2018年12月31日月曜日

SWARRRM/こわれはじめる

問題作。
SWARRRMは間違いなく過激で攻撃的なバンドだ。どのバンドにも似ない音を20年以上探求し続けてきた。その殆どの音源では攻撃的であるということはヘヴィであると同義だった。
ところが今作はどうだろう。
ギターの音はその重苦しいディストーションの鎧を脱ぎ去り、またメタリックなリフの呪縛から抜け出した。残ったのは軽い響き(相対的なものでやはりそれでもディストーションはかかっている)で奏でられるコード感。
コードはメロディを生み出し、ボーカルがそれに導かれて歌を紡ぎ出す。(メロディ性を保ちながらシャウトするという絶技が全編惜しみなく披露されている。)
ここにあるのは歌だ。
Swarrrmは結成当初から「Chaos&Grind」を掲げるラディカルなバンドだ。音楽がただ攻撃的というのではなく、曲の中に必ずブラストビートを入れるという縛りを課すストイックさを持ち合わせている。そんなバンドが歌を中心に添えたのだから驚きだ。ネットで言われている「グラインド歌謡」という表現もしっくり来るほどに。
ネットでは「(今作を)到底受け入れがたい」という意見もあってそれも理解できる。そのくらいの変化がある。

Swarrrmは核(「Chaos&Grind」)がしっかりしているバンドだから、そこを軸にこうも大胆に音楽性を変えることができたのだと思う。
ギターの音楽性のシフトチェンジに関して、ドラムがブラストを打っていること、ベースはかなり運指の激しい主張するラインを弾いていることが幸いして、結果曲が単に退屈な歌に堕することを防いでいる。そういった意味ではこの変化にはちゃんとそれを裏打ちする技術というか土台があったのだと思う。こういうふうに舵を切るバンドはそうそういないだろうが。

つまりこれは脱構築の試みであって、実は単にマンネリ化した(過去作がマンネリに陥っていたとは全く思っていないが)旧態に終止符を打ち、新規な要素に触手を伸ばしたというのでは不十分だ。
実は単にマンネリ化した旧態に終止符を打ち、そして自己解体をし、ばらばらになったパーツの中で次はどれを武器にするかを決め、そしてバンドを再構築したのだった。
明確に大阪のGaradamaとのスプリット、もっというとそれより以前「Black
Bong」の頃からか、各種スプリット、前作「FLOWER」を通して、そしてこの「こわれはじめる」までがその解体と再構築の過程であって時系列に沿って聞けばその試行錯誤と挑戦を目のあたりにすることができる。
この変化は変遷であって、決して突発的なものではないということだ。

エクストリーム・ミュージックとはつまり普通の「歌」の壁を突き抜けてその先に到達せんとする試みであって、そもそもなら直線的な運動であるはずだが、その試みの先に「歌」を見出したというのは単に後退というよりはそれの再発見であり、また1週回って戻ってくる球体の動きを彷彿とさせる。
20年かけておいてきたはずの歌を再発見し、拾い上げた。円が完成し、その内側には混沌とした激情をしっかりと閉じ込めた。
遅くなり、そしてわかりやすくなったその曲は、丸裸だ。これはおそらく個人的な経験をそのまま書き出したような歌詞にも如実に表現されている。
過去作が轟音でその身をごまかしているとは思わないが、最近のSWARRRMに関してはあまりに赤裸々である。スプリットという形で先に世に出た「愛のうた」「あなたにだかれ こわれはじめる」で歌われる歌詞は非常に個人的な懊悩をそのまま書き出したような、むき出しの感情が綴られている。
SWARRRMはいわば「弱さ」を手に入れた(弱いことを認めた)のではないか、今作で。その弱さが、赤裸々な歌詞であり、メロディーへの接近であり、音の作り方であったわけだ。しかしこのアルバムを聞いて受け入れがたい人はいても、軟弱な音源だと思う人はいないだろう。鋭く尖ったギターの音は特に、あまりに鋭くそしてあまりにも脆い。これは決死の一撃であり、捨てたものの分、逃げ場がなくなった分、それまでにない勢いで持って私達に迫る。

個人的に今年、一番退路を断った作品。挑戦的であり、革新的であり、そしてあまりに攻撃的。バンザイ・アタックのように鬼気迫り、そしてやはり、もうすでに、とっくに壊れ始めている。

2018年12月25日火曜日

ヴァージニア・ウルフ/灯台へ

ページをめくると結構戸惑う本だった、特に序盤は。
この本は400ページちょっとある長編だが、途中大きな時間的飛躍を挟むものの取り扱っている出来事としては非常に短い。
とある島の別荘に主である哲学者の一家とそのお客さんが集まっており、その中の一日を切り取ったようである。誰かが殺される、といったような劇的な事件もない。思い思いに午後を過ごしたあと、みんなで晩餐を囲む、といったくらいである。しかしそれなりにおページがあるわけで、じゃあ何が書いてあるのだろうというと、コロコロ変わる視点の中での各登場人物の心情が丁寧に書いてある。例えば誰かが庭を横切るとそれを見ていた他の誰かが彼はどんな人でそれに対して自分はどう思っているのか、ということを思う。で、ヴァージニア・ウルフはその心の動きを綿密に書いている。これはなかなか変わっていると思う。書き方で戸惑うというのはコーマック・マッカーシーが思い浮かぶ。一旦慣れればあとはあっという間に読んでしまう、というところも同じだった。中盤からはあっという間に読めたけど、やはり何かしらが起こるわけではなかった。

この本が何を指しているのか、というのは難しい。大まかに人の動きははっきり書いている。私はこのスタイルは好きだ。逆に登場人物の心情を素直に書くやり方はあまり好きじゃない。この本は私の好きな/苦手なスタイルを2つ同時に書いているから面白い。心情に関してもここまで丁寧書かれると(極端な話私は「彼は嬉しかった」のような書き方が苦手なので)、逆に面白く読めるものである。
独り言というのがあって、私は不安になったときによくこれをつぶやく。同様の気持ちを登場人物、特に絵描きのリリー(後書きによると作者自身の投影らしい)がそうで、彼女はいつも外界、さらにいうと他人に対して不安を感じている。ある人を得意/苦手と思っているけどそれが正しいかどうか全く自信がなくて、理由を丁寧に述べて言い訳しているようなところがある。つまりウルフがこの作品で丁寧に書いている心情というのは基本的に他者に対する不安に根ざしているような気がする。
この物語では大したことが起きないがそれはつまり世界というのはただあるだけで不安に満ちているということなのだ、少なくともウルフにとっては。彼女の人生を思うと結構納得感がある。いわば知覚過敏が見た世界を書いているのであって、だから風景は牧歌的だがその中身は不安で溢れている。ところで私は非常に小心者なのでそういう雰囲気に共感してしまうのであった。

