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2018年7月22日日曜日

デニス・ルヘイン/あなたを愛してから

アメリカの作家の長編小説。原題は「Since We Fell」でジャズのスタンダードナンバー「Since I Fell for You」からとられた。2017年発表。
「パトリック&アンジー」シリーズから始まり、映画化もされた「シャッター・アイランド」「ミスティック・リバー」など幅のある物語を書いてきたルヘインだが、そんなキャリアの中でも本書はかなり異色の一冊と言えると思う。ルヘインは今まで警察官だろうがギャングだろうが一貫してタフな男を主人公に据えてきた。タフというのは腕っ節が強いという意味ももちろんあるがあるが脳みそまで筋肉というよりは、強くあろうとすること、ナイーブであることを併せ持った独自のロマンチストたちだ。一転してこの本の主人公は女性であるし、しかもパニック障害を患っているいわば弱い女性である。有能で上昇志向も強く、自信もあるが、総じて孤独でありこの世界に対して寄る辺なさを感じている。異常に支配的で干渉的な母親に育てられ、おまけに父親が誰かわからなかったのだ。兄弟もいなければ(母親のせいで)友達がいなかった。上昇志向についてはここら辺がおそらく関係しているだろう。
面白いもので自分に自信がある人でもパニック障害やうつ病にもなる。彼女は結果的に引きこもりになるが、病気の結果そうなったのであって常にくよくよ迷っていたわけではなかった。この物語はある意味ではその弱さ(病そのものというよりそこに落ち込むことになった状態や過程)を克服していく話でもある。そこでタイトルになるのが要するにこれは恋に落ちるということだ。まともな男に引っかかってこなかった主人公がようやく出会った、優しく金持ち(カナダの材木会社の御曹司)な男とやっと恋に落ちて、そして彼女は強くなっていく、というのはいかにも男性が考えそうな「お話」で気持ちが悪くなるが、そこはルヘイン最終的には彼女は一人で歩けるようにたくましくなっていくのだ。
ともすると「男らしさ」と混同されがちな人間の強さに関して一石投じるためにルヘインは女性を主人公に据えたのかもしれない。実際男社会の報道業界で出世し、災害で治安が最悪のハイチに乗り込み、さらには銃を打つことも辞さない(肉体的な強さというのは銃があれば簡単に克服できる)のだから彼女は十分そこらへんの男性より強い。
恋はするものでなく落ちるもの、ある意味恋に落ちた弱みで相手の男性に主導権を握られていたレイチェルがその恋すら乗り越えていく様は壮快である。最後の独白は「夜に生きる」の主人公に通じるものがある。彼女にとって一度も親しくなかった世界を、今度は自分でなんとかしてやろうという意気込みはまさにタフなやり方だ。

あとがきでも指摘されているが、かなり盛りだくさんな物語だが、魂の彷徨という趣の父親探しに関しても、恋に落ちてからの中盤も彼女という個性を描くためには必要なパートだ。結果的にだいぶ複雑なお凹凸があるキャラクターが構築されている。前編ほぼ彼女の説明といっても良いかもしれない。反面物語の構造は結構シンプルだと読み終わってから気がつく。彼女は自分が思っている以上に、見た目以上に母親に似ているところがあるのかなと思う。絶対刑務所には入りたくない!というあたりかなり身勝手な地金が出ていたりして面白い。人間は絶対に自分の全身像そのものを見ることができない、というのは常に私にとっては面白い話だ。
Lenny Welchの曲はかなりメロウで格好良い。歌詞はかなりSad。

2017年6月18日日曜日

デニス・ルヘイン/コーパスへの道 現代短編の名手たち1

アメリカの作家の短編小説。
早川書房の「現代短編の名手たち」というシリーズの第一弾。このシリーズ他にはジョー・ランズデールをよんだことある。
もともとデニス・ルヘインは好きな作家であるのだけれど、この今となっては絶版になっている短編集は読んだことなくてtwitterで面白いよ!ということだったので買ってみた。これで一応日本で翻訳・発売されているデニス・ルヘインの本は全部読んだことになると思う。一番有名なのは映画化された「ミスティック・リバー」なのだろうか。ミステリー、ハードボイルド好きな人ならパトリック&アンジーシリーズは有名だろう。犯罪を犯す側、それを追いかける側の物語を書くことが多い。ディカプリオ主演で映画化された「シャッター・アイランド」なんかは犯罪と扱いつつも作者の新境地を切り開いた作品ではなかろうか。トム・ハーディの「クライム・ヒート」(原題「The Drop」)や、べん・アフレック主演の「夜に生きる」など主たる作品の映画化も続くし、本国での人気がうかがえる。日本ではどうなんだろう??

さてこの短編集には7つの短編が収められている。そのうち一つは俳優をやっている兄のために書いた戯曲で、これはその性質上地の文がなくてほぼ台詞のみで構成されているからちょっと異色といっても良いかもしれない。それ以外の作品はルヘインのお得意の犯罪を扱った小説。特徴として犯罪を犯す人が街のギャング止まり、というかプロの犯罪者というのはいなくて、一般人、もしくはチンピラくらいだろうか。若者が主人公になっている作品も多くて、そういった意味ではパトリック&アンジーシリーズの初期の作品に通じる雰囲気がある。重厚な長編を書く人なのでどの短編も長編とは趣がはっきりと異なり、どれも起承転結がやや曖昧である(話も多い)。扱っている時間が割と短めなので主人公たちも小説中で起こる出来事にはっきりとまだ意味や意義を付与できていない感じがあり、それが不思議な味となって読者の口に運ばれてくる。
オフビートな会話の中にも根っからの悪人(根っからの犯罪者ではなく、人生のある地点からドロップアウトしたという設定が非常に面白い。)である父親とムショ帰りの息子の対決を描いた「グウェンに会うまで」は非常に強烈だ。水面下では生き死にがマジで関わった火花がばちばち音を立てている。それをとぼけた会話の応酬で覆っているのだが、この緊張感がめちゃくちゃ怖い。ある意味更生する話だったのに、結局暴力から逃れられないような筋もルヘインらしくて良い。
そんな中でも一番気に入ったのは冒頭を飾る「犬を撃つ」だ。これに出てくるブルーという主人公の友人が素晴らしいんだ。歳食ってさすがに思春期と同じように本を読んで「自分みたい」って登場人物に感情移入することは減ったと思うんだけど(読む本の種類が変わってきたこともあるかもだけど、そういった意味では若いうちに名作と呼ばれる本を読むことはとても大切だと思う!!別に年取ってから読んでももちろん良いけど。)、このブルーというやつはあまりに冴えないやつで久々に読んでて心臓にビシビシきた。こいつはチビで顔も醜く、ひどい環境で育ち大人になっても貧しいまま。主人公以外は友達がいなく、当然女の子と付き合ったことなんかない。ビッチみたいな女(結婚してるし、主人は彼女と寝てる。ブルーもきっと気づいているんだろう。)に子供の時からずっと恋をしていて、それは年を経てグロテスクな崇拝になっている。まさに現実生活から微妙にずれている”ミスフィッツ”なわけだ。重要なのは彼はみんなに嫌われているわけではない。変わり者だが無害な奴と思われていて、要するに誰の記憶にもきっちり残らないような存在感なわけだ。そんな奴が暴力にその逃げ場を求めていくのはわかるよね。ちなみに彼は銃には異常に詳しいのだけど、身体的に徴兵検査を落とされている。この世界との不調和をルヘインがブルーの”ギクシャクした体の動き”で表現しているのだけど、これがすごい。
武器を操作しているときは別だが、ブルーは動きが突発的でぎくしゃくしている。震えが四肢を伝わり、指がものを落とし、肘や膝が細かく動きすぎ、硬いものに思い切りぶつかる。血の流れが速すぎて筋肉が脳の命令に従うのが四分の一秒遅れ、ついでその遅れを取り戻そうと速くなる、という感じだった。
なんてったって自分にも覚えがあるんだよね。いつもどこか緊張していて変な動きになってしまう。私も昔そんな自分の動きを「変だね」と指摘されたことがあるもんで。いわばこいつは悲しい奴なんだ。いっそのことカジモドくらい醜かったよかったのかも。「どうでもいい奴」でいることは悪人でいることより辛く、そして惨めだから。ルヘインの描写は執拗で弱い者の立場に立つ、というよりもはやいじめている側では??ってくらい私からした心にくる。ブルーが一体どうなるのか、それはもう予想通りな訳なのだけど。それが辛く救いがなく、そしてよかったのでは、とすら思ってしまうほど悲しい。彼はいい友達を持ったのだと思いたい。ブルー最後はどう思ったんだろう、きっとわかっていたのだろうと思うけど。この「犬を撃つ」だけでも十二分に読む価値があるよ、本当にね。
かなりの歳になって男の胸にわいた希望は非常に危険だ。希望は若者や子供たちのものだ。希望は、大人の男にとって-特に、ブルーのような、ほとんど希望に馴染みがなく、それが訪れる見込みのない男には-そうした希望は、潰えるときに焼けて血を煮えたぎらせ、その後に、何かたちの悪いものを残すのだ。

