称することもあり、なるほどハードコア、パンクの範疇から逸脱したひりついた殺伐さは、シンプルな編成飾らない音作りという楽曲のスタイルとあいまってUnsaneに代表されるノイズロックに大いに通じるところがあると思う。
ただし血塗れの世界を狂気を孕んだ目で、ある意味冷たく俯瞰する彼らとはこのバンドは一線を画している。
冷笑的な、つまり皮肉に富んだユーモアがsassya-にはない。
あくまでも主観的に、世界が血塗れならそこで苦しんでいる姿を表現している。
浮世の生がもはやよ呪いなら「脊髄のラスト」で命を燃やして生きろというメッセージはその呪いが解けないことを指しているから残酷である。

 しかし「きっと今より良くなる」というメッセージよりも私にらよっぽど真実らしく響くのだ。
良かったね、圧倒的に。

Nervous Light of Sunday
ハードコアは、特にニュースクール以降は怖くないとみたいな思い込みがある。
なにも銃声を楽曲のイントロにいれたり、マフィアぽさをアピールする必要は無くて
ライブで見た時おっかないかどうかである。
この日のラインナップでは異質だろうと思うが、異質さを一切隠すことなくハードコアの怖さを披露。
怖くてステージ前に行けないあの感じ。
ガッチリ固めた低音の塊と、耳障りな高音の単音。
それが何かしら人体に作用するらしい。
とにかくミュートでザクザクというより、強制的に抑えつけるようにバツバツ空間を切り取っていくのが気持ち良い。
速いし重たい、タフなんだけど、どこかしら何かに追われるような神経症めいたところがあり、個人的にはそこが好きだ。(いわゆる激情系に通じるところはあると思う。クールすぎない。)
モッシュパート一辺倒のブルータルハードコアというより、ちょっとCave Inみたいに捻った所もある。
あっという間に終わってしまった。
音楽的には全然違うけど、前のsasaya-から繋がっているような気がした。

Twolow
ベーシストのメンバーチェンジ後見るのは初。
メンバーみんなでかい。
まずドラム。
単に音量が大きいのか?
周りが下げてバランス調整してるのかもしれない。
いずれにしてもドラムの存在感よ。
音数は決して多くないが一撃の重たさと思い切りの良さ、「俺はこのリズムで行く!」という潔さがバチバチ来る。
ギタリストはpaleのメンバーでもあるが、こっちでのプレイスタイルは明らかにこのバンドに寄せてきている。
徹底的な引き算の世界。
ミニマルですらあるし、無愛想すぎる。
ベースのシンプルな骨太さがドラムと噛み合い、骨組ができるわけだけど、ギターが二本更に乗っても、体感的には骨組しかない。
リズム、リズム、リズム。
ここまで削ぎ落とすと、ハードコア的なカタルシスはない、どっしり落ち着き、コード感もほぼ消えている。
ところがボーカルにメロディがあって、それ故にTwolowがオルタナティブと称されるのも首肯できる。
日本のHelmet。
メンバーが運営しているレーベル、3LAの性格もあってついつい分かりやすい日本らしさを探してしまうのだが、しかしアメリカだ。
スプリットの相方Sunday Bloody Sundayもそうだけど、アメリカを感じてしまう。

どのバンドも違って、それを違和感なくまとめているのは主催者Twolowのオルタナティブの魔力だからか。
個人的にはALP$BOYSが楽しかった。音源聞いて「なるほどなるほど」ってなるのをいざライブをみると印象全然違って面白い。こういう野ライブの醍醐味だと思う。
あとsassya-はやはりすごかった。
今回は会場でぽちぽち感想の元ネタを書いてみた。bushbashは良いライブハウスだな〜。

