2019年11月23日土曜日

沼野充義編/ロシア怪談集

物語というのはそれが書かれた土地、時代を反映するものである。もちろん怪談だってそう。これを読めばその土地に暮らす人の生活が、そして何を恐れていたかがわかる。

私はロシアに関してはほとんど無知だ。
学生の頃に読んだドストエフスキー、最近ナボコフの「ロリータ」を読んだっけ?レムはロシアではない。そんなところだ。
この短編集に関しても他のアンソロジーでゴーゴリの「ヴィイ」を読んだことがあるのみ。

怪談にいろいろな形があるが古典に関して言えば出てくるのは、幽霊か化け物である。
これには当然その次代の死生観、さらには信仰と宗教が関わってくる。
世界は今より暗かった。科学の光は田舎に届かず、ランプの照らす僅かな空間の外に何がうごめいているか、わかったものではなかったのだ。

特定の現象、感情、出来事を擬人化する、もしくは言い訳をつけるための怪異だとすると、幽霊や化け物はなにかの比喩であり象徴になる。
つまり記号的な存在なので文字で表現されれば背景が読めるといった寸法だ。
つまり記号であるということは意思伝達のための表現である。

いろいろな土地でキリスト教がその他の宗教を異端として押しつぶして全てを平らかにしてしまったが、もともとどこにだって土着の進行というものはあって、この本を読むとロシアにもそれが息づいていたことがわかる。

ロシア正教というのは教義的にはどう異なるのかわからないが、まず悪魔が出てくる。ルシファーの忠実な部下たちである。
それから有名な話だがロシアには魔女がいる。
瞼が地面まで垂れた鉄の魔物がいる。
それから血を好み、吸うことで仲間を増やす典型的な吸血鬼がいる。
もちろん死にきれずに広大で豪奢な屋敷をさまよう幽霊もいる。
いわば、キリストの威光も海を隔てた向こう側ほど強くなかったようで、様々な怪異が混沌としている。

それから少し時代がさかのぼり、チェーホフ、ソログープあたりになると今度は恐怖の対象が自分たちの外側から内側に遷移してくる。
これはいわば日本でも流行った神経というやつで(本邦では有名な怪談「真景累ヶ淵」というのがある)、自分たちの感覚が狂ったゆえに自然に怪異を見て聞いてしまうというやつ。

ロシアはとにかく広い。そしていろいろな人種やルーツを持つ人がいるから当然摩擦があるわけで、その雑多な摩擦が様々物語を混ぜ込んでいる。
田舎の郷士がキリストを敬いつつも、魔女や怪異を(キリスト教の悪魔という文脈ではなくありのままを)恐れている、という構図からして非常に面白い。
多様性と共存であって、これは一見クリスマスも正月も同じように祝う日本的に見えるけど、実は結構日本の古典的な怪異というのは概ね方が決まっているから、これは間違いなくロシアの特色と言えるのではなかろうか。

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