個人的には素晴らしい読書体験。本を読むってこれだから楽しい(別にうわーいって楽しくは全然ないんだが、むしろ辛い)と思う。是非どうぞ。

2016年5月7日土曜日

デニス・ルヘイン/過ぎ去りし世界

アメリカの作家によルノワール小説。
「運命の日」「夜に生きる」に続くコグリン家サーガの3作目。全2作を楽しく読んだので勿論こちらも購入。
原題は「World Gone By」。

ジョゼフ(ジョー)・コグリンはギャングだった。しかし抗争で妻を失ってからは引退し、”組織”バルトロ・ファミリーの顧問役として表舞台からは立ち去った。実業家として組織を潤して来たジョーだがある日刑務所に収監された女殺し屋から自分の暗殺依頼が走っていることを知り愕然とする。一体誰が?なぜ?ジョーは半信半疑ながら犯人探しを開始する。

第二次世界大戦真っ只中の1942年、アメリカはフロリダ州中部の都市タンパを舞台にしたノワールもの。「運命の日」では脇役だったコグリン家の末っ子、ジョーが裏世界でのし上がっていく様を書いた「夜に生きる」の本当に後日談であり、登場人物も「夜に生きる」と共通している。裏表含めて実際に生きた人々(一番有名なのはチャールズ・ラッキー・ルチアーノだろうか、ただし彼は名前のみの登場)も登場している。
表向きは引退しても実際はギャングにどっぷりのジョー。こういう言い方をするとあれだけどジョーはどんどん弱くなっている。一番は家族が出来て、もっというと息子が出来たこと。おまけに妻で子供の母親を抗争で失っているため彼を孤児にしたくないという強い想いから、自分の命が危険にさらされているかも知れない状況(この確定ではない状態が人を一番苦しめるのかもしれない)が非常なストレスになっている。面白いのは作者が意図的にジョーを気丈に書いてみせているのだが、ジョーの言葉とは裏腹に彼が弱っていく様子がかなり克明に描かれている。
しかしジョーはそんな危ない家業から足を洗う気は全くない。たとえ危険が多くても既存のルールに沿って生きるなんてまっぴらなのだ。体制はヤクザかそれ以下だと考えているし、自由であることは死より、つまり自分の生より重たい。ところがそんな世界でもジョーは自分の付き合っているギャング仲間だけでなく所属している組織にも不信感を抱いてくる。それでもギャングを抜けることは考えない訳だから、いったいジョーは本当はどうしたいのだろうか?もし子供を守るなら、極端な話すべてを放り出して2人で外国にでも逃げれば良い。そうしないジョーは、そもそも子供を守ろうとは思っていない(守ろうとは思っているけどギャング生活の方が大事)、もしくは自分は結局死なないと思っている、のどちらかではなかろうか。「運命の日」の主人公でジョーの兄は元警官で信条のために命を賭して戦ったがそんな生活に嫌気がさして全く別の道(ハリウッドで脚本家になった)に進んだ。ジョーはそんな兄を愛しているけどやはりどこかで日和った、と感じている様な気がしてならない。ジョーにとって抗争の日々から抜け出すことは死よりは恥と考えていたのだろう。
ルヘインは華やかで刹那的で暴力都市に満ちたジョーの生活が果たして良いのか悪いのか2関しては全く書かない。ただ彼に密着して彼の生活を丁寧に描写していく。ルヘインは美学がある作家だと思う。過剰にセックス、ドラッグ描写、そして暴力を描かない。だから一発の銃弾が人の体にあけた赤黒い穴が異様に映える。特にこのシリーズでは殺人は真っ昼間陽光の下で行われる。うたれたギャングの死体から赤黒い血が流れていく。太陽の下で埃が待っている。その様は何とも言えない美しさがある。

面白かった。虚無があるというと格好付け過ぎ。ジョーは生きている。ギャングは骨の髄までギャングでいっていることがむちゃくちゃすぎる。人は裏切る。ただ彼らは裏切ったあいつも、そして自分もギャングだからといってひょっとしたら許すことが出来るのかもしれない。
万人にお勧めしたいのだが、まずは「運命の日」、もしくは「夜に生きる」から読んだ方が良い。

2015年10月11日日曜日

デニス・ルヘイン/ザ・ドロップ

アメリカはマサチューセッツ州ボストンの作家によるハードボイルド小説。
タイトルの「ザ・ドロップ」というのは汚い金の中継地という意味。

寡黙な男ボブはいとこのマーヴのバーでバーテンダーとして働いている。体躯は良いものの人と関わるのが苦手なボブは多くの人には優しいけど鈍くてぱっとしない男だと思われている。ボブ本人も自分の冴えない人生を憂鬱に思っているが、なにも手に入らないものだと思う事であきらめようとしている。そんなある日仕事の帰りにゴミ箱に捨てられた子犬を発見するボブ。要領の悪い彼は犬を捨てる事も出来ず、成り行きで飼う事に。犬の守護聖人からロッコと名付けた犬とそしてロッコを通してであったナディアにより、ボブの生活は少しずつ豊かになってくる。だがマーヴの店に強盗がはいり、またロッコの飼い主というチンピラが現れボブの生活に暗雲が立ちこめる…

