2015年10月19日月曜日

ジョン・クロウリー/古代の遺物

アメリカの作家による短編集。
ジョン・クロウリーは「エンジン・サマー」という長編しか読んだ事が無い。これは所謂一周した後の(既存の文明が一回滅びさった跡地から別の文明が発生しつつある)地球を舞台にしたSF小説である。ひとりの少年(彼が私たちと同じ人間なのかは定かではない)が微妙に過去の文明をにおわせるガジェットが散見される不思議な、私たちの見知らぬ地球を旅するという内容で、これがもう、本当にもう素晴らしいのである。この一冊が私の人生をいかに豊かにしたのかとても言葉にできないくらいである。この一冊だけで私はもうこの本を書いたジョン・クロウリーという人が好きになってしまったのである。ところがこの作家というのは日本にはほぼ紹介されていない様な人で、この本が出るまではもう世界幻想文学大賞を獲得した「リトル・ビッグ」という本と短編集が一冊翻訳・出版されているだけである。こちらは両方もう絶版状態(今見たら何と「エンジン・サマー」も絶版で私としては憤懣やるかたない気持ちでいっぱいである!!)。
というわけでこの本がでて大変嬉しいのです。(買ってから読むまでですごい時間がかかってしまったのだが)。後書きによるとこの本は日本オリジナルの短編集という事。(版元に感謝。)

ジョン・クロウリーという人は前述の「エンジン・サマー」でもそうだったが、SFと幻想文学の垣根無く物語を書く人であると思う。(「リトル・ビッグ」は幻想味が強いのかな?是非読みたいんだが。)SF的なガジェットは出てくるもののそれの説明は非常にあっさりしていて、本当に”不思議さ”を演出するためにそれらの小道具や時代(または世界)の設定にSFを用いているという印象。何かの寓意が込められているというよりは不思議や幻想、謎そのものを書く事を探求しているように私には思える。だからそのもの語りというのは独特の雰囲気と読後感があって、それがこの短編集でも遺憾なく発揮されている。
先鋭的なSFと違ってどの物語も常に登場人物を丁寧に描写し、その内面の感情の動きにフォーカスが当てられている。それらが豊かにしかし簡素で平明な言葉よって紡がれている。ようするに感情的だが、押し売りしている様な強引さは皆無である。このバランスは非常に難しい。いわば感情的だが感情的ではないのだ。(感情にしぼっているのに、感情過多ではないという意味で)思うに感情が最終的に登場人物の行動に表れているから、それが結実するのが文字でなくて、読み手の頭の中だからだと思う。ほんの書き方は様々だが私はこういう書き方が好きだ。(あくまでも個人の好みだと思うけど)

さてこの短編集全部で12の短編が収録されており、どれも素晴らしいものだったが個人的には「消えた」(原題「Gone」)があまりに素晴らしく、このわずか30ページたらずの短い物語だけでもこの本を買う価値が十二分にあったと思う。これは何かというと一人の女性、離婚していて子供がいる普通の女性がとある決心をする、というだけの話なのに何故こんなにも胸を打つのか分からない。この物語には世界支配を狙っていると人間が勝手に思っている異星人の作ったロボット(彼らは人間の言う事ならたいてい何でもやってくれるけど主に皿洗いとか芝刈りとか、人殺しとかは駄目。見た目もあってドラえもんが思い浮かぶ)が出てくる。彼らが謎の存在で、実際それが人類、そして主人公に与えた影響もあるような?という様な書かれ方なのだが、私は思うに彼らは何もしていないかもしれない。謎めいたメッセージを通して人間が何かに気づいたというだけの事かもしれない。(「幼年期の終わり」のオーバーロードをもっと柔らかくした感じ。)そういった意味ではもの凄く前向きな物語だ。
”それは大きくて神聖なものを、今か今かと待ち続けたあげく、自分たちが手にするのは、長い長い、ひょっとしたら一生よりも長い時間の待機と頭上のむなしい空だけ言う事に気づいたものたちの宗教だった。”
なんとなくConvergeの名盤「Petitioning the Empty Sky」を連想とさせる。
”ああ、なんてきれいなんだろう。なぜだか、わたしはここに属していないと決断する前よりも美しく見える。たぶんその頃は、ここに属そうとするのに忙しくて、それに気づかなかったんだろう。
以降、愛はすべて順調。でも、以降っていつからはじまるの?いつ?”
これは誰しも思っている事かもしれない。

素晴らしい短編でした。何とも言えない物悲しい感じ。謎が明らかにされないまま屋根裏部屋の日のあたる棚の中でほっておかれる様な感じ。他の本は古本で買うしかないかもしれない。

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