2018年9月30日日曜日

ジョゼフ・コンラッド/闇の奥

ポーランド生まれの作家の小説。
原題は「Heart of Darkness」で1899年に発表された。日本ではいくつかの翻訳で出版されているが私が買ったのは光文社の黒原敏行さんの訳のもの。
先日読んだマッカーシーの「ブラッド・メリディアン」のあとがきに書いてあるもので買って見た。他にも色々な創作物に影響を与えている作品らしく、コッポラ監督の「地獄の黙示録」はこの作品を翻案したものだ(この本を読むまで知らなかった)。

面白いなと思ったのは結局クルツという男が一体なんだったのかということがわからないところ。これは私の理解力不足も大いにあると思うけど、登場する人物たちである人は彼の信奉者であり、ある人はひどく嫌っているといった風にとにかく影響の大きい人物だということはわかる。語り手であるマーロウもクルツという男は足した傑物、「声」だったと回顧する。散々煽っておきながら、実際のクルツに関してはほとんどその個性が具体的に描かれていない。コンゴの川を遡上し、文字通り密林の闇に入り込んでいくマーロウ。しかし目当てだったクルツはすでに瀕死の状態で、マーロウとの間に交わされた、マーロウがクルツをして「声」としたその所以はついに作中では語れることがない。もちろん少ないページでも圧倒的な存在感を示していくのがくるつなのだが、読み終えてクルツという男が結局なんだったのかというのはなかなか判断に難しい。どうやら身分違いの恋の果てに一山当てようとしてコンゴの奥地に入り込み、尋常じゃない量の象牙を入手し、会社の中で一気にその存在感を示したが、その後音沙汰がなくなる。どうやらコンゴの奥地で自分の王国(のようなもの)を作り上げ、その玉座に座ること、権力の象徴として象牙を集めることに執着していたらしい。才能はあるが成功するに至らなかった男が、未開の地で(文明的に遅れており無知な)原住民に対して神のごとく振る舞い、その楽しさに酔っていった、という感じになるのかな。彼は全く個性が掴み取れない。鏡のようなもので、彼に会いたいした人はみんな己をクルツの中に見る。会社の人間たちは自分たちの欲望を具現化し、歪んだ理想郷を実現したクルツに嫉妬し、道化の青年は流浪の果てに王国を築き、無知な原住民に智慧の光をもたらして理想の冒険者を見て取ったのかもしれない。それなら船乗りのマーロウは彼に何を見出しのだろうか。
闇とは単にコンゴの奥地という意味ではない。西洋の考え方や法律が通用しないなんでもありの土地はそのまま野生を表している。そこでは人間は裸にならざるを得ず、普段巧妙に自分からすらも隠しおおせている本質が曝け出されてしまう。
それともやはり密林は暗い力を持っているのだろうか。クルツは何と戦っていたのだろう、無知だろうか、蛮習だろうか、どうも今わの際のセリフは密林に対して吐かれているようだ。作品の中の描写では西洋の教化もそして搾取も広大で濃密な密林には対して効力がないように見える。それどころか熱病にやられて白人は死んでいく。密林の尖兵たる黒人も死んでいく。まったくここは人の住む地ではないように。その奥に分け入っていくことは何かの証明になるのだろうか。

TJxLA FEST 2018 Day2@Zirco Tokyo

日本のレーベルTokyo Jupiter RecordsとLongLgesLongArms Recordsが共同で主催するその名もTJxLA FESTが2回目の開催ということで行ってきた。めあてはスペインのネオクラストバンドKhmerで、音源もさることながら前回見た来日公演でけっこうな衝撃を受けたのでこれはもう一度見ないと、と思ったのだ。2日間の開催で迷ったのだが、私は2日目にいくことした。
会場のZirco Tokyoは初めて行くライブハウス。多分まだできて間もないのではないかな、きれいでした。歌舞伎町のど真ん中くらいにある地下二階。分煙で喫煙所が別れているのが嬉しい。エントランス、フロア、バーカウンターの順につながっている結構広いライブハウスでフロアは決して広いわけではないけど、横に長くて何より特徴的なのはステージが広い!経営者としてはチケット代を稼ぐために客を入れたいわけだから必然的にフロアが広くなるのはわかるんだけど、ここは結構ステージに場所を使っている面白い。結果いろいろな演者が立ててライブハウスのラインナップも豊かになるってわけだ(と思う)。面白いなあ。音も相当に良かったと思う。自動で動くカーテンがステージに付いていて、転換のときはこれを閉じるシステム。

Pale
一番手は日本は東京のブラッケンド・ハードコアのPale。一発目の出音が素晴らしくて圧倒されたしこのイベント間違いないなと確信した。そのくらいの迫力がある。
ギター1本に専任ボーカルの4人組。ギタリストは日本では珍しい?長髪にヒゲぼーぼーの浮世離れスタイル。(ちゃんと清潔な感じ。)
速度の早いハードコアにこれでもかというくらいトレモロをかぶせるTheブラッケンド・スタイル。一時期一部の界隈では隆盛を極めたが、それ故今ではここまでストレートに鳴らしてくるバンドは珍しいかもしれない。何が良いって音が良いのである。一連のブラッケンド・ブームの火付け役であるAlcestはその後の正しくシューゲイザーの美麗な音作りに接近していったが(最新作ではまた違う報告に舵をとっているらしい)、個人的にはそうじゃないという気持ちもあって。というのももはやそうしたらブラック(メタル)じゃないじゃん。私が聞きたいのとはちょっと違う。ところがこのPaleに関してはそんな美麗さとは全く違うベクトルのトレモロを鳴らしているわけだ。それでは小汚いプリミティブかと言われるとそれともちょっと違う。まるでMortiferaの1st(AlcestのNeigeが在籍していた頃)のようなガリガリとした音なのだ。このザキザキささくれだった音がたまらない。有刺鉄線でできているようでこれが高速で回転するとこちらの気持ちがザリザリ削られていくようでたまらなく快感である。このマゾヒスティックな快感は確かにブラック・メタルの耽美差につながる。ハードコアデコレをやるというのは更に倒錯していて良い。そう考えるとボーカリストの動きもなんとなくDeafheavenのボーカルに通じるものがあるように思えてくる。ラスト近くにやった曲は高速で刻んでいくスタイル(シューゲイザーmeetsスラッシュメタルな感じ)はどことなく往年の(今はちょっとスタイルが違うので)Coaltar
of the Deepersを彷彿とさせた。とても良かった!理想の1番手だったと思う。


Klonns
続いては東京のハードコアバンドKlonns。主催の3LAからリリースされたコンピレーション「ろくろ」収録のインタビューでは明確にブラッケン度とのつながりを否定していた。実際聞くと確かに違うんだよな、ということがわかる(ただしノイジーなトレモロなど似ている要素が少しあるのも否定出来ないと思う。)んだけど、この日見てさらに完全にハードコアバンドだなと再確認した。
曲やパートによってほぼハーシュノイズとかしているギターに印象を持っていかれがちだけど、ベースがD-beatか2ビートが基本のローファイなハードコアなんだ。ローファイっていうとあれだがオールドスクールと言っても良い。ボーカルがリバーブかけているのも前衛的に誤解しがちだけど、歌唱法を聞いてほしい。ほぼメロディがなくて単発でシャウトをうるさい演奏にかぶせるスタイルだ。(ただしライブ後半は結構ボーカルの頻度が多くなっていたような気がする。)叫びであって歌じゃない。これがなにかというとD系のクラスト・コアかなと。たまに挟まれる短くつんざくようなギターソロも個人的にはそちら方面の影響色濃いような気がした。もちろん当時のそれからはかなり表現方法を独自にアップデートしているわけだけど、抑えるべきところはきっちり抑えている。もちろんなにかがあってその本質をどこと捉えるのか、というのは人によって異なるわけだから個人の印象になってしまうのだが。
抑えめの楽器隊とよく動くボーカリストの対比も良い。以前スタジオライブのときはステージとフロアの境がなくて怖かった。この日もそんな緊張感があってよかった。


