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2019年3月17日日曜日

コーマック・マッカーシー/チャイルド・オブ・ゴッド

高校生の時にたまたま見た深夜ドラマ「Trick」にハマった。
緊張感がありながらコミカルな内容に毎回楽しく見てた。
鬼束ちひろさんのエンディングテーマが良くて、その名も「月光」といった。
「I'm God's Child」という歌詞が印象的で、この世はとてもサヴェージで、蔑むべきここを押し付けられて生きているといったものだったと思う。
つまり彼女の言う「God's Child」というのは無垢な存在で、それがこんなにひどい世界で苦しんでいるといったわけだ。

一方マッカーシーの描く神の子は無垢で無害な存在ではなかった。
恵まれない容姿(小さい体、斜視)と同じようにひねくれた精神がライフルを手にし、山中に潜み人を殺し、またその死体を犯した。
言うまでもなく神はその似姿で人間を作ったのだから、人間の性質は神から受け継いだものだ。
とすれば、このタイトルはなかなかアメリカでは挑戦的ではないだろうか。
この残酷な獣が神の似姿なのだから。

マッカーシーは概ね残酷な世界を書いてきた。
その中で動き回る主人公や登場人物たちたちはいずれもタフだ。
単純に善人とは言えない(ときには明確に悪いこともする)が、いずれも読者を引きつけるなにかがあった。
ところが今作の主人公レスター・バラードにはそれがない。
彼は矮小で卑屈で、気が弱い。

思春期を迎えた人がそうであるように、私もかつてシリアル・キラーに関する資料を読むのが好きだった。
平山夢明さんの本や、インターネットの個人サイトでよく時間を消費したものだ。
常人にはできない殺人を何回もこともなげにやってのけるのだから、彼らは超人かあるいは逆に欠落しているだろうと思い、そこに魅力を感じたのだった。
ところが斜め読みしていくに連れてシリアル・キラーたちが貧困や虐待など劣悪な環境に育ったり、生まれつき身体に障害があったり、それらがなかったとしても性的不能が殺人に結びついていたりと、非人間性を求めていた私からするとむしろ普通の人たちよりよっぽど人間臭くて、なんだか思ったのと違うなーと思ってしまったのだった。つまりそこに私の求める劇的で暗い色をしたなファンタジーはなかったのだ。
レスター・バラードはフィクションだがこういったシリアル・キラーたちの系譜に正しく連なるものであり、貧困と無知、身体的な弱点を抱えている。いわば格好良くない方のシリアル・キラーの物語。
人の革をなめして奇妙な日用品を作ったエド・ゲインのようにレスターも殺した女の頭皮で作った鬘をかぶり、女装して人を襲うようになった。彼の場合は殺す対象とレイプする対象が一致しない点が面白い。彼にとってはいわばコミュニケーションの手段として殺人があるのかもしれない。殺してからレイプするやり口もかれのコミュ障っぷりを表現している。

人がおかしくなるのはどんなときだろう。それは他人とかかわらなくなったときだと思う。レスター・バラードは天涯孤独の身である。彼はアメリカの深い山の中で己の狂気を密かに高めていった。現実世界から乖離していき、同じ言語を喋ってももはや彼の言うことを理解できる人はいないだろう。(そういった意味では発狂しているといえる。)
マッカーシーの主人公たちはどれもたしかに孤独な人間で、中にはアウトローと言ってもよい人間もいた。しかし彼らは強靭であり、己の欲求を社会の中で勝ち取り、そして満たすことができた。
レスターはそうではない。自分の欲求を社会の中で満たすことができず、山の中にこもったが、一人で生きていけないから野に下り、そして殺人という形でコミュニケーションをとろうとする。
彼がお祭りで大きな人形を取りそれに執着する描写は滑稽ではあるが、私にはとても物悲しく思えてしまった。

ヒルビリーという単語を初めて知ったのはRob Zombieの「Hellbilly Deluxe」(hillbillyのもじりでhellbilly)だったと思う。「田舎者」という意味かと思っていたが、実際にはアメリカには都市部と山の境界で暮らす貧困層を表現する言葉としての側面があるようだ。
レスターの犯罪はすべて彼の責任であるが、しかし彼の貧困は?彼はたしかにヒルビリーであった。
日本人にはわかりにくいかもしれないが、こういった社会構造をマッカーシーは描いているはずだ。
そうなると「神の子供」の意味が少し変わってくる。生まれながらのシリアル・キラーというよりは、遺伝子と生まれついた環境、つまりアメリカの社会的な問題の混血児としてのレスターである。彼はアメリカの暗い側面の象徴である。

