2019年5月5日日曜日

フォークナー/フォークナー短編集

同じアメリカの南部を描いた短編作品でも、1902年生まれのスタインベックの「朝めし」とフ1897年生まれのォークナーのこの短編集に収録された作品では雲泥の差がある。(二人共にノーベル文学賞を受賞している。)
前者が貧しいながらもアメリカの息を呑む光景の中での、たくましくも優しい人間の絆を美しく描いているのに対して、フォークナーの描く短編はどれも峻厳な景色の中で人間同士が憎み合い、そして時に殺し合う。

コップに半分入れられた水を見て何を思うかが千差万別のように、アメリカの土地と生活を見て、スタインベックとフォークナーは全く異なる感想を抱いたようだ。ただしふたりとも当時のアメリカという土地は生きるには大変厳しい土地だと考えているところは共通している。
苦境に立たされる貧しい者たちの尊厳を描いたスタインベック、一方フォークナーは前任の不在、とくに「サンクチュアリ」を読んで感じたのはフォークナーは悪人以上に平凡な人こそ諸悪の根源である衆愚であり、彼らを憎んでいたのではないかということだ。ここではキリスト教というのは愚か者の大義、つまりいわれのない差別、不正や暴力の言い訳にされている。フォークナーは教会に通っていたのだろうか???

この本には嫉妬に狂って男を殺す夫、執着心から婚約者を殺す女、身持ちの悪い黒人女、黒人にレイプされたと偽証する年増の女、偽証に基づき黒人をリンチして殺す白人男などなど、南部のいやらしさがこれでもかというくらいドロドロ描かれている。
ここでは教会、牧師、神父や聖書が役に立った試しがない。(それらしい描写があったかも怪しい。)

黒人を搾取し、差別し、そして殺す白人と、常に被害者として黒人、という構図でもない。もちろん状況が賢くなることを許さないのだが、学がない黒人の愚かさもフォークナーは克明に描いていく。
彼は一体どんな目でアメリカを見ていたのか???
彼の前では人は肌の色、性別、老若とわずすべてが愚かで救いがない。
死んだ目で米を見ていたのだろうか、いやおそらく違うだろう。自分も骨の髄までそんな南部人であることを否が応でも自覚させられ、その矛盾の中でこれらを生み出したのだ。

アメリカは呪われた土地だ、暴力と死で溢れているというのはいろいろな意味で間違いだ。(少なくともいくらかは間違いだ。)
スタインベックが描いたように美しい光景があったはず。フォークナーもそんな一瞬を必ず目にしたはず、香りを嗅いだはず、舌で味わったはずである。

個人的には言われているほどに「八月の光」のヒロインに陰に対する陽を感じられない。
しかしこの本の「バーベナの匂い」「納屋は燃える」には明らかに陰に対する陽が書かれている。一つは非暴力であり、一つ糾弾だ。
共通しているのは因習、つまり大多数(=衆愚)の法則に対する抵抗であること、自分の頭で考え、それに自分の手足で立ち向かうこと。
2つの小説の中でこのささやかな反乱を起こすのは二人の若者である。これがそのままフォークナーの希望になるだろう。

ザ・フォーリナー

昔12チャンネルでお昼から2時間吹き替え映画を毎日放送していたのを覚えている人は多分私と同じくらいの年齢の方だと思う。
その時分でも新しいとは言えない(おそらく権利費用が安いからだと思うけど)映画をただただ放送していて、小学生の自分は特に長期の休みのときにはよくそれを見ていた。ほぼ毎日かな?近所に友達がいなかったもんで。
で、よく放送されることもあって印象にあるのはジャッキー・チェン主演の映画である。「酔拳」「ポリス・ストーリー」「スパルタンX」などなど。当時の私は手に汗握ってみたし、笑ったものだ。
当時からだいぶ時間が経ち、上記の映画の記憶も全然曖昧なのだが(タイトルごとに区別つかないグチャッとした記憶になってる。)、自分のなかではジャッキー・チェンというのはスターである。いつもちょっとすきがあって、時に情けなかったりするが、正義のために戦う男。

