2019年12月22日日曜日

種村季弘 編/日本怪談集 奇妙な場所

日本の怪談を集めたアンソロジー。
この一冊は日本の怪談であること、に加えて場所に係る怪談であること、の条件で蒐集した短編が収められている。
収録作品は下記の通り。

  1. 日影丈吉「ひこばえ」
  2. 筒井康隆「母子像」
  3. 佐藤春夫「化け物屋敷」
  4. 吉田健一「化けもの屋敷」
  5. 吉行淳之介「出口」
  6. 森鴎外「百物語」
  7. 稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」
  8. 内田百閒「遊就館」
  9. 小泉八雲「狢」
  10. 森鴎外「鼠坂」
  11. 大岡昇平「車坂」
  12. 豊島与志雄「沼のほとり」
  13. 幸田露伴「幻談」
  14. 火野葦平「紅皿」
  15. 小田仁二郎「鯉の巴」
  16. 笹沢左保「老人の予言」
  17. 都筑道夫「怪談の作法」
  18. 武田百合子「怖いこと」
  19. 小沢信男「わたしの赤マント」
  20. 半村良「終の岩屋」
  21. 泉鏡花「雪霊続記」
  22. 澁澤龍彥「髑髏盃」


一体幽霊や化け物というのは日中堂々と出るものではない。
柳の下の幽霊を出すわけでもなく、たいてい恐ろしいものというのは暗い夜に人気がない(例えば墓場のような)特定の場所に現れるものだ。
つまり逆に言えば化け物というのは出現するには一定の条件が必要だと言える。

猫は人ではなく家に懐く、といういうが幽霊は人に憑く場合もあるが、大抵は場所に憑くものだ。
古今の怪談を思い返してみるとほとんどが「行くな」という場所に足を踏み入れて幽霊と出会い、それで憑かれると決まっている。
水場、墓場、古色蒼然たる屋敷でも、暗くジメジメした地下室でも、落書きだらけの廃墟でも良い、とにかく普通ではない建物や場所、そんなところがホラーの舞台になる。
このアンソロジーはそんな「場所」を集めた一冊。

いわば日常から離れた異界があって、知らないうちにそこに入り込んでいる。
そこでは日常的な法則から解き放たれているため、迷い込んだ人間はそこで常ならぬものを目にするというわけだ。

やはり家がわかりやすい。
⑤は象徴的でつまり外から見ても閉ざされていて見えない家の中でなにか異常が進行しているというもの。
⑰は舞台がタクシーでその近代的な時代設定が目を引くが、ある意味基本に忠実で怪談をどこまで縮めるか、という点でも非常に狭く距離が近いタクシーというのは面白い。
②も近代的だが、怪異がSF的なのは作者故か。

一方でthis is 怪談(kwaidan)の⑨八雲の物語はこれは外での出来事だが、開放的ではなくてむしろ坂を登っていくと真っ暗闇の別世界にたどり着いている。
㉑もやはり雪に振り込められて迷い込んだのが異界というパターン。天守物語もそうだけど異界を書くのはやはりお手の物という感じ。

面白いのは因縁のある場所を書いた作品が、場所をテーマに敷いたアンソロジーにしては意外に少ないこと。はっきりしているのは③⑧くらいか。
⑦は様々な人が元ネタにしている稲生物怪録ものだが、これは怪異は外からくる。
⑩と⑪は非常に話の筋が似ていいて、おいてきたと持った過去に復讐される話。いずれも坂が舞台だが、ここに遠く離れた異国の幽霊がいわば訪って復讐を果たしていく。
幽霊たちはいるだけでない、来るのでもある。

個人的に特に面白かったのが④。
アンチ怪談という意味では⑦に似ているがもっと強い。
愛の反対は無関心と入ったものが、幽霊にだって一番きついのは無視されることである。
怖がらない、気にしない、相手にしない、これは幽霊には効く。ただ同時に物語にならないからホラーでは禁じ手である。
④に関しては主人公は幽霊を気にしない。無視するのではない。普通に受け入れちゃう。お化け屋敷で幽霊と暮らしちゃう。言葉にしないが結構いいものだな〜なんて思っている風である。
で、一方の幽霊たちもそんな主人公と暮らしてなんか幸せそうである。
幽霊は怖がらせようとしていて、人間はひたすら怖がる、という常識をさらっと覆し、更に別逆張りで奇をてらっているわけではない。
いろいろな人間がいるようにこういう幽霊がいても良いよなと思わせる。


