2018年10月28日日曜日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

彼は彼女を愛していたのだろうか?
少なくとも彼自身は愛していないと思ったのだろう。だって彼女が死んでも涙も出ないのだから。涙が出ない→悲しくはない→彼女との結婚は失敗だった。彼女は裕福な家の出で、結婚したことで自分の未来が開けた。おそらく彼はそんな状況に引け目と罪悪感があったのだろう。彼にとって自分の家がそんな失敗した結婚と、打算の上に築かれた非常に醜い人生の象徴になった。見た目は綺麗なのが、いかにも自分らしい。そう思った彼はそんな象徴を破壊することにしたわけだ。

ところで思ったのだが、人というのは感じ方と表現の仕方は様々だ。悲しいから涙が出ないことだってあるだろう。そんな風に思ってしまった。あまりの衝撃に心が麻痺してしまった。心の防衛機制が働いたのだ。流石に車で同情していた妻が事故死したような過去はないが、私もそんな風に妙な状態に陥った(私の場合は文字や音の意味がわからなくなってしまった。)ことが、かつてあった。だからすぐにこう思った。主人公は悲しくないわけがない。でも周りの人もそして自分自身もそこに気がつくことができなかった。でもいいですか。まともな人が身の回りのものを分解して回るだろか。大学の授業で心理学の教授が言っていたことが個人的には面白くてずっと覚えている。曰くこうだ「人の考えていることや気持ちは決してわからない。だから心理学というのは心に刺激を与えて、その後アクション(行動や動作)をみてそれでその人の心理状態を判断する」のだと。つまり妻の死という刺激に対して、彼の反応は異常だ。だから彼は彼女を愛していたのだった。往往にして私たちが愛しているものを大切にできないように、彼も彼女をつねに何よりも大切にしていたわけではなかったけど。(そして彼女の方でもそうであった。)

カウンセリングとはまず話すこと。主人公が出会った不思議な親子は彼に話させることで、彼を癒していった。心の平穏を取り戻した彼はそうして気がついたのだった。彼女を愛していたと。そしてもう半分くらいぶっ壊れた、自分でぶっ壊した家で相変わらず寝起きするのだった。だってそこが彼の居場所だからだ。(といっても壊れた家に住み続けるのだから彼は結構変わり者ではあると思う。)

よくいう人間が書けているというのはどういうことかというと人間の凹凸をよくよく表現しているということではないかと思う。義父は嫌な奴だなと思ったけど、最後まで見るとそうではない。嫌な奴ではあるけど、嫌いになれないのだ。奨学金をもらっている若造もきっとそうなのだろう。ギレンホールはいい役者だなと思ったんだけど、顔や態度だけでそんないいことより嫌なことがある社会というものを表現している。どう表現しているかというと言葉では言えない。でも人生を一言で言いあらわせることができるわけなどないのだ。生きている人は死ななかった人なのだ。彼が最後走り出せて本当に良かったと思った。

25 ta Life/Strength,Integrity,Brotherhood

アメリカ合衆国はニューヨーク州ニューヨークシティ、クイーンズのアストリアで結成されたハードコアバンドの3rdアルバム。
2009年にBack ta Basics Recordsからリリースされた。
1991年に結成されたバンドで2002年には一度解散し、その後メンバーを変更しつつ現在も活動しているようだ。
ハードコアを調べていると必ず「極悪ハードコア」という単語と一緒に出てくるバンドで気になっていたので購入してみた。バンド名はおそらくスラングだろうか。昔読んだ本に中国の犯罪組織は本当の組織名を隠すために画数で表した隠語を使う(例えば324のような)と聞いたことがある。極悪という言葉や刺青のびっしり入ったメンバーの容姿をみてなんとなくそんなことを思い出した。

極悪ハードコアというのはおそらく日本特有の呼び方だし、激情ハードコアのように実はきちんと音楽性を説明していない。場所も場所だし音的にはニューヨーク(シティ)のハードコアということになるのだろう。オールドスクールからシンプルな攻撃性を受け継ぎ、メタリックな音で武装したタフなハードコアだ。今聞くとモダンというよりはオールドスクールに近いような印象。力強いがその方向性が、例えば抒情派ニュースクールなどとは明確に異なる。個人的にはオールドスクール・ハードコアに足し算して作ったのがこのバンドの音楽性なのかな?と思っている。
「闘争とストリートを忘れるな」という7曲目からしてかなりのタフガイさが伺える。なるほどメタリックにザクザク刻んでいくリフは非常にモッシーだ。ライブはきっと恐ろしいことになるのだろう。極悪だ。ただ極悪と想像するよりもっと喜怒哀楽がある音像をしていて、曲によっては軽快ですらある。シンプルなリフに唸るベースが乗るとパンキッシュといってもいいくらい気持ちの良いオールドスクール感。感情豊かなギターソロやコーラスワーク、そして独特の男臭い哀愁。これは足し算だなと。音的には非常にモダンだし、どうしてもこれはモッシュパートだな、という風に考えてしまうけど、根っこはオールドスクールだ。吐き捨て型のボーカルもメタリックなリフに乗ると極悪だが、疾走パートに乗っかるとそれはそれでまた違った良さがある。
当時はそういった視点で捉えていなかったけどVision of Disorderもニューヨーク州のバンドで、その音楽性もハードコアをベースにメロディアスな歌メロというもう一つの要素を乗っけていた。音楽性は全然違うけど、何かしらひょっとしたらその考え方に共通しているものがあるかもしれないと思った。