老人の仕事
続いては東京をベースに活動するトリオ編成のストーナー/ドゥームロックバンドの老人の仕事。音源は持っているのだがぜひともライブを見たかった。この間のkillieのライブが恐ろしく良かったからだ。
ドラム、ベース、ギターのトリオ編成。全員狙撃手が原っぱに隠れる際の迷彩であるギリースーツらしきものに身を包んでいる。はじめ老人というバンド名なのでボロを着ているのかと思ったら、もっと森の精的な意味合いがありそうだ。オーガニックな感じだ。つまり葉っぱだ。葉っぱの妖精なんだ。(深い意味はない。)照明は当然緑一色で、メンバー三人が三角を結んで向かい合っているのは神秘性を演出するというよりはフリーな楽曲で合わせるところを合わせるためだと思った。
ステージに持ち込んだ小さい鐘の音がなって演奏が始まると、ブリブリ分厚いが温かみのある埃っぽいヴィンテージ・サウンドが桃源郷に導く長尺ストーナー絵巻だ。同じ煙たさで行ってもどんよりとこもった邪悪なドゥームというよりは煙に巻かれて高みに立ち上る無双の中を明晰が打つような密教的な音楽。反復的だがそこにのみ固執するというよりは、確たるテーマを反復しつつ、それを足がかりに自由に広がっていくような奥行きのあるサウンドで、何かというとこれはSleepだ。もうもうたる音楽に巻かれているとal
cisnerosのけだるいボーカルが聞こえてきそう。サイケデリックなのだが、酩酊的なのはそうだが、たとえばEarthlessのように弾きまくるというよりは音程よくのばし、そしてアンサンブルで合わせるところは合わせる。これが例えばめちゃでかい音とかじゃない。あくまでもアンサンブルでかっちり頭を合わせていくというオーガニックなもので、この強弱のバランスが酩酊状態をいい感じに持続させてくれる。まさに夢見心地。気持ち良い。グリーンなんだ。緑なのだ。人間にはこれが必要なのだ。リラックスしろ。ぼんや~りしているとメンバーがカーテンを締めて終了!もっと見たい。少なくとも倍の時間でも良い!もはや中毒。またライブに行きます。


thisquietarmy
続いてはカナダの一人ユニット。持っているのはギター1本なんだが、足元ののスイッチ類の量がえげつない。足元のペダル、スイッチをじっと見るからシューゲイザーなのだが、このユニットの彼はもはや見るだけじゃなくてあっちを押したり、つまんで回したりと、むしろこっちがメインのようだった。大量のエフェクターでギターの音を加工し、それを多重録音でどんどん重ねていく。使っているのはルーパーだろうか?あくまでも短い録音タイムを反復させて重ねていく。手法的にはシーケンサーを使ってつくるテクノっぽいのではなかろうか。(私はカオシレーターしか持っていないからあっているかわからないけど。)
ただ音の方はテクノとは程遠い、分厚くまた輪郭のはっきりしないものだ。(おそらく)歪ませた上で空間系のエフェクターを何重にもかけているようで、出ている音はヘヴィ・アンビエント(こんな矛盾した言葉もないな)やヘヴィ・ドローンといった趣でもったりと重たく厚みがある。どれも滲んだように音の輪郭が合間でそれらが半ば融解して一つになり、巨大な音像を生み出している。トレモロが儚いメロディを奏でているのが音の隙間に垣間見えるような気がするが、それも木のせいなのかもしれない。ただ不安定に振動するノイズの間に聞こえた空耳だったのかもしれない。面白いのは曲によってはマシーンドラムによるビートが入ること。これも重たく遅く、見るからに機械製といった趣でそういった意味では同郷のヘヴィ・ドローンユニットNadjaに通じるとことがあると思う。ただ向こうは多重録音をここまで駆使するわけではないので、音の数という点では差異がある。
プロジェクターを使ってモノクロの景色を映し出す中でこの轟音を聞いていると、深海で巨大な生き物がゆっくりと反転しながら泳いでいくさまを見ているようでもあった。


of decay and sublime
日本は大阪のVampilliaのギタリストの方の別のバンド。こちらは洒脱なポストロックという感じのイメージ。物販を見ると音源の装丁やTシャツのデザインなどが非常に洗練されていて世界観をきちんと構築していることがわかる。大体白を基調に統一されていたようだ。
ブラックメタルからの強い影響はありつつも、それらを用いて最終的にはポストロックの形でアウトプットしているなと言う印象。ギタリストが三人いるのが特徴で、きちんと役割分担されている。一人はアルペジオ担当、もうひとりは和音担当(ただこの人はもっと細かい技を駆使していたように思う。)、そして最後の一人がトレモロ担当。最後のトレモロがこのバンドの肝であるメロディを担当している。これでもかというくらいトレモロを弾きまくる。一番手Paleはプリミティブなブラックメタルの病的さを受け継いでいたけど、こちらは技法はそのままにすでに聖別されて浄化済みでむしろ神々しさすら感じるレベル。スライドから滑るようにメロディを奏でるトレモロの美しいこと。楽曲に緩急があって一辺倒でくどくなりがちなマンネリからしっかり脱却していた印象。イヤモニをおそらくつけていたのは、とにかく正確さを至上としているアティチュードの表れだったのかなと。音楽的にはオランダの一人ブラック/シューゲイザーのHypomanieに似ているところがあると思う。あえてトレモロの存在感を絞ることで儚さを演出する辺りに共通点があるかなと。こちらのほうがもっと外へ外へ広がっていくという音像で明るく、そしてポストロックの成分が強めだけど。あとドラムがかなり強靭だった。三拍子の曲が多かったかな?(自信ない)

sans visage
続いては日本は東京のエモ/エモバイオレンスバンド。
見るのも聞くのも初めての3人組。いわゆる激情スタイルのハードコアなのだろうが、完全に西欧スタイルで新鮮。おおよそエモからスタートした音楽は日本でけっこう独自の進化を遂げているのではと思うのだが、このバンドに関しては割と正統派なエモ/エモバイオレンスをやっているのでは?という気がした。日本のバンドが次々と暗黒方面に落ち込んで行き、見た目や音楽にもその方面の差異が現れてそれは島国ジャパンの良い意味でガラパゴスという感じで大好きなのだが、こういう素直で正統派な表現方法もやはり良い。メンバーはたぶんかなり、とても若そうだが、そのてらいのない真っ直ぐさとエモという音楽/文化ががっちりタッグを組んでフックのないストレートな音楽が波になって私を襲う=泣きである。これはくる。ただ別に冷房の効いた部屋でおっさんが甲子園を見ている気持ちとは違う。年齢不問の主張がバシバシくるのだ。別に彼らが老人だって良いんだ。単純に良い音楽なんだ。大人が偉そうに青くて素晴らしい音楽だなんていう上から目線で言うヤツじゃないんだ。
正当といってもオリジナリティはあって、例えばメンバーが終演後City of Caterpillarのシャツを着ていたが確かに生音を残した生々しいイメージ(像)という音的には非常に通ったところがあるものの、あの反復的に繰り返していく病的な、生で見ていると思わず固唾を飲んでしまうような緊張感はなく、その代わりエモバイオレンスのバイオレンス、つまりもう感情が爆発してしまうあのパートが全編続いているような、そんな感じなのだ。曲はおそらく短く、矢継ぎ早(途中で弦が切れて中座するところはあったけど)に曲を演奏していく。速い、重たくはないがそれゆえ生々しい。