獣じみた神の子から野蛮な世界に産み落とされた無垢な子、という見方の転換は難しい(レスタは幼い頃から凶暴な性質はみせていた)が、それでも彼が理解不能の生まれながらのモンスターとは異なることが、最後まで読めば理解できる。
凶暴だがとにかく悲しいやつだ。妙に共感してしまう。

久しぶりに鬼束ちひろさんの「月光」を聴くとやっぱりいい曲だった。

2018年9月23日日曜日

コーマック・マッカーシー/ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤

アメリカの作家による長編小説。
この「ブラッド・メリディアン」は作者初期の作品だが、日本では遅れて発表されたそうだ。あとがきにも書かれているが本書「チャイルド・オブ・ゴッド」という作品はその作品内容の過激さからやや敬遠されて射たようで、国境三部作の受けが良かったのでおそらく翻訳が決まったのだろう。そんなわけでこの度やっと文庫化し、購入した。
私は前述のような状況を知らなかったから少しくこの本の内容に驚いたが、とはいえマッカーシーはどの本でも形は違えで様々な残酷さを描いてきた。だから読み終わってから思い返しても彼の作品群でほの本だけが浮いているとは思わない。むしろ野蛮な世界で右往左往する人間たちという共通のテーマがこれほどわかりやすく書かれている作品もないのかもしれない。野蛮さというのは二つあって、一つは大自然の過酷さ。今作でも主人公たち一行は水のない砂漠を砂埃まみれになって旅をする。その過酷さったら現代人からしたら本当にない。もう一つの野蛮さが人の残酷さであって、これら人間というのはおよそ文明ができる前からそして、できた後ですら全く飽きずに殺し合っているのである。映画化もされた「血と暴力の国」ではそんな残酷さが一人の人間に結実して不気味な殺し屋として結晶化していたが、この本に出てくる人間たちというのはほとんどみんな残酷なのだ。主人公はメキシコが非公式に雇ったインディアン狩りのアメリカ人部隊に入隊。賞金がかけられたインディアンの頭皮を求めて、彼らを殺しまくる。好戦的なインディアンも殺しまくるし、異邦人に敵対しないインディアンも殺しまくる。メキシコ人も殺しまくるし、果てにはアメリカ人も殺しまくる。殺して奪って犯してしまう。女だろうが、老人だろうが、子供だろうが、乳児だろうが殺す殺す殺す。彼らは常に呑んだくれて無鉄砲である。明日死ぬかもしれないから金も使い切るし、別にどうなったって良いのだ。彼らは誰にも感謝しないが、今日1日の命に感謝し、そしてその幸運が長続きしないことを知っているので、とにかく好き放題やるのである。それによってほとんどは命を落とすのだが、そんなこと知ったことか。恐ろしいことにこの主人公が属するグラントン・ギャング団は実在したそうだ。主要な人物とエピソードは実際のものから取ってきているらしい。となるとこの本が描いているのはまさにアメリカの歴史で、そして血と暴力に彩られているのだ。
マッカーシーの描く作品は陰影が色濃く出ていてそこが好きだ。具体的には人間たちの興じる些細な残酷ごとに対比して、常にアメリカの自然が目をみはるほど美しい。死んだ鹿の目に世界が写るシーンがあって、私はそれが文学の一つの到達点ではと確信しているが、そんな崇高な美しさが必ずそっけない(これが重要だ、個人的には)筆致で描かれている。いわば天と地の対比であり、単に自然が崇高で人間が卑小というのではない。人間の不自然さが自然の産物であり、私たちはそこの中に含まれる。そして自然の圧倒的な無関心さ、無頓着さ。言葉にできない世界がそのまま文字に込められて物語として構築されている。ただただ畏怖するばかり。
この本で異彩を放っているのがギャング団の古株の一人ホールデン判事であり、荒くれ者の中で彼らの尊敬を集めているのに決して交わらず、そしてその独自の哲学で畏怖されているというキャラクター。主人公の行くてに現れ何かと問答を仕掛けてくる。踊りと殺しが上手い(子供をあっさり殺す)この男は端的に言って悪魔であり、人間の世に混乱をもたらすものであり、人間をたぶらかすものであり、人間は常にこれらと相対しないといけないものだ。前述の「血と暴力の国」のシュガーは悪魔のような男だったし死神であったが、人間とは交わらなかった。ところがホールデンは悪魔であり、悪魔は人間の魂が常に彼の関心ごとなのだ。地上の悪徳は全て悪魔のせいである、というのではない。人間の悪徳は人間のものである。そうすると悪魔だけが人間の本質を理解していて、それについて報せようと語りかけてくるのだろうか。人間は記憶喪失の悪魔なのだろうか、でも簡単に死ぬ人間に悪魔の強靭さはなく、そしてそうなると地上が残酷に溢れる悲劇になるのだ。なんて嫌な世界だろうか。こんな美しいのに。