歌詞に結構「Hardcore」という単語が含まれてて、自分たちこそハードコアなんだという気概を随所に感じ取ることができる。極悪というのは音もそうだし、もっとアティチュード的なものが含まれるに違いない。

Nothing Clean/Cheat

イギリスはイングランド、レスターのパワーバイオレンス/ファストコアバンドの1stアルバム。
2018年にAbusive Noise Tapesをはじめ複数のレーベルからリリースされた。私はBandcampで購入。
SNSはやっているもののあまり情報を描かないタイプのバンドで、おそらく2014年以前に結成されている。(FBの登録日とDemoのリリース年から。)今はドラム、ベース、ギター、ボーカルの4人組。今までいくつかの音源をリリースしており、中にはSpazzのトリビュートも含む。

今時パワーバイオレンスも珍しくないわけで、色々なバンドがそれぞれ個性を出そうと奮闘している。一リスナーとしてはそんな切磋琢磨が本当嬉しいわけだけだ。このNothing Cleanもそんな波の中で生まれた比較的若いバンドなのだろう。これがびっくりするくらい素直なパワーバイオレンスなのだ。特徴がないというわけではない、もちろん。ただことさらわかりやすい要素を入れていない。最近はブラストに乗っける速いパート、それと対応する遅いスラッジパートを入れて短い曲の中にメリハリのある展開を込めるのが流行なのかもしれない。このバンドは遅い方にはあまり力を入れていない。もちろんテンポチェンジはかなり頻繁にやるし、遅いパートもあるのだけど、ただこれはもう地獄だぜ〜苦しいぜ〜というわかりやすさ、がないのである。スタート一直線走り出したらもうあとは止まらないような、そんな気迫がある。100%ケツに火がついていて、止まったら死ぬ、そんな気迫すら感じる。音的にはきっちりとクリアでメタリックな音にアップデートされている。だから音楽的にはもちろんパワーバイオレンスもそうだし、ガチガチに音をアップデートしたファストコアにも聞こえる。Capitalist Casualtiesのような凝ったリフを劇速で演奏する、というのとはまた違ってかなり速さにパラメータを全振りしているような趣があって、その代わりに失うものがあっても気にしないスタイル。全ては速さ。全ては勢い。そうなると持てないものは捨てていくしかねえな。そんな覚悟だ。なんて言ったって41曲だ。それをぴったり24分00秒に込めたのだ。

何かを追求するなら全部を持っていくことはできない。なるほどこの楽曲は確かに抑揚はないかもしれない。展開だって乏しいかもしれない。同じパワーバイオレンスだってもっと豊かな表現をするバンドはたくさんいるだろう。ただそんなものは糞食らえだ。ファストコアってなんだ。速い音楽だ。速いハードコアだ。ファストコアはやべえ。しかりだ。しかしはじめっからやばかったわけではない。速くて異常だったからやばくなったのであって、Nothing Cleanというバンドはやばい音源をやる、のではなくファストコアをやる、がその出発点になっている感じがする。ピュアな動機であり、なるほど結果的にはやばいのだが、そこには形式だけに囚われない(つまりいかにも頭のおかしそうなハーシュノイズを入れたり、病的なモチーフをジャケットに引用したりということをしない)本質的な原動力がある。

私のようにただただ流行りだからだという理由でパワーバイオレンスに興味を持っている人間というのはよくよく軸がないのでブレがちだが、その軸をぶっ飛ばしにかかってくるのがこの音源。いやー格好いい。妙に反省しちゃってファストコアってこういうものでした、ってなってしまう。ぜひどうぞ。(ちょうど24分で書けたのでここまで。)

Enodn/Boy Meets Girl

日本は東京のノイズバンドの3rdアルバム。
2018年にBlack Smoker Recordからリリースされた。Black SmokerといえばThink Tankのメンバーが運営する日本(主に)ヒップホップの作品をリリースするレーベルなのでかなり意外だ。DJ NOBUというアーティストとBlack Smokerがコラボしていくつか音源を生産するラインを作ったらしく、その第一弾がこのアルバム。
前作「Through the Mirror」で話題をさらったバンドがKurt Ballou順番待ちの列に並ぶことなく、Boriのメンバーとさっさと新作を作ってしまったわけだ。その間たった1年。