Khmer
続いてはスペインはマドリードのネオクラストバンドKhmer。
2年前の来日ライブは衝撃的だった。非常にポジティブだったからだ。観客の多くが笑顔で楽しそうだった。概ねライブで人は楽しそうだけど、こうもポジティブな雰囲気だったのは後にも先にもKhmerだけだ。もちろんフロントマンMarioの立ち居振る舞いの影響が多いのだろうが、それだけではないはずだ。機会があればもう一度ライブが見たかった。というわけで本日のお目当てである。今日はあの謎を説いてやろうという気がまえでなるべく前の方に。
前回ベーシストはオライアさんだったが今回は欠場で、かわりに坊主にヒゲのいかついメンバーがベースを担当。この人はもとIctus。でギタリストとドラマーも元Ictus。なので今回ボーカリストのMario以外は全員Ictusのメンバーということになる。Ictusといえばスペインから全世界にネオクラストを発信した伝説的なバンドだ。今回そういった意味でも貴重なライブになった。見終わってみるといい意味で前回のライブの印象が裏切られる形になった。まず音が出た瞬間に思ったのはKhmerってこんなにヘヴィなバンドだっけ?ということ。メンバーが全員Ictusというのもあったかもしれないが、そういえば目下の新作「Larga Sombra」でも典型的なブラッケンドから身軽に脱却して新しい世界観を提示していたのだった。あの新曲群をライブで見るとこうも強靭なのか。速さを維持しつつリフは結構めまぐるしい。例えばビートダウン的な要素は皆無で、由来はあくまでもクラスト。濃密でありながらかなり無愛想かつ贅沢(リフレインや過剰な装飾性には目を向けない)に突っ走っていく。メロディアスなトレモロはキャッチーでエモーショナルだが、それゆえコマーシャル的で画一的でもある。とっとと次の挑戦をする姿勢はパンクだと思った。
Marioは相変わらず長身を生かした(多分ステージ上では実際より大きく見えていたんじゃなかろうか。)しなやかなステージングとそしてあの笑顔!見ているこちらまで楽しくなってくる。ただ今回近くで見てわかったがMarioだった常に笑顔でステージ上に立っているわけではない。叫んでいるときはめちゃくちゃ張り詰めている。当たり前だが真剣だ。今回はステージからフロアにも降りてくるMario。暴力的ではなかったがそれでも非常にラディカルだ。曲だけ聞けば「とにかくこの場だけをみんなで楽しもう」的なバンドではないことはすぐわかる。攻撃的で時には陰鬱なハードコアだ。彼らは別に悲しいふりもしない、怒っているふりもしない(曲を消えば怒りも悲しみもしっかり含まれているが、ステージ上ではそれを過剰に装飾しない、つまり演技しない。)、ただ伝えてくる。それが自然で多分ありのままの彼らがすっと目と耳から入ってくる。
非常に謙虚なMCもとても良かった。ただ楽しいじゃなくて本当締めるところバッチバチにしまっていて結構個人的にはビリビリ震えた。すごかった。


Rosetta
続いてはこの日のとり。アメリカ合衆国はペンシルベニア州のポスト・メタルバンド。
白状してしまうと1st「The Galilean Satellites」しか持っていない。2枚組の同時がけ推奨の厄介なやつである。
ギタリスト2人に、選任ボーカルがいる5人組。最近は追っかけてなかったので、もっと頭でっかちなバンドで例えばシンセ担当のメンバーがいるのかな?とか複雑な展開のアートっぽい曲なのかな?と思っていたのだが、始まって見ると全然肉体的な音楽やっていてびっくりした。(1stも聞き返すと別に頭でっかちでは全然なかったのでした。)バンドアンサンブル以外の音はボーカリストがタブレット(?)から出すくらいでそれも味付け程度。基本はかっちり重厚なメタルサウンド。ポストとついてもロックとはかなり違(これはバンドによって異なるだろうが)って、Rosettaに関していえば全編これクライマックスというくらいギュッと凝縮した曲をプレイするバンドのようだ。もっとこう静かに始まって徐々に組み立てていくのかと思っていたので結構びっくりした。音は大きいが刺々しいでかい音というよりは轟音を柔らかいわたで包んだような独特なもので、シューゲイザーとはまた異なる。これに浸っているととても気持ちが良い。そうこうしているとボーカリストの咆哮が入ってくる。こっちはこっちで声が入るときは基本全部叫んでいる。例えばアルペジオから轟音パート、のようなわかりやすい展開というよりはゆっくり曲が鳴り続けてその姿を変えていくようなイメージか。とにかくうるさいの独特の恍惚感があって確かに、ポスト・メタルというジャンルをしっかりに脳に刻んでくる。ボーカリストの方は細身だが、格闘技の経験者のようなゆっくりしているが非常にしなやかな動きで妙に雰囲気があってかっこいい。煽り方も非常に良かった。
終演後アンコールの拍手が鳴り止まなかったのだが、締められたカーテンからボーカリストの方がひょっと顔を出して「ごめん今日はここまで、またすぐにくるよ」(たぶん)とのことでした。

Tokyo Jupiterと3LAはかなりカラーの違うレーベルで、こうやってそれぞれが選出したバンドが顔を並べてイベントをやるとその違いが浮き彫りになっていて非常に面白かった。ひとえに轟音といっても結構違いがあるし、ポスト感の解釈も結構千差万別かなと。個人的にはブラッケンドという一つのムーブメントに対して色々なバンドがそれに参画し、それを構成しつつも、今この時にそれぞれの付き合い方が微妙に変わってきているのが面白かった。

米原万里/オリガ・モリソヴナの反語法

日本の作家による長編小説。
会社の上司に勧められて買った本。とにかく知っている(好きな人や興味のある人)人のオススメというのは本でも音楽でも映画でもなんでも良いに決まっている。自分の好みとは違った世界を知ることができるからだ。もし本屋でこの本を見ても買わなかっただろう、教えてもらわなかったら。
幼少期にチェコのソビエト学校に通っていた主人公が大人になってから印象的だった舞踊の教師の生い立ちに迫る、というストーリー。うーん、やっぱり自分では買わない。会社の上司というのは私の好みを知っているので、何かあるだろうなと思って読んでみると果たしてそうであった。単なる良い話などではなく、かなり壮絶な歴史が提示される。
さて(絶滅)収容所と言ったらナチのそれが有名だが、実はロシアというかソ連にもあったのだ。ルビヤンカといえば知っている人もいるかもしれない。とはいえ私も持っている知識はそれくらいだった。(確かプリーモ・レヴィの本で言及されていたのを読んだかな、というくらい)私だけかもしれないが、ロシアというのは近い割には日本人にとっては謎の国である。なんとなくすごく寒くて陰気というイメージがあるのではなかろうか。でも実はロシア人というのはすごく陽気らしい。確か、ドストエフスキーの本か何かに書いてあったから間違いない。大学の授業で社会主義というのは基本的に失敗するシステム、みたいに紹介されていたのが印象的だが(酷いいいようだと当時も思った。)、その社会主義の国家がソヴィエト連邦だ。レーニンという人が建国して、スターリンという独裁者が暴政を敷いたということくらいしか知らない。この時代はとにかく混沌としていて大勢の人が殺された。人がいなくなってもそれが日常茶飯事なのできにする人も少なかったとか。アンドレイ・チカチーロもこの混乱の時代に暗躍したのは有名な話。脱線してしまったが、この物語はそんな時代に生きた女性の物語。かなり奇抜な学校の先生だった女性に降りかかった過酷な運命を、かつて彼女の教え子だった女性が辿っていく。

内容的にはどうしたって陰惨になるし、実際強制収容所の中の生活の描写はひどいものだ。暴力があり、悲劇がある。男性なら復讐という奴の暴力に落ち込んでいくのだろうが、この物語は女性が描く女性の物語なのだ。踊りを軸に綴られる物語はただただくらいだけものではない。登場人物たちは過酷な状況下でも常に生き残ることが念頭にあり、そして誰もが何かをなくし、それゆえに傍にある拾える命を拾って守ろうとする。これは絆の物語でもある。ひどく不平等な世界で登場人物のほとんどが家族を失っている。その経験がゆえに他人を救おうとするのであった。もう二度と思っているからだ。
この物語はレジスタンスのそれではない。圧倒的な力、まさに圧政に最後までいたぶられ嬲られ尽くした後になんとか生き残り、そして確実に磨り減った心身でそのあとの人生をさらに生きていく話である。こんな残酷な話があるか。しかし実際には革命だ、反抗だ、
復讐だ、そんなにうまく成就するものだろうか。子供を産んで世界を作り上げてきたのは常に女性たちだった。女性はいつの時代でも黙って耐えろというのではない。(断じてない。)しかし歴史では実際に耐えに耐え抜いた女性たちがその後の社会を作っていたのだと、思った。そういった意味では救いがない話ではある。しかし筆致が柔らかくて、そして何より柔らかい。彼女らは過去のことを決して忘れないが、それに拘泥して沈んでいくということがない。彼女たちのたくましさが美しいのだ。ロシアの暗い時代について語りながらも、ロシアへの深い愛着が感じられる。

2018年9月23日日曜日

Palm/TO LIVE IS TO DIE,TO DIE IS TO LIVE

日本は大阪のハードコアバンドの3rdアルバム。
2018年にDeliver B Recordsからリリースされた。
活動拠点は大阪なのだが活動は活発で関東圏でも結構よくライブを行なっている印象。何回か目にしたライブではどこもマイクの奪い合いが起こるほどの盛り上がりで、熱い楽曲だけではなくてバンド側からどんどん盛り上げて行く姿勢が非常に印象的だった。(結構珍しいのではなかろうか。)4人編成だがメンバーは流動的なようで今作でも録音したベーシストは多分今在籍していないようだ。