そんなジャッキーが今までとは違う役柄に挑戦ってことで前々から気になっていた「ザ・フォーリナー」を見に行った。これは原作があるそうなのだがあえて読まないことに。

映画の中ではイギリス、ロンドンで中華料理店を営む初老の男になったクワンことジャッキー。テロでたった一人の家族である娘を失ったクワンは犯人探しに乗り出す。
という筋。早々に涙を流し悲しんだあとは、悲しみを封印し、娘を殺された怒りを通り越した無の表情で敵を襲う。とにかく行動が速い。そして呵責がない。手段を選ばず、目的に向かって一直線に愚直に行動する。無表情も相まってサイコパスにも見える。

良かったね。私は贔屓目があるから正当に判断できないかもしれないが、面白かった。
異質なジャッキーもきちんと描けている。彼の持つ非人間性は人間的な感情に基づいているからだ。スイッチのオンオフのようにキャラクターが切り替わるのも特殊部隊の経験が生んだモンスターと言う感じで良かった。
なにより途中で気がつくのだが、実は破滅的な攻めも抑制が効いている。それが彼に陰湿な印象を与え、それがなおさら怖い。
本当の敵以外は不殺を貫く、それも格好いい。はじめの爆破から「これは、イカれてますわ…」と思ってしまうんだけど、そうじゃない。行動からクワンの心理状態と覚悟が読み取れる。そうするとジャッキーの無の表情に対する印象も見ている間に変わってくる。こういうの楽しいよね。
ひょこひょこしたいかにもおじいちゃんぽいあるき方や、強引な割に礼儀正しい態度も示唆的だ。ここらへんの描写はなにより一辺倒でなく、そしてくどくなく簡潔で好きだ。
ジャッキー・アクション(私が今作った言葉)といえばそこら辺に落ちているものを戦闘に利用するってのがあると思うんだけど、今作でもそれは健在。
ジャッキーは明らかに強いのだけれど演技しているときは必死の形相で、今作は特に痛みの描写は結構すごい。ただすかっとするんじゃない、見てて「いてて」ってこっちが顔をしかめてしまう。

復讐劇なのだが、どちらかというとピアーズ・ブロスナン演じる副首相ヘネシーとの対決に焦点を絞っているのが良かった。
ヘネシーは権力、家族、仲間、そして土地に対する由緒を”持っ”ている男らしい男で、外国人で移住してきて慎ましく暮らし、そして今家族を失ったジャッキー演じるクワンとは正反対。
クワンがヘネシーを追い詰めていき、次第に彼の力=持っていたものが剥がれ落ちていく。そしていよいよ対決という構図になる。

敵側の人間はクワンのことを「チャイナ・マン」と呼ぶ。
フォーリナーである彼(ら)は表情が読みにくいし、何考えているかわからない、というところからこの物語が生まれたのかもしれない。
原作者Stephen Leatherはイギリスの方でこの物語の原題は「The Chinaman」。

私が子供の頃はまだIRAのニュースが結構耳に入ってきた。
最近はとんと聞かないような気がしていたのだが、もちろん血で血を洗う抗争があっという間に終わるわけもなく、いまでも続いているのかと思うと暗澹たる気持ちになった。
日常生活を害すテロリズム、破壊行動は嫌なものです。

私達世代、具体的には30〜40代くらいで子供の頃にジャッキー・チェンの映画を見て興奮した方は是非どうぞ。
ちなみにエンディングに流れる主題歌はジャッキー・チェン自らマイクを取って歌ってる。これはホント最高。

2019年4月30日火曜日

DEATHRO TOUR2019 THIRTY-ONE≠ZERO. 『STARDUST MELODY』 RELEASE BASH 1-MAN 2DAYS@下北沢Shlter

私はお昼のライブが結構好きだ。
なんとなく気軽な気持ちで行ける。
というわけでDEATHROのライブへ。
ついこの間まで「デスロー」と読んでしまう(正しくは「デスロ」)ようなにわかである。音源は一個も持ってない。
雨が降ったので自転車NG。
GW時間なのかバスが全然来なくてヤキモキしたが少し押したのでなんとかスタートには間に合った。