バンドがアナウンスしたところだと、このアルバムの楽曲はいきなりライブでプレイしないそうだ。それくらい過去作品とは趣が異なる。
事前に作られたMVを見ればわかるが、ギターがストラトタイプのものからGibsonのSGタイプのものに変更されている。要するにギターの音が変わっている。バンドが作品によってギターを変えることなど珍しくもなかろうが、Endonの場合は少し違う。ノイズから始まったバンドだから、そことぶつからないようにギターの音はあえて軽くて乾いたサウンドで設定されていた。前作ではそれが滑らかに動いてメロディアスさ=わかりやすさを曲に付加していたけど、今作ではギターがうるさい。バッチリ低音が出てていてディストーションをかけたベースのような役割になっている。かと思えばめちゃくちゃロックなリフが出てきて曲を導いたりもする。(6曲目「Final Acting Out」)
さらにこれは一番大きいかもしれないが、今作では曲によっては歌詞がある。ラストの「Not for You」に関していえば日本語の歌詞がかなりはっきり聞き取れる。結構事件でバンドの根底を揺さぶるような大きな変化じゃないかと思う。(あとで述べる。)
Endonを始め知った時そのバンド名(〜ドン)、ボーカリストの坊主頭と振る舞い(出血していたこともあったと思う。)、出音からなんて恐竜的(野蛮な動物的な意味合いで)なバンドなんだろうなと思ったものだ。その明確に認識が変わったのが前作であり、ノイズをバンドアンサンブルでやることでその向こう側、ポストノイズの地平線が見えるようなこれは全く革命的なアルバムだった。また積極的にバンドがわが色々なメディアで発信したメッセージもこちらを煽りながらも、色々な意図や主張を垣間見せる知的なものだった。バンドに憧れたノイジャンたちがいよいよバンド化した、というのはだからわかりやすいストーリーだった。例えるなら手のつかない不良がいよいよ更生した、みたいなイメージだろうか。今作におけるギターの音の変化や貸しの導入もおおよそその流れもあると捉えることもできる。MVやアートワークも極彩色で空電する白黒ノイズが色を手に入れた感もある。Endonはセルアウトしたのか?コマーシャル化したのか?音楽を金に変えるゲームにいよいよ本腰を入れ出したのだろうか。私はどうしても否だろうなと答える。部分的には分かりやすさがあっても、「Boy Meets Girl」全体で見れば非常に混沌としているからだ。このアルバムをわかりやすいハードコアバンドのアルバムです、と形容するのは無理がある。曲順を追ってドラマティックに展開していく「Through the Mirror」に比較すると圧倒的に整理されていない。雰囲気的には「MAMA」やもっと遡って「Acme.Apathy.Amok.」に通じるところがある。原点回帰ではなくて、随所に歴史の重みを感じさせる技巧がみれるが、全体的にはやはり拡散していくように自由で不規則だ。鏡を抜けた先に家を焼いて見せたあの光景はなんだったのか、という唖然とした気持ちだ。ここにあるのは野生だ。短い曲はさらに早く短く、ロック的な鋭角さを持ち合わせ、長い曲はさらに遅くなった。(1曲しかないのだが、存在感があって個人的には「Acme.Apathy.Amok.」を一番彷彿とする。)ただメロディに代表されるキャッチーさは(またもや)意図的に配され、全体的にはノイズバンドの面目を躍如する出来である。

今作では前作と違ってあまりバンド側からのステートメントがないので、そちら方面からこのアルバムの意図を見ることができない。個人的にはあえて前作に唾棄するような意図があるように思えるし、その過激さこそ変わらないバンドの本質のようにも思う。だとするとバンドとしては全くぶれていないわけだし、勝手にバンドに思い入れしていた私の頬をこのアルバムが叩いたわけだ。呆然としつつニヤニヤしてしまうのはきっと私だけではないと思う。いいね。いいね。
あとは来年のライブを見ればまたこのアルバムを立体的に考えることができるだろうなと思っている。みんなかって聞いたのかな?感想を知りたいですね。

バルガス=リョサ/密林の語り部

ペルー出身の作家の長編小説。
原題は「El Hablador」で1987年に発表された。
ノーベル文学賞も受賞したラテンアメリカ文学では巨人のような存在なのだろうが、私は読むのは初めて。ラテンアメリカ文学というとボルヘスはいったん脇に置くと、パッと思い浮かぶのがガルシア=マルケスくらいだろうか。とにかく特徴的な人物がひしめき合って独特の熱気を醸し出しているようなイメージ。一方このバルガス=リョサはちょっと違う。出てくる人物たちは(概ね大学出ということもあって)洗練されていて物腰も柔らかく、そして思慮深い。じゃあ知的な小説かというとそれも違って、タイトル通りペルーのジャングルに住むマチゲンガ族という少数民族を扱っているので、小説の半分くらいが濃密なジャングルのむせかえるような熱気にあふれている。

物語としてはやや捉えどこが難しいと思っていて、はっきりとした筋があるわけではない。25年以上前に別れた友人の足跡を確認する話であると言えるし、少数民族であるインディオの生活に極端にクローズアップしたルポ風の作品でもあると言える。ただ構造はっきりしていて、それは近代社会とそして密林である。両者の間には曖昧な緩衝地帯、つまり白人側の密林を侵略してやろうという野望の前線基地があるものの、実は結構明確に境界があり、その向こう側というのは近代的な文明生活を営むものたちからするとほとんど未知の、野蛮な世界なのだ。両者の摩擦というのもこの本のテーマなのだが、そこには闘争というカタルシスはなく、常に移動する臆病な民族であるマチゲンガ族はただただ近代文明に押しやられて搾取されるか、争いを恐れてジャングルのさらに奥地に潜っていくかなのだ。

