2020年11月23日月曜日

平井呈一 翻訳/世界怪奇実話集 屍衣の花嫁


怪談が好きでそれこそ学校の怖い話から小泉八雲の怪談、それから死ぬ程洒落にならない怖い話、稲川淳二さんの怪談はもちろんyoutubeの玄人・素人怪談師などなど。

別に蒐集家というわけではないがとにかく怖い話を求めてしまう、人一倍怖がりなのに。


怪談というのは創作怪談と実話怪談がある。

創作怪談は文字通り作者が想像で組み立て作ったもの、一方実話怪談は実際に起ったことの記録である。

ところが怪談を好きな人ならわかるが、怪談というのはたいてい実際に起ったという体で語られることが非常に多い。

話の枕に「これは友人の先輩(兄嫁の友人、義理の兄の親友、職場の先輩のおじさんとか何でも良い)から聞いた話なんだけど~」という枕がつくあれです。

怪談というのはノンフィクションであることが前提なのだ、いくら創作でも実際の伝聞ですよ、とするのはお約束のようなものだ。


前置きが長くなってしまったが、平井呈一がイギリスの実話怪談を集めたアンソロジー。

ここに集められたのは怪談の原型にして本質である。

私いちいち話しにオチを求めてくるやつが一番つまらないと思っているタチであるが、それでも無意識に話に落ち着き、起承転結を求めてしまう傾向があることは否めない。

この本で展開される物語はそういう意味ではきれいに落ちていないものも少なくない。

いかにも因縁の有りそうな幽霊たちの由来は詳らかにされないし、絶対存在するはずの怪しい城塞の隠し部屋はついに発見されない。

また逆に本筋に関係のない情報が多く含まれていたりもする。

要するにあんまり洗練されていないわけで、これは当時に実際に怪異を経験した者たちの伝聞をまとめた記録だからである。

この物語としては大きく欠損のあるエピソードが、しかしそれ故に抜群に怖くて面白い。

要するに、どうにもスッキリしないがゆえにこれは本当にあったんだ、と読み手が思えちゃうのだ。怪談好きとしてはこの体験は何にも代えがたい。

これらの原材料である素材の粗さを自分の想像力で補い、整合性の取れた完成度の高い怪談が後々生まれていくのである。

そこでは幽霊にまつわる悲劇があるだろうし、怪しい館には猟奇的な過去のある秘密の小部屋があるのである。

特に生々しい「ハリファックス卿怪談集」からの抜粋も含むI、それからⅢのベル・ウィッチ事件の詳細な研究は面白かった。

Ⅰは階段の原型、Ⅲは原型を(悪意はないんだろうけど)研究して超自然を解明しようとして結果因果の枠に当てはめようとする、つまり怪談の誕生の場面として面白い。


ネットが行き渡った現代は素人が誰でも発信できるのだから、今は(実話)怪談の時代と言える。

怪談を好む人ならこの本を手にとってもらって間違いない。

後書きによるとこの本が復刊されるのは60年ぶりということだ。

東雅夫さんに感謝。少なくともひとりここにこの本の再発を喜んでいるおばけ好きがいます。

ドミトリー・グルホフスキー/MTRO 2033-メトロ2033-

後にゲーム化もしたロシアのSF。

地球規模の核戦争で世界が概ね滅んだあと、残留放射能とそれにより突然変異化した獰猛な生物から逃れるため、ロシアにわずかに残った人類はその地下鉄で暮らしている、という設定。


オプティミズムと純文学

あとがきで作者が述べているのだがこの小説は核戦争の危険性を声高に訴えるものではない。

核シェルターとしての昨日を実際荷物ロシアのメトロが地下に深く伸びていくように、この小説はアルチョムという一人の主人公がいかに困難な人生に立ち向かっていくか、というところに焦点を当て、それ故に面白くなっている。

主人公アルチョムは危険だが温かい故郷から離れ、メトロの狭いがそれでも彼らにとってそれが限界の世界、それからその境界の向こう側を遍歴する。

自分の足で動く場合もあれば流される場合もある。

若くて無知なアルチョムは概ねカモとしてまたは都合の良い敵(彼にははっきりした信念がないゆえに明確な敵にはなりえない)として騙され、殴られ、殺されかけながらもメトロの自分の地図の空白を埋めていく。