2015年1月31日土曜日

コーマック・マッカーシー/平原の町

アメリカの作家コーマック・マッカーシーによる「すべての美しい馬」「越境」に続く国境三部作の最後の作品。

1940年代、19歳になったジョン・グレイディ・コールはメキシコとのテキサス州のメキシコとの国境近くにあるもうじき軍に接収されてしまうマック・マクカヴァン牧場で、ビリー・パーハムらとともにカウボーイとして働いていた。ある日カウボーイ仲間とともに訪れたメキシコの娼館でひとりの少女の娼婦に目を引かれたジョン・グレイディは、後日彼女を探すが店から姿を消していた。夜の町で奔走して彼女・マグレダーナの居所を突き止めて逢瀬を重ねるジョン・グレイディは彼女を身請けする事に決める。ビリーらは彼をいさめようとするが次第に彼の情熱に打ち負け、ジョン・グレイディの道ならぬ恋を応援する事にする。

今回は「馬」の主人公ジョン・グレイディ・コールの物語、脇にいるのが「越境」のビリーというファンには鉄壁の布陣はまさに三部作の最後にふさわしい。
「越境」はずーーんと重たい小説だったからまず今作の瑞々しさにはビックリ。ひたすら苦難の道を馬に乗って歩んだ哲学的な前作に比べると、失われ行く最後のカウボーイのフロンティアの荒々しくも美しい景色の中で、まだ若いジョン・グレイディの恋に焦点があたられている今作は読み口も軽やかですらすら行ける。

マッカーシーが何故今とはちょっと違った世界を書くのかというとそれは既に失われてしまった世界自体を書くのが目的な様な気もするのだが、個人的には荒々しい世界の本質が現代だと少し見えにくくなっているからではなかろうかと思ったりした。ごく簡単に言うと自然が多くて、視界が開けているのがちょっと昔。楽園かというと次第に文明に取って代わられる予兆が既に見えていて暗い雰囲気もちょっとある。だからこれから無くなってしまう自然と世界の本質みたいなのの哀切ってのがあるのでは。兎に角マッカーシーのこの三部作では親善の描写が美しい。文体の向こう側に見える景色の壮大さに目を見張るような描写があってそれがわたしに取ってはもの凄い魅力なのだ。しかし美しいだけでなくいかにその世界が残酷で血と骨(と豊無しと同じ暗い豊かな死)によって成立しているのかというのをあくまでも、直接的な言葉ではなくて生き生きとした動物の生き様を描写する事で描こうとしている。良いとか悪いとかではなくて、暖かくて(熱いくらいかも)そして残酷なのが世界なのだ、と言わんとしているように感じられる。
そんな世界で特異な存在が人間であって、おおよそ悲劇というのも人間がいるから起こるんですよ、というように悲劇を書くのがマッカーシーで、今作も娼館の経営者エドゥアルドという悪漢を登場させていて、こいつがジョン・グレイディの輝かんばかりの恋愛に暗い影を落とす事になる。このエドゥアルドというのはおよそビジネスマンらしくない不可解な執着があって(恋愛というのが不可解な執着なのだから、ジョン・グレイディと同じくマグダレーナに恋をしているとしたら仕方の無い事ではあるのだろうけれど。)、若くて前途のある若者2人の前に立ちはだかる訳である。カウボーイだろうが娼婦だろうがそんな事は関係なくて、悪意という奴がたとえ幻であっても(周りの人はジョン・グレイディに恋愛や結婚なんて幻だぞと忠告するのだ。)幸せというのを害してしまうのだ。
だからマッカーシーの小説には二重の残酷さみたいなのがあって、結果とても悲しい物語になるのかもしれない。因に「平原の町」の由来は聖書のソドムとゴモラのことだそうだ。

巻末に書評家の豊崎さんがキャラ萌え小説としても読める!と書いていて彼女は主人公ジョン・グレイディのかっこよさについて語っている。なるほど〜と思ったが、自分は圧倒的にビリーが良かった。(男性目線だとビリーがいいのかも。)なんせあの前作、長く思い旅路をビリーと一緒に旅をした様な気持ちになっているから応援せずにはいられない。16歳だったビリーも28歳になっていて、あんなに辛い思いをしたのに後輩思いの優しい男になっている。直情径行のジョン・グレイディのなかに生き別れ、亡くしてしまった弟ボイドを見ていて本当に肉親のように可愛がる。特にジョン・グレイディのために2回も娼館を訪れエドゥアルドと対峙するシーン(特に後半の娼館〜警察署の流れがヤバい。)は熱すぎて涙が込み上げてくるようだった。


