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2020年11月23日月曜日

ドミトリー・グルホフスキー/MTRO 2033-メトロ2033-

後にゲーム化もしたロシアのSF。

地球規模の核戦争で世界が概ね滅んだあと、残留放射能とそれにより突然変異化した獰猛な生物から逃れるため、ロシアにわずかに残った人類はその地下鉄で暮らしている、という設定。


オプティミズムと純文学

あとがきで作者が述べているのだがこの小説は核戦争の危険性を声高に訴えるものではない。

核シェルターとしての昨日を実際荷物ロシアのメトロが地下に深く伸びていくように、この小説はアルチョムという一人の主人公がいかに困難な人生に立ち向かっていくか、というところに焦点を当て、それ故に面白くなっている。

主人公アルチョムは危険だが温かい故郷から離れ、メトロの狭いがそれでも彼らにとってそれが限界の世界、それからその境界の向こう側を遍歴する。

自分の足で動く場合もあれば流される場合もある。

若くて無知なアルチョムは概ねカモとしてまたは都合の良い敵(彼にははっきりした信念がないゆえに明確な敵にはなりえない)として騙され、殴られ、殺されかけながらもメトロの自分の地図の空白を埋めていく。


メトロが舞台なのはこれが人間世界の縮図であるから。

つまり暗く、狭く、危険で、そんな中でも人は互いに手を繋ぐでもなく、猜疑心に煽られ、宗教、イデオロギーを言い訳に他人と食べ物を取り合い、殺し合っている。

技術的に大きく退化した状況で、当てにならない伝聞に尾ひれがついてとんでもない噂が飛び交う。

頼りない懐中電灯の光で文字通り暗闇を切り開いていく。

ある意味では主人公アルチョムはこの暗闇が支配する世界で確固たるものを探しに行くわけなんだけど、この形式はロードノベルのそれがあるからSFであると同時に純文学的でもある。

アルチョムの精神的な成長が欠かれている。

この混沌とした世界での自分の役割を意識することだ。

いわば無理やり巻き込まれた旅路を自分の意志で貫徹しようとするその過程であり、傍観者からより良くするために行動する者への意識的な転換である。


ペシミズムとSF

純文学的な成長物語、そして派手などんぱちを経ての大団円という王道的な筋をたどること物語、しかしその背後にはそれらを覆す意地の悪いペシミズムがある。

当初作者がネットで発表していた版では主人公アルチョムは最後命を落としたそうだ。

これはアルチョムが感じた運命(=王道的な成長物語)の否定であるし、このペシミズムは物語の核心(結末)に迫っている。

それは人類という種の今いるステージと限界を指し示したもので、比較的ファンタジー色の強い世界観の中でここは明確にSFだなと感じた。

核戦争で地下に撤退せざるを得なかったのは人間の失敗だが、それを経て人類がどう変わったのか、というのがこの結末に結実している。

前半からの運命論的な物語をあっさり裏切るような趣があるが苦味があって良い。


2019年11月23日土曜日

沼野充義編/ロシア怪談集

物語というのはそれが書かれた土地、時代を反映するものである。もちろん怪談だってそう。これを読めばその土地に暮らす人の生活が、そして何を恐れていたかがわかる。

私はロシアに関してはほとんど無知だ。
学生の頃に読んだドストエフスキー、最近ナボコフの「ロリータ」を読んだっけ?レムはロシアではない。そんなところだ。
この短編集に関しても他のアンソロジーでゴーゴリの「ヴィイ」を読んだことがあるのみ。

怪談にいろいろな形があるが古典に関して言えば出てくるのは、幽霊か化け物である。
これには当然その次代の死生観、さらには信仰と宗教が関わってくる。
世界は今より暗かった。科学の光は田舎に届かず、ランプの照らす僅かな空間の外に何がうごめいているか、わかったものではなかったのだ。

特定の現象、感情、出来事を擬人化する、もしくは言い訳をつけるための怪異だとすると、幽霊や化け物はなにかの比喩であり象徴になる。
つまり記号的な存在なので文字で表現されれば背景が読めるといった寸法だ。
つまり記号であるということは意思伝達のための表現である。

いろいろな土地でキリスト教がその他の宗教を異端として押しつぶして全てを平らかにしてしまったが、もともとどこにだって土着の進行というものはあって、この本を読むとロシアにもそれが息づいていたことがわかる。