2019年3月17日日曜日

コーマック・マッカーシー/チャイルド・オブ・ゴッド

高校生の時にたまたま見た深夜ドラマ「Trick」にハマった。
緊張感がありながらコミカルな内容に毎回楽しく見てた。
鬼束ちひろさんのエンディングテーマが良くて、その名も「月光」といった。
「I'm God's Child」という歌詞が印象的で、この世はとてもサヴェージで、蔑むべきここを押し付けられて生きているといったものだったと思う。
つまり彼女の言う「God's Child」というのは無垢な存在で、それがこんなにひどい世界で苦しんでいるといったわけだ。

一方マッカーシーの描く神の子は無垢で無害な存在ではなかった。
恵まれない容姿(小さい体、斜視)と同じようにひねくれた精神がライフルを手にし、山中に潜み人を殺し、またその死体を犯した。
言うまでもなく神はその似姿で人間を作ったのだから、人間の性質は神から受け継いだものだ。
とすれば、このタイトルはなかなかアメリカでは挑戦的ではないだろうか。
この残酷な獣が神の似姿なのだから。

マッカーシーは概ね残酷な世界を書いてきた。
その中で動き回る主人公や登場人物たちたちはいずれもタフだ。
単純に善人とは言えない(ときには明確に悪いこともする)が、いずれも読者を引きつけるなにかがあった。
ところが今作の主人公レスター・バラードにはそれがない。
彼は矮小で卑屈で、気が弱い。

思春期を迎えた人がそうであるように、私もかつてシリアル・キラーに関する資料を読むのが好きだった。
平山夢明さんの本や、インターネットの個人サイトでよく時間を消費したものだ。
常人にはできない殺人を何回もこともなげにやってのけるのだから、彼らは超人かあるいは逆に欠落しているだろうと思い、そこに魅力を感じたのだった。
ところが斜め読みしていくに連れてシリアル・キラーたちが貧困や虐待など劣悪な環境に育ったり、生まれつき身体に障害があったり、それらがなかったとしても性的不能が殺人に結びついていたりと、非人間性を求めていた私からするとむしろ普通の人たちよりよっぽど人間臭くて、なんだか思ったのと違うなーと思ってしまったのだった。つまりそこに私の求める劇的で暗い色をしたなファンタジーはなかったのだ。
レスター・バラードはフィクションだがこういったシリアル・キラーたちの系譜に正しく連なるものであり、貧困と無知、身体的な弱点を抱えている。いわば格好良くない方のシリアル・キラーの物語。
人の革をなめして奇妙な日用品を作ったエド・ゲインのようにレスターも殺した女の頭皮で作った鬘をかぶり、女装して人を襲うようになった。彼の場合は殺す対象とレイプする対象が一致しない点が面白い。彼にとってはいわばコミュニケーションの手段として殺人があるのかもしれない。殺してからレイプするやり口もかれのコミュ障っぷりを表現している。

人がおかしくなるのはどんなときだろう。それは他人とかかわらなくなったときだと思う。レスター・バラードは天涯孤独の身である。彼はアメリカの深い山の中で己の狂気を密かに高めていった。現実世界から乖離していき、同じ言語を喋ってももはや彼の言うことを理解できる人はいないだろう。(そういった意味では発狂しているといえる。)
マッカーシーの主人公たちはどれもたしかに孤独な人間で、中にはアウトローと言ってもよい人間もいた。しかし彼らは強靭であり、己の欲求を社会の中で勝ち取り、そして満たすことができた。
レスターはそうではない。自分の欲求を社会の中で満たすことができず、山の中にこもったが、一人で生きていけないから野に下り、そして殺人という形でコミュニケーションをとろうとする。
彼がお祭りで大きな人形を取りそれに執着する描写は滑稽ではあるが、私にはとても物悲しく思えてしまった。

ヒルビリーという単語を初めて知ったのはRob Zombieの「Hellbilly Deluxe」(hillbillyのもじりでhellbilly)だったと思う。「田舎者」という意味かと思っていたが、実際にはアメリカには都市部と山の境界で暮らす貧困層を表現する言葉としての側面があるようだ。
レスターの犯罪はすべて彼の責任であるが、しかし彼の貧困は?彼はたしかにヒルビリーであった。
日本人にはわかりにくいかもしれないが、こういった社会構造をマッカーシーは描いているはずだ。
そうなると「神の子供」の意味が少し変わってくる。生まれながらのシリアル・キラーというよりは、遺伝子と生まれついた環境、つまりアメリカの社会的な問題の混血児としてのレスターである。彼はアメリカの暗い側面の象徴である。