メトロが舞台なのはこれが人間世界の縮図であるから。

つまり暗く、狭く、危険で、そんな中でも人は互いに手を繋ぐでもなく、猜疑心に煽られ、宗教、イデオロギーを言い訳に他人と食べ物を取り合い、殺し合っている。

技術的に大きく退化した状況で、当てにならない伝聞に尾ひれがついてとんでもない噂が飛び交う。

頼りない懐中電灯の光で文字通り暗闇を切り開いていく。

ある意味では主人公アルチョムはこの暗闇が支配する世界で確固たるものを探しに行くわけなんだけど、この形式はロードノベルのそれがあるからSFであると同時に純文学的でもある。

アルチョムの精神的な成長が欠かれている。

この混沌とした世界での自分の役割を意識することだ。

いわば無理やり巻き込まれた旅路を自分の意志で貫徹しようとするその過程であり、傍観者からより良くするために行動する者への意識的な転換である。


ペシミズムとSF

純文学的な成長物語、そして派手などんぱちを経ての大団円という王道的な筋をたどること物語、しかしその背後にはそれらを覆す意地の悪いペシミズムがある。

当初作者がネットで発表していた版では主人公アルチョムは最後命を落としたそうだ。

これはアルチョムが感じた運命(=王道的な成長物語)の否定であるし、このペシミズムは物語の核心(結末)に迫っている。

それは人類という種の今いるステージと限界を指し示したもので、比較的ファンタジー色の強い世界観の中でここは明確にSFだなと感じた。

核戦争で地下に撤退せざるを得なかったのは人間の失敗だが、それを経て人類がどう変わったのか、というのがこの結末に結実している。

前半からの運命論的な物語をあっさり裏切るような趣があるが苦味があって良い。


2020年11月15日日曜日

ナオミ・オルダーマン/パワー

今年面白かったゲームと言えば「Ghost of Tsushima」だろう。

開発元であるサッカーパンチが2009年に発表した「インファマス」というゲームは手から電撃を放つ男が主人公のオープンワールドゲームだった。

また、冨樫義博の漫画「ハンターハンター」でも登場人物の一人キルアは雷を操る。

ハリウッド映画の「アベンジャーズ」に登場するトールももとは雷神で、雷神というのは日本含めて様々な国の神話に登場する。

雷というのは、単に力の象徴にとどまらない。

超自然のちからなら、別に念動力でも炎を操る力でも良い。

雷というのは天から地に落ちるから、これは神性を帯びたもので、それを人が使うということはいわば由緒のある天上の存在から人間に下賜された形になる。

つまり雷を操るということは天意を得た、ということの暗示になる。


この本では雷を手に取るのは女性たちである。

作中でも言われているがこの力を得た状態というのは弾が装填された銃を持っているようなものだ。

世界中で銃で人命が失われているが、悪いのは銃だろうか?