メンバーの変遷はあっても音楽的な嗜好は普遍。コンセプトがしっかりしているのだろう。異常に忙しない他動的なハードコアだ。ただ不安定なところがなく変幻自在な曲をぶっとい芯が貫いているようでもある。Follow-upのインタビューを読むと初めはハードコアというよりはメタルバンドとしてスタートしたそうだ。確かに随所はかなりメタリックである。ツーバスはかなりがっちり正確でぎっちり詰まった重量感がありメタリックである。ギターに関してもかなりの技巧が冴えているリフが印象的でサラサラーと流れるというよりはリフ自体にフックがあって思ったより直接的ではない。この手のバンドには珍しいだろうギターソロも曲によっては存在する。音色も豊かである。このままだとパートごとの重量感に引きづられて曲もそれなりに重たくなってしまうのだろうが、このバンドはここから良い感じに音を抜いていて、またメタリックな奏法をパーツ的に取り扱うことで
メタリックといっても単音リフに代表されるミリタント的なマニアックさからはあえて距離を置いて、全体的にカラッと仕上げているところが特徴で何よりそういうところがフロアでもうけているのだろうと思う。モッシュするもの腕や脚を振り回すものも発生するのだが、バッチリタフガイオンリーです的な敷居の高さというより、体が動いちゃうやつ全員で暴れようぜ的なポジティブさが感じられた。ここら辺は音楽性というか関西的なノリもあるのかな?と個人的には思う。(私は思うんだけど関西人ってその人が面白いというよりは他人を喜ばせようという人ってイメージ。)
落とすところではバッチリ落としてくるんだけど、それすらもあっという間にすっ飛ばしていくような勢いが爽快。曲は上記の通りよく練りこまれているのだが、このバンド何が面白いかというと頓着というか拘泥がない。刹那的というか生き急いでいるというか、今があっという間に過去になる過程を曲にしているように常に今を更新し続ける。インタビューを読むとそれまでは英語で書いていた歌詞を試しに日本語で書いてみたらしっくり来たと書いてあって、その歌詞を読んでみるとなかなかヘイトに満ちた危険なものなのだが、これもネチネチとしてない。いうこと言って次に進む感じ。お前はそこにいればいいけど俺らは先に行くから、というようなポジティブさがあってそれがこのバンドの駆動力かと思う。

発狂したメーターのように極端を行き来するようで非常に面白い。ドロドロの高エネルギーを捏ね上げて作り上げたようなロウな質感でそういった意味で混沌としている。タイトルに関しても前作「My Darkest Friends」のラスト「My Battle Could Be Yours, Your Battle Could Be Mine」に通じる逆さまの視点でそういった意味で一貫してぶれてないバンドだと思う。

コーマック・マッカーシー/ブラッド・メリディアン あるいは西部の夕陽の赤

アメリカの作家による長編小説。
この「ブラッド・メリディアン」は作者初期の作品だが、日本では遅れて発表されたそうだ。あとがきにも書かれているが本書「チャイルド・オブ・ゴッド」という作品はその作品内容の過激さからやや敬遠されて射たようで、国境三部作の受けが良かったのでおそらく翻訳が決まったのだろう。そんなわけでこの度やっと文庫化し、購入した。
私は前述のような状況を知らなかったから少しくこの本の内容に驚いたが、とはいえマッカーシーはどの本でも形は違えで様々な残酷さを描いてきた。だから読み終わってから思い返しても彼の作品群でほの本だけが浮いているとは思わない。むしろ野蛮な世界で右往左往する人間たちという共通のテーマがこれほどわかりやすく書かれている作品もないのかもしれない。野蛮さというのは二つあって、一つは大自然の過酷さ。今作でも主人公たち一行は水のない砂漠を砂埃まみれになって旅をする。その過酷さったら現代人からしたら本当にない。もう一つの野蛮さが人の残酷さであって、これら人間というのはおよそ文明ができる前からそして、できた後ですら全く飽きずに殺し合っているのである。映画化もされた「血と暴力の国」ではそんな残酷さが一人の人間に結実して不気味な殺し屋として結晶化していたが、この本に出てくる人間たちというのはほとんどみんな残酷なのだ。主人公はメキシコが非公式に雇ったインディアン狩りのアメリカ人部隊に入隊。賞金がかけられたインディアンの頭皮を求めて、彼らを殺しまくる。好戦的なインディアンも殺しまくるし、異邦人に敵対しないインディアンも殺しまくる。メキシコ人も殺しまくるし、果てにはアメリカ人も殺しまくる。殺して奪って犯してしまう。女だろうが、老人だろうが、子供だろうが、乳児だろうが殺す殺す殺す。彼らは常に呑んだくれて無鉄砲である。明日死ぬかもしれないから金も使い切るし、別にどうなったって良いのだ。彼らは誰にも感謝しないが、今日1日の命に感謝し、そしてその幸運が長続きしないことを知っているので、とにかく好き放題やるのである。それによってほとんどは命を落とすのだが、そんなこと知ったことか。恐ろしいことにこの主人公が属するグラントン・ギャング団は実在したそうだ。主要な人物とエピソードは実際のものから取ってきているらしい。となるとこの本が描いているのはまさにアメリカの歴史で、そして血と暴力に彩られているのだ。
マッカーシーの描く作品は陰影が色濃く出ていてそこが好きだ。具体的には人間たちの興じる些細な残酷ごとに対比して、常にアメリカの自然が目をみはるほど美しい。死んだ鹿の目に世界が写るシーンがあって、私はそれが文学の一つの到達点ではと確信しているが、そんな崇高な美しさが必ずそっけない(これが重要だ、個人的には)筆致で描かれている。いわば天と地の対比であり、単に自然が崇高で人間が卑小というのではない。人間の不自然さが自然の産物であり、私たちはそこの中に含まれる。そして自然の圧倒的な無関心さ、無頓着さ。言葉にできない世界がそのまま文字に込められて物語として構築されている。ただただ畏怖するばかり。
この本で異彩を放っているのがギャング団の古株の一人ホールデン判事であり、荒くれ者の中で彼らの尊敬を集めているのに決して交わらず、そしてその独自の哲学で畏怖されているというキャラクター。主人公の行くてに現れ何かと問答を仕掛けてくる。踊りと殺しが上手い(子供をあっさり殺す)この男は端的に言って悪魔であり、人間の世に混乱をもたらすものであり、人間をたぶらかすものであり、人間は常にこれらと相対しないといけないものだ。前述の「血と暴力の国」のシュガーは悪魔のような男だったし死神であったが、人間とは交わらなかった。ところがホールデンは悪魔であり、悪魔は人間の魂が常に彼の関心ごとなのだ。地上の悪徳は全て悪魔のせいである、というのではない。人間の悪徳は人間のものである。そうすると悪魔だけが人間の本質を理解していて、それについて報せようと語りかけてくるのだろうか。人間は記憶喪失の悪魔なのだろうか、でも簡単に死ぬ人間に悪魔の強靭さはなく、そしてそうなると地上が残酷に溢れる悲劇になるのだ。なんて嫌な世界だろうか。こんな美しいのに。

2018年9月17日月曜日

killie単独公演@下北沢ERA

秋になるとセンチメンタルになる人がいるらしい。私はというと苦手な夏が緩やかに倒れていくような秋の気配がたまらなく好きだからむしろ笑顔になってしまう。一回下がり、そしてまた上がった気温も断末魔めいて悪い気がしない。そんな気分で下北沢へ向かう。killieのライブがあるからだ。昼と夜の二部構成で私は昼の方のチケットを購入した。確か早々にチケットはソールドアウトしていたはずだ。調べるとチケットを買ったのは6月でその時は9月が来るなんで想像ができなかった。そして今はもう9月の後半戦だ。光陰矢の如し、というよりは暗殺者のすり足で時は忍び寄る。そして私たちの命を奪っていくのである。時間が私たちを殺すなら私たちは常に死んでいっているのだから、別に秋だからって感傷的にならなくても良いではないか。特にできることもないんだし。呼吸のことを考えても埒もない、いわんや死ぬことをというわけだ。

12時20分ごろに会場に着くと13時開演を前にすでにそれなりに人が入っている。物販は一つ上の5階でということで見にいくと妙に充実している。音源は既存のもののみだったが、アパレルなどが充実しており、私はHis Hero is GoneをもじったT-シャツとメンバーが大胆に移ったお洒落なT-シャツを購入した。
下に降りるとすでに黒山の人だかりである。これはまずったなーと思ったが時すでに遅しでフロアの真ん中あたりの列に。緊張感がたまらなくてなんども時計で時間を確認してしまう。ほぼ13時きっかりにメンバーが登場してライブがスタート。