獣じみた神の子から野蛮な世界に産み落とされた無垢な子、という見方の転換は難しい(レスタは幼い頃から凶暴な性質はみせていた)が、それでも彼が理解不能の生まれながらのモンスターとは異なることが、最後まで読めば理解できる。
凶暴だがとにかく悲しいやつだ。妙に共感してしまう。

久しぶりに鬼束ちひろさんの「月光」を聴くとやっぱりいい曲だった。

コルタサル/奪われた家/天国の扉 動物寓話集

幻想文学というとだいたい2種類に分かれるかもしれない。一つは稲垣足穂のような絢爛で初めて見る景色なのにどこかノスタルジックな匂いのするおとぎ話めいたもの。もう一つは読み終えるとなんとも名状しがたい不安を感じさせるもの。
コルタサルは後者に属する作家であり、この手のジャンルにありがちな現実世界に少しづつ不可解が侵入してくる、といった趣の作品を書く。
この時不可解というのは不安の象徴であってそういった意味では、構造体で戒めの機能(例えばものを大切にしろと説く付喪神や、神社では行儀よくしろというおとろしなど)として働く(側面がある)社会機能としての「妖怪」に似ている。つまり不安の擬人化としての不可解である。
この手の不可解は登場人物(と読み手)に不安を掻き立てるが、特に読み手にとっては登場人物の神経や感受性に対する疑いを惹起させる。わかりやすく言えば「こいつは発狂してい(=統合失調症をわずらってい)るのでは?というもう一つの不安である。
「ぼんやりとした不安」に怯えたのは芥川龍之介で、彼もいくつも不思議な物語を書いている。この手の小説で面白いか否か、というのはその扱う怪異がどのくらい現実的か、普遍的かというところにかかっているかもしれない。というのも見たことのない不可解ならエンターテインメントだが、これが見知った不可解なら現実的な恐怖であり、そしてまた自分ひとりが神経過敏ではないという共感を得ることができる安心でもある。それこそが醍醐味であると言っても良い。

概ねほんの前半に収録されている作品に関しては、上記のような主人公たちの神経を疑う構造になっており、読んでいるとこちらも不安になる。「偏頭痛」は違うのだが、「バス」あたりから”他者”(この時明確に主事のうに被害を与える加害者として、そして主人公の妄想の理解者として)が登場し始めて空気が変わってくる。いわば前半の狂気は個人的な物語である。
後半は少し趣が変わって例えば「キルケ」などはこれはもう現代風の怪談と言ってもよいのでは。言いしれぬ狂気(独りよがりではなく社会性を持った実在する狂気)を描いていて、それらをグロテスクなアイテムが象徴しているクライマックスはゾクゾクする。
「天国の扉」はまたちょっと違って、ある意味一番社会性がある物語だ。立場が全く違う2人、一人は地位の高く豊かな男(=主人公)でこいつは低層にある人間を観察することが趣味のいやらしい男。もうひとりはお金はないけど情熱的な男で彼は最近愛する妻をなくしてしまった。普通の友人関係ですらないのだが(主人公ではない方の男の優しさで実は保たれている関係か)、そんな2人が同じ幻影を見る、という話。ここでは格差は解消されるためのそれであり(だから主人公鼻持ちならないやつなのである)、そんなものがあっという間に崩れ去る瞬間を書いている。悲しくも爽快である。このときは不可解が共有されている。

共有されていても不可解の性質が減じられることはなくて、引き続き理解することができない。ある物語は終わりを告げ、ある物語は終わったあとも続いていく。やはり日常の物語なのだと思う。