いや、それを使う人間が悪いのだ。銃はどこまで行っても道具だからだ。

つまり、力というのはあればそこに秩序をもたらし、また暴力や死を呼ぶ。

たとえ天から授けられた力であっても使う人間によってその結果は様々でこの本が面白いのは、力を得た女性の変遷を素直に書いているところだ。

つまり女性の男性化である。

端的に言って暴力的になる。

思考が力に立脚しているから、力づくでものを得、力づくで異性をレイプするようになる。

オルダーマンはこの作品で女性らしさは生得のものではなく、環境が形作るものだと定義している。

つまり女性が力を得れば女性らしさが失われ、社会的に弱い場立場になった男性がその代わりに女性らしさを身に着けていく。

当然この世界では、おしとやかで異性に従う性質は男性らしさと呼ばれることになり、女性はこの気質と振る舞いを男性に求め、そうでなければ男性を虐待するだろう。

女性が力を得れば女性らしい世界、優しく生産的な世界が成立するのだろう、というのは幻想であると言っている。


男性は夜一人で歩けない、襲われるからだ。

もし夜道でレイプされ金を取られたとしよう。

警察に行くとそこは女性警官でいっぱいである。

襲われたと訴えると、あなたが犯人を誘惑したのでは?と言われるのだ。

そんなバカな、と男性のあなたは言うかもしれない。

しかし女性は今そういう立場にある。

この男女の逆転を回す力になっているのが女性に与えられた新しい力、雷である。

何を馬鹿な、腕力も武器もあるぞ、と思うかもしれないが、男性が女性に基本的に上から目線で接することができるのは潜在的に力が、つまり腕力が強いという点によっている。

いざとなれば殴っちまえ、というわけだ。

例えば相手が見るからに反社会的勢力のような外見をしていたり、筋骨隆々の男性なら女性には攻勢に出る男性もほぼ100%態度が変わるだろう。

男性が実際に力が強いことを根拠に女性に対して潜在的に自信を持っている。

これが作中では装填した銃に例えられているが、雷を得た女性は雷によってこの自信を獲得したわけだ。


せっかく世界に平らかにする力を天から得たのに、バランスが逆転しただけで結局力によって一報を制御搾取する構造は変わらない、という円環の物語でもある。

砂時計を逆にしたかのごとく、世界の構造は変わらない。

女性優位の世界はディストピアだとすれば、いま男性が女性を力で抑えている状況がすでにディストピアである。

大切なのは、男女いずれかが優れているわけでも劣っているわけでもないということだ。

女性の作者がこれを書くことは大変だったと思う。

なぜなら力の弱い女性が力を持ったら男性に対する積年の恨みを晴らしてスッキリ、という物語になるのが人情ってものだからだ。

天に与えられた力が人間界を変えられないなら人間の力で変えていくしかない、というメッセージを私はこの本から受け取った。


2020年10月25日日曜日

ハーバート・ヴァン・サール編 金井美子訳/終わらない悪夢


イギリスのホラー・アンソロジー。

収録作品は下記の通り。

  1. 終わらない悪夢 ロマン・ガリ 著
  2. 皮コレクター M.S.ウォデル 著
  3. レンズの中の迷宮 ベイジル・コパー 著
  4. 誕生パーティー ジョン・バーク 著
  5. 許されざる者 セプチマス・デール 著
  6. 人形使い アドービ・ジェイムズ 著
  7. 蠅のいない日 ジョン・レノン 著
  8. 心臓移植 ロン・ホームズ 著
  9. 美しい色 ウイリアム・サンソム 著
  10. 緑の想い ジョン・コリア 著
  11. 冷たい手を重ねて ジョン・D.キーフォーバー 著
  12. 私の小さなぼうや エイブラハム・リドリー 著
  13. うなる鞭 H.A.マンフッド 著
  14. 入院患者 リチャード・デイヴィス 著
  15. 悪魔の舌への帰還 ウォルター・ウィンウォード 著
  16. パッツの死 セプチマス・デール 著
  17. 暗闇に続く道 アドービ・ジェイムズ 著
  18. 死の人形 ヴィヴィアン・メイク 著
  19. 私を愛して M.S.ウォデル 著
  20. 基地 リチャード・スタップリイ 著

ホラー大国のイギリスのアンソロジーは別段珍しくはないのだろうが、そんな中この本は面白い特色を打ち出している。

それは無名の作家の作品を多く収録していること。

名前と作品リストくらいしかわからない、あとの経歴は不明、という作家の作品がかなり収録されている。

だいたいいくつかアンソロジーを読んでみると、その中のいくつかはかぶってくるものである。「くじ」とか「猿の手」とか。それらを改めてじっくり読む、というのももちろん面白いが、まだ見たことのない作品を読みたいのが人の心。

この本はそんな気持ちに答えてくれる一冊。

つまりこれからホラーを読みたいという初心者にはおすすめできないかもしれないが、有名所は結構読んだという怪談蒐集家には非常におすすめ。

マイナー作品だからメジャーな作品のようなダイナミックさはないが、「無名だからつまらない」という理論はこんなブログを読んでいる方なら全く成立しない、ということはご存知だと思う。

あと面白いところでいうとあのジョン・レノンの作品も収録されているからビートルズ好きな人は買わないか。。。


アンソロジーのいいところは編者の個性やそのジャンルに対する好みが表れてくるところだと思う。

この本の収録作はゴースト、スラッシャー、幻想と比較的ページ数が少ないことと前述の無名な作家でも収録することを抑えつつジャンル的には多岐にわたっている。

ただ明確に多いのがいわゆるいまでいう人怖というジャンルで超自然の要素の有無や、その過多はあれど、人間が狂気に陥って結果的になにか事件が起きる、という形式の作品が多い。

じゃあ何が人を狂わせるか、ということなんだがこの編者のヴァン・サールはこれはもうはっきりと「執着」というビジョンをはっきり持っていたようだ。

金に対する執着、女性に対する執着、愛情に対する執着とその欠如に対しての一方的な復讐、息子娘に対する執着、いろいろな欲望がコレクションされていてさながら奇妙な博物館の様相を呈している。