翻訳した加賀山卓朗さんによる解説によると面白い由来のある物語で、始め簡単な短編があり、それをマッドマックスのトム・ハーディ主演で映画化。(日本では未公開のようだ。)その映画を元に(細部で異なる点もあるとの事)さらに長く書き直したのがこの小説。
探偵もののパトリックとアンジーシリーズ、ギャングものの「夜に生きる」、映画化もされた「ミスティック・リバー」などで”黒い”社会を書いてきたデニス・ルヘイン。今回は少し趣が異なる。というもの主人公ボブは場末(治安が悪い地帯、実際かつてマーヴのものだったバーはチェチェン人マフィアに乗っ取られている)のバーのバーテンで生計を立てている。恋人は勿論友達すらいない。真面目で優しい性格で頭は悪くないのに要領が悪くてみんなからは薄のろだと思われている。前半のボブと彼の生活の描写はとにかく灰色一色で、生きているのに全く楽しみのない生活が後ろにもそして前にもずっと横たわっていて、私(ボブのように真面目で優しくもないし頭も悪いのだが)の様な冴えない男にはもう読んでて切なくなってくる。犬を通して社会に再度馴染もうとするボブ。さすがはルヘインというべきかチンピラ、強盗、マフィアと不穏なアウトサイダーたちを生々しい描写で書き出し、物語を黒く塗りつぶしていく。「夜に生きる」などに比べれば規模の小さい話ではあるがその分悪意の嫌らしさが生々しい。教会に通い続けるボブを通して、罪というのは許されるのか否か、そして許されるとしたらそれは神によるのか、人によるのか、というのが一つのテーマになっているようだ。そんな中ボブが最後に下す決断というのは実際は切れ者のボブが次第に意図的に(読者の目からも)隠していたその本質を(別に騙している訳ではないから本性ではない)あらわにしていく様は、これまたカッコいいのである。

という訳で非常にオススメの一冊。とくに友達もいないよ…という冴えない男性諸氏は胸が締め付けられる事間違い無しなので是非どうぞ。
ルヘイン(レヘイン)の本で邦訳されているものはだいたい読んでいると思う。後「コーパスへの道」というのがあるんだけどこれは絶版になっている。どうにかして読みたいものだ。(電子はあるんだけど紙で読みたいんすよね。)

2014年6月1日日曜日

デニス・レヘイン/ムーンライト・マイル

デニス・ルヘインによるパトリックとアンジーシリーズ第6弾にして最終作。

結婚して子供が出来たパトリックとアンジーは将来のため探偵事務所を閉め、愛車を売り勤め人として日々を送っていた。パトリックは老舗の調査警備会社デュアメル=スタンディフォードで契約社員から正社員となるべく面白くもない仕事をこなす日々。アンジーは資格を取るべく再度大学に通っている。生活は困窮し、保険の支払いさえままならない。
そんなある日パトリックは地下鉄の駅でビアトリスに出会う。12年前の彼女の姪のアマンダの失踪事件の依頼人で、事件の終末パトリックの苦渋の決断が彼女の人生に深い傷跡を残したのだった。アマンダがまた行方をくらませたという。探してほしい、貴方にも責任があると迫るビアトリス。一旦は断るパトリックだが、その後チンピラに襲撃され、アマンダの件に首を突っ込むなと警告される。やる気は無かったが殴られ襲われれば事情は違う。負けん気の強いひねくれ者パトリックとアンジーはアマンダの捜査を開始するが…

前にも書いたがⅠ年にⅠ巻ずつ発表されて来たこのシリーズだが、5作目の「雨に祈りを」発表後作者のルヘインが一時シリーズの休止を宣言。それから11年の歳月を経て発表されたのが最終作でもあるこの「ムーンライト・マイル」である。タイトルは遥か遠くの意らしい。物語の中でも時間が進み、30代だったパトリック達は42歳になっている。遂に目出たく結婚して娘が産まれたのは良かったが、生活のために2人の生活はがらりと変わってしまった。生き方そのものであった個人探偵事務所は廃業、手塩にかけてリストアしたポルシェも手放した。それでも生活は苦しく、パトリックは金持ちの尻拭いのようなクソ仕事にその身をやつし糊口を凌いでいる。無敵で自由だった時代は終わってしまった。他人に比べると長かった青春の時代が終わって、生活と将来というのが2人の方に重くのしかかって来た。ハードボイルドの申し子が契約社員である。地下鉄でご出勤である。正社員になりたいです。おまけにパソコンは私物である。そのパソコンもチンピラに奪われてしまうパトリック先生。次のなんてとても買えないと嘆くパトリック選手。なんという悲しさ。ここに来て今までの物語は全部作り事だよ、とネタバラしされたようだ。途方に暮れるのはパトリックだけではない。読者もであるよ。夢は終わったんだ。生活が続くんだ。保険料を支払い、請求書におびえる生活が。すばらしい家庭はむしろ人から輝きを奪ってしまうのか。年を取ることは敗北なのか。打ちのめされているパトリックとアンジーはしこりのようにわだかまるアマンダの失踪事件の本当の解決のため、再度のアマンダの失踪事件に挑む。
デニス・レヘインは真面目な作家である。調べてみるとこの物語は賛否両論であるようだ。物語は好きなことをかける。読者にずっと夢を見させることが出来る。でもルヘインはあえてこのある意味舞台裏の様な強烈なパンチの様なその後の物語を書いた。パトリックとアンジーの人生のその後を書いた。それは苛烈なものだった。銃で撃たれるからではない。拳で殴られるからではない。ただ生きて年を取るということの、その悲しさと苛烈さを書いたのだ。こんなの読みたくなかったという人もいるだろう。でも若かったころのパトリックがはいた台詞がまた違う意味を持って再度浮かび上がってくる様な、そんな感慨深さがあると思った。若さ故の過ちではない。2人は昔を少しも後悔していない。ただ選択しただけだ。それが間違いとも思っていない。2人が何故困窮した生活の中でビアトリスの依頼を引き受けたのか。なぐれられ腹が立った、然り。現状の生活に鬱憤が溜まっていた、然り。しかしこれは生き方の問題であった。状況に合わせて選択して来たけど、俺たち変わった訳じゃないよな、そんなひたむきさが垣間見える。といっても昔のようには行かない。何より娘が巻き込まれることは絶対にさけなければならない。動きも鈍くなる。でも捜査はやめない。探偵(ヒーロー)になるために必要なのは不屈の精神であった。頑強な肉体も明晰な頭脳も二の次だった。ただ食らいついて離さない、殴られても立ち上がるその精神こそが2人をヒーローにしたのだった。
本当に終盤、パトリックの心に久しぶりに暴力的だった父親が浮かび上がってくる。パトリックはけりを付けたのだった。父親のその向こう側にすとんと着地したのだった。悩みが亡くなる訳ではなく、現実的に消耗させてくる毎日が続くのだろう。でもパトリックとアンジーはけりを付けたのだった。物語は終わった。

すばらしい読書体験というものがあるものだ。ほんの何の気なしに手に取った「スコッチに涙を託して」が私をここまで連れて来た。6冊夢中で読んだ時間は何事にも替えがたいすばらしいものであった。この体験を作者に感謝したい。これは探偵パトリックとアンジーの物語であった。そしてそれは完結したのだった。彼らは去っていった。私は彼らに拍手を送りたい気分である。
いまでもパトリックとアンジーは誰かを待っているのだと思う。是非このシリーズを、多くの人に読んでいただきたいと思う限りです。