私は最近killieを知ったにわかリスナーでライブも数えるほどしか見ていないが、この日のkillieはいつもとちょっと違った。killieといえばライブハウスの照明を全部落として自前の蛍光灯を足元に置いただけでライブを行う。本日はまずその蛍光灯にバリエーションがあった。都合6本で2本がいつもの白色、2本が鮮やかなブルー、2本がショッキングピンクだ。さらにはプロジェクターを用いてメンバー越しにライブハウスのステージ後ろの壁に映像を投影。これはニュースキャスターが喋っている映像というらしいものから、ゲーム(ディグダグらしくものは少なくとも)、さらには雰囲気のある(おそらく)映画から抜粋したもの。どうもそれなりにショッキングな映像もあったらしいが良い感じに不鮮明なのとメンバーばかり見ていたので私は気がつかなかった。

ほぼ最近リリースされた編集版を忠実に再現したセットリストだと思う。まさしく自分も含めてだが、客層は何かしらの忸怩たる思いを人生に抱えてそうな男性が多くなんとなく大人しめなのかなと思ったいたが割と冒頭の「先入観を考える」で私を含め多くの人間のタガが外れたようである。勢いで前の方に行って頭を振っていた。
City of Caterpillarを見たときに思ったのはkillieに似ていると。今回killieを見て思ったのはやっぱり似ている。一つは緊張感で、これはもう一つの要素の演奏方法から生じているところもあると思う。確かにkillieの曲は激しいパートもあって盛り上がるが、そうではないパートもかなりある。ポスト感のある美麗なアンビエントパートというには不穏だし今日思ったのは演奏が異常にかっちりしている。これで耽美さがないポスト・ハードコア的なパートに力を割いていく。このミニマルさの中に何かしら積み上げられていくのだ。リズムがはっきりしているからこの反復はむしろ気持ちがよく、そうこうしている間に蓄積された像が完成し、そしてハードコアパートでこれをぶち壊すような勢いがある。なんとも背徳的な曲構成であると思う。今日生で聴いて改めて思ったおは前述の通り演奏の巧さと、そしてメンバー陣の音の被らなさである。技術の向上による恩恵でひたすら低音一辺倒を志向するモダンでブルータルなハードコア界隈でkillieはメンバーそれぞれで音の受け持つ範囲がきちんと決まってそしてそれらが綺麗に分離している。分厚いけどギターの音がソリッドであることはすぐにわかると思う。低音から高音まで出揃っていて全てがごまかしがきかないくらいソリッドだ。ギター2本の掛け合いも何回もあったけどどれも素晴らしく、付かず離れずでときにはすれ違ったり、被って行ったりでそれが正鵠を射て釘を使わずに組み立てていく日本の伝統建築のようにかっちり噛み合っていく、見たこともない聖堂が組み上がっていく。それをぶち壊すような劇速パートはまさに神も仏も拒否する世界で(キリストは復活する!!!皮肉な物言いだ。)そんなことやられた日にはビリビリ震えるしかない。もしくは阿呆のように頭を振るかだ。
全てのパートが必然だ、全てのパートが必要なのだ。散漫なごまかしなど一切ないのだ。どれが欠けても曲が違うものになってしまう。そんな雰囲気がある。「地下室には何かあるはずだ」とはkillieのメンバーの言だが、そこには瞬間があるのだ。常に流れていく時間の中では(早回しや戻しが容易にできてしまう音源とは違って)常に瞬間しかない。その瞬間が全体を構成して、それはもう一つも欠けては別ものになってしまうし、そしてもう過ぎ去ったら取り戻すことができないのだ。
ラストアンコール「お前は労力」で〆。あっという間の1時間であった。

ライブ後に情報量の多さやその圧倒的な質感に一旦整理させてくれ、となる状態がたまにあって、この日はそう。汗だくで一旦どうにかして頭と体を冷やさなければと、這々の体で下北沢のまちに歩き出した。
そのあとカレーを食べて、すごいレコード屋さんに寄って帰りました。
ビールを2缶、記憶が消える前にこの感動をせめて書き留め(ようとす)る。
今頃夜の部がやっているだろうな。

2018年9月16日日曜日

REDSHEER Presents Gray World Vol.7@高円寺二万電圧

9月はいろんなライブがあるぞ、楽しみだなあなんて思ったのに全然ライブハウスにいっていないハイプ野郎こと私はその思い腰を上げて高円寺二万電圧に向かった。いろんなライブが被っていたが別にへそ曲がりなわけではない。純粋にREDSHEERが観たかったのだ。

ele-phant
一番手はele-phant。2012年に結成された(今は)三人組のバンド。なんとこの日が解散ライブとのこと。ドラムとベース、それから選任ボーカルという変則的なバンド。ステージ前面フロアから見て左に構えるドラムセットが迫力がある。ギターレスだがことさら低音を強調するわけでもない。かといってベーシストが持つのは多弦(5本以上という意味で
)ベースではなくリッケンバッカースタイルの通常の4弦ベース。これでギター以上に豊かなメロディを奏でるのだ。アルペジオ、それから2本以上の弦を同時に鳴らしてコードも行けるし、ソロも大丈夫。リフは多様で音の種類も非常に豊富である。音だけ聞いたら普通にギターだななんて思ってしまう。ただし例えば高音のチョーキングのようなものはなかったような気がする。一風変わった演奏をするバンドなのだが、音の方がドゥームを基調としたサイケデリックロックといった趣。変則的なのは形だけで音の方は変態的というワードに逃げを打つ臆病さは微塵もなく、むしろ堂々としたロックンロールだ。日本語で綴られる歌詞がビンテージなドゥーム・リフが奏でるメロディライン上に曲線を描いていく。ことさら遅いというわけではないが、よくよく聴いていると地の鳴りが動いてその姿を変えていくのがわかる。生きた楽曲という感じでサイケデリックであるが、出しているのは轟音でしかもソリッドだ。思い切りの良いドラムが格好いい。記憶の忘れていくその過程を曲にするというコンセプトはなかなかないだろう。だって誰も知らない音ということになるからね。忘れていく過程だから。すでに忘れた、ではないところに美学を感じる。最後の最後に見れてよかった。この体験は忘れないようにしたい。

kowloon ghost syndicate
続いては東京のハードコアバンド。kowloon ghost syndicate。まず名前がカッコ良い。バンドのメンバーの方のインタビューなど、音より先にその他の情報が入ってきていて非常に気になっていたバンド。なかなか見る機会がなかったので個人的には非常に楽しみだった。ギタリスト二人に選任ボーカルの五人組。いわゆる激情というスタイルなのかなと思っていたのだが、実際に見て聴いて見ると結構それらとは異なる。
まず音がでかい。5人全員がフルボリュームで鳴らしているかのような轟音で耳がやられる。計算されたバランスなのだろうが、楽器陣がぶつかり合うので曲の判別はやや難しい。(これは私のいた位置も大いに関係あると思う。ライブハウスの音響はその他のバンドの演奏を聴けば問題ないことがわかる。)歌詞は日本語でなかなか聞き取れないが、ストリートにおけるタフさを強調するようなものではないだろう。確かに速度と音の数を落とすアンビエントなパートもあるし、つぶやくように歌詞を読むパートもあるのだが、それらは非常に短い。要するに冗長なパートが一切ない。一瞬でも早く飛び立ちたい、そんな性急な感じがある。懊悩や正義感がなるほど出発点なのかもしれないが、募る焦燥感が曲からナイーブさをほとんど拭い去ってしまっている感じがあって、それが病的で、むしろそれが激情というかエモバイオレンスとしては正しいのではと思ってしまう。肉体的なところは非常に肉体的でたまに入る低音ミュートのサウンドが混沌とした楽曲の中で異彩を放っていて格好良かった。大抵なんだこれ!ってわからなくなるのは良いものであるから、また見たい。

