2018年5月25日金曜日

ボリス・ヴィアン/お前らの墓につばを吐いてやる

フランスの作家の長編小説。
今まで読んで一番面白かった小説はなにかというのは難しい質問だが、心にずっと残っている作品がいくつか上げることができる。
そのうちひとつがボリス・ヴィアンの「心臓抜き」だ。読んだときの衝撃は今でも強烈に覚えている。好きな割には他には「うたかたの日々」しか読んでなく、今回装いも新たに再発されたこの本を購入した。
知り合いの版元からなにか面白いアメリカのノワールは無いか?と聞かれたヴィアン(ジャズ・ミュージシャンとしての顔が有名な多才な人で海外小説の翻訳も行っていた)が「翻訳するくらいなら俺が書いてやるよ」ってぱぱっと書いたのがこの小説。
黒人作家のヴァーノン・サリヴァンなる人物の作品ということで(つまり変名を使って)出版された。内容は過激で裁判の果に発禁処分の憂き目にもあった。ヴィアンはこの騒ぎを大いに楽しんだようだが(謎のアメリカ黒人作家が彼であるということは結構早い段階でバレてたようだ)、良くも悪くも彼の生涯に大きな影響を与えた。ヴィアンはこの作品を原作とした映画の試写会で亡くなった。作品について監督ともめていたらしい。

内容はノワールだが、ギャングや麻薬が出てくるモダンなものとは違う。もっと泥臭くて個人的なものだ。雰囲気・構成的には「俺の中の殺し屋」などのジム・トンプスンのそれによく似ている。クレバーで器用な男(彼とアルコールは切っても切り離せない関係というのも共通している)が完璧な犯罪を組み立てるが、実際に実行の段になると不測の自体が発生し窮地に陥るという筋。
この作品の面白いところは主人公が黒人であることだ。これが彼を犯罪へ走らせる動機となっている。男三兄弟に生まれた彼は混血であるがゆえに見た目は白人にしか見えないのだった。ただしそれでもアメリカ以外の土地で奴隷として扱われ、やっとアメリカに帰り着くと弟は黒人であるゆえに殺されており、兄もまた生まれた土地から追いやられているのだった。意趣返しという意味では復讐譚だが、この場合は人々の人種差別意識とそれが根を張るアメリカ社会という巨大なシステムが彼の敵であって、したがってこれに影響を与えるということは難しい。そこで彼はその憎むべくシステムに与するものに対して個人的な報復に出ることにした。これをもって白人至上主義者会に対する警告とすべく企んだのであって、暴力でもってなされるそれはテロリズムであった。しかし彼は自信の思想というものを多く語らず、というよりはあくまでも個人的な恨みつらみを、個人的な感情によって説明しようとするので、堅苦しく、そして胡散臭くない(彼は自分に対する狂信者ということができるかも知れない)ので、結果的には表面的な政治色は極めて薄い物語になっている。
白人至上主義者の申し子のような地方の金持ちの女性を落として殺す、という復讐の手段がそれ自体艶のある娯楽性(赤裸々ではあるがそれでもまだ今に比較すると上品さが感じられる水準)をはらんでおり、また地元のティーン・エイジャーたちとの奇妙な友情関係、そしてその虚偽の関係に潜むバレるかもしれないというスリルもあって、パルプ・ノワールへ期待する読者の気持ちをしっかり満たしてくれる。しかし作品を貫いているのはあくまでも、(差別がはびこる、差別を肯定する)社会に対する断固とした「NO」である。あなた達のルールには与しない、首をかけられるくらいなら死を選ぶという態度。真っ赤に燃え盛る憤怒の本流がその途上にある人々を不幸に叩き込み、そしてそのまま否定的感情が破滅的な厭世観に熟れて、真っ逆さまに奈落に落ち込んでいくという下向きの真っ赤な矢印が物語を刺し貫いている。それは不幸ではない。偶然でもない。明確な運動(抑圧)とそれに対する抵抗である。
そんな物語が、生まれつき心臓が弱いのにジャズ(言うまでもなく黒人が生み出した音楽である)に傾倒し自分自身も一流のトランペット奏者で体を顧みない生き方をやめようとせず、そして激しい閃光のように散っていった作者ボリス・ヴィアンの生き方になんとなく重なるのであった。つまりそれは彼の生きた軌跡のようなものだ。閃光が消えた後も残り強烈に網膜を焼くあの強烈な。

0 件のコメント:

コメントを投稿