2019年3月10日日曜日

Extreme The DOJO vol.32@渋谷Club Quattro

ライブの開演前または転換中って何をします?
顔なじみの友達と喋ったり、またはtwitterをみたり。
ぜんぜん違うね、できる男はslackをやる。
渋谷Quatroは地上5階にあるため電波が通じないは言い訳にならず、月初に無理言って会社を出た私に会社から鬼のような連絡が来、いつもなら期待と不安が入り混じった緊張感で開演を待つところ、数値が合わないという連絡が来て半端ない冷や汗に包まれていたのがこの日の私だった。(本当にデキる男はきちんと仕事を終わらせてライブに来ます。)
そんな私の動揺を打ち砕いたのが、

Melt Banana
日本のNapalm Deathともスプリットを出しているはず。
見るのは初めてだが2人編成担っているので驚いた。ベースとドラムは事前に用意したもの(おそらく打ち込みだろうか)を使う。Man VS Manの関係性から生まれるオーガニックな阿吽の呼吸、というのが使えないのでまじできっちりマシーンに合わせに行かないといけないわけだ。
Melt Bananaは大きな音楽的な特徴がいくつかあって、その中の一つが変な音を出す。もっというとギターが変な音を出す。
およそグラインドコア界隈ではギターの音はダウンチューニングやエフェクターなどを積極的に用いて低音に偏重した音を出すわけなのだが、このバンドは違う。例えばギターの音を逆に切って軽くする、というのとも違う。
多彩なエフェクターを用いてギターの音色自体を本来のものから大きく変えてしまうのだ。こういう使い方はないわけではないけど、ほとんど飛び道具的なものになる事が多いけど、Melt Bananaは違う。そのサウンドがバンドの核の一つになっている。
この日もチープな光線銃のような音、速度を変えたり、ループさせて重ねたりと、ギタリストのagataさんが八面六臂の大活躍。
かといって前衛ジャズのような実験性は皆無で、バンドサウンド時代はグラインドコアそのもの。
一つは打ち込みによって繰り出されるベースが非常に強固なこと。ドラムは結構打ち込み由来の音の遊びはあったと思うが、ベースがかなりガッチリ、はっきりした輪郭で明確な(ただし起伏、フックがある)リフを描いていた。
そこにさらにボーカリストの操るコントローラで制御されるノイズがフリー(キー)に乗っかってくる。また違う混沌がここにある。
Melt Bananaってkawaiiコアだと思うのだ。それはボーカリストのyakoさんの見目が麗しいからでは断じてない。彼女の歌い方はやはりエクストリーム音楽の(またはハードコア)の流儀とは違って重たく、汚くない。
激しくも遊び心のある演奏と相まって独特の世界観を作り出しているのだが、それがまさにおもちゃ箱をひっくり返したような混沌、ハードコアにあるはずのないワンダーランドでそれがkawaiiのだ。
日本のサブカルチャーってやたら(アニメ/コミック主体の)オタク性と直結されるけど、なにも目がでかい美少女だけじゃなくてこういうのもあるよなって思う。
出音一発で完全に持ってかれた。仕事のこととかもう遥か彼方。どうでも良くなった。これだからライブって好きだ。Melt Bananaも最高にかっこよかった。