デニス・レヘイン/雨に祈りを

デニス・ルヘインのパトリックとアンジーシリーズ第5弾。
1999年に発表された。作者はここまで毎年1作のペースでパトリックとアンジーシリーズを書いている。

前回の事件終結後、パトリックとアンジーは破局。アンジーは探偵事務所を出て行った。
ある日パトリックはブッバとともにストーカーに悩まされていたカレン・ニコルズの依頼を引き受け、ストーカーを”説得”し撃退することで依頼は解決する。6ヶ月後パトリックはカレンがビルの屋上から飛び降り死んだことを知る。すこし世間知らずだがにこやかだった彼女が何故自殺したのか?飛び降りる前にかかって来たカレンの電話に出られなかったことに罪悪感を感じるパトリックは独自に捜査を開始する。

このシリーズは勿論優れた探偵小説であり、優れたハードボイルド小説であった。しかし一般的なハードボイルドとはちょっと趣が異なる。軽妙な会話に代表されるシンプルかつ洒脱な文体も得意なポイントの一つだろうが、主人公が男女2人組というところも大きいように思う。私立探偵というのは一般人とも警察官とも違ういわば一種のアウトサイダーだが、このシリーズの主人公は完全なアウトサイダーになりきらず、警察小説のバディもののような趣がある。2人いる分ちょっと救われている部分がある。ハードボイルドじゃないというのではない、そんなことは1作目を読めばわかるだろう。完全にハードボイルドだ。2人いるからこそのものの見方の違いをまざまざと見せた前作のラストはそれは凄まじいものだった。ここら辺はちょっとなかなか他のハードボイルドには何じゃなかろうか。
とはいえアンジーがいることでパトリックは世界との折り合いのつけ方が普通の私立探偵とはちょっと違うのだ。
それが今作ではアンジーが去りパトリックは一人きりになってしまう。ブッバがいるものの彼は一般の人間の埒外にいるため、厳密にいうとパトリックと同じ会話が出来る訳ではない。お互い友人であることは間違いないが、世界を共有している訳ではない。
だから、今作は今までのシリーズに比べるとより正統ハードボイルドの雰囲気がある。謎の女もでてくる。ただし謎の女といったら大抵はミステリアスで妖艶な女だが、今作では世間知らずのお嬢様だ。パトリックは幸せそうだった彼女が何故自殺を選んだのかという謎を調べていく中で、一人の女性が本当は何者だったのかという問題に肉薄していく。
カレン・ニコルズの人生はどんなものだったのだろうか。作者は丁寧に詳らかにしていく。物語の脇役にあたる人物にスポットを当てたような書き方である。単なる被害者と行っても良い彼女が一体どういう人生を送って来たのか。さらにいうならばどういった悪意が彼女の人生を台無しにしたのかという問題である。
今回も第二作目を彷彿とさせる様な歪んだ悪役が出てくるのだが、これはまた現代社会のゆがみの体現者みたいな奴でどちらかというと象徴的な意味合いで妖怪みたいな立ち位置なのかもしれない。(クソ知能犯で身体能力抜群の割に、しかし嫌がらせの一環としてアダルトビデオの音声を電話で聞かせてくる、というのその小物っぷりにちょっと笑ってしまうところもあったけど。(実際にやられたらかなり気味が悪いんだろうけど。))それよりは巨大に悪意へのささやかな毎日の抵抗という意味でのパトリックの立ち位置が良かった。

ブッバが今までのシリーズ以上に活躍するのが良かった。第2作目の活躍はどちらかというと闇の世界に生きる彼の恐ろしさが端的に現れていたが、今作ではひたすら頼もしい助っ人という感じで素直に楽しめる。パトリックをとても大切に思っていることが分かる中盤のエピソードも良い。

パトリックとアンジーシリーズは今作発表後一時沈黙することになる。
区切りの物語。今までの作品を読んだ人は是非どうぞ。まだの人はやはり1作目から。

2014年5月31日土曜日

デニス・レヘイン/愛しき者はすべて去り行く

アメリカ人作家によるアメリカはボストンを舞台とした探偵小説の4作目。
順調に読み進めて4冊目です。

ボストンの教会の鐘楼で2人きりの探偵事務所を開くパトリックとアンジー。
ある日失踪した4歳の少女アマンダの捜索をアマンダの叔父と叔母に依頼される。事件は地元で大々的に報道され、警察の手によって大規模かつ組織的な捜索が実施されていた。市民の関心も高く、いまさら私立探偵に出来ることは少ないと渋る2人だったが、特にアマンダの叔母ビアトリスの強い願いもあって依頼を引き受けることに。果たして誘拐なのか、失踪なのか。2人の捜査は予想もつかない真実にたどり着くことになる。

原題は「Gone,Baby,Gone」(個人的には原題の方が格好よくて好きだ。)で1998年に発表、本邦では2001年に発売されている。2007年には俳優のベン・アフレックがメガホンを取り映画化されたそうな。調べてみるとモーガン・フリーマンやエド・ハリスが出演しているみたい。観てみたいね。クリントンさんが大統領時代に休暇にもっていったという逸話もあるらしい。調べてみるとパトリックとアンジーシリーズではこれが1番!と推す人も多いようだ。

途方も無いなぞの様な事件が、地道な捜査によって少しずつ明らかになっていく様はすばらしい。なんといっても失踪した少女アマンダの母親ヘリーンのキャラクターが良かった。彼女は無知と愚かさを体現したような女性で、アル中でヤク中、無学で自堕落。要するに頭空っぽの女性で自分の娘アマンダにも当然所有物以上の愛情が無い。しかし失踪事件が大々的に取り上げられた者だから、みんなに注目されるのが嬉しくてたまらない。報道番組での自分の写り様を気にしている様な、そんな女なのだ。いわばこの事件はこの女ヘリーンに振り回される話と行っても良いかもしれない。
主人公の2人はヘリーンを見てすぐに帰ってしまおうとする。しかしアマンダの叔母ビアトリスと叔父(ヘリーンの兄)ライオネル、そしてアマンダ自身に深く同情して捜査を始める訳で、いわば初っ端からちょっと違和感があって、それが捜査が進んでいてもしこりのように残り続ける。そしてラストである。もやもやしていた違和感が明確な形を取って主人公達に問いかけてくる。それは一体何が正しいのか、という疑問であった。
以前何かの感想で警察小説が面白いのは主人公達が正義の側に属している人間で、犯罪という悪とのせめぎ合いで一体正義が何なのか、正しいってなんだ、という根本的な問いかけが浮き上がって来て、いわばその答えの無さとそれ故に産まれる選択の残酷さが面白い〜という様なことを書いた。パトリックとアンジーは私立探偵だから警察官では無い訳だ。もう少し自由に動けるアウトサイダーな訳だけど、そんな2人でもついにこの問題に直面したか、という面白さがあってとにかくそこら編が巧みだ。
正義と悪は概念だから、どうしたってその2つですべてが割り切れる者ではない。じゃあ正義も悪も無いのかというと、それが社会規範によるものなのか、人間が根源的に持っている者なのかは分からないけど、おぼろげながらあるのだろうと思う。それが人によって少しずつ違うから物語が面白くなるのだろう。割り切れないところを割るとそこには納得のできなさ、やるせなさ、怒り、そんな感情が出てくる。それこそ私が物語に求めるものの一つな気がする。選択肢の一つ一つの善し悪し(いうまでもなく読み手によって判断が変わるところ)というよりは、人間のよるべのなさだったり、世界の呵責の無さであったり、そういったものに圧倒される醍醐味である。