ロシア正教というのは教義的にはどう異なるのかわからないが、まず悪魔が出てくる。ルシファーの忠実な部下たちである。
それから有名な話だがロシアには魔女がいる。
瞼が地面まで垂れた鉄の魔物がいる。
それから血を好み、吸うことで仲間を増やす典型的な吸血鬼がいる。
もちろん死にきれずに広大で豪奢な屋敷をさまよう幽霊もいる。
いわば、キリストの威光も海を隔てた向こう側ほど強くなかったようで、様々な怪異が混沌としている。

それから少し時代がさかのぼり、チェーホフ、ソログープあたりになると今度は恐怖の対象が自分たちの外側から内側に遷移してくる。
これはいわば日本でも流行った神経というやつで(本邦では有名な怪談「真景累ヶ淵」というのがある)、自分たちの感覚が狂ったゆえに自然に怪異を見て聞いてしまうというやつ。

ロシアはとにかく広い。そしていろいろな人種やルーツを持つ人がいるから当然摩擦があるわけで、その雑多な摩擦が様々物語を混ぜ込んでいる。
田舎の郷士がキリストを敬いつつも、魔女や怪異を(キリスト教の悪魔という文脈ではなくありのままを)恐れている、という構図からして非常に面白い。
多様性と共存であって、これは一見クリスマスも正月も同じように祝う日本的に見えるけど、実は結構日本の古典的な怪異というのは概ね方が決まっているから、これは間違いなくロシアの特色と言えるのではなかろうか。

2018年11月11日日曜日

ウラジーミル・ナボコフ/ロリータ

ロシアに生まれその後亡命。色々な国(ヨーロッパやアメリカ)で暮らした作家の長編小説。原題は「LOLITA」で1955年に発表された。多感な思春期に読んでなかったので中年になってから読むことにした。
ロリータというとどうしてもロリコン(ロリータ・コンプレックス)を彷彿としてしまうのは私が低俗な人間だからだろうが、ロリータ・ファッションだってよく考えればこの小説がその名称の元ネタではないか。男性は若い女性に惹かれることは間違いない。(中年の私が首を少し回せばそんな意見はよく聞く。もしくは鏡を見れば良い。)その中には若さの限度がいきすぎていて明らかな児童に惹かれる男もいるだろうし、そんな性的嗜好を持つ人は昔からいただろう。ナボコフはそれらにわかりやすく名前をつけたのだ。つまりなんだかよくわからないけどある感情をその慧眼とよく動く指で掬い上げたのだ。センセーショナルな小説であることは間違い無いのだろうが、私がこの小説が一番話題性があると思うのはそこだ。この小説以降未収額くらいの年齢の女児にリビドーを燃やす男性(とその気質)という時には病気(ビョーキ)的に取り扱われる概念が地球上を覆ったかと思うとただただため息が出るでは無いか。

断っておくと現代において児童との露骨な性的な描写を期待してこの本を取る人は少なかろうが(かといって発表された当時に猥褻という理由で具体的な騒動がも違ったことが間違いだったとは思わない。)、読んでみるとやはり性的な描写はあるけど非常に洗練された形で端的に表現されているし、この本の面白さというのはそこ以外にある。というか大分長くて、ほとんど主人公ハンバート君の苦悩が綴られているんだった。中年男の自分の性的な思考を暴露する形を取っているから、はじめは面白くても500ページを超えれば流石に退屈である。そこでナボコフの手腕がわかる。面白いのはこのハンバートは表面的には(読めばわかるが後半に行くに従い体調を崩して行く原因をどこに求めるかということによる。個人的にはロリータとドロレスといる時から酒の量が増えていることに注目したい。)自分が普通から逸脱していることは認めているものの、その思い切った行動に対する後悔や悔恨はほとんどない。はっきりいって彼はドロレスに恋をしているのである。なるほどどうしたって彼女と寝たいというのはあるだろうが、彼女を所有したいし、彼女の気を引きたいし、最終的には彼女に自分に好きになってほしいのだ。年端もいかない少女に劣情を抱いたとして一番簡単なのは暴力に頼ることだが、ハンバートはその方針を採用していない。(ただしこの物語は彼の独白になっているから実のところはどうかわからない。実際ドロレスは作中で「レイプされ」たと言っていたはず。)どちらかというと彼女の行動を逐一眺め、男と話しているだけで嫉妬に狂うような有様。なるほど父親という偽の立場を使って高圧的に自分の意を飲ませようとしているが彼女もなかなか思い通りにはならずに、結果的にハンバートは右往左往しているような節がある。
彼女を失ったハンバートがいよいよ正気を失い一時はストーカーと化し、その後別の成熟した女性との暮らしを手に入れるが、愛しのロリータから金の無心をされればそんな生活を捨て去り彼女の元に駆けつけ、挙句彼女を奪った男性を射殺するのであった。確かにいつの間にか大人になった少女に振り回され、挙句に嫉妬に狂って恋敵を射殺した哀れな男、の物語である。最後のくだりは意図的に喜劇化されて書かれていることもあって、小説的というよりは体面を気にしたようなオチで物語全体をまるめようとしているような節がある。
なるほど病的な小説であり異常な話ではあるが、なんとなく普通の恋愛小説でもある。過去の挫折から似たような女性に惹かれ、彼女をものにするが、袖にされ、結果的には殺人に手を染めるというところも非常に男性的な恋愛小説の典型なのかもしれない。男性的というのが何かというとそれは”身勝手”というところに集約されるだろう。この小説の場合は特に。

