2018年9月9日日曜日

DJ Skull Vomit/Ritual Glow

アメリカ合衆国はオレゴン州ポートランドのブレイクコアアーティストの1stアルバム。
2014年にMurder Channel Recordsからリリースされた。
最近ブレイクコア聞いてないなあ、と思ってなんとなく購入した。一人ユニットでやっているのはTony Welterという人。調べてみるとこの人はかつてやはりブレイクコアのユニット、Eustachianをやっていたとのこと。昔ブレイクコアのレコードをほんの少し買っていた時期があって何枚か買っていたよ!とテンションが上がる。

そもそもユニット名からしてデスメタル臭を感じてしまうが、中身の方もデスメタル/グラインドコアとブレイクコアを無理やり融合させたような強引なものでキックが強烈ガバのマシーンビートに生音のギターを乗っけてさらにシャウトを載せている。デジタルグラインドというジャンルがあって本邦だとOzigiriさんが頭に浮かぶ。こちらはグラインドの要素はあるのだけれど、ビートは徹底的にガバ/ブレイクコアなのだ。音数も多いし、忙しないのだがブラストビートを用いないのでどんなに激しくメタリックでも最終的にメタルの一線を踏み越えない感じ。このバランス感覚がこのSkull Vomitの持ち味だろう。曲によってはメロディもあるしミニマルさもほぼなく、これはテクノと言えるのかという気もするのだけど、ビートそのものが音の種類(ブラストビートをはじめとするドラム的な手数の多さとはやはり別物だと思うのだ。)が豊富で面白いし、サンプリングされたボーカルをコラージュ的に用いるやり方などはやはり十分テクノ的だ。スプラッター的であるが、陰鬱ではない。露悪的だがこもったところがなく爽快である。というかガバキックが最高すぎて聞いているとどんどんIQが下がっていく感じがする。ガツンガツン耳と脳を叩き、きっとバカになっているのだろう。
楽曲の振り切った極端さ(エクストリーム具合)に頭がクラクラしてくるが、よくよく聞いてくるとやはり音の抜き方が非常に巧みだ。美味しいところを引っ張ってきてあとは大胆に音を省いている。メタリックなギターを引っ張ってきてももこもこするようなベースはなし。ドラムはインダストリアルな金属質なビートである。パワフルすぎる上物に目を奪われがちだが、かなりきっちりとしたテクノアルバムだと私は思う。アルバムタイトルにもなっている「Ritual Glow」を聞けばテクノ・クリエイターたるDJ Skull Vomitの本領の一端を知ることができるだろう。冴え渡るアシッドさにAphex Twinを感じることしばしである。要するに非常に饒舌なアーティストなのだ。だからデスメタルとの融合は彼のそうした才をうまい具合に伸ばすだろうと思うのだ。メタルもまた非常に饒舌だからだ。

全12曲のアルバムだが他アーティストのリミックス音源も含まれていて、日本のデジタルグラインドバンドDeathcount、言わずと知れたBong-ra、さらにはダブくインダストリアルなGore Techなどなど。名前だけでもわくわくしてくる魅惑のラインナップだ。
オシャレさなど皆無のオタク・ミュージックの極北といった趣だが、すきあののを全部ぶち込んであくまでもブレイクコア/ガバの流儀はぶらさない、なかなか気概のある音楽だと思う。聞いていると元気になる。(=バカになる。)

Transient + Bastard Noizet/Sources of Human Satisfaction

アメリカ合衆国はオレゴン州ポートランドのグラインドコアバンドのBastard Noiseとのコラボレーションアルバム。2018年にSix Weeks Recordsからリリースされた。
Transientは2008年に結成されたグラインドコアバンド。一方のBastard Noiseは言わずと知れたMan is the Bastardのメンバーによるノイズグループ。