Misery Index
初っ端からアクセル全開のイベントだが、一切踏みっぱなしを緩めることなく2つ目のバンド。
出だしの口上であっという間にフロアの耳目と脳をガッチリ掴んでくる様からフロントマンの二人はとにかく華がある。ベーシストはそのスクリームもさることながら見た目も端正。小汚いギター兼任ボーカルとは好対照。
とにかくドラムが圧巻で正確無比かつパワフル。人間慣れるものだからエクストリーム音楽って実はエクストリームじゃないところがすごく重要かと思うのだが、そんなものはFuck Off!とばかりに常にツーバスを踏む。
そこに刻み主体のリフを載せてくるさまはアメリカ製のすべてをなぎ倒して進む重戦車であり、高速でありながら土を噛み、障害を押しつぶしながら乗り越えるその走破性に完膚なきまでに蹂躙されるのは気持ちが良いことだ。
こりゃ完全にデスメタルだ…と思ってあんぐり口開けてみていたわけなんだけど、音に慣れてくるとこのバンドの持ち味が見えてくる。それは荒廃でまじで戦車の通った後はぺんぺん草すら生えねえ、ってくらい荒廃している。メタルはリフの音楽だとすると正統派やはりそこに凝ってくるわけで、それはそれは絢爛なリフが生まれてくる。これはデスメタルでもそうだと思う。漆黒で塗りつぶすにしてもその黒というのは実は非常に豊かな表現で構築されている。
Misery Indexはそんな華美さがあまりない。ひたすらゴリゴリすりつぶしに来る。Dying Fetusのようにブルータリティの中にヘヴィグルーヴを持ち込むバンドもいて、確かに似ているところはあるもののこちらはグルーヴよりスピードに振った感じはある。
つまりグラインドコアの要素があって、そのストイックさが背骨を貫いている。だから武骨。ギターソロも短い。ぶっきらぼう。
ところが端々に、本当に端々に叙情的なアプローチがあるかなきか、そんな残り香があってこれが良いアクセントになっている。
ベーシストの方はHis Hero is GoneのT-シャツを着ていて、流石にクラスト感はないが刻み一辺倒でないリフなどに確実のハードコアの要素はあると思う。冷酷な殺人マシーンとかした殺し屋がたまに人間味を取り戻すみたいな感じがあって面白い。

Eyehatergod
いよいよ。前回の来日から時間が立っていること、ボーカリストのMikeが体を壊していたことなどもあり、この日お目当てはEyehatergodの人が多かったんだろう。シャツを着ている人も割合で言えば全バンドで一番ではなかろうか。
会場を覆う緊張感はこの日随一でビリビリしたあの時あの時間、期待感でステージを見上げているのは本当贅沢な時間だ。
メンバーが登場し、弦楽隊の二人は背を向けた状態でアンプに密着し、フィードバックノイズを出して無言で観客を煽っていく。普通の人なら騒音だろうが、ここには変態しかいないのでどんどんボルテージが上がっていく。
ギタリストのJimmy Bowerがおもむろに前を向き、ギターからシールドを外して指先で弄ぶとまた違ったノイズが発生する。湧く観客。もう、もう勘弁してくれー速くしてくれーーってところで曲がスタート。
ドゥーム、スラッジ、危険なアートワーク、どんなやばい世界が展開されるのかとワクワクしていたら、想像していたのと違ってびっくりした。思ったより殺伐としていない。こんな言い方はあれだが、楽しい。ノリが明らかに違うんだ。今までの縦ノリと違って横乗りというか、もっと余裕を持って体全体がぐるぐる回され揺らされる。
ギターはその巨体に似つかわしくなくかなり繊細なタッチでプレイする印象。もっと豪腕かと思いきや指使いはソフト。それでよく聴いてみると音の数も決して多いわけではないし、複雑なことをしているわけではない。特に最新作に収録のアルバムはBlack Sabbathというよりもっとブルージィな側面がライブだと強調されるような気がした。
なんと行ってもドラムだろう。とにかく溜めがある。さすがに一拍遅れるというわけではないが、2打目以降に独特のディレイがあって(これは毎回このリズムで打っているからも立っているわけではない)、それが多分この独特なグルーヴを出しているのだろう。ジャズで言えばスウィングなのだろうが、そこはEyehategodなのでグルーヴィでありながら、陽気にダンス!という雰囲気ではなくむしろ終始怠い感じで進行していく。
ベースはかっちりまとまっていてリフも明快。これは結構ハードコア的だろうと思う。スラッジというと遅いハードコアというイメージ。このバンドは結構それぞれのプレイヤーが微妙に異なる畑の流儀で演奏し、アンサンブルが組み上がると彼らの独自性溢れる音楽になっているような気がする。
音の数の少なさ、そして個々の音の伸びがグルーヴと合わさり、強烈な(低)音圧で体がブワッと浮かされるのだが浮遊感はまったくなく、時に重苦しいのはやはりボーカル、そして全編を覆う野卑でやかましく不穏なフィードバックノイズのせいだろう。
一時は危ぶまれたMike Williamsは小柄ながら存在感ありすぎる。この社会にフィットしないアウトローの風格が、斜に構えたような動きに出ていて最高に格好良い。喋り方も節々にダルさを隠そうともせず「Thank you kids」(「ありがとガキども」)といったり、頭をかきむしるようなアクション。適当にスタンドにマイクのケーブルを巻き付ける動作。指一本で鼻をかんだりと。とにかく堂々としている。とにかく格好いい!そして怖い。
しゃがれ声が喚くボーカルでいくら演奏が楽しくても基本的にはEyehategodは下に向かっている態度のバンドだとわかるだろう。
あっという間に終わってしまった。本当賞味の話あと倍やってもらっても全然大歓迎だった。