灯台ってなんだろう。ラムジーさん一家はここに行こうとしているのになぜかいろいろな事情でなかなかたどり着くことができない。峻厳なところに孤独に立ち、そして別荘に人がいようがいまいがお構いなしに、その強烈な光を投げかけ、そして観察する。どうも神様のようではある。光が部屋やその中においてあるベッドの上を舐めるように移動するさまは強烈な観察者の視線のようである。また未知の海原を旅する者にとって道標であり、故郷の端っこに立つものでもある。やっぱり神様のような気がする。そこにたどり着けないというのはなかなか厳しいことだ。
さてようやっとじゃあそこにたどり着いたとして、やっぱりそこにあるのは灯台なのでした。肩透かしを食らうようだが、やはり地上にはあるべきものしかないようだ。そこにあるのは日常なのだ。私達は気分が良かったり、悪かったりして毎日を過ごしていくのだ。ふつうのコトだ、なんてことはない。でもそんな普通のことに結構すり減る人がいるのだ。例えばヴァージニア・ウルフもそうだったのかも知れない。ちょっとなにか、なんとも言えない気分になる。この本はそういう本だ。

2018年12月24日月曜日

CANDY/Good To Feel

何でもやりすぎがかっこいい。イカれているという評価は常に通常の一歩先を求めるものだ。ハーシュノイズを入れたり、低音を強調したり、色々なバンドがその一歩先を目指している。
このヴァージニア州リッチモンドのハードコアバンドはとにかく音がでかい。実際はきちんと考えてこそのバランスなのだろうが、私の耳には全く全部の楽器ができる限りのデカさで鳴らした音が一つの塊になっているような気がした。とにかくうるさい。結果的に細部がわからなくなってすらいるけど、それこそがやりすぎのマインドでもっと私をノックダウンしたのだ。追加の要素ではなく、とりあえず手持ちの楽器を全開で鳴らしてしまおうか、というのは潔い精神であると思う。

とにかく1曲めの「Good To Feel」が良い。私はほぼほぼこの曲だけを聴いているような気がする。別の他の曲がイマイチというわけではないのだが、どうしてもこの曲が好きなのでしようがない。まずこのバンドはドラムがかっこいい。カッチカチに張り詰めたドラムを力任せにひっぱたくという豪腕タイプなのだが、結構タイトでグルーヴィ通り越してマシンにすら聞こえる。この1曲めの途中で挟まれるパートはまるでブレイクコアを聴いているようだ。この感覚はハードコアではあまりない。

日本のハードコアの影響を受けた、というのは3曲めの「Ststematic Death」というタイトルもそうだろうし、曲中につんざくように(とても短い)悲鳴のようなソロを入れるやり方もそうだろうと思う。ただし日本のバンドがソロなどによってハードコアに叙情性を持ち込んでいるとしたら、このバンドはそれをリスペクトしつつ(ちょっと語弊があるかもしれないが)悪用しているといった趣でこちらも詩情なんてあったもんじゃないくらいのジーにしてしまっている。その解体性を持ったプロセスが非常に過激でしびれる。
このバンドの音楽性は実は結構複雑ではないかと思う。良くも悪くも1曲めだけが激速パワーバイオレンス感があって浮いているが、残りの8曲は割と中速。速くはない。きっちり低速成分としてモッシュパートを押さえているのだが、全体的に見れば一部でしかない。つまりブルータルなモッシュコアとは一線を画す内容で、独自の中速を模索している、そんなイメージ。
ハードコアバンドをやったら速くするか、それとも遅くするか、みんなきっと迷うのではないか。中速というのは実は一番難しいかもしれない。ミリタントのようにメタリックなリフに凝る、というやり方もあるがそれを採っているわけではない。前述の日本からの影響色濃いギターソロなどはわかりやすい暗中を切り裂く武器だろう。ただそんな試行錯誤も恐る恐るというかんじではなく、とりあえず興味あること全部ぶち込んでみたよ、というブレーキ壊れた感じがする。ラストの「Bigger Than Yours」(ひどいタイトルだ)は明らかにハードコアの対局にある甘いシューゲイザーを再現していて、悪意があるというかこれはもう完全にいたずらである。例えば半端にサンプリングして言い訳を残すとかではなく自分たちでやっちゃう。それで破滅的なノイズで占める。結構これはもうミクスチャーと言っても良いかもしれない。底抜けのポジティブさと混沌さはThe Armedに通じるところがあると思う。

City Morgue/City Morgue Vol1:Hell or High Water

品性のなさというのが魅力になることもある。
そこでは暴力的であればあるほどよく、下品であればあるほど崇められる。たとえそれがハイプであっても。詰まりはそういった物語が退屈した(ある程度)金のある人達にとっては娯楽になりうるのである。
老人たちがロックを、手垢のついたX0年代をリバイバルしたり、あるいは同窓会的に再結成したりしてこねくり回している間に、ヒップホップはその歴史のなさ(短さ)を活かして進歩し続けているように思う。私は老人の一人としてイマイチ乗り切れずにいたのだ。若いラッパーは全身を入れ墨だらけにしてスキャンダルの数だけ札束を積み上げている。なかにはロックの代名詞である「ダイ・ヤング」を体現して死んでいったものもいる。しかしトラップの流れをくむそれらは私にはあまりピンとこず、どうもまったりしてしまう。中にはオルタナティブ・ロックをラップで再現しているかのような音楽もあり、それはそれで面白いのだが、ヒップホップのリズムが激しくオミットされているためやはり老年の鼓膜を叩くことはなかった。