REDSHEER
トリは企画主REDSHEER。見るのはだいぶ久しぶりになってしまった。東京を拠点に活動する3人組のハードコアバンドである。個人的には激情という文脈で判断していたし、ある部分は確かにそうなのだろうが、独特な音を鳴らしているバンドで私はとても好きだ。
REDSHEERは忙しいバンドだ。やかましいバンドだが音の数が多いわけではない。速度も中速がメインだ。ただそれぞれの楽器陣が詰め込むアイディアが半端ない。1曲あたりのリフの種類の多さがわかりやすいが、構成も練られていてここが聞き所というところはその他の2つまたは声を入れて3つの楽器はぶつからないように抑制されている。逆に言えばそれぞれ個性があって、特に私はドラムのプレイがすごく好きだ。別にブラストを入れるわけではないが、実際の高さ的な意味で低くセッティングされたドラムから叩き出されるやや変則的なフレーズがたまらない。三者三様の個性のぶつかり合い、せめぎ合いがあってその切磋琢磨の間隙でなっている曲がREDSHEERの曲なんだという趣すらある。
この日思ったのは、REDSHEERはわかりやすさのないバンドだ。別に難解なわけではないが、わかりやすい必殺フレーズを(多分というか絶対)あえて使わない。激情のスタイルなら綺麗なアルペジオ(このバンドのアルペジオはなんか以上に反復的で病的である)や静寂と轟音のドラマティックな展開、浮遊感などだろうがそんなのは一切なし。殺伐としているが、かといってブラストを打つわけでも、陰惨さを過剰に演出するためのスラッジパートを入れるわけでもない。掴みやすいとっかかりがない。そういった意味でわかりやすくないのだけれど、そういうとっかかりを排除した楽曲は私はこのバンドにしかない、病的な円を感じてしまう。音が丸いというわけではなくてむしろ尖りすぎるほどに尖っているのだが、どこかに到達するような直線的なイメージではなく、病的な円を描いて沈み込んでいくような負の感情があって良いのだ。恨みつらみ逆恨み、なるほどそんな感情は含まれているのかもしれないがもっと多様だ。もっといろんな感情が溶け込んでいて、それが何か言い表すことができないのだけど、聞くたびに「それなんだよ!」と勝手にわかった気になってしまう。音楽性は違うけどToday is the Dayに通じるものがあるな!!と妙な納得感。この日もすごく良かった。

自転車漕いで帰宅。

2018年9月9日日曜日

DJ Skull Vomit/Ritual Glow

アメリカ合衆国はオレゴン州ポートランドのブレイクコアアーティストの1stアルバム。
2014年にMurder Channel Recordsからリリースされた。
最近ブレイクコア聞いてないなあ、と思ってなんとなく購入した。一人ユニットでやっているのはTony Welterという人。調べてみるとこの人はかつてやはりブレイクコアのユニット、Eustachianをやっていたとのこと。昔ブレイクコアのレコードをほんの少し買っていた時期があって何枚か買っていたよ!とテンションが上がる。

そもそもユニット名からしてデスメタル臭を感じてしまうが、中身の方もデスメタル/グラインドコアとブレイクコアを無理やり融合させたような強引なものでキックが強烈ガバのマシーンビートに生音のギターを乗っけてさらにシャウトを載せている。デジタルグラインドというジャンルがあって本邦だとOzigiriさんが頭に浮かぶ。こちらはグラインドの要素はあるのだけれど、ビートは徹底的にガバ/ブレイクコアなのだ。音数も多いし、忙しないのだがブラストビートを用いないのでどんなに激しくメタリックでも最終的にメタルの一線を踏み越えない感じ。このバランス感覚がこのSkull Vomitの持ち味だろう。曲によってはメロディもあるしミニマルさもほぼなく、これはテクノと言えるのかという気もするのだけど、ビートそのものが音の種類(ブラストビートをはじめとするドラム的な手数の多さとはやはり別物だと思うのだ。)が豊富で面白いし、サンプリングされたボーカルをコラージュ的に用いるやり方などはやはり十分テクノ的だ。スプラッター的であるが、陰鬱ではない。露悪的だがこもったところがなく爽快である。というかガバキックが最高すぎて聞いているとどんどんIQが下がっていく感じがする。ガツンガツン耳と脳を叩き、きっとバカになっているのだろう。
楽曲の振り切った極端さ(エクストリーム具合)に頭がクラクラしてくるが、よくよく聞いてくるとやはり音の抜き方が非常に巧みだ。美味しいところを引っ張ってきてあとは大胆に音を省いている。メタリックなギターを引っ張ってきてももこもこするようなベースはなし。ドラムはインダストリアルな金属質なビートである。パワフルすぎる上物に目を奪われがちだが、かなりきっちりとしたテクノアルバムだと私は思う。アルバムタイトルにもなっている「Ritual Glow」を聞けばテクノ・クリエイターたるDJ Skull Vomitの本領の一端を知ることができるだろう。冴え渡るアシッドさにAphex Twinを感じることしばしである。要するに非常に饒舌なアーティストなのだ。だからデスメタルとの融合は彼のそうした才をうまい具合に伸ばすだろうと思うのだ。メタルもまた非常に饒舌だからだ。

全12曲のアルバムだが他アーティストのリミックス音源も含まれていて、日本のデジタルグラインドバンドDeathcount、言わずと知れたBong-ra、さらにはダブくインダストリアルなGore Techなどなど。名前だけでもわくわくしてくる魅惑のラインナップだ。
オシャレさなど皆無のオタク・ミュージックの極北といった趣だが、すきあののを全部ぶち込んであくまでもブレイクコア/ガバの流儀はぶらさない、なかなか気概のある音楽だと思う。聞いていると元気になる。(=バカになる。)

Transient + Bastard Noizet/Sources of Human Satisfaction

アメリカ合衆国はオレゴン州ポートランドのグラインドコアバンドのBastard Noiseとのコラボレーションアルバム。2018年にSix Weeks Recordsからリリースされた。
Transientは2008年に結成されたグラインドコアバンド。一方のBastard Noiseは言わずと知れたMan is the Bastardのメンバーによるノイズグループ。

このアルバムは二つのバンドのコラボレーションだが、TransientのグラインドコアをベースにBastard Noiseがノイズを追加しているという趣。主体はグラインドコアなのでそこまで実験的ではなくて聴きやすい感じ。この手のコラボだとパッと思いつくのはFull of HellとMerzbowのコラボレーション。こちらも主体はFull of Hellのパワーバイオレンスでそこにノイズを追加するというやり方だった。メタルやハードコアなどのいわゆるバンドサウンドに比べるとノイズは抽象的だ。それらの暴力性を倍加するビデオゲームでいうバフみたいな使われ方をするのもなんとなく納得できる。ノイズとは魔法だ。
グラインドコアといってもいろいろな種類がある。このTransientに関していえばデスメタリックな成分は少なめで、音の作り方や自然体で装飾性のあまりない楽曲はハードコアに近い。よく回転するドラムに低音は出ているものの程よく抜けが良いギターが乗っかる。ハードコア色は強めだが、パワーバイオレンスというには音は重たく、また速度の両極端をいったりきたりもしない。曲も短いながらも自暴自棄なファストコアというよりは、よくよく聞くときちんとリフが練られていてメリハリがついたグラインドコアだということがわかる。ミュートの使い方がメタリックなのだが、音の作り方が巧みであまり重々しく聞こえない。ここら辺は好みかもしれないが、私は好きだ。もともとハードコアからスタートしたしたグラインドコアというジャンルのピュアな血統に属するバンドと言えるかもしれない。
Bastard NoiseももともとメンバーがやっていたMan is the Bastardは(ハードコアのサブジャンルである)パワーバイオレンスの始祖と呼ばれる(パワーバイオレンスという言葉を生み出したのがEric Woodというこのバンドのメンバーだった)こともあって親和性は抜群。乾いて明快な楽曲に存在感のあるノイズが乗る。過激なバンド名だが単にハーシュノイズを撒き散らしているわけではなく、Transientの音が最大限生かされるように配慮している。ガチガチのハーシュノイズは冒頭において、いざグラインドコアが開始されれば音域が被らないように、高音域の不吉な運命を告げるトランペットかサイレンのようなノイズを鳴らしたり、フィードバックノイズのような焼けこげたようにチリチリするノイズを出したりして、メタルではなかなか表現し得ない不穏さを演出している。存在感のある音がぶつかった結果よくわからん、という変な抽象性に逃げるのではなく、ちゃんとコラボレーションとして化学反応することを考えている。もはや円熟の極みという感じだろうか。
ハードコアを感じるのは19分のリアルな質感であり、(デス)メタリックな重厚な物語感も良いが、あくまでも地に足についた反骨精神が清々しい。