Napalm Death
最後はいよいよNapalm Death。気持ち的に目当てはEyehategodだったし、予想を遥かに上回るステージを目の当たりにして、失礼な話もう今日のもとはとったな〜くらいの気持ちだったのだが、これがとんでもなかった。
全身全霊のグラインドコアだ。掛け値なしのハードコア・パンクだった。ライブを見ているとたまに本当に鳥肌立って持っていかれることがあるけど、この日のNapalm Deathがそれだった。
まずドラムが凄まじいのは当たり前。でもMisery Indexとは少し違う。とにかくプレイが多彩すぎる。それをこともなげに短い1曲の中でコロコロ変えていく。音はこちらのほうが生っぽく個人的にはこれくらいが好み。とにかく気持ちが良い。
そしてギター。(MItch Harrisはツアーには帯同しないのでJohn Cookeが担当)グラインドコアって速度が命のジャンルでもあるから、リフがある程度似通っていたり、突進力のみが重視されても個人的には大丈夫。ただNapalm Deathはリフが恐ろしくキャッチーだ。短い曲の中でワンフレーズ聴いたらそれが耳に残って、知らない曲でも全然乗れる。別に複雑というわけでも、リフそれ自体がメロディアスでもないのだが、とにかく格好良くて耳に残る。これがドラムのフレーズの上にかっちり乗っかっている。
そして私が一番魅了されたのがボーカル。全力。とにかく全力。短パンに身を包んだBarneyはステージを動き回るような独特の動きをするんだけど、私にはそれが真鍮に何かをチャージしているようにも見えた。そうした高まったテンションとエネルギーを叫びとして放出するのだ。速い楽曲で叫び続ければ多少は声が追いつかないのだが、Barneyはそれがほとんど乱れない。すげえ。そして全力で叫ぶ。
速いってごまかしが効かないから地が出ると思う。Napalm Deathは楽曲は激烈なんだけどとにかく真面目でストイック。
私は正直バンドが曲名をコールするのってちょっと照れくさいなと思っていたのだが、Barneyがやるとめちゃくちゃ格好いい。Barneyはプレイする前にそれがどういう曲で何を歌っているのかを説明してくれる。私は英語がわからないのを恥じたね。でも少しは分かるところがあった。中でも印象的なのは今日のT-シャツの売上は日本の恵まれない子供に寄付するよ、ということだった。ハードコアがDIYで有言実行なら、Napalm Deathこそハードコア・パンクバンドだろと思ったわけです。(終演後に物販でビールを売り、これはホームレスの方がへのチャリティだということだった。)
弛緩しているのではなく、笑いがあるステージで見ているこちらも笑顔になった。
Napalm Deathは今もグラインドコアというジャンルの限界に挑戦し続けているのだなと
言うまでもなくグラインドコアというジャンルのオリジネイターであり、地上波のテレビに出演したり、度々来日もしているがまさか目のあたりにするとこんなにすごいとは。
Eyehategodももちろん凄まじかったし魅了されたけど、心底感動したのはNapalm Deathだった。