City MorgueはNYのヒップホップユニットだ。ベイショア出身のZilaKamiとハーレム出身のSousMulaの二人に加えてトラックメイカーのThraxxで構成されている。ユニット名で検索すればおおよそ彼らの人となりがわかるだろう。タトゥーに覆われた表皮にグリルの入った歯茎。ハイブランドに身を包み、手には銃器を持っている。ピストルからグレネードランチャーのようなものまで。要するにおつむの空っぽのギャングスタが金を手にした、そんなある意味もはや陳腐なストリートの物語を体現したような若者である。
こいつらはしかし面白いヒップホップをやっている。かつてはギャングスタでも真面目にレコードの山を掘り返しては曲をサンプリングという手法で発明したものである。元ネタはジャズからR&B、カントリー、そして音楽的な語彙をもつディガーは際限なくその裾野を広げていった。City Morgueに比べれば大変上品かつ交渉に聞こえるから不思議だ。(ただし彼らの何割かは本当のギャングスタでもあった。)
一方City Morgueにはそんなお上品さはなく、ディストーションのかかったギターを派手にサンプリングし、逸脱したノイジーなトラックを量産している。イントロのフレーズに犬が吠えるようなスクラッチ音、露悪的な笑い声のサンプリングというマンネリズムを大胆にアルバムの中で何度も披露しているのはネタの使い回しというよりは単に好きだから、という理由なのではないか。曲名から察するにスラング、スケート、ビデオゲームなんでもござれのごった煮。
ところがこれが非常に格好良い。なるほどブーンバップのあくまでも洗練された美学は皆無だろうが、かといってひたすら雰囲気重視のトラップとは明らかに違う。うるさすぎるし、やはりなんと行っても品がない。強いて言えば90年代後半に隆盛を極めたニューメタルのごった煮感、(シーンのごく一部の)ポリシーのない享楽的な雰囲気を体現したかのような往時のミクスチャー感がある。ちょうどその次代をすり抜けた私の耳にはだからこそ刺さったのかもしれない。

でかいケツのお姉ちゃん(私からしたらだいぶ年下だろうけど)、輝くグリル、ぶっといネックレス、跳ねるローライダー、札束、山なす重火器、薬物といった伝統を抑えつつ、クラストっぽいパンツ(ズボン)が出てきたりして面白い。
音楽とファッション(ここでは服装)は切っても切れない関係だが、若いヒップホップ・ミュージシャンは格好が奇抜かつゴージャスでおっさんからするとフィクション(コスプレ)めいた感じがあり、その原色を散りばめたような露骨な派手さ(いうまでもなく成功の証、という意味では極めてストリート上がりのヒップホップ的)が面白く映る。存在そのものが饒舌である。彼らが本物のギャングスタなのかハイプ(あるいはヒップスター)なのかはしらないし、どちらでも良い。彼らが誇らしげに掲げる銃も決して誰かに向かって撃たれることがないと良いと思う。(彼らがSNSにその類の写真を上げるというだけで有害だとは思うが。)私は老人なので。ただ音楽を聞いて良いと思うから良いのである。

2018年12月23日日曜日

Emma Ruth Rundle/On Dark Horses

アメリカ合衆国はカリフォルニア州ロサンゼルス出身のシンガーソングライターの4枚目のアルバム。
2018年にSargent Houseからリリースされた。
Emma Ruth RundleはISISのメンバーがやっているポストロックバンドRed SparrowsやMarriagesにシンガーとして参加している。

私は彼女のソロ作品は初めて聞いたのだが、内容的には生音を大胆に活かしたフォーク、それがロックの流儀というよりは手法をパーツとして取り入れた、という形に聞こえた。
というのも曲が凝っているのだけど明らかに歌が中心にある。バンドだとどうしてもみんな目立ちたがるからこうは行かないような気もする。(特にロックのジャンルでは。)
フォークと言っても辛気臭いそれではなく、太鼓が原始的なリズムを叩き、妙に浮遊感のあるギターが乗っかる奥行きのある全方位型。芯がしっかりしていて陽性だがどこかしらドゥームの雰囲気があるのが良い。エコーが掛かったギターと土臭い雰囲気はフォークと言うよりはカントリーなのかもしれない。アメリカーナってやつなのだろうか。

歌の雰囲気や作り方(仕上げ方)もそうだし、同じSargent HouseということでどうしてもChelsea Wolfeを連想してしまう。女性だからというのはいささか乱暴だが、両方共魔法的である、もっというと呪術的であるという共通項はあると思う。Wolfeの方は露骨に見た目もブラックメタルを通過した黒さ、ゴスさがあり音の方もどこかしら退廃的な雰囲気がある。一方Rundleの方は見た目も音もよりナチュラル。曲調は明るく、歌声は力強く伸びやかに。ただし個人的にはむしろ呪術的な雰囲気が強いのはRundleの方だなと思った。Wolfeさん方はなるほど王道とは言い難いけど、人間味があってつまり懊悩の果に邪道にというストーリーがある。特に見た目だけだとインパクトが強いけど歌に関してはその正道から邪道というブレが主役的に表現されていると思う。
一方でRundleさんはもっと野性的で奔放。わかりやすい病みはなくて明るいところは明るい。また健康的というのは明るいというよりはエネルギーに富んでいることで彼女の場合はこれが当てはまる。ようするによりプリミティブなわけで、なるほどこちらから見れば異質だが向こうからしたら何らおかしくはない。つまり生粋の魔女であって、これはもう文化が違う。呪術が当たり前の世界での歌なのであって、人間が歌う恨み節の呪文というのとは異なる。
ブレがないぶんRundleの歌は真っ直ぐなわけで、でもフリーキーだ。StrangeというかWeirdなのか?明るく力強いがヒットチャートの歌とはやはり一線を画すマニアックさがある。

Sargent Houseというのは面白いレーベルで、同じ女性シンガーでも毛色の違う人達を揃えている。全く違うがやはり異端という意味で共通している。
出音はもちろん何かしらの判断基準があるのだろうと思うのは楽しい。要するに一本筋が通っているように見えるから。

City Hunter/Deep Blood

どんなジャンルにでも異端というのが存在するものだ。
このCity Hunterもそんなバンドの一つかもしれない。
リリース元はYouth Attack Records。
ジャケットは妙に昔のアメリカ映画のポスターのような雰囲気がある。
覆面の男がアーミーナイフ(ボウイナイフかも)を構えているという構図で、これ実は過去の音源を見ると全部同じ世界観で統一されている。
数少ないライブ映像を見るとボーカリストは目出し帽をかぶっており、体格もあってかなりいかつい。

マスクをかぶるという行為が何を意味するのかというと、個人でなくなり何かになる、ということだ。
なまはげなんかはわかりやすい。Slipknotなんかもこの流れに属するのではなかろうか。彼らは人間でない別の何かになって、非人間的な音楽を鳴らすわけだ。
ところが犯罪者というのもマスクをかぶってこれは単に特定の個人であることを放棄している。
このバンドはその流れに属し、目だし帽をかぶりCity Hunterという誰でもない男になるのだ。

