2020年11月15日日曜日

ナオミ・オルダーマン/パワー

今年面白かったゲームと言えば「Ghost of Tsushima」だろう。

開発元であるサッカーパンチが2009年に発表した「インファマス」というゲームは手から電撃を放つ男が主人公のオープンワールドゲームだった。

また、冨樫義博の漫画「ハンターハンター」でも登場人物の一人キルアは雷を操る。

ハリウッド映画の「アベンジャーズ」に登場するトールももとは雷神で、雷神というのは日本含めて様々な国の神話に登場する。

雷というのは、単に力の象徴にとどまらない。

超自然のちからなら、別に念動力でも炎を操る力でも良い。

雷というのは天から地に落ちるから、これは神性を帯びたもので、それを人が使うということはいわば由緒のある天上の存在から人間に下賜された形になる。

つまり雷を操るということは天意を得た、ということの暗示になる。


この本では雷を手に取るのは女性たちである。

作中でも言われているがこの力を得た状態というのは弾が装填された銃を持っているようなものだ。

世界中で銃で人命が失われているが、悪いのは銃だろうか?

いや、それを使う人間が悪いのだ。銃はどこまで行っても道具だからだ。

つまり、力というのはあればそこに秩序をもたらし、また暴力や死を呼ぶ。

たとえ天から授けられた力であっても使う人間によってその結果は様々でこの本が面白いのは、力を得た女性の変遷を素直に書いているところだ。

つまり女性の男性化である。

端的に言って暴力的になる。

思考が力に立脚しているから、力づくでものを得、力づくで異性をレイプするようになる。

オルダーマンはこの作品で女性らしさは生得のものではなく、環境が形作るものだと定義している。

つまり女性が力を得れば女性らしさが失われ、社会的に弱い場立場になった男性がその代わりに女性らしさを身に着けていく。

当然この世界では、おしとやかで異性に従う性質は男性らしさと呼ばれることになり、女性はこの気質と振る舞いを男性に求め、そうでなければ男性を虐待するだろう。

女性が力を得れば女性らしい世界、優しく生産的な世界が成立するのだろう、というのは幻想であると言っている。


男性は夜一人で歩けない、襲われるからだ。

もし夜道でレイプされ金を取られたとしよう。

警察に行くとそこは女性警官でいっぱいである。

襲われたと訴えると、あなたが犯人を誘惑したのでは?と言われるのだ。

そんなバカな、と男性のあなたは言うかもしれない。

しかし女性は今そういう立場にある。

この男女の逆転を回す力になっているのが女性に与えられた新しい力、雷である。

何を馬鹿な、腕力も武器もあるぞ、と思うかもしれないが、男性が女性に基本的に上から目線で接することができるのは潜在的に力が、つまり腕力が強いという点によっている。

いざとなれば殴っちまえ、というわけだ。

例えば相手が見るからに反社会的勢力のような外見をしていたり、筋骨隆々の男性なら女性には攻勢に出る男性もほぼ100%態度が変わるだろう。

男性が実際に力が強いことを根拠に女性に対して潜在的に自信を持っている。

これが作中では装填した銃に例えられているが、雷を得た女性は雷によってこの自信を獲得したわけだ。


せっかく世界に平らかにする力を天から得たのに、バランスが逆転しただけで結局力によって一報を制御搾取する構造は変わらない、という円環の物語でもある。

砂時計を逆にしたかのごとく、世界の構造は変わらない。

女性優位の世界はディストピアだとすれば、いま男性が女性を力で抑えている状況がすでにディストピアである。

大切なのは、男女いずれかが優れているわけでも劣っているわけでもないということだ。

女性の作者がこれを書くことは大変だったと思う。

なぜなら力の弱い女性が力を持ったら男性に対する積年の恨みを晴らしてスッキリ、という物語になるのが人情ってものだからだ。

天に与えられた力が人間界を変えられないなら人間の力で変えていくしかない、というメッセージを私はこの本から受け取った。


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