相変わらずの文体だが、さすがにもう慣れたのか全然気にならず最後まですーっと読めた。黒原敏行さんの翻訳も簡素ながら読みやすくばっちり。
「馬」と「越境」はどっちから読んでも良いと思うけど、これを読む前には絶対その2作は読んでおかないと駄目だと思う。もしこの本が気になった人は長い旅になると思うが、前の2作のいずれかから是非どうぞ読んでみてください。とっても素晴らしい体験ができる事は保証します。
文庫になったのは全部読んだから次は「ブラッド・メリディアン」かな〜。

2014年12月21日日曜日

コーマック・マッカーシー/越境

アメリカの作家による青春小説。
原題は「The Crossig」、1994年に発表された。

1940年、メキシコとの国境に接するニューメキシコ州に暮らす16歳の少年ビリーは周辺の家畜を襲う牝狼を罠でとらえる事に成功する。父親からは殺すように言われていたが、ビリーは狼を故郷であるメキシコの山に返してやる事を決意。口を縛り縄を付けて自分は馬に乗り正式な許可無しにメキシコの国境を越える。この旅はビリーが考えていたものより遥かに困難で長い旅になるとは知らずに。

マッカーシーによる国境三部作とよばれるシリーズの第2作目。1作目は以前紹介した「すべての美しい馬」であって、これを読んだ衝撃たるや、ただ面白い本を読んだ、というものからはかなりかけ離れたものであった。その後ほどなくこの本を買ったのだが、本の長さ(本編だけで666ページある。)とさらに内容の濃さである。正直読むだけでこちらの体力を削られる様な重さがこの著者の本にはあると思うので、なんとなく後回しになってしまっていたが、いよいよ年の瀬という事で読まないわけにはいかぬ、と手に取ってみた次第である。だいたい読みきるのに2週間くらいかかった。通常は1冊1週間位で読むから倍かかった。長さもそうだが、平明な言葉で書かれているもののやはり句点で区切らない独特の文体は読みやすいとは言いがたい。三部作という事で前作との共通点も多いが、今作の方がより苦難に満ちた、そして哲学的な内容になっている。

一言で言えば若いビリー少年がひたすら辛酸を舐めさせられ、苦難の道のりを歩む話である。目的はあっても果たしてはっきりとしたゴールがあるかそもそも分からない旅路である。さらに言ってしまうと帰るべき家はビリーには無いのである。
世界が残酷なのか、それとも世界に意図は無くてそこに棲む人間が残酷なのか。この本はなぜこんなに残酷なのか。スプラッターめいた人体の欠損描写、サイコパスの無邪気さ、血のつながりを提示する様なシチュエーションと昨今の小説では残酷さの博覧会の様相を呈していると言っても過言ではないが、マッカーシーの小説はそれらとは一線を画す。まず人の死が個人的には重大なことではあっても取り巻く世界では必ずしもそうでないと、暗に書いている事。これはしそのものの残酷さとは逆説的により残酷だ。一つは暴力そのものを書くのが主眼とされていない事。彼は他の小説、例えば「ザ・ロード」や「血と暴力の国」でもそうだったが、意図された暴力はどこからくるのか?ということを書こうとしている。いわば暴力の根っこになる人の悪意、そして悪という存在自体を書こうとしている。その悪が平気で人のものを奪い取る田舎の警察署長の気取った仕草に、酒場で出会った酔漢のどろりとした目の奥に、ふと垣間見えるのだ。あるいは一見穏やかで優しそうな人の背後にもそれは垣間見えるのかもしれない。そんな残酷な世界一体誰か作って、誰が許しているのか?それがもう一つの問題。すなわち神についての。様々な登場人物が神を語り、ビリーはそれを聴き、また荒野を歩んでいく。作中でも書かれているように国境や名前など本当の自然には無いように、目的地というものすら本当は存在しないかのように放浪するビリー。

