2016年11月6日日曜日

フレドリック・ブラウン/さあ、気ちがいになりなさい

アメリカの作家の短編小説。
もともと単行本で同じ早川から出版されている異色作家短編集というシリーズの一冊でなんとなく気になっていたものを今回文庫本になったタイミングで買ってみた。
翻訳しているのはショート・ショートSFの分野で活躍した星新一さん。本は読まないけど星新一さんだけなら、という人は結構いるらしいと聞いたが本当だろうか?私は一冊しか読んだことがない。多分NHKで映像化された「おーい」のやつが一番印象に残っている。
さて黒とピンクの想定が大変おしゃれかっこいいこの本、何と言ってもタイトルが良い。原題は「Come and go mad」で、それを「さあ、気ちがいになりなさい」と訳すセンスよ。高圧的な「さあ、気ちがいになれ」でも、怪しい同調圧力のある「さあ、気ちがいになろう」でもなく「さあ、気ちがいになりなさい」なのだ。優しさと、そして無言の圧力がある。思わず頼もしいその一言に身を委ねて気ちがいになりたくなるではないか。そうだこんな世の中自体が気ちがいなのだ。そこでは気ちがいになるのが気持ちよく暮らせる唯一の方法なのだ。俺も気ちがい、お前も気ちがいなんだア、アハハハハ、とそんな安逸とした危険な雰囲気を醸し出している。

収録されている12個の短編はどれも”ひねくれて”いるという形容詞が合うのではなかろうか。例えば同じ作家が同じテーマと設定で書いてもこうはなるまい、という一風変わった作品に仕上がっており、そこにこのフレデリック・ブラウンという作家の色を見ることができる。それはつまりあえて人が興ざめすることをニヤリとした笑みを浮かべ、訥々としかしはっきりと述べるようなそんなニヒルとまでは言わないが天邪鬼めいた毒がある。
表題作にもなった狂気というのは全編通じて、つまり作家のテーマなのかもしれないが、ではフレデリック・ブラウンの書く狂気とは一体何か、というとこれはを単なるドロップアウトとして捉えていないことにそのヒントがあるように思う。ざっくりいうと正気の危うさと環境適応としての狂気である。一番わかりやすいのは冒頭の「みどりの星へ」だろうか。主人公の(無意識の)選択はそれをやらないと一人取り残された異星で生きることができなかったことに他ならない。続く「ぶっそうなやつら」は幾ら何でも小心かつそれゆえ暴力ではなかろうか?と思う人もいるかもしれないが、やはりあの孤立した待合室、という環境に放り込まれれば特別臆病な私は同じような思考に陥ることは間違いない。私の場合は臆病ゆえに待合室から逃げ出しただろうが。少し趣向が変わって「電獣ヴァヴェリ」は正気を疑う物語。これはとある理由から電気が使えなくなった世界で文明が退化してしまうのだが、意外にも人間たちはそんな原始的な環境にあっという間に適応してしまう。物語の後半の主人公たちは電気が動かす社会にいた頃よりはるかにゆとりがあり、そして幸せそうである。文明批判であることは間違いないが、やはり普通を疑ってかかるというブラウンの怜悧な視点があるように思う。そしてやはりあるものでなんとかする、という人間のたくましさも(=人間賛歌)も書いている。文明批判といえば「町を求む」で野心的なギャングが手中に収めやすい町について一席ぶっているがそれは誰もが投票に行かない町である。まさにいまの日本ではないか。ひょっとしたいまの日本もならず者につけこまれているのかもしれない。これが発表されたのは1940年だということが驚きだ。人はいつの時代も変わらないのか、それともブラウンが非常に明晰な頭を持っていたのか。
「帽子の手品」では明らかに異常な状況を見たのにそれを許容できずに黙殺する人の心理が書かれている。これは狂気に対応できない正気を描いている物語と捉えることもできる。そして一番ボリュームがある表題作「さあ、気ちがいになりなさい」では自分の正気に疑いのある主人公が狂気に陥っていく。彼は自分で疑うように統合失調症患者なのか、それとも謎の「明るく輝けるもの」によって真理を知らされた故に狂気に陥ったのか。

あくまでも平明な文体で描かれる狂気、その筆致と視点は常に冷静なので観察するように狂気を楽しめるだろう。タイトルはぶっそうだが、楽しめること請け合いの黒い本。是非どうぞ。

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