この話を読んで思い出したのがマイク・レズニックのSF小説「キリンヤガ」だ。これは遥か未来にアフリカの少数民族が自分たちだけの惑星で自らの後進的な文化を守ろうとするもの。しかし近代に触れた人々は否応なく近代化してしまうのだった、という内容。文明というのは概ね線的に捉え得られているので、良し悪しが出る。つまり進んでる方が遅れている方より優れているのである。だから先進的な文明にいるものは、後進的な文明に属する人々に技術や知恵を譲渡して感化してやらないといけない。その分け与えるという行為は多くの場合宗教的情熱に後押しされて、賞賛されるべき素晴らしい行為(=美徳)とされる。ところが主人公の友人顔に大きな痣があるユダヤ人のマスかリータは否というのであった。要するに文化というのは線的ではなく、それぞれが独自の系統を歩んでいるというのだった。文明を尊重するというのは異なるそれらに対して何もしない事にほかならないというわけだ。
バルガス=リョサはマチゲンガ族を至上のものとして持ち上げるわけでもなく、語り部の口調でありのままに紐解いていく。なるほど惹かれるものはあっても、全てを投げ捨ててその中に入っていく気には正直私にはなれなかった。過酷すぎるのだ。またバルガス=リョサはこれをただただ犠牲者となり消えていくものとしても描いていない。ここにあるのは私たちと違う人たちなのだと、ただそういうわけなのだった。三浦建太郎の漫画「ベルセル」で主人公が宣教師にこういったことがあった。「神にあったら言っとけ。ほっとけってな。」教科するというのは、それまで持っていたものを捨てさせることに他ならない。

文明の最先端にいる文化人である主人公とマスカリータはその後結局一度の再開することがなかった。彼らはもう別の文化に属する人たちになったのだ。異なる文化同士の断絶(その断絶こそが良しとされる。)と、そしてある人は自分次第で全く違う誰かになれる、ということが示唆されており、それは過酷なようでいて実は優しい世界である。

2018年10月20日土曜日

志人・玉兎/映世観-うつせみ-

日本は東京を拠点に活動する?(まだ高田馬場にアジトがあるのだろうか)ラッパー/詩人のアルバム。
2018年にTemple ATSからリリースされた。
近年色々なアーティストとのコラボレーション作がリリースされていたが、今作は久しぶりの単独作品。志人はヒップホップデュオの降神のメンバー。確か高校生の頃にタワレコでアルバムを買ったっけ。当時はニューメタルばっかり聴いていて、友達に貸してもらった2Pacもピンとこなかったんだけど、降神のアルバムは両方よく聴いていた。MSCのメンバーが客演として参加していた1stから独自の世界観を打ち出していたが、2ndでそれが開花。完全に他に類を見ない存在感を示していたように思う。
2nd以降はラッパー二人は各々作品を発表しだした。(ライブはやっていたと思う。行った事ないのだけれど。)ソロ1作目その名も「メルヘントリップス」から幻想的なヒップホップを打ち出していったなのるなもない。対して志人は「Heaven's恋文」であまりリフレインがない、浮遊感はあるがあくまでも生活に根ざした感じのあるヒップホップを展開していた。二人とも俺対何か、というヒップホップ(やその他の若者が支持する)文化から一歩以上は脱却しているところ、またアンビエントな楽曲という意味では共通していたが、各々異なった世界があり面白い。

志人作品は熱心に追いかけているわけではないので聞くのはDJ Dolbeeとの共作「杣道EP」以来だろうか。相変わらずブレてない。アンビエントで浮遊感すらあるトラックの上にわかりやすいリフレインを排した独特のリリックが乗る。これはまさしく詩であり、tだし詩にしてはやけに具体的であり同時に現実からある程度遊離している。(なので具体的表現であっても詩なのだ。)例えばこうだ。隣に住んでいる顔だけ知っている人が失踪した。業を煮やした大家はその人物の部屋の荷物を撤去。あなたは乱雑に投げ捨てられたその男のノートをなんとなく手に取った。そんな感じだ。志人の書く詩は物語的だ。それゆえ長く、そして始まりから終わりを目指して続いていく。(多くの歌詞は繰り返す形態をとっている。)韻をふむという縛りを逆に応用したような飛躍した言葉の羅列は美しく、幻想的であるが、なのるなもないとは異なり、やはり志人の根底には現実世界の生活がある。そこから始まり、思考は広がり空想となりながらも足は現実の地についているのだ。だから彼の詩は土っぽく、暖かい。まるでブルースだ。
ヒップホップでこれを再現となると難しいのだろうけど、志人とOntodaはじめとするアーティストたちはことも無げにやってのけている。あまりにスムーズなので本当違和感がない。しかし明確に上物は確かに浮遊感のあるアンビエントでも、ビートはしっかりヒップホップだ。(ただし明確に低音を強調することはしない。)この温度差がよくよく彼の書く物語/詩にあっている。志人のラップは抑揚をつけて勢いで進んでいくタイプではなく、ポエトリーリーディングの趣もあって淡々としかし決して遅くはないスピード(これかなりよく口が回ると思うくらい)で流れるように続いていく。こうなると俄然ビートが、その決してわかりやすくないラップの背中を押していて、こちらとしてはビートに乗って詩が頭に入ってくる。拡散していく前衛性というよりは、実はかなりかっちりとした音楽だ。「線香花火-Short Liverd-」などはかすかなメロディのイントロをそのままずっと引きずっていく曲で、このテーマが全体を支配している。メロディの欠如というヒップホップの特性(当然弱点ではない)をかなり大胆に補填している。直線的なリリックを円環に閉じ込めたみたいな、ここでもそう言った二重構造があるように思う。