このアルバムは二つのバンドのコラボレーションだが、TransientのグラインドコアをベースにBastard Noiseがノイズを追加しているという趣。主体はグラインドコアなのでそこまで実験的ではなくて聴きやすい感じ。この手のコラボだとパッと思いつくのはFull of HellとMerzbowのコラボレーション。こちらも主体はFull of Hellのパワーバイオレンスでそこにノイズを追加するというやり方だった。メタルやハードコアなどのいわゆるバンドサウンドに比べるとノイズは抽象的だ。それらの暴力性を倍加するビデオゲームでいうバフみたいな使われ方をするのもなんとなく納得できる。ノイズとは魔法だ。
グラインドコアといってもいろいろな種類がある。このTransientに関していえばデスメタリックな成分は少なめで、音の作り方や自然体で装飾性のあまりない楽曲はハードコアに近い。よく回転するドラムに低音は出ているものの程よく抜けが良いギターが乗っかる。ハードコア色は強めだが、パワーバイオレンスというには音は重たく、また速度の両極端をいったりきたりもしない。曲も短いながらも自暴自棄なファストコアというよりは、よくよく聞くときちんとリフが練られていてメリハリがついたグラインドコアだということがわかる。ミュートの使い方がメタリックなのだが、音の作り方が巧みであまり重々しく聞こえない。ここら辺は好みかもしれないが、私は好きだ。もともとハードコアからスタートしたしたグラインドコアというジャンルのピュアな血統に属するバンドと言えるかもしれない。
Bastard NoiseももともとメンバーがやっていたMan is the Bastardは(ハードコアのサブジャンルである)パワーバイオレンスの始祖と呼ばれる(パワーバイオレンスという言葉を生み出したのがEric Woodというこのバンドのメンバーだった)こともあって親和性は抜群。乾いて明快な楽曲に存在感のあるノイズが乗る。過激なバンド名だが単にハーシュノイズを撒き散らしているわけではなく、Transientの音が最大限生かされるように配慮している。ガチガチのハーシュノイズは冒頭において、いざグラインドコアが開始されれば音域が被らないように、高音域の不吉な運命を告げるトランペットかサイレンのようなノイズを鳴らしたり、フィードバックノイズのような焼けこげたようにチリチリするノイズを出したりして、メタルではなかなか表現し得ない不穏さを演出している。存在感のある音がぶつかった結果よくわからん、という変な抽象性に逃げるのではなく、ちゃんとコラボレーションとして化学反応することを考えている。もはや円熟の極みという感じだろうか。
ハードコアを感じるのは19分のリアルな質感であり、(デス)メタリックな重厚な物語感も良いが、あくまでも地に足についた反骨精神が清々しい。

2018年9月2日日曜日

Stimulant・Water Torture/Split

アメリカ合衆国はニューヨーク州ニューヨークのパワーバイオレンスバンドのスプリット音源。Stimulantはデビューアルバムをこのブログで感想を書いたこともある。ドラマーとギタリストの二人体制のパワーバイオレンスバンド。一方のWater Tortureはライブの動画を見ると三人組のバンドで、ドラム、ベース、ノイズとボーカルという編成。StimulantはWater Tortureのメンバーがより激しさを追求して結成したバンドらしく、そう考えるとWater Tortureの方はすでに解散しているのかもしれない。ドラムを務めるIan Wiedrick(NYのブルックリンでタトゥーの彫り師を営んでいるようだ。)は少なくとも両方のバンドに共通したメンバーである。Stimulantの方ではボーカリストがいないので彼がボーカルを兼任している。もう一人のメンバーもベースからギターに持ち替えた同じ人かな?と思うのだがどうだろう。(ライブ動画を見比べると似ているような気がする。)