2019年12月16日月曜日

荒俣宏 編/アメリカ怪談集

河出書房新社の各国の怪談集が相次いで復刊されているのは非常に嬉しい。
これはそのアメリカ編。編者は荒俣宏氏。
収録作品は下記の通り。
①ホーソーン「牧師の黒いヴェール」
②ジェームズ「古衣裳のロマンス」
③ラブクラフト「忌まれた家」
④ルイス「大鴉の死んだ話」
⑤カウンセル「木の妻」
⑥ホワイトヘッド「黒い恐怖」
⑦フリーマン「寝室の怪」
⑧ウォートン「邪眼」
⑨ビアス「ハルビン・フレーザーの死」
⑩ポオ「悪魔に首を賭けるな 教訓のある話」
⑪ヘクト「死の半途に」
⑫ブラッドベリ「ほほえむ人びと」
⑬ケラー「月を描く人」

私はしばらく前アメリカ文学の古典を読んでいたのだけど、あらためてこうしてアメリカ文学を短編という形で読むとやはり非常に面白い。

アメリカ合衆国というのはいわばイギリスから文化した国であるけれど、その文化はイギリスを受け継ぎつつも結果的にはだいぶ異なる。

怪談という切り口で改めてアメリカ文学を読んでみると気がつくのはその歴史のなさ。
たとえば年振りた由緒ある館で先祖代々の幽霊が夜な夜な広大な屋敷を歩き回るのである…という怪談は当然ない。だってそんな歴史がないのだもの。
歴史がないということは弱点でもあり、強みでもある。
アメリカの文士たちは(恐怖というジャンルに限らず)ないものを補おうと頭を捻って新しいものを作り出したのである。
収録作品で神話の香りを感じさせるのはネイティブ・アメリカンを主題にした④だけ。

先日遅ればせながらヘミングウェイの「老人と海」を読んで、マッカーシーの異常な文体につながるアメリカ文学のもつ肉体性に合点が行ったのだけれど、やはり恐怖小説においてもその流れが確実にある。

歴史がなく、また広大な荒野で外敵に囲まれて生活を送った当初のアメリカ人にとって恐怖とは常に現実的なものだった。毒蛇やネイティブ・アメリカン、強盗野党のたぐいが彼らにとっての脅威であり、変な話幽霊たちの付け入る好きはあまりなかったのかもしれない。

このアンソロジーのどれも現実的な恐怖や異常を書いている作品が多い。
②は正しく幽霊が出てくるが、それは生前のその人を知っているくらい直近の幽霊なのは非常に象徴的だ。
一方③や⑤の新しい恐怖の対象としてのクリーチャーの造形の視覚的な異常さは面白い。

また心理的な描写が多いのもアメリカ的な怪談の特徴。心理的でない小説はないからこの書き方だと馬鹿らしいのだが、要するに心理学的な要素か。
信仰心と不可解な心理を取り扱う①、迷信を文明が教化する⑥、罪悪感が怪異の形を取る⑧、正しく後のサイコスリラーの系譜に連なる⑫。異常な親子関係という意味では⑨と⑬もその範疇に収めても良いかもしれない。

文学、文章というのは描かれた時代や土地を反映するものだから、やはりテーマや土地で作品を集めればその特性が非常にわかりやすく見て取れる。これが短編集・アンソロジーの醍醐味だろう。
自治体や集落単位で恐れていたものが怪異や異形として結実する、というプロセスは同じにしても昔のアメリカでそれでは一体何が恐れられていたのか?というと、暗く広い荒野にある現実的な恐怖。それから新大陸で病んでいく人の心だろうか。

肉体的で心理的、というと矛盾してそうだが、怪異に関してその謎を、旧来の怪談のように過去の因縁に求めるのか、現代にもとめるのか、そのアプローチこそがアメリカの怪談を特徴づけているものかもしれない。