暴力や黒魔術はあくまでも手段に過ぎない。本当に怖いのは人間だという説教よりは、怪異は外から来るのではなく内側から発生する、という視点が強調されている。

救いのない世界、神も仏もないこの世界で人間が獣性むき出しで殺し合う、そんな薄皮一枚の虚構を取り去ったあとの世界の本質、それがフィクションでもなかなか鬼気迫る編者の気迫が感じられないだろうか。

聖職者が卑劣な悪に見を染める⑤なんかはとくにその神聖への過激な問いかけにも見える。

ただもはや寓話的になっている⑰はどうだろうな、結局天国化地獄に決めるのは人間次第、ということだろうか。これは典型的とも言える物語だが私は結構好きだ。


2020年10月11日日曜日

マーガレット・アトウッド/オリクスとクレイク

 


ジョン・クロウリーの「エンジン・サマー」に似ているがあそこまでぶっ飛んでいない。

本作で描かれる、表紙のヒエロニムス・ボスの絵画のように奇妙な世界はこの私達のクラス世界の延長線上にあるのだ。

故にこの小説は荒唐無稽な世界を描くSFでありながら、ありうる可能性としての破局を描写することで現社会体制の汚点を鋭く指摘するディストピア小説でもある。


ディストピア小説は扱う題材が社会なのでマクロな視点になりがちだが、この作品は終始ミクロな視点で進行するのが面白い。

ここはオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」に通じるところがある。

ただしハクスリーは主人公の今が最悪な未来を描いていく一方、今作では主人公の過去にフォーカスすることでいかにこの奇妙な終着点に人類が、そして主人公が到達したのかということを描いていく。

つまり謎解きの仕組みがあってこれがエンジンになって読者にページを捲らせていく。


格差社会がさらに加速し、持てるものの天才はかつての神の領域に躊躇なく踏み込んでいく。

ある意味では増長した天才が倫理観の欠如によって世界を崩壊させた。

主人公スノーマンことジミーは壁の中=持てるものの子息として生まれたが、彼には支配者の一員たる才能はなかった。

彼は天才たちがめちゃくちゃにした世界をなんとか彼の才能、演じる才能、人を引きつける才能、言葉を操る才能によってなんとかつなぎとめようとする。

生まれついての根っからの傍観者であった彼は思い上がりで破壊されて生まれたいびつな世界をいわば育てる役目を課された形になる。

ジミーは上級市民だったが社会構造に疑問を持ち下級市民に下った(まだ発展途上にあった少年のジミーを捨てた)母親、そして育児に興味のない父親のもと生まれ、両親の愛情というものを知らない。

それ故他人を常に求め、その演技と言葉の才能と人を見抜く明晰な分析力で愛情には事欠かなかったがどれも長続きしなかった。

そんな彼が天才たちが勝手に作り変えてネグレクトした新人類の教育役を引き受けさせられることになるのも構造的に良くできている。


人類に似ながら全く違う性質をデザインされた新人類は劣悪な環境でも生き抜くことができる能力がありながら精神的には非常に未熟でまた旧人類から見てあまりに異質だ。

スノーマンもそんな彼らとシンからわかり合うことはできないだろう。

オリクスとクレイクというのはスノーマンことジミーが本当に愛した二人だが、しかしジミーは結局二人のことを本当にわかっていたのだろうか。

大切なことはいつもはぐらかすミステリアスなオリクス、そして天才だがずっとジミーの親友だったオリクス。彼の真意は私にとっても他の読者にとっても大きな謎である。

スノーマンの新人類に対する献身もジミー時代の二人への愛情と恩義、そしてクレイクへの罪悪感もあったろう。

決して他者とわかり合うことのできない旧人類と、争いのない新人類を見ていると天才クレイクのやりたかったことが単に冒涜とも思えないのは私だけだろうか。

彼は彼なりにこの状況を憂い、根本的な解決を目指していたのかもしれない。

たとえ人類が異形になりはて、その前に旧人類が全員絶滅しようとも存続させようとしていた人類という種をより大きな視点で愛していたのかも。


この「オリクスとクレイク」は同じ世界観を共有するマッドアダムという三部作の一作目だそうだ。今のところこの次作は翻訳されているのでそれは読む。

非常に面白かった。

2020年9月22日火曜日

ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト/ボーダー 二つの世界


収録作は下記の通り。

  1. ボーダー 二つの世界
  2. 坂の上のアパートメント
  3. Equinox
  4. 見えない!存在しない!
  5. 臨時教員
  6. エターナル/ラブ
  7. 古い夢は葬って
  8. 音楽が止むまであなたを抱いて
  9. マイケン
  10. 紙の壁
  11. 最終処理