2018年9月2日日曜日

Stimulant・Water Torture/Split

アメリカ合衆国はニューヨーク州ニューヨークのパワーバイオレンスバンドのスプリット音源。Stimulantはデビューアルバムをこのブログで感想を書いたこともある。ドラマーとギタリストの二人体制のパワーバイオレンスバンド。一方のWater Tortureはライブの動画を見ると三人組のバンドで、ドラム、ベース、ノイズとボーカルという編成。StimulantはWater Tortureのメンバーがより激しさを追求して結成したバンドらしく、そう考えるとWater Tortureの方はすでに解散しているのかもしれない。ドラムを務めるIan Wiedrick(NYのブルックリンでタトゥーの彫り師を営んでいるようだ。)は少なくとも両方のバンドに共通したメンバーである。Stimulantの方ではボーカリストがいないので彼がボーカルを兼任している。もう一人のメンバーもベースからギターに持ち替えた同じ人かな?と思うのだがどうだろう。(ライブ動画を見比べると似ているような気がする。)

全部で20曲が収録されているが、Stimulantは14曲、Water Tortureが6曲だからメンバーが同じといっても曲の作り方が違う別のバンドだということがはっきりしている。
順番は逆なんだけどWater Tortureはまずドラムの上にベースが乗っかるわけで音が当たり前に低い。いくらダウンチューニングしても音域というものが異なるわけで(ギターにベースの弦を張るのは無理だと思うけど、やっている人いそうだな…)ギター主体のバンドとはやはり音が異なる。当然曲の作りも異なっていて、こちらのバンドは曲が大分遅い。ほぼスラッジコアといっても遜色はない。印象としてはむしろ曲の速さを決めているのがベースで、持ったりとしたその長大さにドラムが彩りを加えているようなイメージ。音の数が少ない二人組編成なので、どちらの音も邪魔が入らず鮮明に聞こえる。ともすると単調になりがちなので、スラッジにしては曲の長さは短めにしており、またノイズの成分を入れることも色を足すという意味で納得感がある。
思い出したのは音楽性は異なるがBell Witchであちらもドラムとベースのデュオだ。多弦ベースを使っていてしかもドゥームメタルだから大分曲自体は違うのだが、ベースの使い方という意味では似ているとがある。それはやはり音の少なさであり遅さである。一発のアタックの影響、音の大きさがでかいためあまり乱発しないで、むしろそのでかい音波を途切れさせずに後ろに引き延ばすことが非常に格好良いのである。

続いてそのWater Tortureを音楽的にアップデートしたという現行のStimulant。当たり前のように速い。速いだけでなく短い曲の中で遅いパートもしっかり入れてくる。いわばより明暗のくっきりしたパワーバイオレンスらしいパワーバイオレンスであり、劇速パートを積極的に取り入れることでそのマニアックな音楽性の魅力をわかりやすく再提示している。ベースをギターに持ち替えたこともその音楽性の変遷に対応していて、流石にせわしなくそして音の数が多い。音自体も軽くなっていて、今度はとにかく速いドラムの上にギターリフが乗っかって巨大な地滑りのように肉薄してくる。ドラムがすごくて1曲のなかでまるで別の曲を演奏しているように奏法が変わる。これはやはり楽器の数自体が少ないことでそれぞれの動きがわかりやすいのだと思うし、ギターとドラムがうまく分離して動いているせいもあるのではないか。ガラスでできた家のように中身が丸見え。そんななかでブラストかけまくるドラムが非常に良い。パワーバイオレンスだ…。全く隠しようもないパワーバイオレンスである。ただ速く演奏しているというよりは音の密度が異常に濃密である。通常の曲をバカみたいな速さで演奏しているような趣があり、つまりどこか病的なのだ。何かに取り憑かれているか、何かから逃げようとしているかのようだ。どちらのメンバーもボーカルを取り、低音と高音のメリハリも効いている。なるほど速いところはより速く、遅いところはより遅くというコンセプトが前のバンドと比べるとよくわかる。

激烈な音楽を味わえることも魅力の一つだし、共通するメンバーの音楽的な変遷を1枚の音源で知ることができて、そういった意味でも非常に面白い音源だと思う。この手の音楽が好きな人は是非どうぞ。

Tirzah/devotion

イギリスはイングランド、サウスロンドンの女性シンガーの1stアルバム。
2018年にDomino Recordsからリリースされた。
詳細な来歴はわからないが2013年にはEPを発表している。
Twitterでたまたま好評を目にして聞いてみたらよかったので購入した。

完全にデジタルなトラックの上に割と自由な感じに歌が乗るというやり方で、全編ダウンテンポだがところどころポップである。ただしエレクトロポップというには歌が前面に出ているし、かというとR&Bというにはテンション低めでいかにも無愛想である。赤裸々なトラックの上に否が応でも実力が露わになる歌声を披露しているのだが、どこか体温が低くて真意がつかめないのが魅力。私が買ったCDには歌詞カードはついてない。どうも「Straight up Love Song」ということらしいのだが、情熱的に恋心を歌っているわけでもなさそう、かといって悪ぶっているわけでもない
ビートは控えめながらかなりはっきりしている。そこに乗っかる上物が模糊としているが、別に神秘性を演出しようというのでもない。(いったことないのだけれど)それこそロンドンの曇天のような憂鬱な感じ。またはバスのちょっと汚れた窓から差し込む午後の日光だろうか。
ふと思うのだけどこのローな感じ(最近あまり聞かない言葉だがオフビート?)は別に意識しているわけではないような気がする。このはっきりしない感じ。そこに乗る自由奔放なんだけど、ちょっと気の抜けた歌い方こそこのTirzahの日常なのだろう。もちろん気負ってないわけがないのだけど、どうしても日記のようなプライベート感/日常感がある。MVを見ると(予算の関係もあるだろうけど)スマートフォンで手で撮影した動画を繋ぎ合わせたような手作り感のあるもの。
肩の力が良い感じに抜けているんだけど、決してやる気がないわけじゃない。(よく考えるまでもなくこの音源を作るには彼女と周りの人たちの相当の時間と情熱がかかっているはずである。別にこの音源に限らないわけだけど。)これが彼女のリアルであって、このやや気だるい歌は彼女のまっすぐな恋心(前述のストレイトアップを訳すとこうなるかな?)だったり、迷いや葛藤が詰まっているはずなのだ。落ち着いた歌を聞いてみれば、いかにも堂々と彼女の本気具合がわかろうというもの。シンプルなトラックを足がかりにまっすぐに耳に飛び込んでくるではないか。それは全く情熱的だ。
よく聴いている。とても好き。

Birds in Row/We Already Lost the World

フランスはマイエンヌ県ラヴァルのハードコアバンドの2ndアルバム。
2018年にDeathwish Inc.からリリースされた。
2009年に結成された3人組のバンドで来日経験もある。前作リリース後にメンバーが一人変わっている。
バンド名は「列になって飛ぶ鳥」という意味かな?秋か冬を連想して切ない気持ちになる。フランスでもそうなのだろうか?