全部で20曲が収録されているが、Stimulantは14曲、Water Tortureが6曲だからメンバーが同じといっても曲の作り方が違う別のバンドだということがはっきりしている。
順番は逆なんだけどWater Tortureはまずドラムの上にベースが乗っかるわけで音が当たり前に低い。いくらダウンチューニングしても音域というものが異なるわけで(ギターにベースの弦を張るのは無理だと思うけど、やっている人いそうだな…)ギター主体のバンドとはやはり音が異なる。当然曲の作りも異なっていて、こちらのバンドは曲が大分遅い。ほぼスラッジコアといっても遜色はない。印象としてはむしろ曲の速さを決めているのがベースで、持ったりとしたその長大さにドラムが彩りを加えているようなイメージ。音の数が少ない二人組編成なので、どちらの音も邪魔が入らず鮮明に聞こえる。ともすると単調になりがちなので、スラッジにしては曲の長さは短めにしており、またノイズの成分を入れることも色を足すという意味で納得感がある。
思い出したのは音楽性は異なるがBell Witchであちらもドラムとベースのデュオだ。多弦ベースを使っていてしかもドゥームメタルだから大分曲自体は違うのだが、ベースの使い方という意味では似ているとがある。それはやはり音の少なさであり遅さである。一発のアタックの影響、音の大きさがでかいためあまり乱発しないで、むしろそのでかい音波を途切れさせずに後ろに引き延ばすことが非常に格好良いのである。

続いてそのWater Tortureを音楽的にアップデートしたという現行のStimulant。当たり前のように速い。速いだけでなく短い曲の中で遅いパートもしっかり入れてくる。いわばより明暗のくっきりしたパワーバイオレンスらしいパワーバイオレンスであり、劇速パートを積極的に取り入れることでそのマニアックな音楽性の魅力をわかりやすく再提示している。ベースをギターに持ち替えたこともその音楽性の変遷に対応していて、流石にせわしなくそして音の数が多い。音自体も軽くなっていて、今度はとにかく速いドラムの上にギターリフが乗っかって巨大な地滑りのように肉薄してくる。ドラムがすごくて1曲のなかでまるで別の曲を演奏しているように奏法が変わる。これはやはり楽器の数自体が少ないことでそれぞれの動きがわかりやすいのだと思うし、ギターとドラムがうまく分離して動いているせいもあるのではないか。ガラスでできた家のように中身が丸見え。そんななかでブラストかけまくるドラムが非常に良い。パワーバイオレンスだ…。全く隠しようもないパワーバイオレンスである。ただ速く演奏しているというよりは音の密度が異常に濃密である。通常の曲をバカみたいな速さで演奏しているような趣があり、つまりどこか病的なのだ。何かに取り憑かれているか、何かから逃げようとしているかのようだ。どちらのメンバーもボーカルを取り、低音と高音のメリハリも効いている。なるほど速いところはより速く、遅いところはより遅くというコンセプトが前のバンドと比べるとよくわかる。

激烈な音楽を味わえることも魅力の一つだし、共通するメンバーの音楽的な変遷を1枚の音源で知ることができて、そういった意味でも非常に面白い音源だと思う。この手の音楽が好きな人は是非どうぞ。

Tirzah/devotion

イギリスはイングランド、サウスロンドンの女性シンガーの1stアルバム。
2018年にDomino Recordsからリリースされた。
詳細な来歴はわからないが2013年にはEPを発表している。
Twitterでたまたま好評を目にして聞いてみたらよかったので購入した。