DEATHROはもともとAngel O.D.、Cosmic Neuroseというハードコアバンドで活動していたが、2016年にソロとしてキャリアを開始しているそうだ。
お客さんはかなり入っていて、私は前情報がないのでどんな音楽だろうかと思いドキドキしていた。
いよいよライブスタート。

ドラム、ベース、ギターのバックバンドはラフな格好だが、DEATHROさんはバッチリメイクに、上下革で決めてくる。
曲が始まると結構びっくりする。すごくポップだからだ。
早くもなく遅くもないビートで、キラキラしているがわかりやすい(コード感のある)バックに、クリーンのボーカルが乗る。
ハードコア、という感じは微塵もなくAメロ、Bメロ、サビ×2、ギターソロ、(Bメロ、)サビという曲展開。
とにかくメロディアス。
おお、これはポップだ。洗練されている。そして無駄がない。
決して洗練はされていない。しかし垢抜けないのではない、懐かしいのだ。

これは楽曲やPV、見た目など、今の流行とは違う、特定の年代の音楽を意識されているから。具体的には90年台のJ-ROCKということだ。
インタビューを読むと、氷室京介さんやBOØWYやヴィジュアル系バンドの名前が出てくる、なるほど。
個人的にはDEATHROはヴィジュアル系の影響はありつつも、マニアックかつ独特の耽美さというよりは、もっと骨太なロックぽさが強め。
歌が強いんだけど、演奏はただなっているだけで耳に残らない歌謡曲ではない。
面白いなと思ったのはギターで、イントロやギターソロの入りにその曲のサビのラインをほぼそのまま、やや崩して入れている。個人的にはこのやり方が「あ、あの頃!」ってなった。音自体もクリーンに空間系を噛ませてブーストさせて太い、あの感じ。
今やると言葉は悪いんだけどちょっとダサくなってしまう。これはそのものがダサいんじゃなくて今の流行と断絶があるからに過ぎない。
だから変に手法だけ取ればダサいんだけど、DEATHROは全体的に90年台を志向しているから全体的にはすごくしっくりしている。部分的にとってきてリバイバルですよというのじゃない、根本から持ってきて(リスペクトがあるからできることだと思う。)今2019年に新しい音楽を作っている。
ギターのリフはキラキラしていて、反面裏のベースがかなりしっかりしていてリフが格好いい。
ちなみに終演後に気がついたのだが、耳に痛くはまったくないけど結構音は大きかった。

DEATHROはとにかく客を煽っていく。
盛り上げ方がうまくて無理やり乗せるんでない。
「もっと行けるよね」と煽ってくる。決して大きいライブハウスでなくても、すごく大きい会場のようなスケールの大きい煽り方。
観客はDEATHROに引っ張り上げられてどんどんテンションが上っていくような感じだった。
初披露の曲も「シンガロングしてよな」といって笑いを誘うが、実際めちゃくちゃポップなので本当に初回で歌える。すごい。(新曲の「プラスティック(もしくはラスティック)エモーション」という曲はすごく良かった。)

アンコールは丸山さんという女性のピアニストを迎えてのピアノアレンジを挟んで、ラスト2曲で締め。
楽しかった。


情報量が多くてあれこれ考えちゃう。
まずDEATHROさんは時代性を持ったアイドルだなと思った。
時代性というのは大体わかってもらえると思う。90年台のJ-ROCKだ。
でもじゃあ具体的には?ボウイや氷室京介の名前を上げることはできるだろう。でもそれだけじゃないよね。
そう、こういうなにかによく似ている感じ。いざ具体的にその似ている大本を上げるのは実は結構難しい。
なぜかというと「あの頃」は具体的なバンド(やその他なんでもいい)を含めた全体的な雰囲気であることが多いからだ。結構抽象的なんだ。きっとひとりひとり別々の「あの頃」があるはずだ。
みんなの頭、胸のうちにある「あの時(代)」を見事に体現している。
つまりDEATHROは抽象性を汲み取って具体的にこの世界に顕れている。(一つの現象といえますね。)
みんなの思いを具体的にして顕現している、これは偶像、つまりアイドルだなと思ったわけ。