ページ数は多いものの、マッカーシーはやはり寡黙な作家であると再認識した。出来事を事細かく描くが、それが果たして何を意味しているのか、というのはわかりやすい言葉で明示する事は皆無である。私たちは圧倒的な筆致による(時に残酷な)絵を見せられ、しかしそれが何を意味するのかは、自分で考えなくてはいけない。マッカーシーの意図するところが理解できないのは私に理解力の欠如によるところが大きいとは自覚しているものの、しかしそんな印象がある。
メキシコの厳しい荒野、真っ赤に燃える夕焼けや肌を突き刺す様な寒さの中天を彩る星々の光、湯気を上げる馬の体、疾駆する狼、なんという美しさだろうか。酷薄な世界のそれらはしかしなんと美しく私たちの目に映る(文字だから頭に浮かぶ、が正しいかもだが)ことか。

ビリーは狼のそばにしゃがみ毛皮に触れた。冷たい、完璧にそろった歯並に触れた。火の方を向いているが全く光を撥ねかさない目の上へ親指で瞼をおろしてやり、地面に坐って血にまみれた狼の額に手を当て自分も目を閉じ、草が濡れていて、太陽が昇れば消えてしまうあのすべての生き物を生み出す豊かな母胎が鼻先の空気のなかにまだ漂っている、星明かりに照らされた夜の山を疾駆する狼を瞼の裏に描こうとした。
こんな文、ちょっと他には無いだろう。
現実をデフォルメ化して、物語がその小世界を内包しているかとすると、マッカーシーの描く小世界はあまりにデフォルメ化されていないように見える。それは本を閉じた時に一言で言い表せないとてつもなさと寄る辺の無さをほぼ小説の外の世界そのままに、訴えかけてくるようである。

「すべての美しい馬」もすごかったが、今作もすごかった。心が震えるというのはこういうのだろうという体験だった。正直読みやすい本ではないが、なるべく沢山の人に読んでいただきたいと思う。

2014年2月11日火曜日

コーマック・マッカーシー/すべての美しい馬

いまやアメリカ文学界の巨匠コーマック・マッカーシーの小説。
原題は「All Pretty Horses」で1992年に発表され全米図書賞、全米批評家協会賞を受賞。どうにもマッカーシーはこの本が一躍ベストセラーになって初めて評価されたような趣もあるそうな。いまでは売れっ子ですけどね。

このブログでも紹介しましたが、私はおなじ著者の「血と暴力の国」と「ザ・ロード」を読んで多いに感銘を受けたものです。自然にじゃあ次も何かということになり、私にマッカーシーをお勧めしてくれた知人のオススメも前述の2冊に本書を加えた3冊でしたし、加えてこの本は著者の国境三部作の始めの1冊ですから、まあこの本だろうということになったのですが、紹介を読むと青春小説と書いてあるので正直ちょっと躊躇したようなところもありました。というのも私はどちらかというとやたらと血が流れるような小説が好きな反面、恋愛小説や青春小説というジャンルに関してはからきしだからで。まあそれでもえいやと場仮に手に取ってみた訳です。

1949年テキサス。実家の農場が人手に渡ることなったジョン・グレイディ・コールは友人のロリンズと一緒に馬に乗ってメキシコに渡る。とある農場で馬の調教師となったコールは牧場主の娘と恋に落ちるが…

今作は主人公は16歳だからおじさんが主人公の前述の2作とはやはり趣がかなり異なる。
マッカーシーのことだから恋と馬の青春小説といってもかなり辛い風味があるのは予想できるのだが、やっぱりちょっと時間の進み方がゆっくりしていると思う。
おじさん2人はともに何かに追われていたり、追われるように移動し続けていたからそこら編もあって読み手側の意識もあると思うんだけど。ジョン・グレイディは要するに家出をしてきた訳だけど、父親は弱っているし母親は別に暮らして兄弟もいない。だから探してくれる人もいない訳で、ただただ馬と暮らしたいという素直な欲求に従って、そういう生活が送れるユートピアとしてメキシコの農場を目指して(命がけではあるんだけど)結構のんびり旅をしていく。
砂漠を馬に乗って進んでいき、夜は満点の星空の下で眠る。この描写の何とすばらしいことか。この本では兎に角マッカーシーの自然の描写が冴えに冴えまくる。決して饒舌な描写ではないし、むしろ句点を極端に省いた独特の書き方でもってちょっと所見では戸惑うくらいなのだが、そのぽつりぽつりと紡がれる言葉たちが頭の中で作り上げる景色のなんと美しいことか。特に最後の方でジョン・グレイディが牝鹿を仕留めるシーンはこの本の中でも個人的には白眉で、あまりのもの凄さに会社に向かうバスの中で震えが走ったほど。人生の美しさや過酷さとそれに翻弄される人間の姿を直接書くことなく、怜悧な自然の描写の中に封じ込めたような、と書けば少しはわかってもらえるだろうか。感動のあまり全くもって私はバスを飛び出し、道行く人々にこの本をぶん投げてやろうかと思った。まさしく読書の醍醐味ですね。