という訳で抜群に面白かった。
面白い話ってのはするっと読めないものだとつくづく思う。(時間的には本当するっと読めるんだけど、面白いから。)読んだ後に余韻があってそれが良い。ただ後味が悪いとか、そういうのとは少し違う。

2014年5月18日日曜日

デニス・レヘイン/穢れしものに祝福を

アメリカ人作家によるボストンを舞台にした探偵小説の第三弾。
「スコッチに涙を託して」「闇よ、我が手を取りたまえ」と立て続けに読んでいます。楽しいったらありゃしない。
原題は「Sacred」で本国では前作の翌年に出版されている。

ボストンのとある教会の鐘楼で従業員2人だけの小さな探偵事務所を営むパトリックとアンジー。とある事件の後遺症により虚脱状態に陥った2人は事務所を閉じ無為な日々を過ごしていた。ある日自分たちが尾行されていることに気づいた2人は、攻勢に出たつもりが逆に誘拐されてしまう。目覚めるとそこはトレヴァー・ストーンの屋敷だった。大富豪トレヴァーは妻を亡くし、一人娘が失踪。余命幾ばくも無い彼は娘の捜索を依頼すべく、強引な方法で探偵を攫ったのだった。さらにパトリックの師匠であるジェイがトレヴァーから同じ依頼を引き受けた後謎の失踪を遂げていることが告げられる。誘拐されたことにいきり立つ2人だったが提示された破格の報酬と、師匠ジェイの行方、そして死を目の前にしたトレヴァーの態度に感化され依頼を引き受けることに。しかし大富豪の娘の失踪には想像を絶する真実が潜んでいた…

警察小説と探偵小説は似ている部分も多いけど、違うところは沢山ある。
探偵は巨大な公的機関に所属している訳ではないから好き勝手動ける。しかし組織的な後ろ盾が無いから巨大な敵に立ち向かうには手数が足りない。ほかにもいろいろあると思うけど、探偵の特権といったらそのひとつに失せものを探すことがあるのではなかろうか。警察では勿論ペットの失踪は捜査の対象外だし、人がいなくなっても事件性が無ければ大掛かりな捜査は望めない。しかし失踪した人の関係者に取っては大問題である。そこで登場するのが我らが探偵ということになる。探偵と行ったら人探しなのだ。

さて、今作は全2作と比べるとちょっと趣が違う。作者お得意の暴力描写は相変わらず目を背けたくなる様な陰惨さに満ちているし、皮肉を利かせた会話もふんだんに盛り込まれている。しかしいわゆるサイコスリラーやギャングの抗争といった派手なテーマから一歩引いているように思う。また今までの物語を読んだ人なら分かってくれると思うが、全2作では共通して主人公パトリックとその亡くなった父親との確執が大きなテーマの一つだった。暴力的な父親を憎むパトリックだが、自分の中にもある凶暴な衝動が暴力となって発露することに一種複雑な思いを抱えている。(そしてその気持ちを軽妙な会話と軽薄な態度に隠そうとする。)事件がそのまま自身の問題に直結し、ひどく内省的な雰囲気であったが、今作は自分のいる世界(ボストンの貧困と暴力がはびこる地区)とは全く異なった上層のレイヤーに所属する大金持ちの娘の捜索という、全く違う世界の依頼を引き受けることになる。相変わらず当初の想定が二転三転裏切られ、到底信じられない様な真実は明るみになっていくが、それでも物語は外部に向かって広がっていく。パトリックとアンジーは今回も本当死ぬ様な目に遭う訳だけど、どこかしら能天気といったらあれだけどあっけらかんとした感じがある。なんといっても敵役が心底魅力的な嫌な奴だと物語が俄然面白くなるというのが持論なのだが、今作は超悪い奴を懲らしめてやるぜ的な面白さもあってこれはこれで面白い。
また強力なお助けキャラであった幼なじみのブッバ・ロゴウスキーが収監されるという形で物語から一時退場したのも、物語に緊張感をもたらしている要因の一つかも。ヤバいことはブッバに任せれば良いや、ということではないけど、汚れ仕事も全部パトリックとアンジーの2人でやらなければ行けなくなった訳でこれは中々良いと思う。

正直なところ、前の2作にあったどうして人間がこんなことを出来るのだろう?と思わせる
やるせないほどの暴力性の原動力をかいま見る様などろどろとした暗さが希薄な分少し物足りない気持ちもあるけど、一冊の読み物としたらすばらしい出来だと思う。
一見軽薄だが実は真面目な探偵と謎めいた女というのはまさにハードボイルドの王道を行く作りなんじゃないかな。

デニス・レヘイン/闇よ、我が手を取りたまえ

アメリカの小説家によるボストンを舞台にした探偵小説パトリックとアンジーものの前に紹介した「スコッチに涙を託して」に続く第二弾。
1996年にアメリカで発表された後、2000年に邦訳されて日本で出版された。
原題は「Darkness,Take My Hand」だから今回はほぼそのまま翻訳した感じ。

ボストンで私立探偵を営むパトリックとアンジー。アンジーは暴力亭主と別れたものの2人の関係に進展は無く、パトリックは女医のグレイスとその娘メイと幸せな日々を送っていた。ある日旧友のエリックから彼の友人である精神科医のディアンドラの依頼を受けるよう依頼された2人。話を聞くとディアンドラの息子ジェイソンの身がアイリッシュ・マフィアに狙われているという。マフィアの恐ろしさを知っているパトリックは躊躇するが、アンジーの提案で引き受けることになる。調査を始めた2人だが、事態は全く予測のつかなかった方向に向かい、2人の生命を脅かす危険をはらんでいく。

前作があんまり面白かったもので、立て続けに続編を購入した訳だが、まず厚さがぐっと増えボリューム満点。中身の方もより派手になって凄まじい読み応え。
前作はマフィアを軸にした物語だったが、今作はなんと主人公の地元であるボストンの比較的貧しい地域に20年にわたって密かに行われて来た連続殺人が軸になっている。被害者はどれも酷く猟奇的な拷問の上殺されており、事件は未解決、おぞましい死体の山がその高さを増していくというハリウッドお得意のサイコパスを相手に迎えたスリラーの様な展開である。面白いのは形は派手なスリラーだが、あくまでも前作から引き継いだハードボイルドな私立探偵のやり方で物語が書かれて進められるところだ。皮肉とウィットに富んだ、しかしどちらかというと平明で簡潔な文体。機関銃の様に繰り出される軽口。そしてそれらが隠しきれていない何ともいえない暗さをはらんだ物語。
派手なサイコスリラーが捜査の進展とともに外に進んでいくとしたら、この物語は捜査を進めるに従ってどんどん内側に沈み込んでいく様な趣があって、主人公は災いの中心に巣食う闇に相対することによってむしろ追いつめられていくように見える。
読んでて思ったのはこれちょっとスティーブン・キングの「IT」に似ている。道化の衣装に身を包んだ怪しい男達が主人公の幼少期のトラウマの一つになっていること。それからそのトラウマに大人になった主人公パトリックとアンジー、アンジーの元夫フィル、ブッパ、それからケヴィン(こいつは立ち位置がちょっと違うけど。)という昔の友人と立ち向かうという構成がすこし通じるものがある。ただしこちらの方が苦い。悪の象徴ペニーワイズではなくて、こちらは自分の過去と家族にまつわる、いわばそこにある悪に立ち向かうことになる。