完全にデジタルなトラックの上に割と自由な感じに歌が乗るというやり方で、全編ダウンテンポだがところどころポップである。ただしエレクトロポップというには歌が前面に出ているし、かというとR&Bというにはテンション低めでいかにも無愛想である。赤裸々なトラックの上に否が応でも実力が露わになる歌声を披露しているのだが、どこか体温が低くて真意がつかめないのが魅力。私が買ったCDには歌詞カードはついてない。どうも「Straight up Love Song」ということらしいのだが、情熱的に恋心を歌っているわけでもなさそう、かといって悪ぶっているわけでもない
ビートは控えめながらかなりはっきりしている。そこに乗っかる上物が模糊としているが、別に神秘性を演出しようというのでもない。(いったことないのだけれど)それこそロンドンの曇天のような憂鬱な感じ。またはバスのちょっと汚れた窓から差し込む午後の日光だろうか。
ふと思うのだけどこのローな感じ(最近あまり聞かない言葉だがオフビート?)は別に意識しているわけではないような気がする。このはっきりしない感じ。そこに乗る自由奔放なんだけど、ちょっと気の抜けた歌い方こそこのTirzahの日常なのだろう。もちろん気負ってないわけがないのだけど、どうしても日記のようなプライベート感/日常感がある。MVを見ると(予算の関係もあるだろうけど)スマートフォンで手で撮影した動画を繋ぎ合わせたような手作り感のあるもの。
肩の力が良い感じに抜けているんだけど、決してやる気がないわけじゃない。(よく考えるまでもなくこの音源を作るには彼女と周りの人たちの相当の時間と情熱がかかっているはずである。別にこの音源に限らないわけだけど。)これが彼女のリアルであって、このやや気だるい歌は彼女のまっすぐな恋心(前述のストレイトアップを訳すとこうなるかな?)だったり、迷いや葛藤が詰まっているはずなのだ。落ち着いた歌を聞いてみれば、いかにも堂々と彼女の本気具合がわかろうというもの。シンプルなトラックを足がかりにまっすぐに耳に飛び込んでくるではないか。それは全く情熱的だ。
よく聴いている。とても好き。

Birds in Row/We Already Lost the World

フランスはマイエンヌ県ラヴァルのハードコアバンドの2ndアルバム。
2018年にDeathwish Inc.からリリースされた。
2009年に結成された3人組のバンドで来日経験もある。前作リリース後にメンバーが一人変わっている。
バンド名は「列になって飛ぶ鳥」という意味かな?秋か冬を連想して切ない気持ちになる。フランスでもそうなのだろうか?

Birds in Rowを聴いて思ったのは、とにかく全編メロディアスだ。曲の中心には歌があると言って良いのではないか。シンプルなのはバンド編成にとどまらず、作り出す音に関しても非常にシンプルだ。セミホロウのギターから生み出される音は攻撃的だが重たくはない。尖っていてソリッドだが、アンサンブル全体ではヌケが良く、音と音の隙間が強烈に意識されている。先行公開されていた「15-38」はその極みと言える曲で生々しいギターと声が明るいメロディを紡ぎ上げていく前半部がとても美しい。
私などはどうしても耳を引くポップさに捕まってしまってこりゃあ非常にメロディアスな作品だな、なんて思ってしまったがアルバム全体を何巡かしてみるとその印象もだいぶ変わってくる。まず非常にラウドであることに気がつく。そして非常に攻撃的であることに気がつく。これはおかしい。なぜなら音自体(音の作り方と曲の構成)は前述の通りにどちらかというと意図的に軽くしたものだからだ。しかしこの全編を覆ったシリアスさはどうだろうか。このタイトさは非常に重たく聴く人の耳を通してのしかかってくる。いわゆる「重たい女(もしくは男)」のように情念が強い。これはそう緊張感だ。ある意味抑揚はあっても緩急はないんだよ、このアルバムは。全編ピリっピリに張り詰めている。だからこその34分なのだ。キリキリに張り詰めた弦のようにこれ以上やったら弾け飛んでしまう。テンションが高いというのはやたらに元気という意味ではない。エネルギーが横溢していてこれ以上はもう…という緊張感に他ならない。このタイトな感じはkillieの編集盤を聞いた時の思いと非常に似通っている。これに気がついた時これか!と個人的には納得感があった。別に他のバンドが弛緩しているわけでも遊びでやっているわけでもないが、しかしこの緊張感といったらない。音の軽さについてもこれで説明はつく。彼らは、Birds in Rowは生身で勝負する。最低限の楽器(とそれを動かす3人の体)と声で勝負をする。他には何も付け足さない。この厳格さがこの濃密さを生み出しているに違いないと思う。溜まりに溜まったエネルギーをある意味ではこういう形で放射するという所に非常に人間的な懊悩を感じるし、それが激情ハードコアなのかと思った。
「We Vs. Us」の歌パートの緊張感、そして何と言ってもアルバムのラスト「Fossils」の冒頭の重たさが開けた後に浮かび上がってくるメロディが素晴らしい。私はどうしても鬱屈して放心したような、諦念のある空虚感のある曲が好きなのだけど、このアルバムには懊悩はあっても諦めは一切ない(ように思う)。全編これ闘争だ。諦めと戦っているのだ。「俺たちはすでに世界を失っている」というアルバムのタイトルは非常の特徴的で危うい。その勝ち目のない戦いが、勝ち目のないゆえに非常に眩しいのだ。負けないでくれと思ってしまう。感動的だ。