この妙に突き放したような語り口は時に物語そのものからも遊離するように、中盤以降ジョン・グレイディは並々ならぬ危険の渦中に放り込まれたそのときでも、その速度とリズムを変えることなくマイペースに描写し続けるものだから。恐ろしい出来事をすらっと書いてしまう訳だから。この語り口はそうだ。物事をそのまま書き出そうという著者の試みの現れなのかもしれない。
まるでこの人生を本当に一部だけ切り出して本にしたかのような、その重さと凄絶さは一体どうしたことか。言葉にできないのは人生が一言や二言では言い切れないからに他ならない。たった500ページ弱に人生が集約できる訳ではないから、やっぱり多分にデフォルメされているに違いないのに、そんなこと全く感じさせないコーマック・マッカーシーという作家はやはりただ者ではないと思った。

こんなブログを読んでいる場合ではない。早く本屋に行くのです。というくらいに良い本。

2013年11月10日日曜日

コーマック・マッカーシー/ザ・ロード

アメリカの作家が2006年に発表した小説。
この小説は2007年のピュリッツァー賞フィクション部門を受賞した。
ピュリッツァー賞というと何となく優れた報道に対して与えられる賞かと思っていたのだが、調べてみるとジャーナリズムだけでなく、文学や音楽に対しても部門がもうけられているようだ。ただ面白いのが、アメリカ人が書いたものとか、アメリカに題材をとったものが望ましいとされているようだ。
ずれてしまったが、今作は2009年に映画化もされているようだ。金曜日の新聞広告に掲載されていたのをなんとなく覚えているが、こちらは私は見ていない。
「血と暴力の国」で書いたが、マッカーシーは知人にお勧めされた。当時は「血と暴力の国」と「ザ・ロード」どちらから読んでみようか迷ったが、前者の映画を見ていたことと後者に関してはなんとなくすごく暗そうな話だからと思い、まずは前者から手に取ったのだった。「血と暴力の国」は文句なしに面白かった。よし!ではいよいよ!という形で本書に取り組んだ次第です。

地球上の文明が崩壊した世界。
男は息子とともに南を目指し旅を続ける。

ストーリーはこれだけである。これは誇張でも何でもなくて、これがこの本のストーリーなのだ。
終末を迎えた世界を書く小説は一つのジャンルして確立していて、いろんな物語が世に出ている。以前紹介した「沈んだ世界」もそうだし、椎名誠さんの一連のSF小説群も一旦崩壊しきった世界のその後を書いている。あと私が大好きな小説「エンジンサマー」なんかも所謂一周した後の世界を書いていると思われる。
ただ上のあげたのは共通して世界が崩壊した後破滅に向かうにしろ、安定に向かうにしろ一旦小康状態になった世界である。
この本では世界は徹底的に破壊し尽くされ、破滅に向かっている。動物と植物はその姿を完全に消し(なんと虫もでてこない)、人類はその数を大きく減らし、日々の食料を奪い合いつつ生き延びている。何故世界が滅んだのか、はっきりと原因は書かれていない。ただ主人公の男(登場人物は一人をのぞき固有名詞がでてこない。)は世界の終わりの始まりを目の当たりにし、その後世界の崩壊を生き延び、また一日でも長くその世界で息子とともに生き延びようとしている。
空は厚い雲に覆われ、灰が降る。食物も家畜も死に絶えたから、食料は崩壊前に生産された保存食のみで、いくら数が激減(私の体感では1割以下だと思うんだが、)したからといって人類全体を生きながらえさせるには無理がある(そもそももう作れないんだかららどだい供給が重要を上回ることはあり得ないはず)。廃墟を漁り食料を探す、もしくは人から奪うしかない。政府はとっくにないのだから、法がある訳がない。略奪暴行が横行し、自分以外はみんな敵である、そんな世界である。救いがない。ほかの小説に比べると徹底的に救いがない。これ以上良くなることがなく、食うにも困るから人類は過酷な椅子取りゲームに命を削ることになる。
終末ものの小説は数多くあるのに、なぜこのような極限世界はあまり書かれないのか(私がただ知らないだけという可能性も大いにあるということを書いておきます。)、それはこのような世界で生まれるドラマを一体誰が好んで読もうとするのか、という問題に起因するのかもしれない。多くの小説家がそう考えてあるいは彼らの終末にわずかに色を付けて発表したのかもしれない。
ただこの本「ザ・ロード」は終末のモノクロームにいっさい色を付けず発表された。それは灰色一色の世界で、読んでいる私たちは作者はどこに色を付けたのか、あるいは読み手である私たちはこの物語のどこに自分なりの色を付ければ良いのか、わからない。私は通勤途中に本を読むのだが、人がぎゅうぎゅう煮詰まった車両の中で半ば吐き気を覚えながら、一体なんで自分はこんな本を読み続けているのかと思ったものだ。
読むのは楽しい。ページをめくる手が止まらない。めくった先には楽しい話なんてないのだが。