①は映画の原作。⑦は映画化した作品(「ぼくのエリ 200歳の少女」その後「モールス」として再映画化)の関連作。

私は両方見ていない。


③④⑤はホラー。ただしいずれも登場人物の認知を通して描かれているので、一体異常な事態が進行しているのか、それとも主人公が狂っているのか、読者は判別できない。

柳を幽霊と間違えているのか、それとも世界の真理に気が付き日常がベリベリ音を立ててめくれていくのか。

いわば日常と非日常はつながっていて、そのボーダーは非常に曖昧である。


②⑪は純粋にホラーエンタメとして楽しむことができる。

ここでは日常と非日常が(怪物・ゾンビ)明確に分かれていて、主人公たちはその一線を否応なく飛び越えることになる。

明確なボーダーが提示されている。


面白いのが⑥と⑨。

⑨は社会性がある設定で困窮する世界から異常の世界の存在を知り、自分の決断でそちらの世界に足を踏み入れるはなし。娘の死で精神に異常をきたした夫を貧困の中で介護する彼女は正常な世界の被害者で、異常な世界に加担して自分を足蹴にした世界にささやかな復讐をするという流れ。

⑥は異常な世界を垣間見るのだが、自分の決断でそこに足を踏み入れることを拒否。真理に気が付き力を得た夫とは対象的に普通に生きることを選んだ主人公。

ボーダーを提示され、いずれの側に自分の居場所と定めるか、という問題を提示される。


表題作でもある①は、⑥と⑨の構図をさらに推し進めたもの。

謎をはらむ物語で、進行とともに明確なボーダーが主人公と読者の眼前に浮かび上がってくる。

主人公はこのボーダーを飛び越えるわけだが、そこには自分のルーツを知り、自分の出自の由来を知るという過程があり、ボーダーを飛び越えるというよりは生まれてからずっと異郷の地で生活を捨てて、自分のふるさとに立ち返る話でもある。

つまりこの物語だけ、ボーダーを超える動きが2回ある。


作者の共通した作風なのか、選定がいいのか、作品のバリエーションが豊富な割にはとにかく境界という共通のテーマがあって統一感がある。

全編を通してボーダーのあちらもこちらも楽園ではないと描かれているのがシビアなところか。逃避先としてのあちら側は提示されておらず、むしろ⑦では明確にこちら側での幸福が描かれている。

向こう側は常に魅力的だ。現実に疲れているものたちにとっては特に。正気の逃げ場としての狂気なのか、異形として夜の世界に生きるのか、いずれにしても楽でも楽しそうでもない。このビターさが良い。

2020年9月6日日曜日

フラナリー・オコナー/フラナリー・オコナー全短編

フラナリー・オコナーは1925年にアメリカの南部で生まれた作家で、39歳の若さで自己免疫疾患でなくなった。
短編小説の名手と呼ばれ、優れた短編に贈られるオー・ヘンリー賞を3度受賞した。
彼女の全部の短編をまとめたのがこちらの2冊。

オコナーの短編はだいたいアメリカの南部に住む人々の風俗、生活を描いたもの。
例えば同じ南部でもスタインベックの描くそれとは風景や光景は似ていても、受ける印象は遥かに異なる。
描かれる世代が違うこともあるけど人間の表現に決定的に差異がある。
スタインベックは虐げられても誇りを失わない素朴だけド強靭な人々として南部人を描いたが、オコナーの描く南部人は徹底的に自分本位でときにグロテスクでさえある。

オコナーは敬虔なクリスチャンであったそうで私には読んでいる間それがずっと不思議だった。
「善人はなかなかいない」という作品があるまさにそのとおりでオコナーの描く南部人は、無知で傲慢で差別意識が非常に強い。
登場人物の殆どがそうである。登場人物に好感をいだくことは非常に難しいだろう。全員嫌なやつだからだ。