ところがDEATHRO演じているようで演じていない。
スケールの大きいMCも上から目線では全然ないし。
地元県央の日常を歌にしているとのことで、歌詞は地に足ついて現実的だ。(個人的に新曲のもう一つ、歌詞が結構儚かったような気がする。「全部風になって消える」的な。)
こういう部分は現実に立って主張するハードコア由来だろうか。

ライブの雰囲気がとても良い。というのもお客さんが楽しそう。顔見知りも多いのだろう、終演後はみんな口々にライブの感想を言い合ったりしている。
元ハードコアの人ということで、サーフする人もいたし、アンコール最後はフロア前方の密度は相当。でも危険な感じはないし、女性も多かった。
みんな笑顔だ。わかる、初見の私も楽しかったもの。

DEATHROさんが「新しい時代は差別とかがなくなるといい」と言っていてたしかにそうだと思う。
ただ4月30日が5月1日になった途端に世界が変わるわけじゃないから、自分たちが良くしていかないとな、と思いつつ帰宅。

2019年4月21日日曜日

シャーウッド・アンダーソン/ワインズバーグ、オハイオ

いびつな人たちの書。
なるほど奇抜な人、奇矯な人、変人たちが出てくる連作小説だが、この本を読めば彼ら奇態な人たちが、時代と国を隔たった私(たち)と以外にも多くの共通点を持っていることに気がつくだろう。
実にいろいろな人達が出てくる。
子供、大人、老人。男、女。金持ち、貧乏人。既婚者、未婚者。親と子。夫婦。
そしてそのいずれの人間もどこかしらに孤独を抱えている。
これにも種類があり、友人や恋人がいない孤独、それから人がいる故に強調される孤独。

ワインズバーグという架空の町。町というのは人の集まるところ。人と集まろうとする試みが街と言ってもよい。ワインズバーグは小さい町だが、それゆえに都会にはない濃密なコミュニケーションがある。顔見知りも多い。
しかしそんな町であっても各人は程度は違えど孤独であり、そして自分の居場所はここではないという違和感を抱えて生きている。

人混みを嫌い深山の奥に隠遁する人嫌いの孤独ではない。
むしろ近くに人がいるからこそ感じる自分の孤独である。
周りの人たちは楽しそうにしているが自分には友達や恋人、語り合う人がいない。
もしくはようやくそういう人達に出会ったと思ったけど、心が通じ合えず断絶してしまった。

人の中にいる孤独のほうが、一人ぼっちの孤独よりなお悪い。
独りよがりなら希望があるが、その希望が打ち砕かれたのが人の中にいる孤独だからだ。
つまり失敗した希望として孤独であり、その挫折の記憶が脳に刻印され、今でもそれに苛まされている。
具体的には過去の出来事により現在の行動が捻じ曲げられている。
トラウマと言う言葉を持ち出すのは簡単だが、実際にその言葉を使わず力学を説明している。
帰らぬ恋人を待つ女、同性愛者としてリンチされそうになり逃げてきた男、結婚に失敗し最愛の息子ともすれ違う母親、肉欲に悩む牧師。
劇的な響きを持つトラウマと言う言葉の一歩手前、しかし彼らの架空の人生を見れば確実に過去の様々な蹉跌の実際的な力の持ちようを伺うことができる。
人間が学習する生き物なら、間違いなく過去の経験が人間を構成しているのである。

この本での失敗はほとんど他人とうまく関係性を築けないところに端を発している。というかそれ自体が問題か。
そうなると当然多くの人が住みながらどれも噛み合っていないとすれば、町というのが空虚であり、それ自体が皮肉の象徴に落ちてしまいそうだが、本書ではそうではない。
人々の虚しい他人とわかり合おうとする、という試みは常に継続中である。
すれ違ったり、言い争ったり、喧嘩をしたり、憎み合ったりしている。
そのエネルギーが、田舎の景観とあって妙に愛しく感じられるのもまた事実で。
いわば町の喧騒の招待を書いているのがこの物語といっても良いかもしれない。
その背後にあるのは悲しみだ。
でもそれでも人はこうやって儚い試みを続けていくのだ、生きていく限り。

