2020年5月31日日曜日

トム・ジョーンズ/拳闘士の休息

男性の物語より女性の物語が面白かった。

どれもこれも明確に喪失している物語で、そこから取り戻そうとする運動が発生するわけなんだけど、どの主人公も決して同じものは取り戻せない。

孤独というよりは断絶した人間が主人公で、無関心ではなく明確な敵意と戦っている。

先天的、後天的に健康を残っており、それが精神に強い影響を与えている。

観念的だが、肉体的な欠損によってそれらが生じているため、肉体的な物語である。

主人公たちは常に間違った場所にいるが、世界全体が間違った場所なのである。その類型が著者が体の不調のため結局行くことのなかったベトナム戦争だった。

ここでは異常がある人が適応を見せて正常になる。だから戦場から戻ると鏡の世界は終わって異常が異常になって生きられなくなってしまう。

戦場とは地獄であり、しかしここでしか生きられない人もいるというメッセージでもある。

 

女性が主人公の話は何が面白いのかというと違和感がヒントになっている。

狂気に陥ったらその世界は正常にひっくり返る。

違和感があるということは正気と狂気の狭間にいるのが主人公たちということになる。

彼らを正気に引っ張るのが、この世界のもう一つの側面、主人公たちが望みながらも得られなかった素晴らしい世界だ。

「私は生きたい!」この物語に出てくるのはありふれた不幸で、否応なく人間は緩やかに死んでいっていることを意識している。彼女はとても不幸だが、特別ではない。

死んでいく彼女には世界が美しく見える。この奇跡は紛れもなく著者自身が患っている癲癇に通じる(神の啓示に似ている、と著者は癲癇について述べている。)。

これは死によって世界が輝き出すのではなく、もともと輝く世界に死の床で気づく、ということ。

もともと世界は美しいのに、そこにうまく馴染めない人達がいる。

彼らにとって世界は戦場で、そこに立ち続けるには戦わないといけない。

男性の主人公たちは誰もが破滅的だが、彼らにとって死は自殺ではなく(たとえ旗から自殺的に見えても)、生命は戦いに同じで負けたときが死ぬときなのだ。むしろ負けん気に満ちた彼らはアンバランスな生きたがりでもある。

ここでは狂気はタナトスではなく生きる手段になっていると個人的には思う。

だから生と死の間で揺れる、という表現はちょっと違っていて、彼らの葛藤は生きにくい世の中をいかに戦うか、で実は覚悟はもう完了されている。

 

もともと世界は美しいのにそこで戦い続けるとは矛盾だが、その矛盾こそが人間を人間足らしめているものなのかもしれない。少なくともトム・ジョーンズにとってはそれが彼の書きたいこと。

2020年5月4日月曜日

G・ガルシア=マルケス/百年の孤独

この物語のどこが孤独なのか?
この物語に出てくる人々は私達が漠然と南米に抱いている先入観というか固定観念をある程度なぞるようである。
つまり南米の人たちというのは、、、

  • 猥雑で底抜けに明るい。
  • よく飲みよく食べ、色事も多い。
  • 気前が良く、親族を大切にするし、また他人であっても身内のように扱う。
  • 情熱的で優しい。
  • 独特の死生観と宗教を持ち、その明るい生活には流血が伴う。
  • 彼らの生活には死が隠しようもなく存在感を持ち、異なる文化圏に属するものからすると不謹慎や唐突という印象を抱くこともある。

要するに孤独とは一番縁遠い人たちに見えるわけで、この蜃気楼の村マコンドが地上に存在するその100年間は概ね熱狂の年月と言っても良い。
彼らは常に誰かといて愛し合い、食べ、そして眠っている。
一人でいるということはほとんどなくて、小さい頃は本の虫であってもそのくらい穴蔵からいずれ出て他人と愛し合うか、もしくは殺し合う。
そうブエンティアの一族の男性はまたよく戦い、よく殺し合ってもいる。

彼らは他人と関わることで生きている。
愛するにしても、殺すにしても他人との関係性があり、つまりここのどこに孤独があるのか?


