2018年6月3日日曜日

カズオ・イシグロ/忘れられた巨人

ノーベル文学賞を受賞した作家の長編小説。
初めて読む作家だったがなんとなく手に取ったのがこの一冊。中身はかなりかっちりしたファンタジーで意表を突かれたが、結果的にはこの一冊を選んで良かったのではと思っている。

アーサー王が崩御したのちのブリテン島。鬼や竜が普通に存在する世界では不思議に人々の記憶が徐々に薄れていくのだった。とある村で暮らす老夫婦はある日長い間離れて暮らしている息子に会いにいくことを思い立ち、良きを選んで出立する。途中の村で異国の腕の立つ騎士と、寡黙だが戦士の才がある少年と出会い、四人で旅路を進んでいく。

記憶を失わせるという霧に覆われているという世界設定通りに物語もどこかぼんやりしている。筆致はシンプルだが優しく、鬼や竜というわかりやすい敵がいる分戦闘の描写などもあるが、必要最低限のことを書き出し(なので十分に残酷である)、淡々と物語は進んでいく。剣と魔法の剣呑だが能天気なファンタジーというわけではなく、むしろ訪れた先々で不和と争いの痕跡や火種が見て取れる。かつてこの国では恐ろしい戦乱があったらしいのだ。そして今もその残火がくすぶり続けている。ひとえにこれらが再燃しないのは記憶の希薄化によるものらしいのだ。記憶がない分人は毎日新しい自分を生きるというわけでもない。むしろ断片的な記憶に固執し、そしてさらなる欠落を恐れているようでもある。不確かさが毎日をおおい、本当のことが常に隠されているように感じる。生活の本質がすでにどこかに行ってしまったような気がしている。
いわば曖昧になってしまった世の中で主人公たち4人たちはそれぞれに目的を持って前に進もうとするわけだ。他の人たちは記憶が薄れた世界で続く単調な毎日に特に疑問や不満はないようだ。ところが動き出してみると色々な災難が主人公たちに襲いかかってくる。様々な判断を迫られる、また肉体的な精神的な痛みも伴ってくる。忘却というぬるま湯に浸かって生きるか、痛みを伴いながらも記憶を取り戻していくか、そんな選択が案に物語の根底に表現されている。
そして不和。どこに行っても争いごとだらけ。口論、つかみ合い、殺し合い。集団生活の決まりごと、民族間の遺恨、諍いの理由は幾つでもある。そんなひどい世界でたったひとつ最後まで綺麗な絆があって、それが主人公の老夫婦二人の間にあるのがそれだ。もう相当おじいちゃんなのに妻のことを「お姫様」と呼ぶ、そんな関係だが、とにかくこの二人がよく喋る。なんでも喋って決める。単に心温まる会話というのではなくて、この世界で生きていく上での知恵であり手段でもある。ここに人々の間に蔓延する不和に対するシンプルな回答が用意されているわけだ。それがみんなに適応できるかはまた別の問題だろうけれども。
記憶を犠牲に過去の遺恨の一部を封印した世界はいわば一時停止中出会って、その操作を止めるべきか、それともこのまま安寧に停止したままにしておくのが良いのか。

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