これはすごいアルバムだ。一見してどうしてもポップさに惹かれてしまうが、その背後にとんでもないものが渦巻いている。非常にオススメ。

アントニオ・タブッキ/レクイエム

イタリアのサッカアントニオ・タブッキの長編小説。
タブッキはポルトガル(イタリアとは結構距離があるね)に魅せられた人らしい。特にポルトガルの詩人・作家であるフェルナンド・ペソアという人に。この人はどうも3つのオルターエゴを自ら作り出し、それらの変名で作風を使い分けていたとか。面白そうな人である。そんなポルトガル愛もあってこの本はなんともともとポルトガル語で書かれている。なかなかの愛情である。普通ではない。途端にいい感じがしてくるよね。

話の筋としてはこうだ。ある一人の男が待ち合わせまでの時間を潰すためにポルトガルの首都であるリスボンをうろつく。と、いろんな人が彼の前に現れて出会いや会話や出来事が生じたりする。これだけだ。もちろん変わったところもあって、それは彼が出会うのが使者だったりしてちょこちょこ非現実が紛れ込んでくる。とはいえお化けが殺しに来るわけでもない。主人公である「私」も全く動じず、まあ死人くらいでてくるだろ、くらいのテンションで全く生者と変わらないように彼らと付き合っていく。使者にしたって何か示唆するような、一見わからないようなしかし何かしらの象徴を含んでいるような偉そうなことを言うでもない。彼らも自分が死んでいることは納得した上でほとんど生前と同じように行動するのだ。会話もどこかのんびりしていて全体的にゆっくりしている。ただしあとがきでも指摘されているように「私」の運動量はかなりのもので、どう考えても時間の進み方がおかしい。また人とも出会いすぎである。普通そんなに見知らぬ人と会話するところまで進まない。とするとこの小説はより長いものを意図的に縮めて表現しているように思えて来る。その何かより長いものというのは私たちの毎日の延長線上、つまり人生だと捉えるのが通常だと思う。そうするとしかし、こんないい人生はない。自分の育った家を回ったり、今はもう離れ離れになった父親に会ったりする。何かしらの悶着があったらしい恋人にあったりする。彼らは自分をなじるわけでもなく、とにかく落ち着いており、会話は楽しく弾み、酒も料理も美味しい。「私」が話すのは知らない人か死んだ人である。いわば過ぎ去った過去と話しているわけで(崩壊しかけたかつて住んだ家を訪れるシーンは象徴的である)、過去は概ね全ての人に優しい。このリスボンには彼に危害を加える人は出てこない。死んだ恋人と何を話したのか?それは気になるが、別に将来生まれて来るはずの子供が出て来るわけでもない。責任から解放されて主人公は自由に動き回っている。これはおかしい。少し前まで郊外のアゼイタン(調べてみると確かにリスボンの近くであるが、湾を挟んでそれなりに距離がありそうだ。)にある友人の農場の庭にある木の下で本を読んでいたはずなのに。これは夢というのは簡単だが、要するにここリスボンはどこにも存在しないリスボンであって、異界である。何かの運命で主人公はこの異世界に迷い込むことが許された。そして過去の思い残りと対面するのである。日本なら死者の国に行ってその食べ物を食べたりしたら帰れなくなってしまうわけだけど、主人公はそんなのお構いなしに美味しそうな料理をばくばく食べる。空も曇るわけでもなく、7月末のリスボンは暑い。「私」は汗だくになってリスボンの街を行ったり来たり。なんだかおかしい世界である。こうなったらいいな、という世界でもある。夢でもある。