ライブ行くようになったのが最近なものでExtreme The Dojoは結構憧れのイベントなんだけど復活して、行けてよかった。何がすごいってメンツもすごいんだけどどのバンドもうるさいバンドッテ共通点はあっても、微妙にジャンルは異なっていてこの組み合わせだと思う。
EyehategodのT-シャツは終演後はもう全部なかった。フラッグと迷ったけどNapalm Deathの方を買って帰った。

ウトヤ島、7月22日

どんな映画でも楽しいシーンが少しはあるはずだがこの映画にはそれが1分もなかった。

この映画は2011年にノルウェーで実際に起ったテロ事件をもとに描かれたフィクションだ。かなり衝撃的な事件だったから覚えている人も多いだろう。
極右の男が庁舎を爆破、8人を殺害したあと湖にある小島ウトヤ島で無差別に銃を用いて更に69人を殺害した。当時の島ではノルウェー労働党青年部のサマーキャンプが開かれており、多くの若者が命を落とした。銃撃は72分間続いたという。

エリック・ホッペ監督はこの72分間をワンカットで撮影した。
作品を撮るに当たり当時島にいた被害者の方々に話を聞いたところ、複数の人が銃撃が始まってから警察が来て終わるまで72分間が永遠に感じられるほど長かったと答えたそうだ。この時間を表現するために実際の尺で撮ろうというのが監督の意図だ。

ウトヤ島は10.6ヘクタールの島だ。ピンとこない。106,000平方メートル。まだわからない。もし正方形だとするとこれは大体325.6メートル×325.6メートルだ。狭い。障害物がなければ見渡せる距離である。ここに700人。あなたなら逃げ切れる気がするだろうか?
当然当時に島にいいた人は犯人が単独なのか複数なのかもわからない。想像するまでもないが、銃と弾薬をふんだんに持った犯人に空手で立ち向かえるものではない。
なるべく銃声から離れる。ただし派手に逃げれば視認される中で逃げて隠れないといけない。彼らは永遠にも感じられる72分間(もちろん当時は72分なんてわからないから、ずっと)逃げなければいけない。
72分間、逆にとても短く感じられたのでは?と正直見る前は思ったのだが、そうではなかった。待っている時間というのは常に長いものだ。そしてそれが自分の命を終わらせるなにかを待っている時間ならなおさらだ。
1分1秒が長く長く、彼らそこに対抗するために様々な会話や行動を繰り広げる。それは真に迫り、混乱しており、そして時には妙に場違いに感じられる。死を前にした圧倒的な熱量とそして諦めが入り混じっているような空虚さが、ないまぜになってそれが彼らの力のない抵抗(他に何ができるのだろうか?)であり、絶望的な状況をそのまま表現している。

この映画はあくまでも被害者の立場に立って撮られており、犯人の主義主張に一切触れていない。彼の姿は殆ど一瞬しか映らない。
思うんだが人間は非常なもので69人が命を落としてもその知らせを聞いただけだとピンとこない。悲しいと思うが実際の衝撃が想像できない。監督の挑戦というのはこの意識を覆してやろうという試みにほかならない。あの時あそこで何が起こったのか。島にいた700人がどういう行動をし、そして何を思ったのか、それを考えてほしいというのがこの映画だ。69という数字の向こうにある現実(この映画はフィクションであるから現実のも方ではあるが)を今一度考えてほしいと。
そこにあるのは個人の、ひとりひとりの人間の死であり、死がそれだけで存在し得ないのだから、そこにはひとりひとりの生活があった。長回し一発撮りという制限(時間)の中でホッペ監督はなるべくその生が立体的に見えるように会話や仕草を練り込んでいる。
カメラは特定の誰かではないが、まるで主人公の女の子と一緒に逃げてるような視線で撮っている。一発撮りも相まって観客にも緊張感を強いる。私達は結末を知っているだけにさらに落ち込む。