演奏に関しては曲が短めでアルバムトータルで18分たらず。これで全部で14曲。
とはいえ型にはまったファスト&バイオレンスなスタイルではなくて、オールドスクール・スタイルを踏襲しつつテンポを早く、そしてムダな装飾やリフレインは極力省くというやり口。
いわば自然発生的なファスト(なハード)コアで様式美というよりは単にぶっきらぼうなだけといった潔さ。様々なインプットは当然あるわけなのであえて流行には背を向けているのだろう。メロディアスさ?当然あるわけがない。

なんといってもフロントマンに華があるバンドで、見た目もさることながら声質も相当特徴的。
タフなハードコアスタイルでもないし、喚き散らすファストコアスタイルでもない、整然と低音が利いたデスメタルスタイルでもなくて、喉に引っ掛けるような発声方法で内にこもったブラックメタルに近いスタイル。
ある意味ミスマッチなスタイルなのだが、かなりうまくハマっている。
というのも演奏はきっちり突進力とマッシブさを抑えつつ、バイオレンスとまでは行かなくらいの温度で、いわばまだ飽和状態に達していないところに劇薬のようなボーカルを突っ込むと、これで完成という感じ。
とにかく全開、全部乗せ!ってわかりやすいのだけど、いろいろな色を混ぜてもきれいな色にならないように、この手のジャンルでもバランスが大事なのだろう。とくにハードコアは概ね足すではなく引く、ほうのジャンルではと思っているので個人的にはこのバンドのやり方はしっくり来る。
やり方的には(The Infamous)Gehennaに似ている。純正ハードコアでは醸し出せない危険な雰囲気も共通項としてあると思う。ただGehennaのほうが音的にはより粗野か。
よくよく今バンドを利いてみると特にギターが凝っていて、がむしゃらに弾いているようでいて実は不安感を煽るSE的な音の出し方をしている。結構技巧的だ。

覆面をかぶることとアートワークへのこだわりから、粗野な音楽性も緻密な計算がされていることが推測できる。
演奏面でのバランス感覚もその感覚を強化する。芸術性を徹底的に排すことで(ただしハードコアのタフさという美学にはたとは異なるやり方で与している)、あざとさが発生するのを防いでいるのだろう。

神坂次郎/今日われ生きてあり

良くも悪くも(悪いほうが圧倒的に多い)適当な会社で働いているとまあ良いこともある。今は上長二人が非常に良い。元々音楽やっていた二人で、上司ながら部活の先輩みたいなところがある。ふたりともいくつか共通点があり、そのうち1つが戦争に対する興味だ。いわゆるミリタリーオタクではなくて、先の大戦における日本軍の動向について並々ならぬ思いがあるのである。そんな二人のうち、一人の方からおすすめされたのがこの本。何回か書いているが人のおすすめというのは良い。自分の興味の外にあるものに触れる機会になるからだ。知らない人はもちろん、やはりある程度その人の人となりを知っている人のおすすめというのは更に良い。

私は争いごとは嫌いだがあまり戦争を取り扱った本は読んでいない。ぱっと思いつくのは「キャッチ=22」くらい。これは凄まじい反戦小説である。ただしこれはフィクション。調べてみると9年前にティム・オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」をアマゾンで買っていた。これもいい本だった。でもこれはアメリカ軍でしかもヴェトナム戦争の話だったはず。

この本が取り扱っているのは明確に特攻隊だ。神風特別攻撃隊のことだ。その中でも沖縄天号作戦に関わった振武隊のことを取り扱っている。特攻隊員たちが残した手紙、遺書。さらには彼らの関係者(家族、戦友、それから彼らと積極的に関わることになった基地のそばに住んでいた非戦闘員)から聴いた話をもとに構築されている。手紙をそのまま引用している章もあれば、談話から物語として再構築している章もある。
いずれも浮かんでくるのはまさに死なんと飛び立つ寸前の若者の心情である。検閲もあるだろうが、手紙に関してはそれを避けるために世話をする地元の非戦闘員(これも14〜5歳の娘である。)に手渡していたようだから、おそらくほぼ率直な内容になっているのだと思う。これが思った以上に前向きななのだ。例えば死にたくないとかそういった気持はない。(もちろん作者が意図的に弾いているという可能性はあるかもしれないが。)もう自分が死ぬということは覚悟しているわけだから、ある意味達観している。そうなるとあるのはあとに残してきた家族に対する思いである。自分は死ぬがあなた達は健やかに長生きしてくれ、というそんな思いが綴られている。
だから敵兵を殺しまくる!というのはあまりなくて(たまに挿入されるそれらはどちらかというと自分自身に言い聞かせているような趣がある。)家族や恋人、それから最後に触れ合った人に対する想いが素直に吐露されている。妙に達観したような文章の裏にはしかし、半ば理不尽に死に向かって進んでいく自分の運命に対する不安と反発する気持ちが見え隠れしていると考えるのは何も私のうがった意見ではないと思う。いまわのきわに手紙を書くということ自体がこの世に対する執着と言ってもよいだろうし、途中で死んでいく自分の命と、この綺麗な景色(彼らは美しい祖国日本という)を生き残っていく家族や他人に託している節がある。俺が死ぬのは彼らのためだと。彼らが健やかで暮らせるなら俺は死のうと思って、そう信じ込んで彼らは250キログラムの爆弾を搭載した飛行機でフラフラ飛び立ったのだった。物資不足により目標空域に辿り着く前に何割かの飛行機が墜落し、またすでに制空権を抑えられていた状況でおもすぎる爆弾を積んだ日本の軽い戦闘機は格好の的だった。ほとんどは目標に体当りすることなく落ちていったようだ。

今ではもう本来の重量をほぼ失った「カミカゼ」という言葉。私は直接目にしたことはないが、銃後すぐは特攻に行った人たちはだいぶ軽蔑されたそうだ。愚かな軍部の盲目的な手先だとして。実際彼らは愚かではなかったし、むしろ誰よりも勇敢だった。その場にいない人たち、その場でできなかった人たちが行動した人を批判することはできない。私は特攻は非常にくだらないことだと思う。しかし特攻していった人たちは立派な人達だった。私は戦争には引き続き反対だ。もし特攻に飛び立つ前の隊員にあうことができたとして、「あなたは立派だから飛んで死んでくれ」といえばなるほど軍国主義かもしれないが、私は「あなたは立派だから飛ばないでくれ」と言うだろう。(もし私が当時生きていたら実際にそんな事はきっとできなかっただろう。ただ周りに合わせてバンザイをしていただろうが。)