■描かれているのは地獄
オコナーは地獄を描いていると思う。
彼女の小説には暴力が出てくる。
度々出てくるわけではないからむしろ効果的である。
私は彼女の小説には死の匂いがするから地獄だというのではない。
フラナリー・オコナーという人は「人がわかり合えない」という状況を書いていて、それが地獄だと思うのだ。
バベルに怒った神が人間に複数の言語を課して互いの意志が通じることを困難足らしめたが、その罰が今でも続いているように思える。
むしろもっと悪いか。人間は同じ言語で話しても互いを理解することができないのだから。

■人間の最も親密な関係のミクロという意味での親子関係
オコナーはよく家族、親子関係を描く。
(出番の少ない父親はおいておいて)出てくる母親というのは確かに根は優しくて子供に対する愛情もあるんだろうが、総じて過保護で子供をいい年になっても子供扱いしている。
一方子供の方でも独立心があっても結局親から離れらずに恩恵を受けている割には非常に傲慢である。
オコナー自身南部に生まれ大学院への進学をきっかけに南部を離れ、作家とのキャリアが始まった以降は実家に戻るつもりはなかったようだ。
しかしその後父親と同じ難病を発症し、故郷に戻り終生母親と暮らした。
この実体験が反映されているのではと思う(がもちろん実際のところはわからない)。

彼女がしばしば親子関係を描くのはそれが最も親密な人間の関わり合いだからだ。
それすらも、わかり合うことが殆どない。
最悪いずれかが死ぬ、さらには一方がもう一方を直接的または間接的に殺めてしまう。

■不和の要因
わかり合えない、というのは何が原因なのか。
これらの物語に出てくる人たちというのは基本的に変わることがない。
人の言うことを聞かない。
この世界では「(論理的な意味での)明晰な思考(≠正しさ)」ということがほとんど意味をなさない。
なぜなら論理的な正しさを受け入れる人がほとんどいないからだ。
『床屋』では明確に知性が数に敗北するシーンが書かれている。
いわば衆愚であって、これの前には進歩が立ち行かないのである。
『強制追放者』ではナチの迫害から逃れてきた人々に対する無知と差別が描かれている。
また『障害者優先』では人間の優れた性質である親切さ思いやりを実践するのがいかに困難か描かれている。この物語は2方向に対する優しさとその失敗、人間の思い上がりを描いていて面白い。

■まとめと宗教の意味
フラナリー・オコナーの各世界では人はお互いに好きなことを言い、他人の言うことは聞かない。
みんなが自分が一番世の中で苦労し一番不幸だと思い、他者を口だけ達者でよく喋るだけの怠け者だと見下している。
彼らがその境遇に甘んじているのは彼らの努力が足りないからだと思い、自分の今の暮らしがただの幸運の上に成立していることを理解しない。
大人だけでない、子供もそうである。
他者への優しさは自分の傲慢と、そして他人を信じられない心から必ず失敗する。
このわかりあえなさと、理解への失敗がオコナーの短編をして地獄だなと思わせるのだ。

私は仏教徒でもキリスト教徒でもないが、キリスト教はたとえば念仏を唱えれば悪人でも浄土に行ける、ってわけでもないらしい。少なくともオコナーはそう思っていた。
いわば様々な欠点をもったマイナスの人間が、プラスになるには何が必要なのか。
極端な話、オコナーは人の力では無理だと思っていたフシがある。
そのマイナスからゼロを経てプラスになる過程、飛躍が神の恩寵ではないか。
『善人はなかなかいない』のラスト、または『長引く悪寒』、または『障害者優先』『家庭の安らぎ』のそれぞれのラストでも良い。
苦い結末にかすかに登場人物たちの心の変化が見て取れるはず。
この転化が神の恩寵とオコナーは捉えているのではないか。
オコナーは暴力が神であると考えているのではなくて、その暴力が気づきのきっかけになる場合があるということだ。
敬虔さというが、かなりストイックに見える。

■是非読んでどうぞ
この本を読んでアメリカの南部はやっぱり差別意識が強いと感じるなら浅すぎる。
いわばオコナーは人間の欠点を強烈に南部の風俗に投影したのだ。
登場人物に共感は全くできなくても、彼らの一部一部に自分の姿を見るだろう。
オコナーの短編はそういった意味では非常に普遍的な物語であり、いつの時代でも決して色褪せることがないだろう。
うんざりするようなぬるい地獄の中に、汚い都会の空に瞬く星のような救いがかすかに見えるかもしれない。
格差と差別で相変わらず揺れる現代、あえてこの本をとっても良いのでは。