この本には本当に幸せな人は一人も出てこない。
人は誰しも孤独だと作者が言いたかったのか、それとも冒頭に掲げられた「いびつな者たちの書」という言葉の通り、あえてそういう人たちに焦点を絞ったのか。
自分は後者だと思う。どんなときでも楽しめる人がいる一方、必ずしもどんなときでも楽しめない人達がいるはずだ。
そういう人たちはこの本を読んで共感するところがきっと多いだろうと思う。
特大の不幸はないかもしれないが、それ故いびつな者たちを見てその中に確かに自分の一部を見出すことができるだろう。
そういった意味では優しい本である。

2019年4月14日日曜日

山尾悠子/歪み真珠

タイトルの「歪み真珠」とはバロックという言葉の元ネタだそうだ。
バロックというのは「大仰で荘厳な」という漠然としたイメージだったが、どうもそんなわけでもなさそうだ。(私の持つイメージはどうもバロック建築に結びついている。ゴシックをバロックと混同しているような気もする。)

あとがきで歪み真珠とはバロックのことだよと書かれているわけで、本を読んでいるうちはどちらかというとダリの絵のようなシュールさがあるなと思っていた。
さすがに前衛的でどこをどうってもよくわからない、ということはないのだが、作者の各作品にはどれも不可解の要素が入っていて、そこから生まれる(登場人物たち、または読者の)戸惑いが完成されて美しい作品の背景、世界の水面をわずかに(大胆な破局があるわけではない。語り口のせいかもしれないが。)揺らすのだ。その波紋が多分山尾優子さんの小説の面白さだ。

幻想文学、幻想小説だと本当に想像力と言葉の魔術で見ただけではっと息を呑むくらい美しい珠のような物語を作り出す人もいるわけだけど、ここではそうではない。あえてちょっと傷がつけてある。
だから歪み真珠、というのはすごく納得感があるわけだ。読後に「あ、確かに」とひとり呟いてしまうくらい。

その歪みというのは何かとなると、一つには人間臭さがある。
たとえ高尚な世界でも、たとえば世界が延々と続く空洞であっても、そこに可燃物は希少だからという妙にケチ臭い人間心理がふっとでてくる。
魔法のようなどこか別世界。美しい別の法則が支配する異世界であっても、そこに住まう(多くは)人間たちには私達にあるような低俗な五感とハートがあって、なんだか一枚の絵のようにしっくりハマってこないところがある。(一枚の絵から着想を得てなんとも言えない違和感を物語にした「美神の通過」という話も収録されている。)
最終的に神話にならない物語というか。

完成されたあえて世界に泥をつける、いわば反体制の作家というのでは全然ない。
というのも幻想に対する”普通”や”日常”があれば、むしろ幻想の不可解性が顕になるからだ。
そういった意味では日常に怪異が侵食する「ホラー」というジャンルの手法に近いのか。
そういえば「ドロテアの首と銀の皿」は(これ私の頭がこの作品についていかずに単純な解釈をしていることは承知なのだが)怪談に読めなくもない。珍しく説明がつくのも含めてだ。

卑近な要素があるからと言って幻想の醍醐味が損なわれることはなく。
むしろ作品によってはかなり難解だったりするのだが(なかなか想像が追いつかなかったりする)、そんなときは同じく戸惑っている登場人物たちの気持ちで、おっかなびっくり作中を歩けばよいし。
そしてなにより完全に理解はできなくても、それに触れたり、楽しんだりすることができるのは芸術の良いところだ。

フォークナー/サンクチュアリ

この小説は作者が「自分が想像しうる限り最も恐ろしい」と評しているが何が恐ろしいかというと、バランスが悪い。(「八月の光」も正直同様に悪いと思う。)
悪を扱った小説で善悪のバランスが悪く、著しくいずれかに傾いている。
端的に言って正義が敗北するが、しかし正義が敗北するフィクションは巷にあふれているわけで、なぜこの小説だけが恐ろしいのだろう。なぜ読後感がこうもすっきりしないのだろう。