2018年5月13日日曜日

ミハイル・ブルガーコフ/犬の心臓・運命の卵

ウクライナ出身の作家の短編集、といっても収録されているのは中編が2つ。
表紙は非常に可愛いのだが中身はかなり辛辣な社会風刺。当時のロシアはソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連として社会主義真っ只中であり、ブルガーコフはこのオーソリティを激しく批判する内容の小説を書いていたので当局に睨まれ、発表した小説・戯曲の多くが発禁処分になっていた。ここでいう小説というのは純粋な政権批判のパンフレットというよりは、風刺の意味合いが強く純粋な文学作品として単に共産主義に対するカウンターとしての意味合い以上に楽しめるものとなっている。面白いのは弾圧する側のスターリンもブルガーコフの作品が好きで、特例的に彼の戯曲の公演を許可しこっそり見に行っていたらしい。(あとがきより。)

「犬の心臓」も「運命の卵」もブルジョアで高等教育を受けており、変わり者ではあるが知的好奇心が旺盛で他人への思いやりのある研究者が主人公である。彼らが科学的な発展のために作り出した創造物が、思いとは裏腹に周囲や社会に対して害を及ぼすという筋書きになっている。面白いのは似たような2つの短編だが、途中で異なる方向へ分岐していく。「犬の心臓」は犬のコロに人間の臓器を移植し 、知識と言葉を獲得したコロ改めコロフがその本性を表して生みの親のフィリップの頭痛の種になっていく。こちらは奇妙な親子関係ともいうべき間柄で、フィリップの期待はことごとく裏切られ、次第にコロフの存在が許せなくなってくる。メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」のように驕った知性への警告とも解釈することができるかもしれない。自業自得というわけではないが、良かれと思ってやったことが異なる結果として自分に跳ね返ってきた。あとがきにあるようにこの母なるユーラシアの大地から生まれた共産主義が母親に害を及ぼす、と解釈することももちろんできる。
一方で「運命の卵」は風変わりな生物学者が生物を爆発的に増殖進化させる謎の光線を見つけることが物語の発端。これを当局に強制的に接収され、当局の担当者(マヌケ)が使い方を誤った結果、蛇などの爬虫類が巨大化し爆発的に増殖。故国を脅かすという話。「犬の心臓」より直接的に政権を批判している。つまりちゃんと使えば国のため人のためになる科学技術なのに無能な政権がそれを台無しにして逆に人に迷惑を与える代物にしてしまうというわけだ。技術の創造主である教授が暴徒とかした衆愚に八つ裂きにされて殺される、というクライマックスも単に政権だけを批判するというわけではなく、そこに安易に操られ追従する民に対する失望と嫌悪が見て取れる。独裁政権というのはそれだけで成立するのではなく、当たり前だがかならず抑圧される民草とセットで完成するものだ。殆どの人は不満はあるが仕方がないと下をむくところ(中には積極的に体制に取り入ろうとするものもいるだろう)、ブルガーコフは果敢に上を向いて過激な作品を作り、発表し続けたのだろう。

