どれもこれも明確に喪失している物語で、そこから取り戻そうとする運動が発生するわけなんだけど、どの主人公も決して同じものは取り戻せない。
孤独というよりは断絶した人間が主人公で、無関心ではなく明確な敵意と戦っている。
先天的、後天的に健康を残っており、それが精神に強い影響を与えている。
観念的だが、肉体的な欠損によってそれらが生じているため、肉体的な物語である。
主人公たちは常に間違った場所にいるが、世界全体が間違った場所なのである。その類型が著者が体の不調のため結局行くことのなかったベトナム戦争だった。
ここでは異常がある人が適応を見せて正常になる。だから戦場から戻ると鏡の世界は終わって異常が異常になって生きられなくなってしまう。
戦場とは地獄であり、しかしここでしか生きられない人もいるというメッセージでもある。
女性が主人公の話は何が面白いのかというと違和感がヒントになっている。
狂気に陥ったらその世界は正常にひっくり返る。
違和感があるということは正気と狂気の狭間にいるのが主人公たちということになる。
彼らを正気に引っ張るのが、この世界のもう一つの側面、主人公たちが望みながらも得られなかった素晴らしい世界だ。
「私は生きたい!」この物語に出てくるのはありふれた不幸で、否応なく人間は緩やかに死んでいっていることを意識している。彼女はとても不幸だが、特別ではない。
死んでいく彼女には世界が美しく見える。この奇跡は紛れもなく著者自身が患っている癲癇に通じる(神の啓示に似ている、と著者は癲癇について述べている。)。
これは死によって世界が輝き出すのではなく、もともと輝く世界に死の床で気づく、ということ。
もともと世界は美しいのに、そこにうまく馴染めない人達がいる。
彼らにとって世界は戦場で、そこに立ち続けるには戦わないといけない。
男性の主人公たちは誰もが破滅的だが、彼らにとって死は自殺ではなく(たとえ旗から自殺的に見えても)、生命は戦いに同じで負けたときが死ぬときなのだ。むしろ負けん気に満ちた彼らはアンバランスな生きたがりでもある。
ここでは狂気はタナトスではなく生きる手段になっていると個人的には思う。
だから生と死の間で揺れる、という表現はちょっと違っていて、彼らの葛藤は生きにくい世の中をいかに戦うか、で実は覚悟はもう完了されている。
もともと世界は美しいのにそこで戦い続けるとは矛盾だが、その矛盾こそが人間を人間足らしめているものなのかもしれない。少なくともトム・ジョーンズにとってはそれが彼の書きたいこと。
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