2018年10月28日日曜日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う

彼は彼女を愛していたのだろうか?
少なくとも彼自身は愛していないと思ったのだろう。だって彼女が死んでも涙も出ないのだから。涙が出ない→悲しくはない→彼女との結婚は失敗だった。彼女は裕福な家の出で、結婚したことで自分の未来が開けた。おそらく彼はそんな状況に引け目と罪悪感があったのだろう。彼にとって自分の家がそんな失敗した結婚と、打算の上に築かれた非常に醜い人生の象徴になった。見た目は綺麗なのが、いかにも自分らしい。そう思った彼はそんな象徴を破壊することにしたわけだ。

ところで思ったのだが、人というのは感じ方と表現の仕方は様々だ。悲しいから涙が出ないことだってあるだろう。そんな風に思ってしまった。あまりの衝撃に心が麻痺してしまった。心の防衛機制が働いたのだ。流石に車で同情していた妻が事故死したような過去はないが、私もそんな風に妙な状態に陥った(私の場合は文字や音の意味がわからなくなってしまった。)ことが、かつてあった。だからすぐにこう思った。主人公は悲しくないわけがない。でも周りの人もそして自分自身もそこに気がつくことができなかった。でもいいですか。まともな人が身の回りのものを分解して回るだろか。大学の授業で心理学の教授が言っていたことが個人的には面白くてずっと覚えている。曰くこうだ「人の考えていることや気持ちは決してわからない。だから心理学というのは心に刺激を与えて、その後アクション(行動や動作)をみてそれでその人の心理状態を判断する」のだと。つまり妻の死という刺激に対して、彼の反応は異常だ。だから彼は彼女を愛していたのだった。往往にして私たちが愛しているものを大切にできないように、彼も彼女をつねに何よりも大切にしていたわけではなかったけど。(そして彼女の方でもそうであった。)

カウンセリングとはまず話すこと。主人公が出会った不思議な親子は彼に話させることで、彼を癒していった。心の平穏を取り戻した彼はそうして気がついたのだった。彼女を愛していたと。そしてもう半分くらいぶっ壊れた、自分でぶっ壊した家で相変わらず寝起きするのだった。だってそこが彼の居場所だからだ。(といっても壊れた家に住み続けるのだから彼は結構変わり者ではあると思う。)

よくいう人間が書けているというのはどういうことかというと人間の凹凸をよくよく表現しているということではないかと思う。義父は嫌な奴だなと思ったけど、最後まで見るとそうではない。嫌な奴ではあるけど、嫌いになれないのだ。奨学金をもらっている若造もきっとそうなのだろう。ギレンホールはいい役者だなと思ったんだけど、顔や態度だけでそんないいことより嫌なことがある社会というものを表現している。どう表現しているかというと言葉では言えない。でも人生を一言で言いあらわせることができるわけなどないのだ。生きている人は死ななかった人なのだ。彼が最後走り出せて本当に良かったと思った。

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