良い人が戦争でみんな死んで今生きている人は真っ先逃げ出した臆病者の血族であるとか、昔の人は立派で今の人はどんどん傲慢になっていると考えるのは面白いが全く意味のない思考である。
この本を読んでますます戦争が嫌になった。こういう本を課題図書にすればよいのに。

2018年12月16日日曜日

メルヴィル/白鯨

アメリカ文学に一つのモニュメントして立つ小説の一つではなかろうか。
様々な作家がその影響を口にし、またその他の芸術でも引用されることが多い。音楽界隈でもMastodonが「Leviathan」(聖書に出てくる怪物だが、クジラのことをまたレヴィアタンともいう)というアルバムを作成しアートワークには白いクジラを配している。またAhabというドゥームメタルバンドもいたりする。
私はNHKのアニメーションで「白鯨物語」というのを再放送でちらりと見たことがあるのが「白鯨」に関わる一番古い記憶だろうか。

複数の版元から出版されているが、世界観をよく表現している版画が収録されているということで岩波文庫版を購入。全三冊。大長編ではあるが、前編これクジラと戦っているわけではない。そもそも捕鯨とはどんな仕事なのか、どんな人達がその事業に関わっているのか、そもクジラとはどんな生態を持った生き物なのか、ということがメルヴィルの手で丁寧に丁寧に書かれている。どうもメルヴィルの時代に捕鯨業(とクジラという生き物)というのは正しく理解されていなかったようで、そんなみんなの間違った認識(メルヴィルに言わせると中世くらいの知識)を、捕鯨船に乗った経験がある作者がただしてやろう!という強い意志を感じる。どうしても荒波に漕ぎ出す海の男の物語というと暗く、重苦しいものを想像しがちだが、そんなことはない。3年以上に及ぶ長い航海では荒天もあればもちろん晴天もあるわけで、メルヴィルは海の美しさ雄大さ、海の男達の友情というものをきちんと真摯に描いている。なるほど後の時代の研究科がメルヴィルの生物学的な知見にはだいぶ間違いがあることを指摘しているが、メルヴィルの時代にはそれが精一杯だったのだし、そしてなにより人間というのはいつの時代にも変わらないもの。知識を土台に人間を書いている「白鯨」はそんなわけで今の時代も読みつがれているのだと思う。
あとがきでも書かれている通り、様々な人種が一隻の船に乗り合い、まさに生き死にをともにする捕鯨船ではびっくりするくらい人種差別がなく(これはメルヴィルの個性による所も多いとは思うが)、また狭いスペースの中で個人の個性が尊重されている。一歩間違えれば全滅する船の上で、肌の色がどうとかとか言っているいる余裕が無いのかもしれない。つまり仲間か、それでないかなのだ。これに関してはこの小説が持つ美点の一つだろうと思う。つまり人間の根源的な共感できる能力への賛美である。

「白鯨」はいろんな脇道(前述の博物学など)をもった小説だが、筋としては単純で化物のような白く巨大なクジラに人間が挑む話である。その単純さ故にいろいろな含蓄を含み、多くの人がそれにいろいろな意味を付加しようとしている。(私もその一人。)だが、物語としてみれば鬼気迫る戦いに赴く船員たちを書いており、その指揮を採るのが言わずとしれたエイハブ船長である。気の触れた船長といえば読んだことがない人でもそのなは知っているだろう。(脱線するが学生の頃に見た「ラストエグザイル」というアニメもこの「白鯨」の物語をなぞっているね。)
このエイハブは魅力的な人間で、自分が気が狂っていることに気がついており、世界には明るい面があることがわかりつつ、そこに背を向けて敢えて自分だけでなく船員の身を危険に晒す半分狂った男である。白鯨が凶暴だと言っても陸に攻めてくるわけでもなし、鯨油が目的なら他の黒いクジラで十分ではないか。彼はいわば恨みで動いている人間で、いわば煩悩に囚われた人間のわかりやすい戯画化された姿でもある。(だから彼は常に魅力的な人間なのだ。)私怨に対する理性の象徴として登場するスターバック。彼に対するエイハブ船長の愛情が私には非常に面白かった。邪険にするが敬意を感じている。破滅するのがわかっているのにスターバックは船長を止めることができないのである。エイハブの狂気は力を持っているゆえに船内に伝染し、そして逃げ場がないためピークオッド号は帆に風を受けて彼らの死である白鯨に向かっていく。これは理性の敗北であり、豊かな海が底なしの墓場にその姿を変えていく。

一連の物語を覆うのは無常観である。この物語で私が好きなのは、メルヴィルは実際的な人物でたしかに間違いはあるのかもしれないが、決して大きなことを吹聴したりはしない。捕鯨は栄えある仕事だが、それはあくまでも捕鯨に過ぎないのだ。登場人物たちのクラス世界の美しさ。そしてあっという間に人が死ぬ酷薄さ。捕鯨船とそれを囲む青い世界にメルヴィルはそれを詰め込んだのだ。起こった出来事を書き、そして結果的にできあがった「白鯨」という巨大な画を見て、私はそこに万物流転の無常さをみてとったのだ。

BLOODAXE TOUR -JESUS PIECE JAPAN 2018-

年の瀬にJesus Pieceが来るという。なんせデモとプロモ音源しかリリースしていない状態で非常に話題になったバンドだ。満を持しての1stフル「Only Self」もまさにブルータルで良かった。または種々様々なハードコアバンドのライブ動画を発信しているHate5sixも帯同するという。ミーハーなもんでこれは!とばかりに向かったのは渋谷Garret。結構新しいライブハウスなんじゃなかろうか。かなりきれいで音も良い。最近のライブハウスはステージが横に広いような気がする。これだと単純に劇的になって良いよね。
先週の激務でまさかの昼寝で寝坊してしまい、一番手Blindsideに間に合わず…。

Coffins
東京オールドスクールデスメタルバンド。
MCでも言っていたが今回のラインナップでは異質なバンドで、流れでみるとやはり異彩を放っていた。モダンなハードコアがミュートでザクザク刻んでいくとすると、デスメタルは余韻を引きずるスタイル。重たい一撃がグワングワンする残響を残していく。これが速いバンドならまた話は違うだろうが、Coffinsは相当にDoomなので割合的に一音一音の比重(インパクト)がでかい。デスメタルのリフに極悪ハードコアを見出す動きもあり、結果ハードコアバンドとは別のアプローチでフロアにアクセスするイメージ。
個人的には来年から録音に入るという新曲群がとにかく良かった。キャッチーというと語弊があるかもしれないが、元々Coffinsはドゥームな割には曲の中で変化があるバンドだったと思う。ゆったり(もったり)その姿を変えていく、というスタイルが新曲ではかなり激烈になっていてその強引な感じがまた格好いいのだ。テンポチェンジも露骨でテンション上がってしまう感じ。
「Raw Stench Death Metal」と刻まれたパーカが新作で物販に並んでいてライブ良かったのでこれは!と思っていたのだが、終演後には売り切れていた。みんな考えることは同じみたい。

