2018年9月2日日曜日

アントニオ・タブッキ/レクイエム

イタリアのサッカアントニオ・タブッキの長編小説。
タブッキはポルトガル(イタリアとは結構距離があるね)に魅せられた人らしい。特にポルトガルの詩人・作家であるフェルナンド・ペソアという人に。この人はどうも3つのオルターエゴを自ら作り出し、それらの変名で作風を使い分けていたとか。面白そうな人である。そんなポルトガル愛もあってこの本はなんともともとポルトガル語で書かれている。なかなかの愛情である。普通ではない。途端にいい感じがしてくるよね。

話の筋としてはこうだ。ある一人の男が待ち合わせまでの時間を潰すためにポルトガルの首都であるリスボンをうろつく。と、いろんな人が彼の前に現れて出会いや会話や出来事が生じたりする。これだけだ。もちろん変わったところもあって、それは彼が出会うのが使者だったりしてちょこちょこ非現実が紛れ込んでくる。とはいえお化けが殺しに来るわけでもない。主人公である「私」も全く動じず、まあ死人くらいでてくるだろ、くらいのテンションで全く生者と変わらないように彼らと付き合っていく。使者にしたって何か示唆するような、一見わからないようなしかし何かしらの象徴を含んでいるような偉そうなことを言うでもない。彼らも自分が死んでいることは納得した上でほとんど生前と同じように行動するのだ。会話もどこかのんびりしていて全体的にゆっくりしている。ただしあとがきでも指摘されているように「私」の運動量はかなりのもので、どう考えても時間の進み方がおかしい。また人とも出会いすぎである。普通そんなに見知らぬ人と会話するところまで進まない。とするとこの小説はより長いものを意図的に縮めて表現しているように思えて来る。その何かより長いものというのは私たちの毎日の延長線上、つまり人生だと捉えるのが通常だと思う。そうするとしかし、こんないい人生はない。自分の育った家を回ったり、今はもう離れ離れになった父親に会ったりする。何かしらの悶着があったらしい恋人にあったりする。彼らは自分をなじるわけでもなく、とにかく落ち着いており、会話は楽しく弾み、酒も料理も美味しい。「私」が話すのは知らない人か死んだ人である。いわば過ぎ去った過去と話しているわけで(崩壊しかけたかつて住んだ家を訪れるシーンは象徴的である)、過去は概ね全ての人に優しい。このリスボンには彼に危害を加える人は出てこない。死んだ恋人と何を話したのか?それは気になるが、別に将来生まれて来るはずの子供が出て来るわけでもない。責任から解放されて主人公は自由に動き回っている。これはおかしい。少し前まで郊外のアゼイタン(調べてみると確かにリスボンの近くであるが、湾を挟んでそれなりに距離がありそうだ。)にある友人の農場の庭にある木の下で本を読んでいたはずなのに。これは夢というのは簡単だが、要するにここリスボンはどこにも存在しないリスボンであって、異界である。何かの運命で主人公はこの異世界に迷い込むことが許された。そして過去の思い残りと対面するのである。日本なら死者の国に行ってその食べ物を食べたりしたら帰れなくなってしまうわけだけど、主人公はそんなのお構いなしに美味しそうな料理をばくばく食べる。空も曇るわけでもなく、7月末のリスボンは暑い。「私」は汗だくになってリスボンの街を行ったり来たり。なんだかおかしい世界である。こうなったらいいな、という世界でもある。夢でもある。

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