デニス・レヘインはどの小説でも暴力を書いている。人殺しやマフィアが出てくる。嫌になるくらいの丁寧な暴力描写。ただ他の暴力が出てくる小説と何が違うのかというと、作者は暴力を振るう人と同じ位、暴力をふるわれる人も精緻に描く。一瞬すれ違うだけの様な被害者もその生きている様な描写といったら結構他に比類の無い位ではなかろうか。殺される人たちはというのはこういった物語では完全脇役であるから、どのくらい死んだってただの数の上の一人ではない様な、要するに顔の無い血の通っていないマネキンの様なものなのだが、デニス・レヘインというのはこういう人たちにこそ血を通わせ、丁寧に描く。それが一体なにのために?といったら私はこう思う。私たちを嫌な気分にさせるためである。作者が性格が悪くて、読者の気分を害してやろうと思っているということではない。思うにデニス・レヘインという人は暴力、いわれのない暴力を酷く憎み、そしてそれが日常に潜んでいて誰もがその被害者になりうるということを私たちに伝えたいのでは。
厭世的な無常観とは少し違うのは、主人公達の存在では無かろうか。彼らが傷つきながらその闇を白日にさらしていくというのは、そんな暴力が蔓延する世界に対しての、作者なりの抵抗というか希望の暗示なのかもしれないと思った。

という訳で下品な物言いで悪いのだが、本当クソ面白い小説で、500ページがあっという間であった。寝る間を惜しむ読書のなんと楽しいことか。
気になった人は前作から読んでいただきたい。

2014年5月11日日曜日

デニス・レヘイン/スコッチに涙を託して

アメリカの作家による探偵小説。
1994年にアメリカで発表されてその後邦訳。
作家名は「デニス・レヘイン」とクレジットされているが、日本では「デニス・ルヘイン」とも。ここら辺は発音だから正直どちらでも良いが。映画化された「ミスティック・リバー」の原作者で、このブログでもレオナルド・ディカプリオ主演で映画化された「シャッターアイランド」、ボストンを舞台にしたコグリン家サーガ「運命の日」と「夜に生きる」を既に紹介したが、時系列でいえば著者のもっと前の作品が今作。さらにいうならば遊びで書いたつもりがデビュー作になってしまったという作品。私立探偵パトリックとアンジーシリーズの第1作目である。

ボストンで私立探偵を営むパトリック・ケンジーと共同経営者アンジェラ・ジェナーロ。事務所は教会の鐘楼を借りた小さなものだが、腕は確か。ある日既に亡くなっているパトリックの父親と面識のあった上院議員から彼の掃除婦だった黒人の女性を捜してほしいと頼まれた。彼女の住所に行くと既にもぬけの殻で部屋は何者かに荒らされていた。その晩なぞの追跡者に襲われたパトリックは、この事件が簡単な失踪事件ではないと気づく。

始めにいってしまうとかなりハードボイルド物語である。ハードボイルドというとスーツに帽子を被った無口な伊達男が夜霧に煙る町を歩き、強い酒を飲み、派手な女といい感じになり、デカい銃で解決というイメージが勝手にあるのだが、一見この話はそんなことは全然ない。
主人公の男女2人はとにかく軽口を叩きまくる。アメリカンジョークというのだろうか、皮肉に満ちた時にかなり辛辣なやり取りが主人公達の周りでまるでドミノ倒しのようにぱたぱたと展開される。実際軽口とともに物語が進んでいくと行っても過言ではないくらい。この作りはこのブログでも紹介したけどジョー・R・ランズデールのゲイの黒人ハップとその相棒で白人のレナードの物語にすごく似ている。マシンガンの様な軽口は勿論、作者は2人とも(恐らく)差別に対して嫌悪とそして考察をもっている。
ただ結果的に話の趣が結構異なっているのは面白い。ランズデールが陰惨な状況を笑い飛ばす明るい外向性をもっているとしたら、ルヘインは軽口を叩いている癖にその物語はきわめて内向的で息苦しい。事件は世相の反映で世相が変わらないこの世の中では悪がつきることは無い、そんな無力感が強く物語を覆っているように思う。

この物語は一癖も二癖もある登場人物が沢山出て来て、その関係性はどれも複雑である。(まず主人公2人の関係性からして面白い。)しかしあえて一言に集約してしまうと、この話は徹頭徹尾父親と息子の関係を描いている。もう少し噛み砕くと父親的権力と、それに虐げられる息子という構図である。
パトリックと亡父の関係は酷いもので特に最期のシーンは鳥肌がたつほどもの凄いものだが、権力を笠に着て暴力を振るうもの、人を人と思わないその残虐性、嗜虐性、高級スーツに身を包んでも隠すことが出来ない獣の様な低俗性。彼らが弱きものを痛めつけるのだった。そんな世界で一体何が出来るのか?ただの事件に取り組むパトリックのはずが、とんでもない解決不能の問題のただ中で奮闘することになる。
物語全体で入れ子構造のようにそこかしこにこの醜悪な関係性が見て取れる。嫌になる位の反復性で、読んでいるこちらは一見軽いその語り口に一旦は騙されるのだが、読み進めてふと気づくと滅茶苦茶重苦しいその雰囲気に首まで使っている。これはひとえに作者の凄まじい手腕によるもので、言葉を綴るのが小説なのに、デニス・ルヘインという人はその言葉の外にも影響をもっていて読者の頭の中で完成する物語全体を完全にコントールしているようだ。著者が人種差別を憎んでいるのは間違いないと思う、けどそれは単に黒人白人かという問題に収まらない。作者は理不尽な暴力を何よりに組んでいてそこが一番分かりやすく現れたのが、この本の書かれていた時代のアメリカが抱える黒人と白人の問題だったのかもしれない。物語の中盤で白人の主人公パトリックと彼の友人で黒人の敏腕記者リッチーが繰り広げる舌戦が作者の思いを直接的に表現している様な気がする。
その中からリッチーの一文を拝借。
「頭にくるぜ。異性愛者は同性愛者を憎み、今や同性愛者は一発やり返そうとしているんだ、それがどういう意味であれな。レズビアンは男を憎み、男は女を憎み、黒人は白人を憎み、白人は黒人を憎み、そして…誰もが責めるべき相手を捜しているんだ。つまりだ、自分の方がそいつらよりましだとわかっている連中が大勢外にいるのに、自分を鏡に映して見るやつはいないってことだ。」
この物語はとても面白い。会話は軽妙だし、銃撃戦も派手だ。登場人物は魅力的で格好よい。しかし根底になにかしらこちらの人間性に訴えかけてくる何かがあると思う。
探偵小説というには暗すぎるかもしれないが、読み物としての面白さは群を抜いている。
すぐにでも読んだ方が良い一冊だと思う。私は大好きだ。