稲垣足穂/ヰタ・マキニカリス

日本の作家の短編小説集。
稲垣足穂は学生の頃に「一千一秒物語」を読んだことがあるきりだったが、最近読んだアンソロジーに収録されたいた一編がとても良かったので改めて読みたいと思って購入。
幻想文学というと線の細い、青白い顔をした、やたらとタバコをふかす文学青年が描きそうなものだが、稲垣足穂はなかなか強面で面白い。(調べると禿頭のおじさんがふんどし姿で原稿に向かっている姿とか出てくる。)なかなか波乱に満ちた人生を送ったようで、文壇との衝突なども経て全国を受け入れられなかった原稿とともに放浪したとか。
再評価の機運が高まって発表されたのがこの本。

「一千一秒物語」の内容はもうあまり覚えていないが、この本に収められている物語は目を見張るような異世界という作品はどちらかというと本数が少なく、あとは割と現実をベースに不思議や幻想が入り込むといった趣。砂漠の異国に幻想の夢を託した(つまりこちら側とは理が異なるあちら側として)冒頭の「黄漠奇聞」はまさに幻想文学作家としての面目を躍如するような作品だが、30を超える収録作の中では少数派である。月光を密かに盗もうとするたくらみを描いた「ココァ山の話」は山間の小村を舞台にした日本風の幻想小説といった趣でワクワクする。
「天体嗜好症」と銘打たれた作品も収録されているが、この稲垣足穂という人は強く空に魅せられた人らしく、単に空そのものが好きというよりは人類にまだ征服されていない(当然今とは違う時代であるので)領域、つまり無限の可能性と未知を秘めたあちら側の世界として憧れていたようである。なのでそんな空に果敢に挑んでいく飛行機というのは彼にとって特別な愛着があった。ここでいう飛行機というのは複葉機・単葉機といった今から見れば年代物のものを指し、また足穂の中では必ず墜落するという悲劇的な運命を持った機械であった。その情熱が打ち込まれた作品の数は非常に多い。半ば自伝めいた(どこまで真実なのかはわからないが)素人飛行家たちが手製の飛行機で空に挑まんとする「飛行機物語」などはほぼほぼ幻想味がなく、実直な青春物語という感じで当時の雰囲気が慮れる。
また同時に花火や星といった夜空を彩る輝きたちの出場頻度も高く、彼の空への思いの入れようがうかがえる。もう一つ挙げるとしたらキネオラマか。どうも明治から大正にかけた存在した見世物で、パノラマ写真に彩色された光をあてて景色を変化されるというものらしい。ありそうで決して現実には存在し得ない別世界のようなものだったのかもしれない。足穂の意識はそんな目の前にある現実をすかして上を見、その意識は高み高みに登っていったのだろう。面白いのは完全に幻想に浸りきって上からの視点で地上を見た作品は人もない。あくまでも見上げた空を下から眺めるのだ。天に憧れても、地の我らとは圧倒的絶対的に隔てられているのである。だから彼にとって飛行機とは失墜を運命付けられている。この叶うことのない片思いのような憧れがなんとも切ない味を彼の作品に追加している。

強く稲垣足穂という人物の内面に迫れる短篇集。今から見ると隔世の感があるが、ここではないどこかに強く魅せられる気持ちというのは時代を経ても変わることがない。現代でもきっとそんな思いを密かに抱いて市井に紛れている人がきっといるはずである。そういう方々はこの本を手に取られると良いかもしれない。