正義が敗北するのは悲劇だ。やるせない。
しかしこの小説ではそれは一つの象徴に過ぎない。
本当に悲劇なのは正義が常に概ね敗北する、その環境自体である。
「サンクチュアリ」は一つの事件を軸にその環境を顕にしようという試みである。

だから真犯人ポパイを排除した後もこの居心地の悪さが続いていく
それはつまり社会の、この世のいびつさの違和感であり、私達は否応なくそれにくるまれている。
ポパイは悪人だが彼はアウトサイダーだ。社会が生み出したモンスターと言うよりは社会に産み落とされた異端児である。
社会を作っているのは誰かというとそれは民衆になる。
あなたと私である。
前科があり、素行が悪いからという理由で(少なくとも殺人に関しては)潔白な男を断罪し、あまつさえ私刑にかける。
確かにこれは言語道断の非道に見えるが、しかしもし似たような事件が起こった場合、無論私刑はしないにしてもあなたは同じように彼の無罪を確信できただろうか?
私はそうは思わない。前科がありまた密売しているなら殺人だってやりかねないと思ってしまうような気がする。
偽証したテンプルも愚かなら、死を目前にして頑なに証言を拒んだグッドウィンも愚かである。実直に真実が無実を証明すると信じていたベンボウも愚かだ。
そして彼らの愚かさは私達みんながもっている愚かさなのだ。

正義の不在を嘆くというよりは、人間の愚かさに絶望している。
そしてその愚かさは治る見込みがないから、この物語は考えうる限り恐ろしい小説なのである。
現代批判だとして、批判したところで改善の見込みがないから。

ポパイという男の存在に騙されてはいけない。
彼は確かに悪人でトリックスターだが、本当の悪は彼ではない。
彼はいわばこの物語の狂言回しで、彼に対する反応で本当の悪=衆愚が暴かれていく。

有罪と信じ無実の男に火をつける男たち。
体面と街の秩序を気にし他人の生活にケチをつける信仰心の厚い女たち。
どいつもこいつも身勝手で主観的、何よりタチが悪いのは自分たちが正しいと信じて疑わないところ。
この間違った正義感、いわば悪を目指す悪ではなく、消極的な悪がホレス・ベンボウが持っていた正義感や親切心を破壊していく。
この世が地獄なら地獄の業火は私達自身がこの身に放ったのだ。
私達はいわば失敗しており、自滅している。

誤認逮捕されたポパイが死んでいくというのはそのまま彼の強運の裏返しであり、
真の悪に対する消極的な悪の完全勝利を表現していて皮肉である。

この世界に対する嫌悪感はベンボウの独白に現れている。

たぶんこういう状況のときに、人は、この世が悪でできていると認めるわけなんだ、結局人間は死ぬものだと認めるんだー頭のなかでは、かつて見たことのある死んだ子供の瞳を思い出し、また他の死人たちのことを考えたーそこでは憤怒も冷えていき、激しい絶望の表情も薄れていき、あとには二個のうつろな眼球が残って、そのなかでは極小の姿となった世界が深いところでじっと漂っているばかりなのだ。

この文から、ここからコーマック・マッカーシーにつながっていくのだと個人的には感じたのだ。
いわば呪われた土地としてのアメリカの物語だ。

2019年4月6日土曜日

スタインベック/スタインベック短編集

「怒りの葡萄」で搾取される農民の姿を強烈に描いたスタインベックの短編集。
「怒りの葡萄」は反体制、半経済主義の性質を持つが、スタインベックがなぜこの話を書いたのかと言うのはこの本を読めば少しは分かるかもしれない。
ここで描かれるのはカリフォリニア州のサリーナス渓谷の暮らしだ。調べてみるとこの地は荒れていて、砂漠の様相を呈しており、今でも未開拓の土地という印象。
ここで生まれ育ったスタインベックはこの土地を愛していたのだろう。そしてここに生きる人々の姿を小説に書いた。