Birds in Rowを聴いて思ったのは、とにかく全編メロディアスだ。曲の中心には歌があると言って良いのではないか。シンプルなのはバンド編成にとどまらず、作り出す音に関しても非常にシンプルだ。セミホロウのギターから生み出される音は攻撃的だが重たくはない。尖っていてソリッドだが、アンサンブル全体ではヌケが良く、音と音の隙間が強烈に意識されている。先行公開されていた「15-38」はその極みと言える曲で生々しいギターと声が明るいメロディを紡ぎ上げていく前半部がとても美しい。
私などはどうしても耳を引くポップさに捕まってしまってこりゃあ非常にメロディアスな作品だな、なんて思ってしまったがアルバム全体を何巡かしてみるとその印象もだいぶ変わってくる。まず非常にラウドであることに気がつく。そして非常に攻撃的であることに気がつく。これはおかしい。なぜなら音自体(音の作り方と曲の構成)は前述の通りにどちらかというと意図的に軽くしたものだからだ。しかしこの全編を覆ったシリアスさはどうだろうか。このタイトさは非常に重たく聴く人の耳を通してのしかかってくる。いわゆる「重たい女(もしくは男)」のように情念が強い。これはそう緊張感だ。ある意味抑揚はあっても緩急はないんだよ、このアルバムは。全編ピリっピリに張り詰めている。だからこその34分なのだ。キリキリに張り詰めた弦のようにこれ以上やったら弾け飛んでしまう。テンションが高いというのはやたらに元気という意味ではない。エネルギーが横溢していてこれ以上はもう…という緊張感に他ならない。このタイトな感じはkillieの編集盤を聞いた時の思いと非常に似通っている。これに気がついた時これか!と個人的には納得感があった。別に他のバンドが弛緩しているわけでも遊びでやっているわけでもないが、しかしこの緊張感といったらない。音の軽さについてもこれで説明はつく。彼らは、Birds in Rowは生身で勝負する。最低限の楽器(とそれを動かす3人の体)と声で勝負をする。他には何も付け足さない。この厳格さがこの濃密さを生み出しているに違いないと思う。溜まりに溜まったエネルギーをある意味ではこういう形で放射するという所に非常に人間的な懊悩を感じるし、それが激情ハードコアなのかと思った。
「We Vs. Us」の歌パートの緊張感、そして何と言ってもアルバムのラスト「Fossils」の冒頭の重たさが開けた後に浮かび上がってくるメロディが素晴らしい。私はどうしても鬱屈して放心したような、諦念のある空虚感のある曲が好きなのだけど、このアルバムには懊悩はあっても諦めは一切ない(ように思う)。全編これ闘争だ。諦めと戦っているのだ。「俺たちはすでに世界を失っている」というアルバムのタイトルは非常の特徴的で危うい。その勝ち目のない戦いが、勝ち目のないゆえに非常に眩しいのだ。負けないでくれと思ってしまう。感動的だ。

これはすごいアルバムだ。一見してどうしてもポップさに惹かれてしまうが、その背後にとんでもないものが渦巻いている。非常にオススメ。

アントニオ・タブッキ/レクイエム

イタリアのサッカアントニオ・タブッキの長編小説。
タブッキはポルトガル(イタリアとは結構距離があるね)に魅せられた人らしい。特にポルトガルの詩人・作家であるフェルナンド・ペソアという人に。この人はどうも3つのオルターエゴを自ら作り出し、それらの変名で作風を使い分けていたとか。面白そうな人である。そんなポルトガル愛もあってこの本はなんともともとポルトガル語で書かれている。なかなかの愛情である。普通ではない。途端にいい感じがしてくるよね。

話の筋としてはこうだ。ある一人の男が待ち合わせまでの時間を潰すためにポルトガルの首都であるリスボンをうろつく。と、いろんな人が彼の前に現れて出会いや会話や出来事が生じたりする。これだけだ。もちろん変わったところもあって、それは彼が出会うのが使者だったりしてちょこちょこ非現実が紛れ込んでくる。とはいえお化けが殺しに来るわけでもない。主人公である「私」も全く動じず、まあ死人くらいでてくるだろ、くらいのテンションで全く生者と変わらないように彼らと付き合っていく。使者にしたって何か示唆するような、一見わからないようなしかし何かしらの象徴を含んでいるような偉そうなことを言うでもない。彼らも自分が死んでいることは納得した上でほとんど生前と同じように行動するのだ。会話もどこかのんびりしていて全体的にゆっくりしている。ただしあとがきでも指摘されているように「私」の運動量はかなりのもので、どう考えても時間の進み方がおかしい。また人とも出会いすぎである。普通そんなに見知らぬ人と会話するところまで進まない。とするとこの小説はより長いものを意図的に縮めて表現しているように思えて来る。その何かより長いものというのは私たちの毎日の延長線上、つまり人生だと捉えるのが通常だと思う。そうするとしかし、こんないい人生はない。自分の育った家を回ったり、今はもう離れ離れになった父親に会ったりする。何かしらの悶着があったらしい恋人にあったりする。彼らは自分をなじるわけでもなく、とにかく落ち着いており、会話は楽しく弾み、酒も料理も美味しい。「私」が話すのは知らない人か死んだ人である。いわば過ぎ去った過去と話しているわけで(崩壊しかけたかつて住んだ家を訪れるシーンは象徴的である)、過去は概ね全ての人に優しい。このリスボンには彼に危害を加える人は出てこない。死んだ恋人と何を話したのか?それは気になるが、別に将来生まれて来るはずの子供が出て来るわけでもない。責任から解放されて主人公は自由に動き回っている。これはおかしい。少し前まで郊外のアゼイタン(調べてみると確かにリスボンの近くであるが、湾を挟んでそれなりに距離がありそうだ。)にある友人の農場の庭にある木の下で本を読んでいたはずなのに。これは夢というのは簡単だが、要するにここリスボンはどこにも存在しないリスボンであって、異界である。何かの運命で主人公はこの異世界に迷い込むことが許された。そして過去の思い残りと対面するのである。日本なら死者の国に行ってその食べ物を食べたりしたら帰れなくなってしまうわけだけど、主人公はそんなのお構いなしに美味しそうな料理をばくばく食べる。空も曇るわけでもなく、7月末のリスボンは暑い。「私」は汗だくになってリスボンの街を行ったり来たり。なんだかおかしい世界である。こうなったらいいな、という世界でもある。夢でもある。

稲垣足穂/ヰタ・マキニカリス

日本の作家の短編小説集。
稲垣足穂は学生の頃に「一千一秒物語」を読んだことがあるきりだったが、最近読んだアンソロジーに収録されたいた一編がとても良かったので改めて読みたいと思って購入。
幻想文学というと線の細い、青白い顔をした、やたらとタバコをふかす文学青年が描きそうなものだが、稲垣足穂はなかなか強面で面白い。(調べると禿頭のおじさんがふんどし姿で原稿に向かっている姿とか出てくる。)なかなか波乱に満ちた人生を送ったようで、文壇との衝突なども経て全国を受け入れられなかった原稿とともに放浪したとか。
再評価の機運が高まって発表されたのがこの本。

「一千一秒物語」の内容はもうあまり覚えていないが、この本に収められている物語は目を見張るような異世界という作品はどちらかというと本数が少なく、あとは割と現実をベースに不思議や幻想が入り込むといった趣。砂漠の異国に幻想の夢を託した(つまりこちら側とは理が異なるあちら側として)冒頭の「黄漠奇聞」はまさに幻想文学作家としての面目を躍如するような作品だが、30を超える収録作の中では少数派である。月光を密かに盗もうとするたくらみを描いた「ココァ山の話」は山間の小村を舞台にした日本風の幻想小説といった趣でワクワクする。
「天体嗜好症」と銘打たれた作品も収録されているが、この稲垣足穂という人は強く空に魅せられた人らしく、単に空そのものが好きというよりは人類にまだ征服されていない(当然今とは違う時代であるので)領域、つまり無限の可能性と未知を秘めたあちら側の世界として憧れていたようである。なのでそんな空に果敢に挑んでいく飛行機というのは彼にとって特別な愛着があった。ここでいう飛行機というのは複葉機・単葉機といった今から見れば年代物のものを指し、また足穂の中では必ず墜落するという悲劇的な運命を持った機械であった。その情熱が打ち込まれた作品の数は非常に多い。半ば自伝めいた(どこまで真実なのかはわからないが)素人飛行家たちが手製の飛行機で空に挑まんとする「飛行機物語」などはほぼほぼ幻想味がなく、実直な青春物語という感じで当時の雰囲気が慮れる。
また同時に花火や星といった夜空を彩る輝きたちの出場頻度も高く、彼の空への思いの入れようがうかがえる。もう一つ挙げるとしたらキネオラマか。どうも明治から大正にかけた存在した見世物で、パノラマ写真に彩色された光をあてて景色を変化されるというものらしい。ありそうで決して現実には存在し得ない別世界のようなものだったのかもしれない。足穂の意識はそんな目の前にある現実をすかして上を見、その意識は高み高みに登っていったのだろう。面白いのは完全に幻想に浸りきって上からの視点で地上を見た作品は人もない。あくまでも見上げた空を下から眺めるのだ。天に憧れても、地の我らとは圧倒的絶対的に隔てられているのである。だから彼にとって飛行機とは失墜を運命付けられている。この叶うことのない片思いのような憧れがなんとも切ない味を彼の作品に追加している。

強く稲垣足穂という人物の内面に迫れる短篇集。今から見ると隔世の感があるが、ここではないどこかに強く魅せられる気持ちというのは時代を経ても変わることがない。現代でもきっとそんな思いを密かに抱いて市井に紛れている人がきっといるはずである。そういう方々はこの本を手に取られると良いかもしれない。