微笑みの爆弾と孤独
突然だが冨樫義博さんの漫画「幽遊白書」のアニメ版の主題歌、馬渡松子さんの歌う「微笑みの爆弾」という歌をご存知だろうか?
こちらの冒頭の歌詞を読むと、孤独には2種類ある事がわかる。
つまり、誰もいない環境での孤独と人がいる中での孤独の2つが。
前者のほうが希望がある分、後者のほうがより孤独であるだろう。
この百年の孤独というのはこのとき間違いなく後者の孤独である。
マコンドのブエンティアには常に人がいて、そしてたいてい騒がしいのだから。

彼らは大家族で、妻や愛人その子ら孫らに囲まれ、その気前の良さから親族ではなくても慕う人も多く、同時に敵も多く命を狙われることもあるが、それでも孤独なのだ。
なんでだ。
彼らは愛し合っているのでは???


愛の不在=孤独
物語の終盤、百年の中でようやく愛によって生まれた子供がいた。
それまでのブエンティア家には愛によって生まれた子供がいなかったのだ。
彼らの百年の楽しい喧騒の中には実は愛がなかった。

つまり孤独というのは愛の不在ということになる。
じゃあ愛ってなんだ?
この南米の人達は情熱的に愛していたのでは、恋人を、子どもたちを。

彼らがただただ殺し合いをしていたというのではない。
例えば独善的な(つまり変わった考えを頑固に持っている)アマランタやフェルナンダにしても彼女らの恋人や子供を自分なりの方法で愛していた。


愛の正体と成立の困難さ
愛って難しいって話で、愛というのは片方が愛していてもだめだし、またお互いに愛していてもそれが通じ合っていなければだめだというのです。

よくよく読んでみると愛し合っている二人でも本当に通じ合っているケースは本当に少ない、というか作者によると最後の二人以外には誰もいない。
彼らの愛は性欲由来でただ消費するようなものだったり(これは非常に多い、大佐の17人の子どもたちなど)、相手を思った愛でもその対象には届かないというかむしろ害になったり(フェルナンダとメメの親子関係など)、通じ合ってはいなかった。
ウルスラはそういった意味で象徴的な存在。文字通りブエンティア家の地母神的な存在で異常な長命で孫の孫の孫の〜くらいの子孫までその手で育て上げた。ウルスラは子孫たち、その妻たちを限りない愛をもって接したが、誰もそれと同じようにはウルスラを愛さなかった。彼女はそういった意味では孤独を象徴しているキャラクターでもある。


神を必要としない世界の酷薄さと
愛を実現できる可能性としての人間のポジティブさを歌う
いつからかマコンドに置かれたキリスト教会とその牧師もうまく動いているとは言い難い。
彼らは百年にわたって部外者である。
神がいないで完結している世界。
愛に神は必要ない。
本当は人間だけで完成するのだ、この世界は。
流血と嘘、弾丸とナイフ、謀略で汚れたこの地を地獄と呼ぶのは勝手だがこの混沌の中でも人間には可能性があって、でもそれが人間の愚かさで実現できないのは悲劇であり、そして喜劇でもある。

前述の通りようやく完成した人間の愛、しかしそれもまた儚く終わってしまった。
ここにあるのは本来の野蛮な世界である。
直接の引き金が人間の怠慢であっても、自然本来の残酷さが強調されている。

欠点のある他人を愛することは難しいなら愛し合うことは更に困難だ。
しかもそれがきちんとお互いに通じ合うとなるとこれはもう奇跡だ。
「百年の孤独」はその奇跡に至る道、ではない。
読めばわかるがマコンドの、ブエンティア家の百年は繰り返しの百年でもあった。
つまりループだった。
愛し合い、殺し合い、食べ、排泄するループ。
その中でやっと生まれた愛がどうなったか?

ガルシア=マルケスは「百年の孤独」で人間に絶望しているわけではない。
たとえ百年ごしに生まれた愛がすぐに終わったとしても、この神ですら役に立たない、残酷な暗闇の世界で愛の火を灯せるのは人間だけだ、と言っているように私には思えた。
つまりゴールがある(愛が生まれた!よかった!完!という)物語ではなく、この世界、そこに住む人間が持つ可能性をこの長い物語に込めた、(消えた愛がまた生まれる可能性があることを示唆する)終わることのない人間讃歌であった。