大開拓時代、フロンティア・スピリットとは開拓者精神のこと。切り拓いた土地は自分たちのものになる。だから開拓者たちは必死で働いた。荒野を切り拓いて開墾し、牛と馬を飼いならし、食物を育てた。隙間風の吹く粗末な小屋を打ち立て、そこに寝起きした。ときには蛇蝎や外敵と戦うために武器を手にした。
彼らは強かった。なぜって自分の生活を自分たちの手で文字通り組みてたから。
彼らは寝る間を惜しんで働いたからなるほど学はなかったけど、愚かではなかった。
もちろん政治や経済だって当たり前にあった。
ただ彼らには彼らのルールがあって、それは彼らの自治体に属さない人々からすると古く、埃っぽく汚れていて、不合理で、奇妙に見えるのだ。

農民たち、田舎で原始的な暮らしを営む人々をさして純朴で単純で、そして少し愚かだというのは差別主義である。まず事実として間違っているし、そして彼らの作ったご飯をあなた方(つまり私達)は食べているからである。こんな事を言うと国産のものは高いから国外の食物を食べている、などというのは更に愚の骨頂であって、それは自分はバカで、お高く留まり、偉そうな面で顔のない人たちを搾取していますよ、と喧伝しているのと同じである。

農耕で暮らしを立てている田舎の人達は愚かではない。そして全員が素朴でもないし、何なら全員が善人では決していない。彼らは人間だ。あなたと私と同じ。
彼らと都会人の差が強靭さだ。
私が子供の頃大好きだった漫画で「今日から俺は!!」というヤンキー漫画(ヤンキー漫画じゃないという人もいるが私がこれこそヤンキー漫画だろって思う。)があって、その中で忘れられないエピソードがある。森にキャンプを行った主人公たちはメインディッシュの肉を忘れてしまう。同行した主人公の母親は農家で豚を購入し、主人公に殺せと迫る。可愛そうなので殺せないという主人公に母親が肉は食うのに他人にだけ殺させるのは卑怯だし弱いと説教をする。苛烈だが私はこれが真実だとも思う。(だから動物が可愛そうだから動物の肉は食わないという方々の考え方は理解できるし、立派だとも思う。)
これが田舎の人の持つ強靭さだ。彼らは殺して生かして生きているからだ。

スタインベックは農村部で暮らす人々の姿を正確に写し取ろうとする。彼らはすべて善人ではない。というか生まれついての悪人でも良いところがあるようにどんな人間にもある良いところと悪いところを、その混淆が作る生きた人間を書こうとする。
だからこの小説の登場人物たちは殺人を犯し、法から逃走しようとするし、酒を飲み娼婦を買うし、黒人を法の手に委ねずにリンチして殺したりする。
女性であろうと身を粉にして働く、一方で共産主義に走るものもいれば、労働を一切拒否するものもいる。
多種多様な人物はどこか、私達からするとどこか逸脱しているが、しかしこれらの人は(実際はそうではないがしかし)生きていたし、生きているべきなのだ。それがスタインベックの伝えたいことだ。
スタインベックは別に半経済主義者ではない、私の考えでは。彼は荒野を愛し、そこで生きる人達が実際にいて彼らは間違っているところもあるが愛すべき人間で、そして都市部に住む人間と同じように生きているんですよ、ということを言いたかったのだ。
更には彼らには自分たちのルールが有り、そしてはたからは不合理に見えるルールでも彼らにとっては生きたルールだったのだと、言いたかったのかもしれない。ここで私は殺人やリンチを許せといっているわけではない。でも例えば農民は無知だから差別主義者で不合理な殺人やリンチをするのだというのは間違っているだろう。

綿摘みで生計を立てる家族に他人(スタインベック本人だろう)が加わり朝食をともにする「朝めし」。この家族は他人に無償で与え見返りを求めない。朝めしをごちそうになる側も傲慢ではないが言葉少なげに感謝の気持ちを表し、半ば当然のような顔で食卓をともにする。朝焼けに染まる渓谷の美しさよ。この短編集でも一番だと思うけど、例えばこの物語だけ抜き出して、農民生活は素晴らしい、というのも間違っているとは言わないが、やはり十分ではないだろう。
だからこの短編集は短編集という形態で一つの物語なのだ。