この本にはいろんな要素が生々しく、しかしきちんと説明されていない状態でぶち込まれている。この絶望的な本は何がいいたいのか。物質があふれ変える世界で巧妙に隠匿されている人間の本性を露悪的かつ批判的に暴きだしたのだろうか。完全に破滅した世界でいまにも消え去ろうとしている人間の良心をあえて辛辣に書いて、現代に生きる私たちの冷えた心を溶かそうと試みたのか。崩壊した世界でぎりぎりの善(なんなのかはぜひ読んでくれ)を貫こうとする、その試み自体が状況にマッチしているのか。彼らが運んでいるという「火」とは何なのか。
私はこの本を読んで、なるほどこの本はこういうことがいいたいのです、と説明は出来ない。こんなに中身が詰まった本なのにどうしたことだ。私はこの本を飛んで文字通り打ちのめされた。私はただただ圧倒された。私はただ圧倒されるのが好きである。あんぐりと口を開けてただぼんやりと立ち尽くすしかないような、言葉にできない感じが大好きだ。
考えなければいけない問題や、様々な感情が渦巻いているけど、言葉にうまく整理できない感じである。小説や音楽でたまに私をこんな気分にさせるものがあって、私はそれらを愛してやまない。

この本は灰色の本で、最初のページをめくると灰色一色の世界が貴方を待ち受けている。
それは貴方を嫌な気分にさせるだろう。しかし私はぜひ貴方にこの本を読んでいただきたいと思っている。
最後にこの本はかなり装飾性を省いた平素な文で書かれている。(ただし句点が省かれ、会話にも鍵括弧がない独特の文体である。)しかし、比喩や言葉がすばらしく、ほとんど詩みたいになっている。これがあんまりすばらしく、最後に私が気に入ったフレーズを書いておく。このフレーズが気になる人はぜひ本をとっていただきたい。
「いよいよ死が自分たちの上に臨んだようだから誰にも見つからない場所を探さなければならないと彼は考え始めた。坐って少年の寝顔を見ていると嗚咽がこみ上げてくることがあったがそれは死が理由ではなかった。よくわからないがおそらく美しさとか善良さとかいったものが理由だった。」
「本当だよ。みんないなくなったらいるのは死だけになるが死の時代にも終わりがくる。死は道に出てもすることがないしなにをしようにも相手の人間がいない。そこで死はこういう。いったいみんなどこへ行ってしまったんだ?いずれそうなるんだよ。それのなにがいけないかね?」

2013年10月6日日曜日

コーマック・マッカーシー/血と暴力の国

アメリカのピュリッツァー賞もとった作家による暴力・犯罪小説。
真っ赤な夕暮れ、日がまさに沈もうとしているところに途方に暮れたように荒野をさまよう表紙が何とも恐ろしい。
ブコウスキーやシグマフォースシリーズをお勧めしてくれた知り合いにリコメンドしてもらい購入。感謝。
さて血と暴力の国とは恐ろしいタイトルだが、原題は「No Country for Old Men」で直訳すると「老人に国は無し」と大分印象が違う。
「ノーカントリー」だととうかな?はっとする人もいるかもしれない。
2007年にコーエン兄弟によって映画化されたあの作品の原作である。
このマッシュルームカットをした奇妙な殺し屋のことを覚えている人も多いかもしれない。
私もこの映画を見たことがあって、マッカーシーをお勧めされた時、これならばという訳で手に取ったのである。

ベトナム帰還兵で現在は溶接工として働くモスは、メキシコとの国境近くで狩りをしている最中麻薬取引中にもめた思わしき、多数の死体、麻薬、そして大金を発見する。モスは大金を持ち帰るが、ただ一人傷を負って生存していた男が気になり、夜中現場に戻る。そこでギャングに発見されたモスは逃亡を開始する。金を取り戻すべく組織の人間、そして独自に動く半ば伝説の殺し屋シュガーがモスの後を追う。
また現地の老保安官ベルも現場からモスの後を追跡するが…