NUMB
続いては1995年から活動しているNUMB。とても有名だしいろんな場所でライブをやっているが見るのは初めて。
この日どのバンドも素晴らしかったが、一番衝撃を受けたのはNUMBだったと思う。色々なバンドが自分たちをライブバンドと称する。特にこのジャンルではライブがすべて、と言い切るバンドもいたと思う。たしかに音源で聞くのとライブで体感するのはぜんぜん違う。(そもそも使っている感覚が5倍(味覚はなかなか使わないが)になるからライブのほうがすごいのは仕方がない。)でもNUMBみてライブバンドってこういうバンドかと思った。まずは圧倒的なショウ感。これは演劇的という意味ではなくて、全部がつながっているということ。曲の合間にチューニングがてらMCというのではない。曲名をコールするMCが全部計算されていて流れるように曲に移行する。劇的にスムーズでこちらはライブ中にスマホ見ている暇なんてないんだよね。(そもそもライブ中に見ないと思うけど。)途切れないライブで集中させる。でも威圧的な感じが全く、本当にまったくなくてむしろ笑顔が多い。これは衝撃的だった。
曲はモダンにアップデートされているけど、随所にオールドスクールを感じさせるもの。音の作りも数もいい感じに引かれている感じ。ラフ、というのとはちがう。おそらくライブの運びもそうだけど、相当考え研究しているのだろうなと思った。重鎮というのは老獪で力が抜けているなんてとんでもない。むしろ知見をたゆまずアップデートすることなんだなあと感動したけど、ライブ中は何も考えずにただただ楽しかった。

Loyal to the Grave
続いても大変有名なバンド。(1998年結成。Bolodaxeの仕掛け人でもあります。)やはり見たことがなくて楽しみだった。
音楽的にはNUMBと共通項がかなりあるけど、よくよく聴いてみると違いがわかって面白い。まず音の数が多い。また音も重たい。ようするもっとヘヴィだ。こちらもルーツは様々だと思うけど、出音としては明確にニュースクールといった趣。それも硬派なやつ。メロディ性は皆無でほぼほぼグルーヴで引っ張っていくタイプ。ただモッシュに特化したモダンなブルータルさとはまた違う。落とす、というからには高さ(つまり速さ)が必要なわけで、ニュースクールは技術でもってそれらを演出する。ミリタントもそうだけど、ただ単に落とすためのその他ではなくて、落とし所以外も格好いいという。言うのは簡単だけれどそれを実行するのは難しい。それを難なくやってのけるのがこのバンド。とはいえミリタントほど装飾性がない。ドラムの音の抜き方に何かしら格好良さの秘密がありそうな…。
とにかくボーカルの方のMCが良かった。ハードコアはとにかくタフだけど殺伐としているかというと、少なくともライブの雰囲気は違うと思う。暴れるにしてもポジティブなモチベーションがあってそれを体現しているかのような語りがとにかく良かった。

PALM
このラインナップで見るとCoffinsほどではないが結構浮いているなと思ったのがこのPALM。マイクの取り合い合戦も確か始めてみたのがこのバンドだったので恐ろしいハードコアだぜ…と思っていたし、実際そうなのだが、いわゆるUSスタイルのハードコアとは結構趣が異なる。わかりやすいのはドラムで結構バチバチ存在感のあるブラストを入れてくる。突進力は確かに、だからといってトータルでグラインドコアかというとそうではない。ギターに関してもミュートで刻んでくるというよりはデスメタルっぽいトレモロを噛ましてきたり、短いソロを弾いたりもする。ただ音の肉抜きがされていて重苦しいメタルには聞こえない。いわば絶妙なバランス感覚でハードコアの綱渡りをしているようなイメージで、これがまたフロアを沸かせる。いい意味でのごった煮感は今はあまり聞かなくなった「カオティック」を彷彿とさせる。
何回か見たライブではユーモアに富んだMCが印象的だったがこの日は少なめ。ベーシストの外国の方がビザの関係で不在、というくらいの簡潔さ。あとはもうほぼほぼ演奏に振り切っていた。ボーカリストはマイクで体を叩くのだがその「ッゴ」という音がよく考えるとなんとも猟奇的。演奏もあって何するかわからんぞって雰囲気でもやっぱりこの日明らかに尖っていた。

Jesus Piece
いよいよ最後はモダン・ブルータル・ハードコアの雄、合衆国はフィラデルフィア州からやってきた5人組。
出音一発で思った「遅え〜」。地獄は速いのかと聞かれたら遅いんじゃなかろうかと思うのだが、この日はまさに地獄。浮かれているフロアに鉄槌を下すがごとおく容赦がない。フロアに居るみなさんも一発でこれは尋常じゃないな、と思ったのではないでしょうか。ギターがベースかってくらい音が重たい。そして遅い。叩きつけるというかもう押さえつけるくらい。これが良い。豪腕でズンとくるから、押さえつけられた反動でこっちは跳ねるじゃん?というわけで結果的にフロアも更に湧くのだ。わけがわからないがこんな感じ。(まともな人間はハードコアなんて聞かないそうだ。)
これ前編モッシュパートじゃんというくらいのえげつなさだが、耳と体がなれてくるとしかしよく練られた曲に込められた技工がわかってくる。2本いるギターで役割分担があって、片方はもうズンズン刻んでくるのだが、間を縫ってもう一本がかなりですメタリックなリフを奏でたりしている。踊らせるにしてもテンポチェンジはもちろん、結構拍子も変えてきて、3拍子は思った以上にハードコアに合うな!なんて地獄のようなフロアで思ったりもした。ボーカリストもデスメタルバンド顔負けの低音咆哮を見せる。長身でシャツを脱いだ体はとにかくしなやか。音の方もそうで、ハードだけど有機的なしなやかさがある。意外にライブで見るとガッチガチに固めたハードコア、という印象でもなかった。
フルアルバム「Only Self」はもちろん素晴らしいのだけど個人的に一番好きなのはデモの「Lost Control」。まさかと思っていたけど果たしてやってくれてテンション上がった!!横から上から人がどんどん飛んでくるのでじっくりなんて見れたもんではないのだが、これがまさに触覚を使ったライブなのだ。

