2018年10月20日土曜日

ジャック・ケルアック/オン・ザ・ロード

アメリカの作家の長編小説。
1957年に出版された。原題は「On the Road」。
私はブレないポーザーなので学生の頃にはもちろんバロウズの「裸のランチ」を購入した。俺はお前らとは違う。一風変わって、そして”わかっ”ている人間なのだ。俺はビートニクなのかもしれない。というわけだ。ところが「裸のランチ」は当時の私にはさっぱりわからなかった。多分途中で挫折した。「俺今裸のランチ、読んでいるんだよね。って知らないか、ふふふ」とか友人に言わなくて本当によかったなあと思っている。
さてビートニクとは合わねえなと思っていたのだが、なんとなくケルアックを読んでみようという気になった。「路上」だろと思って探したら今は「オン・ザ・ロード」のようだ。ボブ・ディランなど色々な人物に多大な影響を与えたほんということは知っているが、あとはよくわからない。(ボブ・ディランすらちゃんと聞いたことがないのだ。)

物語というのは動くことで始まるといっても過言ではない。逆にいう動かないと何も始まらないのだ。「こんな場所には居られない」みたいな歌詞は馬鹿にするくせに、私は他動的な人間に対してすごく憧れがある。この本に出てくる人はみんな他動的だ。一つところにある期間居続けると居てもたっても居られなくなっちゃうのだ。私なんかは行き先がどこで、何に乗って、いつついて、何を食べるなんていちいち決めないとダメなのだが、ビート・ジェネレーションはそうではない。目的地があって(必ずしも目的自体がなくても良い)あとはそこに向かうのだ。みんなお金がないからヒッチハイクをする。車が捕まらないなら野宿をする。お金を送ってもらう。お金を借りる。お金ができたらバスに乗る。食べ物がなかったら商店から失敬する。目的地に着いたら大いに楽しむ。つまり行きずりの仲間たち、それから目的地の仲間たちと酒を飲んで騒ぐ。恋をする。そしてまた長い旅に出る。「路上」というのは最初ヒップホップ・カルチャーにおけるストリートのことかと思ったが、実はそうじゃない。ストリートが地元的な意味合いを含むとしたら、ロードというのは文字通り道なのだ。ビートたちはとにかく動き回るのだ。仲間はいても地元がない。これは面白いと思った。彼らはギャングのように争わない。なぜなら誰も奪うものなんて対して持っていないのだ。彼らはべつにリッチになりたいわけじゃない。ただただ楽しくやりたいのだ。この本がすぐにヒッピーたちの愛読書になったのもわかる。
ビート・ジェネレーション、あるいはビートニクといえば格好いいが、要するにボロボロの服をまとった若者たちだ。時には万引きなどの違法行為も働く。ホーボーといって鉄道にただ乗りしてアメリカ合衆国全土をさまよう移動労働者がいるけど、概ねホーボーより若くて無鉄砲で怠惰なのだがエネルギーがあるのが彼らなのだ。決して格好良いものではないと思う。(私は子供の時からなんとなくあんまりヒッピーが好きじゃないというのもある。)周りからしたら定職につかずにフラフラしている厄介な奴らである。(ガキが憧れるような悪さもない。)彼らは結果的には反抗しているのだが、言動はそうじゃない。というか他人や社会に対するわかりやすい怒りの表明みたいなのはこの本、全然書いてない。ただ路上の旅で起こる悲喜こもごもを書いている。軽薄さではない。けどこの軽さはなんだろう。エネルギッシュだが爽やかだ。
間違いなくこの衝動の中心にはディーンがいる。実際のモデルがいる(というかこの本はほとんどケルアックの自伝的な小説)彼をして今の私たちが例えば躁病だとか、発達障害だとか(これは本当素人の私が適当言っているだけです)言っても意味がない。彼は常にトラブル・メイカーだ。サル=ケルアックは彼を「天使」と言っている。天使とは何か。聖書は一旦置いて、天使とは無垢のことだ。何に対しても新鮮に驚き、感動し、体を動かし、声を張り上げ「いいね!いいね!」と叫ぶ。およそ現実社会とは乖離している彼ディーンこそが真のビートニクだった。何に対しても常に先入観なく接して、自分の感覚を楽しむ人間こそ。実際作中でもサルの友人の中でもディーンを厄介者と思っている人らが少なからずいる。サルはディーンほど振り切れないから、半分は路上に、そしてもう片足は社会においていてそこに葛藤がある。終盤のディーンとの別れのシーンはなんとも物悲しい。単純に大人対子供という構図じゃない。ディーンたちはそんなところ見てないんだよね。彼らはただ感動したいのだった。そのためには移動すること。動くことで物語が始まっていくのだ。

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