バックトラックのアンビエンスもあって息遣いすら聞こえてきそうなラップ。ビートを手に入れて非常にエネルギッシュだ。表面を撫でて優しい音楽なんて言ってはいけない。なるほど音はうるさくはないが、かと言ってエネルギーがないなんてことにはならない。むしろ生々しい呼吸がそのままパッケージされているかのようだ。「Heaven's恋文」には「交差点の動力」という曲があったかと思うが、今回もそんな生々しい生活の音がその背後にある喜怒哀楽をよくよく表現している。一体この偶然出会った不思議なノートが日記なのか、想像の世界なのかは判別がつかない。とても好きだ。

ジャック・ケルアック/オン・ザ・ロード

アメリカの作家の長編小説。
1957年に出版された。原題は「On the Road」。
私はブレないポーザーなので学生の頃にはもちろんバロウズの「裸のランチ」を購入した。俺はお前らとは違う。一風変わって、そして”わかっ”ている人間なのだ。俺はビートニクなのかもしれない。というわけだ。ところが「裸のランチ」は当時の私にはさっぱりわからなかった。多分途中で挫折した。「俺今裸のランチ、読んでいるんだよね。って知らないか、ふふふ」とか友人に言わなくて本当によかったなあと思っている。
さてビートニクとは合わねえなと思っていたのだが、なんとなくケルアックを読んでみようという気になった。「路上」だろと思って探したら今は「オン・ザ・ロード」のようだ。ボブ・ディランなど色々な人物に多大な影響を与えたほんということは知っているが、あとはよくわからない。(ボブ・ディランすらちゃんと聞いたことがないのだ。)

物語というのは動くことで始まるといっても過言ではない。逆にいう動かないと何も始まらないのだ。「こんな場所には居られない」みたいな歌詞は馬鹿にするくせに、私は他動的な人間に対してすごく憧れがある。この本に出てくる人はみんな他動的だ。一つところにある期間居続けると居てもたっても居られなくなっちゃうのだ。私なんかは行き先がどこで、何に乗って、いつついて、何を食べるなんていちいち決めないとダメなのだが、ビート・ジェネレーションはそうではない。目的地があって(必ずしも目的自体がなくても良い)あとはそこに向かうのだ。みんなお金がないからヒッチハイクをする。車が捕まらないなら野宿をする。お金を送ってもらう。お金を借りる。お金ができたらバスに乗る。食べ物がなかったら商店から失敬する。目的地に着いたら大いに楽しむ。つまり行きずりの仲間たち、それから目的地の仲間たちと酒を飲んで騒ぐ。恋をする。そしてまた長い旅に出る。「路上」というのは最初ヒップホップ・カルチャーにおけるストリートのことかと思ったが、実はそうじゃない。ストリートが地元的な意味合いを含むとしたら、ロードというのは文字通り道なのだ。ビートたちはとにかく動き回るのだ。仲間はいても地元がない。これは面白いと思った。彼らはギャングのように争わない。なぜなら誰も奪うものなんて対して持っていないのだ。彼らはべつにリッチになりたいわけじゃない。ただただ楽しくやりたいのだ。この本がすぐにヒッピーたちの愛読書になったのもわかる。
ビート・ジェネレーション、あるいはビートニクといえば格好いいが、要するにボロボロの服をまとった若者たちだ。時には万引きなどの違法行為も働く。ホーボーといって鉄道にただ乗りしてアメリカ合衆国全土をさまよう移動労働者がいるけど、概ねホーボーより若くて無鉄砲で怠惰なのだがエネルギーがあるのが彼らなのだ。決して格好良いものではないと思う。(私は子供の時からなんとなくあんまりヒッピーが好きじゃないというのもある。)周りからしたら定職につかずにフラフラしている厄介な奴らである。(ガキが憧れるような悪さもない。)彼らは結果的には反抗しているのだが、言動はそうじゃない。というか他人や社会に対するわかりやすい怒りの表明みたいなのはこの本、全然書いてない。ただ路上の旅で起こる悲喜こもごもを書いている。軽薄さではない。けどこの軽さはなんだろう。エネルギッシュだが爽やかだ。
間違いなくこの衝動の中心にはディーンがいる。実際のモデルがいる(というかこの本はほとんどケルアックの自伝的な小説)彼をして今の私たちが例えば躁病だとか、発達障害だとか(これは本当素人の私が適当言っているだけです)言っても意味がない。彼は常にトラブル・メイカーだ。サル=ケルアックは彼を「天使」と言っている。天使とは何か。聖書は一旦置いて、天使とは無垢のことだ。何に対しても新鮮に驚き、感動し、体を動かし、声を張り上げ「いいね!いいね!」と叫ぶ。およそ現実社会とは乖離している彼ディーンこそが真のビートニクだった。何に対しても常に先入観なく接して、自分の感覚を楽しむ人間こそ。実際作中でもサルの友人の中でもディーンを厄介者と思っている人らが少なからずいる。サルはディーンほど振り切れないから、半分は路上に、そしてもう片足は社会においていてそこに葛藤がある。終盤のディーンとの別れのシーンはなんとも物悲しい。単純に大人対子供という構図じゃない。ディーンたちはそんなところ見てないんだよね。彼らはただ感動したいのだった。そのためには移動すること。動くことで物語が始まっていくのだ。