こうやってあらすじを書くとノワール小説である。実際にノワール小説であることは間違いないのだが、この分野の他の作品と比べると結構異なる。
まずは全体を通じて観念的である。アクションもあるし、描写も手に汗握る。しかし全体として「金を持って逃げるぜ!悪者たちをバーンバーン!」という能天気な軽快さは皆無。舞台となるのが砂漠だが、荒涼として乾いている。想像してほしいのだが、灼熱の太陽の下カラカラに乾いた誇りっぽい砂漠の土の上を赤黒い血が流れていくのだ。格好いいとかじゃない。気持ち悪く、そして何より恐ろしくないだろうか。

また文体にも多くの特徴がある。
まず句点が極端に少なく、一つの文が長く連続している。読みやすいとはいえない。
また、会話のカギ括弧がなく、お互いの会話は改行によって区別される。また一連の会話の固まりに地の文があまり出てこない。
「暑いな〜」と太郎はいう。「うん」次郎がうなずく。
が
暑いな〜
うん
のようになる。やはり読みやすいとはいえない。
また、徹底的に人物の内面描写がない。一方で第三者的な描写「手を挙げた」とか「表情を曇らせた」の用な描写は豊富である。
これはちょっとすごいことである。辛いときでも辛いといわないで、辛いということを読者に分からせなければならないのだから。
しかしこの本はそういった描写は本当に神がかっている。このときは痛いだろうな、辛いだろうな、というのが手に取るように分かる。これは本当にすごい。

作品の主人公は金を持ち逃げしたモスである。彼は非常にタフだが、いわば普通の人である。誰だって大金を手にしたら自分の過去とこれからを危険性と天秤にかけるだろうと思う。(結果持ち逃げするかは大きな難しい問題だが。)
物語の中心にいるのは殺し屋シュガーである。私は当初こいつは死神のようなやつだと思った。ブラックホールみたいなやつで、兎に角人殺しに躊躇がなく、関わって生き延びる人の方がまれのようだ。所謂サイコパスなのだろうが、それにしたって異常である。
こいつはいわば他の登場人物とは違って、神のような視点で愚か者たちを無慈悲に殺していくのだと。この世はもう善人悪人に関わらず、罪人しかいないのではと。
しかしそう簡単にはいかなかった。シュガーは独自の理念を持っていて、殺人も含めてすべての行動はこの規範で持って決定されている。だからって殺される方は納得できる物ではないが、一応彼の中にはルールがある。また後半シュガーが直面する災難は作者が意図的にシュガーが人間であることを強調しているように思えた。
ちょっと話が移動して、原題は「老人に国は無し」というのは既に書いたが、この本での老人というのは保安官であるベルのことである。(映画ではトミー・リー・ジョーンズが演じた。)この本ではちょくちょく彼の独白が挿入されていて、そのエピソードというのは彼の祖父から連なるアメリカ人の歴史の一端である。ある1つのパターンと言い換えてもいいかも。彼は近年増加する犯罪に心底疲れている。犯罪者たちがおかしくなっているのではなく、国民全体がおかしくなっていて犯罪者はただその一つの象徴にすぎないような気がする。どちらにしてもモスの事件に直面した彼は悟る。自分はもはや時代遅れの保安官であって、このような犯罪には立ち向かえないと。ベルには兵士として戦った経験があり(彼の親戚も)アメリカに対して複雑な感情を持っている。ここで原題につながるのである。
そこで考えた。そうなるとサイコパスのシュガーは新しい人種(の犯罪者)なのだろうか。時代の変遷とともに人は変わる。年を取った人たちからするとこれらの変化は多分にグロテスクに感じられる。現時点から見た最も異形のシュガーという男が変化の最先端にたつ人間なのだろうか。
これも違うような気がする。それではちょっと簡単すぎる。
シュガーはなるほど人間的に書かれているが、他の登場人物とは違いすぎる。いわば特異点のような存在でこの物語で圧倒的な影響力を持っているにもかかわらず、私は彼が何者なのか最後まで分からなかった。(これは私の感想であって、実は作者の明確な意図が存在して単に私がそれに気づいていないということかもしれない。)

この本はおそろいしい小説である。
全くすっきりしない。ただ理不尽に(是非読んでくれ!)人の血が流されていく。爽快感が全くない。ただ抜群に面白いことは保証する。
作中シュガーとある商店の店主の会話がある。ここにシュガーの特異な原点が集約されていて、私はここが読んでいて一番恐ろしかった。もう本当にここだけでもいいから(よくないんだけど)読んでほしい。
映画を見た人は是非!読んでない人も是非!読んでほしい一冊です。