2015年8月2日日曜日

アルカジイ&ボリス・ストルガツキー/ストーカー

ロシアの兄弟作家によるSF小説。
72年から80年にかけて発表された連作小説をまとめたもの。
アンドレイ・タルコフスキー監督が映画化した事でも有名だが、個人的には映画は見た事無く、どちらかというとウクライナのオープンワールドFPSゲーム「S.T.A.L.K.E.R.」の元ネタという印象。(ゲームも実は自分でやった事は無いんだけど…)なので結構知っている人も多いかもしれない。

白鳥座α星から突然来訪した宇宙人は人類にその姿を見せずにあっという間に去っていた。しかし彼らが来訪した地球上の6カ所の地域はその姿を大きく変貌させ、彼らの痕跡は人類に取っては解明不可能な超自然現象として残り続けた。大きな危険をはらむそこはゾーンと呼ばれ地域の政府によって立ち入りが禁止されている。しかし危険を顧みずに未知の強大な力を持つ遺物を運び出す男たちは後を絶たなかった。彼らはストーカーと呼ばれる。

なるほどゲームの「S.T.A.L.K.E.R.」は多くの設定をこの小説から仕入れている事が分かる。ボルトを投げて危険を確かめるところや、手にした人間の願いを何でも叶えるという願望機(の噂)などの遺物など。でもこちらのゾーンには危険な生物はいないし、放射能も無い。超危険地帯という設定はあるものの、派手なアクションを期待するとちょっと趣が違う小説である。
原題を英訳すると「Roadside Picnic」となる。さらに和訳すると「路傍のピクニック」。大分印象が違うでしょ?訳者の深見弾さんが後書きにて端的にこの小説の内容をまとめてくれているのでここに引用。
キャンピングカーで旅をしている連中が、ある日一夜をどこかの道端でキャンプをして立ち去ったあと、そこに残していった塵芥は、野の虫たちにとってどんな意味があるのか、という問いかけの意味が込められています。
言うまでもなくある連中がエイリアンで虫たちが我が人類で、エイリアンのごみ=遺物を巡って右往左往する(この表現も深見さんのものによる。)という物語。
だから基本的にエイリアンが不在で非常に真面目な視点で人間を書いた小説、ということになる。超危険なものだからほっとけば言い訳なのだが、それが莫大な富をもたらすとなれば、そして未知のものを知りたいという欲求(どちらかというとストーカーは前者目当てだという割には実はこっちがメインでないかと思う。なぜなら作中豊かなストーカーは「禿鷲」と呼ばれる他のストーカーをこき使う嫌なヤツしか出てこないから)があって、ゾーンに見せられてしまう人間の性。人知を遥かに超えた未知の技術は確かに後世の人類の(作中の描写を見ると大分後になると思う。研究しているけどそのくらい何も分かってない。)役に立つのだろうが、少なくともゾーン周辺の人間は幸福になっているのだろうか。主人公レッドもまたゾーンに取り憑かれ、いつでも離れられる、もう離れると思っているのにそこから立ち去る事は出来ない。(彼の場合は普通に働くのはまっぴらだと考えるアウトローさもあるのだが。)愛する人との間に生まれた娘は人類の姿からはかけ離れている(ストーカーの子供はたいてい奇形を持って生まれる)。
いわばゾーンという奇特な存在によってその周辺の人類の営みのシステムが微妙に歪められてしまった世界を(ゾーンが無くても必ずしもシステムが上手く動いているかという塗装でもないのだろうが)そこに住む一人一人の人間の目と手でもって描いている訳で、だから少し違ったその世界が奇妙に物悲しいのである。取り憑かれたという表現が妙にしっくりくるのはやはりどこかしら目的意識が欠如しているように見えるだろうか。ストーカーは危険そのもに中毒になっているように見える。
さて意外に真面目な人間ドラマが展開されるのだが、じゃあ地味かと言われるとそんな事は無い訳で。ゾーンとその中身の設定・ギミックに関しては無類の魅力を誇っていると言っても過言ではない。だいたいSFというのはどれだけ面白い”非現実”が展開されるのかと言った点も個人的には大きな読む楽しみの一つ。そこをいくとこの小説は危険な液体?「魔女のジェリー」重力異常地帯「虹の禿」、家に帰ろうとする蘇った死者、まだ名前もない様々な危険たちと枚挙にいとまがない。後半レッドとゾーンに潜り込む緊張感はこの本のクライマックスだろう。
「S.T.A.L.K.E.R.」好きな人は是非どうぞ。違いをなぞっているうちにあっという間に引き込まれる事請け合いです。