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2018年10月8日月曜日

Frail Hands/Frail Hands

カナダはノバスコシア州(調べてみるとだいぶ端っこの方で、ほぼ島に見える半島)のハリファックスのスクリーモバンドの1stアルバム。
2017年に自主リリースされた。
女性ボーカルの五人組のバンド。バンド名は「脆い手」という意味だろうか。なんだか意味深だ。(Dead Kennedysのアルバムのジャケットが思い返される。)

全10曲でランニングタイムは15分。
激しく速い音楽だが、ファストコアでもグラインドコアでもパワーバイオレンスでも無いのだ。エモなのだ。割としょっぱなからクライマックス感出してくるのでエクストリームな感想を即座に持ってしまいがちだ。それは彼らの作戦で、別にそれにハマるのも気持ちが良いから問題ないのだが、何回か繰り返して聞くと彼らがスクリー(エ)モバンドだということがわかる。女性ボーカルはほとんど叫んでいるが、叫んでいないパートも、ちょっとはある。そして曲が練られている。リフレインがこれでもかというくらい削られているので、圧倒的な瞬間風速的なイメージがあるが、例えば劇速でブラストをぶちかまして拍の頭で叫ぶ、というスタイルとは違う。これを持ってして歌っているというのはなかなか断言してしまって良いかわからないのだが、バックトラック、つまり演奏を聴けばちゃんと曲になっていることがわかる。だいぶ複雑だ。(前述の通り繰り返しがあまりないので掴みにくいというのもある。)大抵非常に短いが、この手のジャンルとは切っても切れないアンビエントなアルペジオ、滑るように展開していくメロディアスなトレモロリフ。静寂と轟音を同居させたダイナミズムがバンドアンサンブルの限界(つまり余計な音は使わない)に挑戦するかのように短い曲の中に詰め込まれている。だから単に「ブチギレフィーメール・ハードコア」といってしまうのは乱暴。
不安定に揺れる心をそのまま曲にしたというのはいかにも混沌としている。ただ不安定に直線を軸に軌道を描くのではなく、行き当たりばったり猪突猛進を繰り返していくような趣があって、それが不安定なのだ。それこそが不安定といっても良い。軌道が読みにくいのが、混沌としているし、聴いているものを混乱させる。Oathbreakerに似ているところがあるが、あそこまで混沌の元となる感情にしても非常に整然とわかりやすく並べるあちらと比べると、こちらの方が整合性がない。個人的に面白いのは整合性がない感じを大抵のバンドはヘヴィネスで表現しようとするが、このバンドの場合は割ときちんとエモで表現しているところ。結果的にわかりやすさは失われているわけだけど、そんなこと知ったことかという態度が非常に格好良いのだ。こういう比喩的な表現は良い。この時比喩というのは直接それとは言わないで、何かを表現することで、本でも音楽でもそれが醍醐味じゃないかと思っている節がある、自分には。
尋常じゃない感じは日本の激情に通じるところがあるけど、こちらはハイテンションの裏側はきちんとエモ(バイオレンス)の伝統踏んでいるのが差異だろうか。聴いてて保守的と全く感じさせないのはすごいところ。

2018年5月27日日曜日

killie/犯罪者が犯した罪の再審始まる

日本は東京のハードコアバンドの編集盤。
2018年に突如リリースされた。自主リリースという形だろうか。
killieは伝説的なバンドだ。ストイックなステージング、過激なステートメント、コンクリに包まれた音源、いくつかの事件(私は内容を知らない)。はたから見れば秘密主義のカルトの様相を呈し、尾ひれのついた噂が流布している始末。少なくとも現状音源が極めて手に入りにくいのは事実で、そういった状況の中では待望のリリースと言える。一応この編集盤も年単位で出る出るとは言われていたらしい。

音楽的なカテゴリーでは「激情」というジャンルで語られる事が多い。聞いてみるとなるほど(ポスト)ハードコアを土台にかなり複雑な音楽を鳴らしている。しかしそのサウンドには拡大解釈がない、またわかりやすい取っ掛かりがない。例えばメロディ性は希薄であり(たまに入るのが必殺なのが困る)、ブラックメタル要素もなし、分厚いサウンドだが重低音への偏重もなし(ギターの音に関しては元の素材が活かされているような音作り)、モッシュパートもなし。
何かの文脈にある時どうしても特徴的な要素を大げさにしてしまうのが世の常だが(なのでジャンルが盛り上がれば次第に音楽的にはわかりやすくなるはず。ただキャッチーになるという意味ではない。難解さが売りのジャンルならより難解になる。その場合はただ明確に難解になるのだ。)、killieに関してはその手の拡大解釈には与しない。オールドスクールであるというよりは「激情」がなにかというところに他とは違う本質を見ているのかも知れない。全体から一部を拾ってその特徴とするというよりは全体をすくい上げているイメージだろうか。
それなら彼らがその渾然とした音楽で何を表現しようとしているかというとこれは感情ということになるのではなかろうか。むろん古今東西のバンド、アーティストたちはすべて感情を表現しようとしているのだが、ことメタル/ハードコアというジャンルではそれがどんどん激化していくのが常ではないか。なんせ「激情」というのだ。つまり少年誌のバトル漫画のようにどんどん感情表現(=音)が強く強くなっていく。killieはなぜニュースのサンプリング音を頻繁に用いるかというと、あくまでも彼らは激化はしつつも基本的には生活について歌っているという意思表明では。ハードコアパンクという(たとえ形骸化した建前だとしても)メッセージ性が重要な意味を持つジャンルで、あくまでも一つの声を発信しているのだよ、という主張に私は思えた。もちろん単純に音的な趣味嗜好が大きく影響しているとも思うのだが、しかしDIYにこだわるバンドならやはり過剰装飾からは距離を置く姿勢というのも何となく分かる。先だって紹介したweeprayや活動休止中のisolateなど狂気に片足を突っ込みがちの日本の激情シーンに置いて、あくまでも正気で居ることに拘り続けているのがkillieなのかもしれない。前にも書いたがオフィシャルサイトの日記を読めばその溢れ出る生活感に、もはやこけおどしめいたバンド外発信の流言の幻想性がきれいに霞んでいくだろう。徹底したDIYや苛烈な言動、なによりわかりにくい歌詞もあって素顔が見えにくいのは確かだが、その実態は決して突飛それ自体を目的とする奇をてらうだけのバンドではないはずだ。

