2019年3月17日日曜日

コルタサル/奪われた家/天国の扉 動物寓話集

幻想文学というとだいたい2種類に分かれるかもしれない。一つは稲垣足穂のような絢爛で初めて見る景色なのにどこかノスタルジックな匂いのするおとぎ話めいたもの。もう一つは読み終えるとなんとも名状しがたい不安を感じさせるもの。
コルタサルは後者に属する作家であり、この手のジャンルにありがちな現実世界に少しづつ不可解が侵入してくる、といった趣の作品を書く。
この時不可解というのは不安の象徴であってそういった意味では、構造体で戒めの機能(例えばものを大切にしろと説く付喪神や、神社では行儀よくしろというおとろしなど)として働く(側面がある)社会機能としての「妖怪」に似ている。つまり不安の擬人化としての不可解である。
この手の不可解は登場人物(と読み手)に不安を掻き立てるが、特に読み手にとっては登場人物の神経や感受性に対する疑いを惹起させる。わかりやすく言えば「こいつは発狂してい(=統合失調症をわずらってい)るのでは?というもう一つの不安である。
「ぼんやりとした不安」に怯えたのは芥川龍之介で、彼もいくつも不思議な物語を書いている。この手の小説で面白いか否か、というのはその扱う怪異がどのくらい現実的か、普遍的かというところにかかっているかもしれない。というのも見たことのない不可解ならエンターテインメントだが、これが見知った不可解なら現実的な恐怖であり、そしてまた自分ひとりが神経過敏ではないという共感を得ることができる安心でもある。それこそが醍醐味であると言っても良い。

概ねほんの前半に収録されている作品に関しては、上記のような主人公たちの神経を疑う構造になっており、読んでいるとこちらも不安になる。「偏頭痛」は違うのだが、「バス」あたりから”他者”(この時明確に主事のうに被害を与える加害者として、そして主人公の妄想の理解者として)が登場し始めて空気が変わってくる。いわば前半の狂気は個人的な物語である。
後半は少し趣が変わって例えば「キルケ」などはこれはもう現代風の怪談と言ってもよいのでは。言いしれぬ狂気(独りよがりではなく社会性を持った実在する狂気)を描いていて、それらをグロテスクなアイテムが象徴しているクライマックスはゾクゾクする。
「天国の扉」はまたちょっと違って、ある意味一番社会性がある物語だ。立場が全く違う2人、一人は地位の高く豊かな男(=主人公)でこいつは低層にある人間を観察することが趣味のいやらしい男。もうひとりはお金はないけど情熱的な男で彼は最近愛する妻をなくしてしまった。普通の友人関係ですらないのだが(主人公ではない方の男の優しさで実は保たれている関係か)、そんな2人が同じ幻影を見る、という話。ここでは格差は解消されるためのそれであり(だから主人公鼻持ちならないやつなのである)、そんなものがあっという間に崩れ去る瞬間を書いている。悲しくも爽快である。このときは不可解が共有されている。

共有されていても不可解の性質が減じられることはなくて、引き続き理解することができない。ある物語は終わりを告げ、ある物語は終わったあとも続いていく。やはり日常の物語なのだと思う。

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