この日は一番手からフロアが沸きに沸き、それこそ一番手からけが人が出たりもした。hate5sixに日本のハードコアを見せてやろうという気概があってか、演者もそうだしそれに答えるようにオーディエンスも非常に高いテンションで盛り上がっていたと思う。
Jesus Pieceのメンバーは根っからの音楽好きなのだろう。どのバンドでもほぼ最前に陣取り、誰よりもモッシュしていた。特にフロントマンのアーロンはCoffinsのときにすごく楽しそうだった。(Jesus Pieceもはじめはデスメタルやりたいねって集まったらしい。)
良いライブってどんなライブかというとフロアに居る人が笑顔のライブだと思うし、そういう意味では非常に素晴らしいライブでした。
Jesus Pieceはこれからツアーが本番なので迷っている人はこの機会に是非どうぞ。


それとこれは日記なんだけど、やはり私は耳栓が合わないみたい。現在のライブハウスでは耳栓の着用が推奨されている。安いやつを買ってみて好きじゃなかったので、ライブ用のちょっと良いやつを買ってつけてみた。音はちゃんと聞こえる(どの楽器ももバランスよく音を減らしてくれる)のだけど、どうしても迫力が足りない。早々にテンション上がって外してしまった。ある程度つけてれば慣れるんだろうかね〜。

2018年12月9日日曜日

Cult Leader/A Patient Man

ハードコアの何が面白いかというと人それぞれだろうが、わたし的には基本にハードコアがあるとあとは結構何を載せてもイケるってところだ。融通が効くなあというわけだ。ハードコアを出発点に色々なバンドが様々な要素をそこに追加していった。逆に言えば初めは表現力にやや難があったジャンルに対して、それを好むものたちがなんとかそれを自分が補填し完璧な音楽にしてやろう、という動きがなんとなくあったのだろう。
メタルからミュートリフを持ち込んだニュースクールやメタルコア、哀愁をメロディラインとギターソロで充填したジャパニーズ・ハードコア、どんどん遅くしたろうかなというスラッジコアに、いやー速いのがパンクよとばかりにファストコアやパワーバイオレンス、結果的に尖ったのが色々サブジャンルとして乱立してどれもハードコアなもんで面白い。

ユタ州ソルトレイクにGazaというバンドがいてこのバンドはグラインドコアばりの突進力にスラッジコアの要素を取り入れ、それもいい感じに混じり合わせるのではなく無理やりくっつけたようなヤケクソさがあって好きだった。ラストアルバムは歴史に残る傑作であると思っている。そんなGazaが終わり、残った3人で始めた(メンバーを一人追加している)のがこのCult Leaderだ。Deathwish INC.と契約し精力的に活動。今回が3枚目のアルバムだ。
Gazaで分裂してた別々の表現手法を融合させるというのが隠れたCult Leaderのテーマだったのかと思う。Gazaの放心したようなスラッジパートの空虚さ、そして物悲しい感情を今度は曲そのものに溶かし込んだ。前作「Lightless Walk」の「Sympathetic」でその方向性は極点に達し、そしてわたしは遂にCult LeaderはGazaを超えてその先に行ったんだと思い、感極まって泣いた。この曲に関しては私は日本における激情にたいするアメリカからの一つの回答でもあるなとひそかに思っている。

さて前作から3年が経ちリリースされたのが今作。アートワークから前作からの流れを組むものだと理解できる。さらに色が追加されているのが印象的だ。
聴いたら驚いた。やりやがった!このアルバムにあったのはまたもや露骨な分断だった。バラバラになった破片を集める修復作業がGazaを経てのCult Leaderだったとしたら、今作でまたそれを壊してしまったのだった。ただそのやり方は斬新で1曲の中で疾走パートとスラッジパートを同居させるようなやり方ではない。激しい曲とアコースティックなアンビエントな曲を分けたのだった。調和も何もあったものではない。二律背反の葛藤する心をもはやそのまま表現するような、穿った見方をすれば迷いのあるやり方だ。
前作同様1曲め「I Am Healed」からぶちかましそのままラストまで行くのかと思いきや、4曲目「To:Achlys」でダークなフォークで沈み込む。(2曲ともMVが作られていることからアルバム内でも露骨に重要な曲だということがわかる。)ディストーションもってのほかの生々しくダウナーな世界観をひきずり、「A World of Joy」のラストで再浮上する。普通のアルバムなら山があるのだろうが、「A Patient Man」には谷がある。一回沈み、そして死にきれずに戻ってくる。後半はいわば恨み節の二回戦であり(ジャケットの骸骨は泣いている。)、そこからまた突っ走っていく。
タイトルは「忍耐強い男」か、しかし冒頭が「私は癒やされる」だからおそらく「患者の人」だろう。3曲めのタイトルは「Isolation in the Land of Milk and Honey」で聖書に出てくるワードだったはずだ。つまりこの世の楽園ってことだろうが、そこで孤独。このアルバムは一つの物語であり、それ故中盤の露骨な沈降も納得できるだろう。ラスト手前の「A Patient Man」のアコースティックギターの響きのなんて空疎なことか。何もない空っぽが鳴っているようだ。

破壊と想像なんてこのジャンルではもはや聞き飽きたワードだが、このバンドはそれを地で行っているような気がする。しっかり根を持ちながらも新しい表現方法に挑戦していく。言うは易く行うは難し。現行でこんな大胆なことをやっているのは日本のSWARRRMくらいしか思い浮かばない。どちらも今年新作をリリースしたが、いずれもモニュメントや不気味なモノリスのように聳え立っている。
素晴らしいアルバムである。慟哭しながら地面をたたきたいほどに。こういうのが好きなんだ、私は。この雑念が混じり合い、もはや怨念となって渦巻いている感じが。そして如何ともし難い諦念が底流を這っている。狂乱と空虚だ。もはやそれしかない。「We Must Walk On」というリフレインが強烈なラストの「The Broken Right Hand of God」。決して癒やされることのない病を抱えてこの地上をさまよっていくのだ。それを呪いという人もいるだろう。

