2019年4月14日日曜日

山尾悠子/歪み真珠

タイトルの「歪み真珠」とはバロックという言葉の元ネタだそうだ。
バロックというのは「大仰で荘厳な」という漠然としたイメージだったが、どうもそんなわけでもなさそうだ。(私の持つイメージはどうもバロック建築に結びついている。ゴシックをバロックと混同しているような気もする。)

あとがきで歪み真珠とはバロックのことだよと書かれているわけで、本を読んでいるうちはどちらかというとダリの絵のようなシュールさがあるなと思っていた。
さすがに前衛的でどこをどうってもよくわからない、ということはないのだが、作者の各作品にはどれも不可解の要素が入っていて、そこから生まれる(登場人物たち、または読者の)戸惑いが完成されて美しい作品の背景、世界の水面をわずかに(大胆な破局があるわけではない。語り口のせいかもしれないが。)揺らすのだ。その波紋が多分山尾優子さんの小説の面白さだ。

幻想文学、幻想小説だと本当に想像力と言葉の魔術で見ただけではっと息を呑むくらい美しい珠のような物語を作り出す人もいるわけだけど、ここではそうではない。あえてちょっと傷がつけてある。
だから歪み真珠、というのはすごく納得感があるわけだ。読後に「あ、確かに」とひとり呟いてしまうくらい。

その歪みというのは何かとなると、一つには人間臭さがある。
たとえ高尚な世界でも、たとえば世界が延々と続く空洞であっても、そこに可燃物は希少だからという妙にケチ臭い人間心理がふっとでてくる。
魔法のようなどこか別世界。美しい別の法則が支配する異世界であっても、そこに住まう(多くは)人間たちには私達にあるような低俗な五感とハートがあって、なんだか一枚の絵のようにしっくりハマってこないところがある。(一枚の絵から着想を得てなんとも言えない違和感を物語にした「美神の通過」という話も収録されている。)
最終的に神話にならない物語というか。

完成されたあえて世界に泥をつける、いわば反体制の作家というのでは全然ない。
というのも幻想に対する”普通”や”日常”があれば、むしろ幻想の不可解性が顕になるからだ。
そういった意味では日常に怪異が侵食する「ホラー」というジャンルの手法に近いのか。
そういえば「ドロテアの首と銀の皿」は(これ私の頭がこの作品についていかずに単純な解釈をしていることは承知なのだが)怪談に読めなくもない。珍しく説明がつくのも含めてだ。

卑近な要素があるからと言って幻想の醍醐味が損なわれることはなく。
むしろ作品によってはかなり難解だったりするのだが(なかなか想像が追いつかなかったりする)、そんなときは同じく戸惑っている登場人物たちの気持ちで、おっかなびっくり作中を歩けばよいし。
そしてなにより完全に理解はできなくても、それに触れたり、楽しんだりすることができるのは芸術の良いところだ。

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