2019年12月8日日曜日

東雅夫 編/平成怪奇小説傑作集3

2008年から2018年の間に発表された怪談を集めた、平成を怪奇小説という視点で切り取るアンソロジーのラスト一冊。

①京極夏彦「成人」
②高原英理「グレー・グレー」
③大濱普美子「盂蘭盆会」
④木内昇「こおろぎ橋」(※「こおろぎ」は「虫」偏に「車」)
⑤有栖川有栖「天神坂」
⑥高橋克彦「さるの湯」
⑦恒川光太郎「風天孔参り」
⑧小野不由美「雨の鈴」
⑨藤野可織「アイデンティティ」
⑩小島水青「江の島心中」
⑪舞城王太郎「深夜百太郎(十四太郎、十六太郎、三十六太郎)」
⑫諏訪哲史「修那羅(しよなら)」
⑬宇佐美まこと「みどりの吐息」
⑭黒史郎「海にまつわるもの」
⑮澤村伊智「鬼のうみたりければ」

記憶にいまだ新しい311、東日本大震災が起きたのは2011年。
この未曾有の大災害がどのくらい影響したのかはわからないが、怪奇小説では怪談の復権が起こったということをこの本で認識した。

このアンソロジーの1冊目は恐怖の対象は隣りにいる他者だった。彼らが本当は何を考えているのかわからなかった。愛情があるからこそ怖くなった。
2冊めは内省の時代。バブル時代が終焉を迎え、社会的な軋みが現実的な問題となって表れ不安を感じた人々は深く内省的に自己探求に潜り込んでいた。
この3冊めでは理不尽な天災と露呈した認識や対応の甘さによる人災により、多くの人が深刻なダメージを負った。家と街が壊れ、そして大切な人がいなくなった。
昨日まで元気だったあの人(たち)が今日はもういない。その途方も無い過酷さ、理不尽さを日本人は平成の世で再認識した。

この最後の本では明確に非日常、怪異、特に幽霊がはっきりと出てくる物語が多い。
そしてその幽霊や異形たちにははっきりと個性がある。
つまり生者が死を経験して死者になる。そして幽霊になるのである。
幽霊譚はミステリ小説に似ているところがある。
異常があり、調べてみると彼や彼女がなぜ死んで、なぜ成仏しきれずに恨みを持っているかがわかるからだ。幽霊の正体に迫ることは彼彼女がどう生きたかに肉薄することにほかならない。
典型的な日本の幽霊譚とはだから実は(生きていた)人を描く物語でもある。

今平成の終わりに親しい人があっという間に命を奪われる災害があった。
ここで怪談がその本来の意義を取り戻し、再び光を当てられたように思う。
理不尽になくなった人々が何を考え、どんな人生を送り、そして死を迎えたのか。
怪談はときに優しくもはや口のなくなった死者に寄り添う。
言葉なく死んでいったものたちをいわばここで代弁しているのだ。
(怪談の時代、すなわち口寄せの時代とも言えるかもしれない。)

④⑤⑥の実は死んでいた、という話の組み立て方は非常にわかりやすい。
物語が彼らの人生を紐解き、その無念を汲み取り、成仏させて空に返すのだ。

幽霊ではなくゾンビを扱う②も言葉の通じない死者との交流という意味でやはりこの範疇に属するように思う。

③はまさに生活、生きている人たちの日々を非常に冷徹に描いている。静かな毎日の中にも喜びや正気のほころびがある。人は生きて死ぬ。

①⑪⑭はもっと曖昧。名状しがたい怪異を扱っている。どれも土着の地方臭がつよいこともあって、ここで描かれる怪異は自然そのものを表しているようだ。周りの人間は翻弄されるが、それが何なのかはわからない。回避することもできない。
その探求というのは常に私達の好奇心を掻き立てる。

⑩はちょっと変わっていてこれはゴースト・ストーリーであることは間違いないが、偶然ですれ違いほんの一瞬だけ交差した人生が、幽霊の、つまりかつての生者の人生を描写し得ていない。だから「あの人はなんだったのだろう」という疑問が残り、これがまた妙に切ない。

怪談の復権。
ここでいう怪談とは理不尽への説明であり、代弁である。
死者のためにできることは一つもないので、死者に無念を語らせるのも生きているもののため。
そういう意味ではこの本に収録されている作品の多くが優しい。
今の時代に怪談がそのように人に寄り添うように機能するのは私には大変面白く見える。
すべての怪談がかくあるべきだとは全く思わないが、ただ血みどろにすれば怪談だと考える人がいるとしたら、その人はわかってない。