2018年12月8日土曜日

スリー・ビルボード

主人公のタフさに驚かされ、また大いに楽しませられるが、そんな中で気がつく。これは対決の映画だと。
中盤までは簡単だ。ミルドレッド対ウィロビー署長。
主人公ミルドレッドは中年の女性でおそらく低所得者層に属する。結婚は失敗し、暴力的な元夫は19歳の女の子と付き合っている。二人いる子供のうち女の子はレイプされたあげく火をつけられて殺された。金もないし、(恐らく)学もない、雑貨屋で働いている。夫に負けず劣らず口が悪く、喧嘩っ早い。タフで芯が通っているが、また反面頑固で人の意見は聞かない。
一方ウィロビーはどうか。彼は確かにミルドレッドの娘の事件を解決できていない。ただし(少なくとも)彼が無能でも怠惰なせいでもない。若く美人の妻と可愛い二人の女の子がいて、厩舎を備えるくらい豊かな生活を送っている。金があれば名誉もある。(彼が努力して勝ち取った。)また聡明でミルドレッドに関しては手を焼いているが一人の人間として尊敬もしている。友人も多く、順風満帆の人生だが、癌を患い先は短い。
いわば持たざる者と持つものの一騎打ちである。これが面白くないわけがない。他人なら諦めのつく未解決の殺人事件でも肉親にとってはそうではない。それ以来人生が破壊されてしまうことも十分あり得るだろう。孤軍奮闘でウィロビーに相対するミルドレッドの姿は格好良い。

ところが中盤以降これはおかしいぞと思う。どうにも勝負になってない。というのも死を目前にしたウィロビーは無敵なのだ。元々の人の良さもあってか実はこの二人勝負になってない。達観したウィロビーは彼女を許すこともできる。一方的に喧嘩をふっかけているのがミルドレッドなのだ。彼女の怒りは理解できるが、ウィロビーにだってできないこともある。
ウィロビーの死で困ったのはミルドレッドだった。娘の死という理不尽に対する怒りを彼にぶつければよかったからだ。彼女の怒りが次第にふわふわ行き場をなくしていく。そして気がついた。彼女の怒りがとても深いことに。彼女は今までのなめてきた辛酸に対して怒っているのであり、彼女は娘を殺した犯人に怒っているのであり、若い女に走った元夫に怒っているのであり、自分に様々な理不尽を投げかける世界に怒っているのであった。名状しがたい深い憎悪がついに娘の死をきっかけに明確な形を持って彼女の中に立ち上がったのだった。だから彼女は強かった。彼女は警察署に火炎瓶を投げることができるし、息子の同級生に暴力を振るうこともできる。ただし彼女の怒りはその性格上明文化できないし、特に持つものたちには理解ができない。

そこで出てくるのが同じくウィロビーの死に大きな影響を受けたディクソンだった。ミルドレッドとディクソンは奇妙な絆で結ばれることになる。ディクソンもまたこの世界で彼なりに辛酸を舐めてきた男だった。ミルドレッドと彼はともに貧しい環境に育ち、暴力的な性向で自らトラブルを招いてもきた。ウィロビーとは異なり、明らかに欠陥だらけの男女がそれでも続く毎日でやっとお互いを見つめることができたのだった。暴力で繋がった彼らは容疑者を殺しに出かける。しかしすでに自らの怒りと(彼らにとっての)正義不在の世界のギャップをまのあたりにしたのか、それとも怒りの炎が彼らのみを概ね焼きつくしてしまったのか、倦怠感に満ちた彼らの会話が妙に耳にこびりついて離れない。
ミルドレッドの力強い背中も、全編見終わった後に見返すとこの報われることのない世界の中で妙に孤独に見える。ミルドレッドとディクソンの行動には賛成できないところが多いが、それでも彼らの怒りがなんとなく理解できるような気がしたのであった。ラストのシーンの陽光が柔らかく、それだけに切ない。非常に良い映画だ。

ヘレディタリー/継承

タイトルも作者も忘れたがこんなホラー小説があった。
とある家では怪異が頻発するが原因がわからない。家をよくよく調べると実は小さな隠し部屋があってそこには様々な呪具が置かれているというもの。多分クトゥルーものでは無いだろうか。アンソロジーにも収録されていたような気がする。隠し部屋というのもいいし、その中に安置されていた用途不明の呪物に個人的には惹かれたのだった。

この映画を見てその短編を思い出した。
この映画の舞台になるのは人里離れた家で妙に薄暗く、ツリーハウスも備えている。この家の秘密の小部屋が死んだババアだった。魔法陣や悪魔のシンボルなどそれらしい呪具も出てきてテンション上がる。じっとり陰湿系ホラーでそれが何かというと陥穽である。これ教団側の視点で作ったら、主人公一家が面白いくらいに罠にうまくはまっていく様が見れて面白いだろうな。内側から見ているとわからないので「随所にちりばめられた伏線が」ということになる。ホラーにも流儀があってフリークス系ならそれらには絶対弱点がないといけない。一方こういう系ならまどろっこしい手順が必要になるのだ。魔法には詠唱が必要なのだ。呪いにも一定のやり方というものがあって、例えば日本のトラディショナルなスタイルを踏襲するなら白装束に身を包み、頭には鼎をかぶってそれに蝋燭を刺し、神社の樹に藁人形を五寸釘で夜中の2時3時くらいに打ち付けないといけない。悪魔の手を借りるにしても万能では具合がよろしくない。そういった意味でこの映画は丁寧に丁寧に呪いを縦糸横糸で織り上げていく。恐怖のタペストリーつまり彼らの満願が成就するというわけだ。うまいもので例えば落ちる首のモチーフなどは何回も強調することで視覚的な恐怖と呪いの進行を同時に表現している。

クトゥルーといえば憑依だ。永遠の命を仮初めの人体で実現する場合は憑依が効率的な手段だ。やはり名前は忘れたがラブクラフトによる憑依ものがあって、たしか受け継いだ地所に墓がついており、愚かにも主人公は前任の死んだ魔法使いの決めた手順を実行し、結果その体を乗っ取られてしまう。この映画もその類かと思いきや、また別の方向に進んでいく。機能不全家族をして家族の絆は呪いだという表現をすることが多いが、本作はそこをクソ真面目に文字通り再現している。血の繋がりというのがババアの呪いでは重要なファクターである。母親が発狂した日本の作家芥川龍之介は常に自身にそれが起こることを恐れていたというが、今作でもその要素が巧みに配置されている。よろしくないことばかり起きている家に結局父親も息子も帰ってきてしまうあたり、血縁を含まない家族というものもなかなか強い絆を強制すると思った。

カルトたちも顕現する偉大な悪魔に何を願うかと思えば以外に卑近で呆れるが妙に世界の破滅を願うよりは共感できる。いわば邪悪なドラゴンボール集めのような趣で巻き込まれれる主人公たちは良い迷惑だが、身勝手で破滅していく彼らの様を眺めるのはなかなか背徳的な感覚になれる。