2014年4月6日日曜日

ジーン・ウルフ/ケルベロス第五の首

アメリカの小説家によるSF/ファンタジー小説。
国書刊行会からでている単行本、その怪奇なタイトルが前々から気になっていて購入。
始めこの本を知ったときはそのタイトルに首を傾げたもので、当然地獄の番犬ケルベロス(RPGゲームを始め日本の創作物にはよく出てくるので知っている人も多いと思う)には三つの首があるので、「ケルベロス第四の首」ならわかるが第五と来たからには大分人を食った題名だと思ったものだ。
3つの異なる中編が収められていて、微妙に関連のあるそれら全部を読み終えると、本文に書かれていないある事実が浮かび上がってくる、というマニアックな作りになっていて、一部の本好きの間ではとても有名な本なのだとか。

遥か未来、人類は地球を飛び出しその版図を大きく広げていた。
双子星サント・アンヌとサント・クロアに移住した人々はしかし、母星との繋がりはむしろ希薄になり中世フランスの様な独自の世界を作り上げていた。
この2つの星には伝説があって、人類が移住する前には何物にも姿をかえることが出来る原住民が住んでいたという。「アボ」と呼ばれるそれらは移植してきた人類によって全滅させられてしまった。しかし実は逆に人類を絶滅させた彼らは自分でも「アボ」であることを忘れて今でも成り代わった人類として生きながらえているという。
サント・クロアの妾館の息子「私」こと第五号は弟デイヴィッド、妙な家庭教師ミスター・ミリオン、叔母、そして父親との暮らしの中で自分が父親のクローンであることに気づく。夜ごと繰り返される父親からの尋問で記憶と意識に変調を来す中で「私」はある決心をする。

上記のあらすじは最初の短編「ケルベロス第五の首」のもの。他に「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」、「V・R・T」という2編が収録されていて、それぞれ同じ世界観の中登場人物の何人かを共有しつつ別の物語が展開していく。
ジャンルとしてはSFなのだろうし、実際現在とは大きく隔たった未来の話ではあるが、あまり本格SF的なガジェットはでてこない。舞台となる星の世界観は未来というよりは過ぎ去った中世を彷彿とさせるもので、なんとなくセピアでカビ臭いような、そんなイメージ。そこに宙船と呼ばれる宇宙船や、人格を転写されたロボット、クローン技術などたまに未来の技術が出てくるわけで、新旧おり混じった独特の世界観が展開されている。
「ケルベロス第五の首」以降の二編に関しては一遍が民話の体裁を取ったもの。謎の原住民「アボ」に関するものでインディアンの物語のようにかなり独特の世界観で一見まったく本格SFさはない。(しかし最後まで読んだ後には実はこの話が一番謎に関する示唆に富んでいるようで、隠されたSF成分に大分うち震えた。)最後の一遍はとある囚人に対する(原始的なというか未来的ではない)執拗な尋問と、囚人に関する資料の断片が同時進行で描かれている。何となく稚拙な印象がする野蛮な尋問と奴隷(サント・クロアの方にはなんと奴隷がいるのだ!)に対する士官の態度は読んでいて結構嫌な気分になる。

さてこの本の最大の面白さは一見バラバラの3つの物語の中心には一つの大きい謎が設置されていることに他ならないと思う。結論から言ってしまうと最後まで読んでも結局謎の招待が一体なんだったのかは書かれていない。しかし、3つの物語から推察するとおぼろげな真実が見えてくるらしい。らしいと書いたのは私も一回読み終わってもはっきり理解しているとは言いがたいからである。ネットで検索してみるとやはりこれがはっきりとした真実です!というのはなく、ある程度から先は読者の方がそれぞれ結論を導きだしているようだ。(本書の後書きにもあるが海外には研究サイトもあるらしいが私は見ていないので本当は確固たる真相があるかもしれない。)
いわばミステリーの要素もあるのだろうが、どちらかというと芥川龍之介の「藪の中」ではないが、錯綜する情報を整理して結論を推察する様な楽しみがあって私も残念な頭を使って色々と考えてみたのだが、ネットではされに深く精緻な考察をされている方々がいて恥ずかしい気持ちである。
一体私は誰なのだ?という疑問にはしかし誰も答えることが出来ないのだろうし、今日の私が今日産まれたということを否定することは出来ない(のだっけ?)。自己認識の不確かさは哲学的だが、アイデンティティの曖昧さは伝統的なSF的命題ともいえる。そういった意味では文学ではある種普遍的なテーマを壮大な箱庭をこしらえてそっと謎を提示してくる様な趣があって、つくづく丁寧に作られた作品だと思う。

すっきりする本しか読みたくない、という人にはお勧めできないが不思議な話が読みたいという人は是非。ノスタルジックな雰囲気のそこかしこにふと見えるSF成分がたまらない一冊。

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