2018年10月14日日曜日

トルーマン・カポーティ/冷血

アメリカの作家によるノンフィクション。
原題は「In Cold Blood」で1965年に出版された。

カポーティといえばいちばん有名なのは「ティファニーで朝食を」なのだろうか。
(ちゃんと読んだことも、有名なヘプバーンの映画も見たことがないのだが。)
アンファン・テリブルと呼ばれた早熟の天才カーポティが書いたこの本は、しかし可憐さとは無縁な一家4人が殺害された実際の事件を長い時間かけて丁寧に追ったもの。

最近読んだ米原万里の「オリガ・モリソヴナの反語法」。あればつくづく女性が書いた物語だった。
ある闘争(それ以上だが)が起こった時、どんな過酷な状況下でも生き残ることが常に頭にある女性が、自分の手の届く範囲にある別の生命をなんとか助けようとする話だった。
彼らは自らお腹を痛めて命を生むのでその重たさをわかっているのだった。
一方この話は徹底的に男性の話だった。彼らはみずから血みどろの闘争を引き起こし、そして人の命をあっけなく奪っていく。醜悪な言動により自らの死を免れようとするが、いざその時が目前に迫るとまるで些末な問題かのように(たとえそれが去勢に過ぎなくても)死んでいく。

殺される人とその周辺、殺す人とその周辺を丁寧に描いていく。ルポタージュでありながらこの本は物語でもある。
本人の口から、そして被害者に関してはその隣人、知人たちから執念深く聞き取り、それをもとに事件当日とその前後の当事者たちの足跡を丁寧にたどり再現していく。
実在の事件に取材しながら、本全体ではほぼ小説の趣で語られている。(wikiによるとノンフィクション・ノベルという手法とのこと。)
そんな中で私はこの本は、二人組の殺人者の一人ペリーの物語だと思った。カポーティはあくまでも中立的な立場で事件を描こうとしているのだろうが、実際には(これは基本的にすべてのルポタージュで同じ現象が起こると思うが)かなり記者の心情がその内容ににじみ出ていると思う。よくも悪くも偏っており、そういった意味では書かれている人物たちの姿にもバイアスがかかっているのだろうが(繰り返すがある人がある人を考える時バイアスがかからないのはほぼ不可能であるはずだ、なのでこの偏りは全く問題にならないと私は思っている。)、普遍的に眺める通常のポタージュとは一風違ったリアリティと臨場感(と読み物としての面白さ)が生まれている。
殺人犯の一人、ペリーはインディアンとの混血で背が低く、両親が早くに離婚した半ば崩壊した家庭で育ち、子供の中で唯一彼だが教育が受けられない中過酷な労働に従事してきた。4人いる兄弟のうち後に二人が自殺した。ペリー自身も自身の居場所を長いあいだ見つけることができずに日陰者として生きてきた。教育はなかったが自力で獲得した教養が自慢で、特に音楽関連には確固たる才能があった。生活は苦しかったが夢想家としての一面もあった。血気にはやる相棒ディックに対してペリーは常に冷静だった。押し入ったクラッター一家に目当ての金庫がないとわかれば早々に引き上げることを提案したのもペリーであり、長女に暴行しようとしたディックを止めたのも彼だった。だが最終的にナイフを振るい、銃の引き金を押したのもやはりペリーであった。自分の惨めな人生のツケをクラッター家の4人が払うことになった、とは彼の言である。全く身勝手な言い分であるとは百も承知だ。しかし、なんとなくその気持ちがわかるなと思ってしまったのも事実だった。どんなひどい環境で育ったとしても責任能力のある人物が自発的に罪を犯せばそこに責任が発生し、その罰から逃れられないであるべきだ。私はペリーはろくでなしであり、人殺しであり、社会というか人間の文明に損傷を与えているとは思うが、彼が根っからの殺人者で死んでくれたほうが世のためだともやはり思わないのであった。(そもそも個人が罪人を裁くのは不可能だ。裁くのは法だ。方は民意を反映すべきだが、個々人が私的に人を裁くことはできない。)これが情状酌量という概念だろうか。