2014年1月5日日曜日

デニス・ルヘイン/夜に生きる

明けましておめでとうございます。
2013年のベストとかまとめた方が良いのかなと思いつつ、しらっと今年一本目のご紹介です。

アメリカの作家デニス・ルヘインによる長編。
原題は「Live by Night」で2012年に発表され、本邦では2013年に翻訳され出版された。
実はこの話以前このブログで紹介した「運命の日」の続編なのだ。前作の脇役だったジョー(ジョゼフ・コグリン)が主役。前作の主人公でジョーの兄貴のダニー、それから父親のトマスも出てくる。
ただし作品の質は前作と結構異なっていて、一言でいうとこれはもうノワールである。犯罪小説といっても様々だが、本書はギャングものである。なんと警察一家に生を受けたジョーが無法者になってギャングとして成り上がる話になっている。

1920年代のボストン。警視を勤めるトマス・コグリンの末っ子ジョゼフことジョーは早々に家を出てギャングとしての道を歩んでいた。ある日闇酒場(禁酒法下では潜りの酒場以外は存在しないが。)に押し入ったジョーはそこで一人の女と出会い恋に落ちるが、彼女は対抗するギャングのボスの愛人だった。その女エマと出会ったことでジョーの運命は大きく動いていく…

前作「運命の日」ではコグリン家の末っ子のジョーは本当に家に降り掛かる様々な災難に翻弄するだけの子供だったのだけれど、今作ではもう立派な大人になっている。といっても当初はまだ未成年の若造なんだが。それでももうはっきりと俺は昼の世界で歯車になっていくのはごめんで、夜の世界で生きていくんだと固く決意している。ギャングの一員ではあるけど、ジョーは自分のことを無法者であってギャングではないと思っている。
コグリン一族は固い家柄だから家族とは絶縁状態。とはいえ母親は前作の後なくなり、長兄ダニーは家族と決別して家を出、次男のコンも前作の事件の後家を出てしまっているから、実質の凝っているのは父親のトマスだけなのだが、この小説では結構この父親との関係が大きなテーマの一つになっている。
トマスは荒い言葉で怒鳴りつける訳ではないが、暴力は必ず自分に跳ね返ってくると穏やかにジョーを諭すんだけど、若いトマスは聞き耳持たない。
トマスだって警視は警視だが、不法入国でアメリカに来て以来清廉潔白どころかかなり危ういこともやってきて今の地位がある訳だから、ただただ悪いことは悪いというのではなく人生の先輩として法律の外で生きることがどんなに難しいことなのかを言い聞かせる訳です。読んでて、おやこれは実は前作から本当の主人公はトマスなのかな?とちょっと思った。トマスの受難である。よく考えると彼は成功者なのに苦労ばかりでちっとも幸福そうじゃ無いぞ。そうこうしているとジョーはあっさり刑務所にぶち込まれる。(この刑務所のエピソードが相当えげつない。カマを掘られるとかそんなレベルじゃない。実際こんなもんだったのかはわからないが、小説内の監獄は文字通りとんでもない地獄であった。)ここでのトマスが兎に角格好いい。(2人ともすごい頑固で不器用。そして絶対に自分の中で譲れない自分に科したルールがある。)トマスも息子への対応に関して葛藤と後悔があって息子を危険な連中から守ろうとする。ちょっといじましいくらい。そんな中あっけなく退場するトマス。ジョーは何を感じたのか。決意は変わらず、出所後も夜の世界でルールを作ることに執着し、マフィアの世界でのし上がっていく。一方的に解消された親子関係はしかし、最後までジョーの心の中に影を落とし、決着がつかなかった分くすぶり続ける。
ジョーは単純なようで複雑な性格をしていて、この小説は基本彼の視点で書かれているのだが、かかれている言葉、特に心中の独白をそのまま額面通り受け取ると、ある行動が納得いかないように感じられる。つまり意図的に彼が無意識に矛盾していることが書かれていてそこが面白い。親子関係もそうなんだけど、ただただならず者で気づいたらマフィアに身を落としていた訳でもない。監獄で兄のダニーとの面会で彼は言う、他人のルールに縛られて老いさらばえるなんて真っ平だ!と。若さである青臭さである。だがだからといって誰しもが法の目をかいくぐってマフィアになる訳ではない。本人ですらなんで法に背いて、背き続けられるのかきっとわかっていないような、そんな感じがあって、だから一体彼がどこにたどり着くのかというのは、最後のページを読み終えるまできっとわからない。
監獄で去り際にダニーは言う「おまえも大人になったな」と。これは皮肉なのかと思ったけど、どうもそんなことは無いようだ。ジョーは修羅場をくぐって死線を越える一方、家族が出来る。夜を支配する一方で昼の暖かさも手に入れる訳である。運命の女エマと決着を付ける下りは読んでて本当にゾクゾクしたものだ。大人になった訳じゃないし、若かったときのすべてが間違いだった訳でもない。ただ今じゃこうなったのさ、というなんとも格好いい男っぷりであった。

私はどちらかというと(本質的に社会にとって悪い存在であるというよりは)自分の臆病さ故に、どうしてもマフィアとかやくざとかはたとえフィクションの中でもなかなか好きになれない。しかしこの本のジョーの言い訳しないまっすぐさ(まっすぐなマフィアである)には何かしらこう大いに引きつけられるものがあった。
前作の主人公ダニーはどうしたって猪突猛進型の愛すべき熱血漢であった。彼は自分のためというよりもむしろ大義や友情のために自分を投げ出すことが出来る男だった。一方ジョーはどこまでも身勝手な人間ということが出来ると思う。しかしその運命を自分の手で切り開くような潔さはやはり人を引きつける。彼が最終的に愛した物事を考えるとちょっと寂しい感じもする。彼は結局目の前で展開する出来事をなす術無く見守ることしか出来ない子供であったのだろうか。意見が分かれるところだと思うが、いろいろ考えさせられた。

非常に面白い本を読んだと思います。デニス・ルヘインはやっぱり時代を切り取ってじっくり人の成長を書くのが抜群にうまいと思う。
重厚な小説だが是非読んでほしいと思う一冊。
ちなみに本作、ベン・アフレック監督で映画化が決まっているそうですよ。

2013年12月8日日曜日

デニス・ルヘイン/シャッター・アイランド

アメリカの作家によるハードボイルドなミステリー。
2003年に出版され、日本では2006年に翻訳された。
有名な作家による有名作であることは間違いないが、マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演で2010年に映画化されており、こちらで知っている人も押印じゃなかろうか。
ちなみに私は映画の存在を知っていたものの見たことはなく、前にブログで紹介した「運命の日」に多いに感動して同じ作家の本を買ってみたのである。

1954年、連邦保安官のテディ・ダニエルズは相棒のチャック・オールとともにフェリーに乗りボストン沖に浮かぶシャッター島を目指していた。島にはアッシュクリフという病院が存在し、精神を患った犯罪者たちが収監されている。この施設から女性の患者が一人こつ然と姿を消した。重い監視がついた施設内の部屋から文字通り消えたのだった。謎のメッセージを残して。テディとチャックは捜査を開始するが、島にはかつてテディの妻を殺害した男が収監されており、折しも巨大な台風が迫るさなか事件は思わぬ方向に大きく動いていくことになる。

