アメリカの作家によるノンフィクション。
原題は「In Cold Blood」で1965年に出版された。
カポーティといえばいちばん有名なのは「ティファニーで朝食を」なのだろうか。
(ちゃんと読んだことも、有名なヘプバーンの映画も見たことがないのだが。)
アンファン・テリブルと呼ばれた早熟の天才カーポティが書いたこの本は、しかし可憐さとは無縁な一家4人が殺害された実際の事件を長い時間かけて丁寧に追ったもの。
最近読んだ米原万里の「オリガ・モリソヴナの反語法」。あればつくづく女性が書いた物語だった。
ある闘争(それ以上だが)が起こった時、どんな過酷な状況下でも生き残ることが常に頭にある女性が、自分の手の届く範囲にある別の生命をなんとか助けようとする話だった。
彼らは自らお腹を痛めて命を生むのでその重たさをわかっているのだった。
一方この話は徹底的に男性の話だった。彼らはみずから血みどろの闘争を引き起こし、そして人の命をあっけなく奪っていく。醜悪な言動により自らの死を免れようとするが、いざその時が目前に迫るとまるで些末な問題かのように(たとえそれが去勢に過ぎなくても)死んでいく。
殺される人とその周辺、殺す人とその周辺を丁寧に描いていく。ルポタージュでありながらこの本は物語でもある。
本人の口から、そして被害者に関してはその隣人、知人たちから執念深く聞き取り、それをもとに事件当日とその前後の当事者たちの足跡を丁寧にたどり再現していく。
実在の事件に取材しながら、本全体ではほぼ小説の趣で語られている。(wikiによるとノンフィクション・ノベルという手法とのこと。)
そんな中で私はこの本は、二人組の殺人者の一人ペリーの物語だと思った。カポーティはあくまでも中立的な立場で事件を描こうとしているのだろうが、実際には(これは基本的にすべてのルポタージュで同じ現象が起こると思うが)かなり記者の心情がその内容ににじみ出ていると思う。よくも悪くも偏っており、そういった意味では書かれている人物たちの姿にもバイアスがかかっているのだろうが(繰り返すがある人がある人を考える時バイアスがかからないのはほぼ不可能であるはずだ、なのでこの偏りは全く問題にならないと私は思っている。)、普遍的に眺める通常のポタージュとは一風違ったリアリティと臨場感(と読み物としての面白さ)が生まれている。
殺人犯の一人、ペリーはインディアンとの混血で背が低く、両親が早くに離婚した半ば崩壊した家庭で育ち、子供の中で唯一彼だが教育が受けられない中過酷な労働に従事してきた。4人いる兄弟のうち後に二人が自殺した。ペリー自身も自身の居場所を長いあいだ見つけることができずに日陰者として生きてきた。教育はなかったが自力で獲得した教養が自慢で、特に音楽関連には確固たる才能があった。生活は苦しかったが夢想家としての一面もあった。血気にはやる相棒ディックに対してペリーは常に冷静だった。押し入ったクラッター一家に目当ての金庫がないとわかれば早々に引き上げることを提案したのもペリーであり、長女に暴行しようとしたディックを止めたのも彼だった。だが最終的にナイフを振るい、銃の引き金を押したのもやはりペリーであった。自分の惨めな人生のツケをクラッター家の4人が払うことになった、とは彼の言である。全く身勝手な言い分であるとは百も承知だ。しかし、なんとなくその気持ちがわかるなと思ってしまったのも事実だった。どんなひどい環境で育ったとしても責任能力のある人物が自発的に罪を犯せばそこに責任が発生し、その罰から逃れられないであるべきだ。私はペリーはろくでなしであり、人殺しであり、社会というか人間の文明に損傷を与えているとは思うが、彼が根っからの殺人者で死んでくれたほうが世のためだともやはり思わないのであった。(そもそも個人が罪人を裁くのは不可能だ。裁くのは法だ。方は民意を反映すべきだが、個々人が私的に人を裁くことはできない。)これが情状酌量という概念だろうか。
異常に事件に対して接近したノンフィクション。カポーティはあくまでも自分の主張を直接表現することは最後まで避けているが、ペリーへの同情的な立場は隠しようもない。
人にはそれぞれ物語がある。それを知らなければ人にとって他人は顔のない人間ですらない。罪のない4人を殺せば吊るされるのは当たり前だというわけだ。私はそれが間違っているとは思わないが、それに到るまでの隠された紆余曲折をこの本は暴こうとしている。だから読む人の気分をいくらか害するかもしれない。
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