異常に事件に対して接近したノンフィクション。カポーティはあくまでも自分の主張を直接表現することは最後まで避けているが、ペリーへの同情的な立場は隠しようもない。
人にはそれぞれ物語がある。それを知らなければ人にとって他人は顔のない人間ですらない。罪のない4人を殺せば吊るされるのは当たり前だというわけだ。私はそれが間違っているとは思わないが、それに到るまでの隠された紆余曲折をこの本は暴こうとしている。だから読む人の気分をいくらか害するかもしれない。

2018年10月8日月曜日

Nothing/Dance On.The Backtop

アメリカ合衆国ペンシルベニア州はフィラデルフィアのシューゲイザーバンドの3rdアルバム。2018年に引き続きという形でRelapse Recordsからリリースされた。
前作リリース後にベーシストが交代。来日した時に見たのだが、色白の長髪で子供の落書きのような可愛いタトゥーが腕に入っているのが印象的なNickBassestt(この人はDeafheavenやWhirrのメンバーでもあった。あまり一つのところにじっとしていないタチなのかもしれないね。)に変わり、Jesus Pieceのフロントマン(ボーカル)のAaron Heardがその穴を埋めた。Jesus Pieceは同じくフィラデルフィアのバンドで私もデモ音源を聴いているがかなり強面なハードコアだ。ここら辺の人選は元々ハードコアバンドのメンバーとして活動していたDomenic Palermoによるものだろうか。

一聴したところどちらかというと前作「Tired of Tomorrow」を引き継ぐものかと思ったが、何回か聴いてみると音の作り的には1stの「Guilty of Everththing」に近い。というのもわかりやすく分厚い音に埋もれるようなシューゲイザーをやっている。ボーカルにリヴァーブのような空間系のエフェクターをかましているからか?と思ったが、2ndを聴いてみるとそちらでもかけていた。MVも作られた「Eaten By Worms」(私はこの曲がすごい好きだ)は轟音的な意味では確かにシューゲイザーだが、硬質な音の作り方はどちらかというとオルタナティブ/ハードコアを感じさせた。そこらへんの印象もあって「Tired of Tomorrow」は結構ソリッドなイメージ。対するこの新作は改めてサウンドプロダクションを1stの頃に立ち返らせた感じ。
ただし音の軽さ、というか音の抜き方というか、肉抜きの仕方は2nd的であの低音が重たくのしかかる1stとはやはり印象は異なる。シューゲイザーというそもそもからして陰気なジャンルで、暴行罪で前科アリという自らのハードコアな来歴をフルに使ったリアルな陰鬱さ(「俺は銃は持っていないし膝をついているがお前は俺を撃つだろうね」と警察官に対して思いを述べるタイトル曲)を構築してきたバンドがNothingだけど早くも2ndでは「Vertigo Flowers」なんかではそこにとどまらない世界観を出してきた。(前述の「Eaten By Worms」などでしっかり陰鬱さを表現しつつ。)今作でも特に苦しいふりはしないとばかりに陰鬱な曲のみを量産する内容ではない。「Hail on Pakace Pier」なんかは前述の開放感の次の作風だし、壁のような轟音にも拘泥を見せずに8曲目「The Carpenter's Son」などはむしろ音の数を究極に減らし、もったりとしたアルペジオで曲を引っ張っていく。ドラム以外のパートにはリヴァーブがかけられており、全てがスローモーションだ。轟音で眩惑する流行のゲイズ系とは明らかに一線を画す。シューゲイザーでは多用されるやり方なので、音楽的なもう一つ(もう一方は出自でもあるハードコア)のルーツである、そちらに接近しているのだと思う。

個人的にはどうしても「Dig」でやられたクチなのであの重たくのしかかるような、聴いていると音の波に浮かぶじゃなくて、むしろ実体を持ったそれに圧殺されるような、閉塞感を持った轟音がどうしても懐かしく思えてしまうが、それでも「Blue Line Baby」などの高揚感にはやられてしまう。好きなバンドだからしようがない。

Frail Hands/Frail Hands

カナダはノバスコシア州(調べてみるとだいぶ端っこの方で、ほぼ島に見える半島)のハリファックスのスクリーモバンドの1stアルバム。
2017年に自主リリースされた。
女性ボーカルの五人組のバンド。バンド名は「脆い手」という意味だろうか。なんだか意味深だ。(Dead Kennedysのアルバムのジャケットが思い返される。)