今まで音源に関しても手作業で数々の仕掛けを施してきたkillieだが、この音源は1,111円という低価格に最低限のジャケットという今までにないシンプルな形式。今までの自分たちに関する(他人が作った)神話を破壊するために広く自分たちの音楽を聞いてほしいという意図なのか、それともいろいろ主張ているものの結局は安価な大量生産品の「音」としてただ消費される売り物として自分たちを自己卑下しているのか、それとも全く別の理由なのかはわからない。ただこの作品にもやはり仕掛けがあって、この音源をただ手に取るだけでは未完成なのだ。つまりこのシンプルさは明確に意図されている。詳細は是非ご自身の手で確かめてみてください。

2018年5月5日土曜日

Daïtro/Laisser Vivre Les Squelettes

フランスはリヨンのスクリーモバンドの1stアルバム。オリジナルは2005年にリリースされた。ちなみに日本盤もリリースされたようだ。私が買ったのは2017年の再発盤(LP)で、こちらはEcho Canyonからリリースされた。なんかも再発されているようでまさに名盤の証といった風情である。タイトルの和訳をGoogle先生に聞くと「ライブスケルトンを放つ」という難解な答えを返してきた。かつての日本盤のタイトルは「白骨の命を乞う」だ。何となく分かるような。
Daïtroは2000年に結成されメンバーチェンジを経てかなりの数の音源をリリース。Heaven in Her Amrsの招聘で来日したこともある。残念ながら2012年に解散。私は後追いで(Article of Paradeというコンピに1曲入ってるのを持ってた)とにかくフレンチ激情といったらこのバンドで、国内のみならず国外への影響も大きいと聞いてあわててオーダーしたのだ。(初回のオーダーは早めに売り切れたので2回め。)

激情系という言葉は日本独自のカテゴライズで、海外で言えばエモかスクリーモ、エモバイオレンスというらしい。そうはいってもなんとなく激情というぼんやりとしてジャンルが自分の頭にはあって、envyを筆頭に日本のバンドがいくつか浮かんでくる。この間ライブを見たCity of Caterpillarもそうだけど、その日本の激情の頭で聞くと音楽的にはだいぶ隔たりがあって驚く。Daïtroに関してもやはり似た印象があって、静と動が同居したドラスティックな曲展開。叫びとつぶやきのコントラスト。ボーカルレスのパートにかける尺の長さなどはたしかに「激情」に通じるところがあるけど、それだけでは説明できない何かがある。City of Caterpillarほど削ぎ落とされて、それでいて筋肉質というわけではないが、Daïtroもやはりシンプルだ。
そんな中で目立つのが荒々しいけれども元の音の素材の良さが活かされたジャカジャカしたギターだろう。これが高音を奏でる1曲めのイントロでまずぐっと引き込まれるし、その後も確かに後続に影響を与えたであろう、爪弾かれるギターの余韻に潜む叙情や、なによりブラックメタルのトレモロを彷彿とさせる(音も密度もトレモロとは言えないと思う)溢れ出る感情をメロディに溶かしたようなリフ。その後発展していく激情の萌芽というか種子のようなものはあちこちに散らばっている。決して今の日本の激情を否定するわけではないのだけど、でもやっぱりそれだけでない気がしてしまう。一つには飾らなさ、があるのではないか。ちょっと語弊があるがスケールの小ささ(というより肥大化させないということ)といってもいい。手の届く範囲の出来事をそのまま歌にしているような感じがある。とくにポスト・ハードコアというのはときに宇宙に到達するような浮遊感を芸術性に昇華していく、壮大な運動力学があると思う。過剰なドラマ性というか。それはDaïtroでは一切ないよなと。ギターの音もそうだけどむしろ地に足がついている。この泥臭い感じ。
wikiにはDaïtroはDIYバンドだと書いてある。いうまでもなくDo It Yourself。ハードコアとくに激情というシーンだとこの言葉はよく聴く。(日本にはkillieがだいぶ厳格なやり方でその路線を走っていると思う。)このDIYというのは、バンドの音楽性を紐解く一つの鍵になっているような気もする。

音楽は進化していくものだし、技術の発展とともに音もアップデートされていくものだ。どんなマイナーなジャンルでも流行り廃りがある。私は昔の激情がリアルで今のがフェイクだとは全く思わないけど、City of Caterpillarのライブやこういった音源を体験するとちょっと今昔で差があるのが面白いなと感じたのだ。きっと今でもこういういわばオールドスクールな激情音を鳴らしているバンドもいるだろうから、現行のそれらも聞いてみないとなと、思った。