舞台は1950年代である。当然現在とは大きく隔たりがあって、とくに精神病理学の現場となったら今とはだいぶ趣が異なる。とにかく閉鎖的封鎖的で、治療薬だってその効果のほどは不確かでロボトミー手術が治療の一つの手段として存在していた時代である。
そこに警察官がたった2人で乗り込むという訳だから普通の警察小説とはかなり趣を異にする作品である。昨今の警察小説・犯罪小説が犯罪の手口が時代とともに大仰になっていくのにあわせて次第にそのスケールを増していることを考えると、時代設定も相まってだいぶ古風な作品であるといえるかもしれない。しかし犯罪の本質、その恐ろしさ、おぞましさというのは時代がいくら変わっても変わらないものである。むしろ現在と隔たりがある分、なにかしら不気味な存在感があるのかもしれない。

社会から孤立した、精神に異常がある犯罪者を収監している小島、テディとチャックの2人はそんな異界に足を踏み入れて女性の創作にあたる訳だが、謎めいた患者、島の物々しい雰囲気、謎の暗号、捜査は広がりを見せるどころか謎の小道に迷い込んでしまうようである。加えてテディの妻を殺した仇敵の存在、物語は妻を失ったテディの深すぎる悲しみにページを割いていく。物語は次第次第にテディの内面に切り込んでいく。井戸に沈み込んでいくように深みにはまっていく。昨今の警察小説の主人公たちは種類は違うものの何かしらの問題を内面に抱えていく、外で発生する事件と同時進行で彼らの内面が描写され、事件の解決とともに内面の問題も解決する場合、解決した後も同じように問題を抱えていく場合、それは様々だが、この小説では主人公であるテディの内面の問題がどんどん肥大化していき、外的世界を浸食していくようである。捜査は進んでいくのに、文字通りの箱庭で巨大な陰謀によってコーナーに追いつめられてしまうような閉塞感と不安感がある。
すべてを吹き飛ばしてしまうような嵐が象徴的で一体嵐が過ぎ去った後はどんな景色が広がっているのか、ぜひ読んでいただきたいと思う。

「運命の日」とは全く違った意味でううむ、と唸らされた。
物語だからどうしても極端な所はあるけど、今作でも出来事の持つ良い側面、そして悪い側面をどちらも描くような力強さがあってそこがこの作者の持つ面白さなのかもしれない。非常にオススメ。

2013年12月1日日曜日

デニス・ルヘイン/運命の日

アメリカの作家によるハードボイルド小説。
デニス・ルヘインというと一番有名なのはクリント・イーストウッドによって映画化された「ミスティック・リバー」だろうか。私も最近この映画を見直してそのシナリオの巧みさと作品を覆う独特の正義感と世のやるせなさを感じさせる雰囲気に圧倒されたものである。
そんなこともあってこの本を手に取ってみたのだった。

1910年代アメリカは荒れていた。
自由の国では無政府主義者、共産主義者たちが徒党を組み政府の転覆を企み、テロが繰り返された。
ボストン市警に勤めるダニーは警察一家に生まれ、親族の命令で警察内で労働組合を組織しようとする一派への潜入を命じられる。
一方オクラホマ州では黒人のルーサーはギャングと関わった故に殺人を犯し、追っ手を逃れるためにボストンに流れていく。
ダニーとルーサーは運命的に出会い、友情を育むが時代の激流に飲み込まれていく。

これは非常に短い期間を綿密に描写した長い小説であるが、その背景というか根底にはには舞台となるアメリカという一つの国が重要な意味を持っている。この本には実際のアメリカの偉人たちが何人か出てくる。(FBIを設立したフーバーとか。)だからちょっとした(重みは半端ないのだが)年代記と行っても良いかもしれない。
ので、1900年代のアメリカについてちょっと説明せねば。意外に日本人の私たちにとってはよくわからないのだと思う。私の場合はわからないということもわからないくらい意識してなかった。
まず非常に社会が荒れている。アメリカがテロに脅かされるようになったのは911に象徴されるようにてっきり昨今のことだと思っていたが、実際はそんなことはなかったようだ。
1900年代当時のアメリカは共産主義者たちが暴れまくり、爆弾テロも頻発していたようだ。そして重要なテーマなのだが、警察官は異常な薄給の中劣悪な環境で働かされ、労働組合などはなかった。今でいうとんでもない超ブラック企業だが、当時では警察官が労働組合を結成すること、もしくは参加することは正義の徒であり、市民の従僕としての警察官としてはとんでもないことだと考える人が少なからずいたということである。
そして黒人の差別は根強く、黒人は白人に使えてしかるべきで、バスでは黒人は専用席に座らなければ行けなかった。あまつさえ白人に面白半分やとんでもないへりくつ・難癖を付けられ最悪当然のように殺されたりもした。
アメリカというと銃社会といこともあると思うが、現在でも日本人からすると野蛮な感じがするのだが、この本ではもっと野蛮である。理不尽が横行し、暴力がものをいった。そんな時代でまっすぐ生きることがいかに困難であるか。

2人の主人公たちはこんな激動の時代に生を受けて、自分ではどうしようもない力の中でひたすら翻弄されていく。そこでは一時の判断が生死を分けて、行動の結果が思ってもいないような結果をもたらす。自分の力というとたかが知れているのに、2人はそれぞれの信念でもって非常に大きな力に立ち向かっていくことになる。それは大きな意義性を伴い、殺人という罪を犯して家族と離ればなれになったルーサー、大切だった家族と決別することになるダニー。ひょっとしたらこの本は「仕方ないさ」に果敢に立ち向かっていく若者を描いた青春小説であるのかもしれない。
そして往々にして思うのだが、悪役が本当に悪いやつの物語は抜群に面白い。ダニーとルーサーの前にどんな悪漢がその熱い思いを阻むべく立ちふさがるのか、ぜひ読んでいただきたい。貴方は心底むかつき、本をもつてが怒りで持って震えるだろう。

またこの本の主人公は実はアメリカという国かもしれない。作者ルヘインは狂言回しのベーブ・ルース(いうまでもなくあのアメリカの球界の永遠のスターである。)や主人公たちの目を通してこの国に時に批判的、時に肯定的につまり、紳士に(作者の感じる)正当な視点で描こうとしているように感じた。それは「ミスティック・リバー」でも存在した、善い悪いを超越した視点である。発生した事象を清濁あわせて精密に描写するまじめさがあって、それは往々にして私たちに重い衝撃を与え、時にはカタルシスがなく、途方に暮れさせてしまう。考えさせてしまう。

正直にいえば上巻の前半分は少々冗長に感じてしまい、ページをめくる手もなかなか進まなかったものであるが、事件が起き始めると一気に引き込まれ寝る間を惜しんで最後まで読んでしまった。
読み終えて本を閉じたときに思ったものだ。これはすごい本を読んでしまったぞと。
久しぶりにどーんと殴られるような重ーい小説であった。
貴方に凄まじい衝撃を与える本であることは間違いない。生半な気持ちでは読めないかもしれない。しかしその面白さは折り紙付きであることは私から保証させていただく。大変オススメです。