全10曲でランニングタイムは15分。
激しく速い音楽だが、ファストコアでもグラインドコアでもパワーバイオレンスでも無いのだ。エモなのだ。割としょっぱなからクライマックス感出してくるのでエクストリームな感想を即座に持ってしまいがちだ。それは彼らの作戦で、別にそれにハマるのも気持ちが良いから問題ないのだが、何回か繰り返して聞くと彼らがスクリー(エ)モバンドだということがわかる。女性ボーカルはほとんど叫んでいるが、叫んでいないパートも、ちょっとはある。そして曲が練られている。リフレインがこれでもかというくらい削られているので、圧倒的な瞬間風速的なイメージがあるが、例えば劇速でブラストをぶちかまして拍の頭で叫ぶ、というスタイルとは違う。これを持ってして歌っているというのはなかなか断言してしまって良いかわからないのだが、バックトラック、つまり演奏を聴けばちゃんと曲になっていることがわかる。だいぶ複雑だ。(前述の通り繰り返しがあまりないので掴みにくいというのもある。)大抵非常に短いが、この手のジャンルとは切っても切れないアンビエントなアルペジオ、滑るように展開していくメロディアスなトレモロリフ。静寂と轟音を同居させたダイナミズムがバンドアンサンブルの限界(つまり余計な音は使わない)に挑戦するかのように短い曲の中に詰め込まれている。だから単に「ブチギレフィーメール・ハードコア」といってしまうのは乱暴。
不安定に揺れる心をそのまま曲にしたというのはいかにも混沌としている。ただ不安定に直線を軸に軌道を描くのではなく、行き当たりばったり猪突猛進を繰り返していくような趣があって、それが不安定なのだ。それこそが不安定といっても良い。軌道が読みにくいのが、混沌としているし、聴いているものを混乱させる。Oathbreakerに似ているところがあるが、あそこまで混沌の元となる感情にしても非常に整然とわかりやすく並べるあちらと比べると、こちらの方が整合性がない。個人的に面白いのは整合性がない感じを大抵のバンドはヘヴィネスで表現しようとするが、このバンドの場合は割ときちんとエモで表現しているところ。結果的にわかりやすさは失われているわけだけど、そんなこと知ったことかという態度が非常に格好良いのだ。こういう比喩的な表現は良い。この時比喩というのは直接それとは言わないで、何かを表現することで、本でも音楽でもそれが醍醐味じゃないかと思っている節がある、自分には。
尋常じゃない感じは日本の激情に通じるところがあるけど、こちらはハイテンションの裏側はきちんとエモ(バイオレンス)の伝統踏んでいるのが差異だろうか。聴いてて保守的と全く感じさせないのはすごいところ。

Accidente/Pulso

スペインはマドリード(マドリッド?)のパンクロックバンドの3rdアルバム。
2016年にPifia Recordsをはじめ世界のいろいろなレーベル(日本のVox Populiからも)からリリースされた。
Accidenteは2010年に結成されたバンドで、つい先日日本各所をツアーで回っていた。それキッカケで音源を購入してとても良かったのだけど、ライブには行けず。

女性ボーカルなメロディックなパンクバンド。全10曲で収録時間は24分弱。世代だからポップなパンクというとどうしてもメロコア(メロディック・ハードコアというよりはメロコア(私は今はもうあんまり聞かないけど別に下に見ているわけではないです。))が思い浮かんでしまうのだけど、削ぎ落としまくった高速ミュートでメロディを引っ張るあのジャンルとは明確に違って、もっと明確に歌が中心になる。勢いはそれらに比べると少ないわけだけど、代わりに曲が面白いし、何より独特の哀愁がある。哀愁がなんなのか考えても言葉にするのは難しい。(私は楽器ができないのでひょっとしたらマイナーコードのことか?と思ったりするが、そんなに単純なものでもない気がする。誰か教えてください。)可愛い女の子が可愛く歌って、うおー可愛い!というのではないのだ。もっとこう奥行きがある。曲が暗いわけではないくてむしろ陽気な方だと思うが、人生の紆余曲折がその陽気さの背後に見える感じ。イスラエルのNot on Tourほど突き抜けていない、どちらかというとデンマークのGorilla Angrebに似ているが、あそこまでわかりやすく外に放射する怒り(あちらは結構ハードコア)がない。
スペイン語で歌う早口がたまらない。男性メンバーのコーラスも良いのだけど、ボーカルが単独で歌うときたまに伸ばした声が透き通るみたいになってそこが私は非常に好きだ。顕著なのは5曲目「Bandada」。この曲は途中の短いし、どちらかというとシンプルなギターソロにもこのバンドのメロディックさがあふれていてとても良い。
飾らない、あくまでも自分たちの手の届く範囲の道具で組み立てた音はまさにDIY。程よく小粒でぎゅっと硬い生々しい音が渦を巻くように流れていく。劇速というわけでは無いけど、音の密度が濃いので体感はやく聞こえる。たまに入れてくる高速連続カッティングがギターの生音が生かされているので、メタリックなそれらと異なって聞こえる。やはり世代なのかthee michelle gun elephantを思い出してしまってか妙にエモーショナルな気持ちに。肩の力は抜けているのだけど真剣じゃ無い訳が無い。あえて尖らせないことでH表現できるものがあるな、と突き抜けている音楽ばかり聴いているからか思った。