編集や視点の変更、舞台の俯瞰、時間の短縮や跳躍、つまり時間と空間を固定した世界であぶり出されるのは1秒1秒の重さ、そしてリアルさだろう。私達の貧弱な想像力を刺激する。無音のエンドロールがずっしりと響く。考えてくれという監督のメッセージだ。極端なものの考え方、圧倒的な暴力と死、個人の死。個人が死ぬということについて。

2019年3月3日日曜日

フィッツジェラルド/グレート・ギャツビー

高嶺の花、身の程知らずの恋、成り上がり物の悲哀と孤独。この物語にはいろいろな要素が含まれているが、ある意味きれいにまとまった悲劇の背後にあるのは傲慢なものに対する怒りであろう。
完成された物語でとにかく結末まできれいに流れていく。個人的には演劇的と言っても良いくらいぴっちりハマっている。でもよく読むとフィッツジェラルドのメッセージが確実に含まれていて面白い。自分が気になったのは最後のところ、ギャツビーの友人(ギャツビーはある程度知己を得た人を親友と読んだが主人公だけが本当の親友だった。)である主人公が上流階級の身勝手さに戸惑いを覚えている最後にとどめを刺されて気がつくシーン。彼は生まれながらに跳んでいるものの傲慢さを「不注意さ」として表現、これを柔らかく表現しながらもその実強く、強く批判している。
持てるものは生まれついての傲慢さ故に、自分以外がどうなろうと知ったことがないのである。利用するだけ利用してそれをぽいっと捨ててしまう。主人公の(かつての)親友トムはギャツビーだけでなく、愛人だって身勝手に捨てているし、妻に対しても愛情はない。唯自分の持ち物に執着があるだけだ。持っているくせになくすことにはひどく敏感なのだ。
一方ギャツビーはどうか。彼は生まれたときから殆ど持っていなかった。どうしても欲しいもの、運命の女性にであい、そして苦難の中で危ない橋を渡り、自分の望むものを取りに行った。彼は金持ちになったが常に人に対して何かを惜しみなく与えてきた。真摯な男で自分のフィールドではない、上流階級のルールで戦ったのだった。彼ほどの富があれば、運命の人を手に入れるためにもっと違った方法だってあったのだろうと思う。

フィッツジェラルド自身豊かな出自ではない。彼は自分の力で本を書き、そして一躍時代の寵児になったのだ。彼の栄華は長続きせず、その上昇中下降中に様々な人々と会ったのだろう。
物書きだから多少は自ら進んでセレブリティーのカリカチュアを演じることもあったのではなかろうか。それは他人を喜ばせるホストとしての美徳であり、そして本当の自己を守るための縦だったのかもしれない。そんな中で様々な人にあったのだろう。その中には生まれついてのお金持ち、貧しいということの意味が本当にはわからない、考えたことすらない人々もいて、フィッツジェラルドはお近づきになりたいと思っていた彼らを目の当たりにし、時には嫉妬にとどまらない不快感や軽蔑を覚えたのかもしれぬ。
それはわかりやすい、読者の考える陳腐なストーリーに過ぎないが、しかしあくまでも絢爛であり物語としてきっちりしすぎていても、ギャツビーのたぎる情熱とそれ故の滑稽さは否定することができない。彼はいいやつなので、そんな彼を冷たくあしらう社交界は見た目ほどよいものではないのかもしれない。

「怒りの葡萄」とは全く異なる小説なのだが、上下の階級の差が描かれているところは共通している。一方「八月の光」は白人と黒人、横の階級の差だった。つくづくアメリカというのは徹底的に縦で横で階級闘争に明け暮れている。やはり面白い国だなと思う。
アメリカ人だけが闘争的だと言っているのではない。ただ彼らは日常的にそれを隠さず争ってきたし、今も闘っている。その根源は人ならば誰でも持っているものであり、だから彼らの物語が海を超えた日本に住む私に響くのだ。